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宇都宮地方裁判所 平成元年(行ウ)6号 判決 1992年3月25日

原告

野沢葉子

右訴訟代理人弁護士

高橋信正

被告

宇都宮労働基準監督署長荒川慶一

右指定代理人

沼田寛

井上邦夫

谷古宇弘次

村田英雄

多田賢一

国井昭男

田中浩二

吉岡鋭昌

根岸敏雄

赤羽貞夫

岡本佳代子

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求の趣旨

被告が昭和五九年九月一二日付で原告の亡夫野沢文雄に対してした労働者災害補償保険法による療養補償給付及び休業補償給付を支給しない旨の処分を取消す。

第二事案の概要

一  争いのない事実

1  原告の亡夫野沢文雄(以下「文雄」という。)は、昭和二七年一〇月以降約三一年間にわたり建築塗装を中心とする塗装業務に従事し、右業務で有機溶剤等を使用してきたが、肝機能障害が発症し、昭和五一年から、国立栃木病院で治療を受けていた。

2  文雄は、昭和五九年六月から八月にかけて、四回にわたり、右肝機能障害が業務上の疾病であるとして、被告に対し、労働者災害補償保険法による療養補償給付及び休業補償給付の支給を請求をしたが、被告は、昭和五九年九月一二日、文雄に対し、文雄の肝機能障害は一般疾病としての慢性肝炎であって業務上の疾病ではないとの理由で、右各補償給付を支給しない旨の処分(以下「本件処分」という。)をした。

3  文雄は、本件処分につき、栃木県労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をしたが、昭和六一年三月二九日、棄却され、更に、労働保険審査会に対して再審査請求をしたが、昭和六三年一〇月二九日死亡したため、妻である原告が右再審査請求を受継したが、右再審査請求も棄却となった。

二  争点

1  本件の争点は、文雄に発症した肝機能障害が、従事した塗装業務で取り扱った有機溶剤等が原因で発症したものか否かであり、争点に関する当事者双方の主張は以下のとおりである。

2  原告の主張

(一) 文雄は、三一年間にわたり塗装業務に従事したが、作業環境は換気不十分で防護マスクの使用も不十分であったため、かなり多量の有機溶剤を吸入しており、また、ゴムやビニールの手袋をせず軍手を着用していたので、皮膚からの吸収もあり、かなりの程度の有機溶剤の曝露があった。

(二) 文雄が曝露を受けた有機溶剤の主なものは、トルエン、キシレン、アルコール類(メチルアルコール、ブタノール、イソプロピルアルコール等)、ケトン類(シクロヘキサン)で、塩化ビニール・モノマーの曝露もあった。

(三) 文雄の担当医であった国立栃木病院の小松崎修医師は、文雄の肝機能障害は、長期間にわたる塗装業務に伴う有機溶剤による中毒性の肝細胞障害型の障害と考えられるとの意見を述べている。

(四) 本件の審査請求手続において意見書を提出している東京逓信病院の兼高達貳医師は、意見書において、文雄の肝硬変を有機溶剤のみによるものと決定することはできないとしているが、肝硬変への進展過程において、有機溶剤が悪化因子として作用した可能性を肯定するものであり、その限度で業務と文雄の疾病との因果関係を肯定的に考えるものであって、因果関係を全面的に否定しているものではない。本件の労災保険給付支給請求手続において意見書を、本件訴訟中に労働基準局長宛に鑑定書を提出し、本訴で被告申請証人となった自治医科大学教授野見山一生医師は、本件の業務起因性について否定的見解をとるが、同医師の証言態度は、本件因果関係を否定する見解を過度に強調する傾向が顕著であり、一貫して被告側の立場に立った公職に就いてきていることと相俟って、その信用性には重大な疑問がある。

(五) 業務上外の認定は、医学判断ではなく、法律判断であり、医学判定として、疾病の原因が科学的に証明されることは必要でなく、業務と疾病との因果関係については、労働者災害補償保険法が被災労働者の生活保障を目的とすることに留意し、補償対象を相当因果関係の範囲に限定すべきでない。そして、業務上外の認定に関しては、業務上の立証責任は労働者側にはなく、使用者側に業務外の立証責任があり、作業実態と疾病の総合判断上当該業務に従事したため当該疾病に罹患したことが推定されれば、当該業務以外の原因によって発病したものであることが立証されない限り、業務上と認められるべきである。本件では、前記(一)ないし(四)の事実から業務起因性が肯定される。

