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宮崎地方裁判所 昭和47年(行ウ)3号 判決 1988年4月28日

原告

原正義

他一六名

右一七名訴訟代理人弁護士

鍬田萬喜雄

斉藤鳩彦

右訴訟復代理人弁護士

雪入益見

被告

宮崎県教育委員会

右代表者委員長

後藤梅雄

右訴訟代理人弁護士

佐々木曼

殿所哲

伴喬之輔

右指定代理人

甲斐教雄

他一四名

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が原告らに対し、昭和四五年三月二四日付でした別表Ⅱ処分内容欄記載の各懲戒処分は、いずれもこれを取消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告らは、いずれも昭和四五年三月二四日当時、宮崎県立大宮第二高校に勤務していた地方公務員で、かつ同校教諭の職務(ただし、原告中田えみ子は養護教諭、原告戸国博は実習助手の職務)に従事していたものである。被告は原告らの任命権者である。

2  被告は原告らに対し、昭和四五年三月二四日付で別表Ⅱ処分内容欄記載の各懲戒処分(以下本件各処分という。)をなし、いずれもその頃各原告に通知した。

3  被告の処分理由説明書によると、処分の事由は別表Ⅰの原告氏名欄記載の原告が、同表処分事由欄記載の行為をしたというにあり、処分の適条はいずれも地方公務員法二九条一項一号及び二号である。

4  しかし、本件各処分は、次の理由により違法である。

(一) 原告らには地方公務員法二九条一項一号・二号に該当する事由はない。

(二) 仮に、原告らに形式的に前記法条の該当事由がいくばくか認められるとしても、後に詳論するとおり懲戒に値する程のものではないから、本件各処分は裁量の範囲を越え、又は懲戒権の濫用にわたるものとして違法である。

よって、原告らは、被告に対し、本件各処分が違法であるから、その取消を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1、2の事実は認める。

2  同3の事実のうち、別表Ⅰ番号1中、出口修身関係を除き、その余は認める。

原告出口については、昭和四五年一月一三日に同人の職責である授業を放棄し、校長から再三授業を実施するよう命令されたにもかかわらず、これを放棄するなどして、学校の正常な運営を阻害したものである。

3  同4の主張は争う。

三  被告の主張

1  本件紛争の経緯―浜田校長着任まで―

(一) 大宮第二高校の独立

被告(以下、「県教育委員会」ともいう。)は宮崎県議会が昭和四四年三月二九日、宮崎県条例の一部改正案を可決したことに伴って、同年四月一日、宮崎県立宮崎大宮高等学校(以下「大宮高校」という。)の定時制の課程を宮崎県立大宮第二高等学校(以下「大宮第二高校」という。)として独立させた。

原告らは独立前から宮崎県高等学校教職員組合大宮高校夜間部(独立後は大宮第二高校)分会(以下「分会」という。)に属していた。

(二) 大宮第二高校の独立に対する教職員の反応について

(1) 大宮高校定時制の独立について分会は昭和四二年度の高教組の定期大会の議案に夜間部の独立を修正案として挿入するよう要求し、これが認められ、高教組としても昭和四三年一〇月、昭和四四年度の県立学校関係教育予算要求として高等学校定時制課程の独立の促進を要求していた。

(2) 大宮高校定時制の分離・独立については昭和四四年二月二一日、同校の小高校長が夜間部の全職員に対して明日の県議会において大宮高校夜間部の独立の件が上程される旨を県教育委員会から内示されたことを告げたが、教職員側には特に反応もなく別になにも問題はなかった。

同年三月二日に行われた大宮高校夜間部の昭和四三年度の卒業式において当時の県議会の議長が来賓祝辞の中で「大宮高校定時制の独立の件が県議会に提案されており、独立が実現することは大変喜ばしいことである。」旨述べた。小高校長は、同月一三日、同校の定時制の職員会議を招集し、その席上、同校定時制の独立について、夜間部の職員は全員転勤という扱いとなり、生徒は全員転校ということになること、校舎建設については、国庫補助による定通センターという形で進められるようであること等を説明したが、職員は無関心であった。

同月二二日、同校夜間部の終業式において小高校長が在校生に対して、夜間部の独立の件を発表した。この終業式終了後生徒総会が開かれたが生徒の不安はなく、生徒からの独立に関する質問等は全く出てこなかった。

(3) 一方、原告ら分会員は、同月末ころ連日のように分会総会を開き、独立に伴って新しく赴任する校長・教頭への管理職対策、非組合員対策、校務分掌主任公選、諸既得権の整理確認を行い、集団執行体制を確認し、例年どおり職員会議の原案を決定した。

(三) 独立問題の発端

(1) 昭和四四年四月一日(以下、昭和四四年四月から昭和四五年三月までの間のできごとについては単に月、日のみを記すことにする。)大宮第二高校が開設され、福井校長、重信教頭が発令された。(この時点で教職員二七名中組合員は原告ら一七名を含めて二〇名、非組合員は七名であった。)同月二日、同校の第一回の職員会議が開かれたが、その際、福井校長は、職員会議の問題等について、「職員会議は尊重するが、最高決定権は校長にある。」「各部主任の公選制は基本的に認めがたい。」という姿勢を示したため、職員会議の性格をめぐり原告ら分会員と同校長との間に対立が生じた。

(2) 四月九日、四年A級から独立の経過と内容について次のような納得し難い点があるので校長から直接説明してほしいとの要求が出され、福井校長は生活指導部長である小野本に説明させた。

生徒が問題にした点

① 卒業学校名が変わることは不満である。

② 自分達に何の相談もない強制転校は基本的人権の無視である。

③ 独立とは名目だけで、何らの保障もなければ将来へのビジョンもない。

(3) 五月一七日から一九日にかけて開かれた生徒と教職員によるリーダー研修会の第一分科会において独立問題が取り上げられ、福井校長が説明を行ったが、独立の経過に納得しない原告ら分会員と校長の間で意見が対立した。生徒の独立問題に関する疑問は、当初はほんの一部の生徒の素朴な疑問で非常に小さく、これを教師が適切に指導すれば、紛争に発展するようなものではなかったが、原告らはこの段階から一部生徒の独立問題に関する素朴な疑問を増幅させるがごとき態度をとるようになった。

また、このころ、校長の承認を得ないまま、生徒会において独立に関する諸問題を研究するための専門委員会としての独立運営委員会(後に学園民主化委員会に改称)が設置された。

(4) 六月八日には生徒総会(リーダー研修会報告会)が開かれ、独立問題について福井校長が生徒への説明を行ったが、校長の説明に納得しない一部の生徒は同月一四日再度生徒総会を開いて校長の明確な説明を求めたい旨を校長に要求した。

(5) 福井校長は右要求に対応するため、六月一三日に職務命令で職員会議を開くこととした。原告ら分会員は職員会議の前に分会総会を開き、原告らも直接生徒総会の中で生徒とともに質問するということで意思集約するとともに右職務命令撤回を要求し、場合によっては職員会議をボイコットすることも辞さないことを決定した上で同月一三日の職員会議に臨んだ。同日の職員会議においては、校長が独立の意味を先ず職員に説明し、職員の共通理解を得たうえで職員と一体となって生徒に説明し、理解させようという考えを示したのに対し、原告ら分会員は、職員も直接生徒総会のなかで生徒とともに質問すると主張して校長の意見に強く反対し、また職務命令による職員会議の開催に強く反発し、事実上同月一三日の右職務命令を撤回させ、同月一六日に職員会議を延期させた。

(6) 六月一六日、職員会議において、校長の説明に納得しない分会員らは、県教育委員会の責任者が直接生徒並びに教職員の前で独立の経過と内容を説明し、質問に答えることを福井校長に要求したが、校長が、「職員が県教育委員会の責任者から説明を受けることには便宜を図るが、職員、生徒一緒の場で説明を受けることには同意できない。生徒の指導としては、先ず、職員が説明を受け、それを共通理解した後で、職員から生徒に説明すべきである。」との考えを示したため、これに納得しない原告らは採決を強行(賛成一八、反対五、五は非組合員)し、「職員会議の決定に従え。」と校長に要求し、最終決定権は校長にあるとしてその要求には従えないとする校長と原告らとのあいだで職員会議の性格論をめぐって激論となった。

(7) 右一六日の職員会議の後で開かれた生徒総会においては、生徒からの質問に対して、福井校長は、色々と説明したが、校長の説明に生徒が納得しかかると原告らが「定通併修や技能提携は行わないことを確約しろ。」「独立校舎をどこに造るのか明らかにせよ。」といった言い方で校長を追及し、生徒を混乱させたため、結局生徒の理解を得ることができないばかりか、むしろ、独立の過程に問題があるとか、校長や県教育委員会のやり方は信頼できないというような印象が生徒の間に広く行きわたる結果となった。なお、この生徒総会における発言の八割方は原告ら分会員のもので、生徒に本件の独立を理解させようと努力した分会の職員は一人もいなかった。

(四) 職員会議の生徒傍聴問題

(1) 六月二一日、生活指導部長である原告小野本から「職員会議の生徒傍聴を認めたいので、第一時限目をロングホームルームとし、生徒傍聴についての話合いをさせたい。」との申し出がなされた。これに対して福井校長が職員会議の生徒傍聴は認められない旨答えたところ、原告ら分会員は一斉に反発し、分会員全員で校長を激しく追及し、結局校長の右前言を撤回させるとともに、右一六日の職員会議における一八対五の決議を校長が否認したことも事実上撤回させた。このため、一時間目の授業は自習となった。

(2) この状況の中で原告ら分会員は、六月二三日及び二五日両日分会総会を開き、職員会議の生徒傍聴を認める方向で意思集約を行った。また、生徒会の学園民主化委員会においても、同月二四日生活指導部の原告小野本や同斉藤を含めて、同月二五日の職員会議を傍聴することを決定していた。同日午後二時から「独立問題及び職員会議の生徒傍聴について」を議題として開かれた職員会議において、傍聴をめぐっての議論の最中突然約二〇名程度の生徒会の学園民主化委員会や総務委員会に属する生徒が入室してきたので、福井校長が何度も生徒らの退室を求めたのに対し、原告ら分会員は、「生徒らが入ってきたという新しい事態を踏まえて審議すべきである。」とか「生徒たちを退室させる権利は、校長にも誰にもない。」などと校長に対し激しく反発し、生徒もその場を動こうとしなかったので、福井校長は、それ以上職員会議を続行することはできないと判断して、職員会議を打ち切り、職員室から退室した。校長及び教頭の退席後、原告ら分会員と非組合員との間で生徒傍聴をめぐって意見が対立したが、結局分会員らは、校長、教頭のいないままで職員会議を続行することをルール違反だとする非組合員の反対を押し切って採決(続行二〇名、打ち切り三名(非組合員))し、職員会議の傍聴を認めることを強行採決(傍聴を許す二〇名、反対〇名、保留三名(非組合員)、棄権一名(非組合員))により決定した。

(3) 六月二六日、生徒総会において生徒は独立問題に関する要求を次のとおり整理した。

① 夜間部単独の完全独立を要求する。

② 国庫補助を目当てにした現在の独立を撤回せよ。

③ 生徒自治を無視し、教師集団を無視した現在の独立を撤回せよ。

④ 強制転校は、人権無視である。

(4) 翌二七日午後二時から「給食費関係の決算及び昭和四四年度予算について」を審議内容とする職員会議が開催される予定であったが、会議の開催前から生徒たちが傍聴のため入室していたため、福井校長は再三再四生徒の退室を求めたが、生徒は退室せず、また分会員らは「職員会議を生徒に傍聴させることは既に決まっている。」と同月二五日の強行採決の結果を盾に校長を追及したため、福井校長は職員会議を開催することができないと判断し、職員会議を打ち切り退席した。また、非組合員の議長も生徒らの退室を強く求めたため、原告ら分会員により不信任案が提出され、議長から降ろされた。

(五) 県教育委員会の来校説明

(1) 右職員会議終了後開かれた生徒総会における全学ストの意思集約を背景に、原告ら分会員は福井校長に対し独立問題についての県教育委員会の来校説明を要求したため、同校長は、六月二七日、県教育委員会に赴き、来校を要請した。一方、原告ら分会員も、六月二八日午前一時半ころ、県教育委員会の事務局である宮崎県教育庁の教育次長穂積正晴宅に押しかけ、来校するよう強請した。福井校長は、同日午前八時半ころ、原告らの強い要求を受けて再度県教育委員会に赴き、来校を要請したが、県教育委員会側の回答は「校長と生徒会代表に県教育委員会事務局で会う。」というものであったため、原告らは右回答に納得せず、その後直ちに穂積教育次長のところへ押しかけ、来校を要求する交渉を行った。結局、同日午後八時半ころ、穂積教育次長、坂口産業教育係長外一名が大宮第二高校を来訪し、同校体育館で同校全職員及び生徒の前で同校の独立についての説明を行った。

(2) 積積教育次長は、定通併修の問題や独立の経緯等についてできる限り詳しく説明したが、その説明に生徒が納得しかかると横から原告らが「定通併修は勤務条件を悪くする。定通併修制度をとりやめることを約束せよ。」「来年度独立校舎をつくることを確約せよ。」「県単独事業として夜間部の独立を実施せよ。」というような県教育委員会として到底約束することのできないようなことを約束しろと主張し、確約しろ、確約できない、ということで激しい議論となり、全体としてはつるし上げに終わってしまうという状態で、当初の約束の九時三〇分を過ぎたので説明を終えて退場しようとする穂積教育次長らを原告ら分会員は高教組の支援メンバーとともに取り囲み、そのまま体育館併設の準備室に押し込み、深夜(午前二時三〇分ころ)に至るまでつるし上げ、再度来校するよう強要した。そこで、やむをえず、穂積教育次長は、福井校長の意思を確認した上で、再度来校し説明すること、自分が来れない場合は代わりの者をよこすことを約束した。

(六) 福井校長及び重信教頭の辞表提出と新校長の発令

(1) 右のような混乱した状況の中で、連日にわたる原告ら分会員による激しい追及、つるし上げにより心身ともに疲労困憊していた福井校長及び重信教頭は、六月三〇日同校の長谷部事務長を通じて辞職願と同日の休暇申請を県教育委員会に提出し、そのまま出校しなくなった。

(2) 一方、六月三〇日午後六時三〇分ころ、坂口産業教育係長外一名は、同月二八日の穂積教育次長来校の際の再度来校するとの約束を受けて教育次長代理として大宮第二高校に赴き、同校体育館で職員、生徒を前に独立までの経緯、定通併修制度の考え方、定通センター等についてるる説明を行い、理解を求めたが、原告ら分会員は「県単独事業として定時制を独立させることをここで確約せよ。」「定通併修をやめるということをここで確約せよ。」などと大声をあげて両者に迫るばかりであり、原告らには県教育委員会の説明を理解し、また、生徒を指導するというような態度は全くなく、騒然とした中で翌朝午前七時ころまで一方的に両名を取り囲んでつるし上げた。

(3) 七月二日被告県教育委員会は、辞職願を提出していた福井校長を県教育委員会事務局付けとし、後任の校長に宮崎県立工業高等学校の教頭であった浜田宣弘を同月一日付けで発令することを決定し、右浜田に辞令を交付した。

(七) まとめ

この三月末から六月末までの状況をみると、原告らは、独立前から校長を権力としてとらえ、対決する姿勢を示し、独立に伴って新たに着任する校長、教頭への管理職対策、非組合員対策等を周到に計画し、学校運営の民主化と称して校長に対する権力闘争を展開し、職員会議の最高議決機関化、校務分掌主任公選制等を獲得することによって、校長を排除し、原告ら分会の主導によって学校運営を進めていくことを意図していたが、独立後最初の職員会議において福井校長が「学校における最高決定権は校長にある。」「校務分掌主任の公選制は基本的に認めがたい。」「独立したのであるからすべては零から出発する。」という姿勢を示したため、それ以後事あるごとに原告らは校長と対立し、また、校長を厳しく追及し、特に一部生徒から出された独立に関する素朴な疑問を奇貨として生徒会活動等を通じてこれを助長し、独立問題を題材として感情的に盛り上がった生徒を利用しながら校長を追及し続け、ついには、生徒が全学ストの意思集約を行うまで生徒を煽動し、慫慂し、また、福井校長を追及、つるし上げて県教育委員会の来校という異例の事態に至るまで学校を混乱に落とし入れたということができるのである。

(本件各処分事由について)

2  校長等排斥行為(別表Ⅰ3記載の事実)について

(一) 原告らは浜田校長が七月一日付けで発令され、翌二日着任して以降、職員会議の決定と称して浜田校長を校長として認めないと主張し、浜田校長からの指示、命令等をことごとく拒否し、又はこれに従わず、(七月一日及び九月一日に)校長が職員会議の開催や職員への諸連絡のために職員室へ入室しようとすると、多勢の威勢を示して校長をつるし上げてこれを阻止し、校長の職務の執行を妨害し、また、壺井教頭が同月一五日発令され、同月一八日着任して以後も、教頭も校長と同じだとして職員室の教頭席に着くことを拒否し、教頭の指示に従わず、教頭が校長とともに職員会議開催のため職員室に入室しようとするのを同様に阻止し、その職務を妨害したうえ、一〇月九日に校長、教頭が職員に受け入れられるまでの間、原告らが職員会議と称する職員集会によって学校管理を行おうと企て、別表Ⅲ記載のとおり職員集会を開いて正常な学校運営事項以外の事項までも学校運営事項として討議し、決議し、実施し、年度当初に定められた教育課程、教育計画等に従って授業等を実施すべき責務を放棄して、校長の承認を得ぬまま別表Ⅲ中生徒総会等の実施状況欄記載のとおり連日独立問題についての生徒総会、ロングホームルームを開かせ、一学期末テスト、一学期終業式、二学期始業式をしなかったほか、生徒会活動として原告らと一部生徒により街頭デモ行進、街頭演説、署名運動、ビラ配布、市民集会の開催、県教育委員会への要求書提出(七月一四日)等を行った。

(二) 原告らがなした浜田校長等着任拒否、指示命令違反、職務執行妨害の具体的内容は次のとおりである。

七月三日、浜田校長は、総務部長であった原告井野に教職員への着任挨拶の場の設定を指示した。これに対し、職員会議を開いていた原告らは、校長の紹介は、正式文書による事務引き継ぎを済ませ、福井前校長が連れてきてなされるべきこと、この混乱を招いた校長、県教育委員会の誤りを明確に分析、認識し終わるまで受け入れないことを決め、原告井野、同出口、同原が、その旨を浜田校長に申し入れた。浜田校長は生徒に対する挨拶を行うため、また生徒の状況を聞くため生活指導部長であった原告小野本に校長室に来るように命じたが、同人が結局来室しなかったことから、生徒に対する挨拶もできなかった。

七月四日、浜田校長は生徒の授業計画、授業の実施状況を聞くため、教務部長である原告成合を呼んだが、同人は校長室に来室せず、また何らの報告もしなかった。原告小野本は浜田校長に対し、「あなたは事務引継ぎを受けていないので、新任校長の任務につけないはずだから、あなたに会うことはできないという結論が学園民主化委員会で決まった。」と告げた。

七月七日、浜田校長は、県教育委員会事務局で福井校長との事務引き継ぎを行った。この事務引き継ぎ終了後、浜田校長が原告井野に事務引き継ぎが終わったので職員に挨拶したい旨指示し、原告井野は「皆で相談したい。」と答えたが、結局職員は誰も来なかった。

七月八日、昨日の浜田校長の申し入れを受けて、原告らは分会総会(議題「浜田氏の問題」外)を開き、分会としての意思を集約して同日行われた職員集会に臨み、原告らは一方的な採決により「事務引き継ぎが終わっても、前校長の挨拶がなければ校長と認めないこと、その旨非組合員の職員から申し入れさせること。その申し入れの状況は分会職員が監視しておくこと」を決定し、非組合員に右申し入れをすることを強要し、職員集会終了後、校長室に来て浜田校長を取り囲み、「事務引き継ぎが終わっても、前校長の挨拶がなければ校長として認められない。」と申し入れた。

七月一〇日、その日職員組合による7.10統一ストライキが予定されていたため、午後五時四〇分ころ浜田校長が職員に対して統一ストライキに参加しないようにとの職務命令を出すため同校職員室に入室しようとしたところ、原告ら(原告寺坂を除く)は、入口に殺到し、暴言を浴びせた上浜田校長の入室を阻止し、校長の職務執行を妨害した。

更に、同日午後七時三〇分ころ、浜田校長が校長室で執務中、原告小野本、同出口、同樋口、同中山、同井上、同斉藤、同井野らの率いる生徒約五〇名が突然校長室に入室し、校長の机のまわりを取り囲み、約三〇分にわたって浜田校長に福井前校長を連れてきて挨拶をさせることを要求し、同校長執務を妨害した。

七月一五日、県教育委員会は、宮崎県立高鍋高等学校教諭壺井秀生に同日付けで大宮第二高校教頭に発令する辞令を交付した。同日一八日浜田校長は、壺井教頭が着任したので、職員に挨拶したい旨を総務部長の原告井野に伝えたが、原告井野は、教頭も校長も同じ扱いであるということで挨拶を受けることを拒否した。このため、教頭は事務室に机を置いて執務することとなった。また、浜田校長は、原告樋口、同池田から出されていた出張伺について両名に校長室に来て説明するよう求めたが、右両名はこれに応じなかった。

七月一九日、壺井教頭は重信前教頭の自宅で同人と事務引き継ぎを行った。また、浜田校長は総務部長である原告井野にその日の日程を聞くため校長室に来るように指示したが、原告井野は、会議中との理由でこれに応じなかった。

七月二一日、浜田校長は総務部長の原告井野に校長及び教頭の職員、生徒への挨拶の時間の設定と教頭が職員室の教頭の席に着くことを認めるよう命じたが、原告井野はこれを拒否した。また、教務部長の原告成合を校長室に呼び、翌日の終業式の行事日程とその日行われていた生徒総会の内容を聞いたが、「わかりません。」と答えるだけであった。

七月二二日、浜田校長は原告井野を介して運営委員会の各委員(原告井野、同成合、同樋口、同原、同井上、同出口)に校長及び教頭の職員、生徒への挨拶の時間の設定及び教頭の職員室着席を認めるよう文書をもって命じたが、総務部長の原告井野はこれを拒否した。さらに、浜田校長は、教務部長の原告成合を介して原告井野及び原告成合に終業式ができないので明日からの夏季休業を生徒に徹底させることと夏季休業中の行事予定を知らせるよう文書をもって命じたが、原告成合は、これについても応じなかった。

七月二九日、壺井教頭は原告井野及び原告成合と校務連絡のため話し合おうとしたが、右両名は「福井校長か県教育委員会から正式の紹介があるまでは校長、教頭とは口をきかない。」と決定しているという理由でこれに応じなかった。さらに、壺井教頭は、教頭の職員室への入室と教頭席への着席についても要求したが、右両名はこれについても拒否した。

八月二六日、浜田校長は、自宅研修中の全職員(傷病休暇中の富永、長友教諭を除く。)に対し、八月二九日午後二時から同校職員室において「二学期授業の正常化並びに行事予定について」を議題とする職員会議を開催するので出席されたい旨の文書通知を各人の自宅に郵送した。

八月二九日、浜田校長と壺井教頭が職員室に入室すると、その直前まで分会総会を開き、浜田校長の招集した右職員会議には出席しないことを分会として決めていた原告ら全員は、そのまま退出し、戻って来なかったため、職員会議は開催不能になった。(原告らはその後神宮西苑で分会総会を開いた。)そのため、浜田校長は、九月一日に再度職員会議を開催する旨の文書通知を全職員の自宅に郵送した。

九月一日、職員会議開催のため、浜田校長と壺井教頭が職員室に入ろうとしたところ、それまで職員集会を開いていた原告ら全員が校長、教頭の面前に詰めかけ、約二五分間にわたって暴言・罵声を浴びせ、校長・教頭の前進を阻止し続け、校長、教頭の職務執行を妨害した。このため、浜田校長はこの日も職員会議を開催することができなかった。

