宇都宮地方裁判所 昭和42年(わ)237号 判決 1972年10月28日
被告人 湯澤孝一郎
大一三・九・二一生 教員
主文
被告人は無罪。
理由
(公訴事実の要旨)
被告人は、栃木県教職員組合の機関紙「とちぎ教育」の編集発行人であるが、昭和四二年四月一五日施行の栃木県議会議員選挙に立候補を決意していた大塚喬の写真、経歴、政策等を掲載した同年二月一五日付「とちぎ教育」数百部を、同年三月中旬、宇都宮市尾上町三、二八四番地宇都宮郵便局から、右組合の組合員でもなければ、有料購読者でもない絵面昭男ほか数百名に無料で郵送し、もつて通常の方法によらないで頒布した(罰条 公職選挙法二四三条六号、一四八条二項)。
(当裁判所の判断)
一 関係証拠および弁論の全趣旨によれば、以下の事実を認めることができる。
(一) 被告人は、昭和三九年四月以来、栃木県教職員組合(以下、栃教組という)の執行委員長の地位にあつて、栃教組機関紙「とちぎ教育」の編集発行人を兼ねている者である。
(二) 栃木県下の小中学校教職員は、栃教組が結成されて一〇年余の間は、ほとんど全員がその組合員であつたが、昭和三五、六年ころから、事実上同組合から離脱していく者が続出するにいたつた。そして、栃木県教職員協議会(以下、栃教協という)が結成されるや、この方に大多数が属するようになつて、栃教組と栃教協との間では、互いに主義・主張を異にするだけでなく、組織面でも競合、対立する状態が継続し、栃教組は少数派となつてしまつた。そこで、被告人は、栃教組執行委員長就任以来、関係教職員に栃教組の主張を訴え、その活動を伝えて支持を求め、組織を再建し、教職員の統一と団結をはかることを目的として、「とちぎ教育」の編集発行に従事してきた。
(三) 「とちぎ教育」は、その題号のもとに、栃教組の機関紙として、おおむね月一回、定期的に発行され、各月の発行部数(以下の数は印刷部数で、実際に頒布された部数はそれを下まわつたこともある)は、昭和四一年四月から昭和四二年一月までの間で、うち通算四ヵ月が各五〇〇部、二ヵ月が各六〇〇部、特集号として発行された四ヵ月がそれぞれ一、〇〇〇ないし三、五〇〇部にのぼり、主として郵送によつて頒布され、その主たる記事内容は、栃教組の主張、方針や諸活動の報告、栃教組員を含む全教職員が当面している諸問題についての報道、評論である。そして、以上に要する費用は、当該組合員が納入する組合費や同組合のいわゆる上部団体である日本教職員組合本部から支給される補助金でまかなわれてきた(公職選挙法一四八条一項、二項にいう「新聞紙」においても、有償性が要件として考慮される趣旨は、その発行費用を特定者に依拠した場合・特定の候補者のための主観的私的な宣伝紙に偏する危険が強く、報道・評論の客観性を確保しがたいからである。したがつて、新聞紙発行が営利活動として遂行される一般紙では、その公器たることを確保するため、いわゆる犠牲紙などは別として、読者から対価を徴収するものでなければならない。しかしながら、労働組合の機関紙は、元来、組合活動の一環として発行され、当該組合員のほか、加入資格が認められている同僚をも対象に含めて、組織の拡大強化、意識の高揚、社会的地位の向上をめざして報道・評論をするものである。したがつて、機関紙としての機能を発揮させる必要上、前示対象者から対価を徴収せず、組合経費で支弁するからといつて、その報道・評論の客観性に影響を及ぼすものではない)。以上の諸点からして、従前の機関紙「とちぎ教育」は、公職選挙法一四八条一項、二項にいう「新聞紙」に該当することが明らかである。
(四) 被告人は、昭和四二年二月ころ、同月一五日付「とちぎ教育」を三、〇〇〇部編集印刷した。同紙は、「とちぎ教育」五三六号とされて、「組織拡大特集号」と銘打たれ(以下、同紙を五三六号紙という)、その一面には、「前進する栃教組」という標題のもとに、全教職員の勤務条件の改善のために栃教組が推進した諸活動とその成果、今後の方針を報道する記事や栃教組の主張を明らかにする記事が掲載され、その裏面下半分には、「教師でもできる選挙運動」に関する解説記事、投書などが掲載され、裏面上半分には、「われらの代表を地方議会へ」という標題のもとに、昭和四二年四月一五日施行の栃木県議会議員選挙に宇都宮地区から立候補を決意していた大塚喬の写真、経歴、政策などの記事が掲載されている。したがつて、その体裁、記事の内容などからみて、五三六号紙は、従前の機関紙としての「とちぎ教育」と同一性を有し、ひいては公職選挙法一四八条一項、二項にいう「新聞紙」に当るといえるとともに、それは、裏面上半分の記載自体からして、同条項にいう「選挙に関する報道」をしているものと考えるに妨げない。