3  被告の主張

(一) 文雄の肝機能障害は、肝硬変、肝細胞癌へと進展しているが、文雄が従事していた塗装業務に用いられる有機溶剤等の種類、曝露の程度からは、肝機能障害が起こったとしても、極く軽度のものであり、肝硬変や肝細胞癌に進展する可能性は考えられない。

(二) 国立栃木病院における初診時から約八年間にわたる文雄の肝機能検査の数値を通覧すると、慢性肝炎が次第に悪化してゆく所見に近似していることや、文雄の肝硬変は大結節性のものであるが、化学物質による肝硬変では大結節性のものは稀であることからみると、文雄の疾病の原因は非A非B型肝炎とりわけC型肝炎による可能性が極めて高い。

(三) 小松崎医師が、文雄の肝機能障害を有機溶剤による中毒性のものと判定した理由は、概ね、文雄につきB型肝炎やアルコール性のもの、あるいは肝血管肉腫は考えられず、文雄に輸血の既往歴がないとして非A非B型肝炎の可能性も否定されるというものである。しかし、小松崎医師の所見では、文雄の肝機能障害を発症させた有機溶剤が明らかでなく、トルエン作業の際の曝露濃度と肝機能障害との関係に触れるところがない、化学物質による肝硬変の結節の特徴について考慮した節が窺えない等、有機溶剤の曝露と文雄の疾病の発症原因と判断した事項との病理的、化学的関連についての見解を是認しうる説明が乏しい。また、小松崎医師は、非A非B型肝炎等のウイルスの感染に関し、輸血歴の有無を判断材料としているが、感染については、胎児感染、母子感染、体液感染、予防接種時の注射針感染等があり、判断材料が不十分である。

(四) 東京逓信病院の兼高医師、新村和平医師は、文雄の疾病について、非A非B型肝炎による肝硬変と推定されるとしている。また、自治医科大学教授野見山一生医師は、文雄の肝機能障害は、有機溶剤曝露によって起こったものとするよりも、何等かの原因によって発症した一般疾病としての慢性肝炎であるとするのが妥当であるとしている。

(五) 労災保険は、災害補償責任の担保のためのものであり、業務上というためには、業務と当該疾病との間に相当因果関係がなければならず、相当因果関係が肯定されるためには、条件関係が必要であるが、その証明の有無は、まず、科学的、医学的確証が得られるか否かによって判断されるべきである。また、立証責任についても、労働基準法施行規則三五条別表第一の二に具体的に列挙された疾病については、業務上と推定されるが、本件はこれに該当しないので、原告において、相当因果関係を立証することを要する。

第三争点に対する判断

一  証拠(<証拠・人証略>)及び弁論の全趣旨により認定した事実は、次のとおりである。なお、認定事実中[ ]内の証拠は、当該事実認定に供した主要な証拠であって、これのみで認定した趣旨でない。

1  文雄は、昭和二七年一〇月から昭和三九年四月まで中村塗装株式会社で、昭和三九年四月から昭和四三年一二月まで野口塗装株式会社で、昭和四四年一月から昭和四五年二月まで関谷塗装店で、昭和四五年三月から昭和五九年四月まで小花塗装株式会社で、野口塗装においては車両内外の塗装に、その余の事業場においては建築塗装に従事したが、[争いなし]、このうち、中村塗装、野口塗装では軍手を使用しての塗装作業であり、関谷塗装店、小花塗装では、防護マスクの使用が十分でない等、事業場では、労働者の安全衛生についての対策、指導は徹底されていなかった[<証拠略>]。文雄が、塗装作業において受けた有機溶剤等の曝露の程度を数値によって把握することはできず、正確な曝露量は明らかでない。