九月二日、浜田校長は八月二九日及び前日の職員会議の状況及び二学期の始業の実情から何らかの打開策を見出さなければ正常な授業ができないと判断し、原告井野にその打開策について協議するため校長室へ来るよう指示したが、原告井野は、都合が悪いといってこれを拒否した。

九月四日、浜田校長は小野本に対し九月七日に予定されている生徒の街頭デモと市民集会は、生徒会活動の領域を逸脱するものであるから、その中止を指導するよう文書をもって命じたが、原告小野本はこれに応じず、原告らはこの校長の命令を黙殺することを決定した。

また、原告井野に対して、県教育委員会による校長紹介についての条件を申し出るよう求めたが、原告井野は何らの返答もしなかった。

九月一三日、浜田校長は、原告井野(総務部長)、同成合(教務部長)、同小野本(生活指導部長)に対し、文書をもって時間割通りの正常な教科授業が行われるよう生徒を指導するよう指示したが、原告らは、この指示を黙殺することを決定した。

九月一八日、浜田校長が原告井野に対し、文書をもって、延岡第二高校で開催される五校合同スポーツ交換会に関する会議に、教頭、植野教諭(体育主任代理)、生徒会長を出張させたいので、交換会に対する教職員の意向を知らせるよう指示したところ、原告井野は、文書により「申し入れの件については、昨一七日の職員会議の決定に従って、小野本、原、斉藤の三教諭が出席することを確認したので報告する。」旨回答した。

一〇月四日、浜田校長は、原告井野に予定されている体育祭の日程及び校長の出席について報告するよう指示したが、原告井野は、これに対して何らの報告もしなかった。

3  職員会議放棄行為(別表Ⅰ2及び6記載の事実)について

(一) 浜田校長は、八月二六日、自宅研修中の全職員(傷病休暇中の富永、長友教諭を除く。)に対し、八月二九日午後二時から同校職員室において「二学期授業の正常化並びに行事予定について」を議題とする職員会議を開催するので出席されたい旨の文書通知を各人の自宅に郵送した。

浜田校長からの右職員会議開催通知を受けて原告らは八月二八日、二九日の両日分会総会を開き、浜田校長の右職員会議の出席命令には応じないことを決定し、浜田校長及び壺井教頭が職員会議開催のため職員室に入ってきたら、原告ら全員が退室するということで、分会として意思集約した。八月二九日浜田校長と壺井教頭が職員室に入室したところ、その直前まで同職員室で「本日の職員会議について」を議題とする分会総会を開いていた原告ら全員は、右意思集約のとおり職員会議をボイコットするため無言のまま退出し、そのまま戻って来なかったため、職員会議は開催不能になった。(原告らはその後神宮西苑で分会総会を開いた。)そのため、浜田校長は、八月二九日、「二学期授業の正常化並びに行事予定について」を議題とする職員会議を再度九月一日午後二時から同校職員室で開催するので出席されたい旨の文書通知を全職員の自宅に郵送した。

九月一日、職員会議開催のため、浜田校長と壺井教頭が職員室に入ろうとしたところ、それまで職員集会を開いていた原告ら全員が校長、教頭の面前に詰めかけ、約二五分間にわたって暴言・罵声を浴びせ、校長・教頭の前進を阻止し続け、そのため校長及び教頭は、席に着こうにも前進することもできず、職員会議を開催することが不可能なばかりか、そのまま在室することもできない状態となり退室を余儀なくされた。このため、浜田校長はこの日も職員会議を開催することができなかった。

(二) 浜田校長は、一二月九日、全職員に一二月一〇日午後二時から同校職員室において一二月一五日実施予定の二学期末統一テストの件と高等学校の定時制教育及び通信制教育振興法による補助金の件についてを議題とする職員会議を開催することを通知した。しかるに、一二月一〇日午後三時を過ぎても原告ら(原告池田、同本山、同甲斐を除く。)が出席しなかったため、浜田校長は、職員会議を開催することができなかった。

4  校務分掌業務拒否行為(別表Ⅰ8記載の事実について)

(一) 大宮第二高校における校務分掌は、総務部、教務部、生活指導部、進路指導部、事務部の各部に分かれ、それぞれの部に責任者として部長を置き、教職員は、それぞれの部に属して各部の運営に当たり、またその他職員会議、運営委員会の構成員として学校の運営に当たる校務分掌組織が年度初めに定められていた。各教職員は校長及び教頭のもと校務分掌に従い、学校運営に当たらなければならないところであった。しかるに、原告原、同樋口、同小野本、同井上、同成合ら五名は、一一月一二日、浜田校長が大宮第二高校の独立に関する当局への要求運動に同調しないことや職員会議が最高の議決機関であることを認めないことなどに反発し、同校長に対し、「校務分掌を返上する。校長が全部一人でやれ。予算審議の運営委員会にも出席しない。」と暴言をはき、翌一三日から、原告ら各部長による校務分掌拒否が始まった。

(二) 公文書等の受領拒否等

原告小野本、同原、同樋口、同井野、同成合ら五名は別表の校務分掌目録中校務分掌欄記載の部長として各部の運営に当たらねばならない職務を有しながら、同目録中件名欄記載の各公文書等の受領を同目録中受領拒否年月日欄記載の各年月日にそれぞれ拒否して、同公文書等につき何らの処理もせず、各職務を放棄した。

(三) 運営委員会への出席拒否等

原告小野本、同原、同樋口、同井野、同成合、同井上ら六名は、一一月一三日午後二時から予定されていた運営委員会に出席せず、その職務を放棄した。さらに、右原告ら六名は、浜田校長が一一月一五日暮礼時、予算審議のための運営委員会を同月一七日午後二時から開くことを通知したにもかかわらず、これに出席せず、その職務を放棄した。

(四) 二学期末テストの不実施

二学期末の統一テストは行事予定表により同年一二月一五日から同二〇日(一六日及び一八日を除く)までの間に実施されることになっており、その時間割発表は教務部によって右テスト実施一週間前の一二月一八日に発表されるべきであったが、原告成合は一二月八日、右発表を行わず、また、一二月九日、浜田校長からテスト時間割を作成するよう命じられたが、原告成合は、「本校の校務分掌の組織は無くなっているので、教務ではなく校長がやるべきだ。」と言ってこれを拒否し、さらに、一二月一二日、同校長から重ねて時間割作成を命じられたが、原告成合はこれを無視し、右統一テスト当日である一二月一五日に至るも右時間割を発表せず、その職務を放棄した。

(五) 生徒の登校拒否に対する指導拒否

一二月一七日、浜田校長は、生徒総会における生徒の登校拒否の提案が誤っていることを指導するよう職員特に生活指導部長である原告小野本に指示したが、同人はこれに従わなかった。さらに、一二月一八日、浜田校長は同日の生徒総会で生徒会総務委員会からの登校拒否の提案についての審議が行われることに鑑み、職員特に生活指導部の職員に対し、生徒が登校拒否をしないよう十分指導されたい旨命じたが、原告小野本、同原、同井上、同出口らは、浜田校長に対し、「どのように指導したら良いのか。校長が指導せよ。我々はそのような指導はしない。責任は校長にある。」「校長には教育者としての資格がない。」などと暴言をはき、原告小野本は校長の指示命令に従うことなく、自己の校務分掌による職務を放棄した。

(六) 連絡事項の発表拒否

一二月一九日、壺井教頭が原告井野、同樋口、同小野本、同原、同成合ら各部長を指名して二学期末を控えての各部の連絡事項の発表を指示した際、原告ら各部長は、全員無言でこの指示を無視し、また、浜田校長が同月二二日当日予定されている終業式の実施について、一月八日始業式の実施について、原告成合に説明を求めたが、同原告は一切返事をせず、一二月一三日以来の態度を続け、その職務を放棄した。

5  授業放棄行為(別表Ⅰ1記載の事実について)

(一) 昭和四五年一月一二日、生徒総会で生徒の授業拒否提案が賛成一一六名、反対八九名で可決された。一月一三日、浜田校長は、生徒の右授業拒否の決定に対する措置についての緊急職員会議を開催し、原告らに対し、生徒の要求と授業拒否は別であるから、正規の授業を実施するとともに、生徒に対しても授業を受けるよう指導するよう指示したが、これに対し、原告井野は質疑を打ち切り会議終了を宣言したので、校長は「今日は万難を排して授業をしてください。これは業務命令です。」と原告らに命じた。暮礼時、浜田校長は原告らに対し、生徒に授業を受けさせ、代表だけが校長と話し合うよう生徒を指導し、教師は授業をやるよう指示した。これに対し、原告らは「命令や権力で授業をやりたくない。」等と反発し、一人一人立ち上がって「業務命令によっては授業を行わない。」と発言した。そして、同月一三日から同月一七日までの間、別紙担当授業目録中原告氏名欄記載の原告らは、同目録職名欄の職にあり、大宮第二高校生徒の教育をつかさどる職務上の義務を負い、具体的には同目録授業の義務欄記載の義務を負い、かつ、同目録校長の命令欄記載の日時に具体的に右義務を履行するよう浜田校長から命令を受けたにもかかわらず正当な理由なく右授業の実施を放棄した。

(二) さらに、原告吉野、同井上、同樋口、同原、同小野本、同出口、同井野、同中山、同竹下の九名は、一月一四日右のごとく自らの授業を放棄(原告出口を除く。)したばかりでなく、四校時に普通科三年C級の教室に侵入したうえ、社会の授業を行っていた壺井教頭に対して、生徒の面前で「授業をやめろ、我々と話し合え、二階に上がってこい。」と迫り、授業を受けていた生徒に対しては、「君たちはエゴイストだ、授業など受けることはない。すぐに生徒集会の場へ行け。」等暴言をはき、執拗に授業の妨害を行い、右授業を中止せしめ、右壺井教頭の職務の執行を妨害した。

6  無断出張行為(別表Ⅰ5記載の事実について)

一月一三日に原告斉藤、同出口、同小野本、同吉野は、大宮第二高校における原告らの行動等を延岡第二高校の教職員に報告するとともに、今後原告らへの支援をもとめることを目的として、延岡第二高校に同年一月一四日午前一〇時から午後六時三〇分までの予定で出張したい旨の出張伺を壺井教頭を通じて浜田校長に提出した。これに対し、浜田校長は、一時間でも多く授業を行いたい時期であるうえに、生徒が授業拒否を行おうとしている状況下にあり、生徒指導が重要な時期であることやこの時期に延岡第二高校に出張しなければならない理由も不明であることなどから、承認できない旨を壺井教頭を通じて原告らに通知した。しかるに、一月一四日、右原告らは浜田校長の右不承認を無視して延岡第二高校に赴き、同日午後一時ころから約四時間にわたりその職務を放棄した。

7  校長室不法占拠行為(別表Ⅰ7記載の事実について)

昭和四五年一月一六日暮礼時、浜田校長は原告らを含む各職員に対して授業実施命令書を手渡し、授業を行うよう業務命令を発したが、これに反発した原告らの一部が暮礼後校長室に押しかけ、「授業へ行きなさい。」と命ずる同校長に対し、暴言、罵声を浴びせてつるし上げたうえ、原告樋口が「校長が我々の言うことを聞かなければ我々もこれからハンストに入る。」と宣言し、原告原、同井上、同樋口、同成合、同竹下ら五名は、同校長の制止を押し切ってその場に座りこんでハンストと称する校長室占拠を始めた。原告竹下、同成合は、同日午後一一時ころ、体育館の柔道用畳五、六枚と右原告ら五名分の布団を校長室に持ち込みハンストを続行し、同校長の退去要求にも応じなかった。

翌一七日暮礼後校長室に帰った浜田校長が、ハンスト中の右原告ら五名に「出ていって授業をしてもらいたい。」と職務命令を発したのに対し、右原告ら五名は、「お前は人間ではない。」「校長が我々の言うことを聞かないからこういうことになるんだ。」と強く反発し、同校長の職務命令を無視し、これに応じなかった。この後、右原告ら五名と一部の原告らは、右校長室で校長交渉と称して同校長に対して知事、県教育委員会への陳情取付けを行うよう強要し、さらに、同日午後一〇時五〇分以降、同校長に対し、抗議と称して、原告原、同樋口、同井上らは、口々に「校長はやめてしまえ。」「校長お前は土下座して謝れ。」などと暴言、罵声を浴びせ、また、事務机に座っていた同校長を椅子のまま後から押して柔道用具のところに身体ごと持っていき、「ここに座れ。早うせんか。ばか。」と暴言をはき、暴行を加えながら校長を前へ突き出し畳のところへ座りこませ、原告原は、前日原告らに同校長が発した授業実施命令一〇数枚を「こんなものは返してやるから受け取れ。」などと語気荒く申し向けて同校長の着用していた上着のポケットへ押し込もうとして同校長に暴行を加えた。

さらに同一八日、午前〇時三〇分ころ、浜田校長が椅子を元に戻して机のところに再び座っていると、原告井上が、職員会議の決定に従わないというようなことで非常に激昂して同校長に対し「校長」と大声で言いながら校長の机の横にあった応接椅子のところから同校長の前まではだしのまま突っ走って来て、畳のへりのそばにあった靴を振り上げて、「ああ、ハゲラシイ。」と叫びながら同校長の前の机を右靴でたたく等の暴行を加えた。同日午前三時ころ、長椅子のところにいた原告原は、同校長に対して、「ハンストをやっていても、最後には校長と刺しちがえるだけの余力は残しておくぞ。校長は出刃包丁がよいか、刺身包丁がよいか。」と申し向けて同校長を脅迫した。

原告原の右発言の後、分会長である原告出口が、ここで相談するため休息を取るから、校長、壺井教頭は外に出てもらいたいと言ったため、浜田校長及び壺井教頭は校長室を出て職員室の方に行っていたが、しばらくして入ってくれということで再び校長室に入ったところ、原告出口が「今日はこれで終わります。帰ってください。」と言ってその場に残っていた原告らが囲みをといたため、同一八日午前三時ころ、ようやく同校長と教頭は解放された。

8  卒業式妨害行為(別表Ⅰ4記載の事実について)

(一) 大宮第二高校の昭和四四年度卒業式は、三月一日挙行されることになっていたが、各ホームルーム担任の原告斉藤、同原、同池田、同中山、同竹下、同成合、同甲斐、同井上、同吉野ら九名は、在校生、卒業生及び原告らの手によるいわゆる「自主卒業式」を挙行するよう主張して浜田校長の従来通りの卒業式を挙行する旨の指示命令に従おうとしなかった。そのため浜田校長は、卒業式を予定通り行うため二月二八日付けで「卒業式について」と題する協力要請を要旨とする同校長作成の文書を各生徒に配布して各生徒及び各職員の理解と協力のもとに正常な卒業式を実施すべく同日暮礼時に、各ホームルーム(学級)の生徒に配布してその趣旨を十分理解させ、指導するよう指示命令したが、右原告らは右命令を拒否しその協議を放棄した。

卒業式当日である三月一日には、浜田校長が右原告らに対して、正式の式次第に従った卒業式が挙行できるよう生徒への指導説得を行うよう再三再四指示命令したが、右原告らは同校長の指示命令を全く無視し、かえって卒業証書を授与することのない、卒業生と原告らとが握手するといういわゆる「自主卒業式」を行った。

(二) その具体的な経過は次のとおりである。

二月一四日、生活指導部の原告吉野から卒業式の取り組みについて生徒と職員との合同企画委員会を設けよとの提案がなされ、これに対し、浜田校長は、企画委員会という言葉の意味にもこだわりを感じたが、最終的には職員会議にはかって決定するということであったので、生徒の意見を聞くとともに卒業式について学校側の考え方を生徒に伝えて理解を得るための機関として卒業式企画委員会の設置を承認した。

二月一八日、職員会議において卒業式企画委員会の構成員は、各校務分掌から一名、生徒係長(原告斉藤)、教頭、生徒各クラス一名となった。同日、第一回の卒業式企画委員会が開かれたが、その際、生活指導部生徒係長の原告斉藤は、出席している生徒に対し、「職員会議は最高議決機関であるのだから、また、卒業式は生徒たちのものだから、自分らの考えている式次第を述べて欲しい。」と話した。

二月一九日、原告斉藤から、本日三限に企画委員会を開催する旨の発言があったのに対し、浜田校長は、職員に対して「職員会議をもったうえで企画委員会を開いてほしかったが、自分の意見としては従来とおりの式次第でやって欲しい。」と告げた。

二月二〇日、第三回目の卒業式企画委員会が開かれたが、校長による卒業証書の授与、君が代の斉唱、県教育委員会の告辞をめぐって、これを式次第から削除すべきであるとする原告らと、入れるべきであるとする教頭との間で主張が対立した。

二月二一日、暮礼時、原告斉藤、同成合から企画委員会作成の卒業式の式次第の案を下部討議にかけるので、四限の短縮授業を行いたいとの提案がなされたのに対し、浜田校長は、「卒業式の件はロングホームルームで討議する前に職員会議で討議してもらいたかったが、時間的に不可能であるので、卒業式は従来通りにやってもらいたい。生徒にもその旨指導願いたい。」と職員に指示した。

二月二五日、暮礼時、浜田校長が卒業式の送辞、答辞を事前に見せるように生徒を指導してほしいと要請したのに対し、原告斉藤、同吉野は「拒否する。」と発言した。

二月二六日、職員会議において、浜田校長が卒業式についての審議を指示したところ、原告吉野、同斉藤、同井上、同出口、同樋口らは「自分たちが決めたことに反して校長に従うことはできない。」と反発し、右審議をしようとせず、職員会議の性格論に終始して結局審議に入れなかった。

二月二七日、職員会議において、生徒係の原告斉藤は、卒業式の式次第についての卒業式企画委員会案を提示し、これに対し、壺井教頭が「卒業式の式次第に君が代、県教育委員会告辞、校長の別れの言葉、来賓祝辞などを入れ、卒業証書は校長より授与すべきである。」として修正案を出したが、この修正案は原告ら多数が反対し、否決された。そこで校長は、「今まで申し上げているから改めて申し上げるまでもないと思いますが、卒業式は私の申し上げた方式でやっていただきたいと思います。」と職員に指示した。

暮礼時、浜田校長は、「卒業式に関しては従来の卒業式の方式とおりにやりたいので、そのように御指導をお願いします。」と言ったうえで、職員に予め配布しておいた卒業式の式次第の内容を読み上げたところ、原告らは「校長が一人でやれ。」「君が代を歌いたくないのに業務命令で口を開けさせるのか。」「職員会議が教育の基盤である。我々は自分でやっていく。その際に混乱が起きても、一切は校長の責任である。」などと強く反発し、校長の指示に従おうとしなかった。

二月二八日、暮礼時、浜田校長は職員に対し、「明日の卒業式は昨日の暮礼で申し上げた式次第でやって頂きたい。業務命令といたしますが、生徒へ徹底させるためのプリントも用意して教頭の机の上にありますので、ホーム担任はそれをすぐに配布して下さい。」と指示したが、原告吉野は「自分は配る意思はない。業務命令として成立するとも思っていない。」と反発し、各ホームルーム担当のうち非組合員を除く原告中山、同甲斐、同成合、同原、同吉野、同竹下、同斉藤、同池田、同井上ら九名は、右命令を拒否して右プリントを配布せず、その職務を放棄した。

三月一日、午前六時原告成合から浜田校長に対し卒業式に関する校長の命令に従う旨の電話連絡があった。

朝礼において、浜田校長は、校長の指示した式次第でやっていただきたいこと、生徒を説得していただきたいことを重ねて命じたところ、原告井上、同原らは「我々は校長の権力によって押しつけられたんだ。」「混乱が起こっても、あげて校長の責任である。」と激しく反発した。

午前一〇時一〇分ころ浜田校長が来賓とともに卒業式場に入ったところ、生徒会長が壇上でマイクを持って生徒に対し、企画委員会で決めた卒業式をやるべきだ、と激しく呼びかけていたので、校長は「マイクをよこしなさい。すぐ自分の席に返りなさい。」と繰り返し言ったが従わないため、職員に「卒業式が行えるように先生方は行って生徒を鎮めなさい。」と指示した。しかし職員はこれを無視してその場を動こうとせず、一方壁に貼ってあった式次第が生徒によってはがされ、教頭が貼ると、またはがされるといった状態でそのまま時間が大分経過したため、やむなく校長は一〇時二五分ころ卒業式を中止する旨宣言した。この後一二時五分から一二時四〇分の間、原告らは校長不在のまま、自主卒業式と称する別れの会を行うことを決定し、実施した。

なお、浜田校長は、同年三月五日、卒業生全員(一二八名)に校長の「別れのことば」と県教育委員会の「告辞」を同封の上卒業証書を郵便で送り届けた。

9  生徒指導拒否行為(別表Ⅰ9記載の事実について)

(生徒会活動等に対する指導懈怠)

(一) 生徒会活動は教育過程上特別教育活動に位置付けられ、生徒会組織は学校長のもとに組織される。従って、その活動は、当然に学校の教育活動の一環として、校長の定める教育計画等に従って、教師の適切な指導のもとに行われなければならないものである。また、生徒総会は、生徒会の議決機関に該当するが、これを行う場合も特別教育活動の一環であるから、当然に学校長の承認のもとに行われるもので、その開催回数も通常年に一回ないし二回であり、大宮第二高校においても昭和四四年度の行事計画の上では、四月に一回だけ開く計画であった。

しかしながら、昭和四四年度においては、いわゆる独立問題の起こった六月末から翌年二月末までの間に少なくとも五〇回以上生徒総会が開かれた(生徒集会、ロングホームルーム、統一ロングホームルーム等を加えれば更に数は多くなる。なお、右同期間における授業予定日は一二〇日余りであった。)。しかも、その生徒総会のほとんどが、校長の承認(許可)を受けないまま原告小野本が部長をつとめる生活指導部において年度当初に校長が定めた教育計画を無視して無断で(開催許可を原告小野本らが与えて)開いたものであり、必ず原告小野本を中心とする生徒会指導担当の原告らの一部が立ち会い、指導の上開いているのである。また、これらの生徒総会(いわば生徒集会)における審議内容たるや、「独立問題について」、「独立問題の反省と総括」、「夏季休業中の独立問題への取組み」、「浜田校長の受け入れについて」、「署名運動について」、「デモ行進について」、「校名問題について」、「ストライキについて」、「登校拒否について」、「授業拒否について」等およそ特別教育活動としての生徒総会等で話し合う内容としては全く不適切な内容のものであった。さらに、校長の承認を得ないまま生徒会の下部組織としての学園民主化委員会が設けられ、この学園民主化委員会や他の生徒会役員を中心とする生徒と原告らによる街頭デモ行進、署名運動、ビラ配布、街頭演説が七月二〇日を第一回として、夏季休業中は毎週一回の割合で、二学期以降もたびたび行われ(昭和四五年二月一日まで)、浜田校長との再三にわたる交渉や県教育委員会への要求書提出、果ては県教育委員会宅や知事公舎への陳情行動、要求貫徹のための授業拒否が行われたほか、これらの行動に伴ってビラや文書が生徒会によって作成され、生徒や一般市民に配布された。

これらのことは、まさに生徒会としての正常な活動を逸脱したものであり、教育的にみても不適切であることは明らかであり、生活指導部長たる原告小野本は、正常な生徒会運営がなされるように生徒を指導し、校長に協力して無用の紛争を防止し、あるいは早期に解決して正常な教育活動が行えるよう努めるべき立場にあったにもかかわらず、これを怠ったばかりでなく、右の如き生徒会活動を積極的に指導し、もって学校の正常な運営を阻害したものである。