(五) 被告人は、昭和四二年三月中旬、宇都宮郵便局から、五三六号紙二、一〇〇部を、栃木県下の小中学校教職員などに郵送に付して頒布した。ところで、その頒布を受けた教職員のうち、数百人は、栃教組の組合員でない者であり(前示の経緯からして、ほとんどが栃教協会員と推認される)、有料講読者でもない。もつとも、その多くは、もと栃教組に属していた者であり、また、そのなかには、栃教組を離脱したあとでも、ときどき(多くて年に数回)、「とちぎ教育」が自宅宛郵送されたことがある者もみうけられる。
二 ところで、検察官は、「とちぎ教育」は、通常、栃教組組合員に有料で頒布されていたのに、五三六号紙は、栃教組の組合員でない教職員数百人に、無料で頒布されたのであるから、被告人は、五三六号紙を通常の方法によらないで頒布したものにほかならず、その行為は公職選挙法一四八条二項に違反し、同法二四三条六号に該当する旨主張する。しかし、当裁判所は、前示認定事実にもとづく以下の理由によつて、五三六号紙の頒布は通常の方法によらないものとはいえず、結局、公職選挙法一四八条二項に違反しないと判断する。
(一) 被告人が、「とちぎ教育」(なお、五三六号紙は、従前の機関紙と同一性が認められるから、その頒布対象については、同一に論ずれば足りる)を、栃教組に属しない教職員をも対象として、適宜、編集発行し、頒布することは、栃教組が栃教協と競合、対立するなかで少数派に転じた前示諸事情を考慮すると、自己の立場から、全教職員の地位向上、統一と団結を実現しようとする活動としてもつともな機関紙活用の方法と考えられ、労働組合機関紙の本来的性質にも合致するものと考えられる。したがつて、栃教組に属しない教職員に頒布することは、組合機関紙の性質、機能自体から考えても、通常のこととして肯認できないわけではない。
そして、「とちぎ教育」の印刷部数、記事が栃教組内部に限定された特有のものではないこと、その記事は、むしろ、全教職員に共通する問題の報道・評論であること、組合員でない者のなかにその頒布を受けた者があることなどの事情から推認すると、現実に、従前から、すくなくとも特集号発行のさいは、栃教組に所属しない教職員にも頒布されていたことがうかがわれる。この点に関する検察官の従前の特集号の発行は、そもそもそれ自体が異常である旨の主張は、首肯できない。
(二) 本件で問題とされている数百人の教職員に対する頒布は対価をえないでなされたが、この点をとらえて、通常の方法によらない頒布とすることはできない。組合機関紙の経費は、性質上組合費でまかなわれるのが普通であるにすぎず、勢力拡張のため当該組合に所属しない同僚に無償で配布されることは当然予想されるところであり、問題の頒布を受けた数百人は、すべて教職員であり、その大半はもと栃教組に属していた者であることに、前述のような機関紙「とちぎ教育」の従前の頒布状況と五三六号紙が特集号である点を考え合わせると、無償性をとらえて通常性を否定するわけにはいかないからである。
(被告人らの公訴棄却の主張に対する判断)
被告人、弁護人は、本件は、起訴すべきでないのに、栃教組を弾圧し、壊滅をはかるために提起された公訴であるから、公訴提起の手続に重大な瑕疵があるものとして無効とし、刑事訴訟法三三八条四号を適用して公訴を棄却すべきである旨主張する。しかしながら、被告人らが主張する諸事情(その主張する事実のなかには、憶測の域を出ない点もある)と関係証拠によつて認められる事情を合わせ考慮しても、本件公訴がその主張にかかわるような違法な目的のために提起されたとはいえない。そのほか、被告人らは、本件は起訴を許容するに足りる嫌疑が存在しないのになされた起訴であるから、棄却されなければならない旨主張するが、当裁判所としては、嫌疑の有無は、本来、実体審理をとげたうえで判断されるべきものあつて、これを訴訟条件的に考えるのは相当でないと思料する。