2  文雄が、右塗装業務において曝露を受けたと考えられる化学物質は、トルエン、キシレン、アルコール類(メチルアルコール、ブタノール、イソプロピルアルコール等)、ケトン類(シクロヘキサン)、その他の有機溶剤、塩化ビニール・モノマーである[争いなし]。このうち、トルエンについては、肝機能障害を起こし得ると考えられているが、トルエンにより起こり得る肝障害は軽度であるとされている。キシレンについては単体での中毒例の報告はないとされ、アルコール類については、脂肪肝を実験的に生ぜしめるが、重症の肝障害の報告はなく、ケトン類も人での肝障害の報告はないとされている。塩化ビニール・モノマーについては、塩化ビニール・モノマーのバッチ製造者で発症した例があるが、肝硬変、肝細胞癌が発症した例はないとされている[<証拠略>]。なお、塩化飽和脂肪液炭化水素(クロロホルム、四塩化炭素、1、1、2、2、―テトラクロルエタン)は強い肝障害を起こすとされているが[<証拠略>]、文雄がこれらの化学物質に曝露したことは証拠上窺われない。

3  文雄は、昭和五一年一一月、不完全麻痺で国立栃木病院脳神経外科に入院した際肝機能障害を指摘され、以後、通院により同病院内科で小松崎医師の診療を受けていたが、肝膨脹が次第に顕著となって肝硬変が強く疑われるようになり、肝機能検査結果も悪化して、入退院を繰り返す状態となった後、昭和六三年一〇月二四日、肝硬変を伴う肝癌により死亡するに至った[<証拠略>]。

4  国立栃木病院において初診時から文雄が受けた肝機能検査結果に表れた数値を見ると、初診時GOT・GOP比が約〇・七であり、LDHの数値変動には大きな変化が見られないが〔<証拠略>]、肝機能検査による診断の目安としては、有機溶剤による脂肪肝の特徴は、GOT・GOP比については一以上とされ、LDHの変化は上昇するとされている[<証拠略>(有機溶剤作業者の健康管理のすすめ方)]。

5  小松崎医師の剖検診断書においては、文雄の肝硬変は大結節性のものとされているところ[<証拠略>]、一般に、大結節性の肝硬変は、肝炎ウイルスによるものが多いとされるのに対し、化学物質による肝硬変では、大小の不整形の結節を持つものが多く、大結節性のものは稀であるとされている[<証拠・人証略>]。

6  文雄の肝機能障害と塗装業務との関係について述べた医師の所見としては次のものがある。

(一) 小松崎医師は、文雄の肝機能障害は塗装業務で扱った有機溶剤による中毒性の肝細胞障害型の障害と考えられるとの所見を述べているが、その主たる理由は、文雄の疾病がB型肝炎やアルコール類の飲酒によることは考えられず、また、非A非B型肝炎については輸血に起因するものが多いが、文雄には輸血歴がないことからウイルス性の肝炎ではないとして、有機溶剤による肝炎と考えたというものである[<証拠・人証略>]。

(二) 兼高医師、新村和平医師は、審査請求手続において昭和六〇年一二月二六日提出した意見書(<証拠略>)で、文雄の曝露した有機溶剤により起こり得る肝障害は比較的軽度で肝硬変に進展する可能性は低いことを主たる根拠として、文雄の疾病は、非A非B型肝炎による肝硬変と推定され、肝硬変への進展過程において、有機溶剤が悪化因子として作用した可能性はあるが、文雄の肝硬変を有機溶剤のみによるものと決定することはできないとの所見を述べ、更に、兼高医師は、本訴提起後、栃木労働基準監督署長宛に提出した鑑定書(<証拠略>)において、文雄についての病理解剖所見によると、文雄は大結節性の肝硬変であること、化学物質による大結節性の肝硬変は稀であるとされていることを併せ考慮して、文雄の疾病を業務に起因するものと断定することはできないと結論付けている。

(三) 野見山医師は、昭和五九年九月四日付けで被告宛提出した意見書(<証拠略>)及び本訴提起後である平成二年一月二二日付けの栃木労働基準局長宛鑑定書(<証拠略>)において、文雄の肝機能障害は、有機溶剤曝露によって起こったものとするよりも、何等かの原因によって発症した一般疾病としての慢性肝炎であるとするのが妥当であり、本件は業務外と考えられるとし、更に証人として同旨の証言をしている。その理由とするところは主として、<1>自治医科大学の学生による出張塗装におけるトルエンの濃度の調査結果及び文雄は作業場所で意識を失ったという訴えがないことから、文雄の一日の平均曝露濃度は許容濃度を下回る一〇〇ppm以下で、高濃度のトルエン曝露を受けたことがないと推定されるから、重症の肝障害を起こすとは考え難い。<2>塩化ビニールモノマーについては、数ppm以上の曝露によって肝の血管肉腫が発生するが、文雄が高濃度の塩化ビニールモノマーの曝露を受けたとは考えられず、また、文雄の肝癌は血管肉腫でない。<3>文雄が受けた肝機能検査結果に表れた数値を見ると、膠質反応、GOT・GPT比、LDHなどの変化にアルコールを含む有機溶剤による肝機能障害の特徴と異なる点が少なくなく、むしろ、同検査結果を通覧すると血漿膠質反応の上昇、GOT・GPT比の上昇傾向が見られるなど、慢性肝炎が次第に悪化していく傾向が読み取れるというものである。