(二) また、ホームルーム活動(ロングホームルーム、統一ロングホームルーム)についても、その討議内容たるや、「浜田校長の受け入れについて」、「署名運動について」、「校名問題について」、「ストライキ提案」、「登校拒否問題」等右生徒総会と同様およそホームルーム活動の中で話し合う内容として全くふさわしくない内容のものであり、さらに、新聞局活動についても、「権力の副産物である浜田校長は認めないとし、県教育委員会、県教育長を誹謗する記事」(昭和四四年七月二二日付)、「校長正式着任に関し校長を愚弄する趣旨の記事」(昭和四四年一〇月二三日付け)、「「闘う学友諸君へ・君は今闘っているか」と題する教育行政、教育政策との闘いを生徒に呼びかける記事」、「一一月九日のデモ行進実施に関する記事」等生徒会活動としても、教育的にも全くふさわしくない内容のものであり(また、その他のクラブ活動、清掃、風美、放送局等の活動も本件紛争に伴ってたびたび授業が生徒総会に切り替えられ、対校長交渉が深夜に至るまで行われるといった状態の中で、正常に行われなかったことも明らかである。)、原告小野本は、本来生活指導部長として、教育目的に沿った運営をするに当たって生徒を適切に指導すべき職責があったにもかかわらず、これを怠ったばかりでなく、右の如きホームルーム、新聞局活動を積極的に指導したものである。

(浜田校長の指示命令に従わなかった事実)

(三) 七月一〇日、原告小野本を含む原告ら一部と生徒約五〇名が突如校長室に押しかけ、生徒が浜田校長に対して「お前はどこのオッサンかわからん。」「バカヤロー」「どこの馬の骨かわからん。」「前校長か委員会を連れてきて紹介させろ。」等暴言をふるって校長をつるし上げ、それに対して原告小野本はもとよりのこと、原告ら職員は誰一人としてこれを指導、注意しないという状況に驚いた同校長が、生徒が引き揚げていくときに生徒指導について注意を喚起するため、生活指導部長である原告小野本に「小野本先生残って下さい。」「職員はこの場に残って下さい。」と要請した。しかし、原告小野本らは、同校長の右要請に応じようとせず、無視してそのまま校長室を退室した。

(四) 九月四日、浜田校長は、生活指導部長である原告小野本に同月七日に予定されている生徒の街頭デモと市民集会は、生徒会活動の領域を逸脱するものであるから中止するよう指導の徹底をされたい旨事務職員を介して文書をもって指示したが、原告小野本はこの指示に従わないばかりか、生徒を街頭デモに出るよう逆に指導した。九月七日、原告らと生徒による街頭デモ行進及び市民集会が実施された。

九月一三日、浜田校長は、生活指導部長である原告小野本らに対し、正常な教科授業が行えるよう生徒を指導されたい旨事務職員を介して文書をもって指示したが、同原告らはこれに従おうとしなかった。

(五) 一〇月三一日暮礼時、生活指導部長である原告小野本は「日曜日にデモを行う。そのために本日生徒総会を開きたい。」と提案し、浜田校長がこれに対して、「デモは認められない。そのための生徒総会は必要ない。」と指示したにもかかわらず、原告小野本は、これを無視し、同日三、四限目に生徒総会を開かせた。

(六) 一一月五日、職員会議において、「文化祭の一環として街頭デモを行う」ことについて浜田校長と原告らの間で意見が対立し、同校長は、原告らに対し「文化祭の中でデモを行うのは勤務時間中であるので好ましくない。」と指示したが、これに対し、原告らから明日再度デモの件で職員会議を開催するよう要望があった。ところが、一一月七日に開かれた職員会議において、原告らは校長の反対を押し切って、「デモ行進参加について」採択したため、同校長は、「勤務時間中のデモ参加は認めない。」と職員に対し指示したが、原告小野本らはこの指示に従おうとしなかった。

一一月八日暮礼時、浜田校長は、生徒が文化祭行事(学校行事)の一環として一一月九日実施を予定しているデモ行進は中止するよう生徒に指導するように再度原告小野本ら職員に指示したが、このデモ行進の中止指導に対して、原告小野本らは、約四〇分間にわたり校長に対し反発抗議し、さらに、原告小野本を含む原告らの一部は、生徒一四名とともに校長室に押しかけ深夜に至るまで同校長に抗議し同校長をつるし上げた。その際、生徒の一人が「校長が首をくくって死んでいるのが見える。」というようなことを同校長に言ったため、同校長が失敬なことを言うなとその生徒をたしなめたところ、その生徒が同校長のネクタイをつかんでつるし上げるようなことをしたため、同校長が叱るといったことがあった時に、それをそばで見ていた原告小野本は「校長の挑発に乗るな。」「校長が言っていることは生徒が校長の首を締め上げるよりもっとひどいことを言っているんだ。」と発言し、生徒の校長に対する暴言や暴力行為に対して何らの指導をしないばかりか、逆に生徒の行動をあおるばかりであった。原告らは、結局、翌一一月九日、生徒を引きつれて(一三時一五分から一四時三〇分ころまでの間)街頭デモを行った。(職員・生徒一五〇名参加)

(七) 一一月二八日、浜田校長は、職員室において教頭とともに深夜に至るまで原告小野本を含む原告らの一部及び生徒約五〇名から「県教育委員会への署名簿を提出せよ。」と強要された。その際、その場にいた生徒の一人が同校長の足を蹴ったり、座っている椅子を蹴り、同校長の襟首をつかまえるといったことをした際に、それに対して同校長がたしなめるといったときに、原告小野本は、やはり校長の挑発に乗るなという指導を行い、生徒の行き過ぎた行動を制止するでもなく、注意するでもなく、同校長を非難する態度を取りつづけて生徒の乱暴を慫慂した。

(八) 一二月一七日及び一八日の暮礼時、浜田校長は、生徒総会における生徒の登校拒否提案が誤っているので指導するよう職員(特に生活指導部長である原告小野本)に指示したが、原告小野本らはこれに従わなかった。

(九) 一月一二日、職員会議において、浜田校長は、職員に対し正規の授業が行われるように生徒を指導するように指示したが、原告小野本、同吉野、同樋口らは、校長の指示に反発し、校長に暴言を浴びせた。また、原告原(当日の職員会議議長)による職員会議打ち切りの採決に対して、同校長は業務命令と明言して会議継続を命じたが、原告小野本は、「お前は偉いのだな、馬鹿か。」と同校長に暴言をはき、原告らは校長の命令に従わず、そのまま職員室から退室した。その後、原告らは一部生徒とともに校長室に押しかけ、同校長に対して「職員会議が学校における最高議決機関であることを認めよ。」「知事交渉に行け。」と強要した。一月一三日、原告小野本は、浜田校長の授業実施命令に従わず、自らの授業を放棄した上、各教室を巡回し、教室に残留している生徒に対して生徒集会に参加するよう勧めて回って生活指導部長の職責に反する行為を行った。

(一〇) 一月一四日、原告小野本を含む原告らの一部は、自らの授業を放棄したばかりでなく、四校時に普通科三年C級の教室に入り込み、授業中の壺井教頭に対して「授業をやめろ、われわれと話し合え、二階に上がって来い。」などと暴言を浴びせ、さらに、授業を受けていた生徒に対して「君たちはエゴイストだ。」「授業など受けることはない。すぐに生徒集会の場所へ行け。」などと暴言をはき、また、他の教室でも暴言、罵声を浴びせて原告小野本は、生活指導部長としての職責に反する行為を行った。

10  以上の各処分事由を各原告ごとに整理し、その根拠法規を示すと別表Ⅱのとおりとなる。

四  被告の主張に対する認否

1(一)  被告の主張1(一)の事実は認める。

(二)  同(二)(2)の事実は認める。但し、この時点では生徒らも教職員も独立の意義や問題点をつかむことはできなかったのである。

(三)  同(三)(1)、(2)、(4)の事実は認める。(3)の事実のうち、リーダー研修会において独立問題が取り上げられ、福井校長が説明を行ったこと、生徒会において独立に関する諸問題を研究するため独立運営委員会(後に学園民主化委員会と改称)が設置されたことは認め、その余は否認する。(5)の事実のうち、校長が職務命令を発して職員会議を開き、教職員の納得を得たうえで生徒総会に臨もうとする態度を示したことは認める。(6)の事実のうち、校長と原告らとの間で職員会議の性格論をめぐって激論となったことは否認し、その余は認める。(7)の事実のうち、六月一〇日の生徒総会で福井校長が独立問題について説明をおこなったこと、その際原告らが生徒とともに校長に質問したことは認め、その余は否認する。

(四)  同(四)(2)の事実のうち、六月二五日の職員会議の最中に生徒が入室してきたので、福井校長は生徒の退室を求めたが、生徒が応じないのを見て、職員会議を打ち切り、退室したことは認める。(4)の事実のうち、福井校長が、六月二七日の職員会議の際、生徒が傍聴のため入室したのを見て、退席したことは認める。

(五)  同(五)1の事実のうち、生徒総会において全学ストが決議され、福井校長が県教育委員会に赴いて、その来校と直接説明を要求したこと、六月二八日、福井校長が原告らの強い要請を受けて、再度県教育委員会の来校を求めたが、県教育委員会はその事務局で生徒会代表と校長に説明するとの態度をとったこと、同日、穂積教育次長らが来校して、生徒らに独立について説明を行ない、その後再度の来校説明をなすことを約束したことは認め、その余は否認する。

(六)  同(六)(1)の事実のうち、福井校長と重信教頭が県教育委員会に辞職願を提出し、出校しなくなったことは認め、その余は否認する。(2)の事実のうち、坂口鉄夫らが来校して生徒らに独立の経緯について説明し、騒然としたなかで翌朝午前七時三〇分ころまで在校したことは認め、その余は否認する。(3)の事実は認める。坂口は、大宮第二高校の将来のビジョンについては「県議会の承認が必要であり、我々が検討している段階で発表することはできない。私たちには言える面と言えない面がある。」と答えるなど、有能な役人の紋切り型の答弁に終始したのであり、生徒らの要求に答えるものではなかった。

(七)  同(七)の主張は争う。

2(一)  同2(一)の事実のうち、原告らが職員会議の決定として浜田校長、壺井教頭の着任を認めないと主張したこと、校長、教頭が職員会議の開催等のため職員室に入室しようとするのを阻止したこと、一〇月九日までの間、原告らは、浜田校長、壺井教頭を除外した別表Ⅲ記載の職員集会を開催し、同別表中生徒総会等の実施状況の欄記載のとおり連日独立問題について生徒総会、ロングホームルームを開かせ、一学期末テスト、一学期終業式、二学期始業式を実施しなかったこと、生徒会活動として一部生徒とともに街頭デモ行進、街頭演説、署名運動、ビラ配布、市民集会の開催、県教育委員会への要求書提出等を行ったことは認め、その余は否認する。

原告らのうち何名かは、年休等をとって職員集会に欠席しており、被告の主張は原告らの個別的事情を無視している。

(二)  同2(二)の事実のうち、七月三日、浜田校長からの着任挨拶の申し入れに対し、原告らが、校長の紹介は、正式文書による事務引き継ぎを済ませ、福井校長が連れてきてなされるべきこと、県教育委員会に混乱の責任を明確にさせることを決め、その旨同校長に申し入れたこと、七月七日浜田校長が県教育委員会において福井校長との間で事務引き継ぎをおこなったこと、県教育委員会が壺井秀生を七月一五日付で大宮第二高校の教頭に発令したことは認め、その余は否認する。なお、浜田校長は七月三日の原告らの要求を受け入れて努力する旨約したものである。

3(一)  同3(一)の事実のうち、浜田校長が、八月二九日午後二時及び九月一日午後二時に職員会議を開催する旨の通知を原告らに対しなしたこと、原告らが右職員会議に出席しなかったことは認め、その余は否認する。

(二)  同(二)の事実は争う。浜田校長は、一二月一〇日の職員会議の開催を決定するに至らなかったものである。

4(一)  同4(一)の事実は争う。

(二)  同(二)の事実のうち、原告小野本、同原、同樋口、同井野、同成合が公文書等につき何らの処理もせず、その職務を放棄したことは争い、その余は認める。

(三)  同(三)の事実のうち右原告らが被告主張の運営委員会に出席しなかったことは認め、その余は争う。

(四)  同(四)の事実のうち、原告成合がテストの時間割りを発表しなかったことは認め、その余は否認する。

(五)  同(五)の事実のうち生徒会総務委員会が登校拒否の提案をしたことは認め、その余の事実及び(六)の事実は否認する。

5  同5(一)の事実のうち、一月一二日生徒総会で授業拒否が可決されたこと、被告主張の原告らが、別紙担当授業目録記載のとおり一月一三日から同一七日まで授業を実施しなかったことは認め、その余は争う。同(二)の事実は争う。

6  同6の事実のうち、被告主張の原告らが、延岡第二高校に出張したことは認め、その余は争う。

7  同7の事実のうち、被告主張の原告らが、一月一六日午後六時から同月一八日午前一二時ころまで校長室においてハンストを行ったことは認め、その余は否認する。

8(一)  同8(一)の事実のうち、三月一日卒業式が予定されていたこと、二月二八日校長が被告主張の文書を配布し、指示をしたことは認め、その余は否認する。

(二)  同(二)の事実のうち、二月一四日の職員会議で企画委員会が設置されたこと、二月一八日の職員会議で右委員会の構成が決められたこと、二月二七日の職員会議で卒業式の式次第に関する修正案が壺井教頭から出されたこと、浜田校長が、二月二八日、原告らに対し、同校長の決めた式次第のとおり卒業式を実施するようにとの職務命令を発し、式次第を印刷したプリントを配布するように求めたが、原告らは、プリントを配布しなかったこと、三月一日午前六時ころ、原告成合が、浜田校長に対し卒業式に関する同校長の職務命令に従う旨の連絡をしたこと、卒業式の会場で生徒会長が卒業生にマイクで呼びかけていたこと、浜田校長が卒業式を中止し、会場から退出したこと、その後、原告らが、校長不在のまま、卒業式を行ったことは認め、その余は否認する。

9  同9(一)ないし(一〇)の事実のうち、原告小野本が生活指導部長であったこと、同(四)ないし(六)の事実のうち、九月七日、原告らと生徒による街頭デモ行進及び市民集会が実施され、同月一九日にも原告らと生徒による街頭デモ行進が実施されたことは認め、(一)ないし(一〇)のその余の事実は争う。

10  同10の主張は争う。

五  原告の主張

1  本件紛争―浜田校長着任まで―の被告の責任

四月以降の学校紛争は、大宮高校を卒業したいとの生徒の気持ちを踏みにじり、一方的に分離独立を強行して手続的にも法令違反の全員転校を実施し、加えて独立校舎建設の目処を示さず、独立後の明確なる展望を曖昧にして生徒の不安をかもした県教育委員会の行政姿勢が原因となったことは明らかで、紛争の責任は県教育委員会にある。

(一) 独立問題についての生徒の動向とこれに対する校長・被告教育委員会の対応の問題性

(1) 四月九日、四年A級の生徒らが校長に対し、独立の経過と内容について直接説明するよう申し入れがなされたが、福井校長は、県教育委員会在職時に独立問題の事務処理を担当しており、独立の意義やその問題点を熟知していたにもかかわらず、事情を知らない原告小野本をして説明させ責任回避と認められる態度をとった。五月一〇日には生徒代議員会が開かれ、校長の出席が求められたが、福井校長はここでも原告小野本に説明させ、小野本は生徒から「お前じゃだめだ。」と言われるありさまであり、福井校長の責任回避の姿勢が生徒らの不満を助長させていったのである。この間、県教育委員会がただ一度も生徒らに対し独立の経過や展望などについてこれを明らかにすることもなかった。

(2) 五月一七日より三日間にわたり開催されたリーダー研修会において、生徒から独立の経過とその内容に関する疑問が出されたが、これに対し、福井校長は土地値上りの思惑など政治的理由から、敷地の決定や独立校舎建設の具体的な計画を明らかにできないこと、恒久的な校名は通信制の意見をも取入れて努力することになるなど抽象的な答弁をするのみで、大宮第二高校の将来についての明確な展望については何ら答えなかった。福井校長の言葉のなかに、定通併修構想があることを知り、却って不安と疑惑は増大していった。

(3) 六月八日、右研修会の報告会が全校生徒を対象として開催され、その席で同校長は初めて、大宮第二高校の独立には定通併修センター構想がある旨説明し、生徒らの間に不信感が高まった。定通併修構想は、勤労青少年の修学を容易にするという粉飾をこらしながら、学校で学びたいという勤労青少年の教育要求を、企業にとって最も安上りで効率的な方向へそらしてしまうものであるから、真に学習の機会を保障するものではない。定通センターは、定時制・通信制のほかに、定時制、二年後は通信制で補えるコースを併設したものであるが、生徒らは通信制を併設したことによって、企業主は勤労生徒に対し、通学を嫌って通信制を強制することにより残業を容易ならしめて労働条件を低下させ、更に通信制を強要されることにより生徒同士及び教師と生徒の人間的交流の機会を失われることになるとして、教育行政に対する不信感を抱くに至った。

(4) 六月一六日の生徒総会における福井校長の説明も同様に抽象的な回答に終わり、生徒らを失望せしめ、生徒達は直接県教育委員会の責任者を呼んできて説明させるよう校長に強く要求した。同日の職員会議において、生徒会の右要求について話し合われ、福井校長は、県教育委員会の説明は教師に対して行い、教師はその説明を生徒に対して行うという考えを示したのに対し、原告らは、独立の経過について事前に一言も意見を聞かれることもなく、従ってそれらについて知らされていない教職員が、教育行政上の不備から発生した問題に関し行政上の責任を肩代わりさせられるような形では生徒に説明することは困難であるとして右考えに強く反対し、結局、同校長の考えは一八対五の大差で否決された。しかし、福井校長は決定権は校長にあるとして教師多数の意思を無視する態度に及んだ。この頃には生徒は「民主化委員会」を発足させ、校長が前に洩らした定通センター構想の意義及び内容等の学習会を開くなどしており、職員会議のこのような状況を知って、職員会議傍聴を要求したが、福井校長はこれを拒否した。

(5) このような校長の生徒に対する無為無策は、生徒の不信感を助長し、六月二三日に至って一年生の大部分が体育の授業をボイコットするとの事態が発生した。かかる状態の中で、学園民主化委員会は六月二五日の職員会議を傍聴する旨決議し、六月二五日の職員会議傍聴のため一部生徒が職員室に入室したが、校長はこれを奇貨として会議を中止して退場し、生徒の独立の真意を知りたいとの要求に耳を貸そうという態度を全く示さなかった。校長は、六月二七日の職員会議においても生徒が傍聴のため入室しているのを認めるや退場し、議長の出席要請にも「自分は自分の考えでやっていく。」旨述べ、権力的姿勢をむきだしにして、職員会議をボイコットした。このような福井校長の態度に反発した生徒会は、県教育委員会の直接説明を求めるべく、七月一日から一週間全授業放棄を決議した。

(6) かかる事態を前に、原告ら教職員は、県教育委員会の責任者が来校して生徒と職員に対し、独立の経過と内容・将来への展望を説明し、質問に答えてもらう以外に収拾の道はないから校長はそのための努力をすべきであることを要求し、遂に福井校長は六月二八日早朝県教育委員会の来校を求めるに至った。原告ら教職員も県教育委員会の来校を求めるべく、直接穂積教育次長と面会し、来校を要請したが、同次長はかたくなに学校に行って説明する意思のない旨及び生徒のストに対しては、ストの起こらないよう指導してくれとのみ繰り返し、教育行政の不手際の責任を教職員に転嫁するかのような姿勢に終始した。

(7) その後、六月二八日、三〇日に県教育委員会が来校して生徒に対し、直接説明を行ったが、いずれも生徒達の知りたい事項、即ち、一方的な独立によって転校扱いとされた手続上の問題、大宮第二高校の独立校舎がいつ、何処に建設されるのか、定通併修構想が学校で学びたい要求に答えられるのか等の点について明確に応えず、抽象的・紋切型の答弁に終始したため、生徒達は納得しなかった。

(8) 七月一日、中小路高教組委員長、教師一六名、生徒代表一五名は、県教育委員会において教育長、教育次長らと交渉したが、県教育委員会側は大宮第二高校独立の時点で生徒に対し、事前の根回しが足りなかった事実を初めて認めるに至ったのである。

(二) 独立転校の問題性

国公立学校生徒の在学関係は契約関係であり、契約関係に違反するが如き一方的な強制転校は許されないというべきである。

また、学校教育法施行規則第六一条一項は転校につき「他の高等学校に転学を志望する生徒のあるときは、校長は、その事由を具し、生徒の在学証明その他必要な書類を転学先の校長に送付しなければならない。転学先の校長は、欠員のある場合には、転学を許可することができる。」と定めているところからも明らかなとおり、高校生の転校は、生徒の志望が必須条件とされており、そして学校間に一定の手続きと教育保障への配慮を介在させて初めて成立するものである。高校生の転校についてその要件や手続きが法定されたのは、高校は義務教育学校と異なり、生徒の学校選択の自由を前提とする教育制度であるから、少なくとも生徒の「志望」という条件、加えて学校レベルにおいて、一定の教育上の判断を含む手続が制度として共通に確認される必要があるからである。大宮高校夜間部に入学を許可され、これを承諾して入学した生徒が、一片の了解をとる相談を受ける機会も与えられずに、大宮第二高校へ転校せしめられたことへの不満を抱いたのは蓋し当然の成り行きであった。県教育委員会がとった一方的独立と転校強制は、手続的にも学校教育法四九条、同法施行規則六一条に違反する違法の教育措置であり、生徒の学習権を無視した不当のものである。

(三) 新任校長任命の問題性

県教育委員会は、七月一日大宮第二高校の学校運営の責任者が不在となった事態の処理方法について、福井校長、重信教頭を学校に出すよう努力する、校長不在の責任は臨時の管理職を選ぶということも含めて研究する旨を教師や生徒代表に伝えた。しかるに、県教育委員会は、福井校長を呼び戻したり、臨時の管理職をもって代行させるなどの努力をせず、同日夜抜き打ち的に宮崎工業高校教頭浜田宣弘を後任校長に発令してしまった。福井校長は雲隠れ後、県教育委員会の連絡で一週間後には帰ってきて、浜田校長との間で事務引き継ぎを行っている程であるから、県教育委員会のとった校長更迭は著しく信義に悖る背信的な処置というべきである。県教育委員会は独立にあたって事前の根回しが足りなかったことを認めながら、強硬派の浜田校長を送り込み、強権的に生徒、教師の動きを押さえつけようとしたもので、そこには生徒の教育権に対する配慮はなく、教育の不在そのものであり、場当たり的発想に基づく校長任命であった。

2  浜田校長の学校運営と被告の独立問題に対する対応の問題性

校長、教頭が学校運営を放棄し、行方不明となる前代未聞の事態は、学校運営を混乱させ生徒の不安を一層助長させた。このような状況の下で、学校運営の正常化を実現するためには、校長や教育行政当局が生徒の要求や不安を正しくとらえ、これに対する適切な措置をとることであったが、教育行政当局は、生徒の正しい要求を抑圧し、強権的な態度で事態収拾を行おうとした。そのため、混乱はますます拡大の一途をたどった。そうした混乱の状況のもとで、原告らは生徒の要求を的確につかみ、その正常化に向けて努力した。こうした原告らの努力をまともに応える態度を当局がとっていたならば、早い時期に混乱は収拾していた筈である。この紛争が長期化し、昭和四五年三月まで長引き、それでも本質的解決を得なかった責任はあげて校長を含む教育行政当局にある。

(一) 浜田校長の赴任まで

(1) 原告ら職員の側(教頭、校長を除く)では七月一四日、事態打開のために県教育委員会に対し、次のような解決すべき問題点を整理し、これを提出した。

① 校長、教頭の職務放棄の責任並びにこれに伴う教育行政の責任の明確化

② 独立が定通センター布石でないことの確約

③ 県単独事業として設備の充実を確保して欲しい。

そして、生徒会からもほぼ同様の要求が出された。

これに対する七月一七日の県教育委員会の来校説明は、極めて不十分かつ官僚的絞切型で、生徒達の反発を増すものであった。

(2) 七月二二日に予定されていた修了式はできる状態ではなかった。生徒会は夏休みの間も登校し、引き続いて問題解決を迫る態度を示し、教職員も前記三つの要求について県教育委員会が納得のいく回答を示すことが、正常化するために不可欠であるとの認識のもとでそのために努力することを相互に確認した。こうして、夏休みの間、県教育委員会や県当局に対する要求や各種の活動が行われた。この間、生徒や教職員の側からは、大宮第二高校において新旧両校長が校長事務引き継ぎを行うのが無理なら、県教育委員会立ち会いのもとで新校長就任の経過を説明してもらうということにしてはどうかという意見が出され、その要求を校長や県教育委員会に対して行っていった。

(3) 八月五日、原告らは前記要求に対する回答を再度県教育委員会に求めたが、県教育委員会は電話で七月一七日の回答を繰り返したのみであり、また、新校長就任の経過説明要求についてはこれを拒否した。一方浜田校長は生徒や教職員の意向を把握し、これを県教育委員会や行政当局に反映させる努力をしようとしなかった。その後も、県教育委員会は、新校長を紹介するという最小限の要求についてなかなか応じる態度は見せなかったが、原告らは校長と話し合い、校長紹介のルートを定めて県教育委員会に要求し、その結果、一〇月九日に至り、ようやく校長の紹介(職員の面前における正式な紹介・着任)が実現した。

(4) 一〇月九日行われた校長就任式においては、生徒総会での校長着任に関する県教育委員会(児玉、服部課長)の説明と遺憾の意の表明等が行われ、これによって校長着任問題は一応の決着をみた。校長と教頭がそろつて蒸発し、教育現場を放棄するという異常事態の収拾として、いわゆる蒸発の経過を知っている県教育委員会が新校長の紹介と校長・教頭の教育現場放棄過程を生徒や現場を預かる教職員に説明することは、学校という教育の場での教育的解決として当然のことであり、不可欠な手続というべきである。そうした手続きなしに一方的に浜田校長の着任を強行し、強圧によって生徒・教職員を押さえ込もうとした結果、不安定な状態を作り出したのであって、この事態について生徒、教職員の前で遺憾の意を表したのは当然のことである。七月初めにこのような措置がとられていれば、解決はずっと早まったことは明らかである。

(二) 昭和四四年一〇月から昭和四五年一月まで

(1) 一〇月九日以降、独立にかかわる生徒の要求は校長を通じてなされるようになった。生徒や教職員は二学期の中間テスト後、日曜日を利用した街頭デモを行い、又大宮第二高校校舎建設に関する陳情書(対県教育委員会)と同請願書(対県議会)を提出するため、署名運動を行った。生徒達は、一一月下旬、生徒会の決議を経たうえ、これらの運動によって集めた陳情書や請願書を校長を通じて提出しようとしたが、校長はそうした生徒会の要求を一蹴し拒否した。このような校長の態度のため、一二月の県議会への提出が間にあわないおそれが生じたことから、生徒会は一一月下旬にストライキ(授業放棄)を構えようと計画するが、原告らの説得によってこれを中止するという事態も発生した。このような背景を受けて、浜田校長はようやく県教育委員会に署名簿を生徒、原告ら教職員と持っていくことに応じた。この署名を携えた陳情に対しても県教育委員会の穂積教育次長は、校舎建設問題や校名変更について従来の紋切型答弁を繰り返した。

(2) 二学期も後半を迎えた生徒達の間には、卒業式をひかえ、せめて校名だけでも永久的なものにしてもらいたいという強い要求が起き、年末から翌年の卒業期までは校名変更問題が生徒の要求の中心をなすようになった。一二月一七日から二〇日にかけて、生徒総会は校長に対し、開会中の県議会に右要求を陳情して欲しい旨訴えたが、校長はこれを拒否したため、生徒会は登校拒否を決定しようとした。結局、原告ら教職員の説得でこれを中止したが、校長は生徒達に直接働きかけるようなことはしなかった。行きづまった生徒達は三学期初め、授業拒否に訴え、また、教職員の側からも校長や県教育委員会の動向に抗議するためハンストなどの行動に出るものもあった。こうして、昭和四五年三月一日の卒業式を迎えるに至ったものである。

(三) 原告らに対する本件各処分は、以上の背景事情のもとで、生徒らは産学協同の意義をもっている大宮第二高校の一方的独立が、教育を受ける権利の侵害であるとの自覚に目覚めて立ち上がり、原告ら教職員がこれを支えて教育を守ろうとする闘いが行われた過程においてなされたものであった。

3  職務命令の違法性ないし不当性

本件処分事実の中には、校長の職務命令違反を処分事由とするものが多い。これらの職務命令には、教育法上の見地から見て、校長の職務権限と教師の職務との関係に照らし、違法若しくは職務命令の限界を超えた不当なものが見受けられる。そこで、以下校長の職務命令について検討を加える。

(一) 校長の職務命令について

校長の職務権限について規定する学校教育法二八条三項は、校長が「学校内管理者」としての性格を有するものとするのであるが、校長は一定の教育専門職としての資格を必要とする職であって、行政組織法的意味における管理職ではない。教師には同条四項により「教育を掌る」という専属的職務権限が法定されており、それは事柄の性質上、教育専門的な独立性、自主性を前提とする。従って、「校務」とは、教師の「教育を掌る」職務権限の独立性、自主性を侵害しない範囲内で、教育活動を中心に、学校で行われる仕事を内容とするものであり、校長の「校務を掌る」職務は、右の如き、学校で行われる仕事を統轄するという意味であると解すべきである。

教師の教育活動やこれに関連する全校的教育事項については、校長は教職の先輩として教育専門的な指導助言権をもっている管理職ではあるが、教師の教育権行使である教育活動の内容に関し、指導助言の範囲を越えた介入は許されない。「所属職員を監督する」権限は、指導助言の範囲にとどまるもので、教師の教育権の範囲内にあるいわゆる教育の内的事項について校長の監督権は及ばないし、校長は行政組織法上の職務上の「上司」たる地位を有するものではない。教師の「教育を掌る」独立的、自主的職務を教育基本法一〇条一項の「教育に対する不当な支配の禁止」の原理に即して条理解釈するとき、校長の「所属職員を監督」する権限は、教師の教育活動をはじめ教育の内的事項については指揮命令権ではなく、教育専門的な指導助言権がその具体的内容であると解されるべきである。従って、教育活動に対する職務命令は教育基本法一〇条一項に違反する違法なものとなろう。

(二) 職員会議参加命令について

学校には校長を含む教職員とその集団が生徒をはじめ父母らに教育責任を自主的、専門的に果たすために、その教育計画活動ないし関連事項を中心として、これを主体的に決定し、運営していくという教育自治が存在し、この教育自治を支えるうえでの不可欠の機関が職員会議であり、教育条理法上に根拠をもつ学校教師集団の教育上の正式組織であるといえる。

「教育を掌る」教師の教育権は、教師集団の一員としてのそれであり、しかもそれは「不当な支配に服することなく国民全体に直接責任を負って行われるべきである」(教育基本法一〇条一項)ところから、教育過程の編成・実施、指導要録の作成、校務分掌、生徒処分などの全校的教育活動、すなわち教育の内的事項に関しては、校長を含む職員会議こそが審議・決定権を有すると解される。校長は、職員会議の主要な構成員であり、かつ教師の先輩としての指導助言者であるから、職員会議で充分に自らの意見を述べ、多数の意向に沿い難いときはその理由を克明にしながら問題提起を続けていくべきであって、その上でなされた職員会議の教育自治的決定については、対外的にそれを体して学校全体として教育責任を果たしていくことが教育条理上求められる。校長の多数の意向を無視した一存的決定は、教師の教育権に対する不当な支配となろうし、学校教育自治的慣習法に反する職員会議の開催や出席命令も許されないというべきである。

(三) 授業実施命令について

「教育を掌る」教師の職務は、校長の職務権限とは別個の自主性、独立性が保障されており、授業という教授学習活動はその典型をなす。そして、それは創造的主体的な専門教育活動である。校長がこれを職務命令によって強制することは、教育の内的事項に干渉するものであって違法である。校長は指導助言で対応すべきである。

4  裁量権の濫用

(一) 事実誤認もしくは事実の歪曲・誇張

原告らに対する本件各処分は以下に述べるとおり、事実誤認に基づいてなされたものである。仮に、表面上何らかの処分事由が認められるとしても、その事実は誤った経過の認識に立って評価されたものであって、懲戒に値するほどのものではない。本件各処分は、懲戒権の濫用があったものとして取消を免れないというべきである。

(1) 校長等排斥行為について

(ア) 浜田校長の新任挨拶拒否の経緯と同校長の背信行為

教職員や生徒は、福井校長らが突然姿をくらまし、どこへ行ったのかも判らず、また県教育委員会から何の連絡もないまま、とにかく、学校運営をどうしたらよいかということで七月一日から同月二日にかけて校長らの行方を探すとともに、生徒らへの対応を協議した。七月二日になって新聞によって浜田校長が任命されたことを知ったが、県教育委員会からは学校の職員に対し、浜田校長を発令した旨の通知はなかった。やむなく、原告らを中心として、七月三日午後職員会議を開き対応を協議した。その協議を行っているときに、浜田校長が突然訪れ新任挨拶したいとの申し出が伝えられた。教職員の側では、①校長の紹介は正式に文書により、前任者の福井校長を出席のうえで行うこと②県教育委員会に混乱の責任を明確にさせること、という意見であったため、皆の納得できるような形で赴任してほしいということで、同日の職員会議での新任挨拶を断った。このような態度を教職員の側がとったのは、第一に校長更迭の経過も不明確であり、また、どんな事務引き継ぎや混乱収拾の方針についての協議、引き継ぎがなされたのか一切明らかにされていないこと、第二に生徒のなかには、校長室にバリケードを築いて新任校長の赴任を阻止する動きが出ていること、第三に通常の場合と異なり、更迭が極めて異常な事態のもとでなされ、しかも福井校長が死亡したり、入院でもしていて、出席できないのなら格別、そうでない事情のもとでは、全員の生徒や職員の前で福井校長と浜田校長がしかるべき離任・新任の挨拶の式を行うことが混乱を収めるための教育的配慮として最善の方法であると判断したからである。教職員のとったこのような措置は、校長を排斥するということではなく、校長更迭の経緯を十分に説明し、納得できる就任をすることが、正常化の前提として不可欠であったからにほかならない。浜田校長もこの要求を受け入れて「努力する。」旨約し、退場したのである。しかるに、浜田校長は七月七日県教育委員会会議室において福井前校長と事務引継ぎの手続をとったのみで、福井前校長を大宮第二高校に来校させて、離任・新任の事務引継ぎを行う手だてを講じようともしなかった。これは、原告らに対する背信行為というほかはなく、この背信的行為が尾を引いて、その後の職員会議への入室拒否が継続されるが、その原因はすべて浜田校長にあり、原告らの行為をもって執務妨害と非難すべき程のものではない。

(イ) この間の学校運営について

原告らを含む教職員は七月以降、生徒の要求である定通併修制の撤回、校舎建設、設備充実など四項目の実現を県教育委員会に要請して種々の活動に取り組んだ。しかし、県教育委員会の態度は、前向きに解決する姿勢のものではなく、既定の事実を押しつける以上のものでしかなかった。そのために、県教育委員会や県行政当局を動かすには、陳情や要請では不十分であるとして、学校運営に差し支えない範囲で、署名運動やチラシ配布、街頭デモ、市民集会などの行動が計画実行された。このような、諸活動は学校運営に支障のない範囲でなされ、いずれも節度を越えないものであった。この間の学校運営は、職員会議において学校教育全般が討議され、それに基づいて的確な学校運営がなされてきた。授業、校務分掌は職員会議にはかりながら各部において関係事項を分担実施し、なお、校長の決裁を必要とするものについては、事務の窓口を通じて行い、授業をはじめとする教育活動は正常になされている。被告はこの間の職員会議を「職員集会」と呼称しているが、当時の異常な状態を考えると校長が入っていないということだけであって、これを原告ら教職員が勝手に「学校管理」をするための集会であると評価するのは偏見である。校長の正式就任の条件整備が整わない間止むなくとられた措置であることを考えると、これはまさに「職員会議」であったのである。こうした経過をみると学校の運営について校長を排斥したというのは正確ではない。校長は校長としての立場で学校運営に関与していたのであり、教職員との間には必要な範囲で校務運営上の連絡は保たれ、必要な範囲の両者による運営はなされていたのである。

なお七月一二、一四、一五、一七日に予定されていた一学期末テストは職員会議でテスト中止を決定した。テストするかどうかは専ら生徒に対する教育評価であるから、教師又は教師集団が決定すべきことであり、中止を決定した職員会議は正当なものである。

(2) 職員会議放棄行為について

八月二九日、九月一日の職員会議に原告らが出席しなかった点については、正当な理由若しくは合理的な理由がある。

右職員会議の議題は「二学期授業の正常化ならびに行事予定について」というものであったが、右議題の内容は原告らが自主的に開催した八月二八日の職員会議において既に討議・検討ずみのものであった。また、原告らの立場では、福井前校長と浜田校長との事務引継ぎが済むまでは浜田を校長として受け入れる筋合いのものではなく、教育の混乱の責任は叙上の如く県教育委員会のとった教育行政の不手際にあったから、同校長の職員会議出席命令に応ずることは到底できなかった。本件学校紛争の全経過に鑑み、原告らが職員会議に出席しなかった理由は決して不合理なものではない。さらに、浜田校長は職員会議を校長の意思決定のための単なる補助機関と位置付けており、教職員の意思を尊重しようとする意向は全く持ち合わせていない強硬論者であった。従って、仮に原告らが校長招集の職員会議に出席したとしても、かえって混乱を招くことは十分予想し得たものである。原告らが既に討議し決定済の議題を持ち出すことによって学校紛争が改善される見込みは、全くなかったのである。しかも、前記議題は、明らかに「教育を掌る」教師らに保障されている教育の内的事項に属するものであり、職務命令を発して処理すべき事項ではない。

なお、原告らはいわゆる「職員集会」において独立問題を討議し、校長の決裁を要する事柄についてはその都度事務職員を通じて決裁を受けていたのであり、そうだとすると、浜田校長は自ら関与しない職員会議の結果を事実上追認していたものと解することもできるのである。

(3) 校務分掌拒否行為について

(ア) 公文書等の受領拒否等

被告主張の文書の受領を拒否したとしても、原告らは分掌業務まで放棄したことはなく、原告小野本は事務職員が持参した文書には全部目を通し、所管事項で教師に伝えるべきことは暮礼時や職員会議の席で伝え、生徒に伝えるべき事項は学級担任を通じて指導するなどの処理をしていた。原告原は、事務職員より連絡を受けると、その都度メモをとり、保健部の仕事自体はきちんと処理していた。

結局、原告らの分掌業務の遂行にはなんら支障がなかったもので、これに関連する学校運営には問題は生じていない。

(イ) 運営委員会への出席拒否

運営委員会は、学校の予算、そのうちでも職員旅費、教材費等について審議する校務分掌上の重要な機関である。大宮第二高校発足後の五月三〇日、六月二四日、と二回にわたり、運営委員会は予算県費内示額、年間の必要経費、運営費の三点で整理する方針を確認し、六月二七日の職員会議で討議されたが、従来どおり県費と私費を一緒に組むかの手続き問題、県費の内容が不明確なためPTA予算が立てられないことなどから、予算は審議未了となっていた。一一月六日の運営委員会において原告成合ら委員は令達されている県費の内容が明確にされたうえでなければPTA予算を組むことができないから、県費予算額を示すよう浜田校長に要求したが、同校長は理由も示さずこれを拒否した。右原告らは、予算編成のための基礎資料としての県費が示されなければ全体の予算編成は不可能であり、職員出張にも支障が生ずるおそれがあるので、一一月一二日午後一〇時ころ、校長に対し「資料が提出されない限り審議に応じられない。」旨通告した。

右の経過で明らかなとおり、原告らは、予算審議のための必要資料の提出がない以上、出席しても無意味と考えて出席しなかったのであり、むしろ浜田校長が原告らの審議権を認めない態度をとったのであるから、出席拒否には正当な理由がある。

浜田校長は、運営委員会も職員会議と同様に、単に校長の諮問機関程度にしか見ておらず、職員多数の意向を尊重しようとの姿勢はもちあわせていない人物であるから、原告成合ら委員の道理に通った要求に応える意思は毛頭存在しなかったものというべく、右原告らの出席拒否を処分理由とするのは不当といわなければならない。

(ウ) 二学期末テストの不実施

教師ないしその集団は、教育の内的事項及び関連事項については、法的自主性が保障されており、校長の指揮監督権限は教育の内的事項には及ばないと解すべきである。教師の教育活動の中心である授業をはじめテストなど教育評価、生徒指導などは、教師の職務上の独立にかかわることであり、校長の職務命令による強制は違法である。特に、テストは生徒の学習の到達度を測り、成績評価をなすにあるが、それは教師の教育権の最も重要な内容をなすもので、教育の内的事項の中核に属し、学習の到達度の測定の方法については校長が干渉すべき事項ではない。校長の原告成合に対する職務命令は校長の教育に対する不当な支配であり、違法である。

期末テストが予定されていた一二月当時、生徒らは恒久的な校名変更の要求へと運動を強化し、一二月一八日が県議会の会期末であった関係から一六日までに右要求を陳情する必要に迫られていた。一二月九日の代議員大会では、定期テストの廃止と成績評価の方法の改革が職員会議への要求として提案された。このような状況下で教務主任であった原告成合は、定期テスト実施の可否について教科担任の意見を聴くなどしたうえ、当時の状況の下ではテスト実施は不可能と判断し、一二月一七日の職員会議でテスト中止を提案し、了承されたのであった。原告成合は、当時生徒の置かれた教育条件と学習活動の実態を踏まえて、テスト実施の方法・内容・その可否等につき関係教師の意見を聴取するなど、教務部主任として十分にその職責を全うしたものと評価することができる。

(エ) その他

校務分掌は教師の本務でない校務を校長に代わって行うということであるから、校長が職務命令として行わせるというのは本来違法である。

(4) 授業放棄行為について

一月初旬ころから、生徒らは恒久的な校名変更を要求して、県議会への陳情、校長の陳情取り付け要請などの運動が活発化していたが、浜田校長は生徒らの切実な要求に応えようとしなかったため、学校内は騒然とした状況下にあり、一月一二日生徒会は授業拒否を可決した。その前の一月一〇日、職員会議は生徒らの激しい動きを踏まえて、生徒指導の方針として、①生徒の指導にあたっては教師集団の認識と理解、意思確認の上に立ってなされるべきこと、②現状を打開するためには、校長が教師代表と生徒代表とともに知事部局、県教育委員会等に陳情のための取りつけをする以外にない、との方向を確認した。

しかし、浜田校長は職員会議で示された教師多数の意向を無視し、却って翌一一日生徒に対して、登校して正規の授業を受けるよう呼び掛けの手紙を出し、生徒らの要求を逆なでするがごとき態度をとった。一月一二日の生徒総会では、校長の手紙の内容が生徒を硬化せしめ、教師の主体性は全くないではないかとの激しい教師批判がなされ、激論の結果、授業放棄が可決されたのである。原告らはこのような状況では授業放棄はかえって混乱を招くとして、授業を実施しなかった。一部の生徒には授業を受ける者があったが、生徒同士のトラブルの発生を防ぐべく、生徒総会に参加するよう生徒指導を行った。

以上によれば、教師らが授業を実施できるような客観的状況は存在せず、むしろ登校拒否が学校内に生徒不在の事態を起こさせるおそれがあったのであるから、登校させて生徒間の討議を保障するのが教育的配慮であり、適切な生徒指導であったと言える。

また、壺井教頭の授業の実施を妨害したという点については、壺井教頭が二〜三人の生徒に授業中、幾人かの生徒が押し掛け、教頭と言い争っていることを知り、同原告らが赴いた授業を受けていた生徒には「皆、ちゃんと生徒総会で決議して、ルールを守ってやっているわけだから、生徒会で決めたことに従いなさい。」と、教頭に対しては、「ルールを守るよう指導して頂きたい。」と説得したものである。してみると、授業妨害行為なるものの実態は、生徒間の無用の混乱を回避し、整然とした行動をとらせるためのやむをえない措置であったということができ、非難すべきものではない。

こうした状況下で、浜田校長は教職員に授業の実施命令を出しているが、このような校長の措置は、ある一定の状況下で、生徒に何を指導すべきかは、これを指導する立場にある教職員の判断事項に属するとする教育条理に反する行為である。授業の実施の仕方、当否は校長の職務命令によって強制すべき事項ではない。校長の授業実施命令は、その指揮監督権限の及ばない教育の内的事項に不当に干渉するものであって違法というべきである。

(5) 無断出張行為について

大宮第二高校では、大宮高校夜間部当時から出張旅費が不足し、そのため旅費を伴わない研修出張が認められており、その場合には形式上出張扱いとして処理され、事故がなければ出張期間中は自宅研修として処理する慣行があった。そこで、一月一二日慣行に従った出張伺を教頭に提出し、延岡第二高校へ調査に行った。その目的は当時永久的な校名変更を求めて生徒が県議会に陳情する運動が起こっていたことから、同時期に独立した延岡第二高校の校名問題についての実情を調査することにあった。原告らは同日、暮礼時までに帰校し、通常の勤務に就いており、帰校後、校長及び教頭から出張について特段の注意を受けたこともなかった。

以上の事実経過にてらせば、その出張手続において従前の教育的慣行に従ったものであり、決して無断といえる程のものではない。

(6) 校長室不法占拠行為について

生徒や教職員は浜田校長に対し校名変更問題について、県教育委員会や知事に陳情するよう要請していたが、浜田校長はこれを頭から拒否し、授業実施を職務命令により強行しようとしていた。ハンストはこのような校長に翻意を促すために行われたもので、校長のいわばなすべき学校運営(教育委員会交渉や議会への陳情)の懈怠を正す性格のものであり、その目的において正当であり、手段も特に非難するにあたらない。また、原告らはハンストにより校長の執務自体は妨害していない。

(7) 卒業式妨害行為について

大宮第二高校では、二月一四日、一五日の職員会議において卒業式企画委員会の設置とその構成を決め、十分議論をつくしたうえ企画委員会の案を煮つめ、二月二七日には、その企画委員会の案を職員会議で決定したのである。この経過をみると二七日の職員会議で決定した方法に従って行うのが学校としての意思決定であることは疑う余地のない事実である。企画委員会には、当局の意を体して教頭が出ており、意見を述べ、その意見も論議の対象とするなかで企画委員会の「案」が出、その案が職員会議で決定されているのである。校長は学校を代表する立場にあるのであるから、仮に個人的に承服しがたいとしても、この決定に従って実施する職務上の義務があるといわなければならない。

校長は企画委員会の案が職員会議で決定された二七日までその内容について一言も発したことはなかった。ところが、校長はそれまでの経過を無視して、二月二八日暮礼時突如卒業式の式次第を記載した文書を教職員に手渡し、この次第で卒業式をやるので、右文書を生徒に配布せよと指示した。しかし、校長の式次第どおり行うことは、これまでの経過からして不可能であることは明らかであった。校長は県教育委員会の意を体した卒業式の体裁を作るために、どたん場に来てこの職務命令を出したのである。従ってこの職務命令は右の状況下では実現不能の命令というべきであり、命令の要件を欠如するものと言わざるをえない。

また、右文書を生徒に配布した場合、生徒達が混乱することは明らかであったので、原告らは、教育的配慮から右文書は配布しなかったのである。原告らの行為は教育的配慮に基づくやむを得ざる措置であり、合理的理由があるというべきである。