二  そこで、争点である業務起因性の有無について判断する。

1  業務起因性の意味及び立証責任

業務起因性は業務と疾病との間の法的因果関係の問題であって、業務起因性が認められるためには、業務と疾病との間に相当因果関係が必要であり、特に法令等で立証責任の転換や業務上であることを推定する規程が設けられていない場合には、被災労働者において、相当因果関係の存在を立証する責任を負うと解するのが相当である。原告は、労災保険の目的を被災労働者の生活保障と理解し、補償の対象を相当因果関係の範囲に限定すべきでなく、業務上の立証責任は労働者側になく、一定の場合には、当該業務以外の原因によって発病したものであることが立証されない限り、業務上と認められるべき旨主張する。しかし、労災保険制度が現実には労働者の生活保障の側面を持ち得ることを否定しえないとしても、労災補償の性質は、企業に内在する危険から労働者に傷病等が生じた場合には、企業が労働者の損失填補にあたるべきとしたものと理解するのが相当であるから、業務起因性について、通常の損害賠償制度と別異に解して、その意義及び立証責任につき原告主張のように解釈することはできない。

2  本件における業務起因性

(一) 前記一1認定の事実によれば、正確な数値は不明であるが、塗装作業従事期間、作業の環境及び実態からは、文雄が相当程度にトルエン等の有機溶剤の曝露を受けたことが推認されるが、他方、医師や研究者の間では、文雄が塗装作業において曝露を受けた化学物質からは、強度の肝障害は起こらないと理解されており(前記一2)、文雄の肝機能障害の病状進展経過(前記一3)と照らし合わせると、トルエン等が肝臓に影響を及ぼすことが指摘されているとはいっても、文雄の肝機能障害が塗装作業において取り扱った有機溶剤に起因すると推断するのは早計と言わざるを得ない。しかも、肝機能検査結果の数値に有機溶剤による肝機能障害の特徴と異なる点が見られること(前記一4)や、文雄の肝硬変は大結節性であるのに対し化学物質による肝硬変では大結節性のものが稀であること(前記一5)は、前者については個人差があること、後者については、文雄の肝硬変は、全体的にみて大結節性であり、その中に小結節もあること[人証略]を考慮すれば、文雄の肝機能障害が有機溶剤によるものでないことを証明するものとまではいえないものの、少なくとも文雄の肝機能障害が有機溶剤以外に起因するのではないかと強く疑わせる事実であるということができる。

(二) 更に、医師の所見を見ると、小松崎医師は文雄の肝機能障害が塗装業務で使用した有機溶剤に起因するとの所見を述べているが、兼高医師、野見山医師は、結論において業務起因性について否定的見解を述べている。

小松崎医師の所見では、文雄の肝機能障害発症の原因となった有機溶剤が何であるかが明らかでなく、塗料の成分たる物質の具体的な毒性について検討を経ていない点において、有機溶剤と肝機能障害との関係を肯定する証拠として大きな価値を認めることはできないし、文雄に輸血歴のないことからウイルス性肝炎ではないと判断している点についても、ウイルス感染については、輸血によるもののほか、胎児感染、母子感染、体液感染、予防接種時の注射針感染等他の感染原因の可能性について慎重に検討したうえで判断することが必要であると考えられ、文雄に輸血歴がないことからウイルス性肝炎でないとの判断に至ったことには首肯しがたいものがある。以上の理由により、小松崎医師の所見をもって、兼高医師及び野見山医師の所見を排斥し、本件の業務起因性を肯定することはできないと考える。

三  争点についての結論

以上総合すると、結局、文雄の肝機能障害が従事した塗装業務に起因すると認めることはできず、本件処分に違法はない。

(裁判長裁判官 長嶺信榮 裁判官 達修 裁判官 朝日貴浩)

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