なお、原告らは校長が右職務命令を出した二月二八日深更まで討議して、混乱を避けるために校長の職務命令に従って翌日にのぞむこととし、翌日早朝校長に職務命令に従う旨返事している。

原告らは同日朝の職員朝会で、校長の職務命令に従うことを確認したうえ、校長の指示に基づいて、四年生のホームルーム担当は教室に赴き、待機している卒業生に対しその旨伝達した。その後、卒業式式場の体育館において、生徒会長が、卒業生らにマイクでこれまでの経過を説明して、校長方式の卒業式を行うか、職員会議で決定した式次第のどちらを実施するか討議しようと呼びかけた。そこに、校長が来賓と共に入場してきたが、この状況をみて突然卒業式を中止すると言って式場を出ていってしまったのである。この際、校長は教職員や生徒には何の指示もしなかった。片山同窓会長は善後策について校長のものに相談に赴き、卒業式の継続、再開を説いたが、浜田校長はこれを拒否し、再び体育館には現れなかった。

式場に残った生徒達は解散せず、右のような校長の態度を確認し、それまで議論して決めた式次第に従った卒業式をおこなったのである。

(8) 生徒指導拒否行為について

(ア) 生徒会活動に対する指導について

大宮第二高校の生活指導部の基本方針において強調されていたのは、校長を含む教師集団が生徒集団を育成するということであった。そして、福井前校長は、この基本方針を一年間は踏襲することを明言していた。しかるに、浜田校長は、着任後強行的に職務命令を乱発し、教師集団による生徒集団の育成という生徒指導方針を全く無視した。同校長の姿勢は、独立当初の確立された学校運営方針の破壊にあったと言っても過言ではない。

大宮第二高校の発足後、生徒会活動が活発な運動を始めるに至った根本的な原因は、事前の根回しのないままに強行した一方的独立、教育環境の悪化、定通併修問題に対する曖昧さを残したままの独立など、すべて教育行政の怠慢、不手際にあった。大宮第二高校の独立とその実態を見るとき、生徒会の活動はその教育要求実現のため起こるべくして起こったものである。生徒会の運動を強権的に押さえつけようとすれば、却って学校内に大混乱が生じたであろうことが予想される状態にあった。生徒会の発行した新聞等には極左的言辞を配したものもあり、学校内は騒然たる状況にあった。原告ら教師は、当時各地で学園紛争が発生し、内ゲバのような暴力沙汰にまで発展した事例があったことから、大宮第二高校においてもそのような事態に陥ることを危惧し、生徒会の運営ルールを守らせ、暴力を絶対に避けさせるという指導方針のもとに生徒達を指導していったのである。生徒会はストライキ、登校拒否の戦術を決定するなどの強硬な態度をとったこともあったが、原告小野本らは、登校拒否を回避し、登校したうえでのルールに従った生徒会活動を行うように議論の方向を指導した。このような指導方針は常に職員会議あるいは被告のいう職員集会で確認されたものであった。これらは、当時の学校紛争の客観的状況に鑑み、適切な指導であったと思われる。

原告小野本の生徒指導は、当時の学校紛争の実情に照らし、適切かつ妥当と評価されなければならない。

なお、本件において、生徒会はストライキや登校拒否などの強硬手段を決定したり、街頭デモ行進などの政治的な示威行動にまで運動を発展せしめているが、それが生徒会の正常な活動を逸脱するものであるか否かについては、客観的な判断基準を設定することはできないというべきである。未成年の高校生にも政治活動の自由が基本的に保障され、特に本件において、大宮第二高校の生徒全員が一定の社会生活を営み、一定の社会経験をもった勤労青少年であり、しかも成年者が多いことなどに照らせば、政治活動の自由はより一層強く保障されると言わねばならない。仮に、生徒会活動に逸脱があるにせよ、その判断は校長を含む教師集団により客観的状況を踏まえた上で慎重になされるべきものであり、校長の恣意的・独断的な判断は許されない。本件における浜田校長の指示命令は、以上の見地からみても恣意的・独断的なものというべく、いわんや教師の教育内的事項に対する不当な支配というべきであるから違法と解される。

(イ) ホームルーム・クラブ活動、新聞局等に対する指導について

先に述べたとおり、生徒指導の方針は、教師集団によって討議決定されるものであるところ、その方針は個々の教師の教育活動として実践化されるものである。そしてホームルームの具体的活動は担任の教師が第一義的に責任を持つ。しかるに、被告は、原告小野本の分掌業務のそれぞれについて、いかなる正常ならざる指導があったのかについて、なんらの具体的事実を主張しない。主張自体失当というべきである。

(二) 本件処分は処分にあたって考慮すべき事項を考慮せず、また、他事考慮に基づくものであって違法である。

(1) 懲戒処分にあたっては、当該処分の根拠とされる行為の目的や動機、態様、結果、影響等を考慮すべきである。しかし、本件はそれらについて十分考慮したうえでの処分であるとは認められない。

(ア) 原告らの諸行動の目的

昭和四四年四月の生徒の入学から昭和四五年三月一日の卒業に至る一連の経過によれば、原告らは最初から最後まで常に生徒に対する教育上の観点を踏まえて行動した。

学校教育は単に授業だけではなく、学校生活全体を通じて行われるものである。生徒会活動をはじめ諸般の生徒指導は重要な教育活動をなしていることはいうまでもない。そして、教育は生徒に対する支配と統制の関係ではなく、生徒の自主性を尊重した指導と援助の関係である。原告らは生徒に対する指導力と信頼を失った校長にかわってその場面、場面で教育的な観点は何かを教師集団で議論しながら、最も妥当な方法で生徒指導、学校運営を実施してきたのである。処分理由とされる「授業放棄」にしても教育的配慮から行ったものであり、それは決して「教育放棄」ではなかったし、卒業式にしても、これを放棄した校長と異なり、最後まで生徒に対する指導的視点を踏まえて対処してきたものである。いわゆるハンストも然りである。これらの行動の評価は秩序違反問題ではなく、教育価値の選択の問題として考えられるべきものである。本件処分にあたって、原告らの諸行動が自己の利益のためでなく、教育活動としてなされたものであることを考慮しなければならない。本件処分にあたってこの事情を考慮した形跡はない。

(イ) 本件紛争に対する被告の対応

本件紛争に対する被告の対応は生徒への教育的配慮を全く欠いたものであった。即ち、

① 被告は昭和四四年四月の大宮第二高校の独立に際し、根回し(教育的配慮)を全く行わず、違法な強制転校の措置をとった。しかも、生徒の要望である校名問題、設備の充実については、何一つ具体的に提示することさえしなかった。

② 原告らが懸命に本件紛争の解決の努力を行っている最も重要な時期に起きた校長、教頭の失踪という不祥事が生徒達にどれほど深刻な打撃を与えたか被告は殆ど考えたことがなかった。右不祥事により学内に大混乱が起こることは明らかであったにもかかわらず、被告は形式的に新校長、教頭の辞令を発令しただけで、混乱を鎮めるための何の努力もしなかった。生徒、職員の面前における新・旧校長の事務引継ぎさえ拒否したのである。これは、教育にとって不可欠な人間性を全く欠いた措置であったと言わざるをえない。もし、被告が生徒の立場を理解し教育的観点に立って措置していたならば、夏休みの時点で本件紛争は解決していたものと認められる。

③ 校長は生徒の悩みや要求を聞く耳をもたず、あたかも物の管理でもするかのような生徒管理に終始した。校名問題や学校の将来(定通併修を含めて)に対する生徒の不安について校長は何の対応もせず、県教育委員会への陳情や議会への請願を強制的に押さえ、或いは拒否した。生徒達が強硬手段に訴えてはじめて動きだすという有様であった。これでは混乱を増すだけである。原告らはとかく暴走しそうな生徒達の動きを説得によって防止し、また生徒の悩みや要求を集約してこれを校長や県教育委員会、さらには県議会を通じて実現するよう努力した。もし校長、県教育委員会が同じような態度をとっていたならば本件の如き問題は生じなかったであろう。校長は何もしなかったばかりか、生徒や原告らの動きをすべて秩序違反という偏見に基づいて逐一書き留め、これを被告に報告する態度に終始していた。県教育委員会の強権的学校管理政策を校長はそのまま受けて、同じく生徒や原告らに対したのである。職員会議への出席命令や授業実施命令という教育法上違法と評価されざるを得ない職務命令の乱発、はては卒業式における校長の態度はこのことをよく現している。このように、県教育委員会や校長の対応は不適切、非教育的なものであった。

本件各処分にあたっては、被告の右態度も考慮されねばならない。

(ウ) 原告らと生徒達の信頼関係

リーダー研修会や生徒総会でとりあげられた事項で教師の援助が必要なものについて、原告らはそれぞれの校務分掌に基づいて指導し、またその実現のために生徒と共に努力した。原告らの一年にわたる努力があったために、比較的平穏に学校運営がなされたのである。これに対し、県教育委員会や校長は積極的に何らの努力もしなかった。生徒達は校長や県教育委員会の態度に著しい不信感を抱き、当時の全国的な学生運動の影響も受け、大宮第二高校の生徒の間にも過激な行動に出るものがおり、放置しておくとそれが学内全体の傾向になる可能性もあったが、原告らの努力の結果、そのような事態の発生は避けられたのである。これは、生徒が原告ら教師の指導を信頼していた結果である。教育現場における行為の評価はまず、教育の本質的要請からして生徒達の教師に対する信頼が損なわれたかどうかが重要な指標の一つである。処分にあたっては、この点の考慮は不可欠である。

(2) 他事考慮

原告らはいずれも宮崎県高等学校教職員組合に所属しているが、原告らの諸行動は、組合活動の一環として組合の指令、指示、決議等に基づいて行ったものではない。当初の段階で原告らと行動をともにした松本ら三教師をはじめ処分を受けていない者は非組合員であり、同じような行動をとった場面があるにもかかわらず処分されていないことをみると、この処分は組合員に対して、組合員であることを理由として処分した可能性が強い。また、本件処分は、定通併修という大宮第二高校の生徒達にとっては好ましくない教育政策を遂行する過程で強行したものである。校名についても、生徒や大宮高校の関係者の意見を聴くことなく、さらに予算の裏付けのないまま文字どおり強行したのである。すなわち非民主的な教育政策の強行に反対し、抵抗した原告らを処分したのであり、生徒の教育権を踏みにじり、政策を遂行するために邪魔となった原告らの排除を目的としてなされた処分であることは明白といわなければならない。原告らの大半は昭和四五年度には配置転換され、また生徒に対する締めつけも一層強化されたために以後ついに生徒の要求は全てつぶされ、強権的学校支配が確立したのである。この処分は、秩序維持、教育の正常化の確保のためにしたものであるとは到底言えない。被告のこのような意図は明らかに処分目的に背馳する。

(三) 比例原則、平等原則違反

(1) 原告らに対する処分事由で指摘されている行為はいずれもたとえ認められる場合でも軽微であり、かつ、行為は純粋に教育的動機にもとづいている。これに対し、本件処分は原告らに対する停職六ヶ月をはじめ減給処分という極めて重い処分であり、行為と処分との均衡を欠くことは明らかである。すでに、検討してきた本件行為の動機、目的からしても行為に比例した処分であるということはできない。

(2) 失踪した福井校長、重信教頭の行為は学校教育法二八条三、四項の職務放棄行為であり、明らかに地方公務員法二九条に定める職務上の義務違反を構成する。校長、教頭の職務放棄が大宮第二高校の事態の深刻な混乱をもたらした原因であることを考慮すれば、同人らの職務上の責任は原告ら以上に重いはずであるが、県教育委員会はこれに対し何らの責任追及もせず任意退職させたのである。この点からみても、本件処分は権衡を失するものと言わなければならない。また、原告らと夏休み中まで行動を共にした松本ら三教師に対しても何らの処分もない。職員に対する処分が平等・公正でなければならないことは地方公務員法の原則である。原告ら以外の右職員と比較した場合、この処分は平等原則に違反するものと言わざるをえない。

(四) 以上のとおり、本件処分は観念上著しく妥当を欠いた処分といわざるをえず、裁量権の濫用にあたるものといわなければならない。

六  原告の主張に対する被告の反論

1  独立転校の適法性について

高等学校は、地方教育行政の組織及び運営に関する法律三〇条の規定に基づき学校教育法四一条に定める目的を実現するものとして地方公共団体が設置する教育機関であり、その設置、廃止、名称、位置は、条例により(地方自治法二四四条の二)定められている。そして、高等学校の分離独立は、設置者が公教育としての高等学校教育の目的を達成するために、あるいは一定の教育水準を図るために、総合的かつ長期的な計画のもとに教育内容や教育環境の問題、生徒の通学条件、財政的な事情等諸般の事情を総合的に勘案のうえ、最終的には議会の承認を得て(条例の改正として)行うものであり、その性質上高度の教育的ないし専門的、技術的な判断を必要とするものであるから、設置者は、その包括的権限に基づき、生徒の事前の了解を得ることなく実施できるものである。なお、学校教育法施行規則六一条の規定により生徒を転学させる場合には生徒の志望が必須条件とされているが、同規定は、生徒自身の側の理由(例えば保護者の転勤等)により他の高等学校に転学する場合の手続を定めた規定であり、設置者の行う高等学校の分離・独立に伴う生徒の転学とはその性質を異にするものである。

2  校長の職務権限、職務命令等について

学校教育法二八条三項は「校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する。」と規定しているが、この校務には教育の外的事項(人的、物的管理)のみならず内的事項(教育管理)も含まれるのであり、校長は、学校運営に関するすべての事務を掌握し、処理し、校務につき学校のすべての職員を監督する立場にある。この点につき、原告らは、同法二八条六項に「教諭は、児童の教育をつかさどる。」と規定されているのを根拠とし、教師には「教育をつかさどる」という専属的職務権限が法定されており、いわゆる教育の内的事項については、校長の監督権限は及ばないし、内的事項に関し職務命令を発し得ないと主張するが、「教諭は、児童の教育をつかさどる。」という規定は、教諭の主たる職務を摘示したものであり、校長の監督は、当然これに及ぶものであり、教育の内容や方法についても当然職務命令を発し得るのである。

よって、学校において行われるすべての活動について責任を負う立場にある校長としては、職務上の上司として、当然教員に対して、教育の内容や方法についても、適正かつ円滑に行われるよう指示し、命令を発し得るのである。また、教員が上司の職務命令を違法であるとして、その命令への服従を拒否し得るのは、一見明瞭な形式的適法性を欠く場合に限るべく、実質的な内容に立ち入って審査しなければ容易に適法か判明しない場合には、教員にその適否を審査する権限はなく、たとえその主観において、職務命令の内容が違法または不当と考えられるものであっても、それが客観的に違法であることが明白でない以上、教員はこれを拒否することができず、ただ、これに関する意見を述べることができるに過ぎないものである。

3  職員会議の法的性格について

職員会議は、学校運営を効果的に行うために、校長及びその他の教職員を構成員として大学以外の学校に置かれる学校の内部組織の一つであり、大学の教授会と異なってその設置、権限等に関する何らの規定のない慣習的な、事実上の組織である。校長は、教職員に対して法律上監督者の立場にあり、学校としての最終的な意思を決定する責任を有し、職員会議は、その意思決定に関与し、これを補助するものであるから、職員会議の法的性格は現行法制下では補助機関と解されるものである。また、校長は、現行法制上学校の管理運営(校務執行、所属職員の監督等)について責任を持つ。従って、校長は、職員会議の決定に法的に拘束されるものではなく、職員会議での協議の結果事実上の決定が行われ、校長がその決定を学校の方針として取り上げたとしても、校長が自らの判断と責任において行ったものであり、職員会議の議に拘束されたものではない。もともと、右に述べた職員会議の法的性格と職務権限との関係から、多数決で事を決めることは一般的に妥当でないのである。

4  校長等権限排斥行為について

(一) 事務引継ぎについて

前校長との事務引き継ぎは前任の校長及び新任の校長並びに監督権者である教育委員会との間で行政事務上の意味を持つものであり、引き継ぎがなされないからといって校長の着任が認められないというものではない。前任の校長の離任の挨拶と新任の校長の紹介に至っては、単なる事実上の行為に過ぎず、前校長が後任の校長を紹介するという慣行も存しないのである。しかるに、原告らは、事務引き継ぎや前校長の挨拶が済むまでは浜田校長を校長として認められないと主張して、浜田校長の指示命令をことごとく拒否し、職務執行のため職員室へ入室することさえ妨害した。

(二) 原告らの学校運営による校長等の権限排斥の内容について

教諭の主たる職務は教育をつかさどることであるが、その具体的教科指導は上司たる校長の編成する教育指導計画によって確定するものである。従って、年間の授業計画やそれに基づき教師に割り振られた授業時間割は校長の包括的な職務命令とみなすことができ、正当な理由がない限り、教諭は、割り振られた学級の授業を行うべき義務を負うものである。原告らは右包括的職務命令に従わず、原告らによる職員集会で独立問題についての生徒総会、ロング・ホームルーム等を行うことを決定し、校長の承認を得ぬままこれを実施したのである。

よって、これらの原告らの行為によって、浜田校長の職務の執行が妨害され、同校長の学校管理者としての権限が排斥され、若しくは同校長が事実上排斥され、同校長が校務の正常な運営を阻害されたことは明らかである。

なお、教頭は「校長を助け、校務を管理する。」職務を有し、校長の職務権限について直接校長を補佐するとともに、校長の校務処理の直接的補助行為として校務を整理すべき立場にあり、学校管理上管理者の立場に立つものである。

(三) 必要な範囲で原告らと校長による学校運営がなされていたとする主張について

この主張の根本は、教育の内容や教師の専属的権限に属し、校長は教育以外の校務を掌るものであるとする考え方があると思われるが、これは現行法制に基づかない主張であり、逆にこういう考え方に基づいて原告らが行動すること自体が校長の職務権限を侵すことになるのである。原告らは校務の最も重要な部分を占める教育管理に関する校長の権限を排斥したうえ、校長が校務運営上の連絡を取ろうとすることさえ拒否しており、このようなことがなされるならば、およそ正常な形での学校運営がなされているとは言えないのである。

(四) 校長等の着任が遅れたのは被告に責任があるという主張について

原告らは、独立当初から職員会議の最高議決機関化等により学校の運営を進めることを意図し、特に独立問題が起きるとこれを奇貨として題材化し、校長を権力としてとらえ、権力から教育を守るには組合という組織の中にいることが必要であるとし、紛争を要求闘争とともに教育課程の自主編成を内容とする教育闘争としてとらえ、学校の民主化の基本は、教職員にあっては職員会議の決定により教育活動を進めていくことであり、生徒にあってはその行動が生徒会における決定により行われるべきであるとし、授業を放棄しての生徒総会開催であれ、街頭デモ行進等であれ、決定されたことは従わなければならないと指導し、「めざめた生徒」の集団化を積極的に進めようとしたのである。

そこには、校長に協力して一致して学校運営にあたるという姿勢は微塵もなく、校長、教頭を排斥して職員会議の決定により恣意的な教育活動を行っていくという姿勢であり、校長、教頭の排斥も単なる戦術、ないし闘争として行われたものである。しかしながら、このような奇妙な多数決原理に基づく行動が夏休み以後生徒の信頼を失い、破綻していったため、戦術を転換して校長、教頭を受け入れるということになったのである。従って、新・旧校長の教職員等立ち会いのもとでの然るべき事務引き継ぎが早期に行われさえすれば学校が正常化されるというものではなく、原告らは、今日になって単なる言い訳をしているに過ぎない。

5  職員会議放棄行為について

校長を排斥して原告ら分会員のみで勝手に行った職員集会における討議内容、決定は、学校としての最終的な意思決定となるものではなく、何らの意味をもつものでもない。浜田校長としては早急に学校を正常化するためには、先ず教職員の協力を求め、教職員の共通理解を得て一致して学校運営、生徒指導に当たることが何をおいても必要であり、そのために職員会議を開いたのである。原告らが校長の発した職務命令を拒否しうるのは違法性が重大かつ明白な場合のみに限られるのであり、本件職員会議への出席を命ずる職務命令が正当な理由に基づくものであって違法たりえないことは明らかであるから、原告らの行為が正当な理由もしくは合理的な理由に基づかないものであることは明白である。

6  校務分掌業務拒否行為について

(二学期末テストの不実施について)

テストの実施についても、授業と同様に校長が定めた教育計画に基づく校長の包括的職務命令とみなすことができる。

生徒の成績の評価が教師の重要な職務であり、教師の裁量に任された部分が大きいとしても、テストは生徒の学習到達度の比較的公平な評価方法であり、生徒の具体的な目標となり、学習を促す効果があること等から、通常どの学校でも各学期ごとに定期テストが行われており、一斉テストの不適切な科目はともかく、その他の科目についてのテストの実施の可否が教師の全くの自主性に任されていたということはないのである。テストをすること自体に教師及び生徒のいずれにとっても教育上の有効性がある以上、校長のテスト実施命令は、教師の職務に不当に介入するものでもなく、正当かつ合理的な理由をもつものである。

原告らは、授業が行われず毎日のように生徒総会が行われ、テストも実施されないという状況の中で、次第に登校する生徒が減り、二学期以降は生徒総会や代議委員会、学園民主化委員会等も成立しなくなり、生徒の半数が登校しないという状態であるのに、原告らが一方的に自らの主張に基づいて生徒を指導していった結果として学校をこのような混乱した状態に陥れながら、一部の生徒の要求を生徒大多数の要求であるとし、生徒の状況からテストは実施できなかったと主張しているのである。

7  授業放棄行為について

教師による授業放棄が認められるのは、教師による具体的・積極的な努力にもかかわらず、生徒と教師の間及び教師相互の信頼関係並びに学校内の秩序が完全に破壊された場合のような極めて例外的な場合に限られる。原告らは授業を受けるように生徒の指導に当たるどころか、授業を拒否するよう生徒をあおり、慫慂し、一部の生徒と一緒になって校長を吊るし上げて追及し続けたものである。原告らは、やむをえず授業を放棄したのではなく、積極的に授業を妨害し、自らの授業をも放棄したのである。(なお、一月一二日の生徒総会で校長の手紙に生徒達が反発し、激論が行われた様子はない。)

また、生徒が授業拒否を決定した生徒総会は、定足数に満たず、生徒総会として成立しておらず、しかも登校拒否に賛成したものが一一六名で全校生徒の四分の一にも満たないのである。少数ではあるが授業を受けている生徒もいるのであって、大多数の生徒が授業を拒否して集会を行っているとはとても言えない状況にあったのである。

なお、授業妨害の点については、授業を受けている生徒は自己の当然の権利として授業を受けているのであり、成立もしていない生徒総会の決議で授業拒否を決めることも、また、生徒個人の授業を受ける権利を奪うことも許されないことはあまりにも当然であって、それを原告ら教師が多数決で決定したのだからそれに従えと生徒を指導することは、真の自由主義、民主主義を踏みにじる独善的な多数決理論を生徒に押しつけるものというべきであり、生徒の学習権をも不当・違法に侵害するものと言わなければならない。

8  校長室不法占拠行為について

原告らは、校長を通じての陳情の場の設定と県議会議員と高教組を通じての陳情の場の設定の両方を同時に要求していたのであって、ハンストを行ってまで校長に陳情を強く要求する必要はなかった。また、一七日午後四時ころ、ハンスト中の原告らのもとに、一月二〇日に高教組と知事部局の陳情交渉が、同二一日に高教組と教育委員会との交渉がもたれることになり、その際、生徒代表がオブザーバーとして出席することが決定した旨の連絡が入ったにもかかわらず、翌一八日午前三時まで校長交渉を続けているのである。(ハンスト自体は一八日午後三時ころまで)これらの事実からみると、原告らは教育委員会への陳情の場の設定よりも、一月一三日、一四日に出された浜田校長の授業実施に関する職務命令に反発し、校長をあくまで追及して職員会議の決定にしたがわせることを目的としてハンストを行ったと言わざるをえない。

9  卒業式妨害行為について

職員会議は校長の補助機関的性格のもので、校長が最終的に同意しない以上は原告ら多数により決定したとしても、それが学校全体の意思として決定されたことにはならない。

原告らが実施した自主卒業式(企画委員会案と同じ)の内容は本県のみならず全国的にも異例のものであるうえ、卒業証書の授与を校長の手を経ずして全職員の手によって卒業生に渡すということは、卒業証書の授与権限者が校長であることを定めた学校教育法施行規則二八条、及び県立学校規則一一条の規定を無視し、校長の権限をむしろ排除するものであったことから、浜田校長がこれを認めなかったことには十分な合理性があるといえる。また、卒業式は儀式的行事として厳粛で整然とした雰囲気の中で、慣習的に広く国民の間に定着した式次第に則って行うこと自体に教育的意義があるのである。

浜田校長が右卒業式の趣旨に鑑み、従来通りの式次第で卒業式を実施しようとしたことには、教育的にも十分合理的かつ正当な理由が存するというべきである。

10  生徒指導拒否行為について

(一) 教師集団による生徒指導について

あるべき姿として校長を含む教師集団が一体となって生徒指導にあたることが教育上望ましいことは当然であるとしても、学校運営の最高責任者である校長の意思を全く排除した形で原告ら教師が勝手に多数決で生徒指導方針を決め、それに基づき前述のような不当・違法な行為を生徒が行うよう生徒指導を行うことまで認められるものではないことはいうまでもない。まして、現行法制上校長の意思を排除したうえでの教師集団による自治的学校運営という観念が認められる余地はないのである。原告らが原告ら一八名の多数の意思に基づき学校運営を進めることが客観的に公正であるとして校長の意思を排除しようとして行動したこと自体が違法であって、原告らに正常な学校運営を阻害する違法行為のあったことは明らかである。

(二) 生徒会活動の限界について

まず、生徒会活動は、学校の教育活動の一環として校長の定める教育計画等に従ってなされるものであり、(未成年者であれ成年者であれ)生徒は教育を受ける者であって、教職員と対等、同質の意味における学校の構成員ではなく、学校の管理運営に参加する権利もなく、学校が教育機関として機能を営む上で必要な規律に服すべき義務を有する。従って、生徒会活動においては、生徒が学校側と対等の立場に立って全く自由に広範な自治活動をなしうるものではなく、あくまで学校側の行う教育の目的の範囲内での、教科授業と調和のとれた形での適正な活動が行われなければならないものであり、いわんや、国や県教育委員会が法令に基づき進める政策に反対する態度を生徒会活動として行うことは、いかなる理由があれ許されるものではない。もともと、学校教育は、整然たる秩序のもとで一定の規律に従って行われることによって初めてその成果が得られるものであるから、授業計画を無視して無制限、無秩序に生徒会活動が行われ、ついには生徒が授業を拒否するようなことがなされるならば、公教育として行われる学校教育の機能が停廃し、全くその効果を発揮し得ないことは自明のことである。

なお、生徒会の政治的活動(街頭デモ等)について、学校側(校長)が中止するようにとの指示命令を出したことには次のような合理性がある。

① 大宮第二高校は定時制高校ではあるが、いまだ心身ともに発達の段階にある生徒が大部分であり、生徒は、学校の指導によって政治的教養を含む基礎的教養を培う過程にある以上、学校の管理に服すべき立場にあるから、生徒の街頭デモ等の政治活動を認めることは教育的観点から望ましくないことはいうまでもない。また、成年者であっても、高校生としての身分を有する以上は、政治的活動によって学業が疎かになり、また、学校内の教育環境が乱され、他の生徒への影響が予想される場合に政治的活動を望ましくないものとして学校側が規制することには十分合理性がある。

② しかも、本件紛争において、生徒の街頭デモ行進等は学校外における活動とはいえ、生徒個人が個人の権利行使として行う活動ではなく、生徒総会等において討議、決定したうえ、生徒会活動として行っているものであり、また、生徒会の街頭デモ等の目的は、大宮第二高校独立問題に関し、公然と国の施策や県教育委員会及び学校長の方針に反対する目的をもって行われたものであり、学校内の教育環境を著しく乱し、また、同校の存立基盤を侵害する行為であったことから、浜田校長がその実施を中止するよう求めた行為は十分合理性を有するものである。しかも、昭和四四年一一月九日に行われた街頭デモは、浜田校長の再三の中止命令にかかわらず学校管理下で行われるべき学校行事(文化祭)の一環として行われたものであり、生徒は全面的に学校の管理権に服すべき義務を負っていたのである。

11  原告らの諸行動が教育活動としてなされたという点について

仮に、原告らが独立問題について生徒の要求を実現するために行動したものであるとしても、そのことによって原告らの本件の如き行動が正当化されるものではない。教師は授業の内外を通じて生徒に対して非常に強い影響力、支配力を有するものであるから、常に自己の言動が生徒に与える影響を自覚し、反省し、中立の立場で生徒に接するとともに、その勤務時間中は全力を挙げて生徒の教育に当たることが強く要請されている。原告ら教師が独立問題について自らの主張を表明し、あるいは教育行政当局の政策を批判することは自由であるとしても、地方公共団体の教育行政機関が進める教育政策等に関する原告らの一定の見解は多様な見解の一つであることを自覚し、生徒に対する教育の現場においては、その義務の公共性、中立性を厳に保持し、生徒に及ぼす影響に細心の配慮をもってその職務を遂行することが義務づけられてているというべきである。また、たとえ、本件紛争に関する生徒の要求にさまざまな理由があり、かつ、その理由に正当性が認められるとしても、本件紛争を早期に解決して正常な教育の場を確保し、所定の教育課程を実施し、教育目的の実現に努めるためには、原告ら教師は、積極的に校長に協力して、校長を中心に学校全体としての生徒の指導に当たるべき当然の義務があるというべきである。しかるに、原告らは、当初から被告教育委員会や校長を権力としてとらえ、独立問題をすべて校長を含む教育行政当局の責任であると一方的に非難し、原告らの主張のみが正しいとして生徒を指導し、一部の生徒を巻き込んで諸行動をとったものであるから、校長や被告の本件紛争に関する対応策の是非を論ずるまでもなく、原告らには、重大な職務上の義務違背があったと言わなければならない。

12  平等原則違反について

福井校長、重信教頭や非組合員の三教諭は原告らの校長への対決闘争の被害者とも言うべきであって、右校長等が原告らと同列に論じられなければならない理由はない。

13  比例原則違反について

原告らの行為は、単なる職務命令違反等の服務義務違反にとどまらず、長期間にわたって学校の正常な運営を阻害し、生徒に対して順法精神の破壊、規律遵守の軽視という由々しき影響を与えたものであり、原告らには、教育効果を損なうという重大な職務上の義務違反があったというべきであるから、懲戒処分の本質に照らせば、本件処分は全体として軽きに失するきらいこそあれ、過重と評される余地はない。

第三  証拠<省略>

理由

一当事者等

請求原因1ないし3項の事実(ただし、3項のうち、原告出口については昭和四五年一月一三日の分についてのみ)は当事者間に争いがない。

二本件紛争の経緯―浜田校長着任まで―

被告の主張1(一)(大宮第二高校の独立)、同(二)(大宮第二高校の独立に対する教職員の反応)のうち、(2)の事実は当事者間に争いがなく、<証拠>を総合すれば、次の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

1  本件紛争の発端

四月一日大宮第二高校が開設され、福井校長、重信教頭が発令された。(この時点で教職員二七名中組合員は原告ら一七名を含めて二〇名、非組合員は七名であった。)その新任式において、小高校長離任の挨拶のなかで「福井校長は第一指導係長として大宮第二高校の独立の問題を扱ってきたので、経過も知っているし、大変都合がよかろう。」という紹介がなされた。同月二日、同校の第一回の職員会議が開かれ、その冒頭において、福井校長は、「職員会議の結論については尊重するが、場合によっては校長が決定するようなこともある。発足後一年間は夜間部時代の慣習を尊重して学校運営を行ない、一年経過後は問題のある点については修正をお願いするし、職員の方からも問題を提起してもらって逐次良いものにしていこう。」という趣旨の挨拶を行ったが、総じてその姿勢は柔軟で、原告らとの間に際立った対立は生じなかった。

同月九日、四年A級から独立の経過と内容について納得し難い点があるので、校長から直接説明してほしいとの要求がクラス担任を通じて出された。福井校長はいきなり校長が行くよりも、生活指導部長である小野本に説明させた方が良いという判断のもとに原告小野本に説明させた。四年A級(以下「四A」の要領で略称する。)の生徒が問題にしていた点は次のとおりである。

①  大宮高校を卒業するつもりで三年間頑張ってきたのに、卒業する前になって何の相談もなく、いきなり大宮第二高校という、いつ消えてなくなるかもしれないような名前の学校に移されることは納得がいかない。

②  生徒達に事前に何の相談もなく、また希望もしていないのに強制転校させられたのは基本的人権の無視である。

③  独立とは名目だけで、何らの実質的な保障もなければ将来へのビジョンもない。

その後、四Aから出された右問題意識は全校生徒の間に広がり、総務委員会は右独立問題を取り上げるようにとの生徒達の要求を受けて、代議委員会において右独立問題について討議がなされ、そのなかで、代議委員会から校長に対する同委員会への出席要請がなされたが、校長は四Aの場合と同様に原告小野本を出席させたため、代議委員会は右措置に納得しなかった。五月一〇日、代議委員会は、具体的に独立問題を掘下げる体制を作るため、独立問題を専門的に検討する機関として独立運営委員会の設置を決議した。

五月一七日から一九日にかけて開かれた生徒と教職員によるリーダー研修会の第一分科会において独立問題が取り上げられ、生徒達から独立問題について福井校長に対し質問がなされた。福井校長はそれに対し、独立について事前に生徒達に知らせなかったのは校舎の敷地の値上りなどの思惑など政治的理由によるものであること、大宮第二高校の新校舎はいずれ大宮高校の近くにできるであろうこと、校名については仮の名前であるから、通信制とも協議して生徒達の納得のいく名前に変えることも十分可能であること、将来は定通併修制の導入も検討されていること等を説明したうえ、生徒達の独立に関する問題提起に対しては将来の大宮第二高校の発展のために我慢するよう求めた。

六月八日には生徒総会(リーダー研修会報告会)が開かれ、独立問題について福井校長は生徒達へリーダー研修会第一分科会と同様の説明を行ったが、生徒は校長の説明に納得せず、再度校長の説明を求めたい旨を校長に要求し、生徒総会を六月一四日に開催することとしたため、福井校長はその対応について検討すべく、六月一三日、教師に職務命令を発して翌一四日に職員会議を開くこととした。原告ら分会員は福井校長が右職務命令を発したことに反発し、職員会議の前に分会総会を開き、右職務命令撤回を要求し、場合によっては職員会議をボイコットすることも辞さないことを決定した上で六月一四日の職員会議に臨んだが、前日代議委員会において生徒総会を六月一六日に延期したのを受けて職員会議も同日に延期されることになった。

六月八日の生徒総会後、福井校長の説明に納得しない生徒からは、県教育委員会の責任者を呼んで来て説明させるようにとの要望も出されており、職員会議において右要望等が討議されていたが、福井校長は、「職員が県教育委員会の責任者から説明を受けることには便宜を図るが、職員、生徒一緒の場で説明を受けることには同意できない。生徒の指導としては、先ず、職員が説明を受け、それを共通理解した後で、職員から生徒に説明すべきである。」という意見であった。

これに対し、原告ら分会員は、内部的には校長の右意見に同調する少数意見はあったものの、最終的には分会総会で意思を統一したうえ、六月一六日の職員会議に臨み、県教育委員会の責任者が直接生徒並びに教職員の前で独立の経過と内容を説明し、質問に答えることを賛成一八、反対五(反対五は非組合員)の採決で可決した。福井校長は右決議に対し、最終決定権は校長にあるとして右要求には従えない意向を示した。右職員会議の後で開かれた生徒総会においては、原告らは生徒とともに福井校長に対し、定通併修制等について質問した。

2  職員会議の生徒傍聴問題

学園民主化委員会(独立運営委員会が改称)では、独立問題に対する各教師の対応に不統一がみられることなどから教師に対する不信感も生じ、独立問題が職員会議でどのように討議されているのかを知りたいとして職員会議傍聴の要求が提案され、これを受けて、同月二一日暮礼時、生活指導部長である原告小野本から福井校長に対し、「職員会議の生徒傍聴を認めたいので、第一時限目をロングホームルームとし、生徒傍聴についての話合いをさせたい。」との申し出がなされた。これに対して福井校長が職員会議の生徒傍聴は認められない旨答えたところ、原告ら分会員は一斉に反発し、分会員全員で校長を追及し、結局校長の右前言を撤回させるとともに、六月一六日の職員会議における一八対五の決議を校長が否認したことも事実上撤回させた。このやりとりのため、一時間目の授業は自習となった。

六月二三日、一年生が生徒会執行部のやり方は手ぬるいとして体育の授業をボイコットするという事態が発生し、同日この問題について代議委員会が開かれ、慎重な行動を一年生に望むとともに、職員会議傍聴を一五クラス中一四クラスの賛成で可決した。それを受けて、翌二四日、学園民主化委員会においても、生活指導部の原告小野本や同斉藤の出席のもとに、六月二五日に予定されている「職員会議傍聴について」の職員会議を傍聴することを決定した。この状況の中で原告ら分会員は、六月二三日及び二五日両日分会総会を開き、二五日の職員会議を含めて生徒の職員会議傍聴を認める方向で意思集約を行つた。

六月二五日午後二時から「独立問題及び職員会議の生徒傍聴について」を議題として開かれた職員会議の最中突然約二〇名程度の生徒会の学園民主化委員会や総務委員会に属する生徒が職員室に入室してきたので、福井校長が何度も生徒らの退室を求めたのに対し、原告ら分会員は、「生徒らが入ってきたという新しい事態を踏まえて審議すべきである。」とか「生徒達を退室させる権利は、校長にも誰にもない。」などと校長に対し激しく反発し、生徒もその場を動こうとしなかったので、福井校長は、それ以上職員会議を続行することはできないと判断して、職員会議を打ち切り、職員室から退室した。校長及び教頭の退席後、原告ら分会員と非組合員との間で生徒傍聴をめぐって意見が対立したが、結局原告ら分会員らは、校長、教頭のいないままで職員会議を続行することをルール違反だとする非組合員の反対を採決により押し切り(続行二〇名、打ち切り三名(非組合員))、職員会議の傍聴を認めることを強行採決(傍聴を許す二〇名、反対〇名、保留三名(非組合員)、棄権一名(非組合員))により決定した。

六月二六日、生徒総会において生徒は独立問題に関する要求を次のとおり整理した。

①  夜間部単独の完全独立を要求する。

②  国庫補助を目当てにした現在の独立を撤回せよ。

③  生徒自治を無視し、教師集団を無視した現在の独立を撤回せよ。

④  強制転校は、人権無視である。

翌二七日午後二時から「給食費関係の決算及び昭和四四年度予算について」を審議内容とする職員会議が開催される予定であったが、会議の開催前から生徒たちが傍聴のため入室していたため、福井校長は生徒の退室を求めたが、生徒は退室せず、また分会員らは「職員会議を生徒に傍聴させることは既に決まっている。」と六月二五日の強行採決の結果を盾に校長を追及したため、福井校長は職員会議を開催することができないと判断し、職員会議を打ち切り退席した。また、非組合員の議長も生徒らの退室を強く求めたため、原告ら分会員により不信任案が提出され、議長から降ろされた。

職員会議の後の暮礼において、原告らは福井校長に対し、職員会議の途中で退出したことを無責任であると追及したのに対し、同校長は涙声となって職員の協力一致を呼びかけた。

3  県教育委員会の来校説明

右職員会議終了後開かれた生徒総会において、六月二八日に県教育委員会を呼んで来るか、来校の目処を示さなければ六月三〇日から全学ストに入るという生徒会の決意表明が決議された。原告ら分会員は、右全学ストの意思集約を背景に、福井校長に対し独立問題についての県教育委員会の来校説明を要求したため、同校長は、同日県教育委員会に赴き、来校を要請したが、県教育委員会は右要請に応じなかった。そこで、原告ら分会員は、同月二八日午前〇時職員会議を開き、教育次長宅の訪問・来校陳情を決議し、同日午前一時半ころ、被告の事務局である宮崎県教育庁の教育次長穂積正晴宅に押しかけ、来校するように要請したが、これに応ずる回答はなかった。福井校長は、原告らの強い要求を受けて同日午前八時半ころ、再度県教育委員会に赴き、来校を要請したが、県教育委員会側の回答は「校長と生徒会代表に県教育委員会事務局で会う。」というものであったため、原告らは右回答に納得せず、その後直ちに穂積教育次長に会って来校を要求する交渉を行ったが、その回答は変わらなかった。一方、同日開かれていた高教組の定期大会において原告小野本が大宮第二高校の実情を報告し、その支援を求めたため、高教組は支援を確約し、県教育委員会との交渉がもたれた結果、生徒総会において具体的なスト決行の意思集約が討議されていた同日午後八時ころになって、福井校長のもとに穂積教育次長が同日八時三〇分から一時間の予定で来校説明を行う旨の連絡が入った。福井校長は原告ら教師に対し、職員の質問は控えるようにと要請し、原告らもこれを受け入れ、同日午後八時三〇分から、穂積教育次長は生徒の質問に答える形で生徒及び全職員の前で同校の独立についての説明を行った。生徒からは、事前に相談なく強制転校の措置をとった理由や、定通併修制度について質問がなされたが、穂積教育次長の説明はこれまで福井校長が繰り返し説明してきたところと基本的に変わるところはなかったため、生徒達は納得せず、穂積教育次長が当初の約束の九時三〇分を過ぎたので説明を終えて退場しようとすると会場は騒然となり、生徒達は校長を取り囲んで再度県教育委員会に来校して説明してもらうように要求し、一方、原告ら分会員は高教組の支援メンバーとともに体育館併設の準備室において穂積教育次長に再度生徒との話し合いの場をもつよう交渉した。結局、午前二時三〇分ころ、福井校長は生徒の要望を受けて、穂積教育次長を呼んで再度の来校説明を申し入れ、穂積教育次長も再度来校し説明すること、自分が来れない場合は代わりの者をよこすことを約束した。

4  福井校長及び重信教頭の辞表提出と新校長の発令

福井校長は、それまで県教育委員会が同校長の責任で事態の収拾をはかるようにと指示しておきながら、同月二八日高教組との交渉で来校を決定し、事前の根回しもなく突然学校現場に乗り込んできたことに対し、もう自分が収拾する場はなくなったと感じ、穂積教育次長らが帰った後、重信教頭と話し合って、同人と一緒に辞任することを決意し、福井校長及び重信教頭は、同月三〇日、同校の長谷部事務長を通じて辞職願と同三〇日の休暇申請を県教育委員会に提出し、そのまま出校しなくなった。

一方、同日午後六時三〇分ころ、県教育庁学校教育課産業教育係長坂口鉄夫外一名は、同月二八日の穂積教育次長来校の際の再度来校するとの約束を受けて教育次長代理として大宮第二高校に赴き、同校体育館で職員、生徒を前に独立までの経緯、定通併修制度の考え方、定通センター等について説明を行ったが、生徒、原告らは納得せず、「県単独事業として定時制を独立させることをここで確約せよ。」「定通併修をやめるということをここで確約せよ。」と要求し、翌朝午前七時ころまで両名を取り囲んでその回答を迫った。その後、原告ら分会員の連絡により、高教組委員長が来校し、教育長交渉を申し入れることになり、七月一日午前九時四〇分、高教組委員長を交え原告ら教師と生徒の一部が、教育長と両次長との間で交渉を行い、その中で教育長は「独立の時点で定通併修については検討したが、即結びつけたわけではない。定通併修制については将来の問題として検討していきたい。独立の時点で前もって根回しが足りなかったことは認める。校長、教頭については本日中に学校に出すよう努力するが、校長不在の責任は臨時管理職を選ぶということも含めて考えている。」と述べた。七月二日県教育委員会は、大宮第二高校のこれ以上の混乱を回避するため、辞職願を提出していた福井校長を県教育委員会事務局付けとし、後任の校長に宮崎県立工業高等学校の教頭であった浜田宣弘を七月一日付けで発令することを決定し、翌二日、右浜田に辞令を交付した。

三校長の職務権限と職員会議の法的性質について

本件各処分事由は、生徒から提起された独立問題が行政当局への要求運動へと進展していくなかで、学校運営のあり方をめぐる浜田校長と原告らとの対立のなかで発生したものであり、それは具体的には、主として浜田校長の職務命令に対する違反行為として構成されているものである。この点について、原告らは、教育課程の構成・実施、指導要録の作成、校務分掌、生徒処分など全校的教育事項、すなわち教育内的事項に関しては、校長を含む職員会議こそが審議・決定権を有するとしたうえで、全校的教育事項については校長は指導・助言をなすことができるにとどまり、職務命令を発することができないと主張する。そして、実際に、後述するとおり本件処分事由(職員会議放棄行為、校務分掌業務拒否行為、授業放棄行為、卒業式妨害行為)の経緯において、原告らは、職員会議が最高議決機関であることを主張し、職員会議を校長の補助機関ととらえる浜田校長と対立しているのである。そこで、まず、校長の職務権限と職員会議との関係、校長の職務命令の限界等について検討を加えることとする。

1 校長の職務権限について

学校教育法五一条が準用する同法二八条三項は「校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する。」と規定する。右規定は校長の職務権限を定めたものであり、右規定によれば、校長がすべての校務につき決定権があることになる。しかし、校務の中身を詳細に検討すると、人事、予算編成、施設管理などの人的・物的な教育条件に関する事務のほかに、教育課程編成、全校的な教材選択、生活指導の方針など、これ自体教育内容を規定する全校的教育事項ともいうべき事務があるのであり、そのうち、全校的教育事項については、それが、個々の教師の教育活動と密接に関連するうえに、教育専門的知識・経験の豊富な専門家によって多面的に検討されることを要する事柄であることからすると、校長に最終的な決定権はあるとはいえ、その一存で決定されるのは相当ではないというべきである。また、このことは、個々の教師の立場からは、その教育活動の自主性・独立性にかかわる問題でもある。即ち、教育活動は、教師が、教育に関する学問的成果をふまえ、その創意と工夫により個々の生徒の人間的成長を促す作用であり、そのためには何よりも、教師の主体性・自主性が尊重されなければならず、それゆえに教育の本質に照らし一定の範囲で教授(教育)の自由が憲法二三条により保障され、教育基本法一〇条一項では教育に対する行政機関等の不当な支配を禁じているのであるが、このような教師の教育に関する自主性・主体性は、授業内容の自主的編成等の個々の教師の教育活動の領域に限られず、それと密接かつ有機的に関連する教育課程編成、生活指導等の全校的教育事項の内容の決定についても十分尊重されるべきであると言えるからである。従って、学校教育法上は、明文の規定はないものの、教師の自主性、教育専門家としての知識、経験を尊重する立場から、全校的教育事項については、その決定手続において校長を含む教師集団の討議を経ることが望ましく、その討議の場として、広く全国の小・中・高の学校において学校内組織として職員会議が設置されているところであり、大宮第二高校の場合も同様である。したがって、校長は、少なくとも、全校的教育事項について職員会議を開催し、校長を含む教師間における十分な討議を経て決定するのが望ましく、右の手続を経ない決定はその内容の当否に拘わらず、当然に違法とまでは言えないにしても、校務を円滑かつ適正に運営するうえで、相当の負担を強いられることになっても止むを得ないところである。この点に関し、原告らは、更にすすんで、職員会議は学校の最高議決機関であり、その決定に校長は拘束されるべきであると主張する。たしかに、職員会議に自治的権能を肯定すれば、原告らの見解にも理由があることになるが、大学と異なり教育活動に主眼のある下級の教育機関について、憲法上、大学の自治に相応する教育の自治が保障されているとまでは解することはできず、また、全校的教育事項に限ってみても、校長が教師多数の意見を尊重するのが望ましいということは言えるにせよ、専門家である教師の多面的討議の結果を慎重に検討したうえで、教育専門職である校長において最終的な決定をなすことが、憲法及び教育基本法等の趣旨に反するとまでは解することはできないのであって、右主張は採用できないというべきである。

2 校長の職務命令について

原告らは校長は教育内的事項については職務命令を発することはできないと主張するので検討する。学校教育法五一条、二八条三項は、高等学校長の職務権限につき、「校長は校務をつかさどり、所属職員を監督する。」と定めており、右規定によれば、校長が校務掌理者として校務につき決定権を有し、校務を掌理するうえで教師を指揮監督する権限を有することが明らかであり、校務の中には教育課程の編成などの全校的教育事項が含まれることは前記1のとおりである。一方同法二八条六項は、「教諭は児童の教育をつかさどる。」と定めているが、これは教師の主たる職務を定めたに過ぎず、教育課程の編成などの全校的教育事項は、児童の教育に密接に関連し、教師の職務にふさわしい事項であって、校長は右権限に基づき教師に校務を分掌させ、包括的にあるいは個々的に職務命令を発することができると解するのが相当である。ただ、校長が右の監督権を行使するに当たっては、なるべく先輩教師としての指導助言により、それが何らかの事情により効を奏しないなど、例外的な場合に限って職務命令を発するという運用が望ましいことは言うまでもないところである。

四原告らの違法行為

1  校長等排斥行為(被告の主張2の事実)

(一)  被告主張の2の(一)、(二)の事実のうち、原告らが職員会議の決定として浜田校長の着任を認めないと主張したこと、校長、教頭が職員会議の開催等のため職員室に入室しようとするのを阻止したこと、一〇月八日までの間、原告らは、浜田校長、壺井教頭を排除した別表Ⅲ記載の職員集会を開催し、同表中生徒総会等実施状況の欄記載のとおり、連日独立問題について生徒総会、ロングホームルームを開かせ、一学期末テスト、一学期終業式、二学期始業式を実施しなかったこと、生徒会活動として一部生徒とともに街頭デモ行進、街頭演説、署名運動、ビラ配布、市民集会の開催、県教育委員会への要求書提出等を行ったこと、七月三日、浜田校長からの着任挨拶の申し入れに対し、原告らが、校長の紹介は、正式文書による事務引き継ぎを済ませ、福井校長が連れてきてなされるべきこと、県教育委員会に混乱の責任を明確にさせることを決め、その旨校長に申し入れたこと、七月七日浜田校長が県教育委員会において福井校長との間で事務引き継ぎを行ったこと、県教育委員会が壺井秀生を七月一五日付けで大宮第二高校の教頭に発令したことは当事者間に争いがなく、<証拠>を総合すれば、被告の主張2の(一)、(二)のその余の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(二)  右事実に対する原告らの反論について検討する。

(1) 原告らは、校長は校長の立場で学校運営に関与していたのであり、教職員との間には必要な範囲で校務運営上の連絡は保たれていた旨主張する。しかし、前記三のとおり、教育課程の編成等全校的教育事項についても最終的には校長に決定権があると解すべきところ、右認定事実によると、原告らは、事実上校長を排除した職員集会において、年度当初において校長により定められた教育課程、行事予定を変更して、授業時間を生徒総会、ホームルーム等に振り替え、一学期末テストを中止し、終業式、始業式を実施しなかったなど長期にわたって校長の権限を侵奪したということができ、この点は地方公務員の服務上の義務違反の情状として重いものがあると言わざるを得ない。なお、原告らはテストは生徒に対する教育評価であるから、教師または教師集団が決定すべきことであり、一学期末テストの中止を決定した職員会議は正当であると主張する。たしかに、テストは教師の教場における教育的裁量の重要な内容をなすものであって、その実施の時期、方法は原則として教師の自主性に委ねられているというべきであるが、<証拠>によれば、大宮第二高校においては例年、学科については統一テストを実施してきており、昭和四四年度においても年間の教育課程の作成にあたり、中間テスト、期末テスト等の統一テストの実施を職員会議の議を経て決定していることが認められるのであって、右事実からすれば、教師は年度当初において、統一テストになじまない学科は別として、自己の教育的裁量の内容の一部をなすテストの時期につき、全校的な拘束のもとに置くことを自ら承認したものと解するのが相当である。従って、統一テストは教育課程の一内容として全校的教育事項としての性質を有し、その変更は最終的には職員会議の議を経て校長が決定すべき事項と考えられる。

(2) 次に、原告らは、被告の主張のうち、正常な学校運営事項以外の事項までも学校運営事項として討議・議決・実施したという点について、何が正常で、何が非正常であるか特定されていないと主張するが、正常な学校運営事項については、校長、教頭を排除した職員集会で決定し、実施したこと自体が違法であり、それ以外の事項はいずれも大宮第二高校の独立に関するものであって、これらの事項について同じく校長らを排除して職員集会で決定し、殆んど連日にわたって生徒会を開催させ、さらに校長と対立した形で生徒らとともに街頭デモ、市民集会等を行なったことが、公務員としての服務違反になることも明らかであるから、ことさら何が正常か否かを論ずる程の必要はない。

(3) 原告らは、それぞれの職員集会には原告らの何人かは欠席しており、被告の主張は原告らの個別的事情を無視したものであると主張する。<証拠>によれば、別表Ⅲの職員集会欠席者欄記載のとおり、欠席者がいたことが認められるが、七月初めから一〇月初めまでの間に開催された三五回の職員集会の議題は独立問題をめぐる一連のものであり、原告ら全員がほとんどの職員集会に参加し、一番欠席の多い者でも二十数回は参加し、その決定に従って行動しているのであるから、原告らの行為を校長等排斥行為として処分事由の対象として評価するにつき、原告らの出欠状況の多少を考慮すべき事案でもないというべきである。

(三)  以上によると、前記(一)認定の原告らの各行為は、職員の法令等及び上司の職務命令に従うべき義務を定めた地方公務員法(以下「地公法」という。)三二条、職務に専念すべき義務を定めた同法三五条に違反することは明らかである。また、原告らの行為は長期間にわたって、学校の正常な運営を阻害し、その殆んどが生徒の面前で一部生徒を巻き込んでなされたものであるから、教育効果上も見過ごし得ないものがあり、<証拠>によると、原告らの行為は父母や県民の知るところとなり、新聞等でも報道され、教職の信用、名誉をも傷つけたことが認められるから、同法三三条にも違反するものである。

2  職員会議放棄行為(被告の主張3の事実)について

(一)  原告らは浜田校長から二度にわたり、「二学期授業の正常化並びに行事予定について」を議題とする職員会議を開催するので出席されたい旨の文書通知を受けたが、予定されたいずれの職員会議にも出席しなかったことは当事者間に争いがない。そして、右事実に、<証拠>を総合すれば被告の主張3(一)の事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

原告らは、八月二九日及び九月一日の職員会議の出席拒否には合理的ないし正当な理由があるとして、(1)八月二八日に原告らが行った職員集会において同じ議題について既に討議、検討済みであった。(2)福井前校長と浜田校長との事務引き継ぎが済むまでは浜田を校長として受け入れる筋合のものでなく、教育の混乱の責任は教育委員会の教育行政の不手際にあったから、同校長の職員会議出席命令に応ずることは到底できなかった旨主張する。しかし、(1)については、右議題は明らかに全校的教育事項に関するものであり、最終的には職員会議の議を経て校長において決定すべき事項であるところ、原告らが校長等を排除して開催した集会は前記三のとおり職員会議と評価するに値しないものであるから、出席拒否の正当な理由にはなり得ず、(2)についても、前記四の1のとおり原告らが浜田校長の着任を拒否することが許されない以上、出席拒否が正当化されるものではないことは明らかである。なお、原告らは、浜田校長は、自ら関与しない職員会議の結果を事実上追認していたと主張するが、仮に特定の事項につき、同校長が関与しない職員集会の議決と、同校長の決裁が結果的に同一であったとしても、そのことから直ちに同校長が右集会を適法な職員会議として追認したことにはならず、右主張は失当であるばかりか、同校長が右の意味で追認したことを認めるに足りる証拠もない。

(二)  次に、<証拠>によれば、被告の主張3(二)の事実が認められる。

この点について、原告らは、一二月一〇日の職員会議については、その前日の九日の深夜まで浜田校長との間で職員会議開催をめぐる交渉が行われたが、決着がつかず、翌一〇日の開催そのものが決定されなかったと主張し、原告小野本もそれに沿う供述をする。しかしながら、証人浜田宣弘の証言によれば、九日深夜の交渉の内容は、職員会議が最高議決機関であることを浜田校長が認めないならば、職員会議には出席しないとする原告らの抗議行動であることが認められ、また、浜田校長において右命令を撤回したことを認めるに足りる証拠もないのであるから、右主張は採用できない。

以上によると、原告らの行為は地公法三二条、三五条に違反することは明らかである。

3  校務分掌業務拒否行為(被告の主張4の事実)について

(一) <証拠>によれば、被告の主張4(一)(校務分掌組織及び校務分掌拒否発言等)の事実が認められ、これを左右するに足りる証拠はない。この点について、原告らは、校務分掌については、教師の本務でない校務を校長に代わって行うということであるから、校長が職務命令として行わせるというのは本来違法であると主張する。しかし、学校教育法五一条が準用する同法二八条六項は前記三2のとおり、教師の主たる職務を摘示した規定であって、教育以外の事務がその職務に属しないことまで意味するものではなく、一方、学校運営は、校務を掌る校長の責任において、教師を含む全職員が一致協力してなされるべきものであるから、校長は校務掌理の一内容として、校務分掌の組織及び人事を決定し、教師に校務を分掌させ、その職務につき監督権に基づき職務命令を発することは許されるものと解するのが相当である。

(二)(1)  公文書等の受領拒否等(同4(二)の事実)について

原告小野本、同原、同樋口、同井野、同成合ら五名は別紙校務分掌目録中校務分掌欄記載の部長として各部の運営に当たらねばならない職務を有しながら、同目録中件名欄記載の各公文書等の受領を同目録中受領拒否年月日欄記載の各年月日にそれぞれ拒否したことは当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、従来より、各部長は校務分掌上処理すべき文書を用務員から受領すると、受領したことのしるしとして文書件名簿の受領欄に日付を書いて受領印を押し、職員に連絡を要する事項については暮礼時等において担当の部長が連絡事項の発表を行い、校長はそれによって処理状況を確認し、報告を必要とする文書については処理が済めば担当の部長は文書件名簿にその旨記載し、校長の確認をうけることとされていたが、右原告らが文書の受領を拒否した結果、別紙校務分掌目録受付番号八二三、同八二八、同九一七の各文書については、山内主事において右原告らに代わって処理せざるを得なくなり、同八一七、同八四八、同八四五の各文書についてはその処理を校長に報告を要する文書であるのに期限までに報告がなかったこと、以上の事実が認められ(なお、同八二〇の文書は原告成合において期限までに処理し報告がなされたことが認められる。)、これを覆すに足りる証拠はない。この点について、原告らは、所管事項で教師に伝えるべきことは暮礼時や職員会議の席で伝え、生徒に伝えるべき注意事項は学級担任を通じて指導するなどの処理をしていたと主張するが、これに沿う原告小野本、同原の各供述は、結局、どの文書についてどのような処理がなされたか具体的に明らかでないうえに、後記(5)のとおり原告ら各部長は一二月一三日以降、連絡事項の発表を拒否していることに照らし、措信できない。本文に掲記した右八文書以外の文書については、受領拒否後いかなる処理がなされたか必ずしも明らかでないが、前掲各証拠によると、少なくとも暮礼時や職員会議の席での連絡がなかったことは認められ、前記認定の文書の処理手続からすれば、校務分掌に従った職務の遂行はなかったものと認めざるを得ない。

(2) 運営委員会への出席拒否等(同4(三)の事実)について

原告小野本、同原、同樋口、同井野、同成合らが、一一月一三日午後二時及び同月一七日午後二時にそれぞれ予定されていた運営委員会に出席しなかったことは、当事者間に争いがなく、右事実と証人浜田宣弘の証言によれば、同4(三)の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

この点について、原告らは、予算審議に必要な資料の提出を校長が拒否したので審議をしても無意味と判断して出席しなかったのであり、むしろ、浜田校長が原告らの審議権を認めない態度をとったのであるから出席拒否には正当な理由がある旨主張する。しかし、<証拠>によると、原告らは結局、予算審議に必要な資料の範囲を含め、審議のあり方、運営委員会の決定権の有無などの意見の対立を理由に運営委員会に出席を拒否したものと認められ、右の点の意見の対立を理由に出席することを拒否することは不出席を正当化する理由とならないことはいうまでもなく、また、浜田校長が原告らの審議を不要とする態度をとったことを認めるに足りる証拠もないのであるから、原告らの右主張は理由がない。

(3) 二学期末テストの不実施(同4(四)の事実)について

原告成合が二学期末テストの時間割を発表しなかったことは当事者間に争いがなく、右事実に<証拠>によれば、同4(四)の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

これに対し、原告らは、教師ないしその集団は、教育の内的事項については法的自主性が保障されており、校長の指揮監督権限は教育内的事項に及ばないとし、原告成合に対する右職務命令は校長の教育に対する不当な支配であり、違法であると主張するが、右職務命令は単に時間割作成という校務分掌上の事務処理を対象としてなされたものであって、教育活動に対する不当な支配とは言えない。また、原告らは、原告成合は、一二月段階での生徒の状況をふまえ、期末テストの実施の可否について教科担任の意見を聴取した結果、テストの実施は不可能と判断し、そのうえで、一二月一七日の職員会議でテスト中止を提案し、了承された旨を主張し、原告成合はそれに沿う供述をする。しかしながら、右供述によっても、時間割を発表すべき期限である一二月八日以前において原告成合が時間割作成に向けて努力した形跡は全くないうえに、一二月九日には前記認定のとおり「本校の校務分掌の組織はなくなっているので、教務ではなく、校長がやるべきだ。」として時間割作成を拒否する意思を表明しているのであるから、同原告の行為が原告らの一連の校務分掌拒否の一環としてなされたことは明らかである。更に、当時の生徒の状況についても、証人黒木正文の証言、原告成合の本人尋問の結果によれば、二学期中間テストの際に、極一部の生徒が、定期テストをボイコットするように生徒に呼びかけたことがあり、一二月の代議員大会で定期テストの廃止等が職員会議への要求として提案されたことは認められるとしても、それが、生徒大多数の意見であったかは証拠上明らかでなく、かえって、<証拠>によれば、一二月一八日の生徒総会では生徒から、学期末テストを行わなかったことに対する懐疑の声が出ていることが認められるのであって、果たして期末テストの実施が不可能な状況が学内にあったのかは疑わしいというべきであろう。また、仮に、テストを実施する意思のない教師が大半であったとしても、他にテストを実施する意思を有する者がいる限りは、時間割を作成しなければならないのであって、教科担当の教師全てが、テスト実施を行わない旨の意思を積極的に表明していたと認めるに足りる証拠もない以上、原告成合の右職務が解除されたと解することもできないというべきである。よって、右主張は理由がない。

(4) 生徒の登校拒否に対する指導拒否(同4(五)の事実)について

まず、<証拠>によれば、一二月一七日、浜田校長は、生徒総会における生徒の登校拒否の提案が誤っていることを指導するよう職員特に生活指導部長である原告小野本に指示したこと、さらに、一二月一八日、浜田校長は暮礼時に、同日の生徒総会で生徒会総務委員会からの登校拒否の提案(右提案がなされたことは当事者間に争いがない。)についての審議が行われることに鑑み、職員特に生活指導部の職員に対し、生徒が登校拒否をしないよう十分指導されたい旨指示したが、原告小野本、同原、同井上、同出口らは、浜田校長に対し、「どのように指導したら良いのか。校長が指導せよ。我々はそのような指導はしない。責任は校長にある。」「校長には教育者としての資格がない。」などと述べたこと、また<証拠>によれば、原告らは、一二月に入って生徒とともに校名変更等について再三教育委員会への陳情を要求していたが、同月一五日以降は、生徒とともに、浜田校長に対し、校名変更が一八日の県議会に提案されるように知事や議会への働きかけを要求し、同月一七日の生徒総会において、浜田校長が登校拒否提案が誤っていることを説いたのに、原告小野本らは「校長は行政的立場のみを考えて積極的に動こうとしない。」として県議会に対する校長の働きかけが足りない旨非難するなど、生徒と一体となった行動をとっていること、総務委員会が登校拒否の提案を決める際には、原告小野本ら生活指導部の者が出席していたこと、一二月一八日、一九日、二〇日に開かれた定足数不足の生徒総会において総務委員会からなされた登校拒否の提案につき、討論がなされ、二〇日には右提案につき採決(賛成五反対一二八で否決)にまで至ったことが認められ、右事実は、原告小野本において登校拒否の提案に対する適切な指導がなされなかったことを窺わせる事情である。しかし、他方、原告小野本、同斉藤は、同人らにおいて、総務委員会に対し、登校拒否の提案をしないように説得し、生徒総会においても登校拒否をしないように指導した旨供述し、<証拠>によれば、一二月に入って、生徒は、恒久的な校名変更へと運動の重点を移し、生徒総会、ホームルームなどで校名変更を討議し、当時開かれていた県議会に対してなし得る陳情の期限が迫ってきたため、浜田校長に対し、期限に間に合うよう知事への陳情を強く要求していたこと等が認められるのであって、このような生徒の動向からすると、総務委員会が原告小野本らの指導にもかかわらず、右提案を維持し、採決にまで持ち込んだ可能性も考えられ、前記説得、指導をしたとする原告小野本、同斉藤の各供述の信用性をただちに否定することはできない。よって、この事実については、校長に対する前記のような校務分掌放棄と受け取れる発言があったことは認められるものの、実際に職務を放棄したとまでは認めるに足りる証拠がないといわなければならない。指導がなされたにも拘わらず、結果的には登校拒否がなされたことは指導が適正さを欠いたとも考えられないではないが、そのことをもって、校長の指導命令を拒否し、積極的に職務を放棄したとまで認めることはできない。

(5) 連絡事項の発表拒否(同4(六)の事実)について

<証拠>によれば、一二月一九日、壺井教頭が原告井野、同樋口、同小野本、同原、同成合ら各部長を指名して二学期末を控えての各部の連絡事項の発表を指示した際、原告ら各部長は、全員無言でこの指示を無視し、一二月一三日以来の態度を続け、その職務を放棄した事実のほか、被告主張の原告成合に関する同月二二日、一月八日の職務放棄の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

以上によると、原告らの各行為は、校長の包括的((二)の(1)の公文書の受理及び報告の懈怠につき)ないし個々的な職務命令に従わなかったものであるから、地公法三二条、三五条に違反する。

4  授業放棄行為(被告の主張5の事実)について

(一)  同2の(一)の事実のうち、一月一二日生徒総会で授業拒否の提案が可決されたこと、別紙担当授業目録中原告氏名欄記載の原告らは、同目録職名欄記載の職にあり、大宮第二高校生徒の教育を掌る職務上の義務を負い、具体的には同目録「昭和四五年一月一三日から同月一七日までの具体的授業の義務」欄記載の義務を負っていたが、右授業の実施をしなかったことは当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、同5(一)のその余の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

この点について、原告らは、教師らが授業を実施できるような客観的状況は存せず、むしろ登校拒否が学校内に生徒不在の事態を起こさせるおそれがあったのであるから、登校させて生徒間の討議を保障するのが教育的配慮であり、適切な生徒指導であったと主張する。

そこで、まず、生徒の授業拒否の決議までの経緯をみると、前記認定のとおり、一二月ころから、生徒らは恒久的な校名変更を要求して教育委員会、県議会、知事への陳情の取り付けを浜田校長に要請し、右要求を実現するため、同月中旬には否決はされたものの、総務委員会から登校拒否の提案が生徒総会になされたのであるが、<証拠>によれば、生徒は、一月八日、九日の生徒総会(但し、定足数不足)において、二月県議会での校名変更を実現するため、知事、県議会への陳情の取り付けを浜田校長に要求し、それが入れられない場合には一月一二日から同月一七日まで一週間の授業拒否を行うことを討議し、一〇日にはその旨浜田校長に申し入れ、同校長の授業に専念するようにとの説得にもかかわらず、一二日の生徒総会において授業拒否提案を賛成一一九、反対八九(但し、定足数不足)で可決した。一方、浜田校長は、授業時数を確保するため、一月九日の暮礼時にホームルーム主任に正規の授業がなされるよう指示したが、原告らはこれに反発し、授業時数確保の件を議題とする一〇日の職員会議においては、現状を打開するには校長が教師代表と生徒代表とともに知事部局、県教育委員会に陳情の取り付けをする以外にない旨主張し、職員会議を学校の最高意思決定機関と認めない限りは審議に応じられないとした。一月一二日、浜田校長は、職員会議において原告らに対し、正規の授業が行われるように生徒を指導するよう指示したが、原告らはこれに反発して、浜田校長の指示に従おうとはせず、また、議長による職員会議打ち切りの採決に対し、同校長が職務命令によって会議続行を命じたにもかかわらず、原告らは、右命令に従わず、職員室を退室した。その後、原告らは、校長室に押しかけ、生徒総会における授業拒否の可決を背景に「職員会議が学校における最高議決機関であることを認めよ。」「知事交渉に行け。」と浜田校長に強く迫った。以上の事実が認められる。

右事実によると、生徒総会に出席した生徒のうち授業拒否の決議に賛成したのは、一一六名で全校生徒の約四分の一にすぎず、しかも右決議において反対者が八九名もいたのであるから、生徒の大多数が授業を拒否している状況にあったとは認められず、また、教師と生徒間の信頼関係が失われるなど授業の実施を不可能ならしめるような特別の事情も窺えないことからすれば、原告らが主張するように当時、授業を実施し得ないような客観的状況にあったとは考えられない。更に、原告らは教育的配慮により、授業を実施しなかったと主張するが、一月八日以降、原告らが、授業拒否の提案をやめるよう説得するなどした形跡はないことや、一月八日以降の原告らの前記言動やハンストの目的等を総合して考えると、むしろ、原告らは、一部の生徒と一体になって、浜田校長に対し、県議会、知事への陳情取り付け要求を行ない、生徒の要求に歩調をあわせる形で授業を実施しなかったものと見るのが相当である。

次に、原告らは、校長の授業実施命令は、その指揮監督権の及ばない教育の内的事項に不当に干渉するものであり、違法であると主張するが、校長は教育内的事項についても指揮監督権を有すること、その行使にあたっては教師の自主性を尊重する立場から、なるべく先輩教師としての指導助言によることが望ましいことは前記三で述べたとおりである。したがって、教師の教育活動について、教師の自主性が尊重されるべきであるとしても、その主たる職務である授業を実施するか否かについての自由まで保障されているとは到底解することはできず、校長において教育課程の実施のため、教師に対し職務命令を発したことに格別問題はないというべきである。よって、右主張も理由がない。

(二)  <証拠>によると、被告の主張5(二)の事実が認められる。右認定に反する原告小野本の供述は、前掲証拠に照らし採用できない。

この点について、原告らは、生徒間の無用の混乱を回避し、整然とした行動をとらせるためのやむをえない措置であったと主張するが、原告らの授業放棄自体が違法であるうえに、右行為は授業を受けている生徒の学習権を侵害するものであるから、右主張は到底採用できない。

以上によると、原告らの行為が地公法三二条、三五条に違反することは明らかである。

5  無断出張行為(被告主張6の事実)について

原告斉藤、同出口、同小野本、同吉野、同原は、延岡第二高校に同年一月一四日午前一〇時から午後六時三〇分までの予定で出張したい旨の出張伺を壺井教頭を通じて浜田校長に提出し、一月一四日、延岡第二高校に赴いたことは当事者間に争いがなく、右事実に証人浜田宣弘の証言を総合すると被告の主張6の事実が認められる。なお、原告らは、右出張は慣行に従ったもので、無断出張と評価しうるものではないと主張するが、右主張の慣行も無許可の出張を容認するものではなく、右認定のとおり、浜田校長が出張を許可しないことを事前に通知している以上、右主張は理由がないというべきである。原告らの右行為が地公法三二条、三五条に違反することは明らかである。

6  校長室不法占拠行為(被告の主張7の事実)について

原告原、同井上、同樋口、同成合、同竹下ら五名が、校長室においてハンストを行ったことは当事者間に争いがなく、<証拠>を総合すれば、

昭和四五年一月一六日暮礼時、浜田校長は原告らを含む各職員に対して授業実施命令書を手渡し、授業を行うよう業務命令を発したが、これに反発した原告らの一部が暮礼後校長室に押しかけ、「授業へ行きなさい。」と命ずる同校長に対し、暴言、罵声を浴びせたうえ、原告樋口が「校長が我々の言うことを聞かなければ我々もこれからハンストに入る。」と宣言し、原告原、同井上、、同樋口、同成合、同竹下ら五名は、同校長の制止を押し切ってその場に座りこんでハンストと称する校長室占拠を始めた。原告竹下、同成合は、同日午後一一時ころ、体育館の柔道用畳五、六枚と右原告ら五名分の布団を校長室に持ち込みハンストを続行し、同校長の退去要求にも応じなかった。

翌一七日暮礼後校長室に帰った浜田校長が、ハンスト中の右原告ら五名に「出ていって授業をしてもらいたい。」と職務命令を発したのに対し、右原告ら五名は、「お前は人間ではない。」「校長が我々の言うことを聞かないからこういうことになるんだ。」と強く反発し、同校長の職務命令を無視し、これに応じなかった。この後、右原告ら五名と一部の原告らは、右校長室で校長交渉と称して同校長に対して知事、県教育委員会への陳情取付けを行うよう要求し、原告原は、前日原告らに同校長が発した授業実施命令一〇数枚を「こんなものは返してやるから受け取れ。」などと申し向けて同校長の着用していた上着のポケットへ押し込もうとしたが、同校長は手でこれを振り払った。さらに同一八日、午前〇時三〇分ころ、浜田校長が椅子を元に戻して机のところに再び座っていると、原告井上が、同校長が職員会議の決定に従わないというようなことで非常に激昂して「校長」と大声で言いながら同校長の机の横にあった応接椅子のところから同校長の前まではだしのまま突っ走って来て、畳のへりのそばにあった靴を振り上げて、「ああ、ハゲラシイ。」と叫びながら同校長の前の机を右靴でたたいた。同日午前二時五〇分ころ、長椅子のところにいた原告原は、同校長に対して、「ハンストをやっていても、最後には校長と刺しちがえるだけの余力は残しておくぞ。校長は出刃包丁がよいか、刺身包丁がよいか。」と述べた。

原告原の右発言の後、分会長である原告出口が、ここで相談するため休息を取るから、校長、教頭は外に出てもらいたいと言ったため、浜田校長及び壺井教頭は校長室を出て職員室の方に行っていたが、しばらくして入ってくれということで再び校長室に入ったところ、原告出口が「今日はこれで終わります。帰ってください。」と言ってその場に残っていた原告らが囲みを解いたため、同一八日午前三時ころ、ようやく同校長と教頭は解放された。

以上の事実が認められ、右認定に反する原告原の供述は、<証拠>に照らし、採用できない。

なお、被告の主張のうち、同日午後一〇時五〇分以降、同校長に対し、抗議と称して、原告原、同樋口、同井上らが、口々に「校長はやめてしまえ。」「校長、お前は土下座して謝れ。」などと暴言、罵声を浴びせ、また、事務机に座っていた同校長を椅子のまま後から押して柔道用具のところに身体ごと持っていき、「ここに座れ、早うせんか、ばか。」と暴言をはき、暴行を加えながら校長を前へ突き出し畳のところへ座りこませたという点については、それに沿う証拠として乙第二二号証の二があるものの、証人浜田宣弘の供述からは、右発言及び暴行の主体は明らかではなく、また、乙第二二号証の二、同証言等によれば、当時校長室には、ハンストを行っていた者以外の原告らの一部や生徒が在室して浜田校長に対し、抗議を行っていた事実が認められ、右発言等が原告原、同樋口、同井上ら以外の者による可能性も否定できないことからすると、結局、これを認めるに足りる証拠はないというべきである。また、原告原の浜田校長に対する「ハンストをやっていても、最後には校長と刺しちがえるだけの余力は残しておくぞ。校長は出刃包丁がよいか、刺身包丁がよいか。」という発言はそれ自体脅迫的言辞ではあるとしても、浜田証言及び当時の客観的情況に照らすと、気概を示すのに言葉が過ぎたというにすぎず、右発言をもって脅迫がなされたとまでは認定することはできない。

なお、原告らは、ハンスト自体は、浜田校長のいわばなすべき学校運営(この場合教育委員会や県議会への交渉)の懈怠を正す性格を持つものであり、その目的において正当であり、手段も特に非難するにあたらないと主張する。しかしながら、生徒及び原告らの要求は、校名変更の議会、知事への陳情の取り付けという校長本来の職務を超える行為を求めるものであり、浜田校長において、これに協力して取り付けをなす義務はないというべきであるから、右目的は正当とは言い難く、その手段も、前記のとおり、校長室を占拠し、同校長の執務を妨害したばかりでなく、深夜まで抗議行動を繰り返したものであって、常軌を逸していると言わざるをえない。よって、右主張は到底採用できない。

原告らの右行為は、地公法三二条、三五条に違反することは明らかであるが、さらに前記認定のとおり、原告らの行動は学校内において生徒の面前で一部生徒をも巻き込んでなされ、教育上悪影響を与えたことのほか、<証拠>によると、原告らの行動が新聞等の報道で父母や県民の知るところとなり、教職の信用、名誉をも傷つけたことが認められるから、同法三三条にも違反するものである。

7  卒業式妨害行為(被告主張8の事実)について

二月一四日の職員会議で企画委員会が設置され、同月一八日には右委員会の構成が決められたこと、壺井教頭が同月二七日の職員会議で卒業式の式次第に関する修正案を提出したこと、浜田校長は同月二八日原告らに対し、同校長の決めた式次第のとおり卒業式を実施するようにとの職務命令を発し、式次第を印刷しプリントを配布するように求めたが、原告らは、これを配布しなかったこと、三月一日午前六時ころ、原告成合が浜田校長に対し、同校長の右職務命令に従う旨の連絡をしたこと、卒業式の会場で生徒会長が卒業生にマイクで呼びかけていたこと、浜田校長が卒業式を中止し、会場から退出し、原告らが校長不在のまま卒業式を行ったことは当事者間に争いがない。<証拠>によると、被告主張の第二、四8の(一)及び(二)のその余の事実を認めることができ、これを覆すに足りる証拠はない。

ところで卒業式は、高等学校生活の締めくくりをつけ、これからの社会生活(あるいは上級の学校生活)のあり方を自覚させるとともに父母や広く地域住民の祝福する場に参加させることによって社会や国家への所属感を深めさせるところに、教育上の意義があり、重要な学校行事の一つとされるゆえんがある。前記認定によると、校長側の対応に全く問題がなかったわけではないが、結局原告らが校長の職務命令に従わなかったため、在校生、父兄、来賓が列席する中で、卒業式のやり方をめぐって紛糾するという事態を生ぜしめたのであるから、原告らの行為は地公法三二条、三五条のほか、三三条にも違反するというべきである。

原告らは、校長は二月二七日の職員会議で決定した企画委員会の案で卒業式を実施する義務があると主張するが、前記認定によると、同日の職員会議では卒業式の式次第を決定するまでには至っていなかったのであり、また職員会議の性格は前記三で述べたとおりであり、最終決定権は校長にあるのであるから、原告の主張は理由はない。

次に原告らは、校長は同月二八日突如、卒業式の式次第を記載した文書を配布するよう指示して職務命令を発したが、これまでの経過から右職務命令は実施不能で無効であり、生徒の混乱を避けるため右文書を配布しなかった旨主張するので判断するに、前記認定の経過のほか、証人浜田宣弘の証言によると、浜田校長としては原告らや生徒の案に取るべきものがあれば取入れるつもりで、企画委員会の設置を承認したが、原告らは企画委員会や職員会議において、学校の意思は最高議決機関である職員会議で決定され、校長もこれに従わなければならないとの立場から、数において劣勢の校長や教頭の意見を取り入れることを拒否し、卒業式の式次第に校長の別れの言葉を不要としたばかりでなく卒業証書をその授与権者である校長(学校教育法施行規則六五条、二八条、宮崎県立学校管理規則一一条)の手を経ずして全職員の手によって卒業生に渡すという、校長の立場を無視し、その権限を排除するかのような式次第で卒業式を強行しようとの態度を示したため、浜田校長としても最終的には職務命令を出さざるを得なかったこと、原告らとしてもそれまでの経過からして校長が企画委員会の案を到底受け入れないであろうことは十分予測していたこと、浜田校長は二月一九日、同月二七日には原告斉藤に従来の方式で実施したい旨主張したほか、同月二一日、同月二五日には原告斉藤、同成合に対し、生徒にも右同様のことを伝えて指導するよう指示したが、同原告らは全く取り合わず、式当日早朝になって電話で校長の意図するような卒業式を実施することになった旨連絡をとりながら、実際にはその方向に向けて生徒を指導するような措置を全くとらなかったことが認められるのであって、以上の経過からすると、原告らとしては卒業式の実施についてむしろ敢えて校長と対決する途を選んだというほかはなく、二月二八日の段階に至っては、もはや職務命令に従って生徒を指導するには相当の困難を伴う事態になっていたことは否めないところである。しかし、そのような状況に追い込んだ責任の大半は原告らにあるというべく、原告らとしては全力を挙げて職務命令に従った卒業式が実施できるように準備し、生徒を指導すべきであったのであり、またそれが可能であったと認められるから、原告らの主張は理由がない。(右の指導をしたが、結果的に整然とした形で卒業式が実施できなかったとしても、全く指導の努力をしなかったのとは自からその評価が異なることはいうまでもない。)

8  生徒指導拒否行為(被告主張9の事実)について

(一)  生徒会活動に対する指導懈怠(同9(一)、(五)、(六)、(八)の事実)について<証拠>を総合すれば、

(1) クラブ活動、生徒会活動、ホームルームに対する指導(生活指導)は教育課程上特別教育活動とされ(学校教育法施行規則五七条)、大宮第二高校の昭和四四年度の行事計画では、生徒総会は、四月に一回だけ開く予定であった。

(2) 七月一日以降、浜田校長が受け入れられた一〇月九日までの生徒総会(その実施状況については別表Ⅲのとおり)では、独立問題、浜田校長への対応・教育委員会への要求書提出・夏季休業中の独立問題への取り組み(具体的には街頭デモ、署名活動等の実施)・浜田校長受け入れ等の議題が、生活指導部に属する教師立ち会いのもとに討議され、その決議に基づき生徒の一部と原告らが、生徒会活動として街頭デモ、署名活動等(その実施状況は別表Ⅲの生徒総会の実施状況欄のとおり)を行った(九月七日の街頭デモについては当事者間に争いがない)。これらの行動に伴ってビラや文書が生徒会によって作成され、生徒や一般市民に配布された。

(3) 一〇月三一日、原告小野本の「一一月二日にデモを行う。そのため、本日生徒総会を開きたい。」との提案に対し、浜田校長は「デモは認められない。そのための生徒総会は必要ではない。」と指示したが、原告小野本らはこれに従わず、三、四限に生徒総会を行った(同9(五)の事実)。

一一月五日、職員会議において、文化祭の一環として街頭デモを行うことについて原告らと浜田校長との間で意見が対立し、校長は原告らに対し、文化祭でデモを行うのは勤務時間中であるので好ましくない旨指示した。

同原告らの要請で開催された同月七日の職員会議で、原告らがデモ行進の実施について採決を強行したため、浜田校長は勤務時間中のデモ参加は認められないと原告らに指示したが、同原告らはこれに従おうとせず、一方、生徒は同日の生徒総会(三、四限)においてデモ行進を全員参加の建前で実施することを決定した。

同月八日暮礼時、浜田校長が同原告らに対し、生徒に翌日予定のデモ行進を中止するよう指導されたい旨指示したが、同原告を含む原告ら数名はこれに反発し、生徒一四名とともに校長室に押しかけ、深夜に至るまで抗議した。同原告らは翌日、生徒(約一五〇名)とともに県庁前から学校までデモ行進を行った。(同日のデモ行進の事実は当事者間に争いがない。同9(六)の事実。)

(4) 一一月一五日、二三日の生徒総会では校名変更について討議がなされ、二三日、生徒は街頭で校名変更の署名活動を行った。一一月二七日、浜田校長は、職員に対し、「生徒会開催による教科授業の削減が心配されるので、その点を考慮して生徒指導されたい。」と指示したが、原告らは「これは校長の責任だ。校長がやれ。」と反発し、結局、同日三、四限には生徒総会が開催され、署名簿提出、陳情、デモ、校名等について討議された。また、一一月二八日には、ロングホームルーム(二限)、生徒総会(三、四限)でストライキ提案について討議されたが、右提案は否決された。一一月三〇日、生徒及び原告らは街頭デモを行った。

(5) 一二月五日、浜田校長は全職員、生徒代表二〇名とともに県教育委員会に独立問題について陳情を行った。一二月一三日、生徒総会では、原告ら及び生徒の一部は、浜田校長に対し、校名変更について県教育委員会、県教育委員長宅、県教育長宅に陳情に行くことを要求し、その後生徒の一部と原告らは深夜県教育委員長宅へ押しかけた。

一二月一五日、浜田校長は原告らの一部とともに県教育委員会へ校名変更についての陳情を行った。同日浜田校長は二学期末テストが実施できないのであれば、授業を実施するよう指示したが、原告らはこれを拒否し、この日も校名変更、登校拒否について生徒総会(一ないし四限)が開かれた。一二月一六日、生徒総会において、原告らは生徒とともに知事への陳情行動を要求し、午後八時ころ、校長の制止を振り切って生徒(約一四〇名)とともに知事公舎へ赴いた。

(6) 一二月一七日、生徒総会(一、二限)では、校長に対し、開会中の県議会への陳情を要求され、浜田校長は右要求が適切でないこと、要求実現の手段として登校拒否は誤っていること等を説いたが、原告らは、浜田校長は県議会に対する働きかけが足りないと非難した。ロングホームルーム(三、四限)では登校拒否問題等について話し合われた。翌一八日、暮礼時、浜田校長は生活指導部においては生徒の登校拒否が行われないよう指導することを指示したところ、原告らは「校長が指導しなさいよ。我々はそんな指導はせん。責任は校長にあるんですよ。」等強く反発した。一二月一八日(一〜四限)、一九日(二〜四限)、二〇日(二、三限)に生徒総会が開かれ、総務委員会からの登校拒否提案について討議されたが、結局賛成五、反対一二八で否決された(同9の(八)の事実)。

(7) 一月八日、九日のホームルーム、生徒総会(但し、定足数不足)において、生徒は、二月県議会での校名変更を実現するため、知事、県議会への陳情の取り付けを浜田校長に要求し、それが入れられない場合には一月一二日から同月一七日まで一週間の授業拒否を行うことを討議し、一〇日の生徒総会においてその旨浜田校長に申し入れた。一二日の生徒総会において、同校長の授業に専念するようにとの説得にもかかわらず、授業拒否提案が賛成一一六、反対八九(但し、定足数不足)で可決された。その間、浜田校長は、原告らに対し、再三にわたり正規の授業が行われるよう生徒の指導を指示したが、原告小野本らは生徒と同様、浜田校長に知事・議会への陳情取り付けを要求し、右指示に従おうとはしなかった。

生徒は右決議に基づき一月一三日から一七日まで授業を拒否し、その間、原告らも授業の実施を放棄した。

以上の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

被告は、生徒会活動は学校が教育目的のために定めた授業計画等と調和がとれるように行なわれるべきであり、まして生徒会活動として街頭デモ等の政治行動をすることは正常な生徒会活動から逸脱していることは明らかであると主張し、原告らは高校生にも政治活動の自由が保障されており、生徒会活動が逸脱しているかどうかは客観的状況を踏まえ慎重に判断すべきであり、当時の学校紛争の状況に鑑みると、原告小野本の生徒指導は適切であった旨主張する。

そこでまず、右主張の対立点の一つである高校生の生徒会活動として政治的行動が許されるかという問題について検討する。この点について、教育基本法八条一項は「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」と定め、これを受けて学校教育法四二条三号は「社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること」を教育の目標として掲げているが、一方教育基本法八条二項は「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と定めているところであって、これらの規定を参酌すると、未成年者を主な対象とする高等学校においては、生徒はまず基礎的教科の学習によって政治的教養と健全な批判力を身につけることが期待されており、特別教育活動としての生徒会活動も学校生活の充実向上を図るための自治活動の範囲に止まらず、やゝもすると党派的主張と結びつき易い政治的実践活動を特別教育活動として取り上げることは、教育効果の点からも政治的中立性の点からも大いに疑問の存するところである。また、生徒総会において、街頭デモ等を決議し実施することは、決議に賛成しない生徒個々人の政治的自由を事実上侵害するおそれがあり、いずれにしろ政治的中立性の要求される公教育の性質に照らし妥当とは言い難いこと等からすると、一般には、教師の特別教育活動の限界を超えるものと解する余地がある。しかし、一方、特別教育活動が、生徒の人間的な成長を促す作用であり、その手段、方法は教師の裁量に委ねられている部分が大きいことを考えると、教師において右に指摘した問題性を十分認識したうえで、あえて高度に教育専門的見地から、生徒個々人の政治的自由を侵害しないよう(具体的には政治行動に参加する者は有志の者に限定するなど)に配慮しつつ、指導することまでも、禁ずる理由はないというべきであろう。ただ、その場合には、生徒会という学内組織の性格に鑑み、生徒の学校内における教育諸条件に密接に関連した要求運動としてなされ、党派性の薄いものであることが必要である。このような観点からすれば、独立問題とそれに伴う要求運動は、生徒の教育条件に密接に関連するものではあるが、少なくとも当初は定通併修反対に見られるとおり、必ずしも党派性が薄いものとは言えず、既に県議会で決定し、校長を含め教師や生徒のみの努力では如何ともし難い問題であって、生徒会活動として行うについては教育的観点及び政治的中立性についての配慮が不可欠であって、これを適正に指導することは非常に困難を伴うところである。<証拠>によれば、原告らは、六月末の生徒会のスト決議に対し、分会においてスト支援態勢について意思集約をなし、七月一日には、校長に解決の努力をせまりながら、一一月まで期限付の授業放棄を繰り返していく旨確認し、浜田校長着任については、生徒と意見交換をしながら最終的には受け入れないということで意思統一をはかったこと、七月九日の職員集会においては、「独立問題解決のため、テストをただちに放棄して生徒総会を行う姿勢を確立できる力量が生徒にあることが望ましいが、現実にはテストに入ることにより、闘いの体制を弱めることになる。」として、一学期末テストを中止し、七月一一日、一二日には、教育委員会への独立問題に関する要求書を作成したうえ、七月一四日生徒とともに右要求書を提出したこと、また、原告らは、「夏休みに入れば、せっかく盛り上がった生徒の運動が沈滞してしまうので、何とか維持するために、夏休みにはいっても週二回は登校させる。」ことを決め、同月二一日には、原告らの夏休み中の取り組みとして週一回程度の街頭デモ行進、署名運動を行い、市民集会を開催し、教育委員会へ再度回答を迫る等の運動を行うことを決定し、生徒とともに実施していったことが認められ、右認定事実に、前記(1)ないし(7)の事実を総合すれば、原告らは、七月一日以降、教育専門的見地から前記の諸点を配慮しつつ指導したというよりは、むしろ生徒と一体になって、生徒の要求運動を支援し、生徒会活動としてデモ行進等を指導していたものということができ、原告らとくに生活指導部長である原告小野本の生徒会活動に対する指導は適切さを欠いたと言わざるを得ない。

さらに生徒会、ホームルームで登校拒否、授業拒否、ストライキについて議題とした際の生徒指導のあり方について検討する。公教育における学校は、生徒の人間的成長を含む教育の目的達成のために一定の計画に基づき、多数人を対象とし、継続的に教育活動を行う社会的使命を担う施設であり、生徒はこのような教育施設に自己の教育を包括的に委託したものであることに鑑みると、生徒の在学関係は一面的な権利義務のみでは律し得ないのであって、生徒が学校の定めた計画に従って授業等を受けること、あるいはそのために登校することは、生徒の教育を受ける権利に属するとともに、学校が教育機関として機能するための不可欠の前提となる意味で義務とも目される側面を有し、また反面生徒の教育を受ける権利を実質的に保障する立場にある学校側からすると、生徒が登校拒否等をすることを、自から教育を受ける権利を放棄するものとして放置することは許されず、登校拒否等自体がまさしく生活指導の対象として教育的措置を必要とするところである。また、生徒会の意思として登校拒否等をすることは、これに反対する生徒の授業を受ける権利を侵害することにもなるのであるから、このことをも勘案すると、前記認定の校名変更の手段としても是認し得ないと言わざるを得ない。したがって、原告小野本としては、校長の指示を待つまでもなく、生活指導部長としての職責上、その提案が生徒会において討議すべき事柄ではないことを指摘して、適切に指導する義務があったのに、一月八日以降の「授業拒否について」の生徒総会(集会)に対しては、何ら適切な指導をした形跡はないのである。

一方、前記(1)ないし(7)の事実のとおり、原告小野本が部長をつとめる生活指導部は、七月一日以降、独立問題を討議するため、年度当初に校長が定めた教育計画を無視し、また、校長の指示に反して、極めて多くの授業時間を変更して生徒総会等にあてており、(<証拠>によれば、昭和四四年度においては、いわゆる独立問題の起こった六月末から翌年二月末までの授業予定日一二〇日余りのうち少なくとも五〇回以上生徒総会が開かれていることが認められる。)、その結果、証人浜田宣弘の証言によれば、当時高等学校において学習指導要領に示された一単位あたり年内授業時数三五時間を確保できなくなり、生徒は、年間の教科の授業時数が足りなくなり、卒業認定にあたり、特別教育活動を便宜的に教科の単位認定にあてたことが認められるのであって、これは、生徒の側から見れば、年度当初に定められた教育課程に従って教育を受ける利益を原告小野本らの生活指導により特別教育活動の名のもとに奪われたことを意味するものである。

以上に指摘した諸点からすれば、原告小野本の生徒会活動に対する指導は特別教育活動としての限界を著しく超え、また、過度に生徒会活動を実施した結果、生徒の諸教科を学習する権利を侵害したものとして著しく不当であり、生活指導部長としての職務に違反したということができる。

(二)  ホームルーム活動等の指導懈怠(同9(二)の事実)について

<証拠>及び前記(一)(1)ないし(7)認定の事実によれば、ホームルーム活動も生活指導部の担当のもとに実施されることとされているところ、前記生徒総会の前後等に、生徒総会と同様の議題で、校長の指示によらないで、多くの授業時間を変更して実施していることが認められ、前記(一)と同様、原告小野本には生活指導部長としての職務違反があったというべきである。なお、新聞局活動については、被告主張の新聞局発行の各新聞は、<証拠>によれば、その内容にはいささか適切さを欠く点が見られるが、総じていえば独立問題の経過についての事実の報道とそれをめぐる関係者の意見を掲載したものであることが認められ、特定の人物の名誉を毀損するような内容とまでは言い難く、生活指導上特に是正を要するほどのものではない。従って、この点については、原告小野本に生活指導上の職務違反があったとは言い難い。

(三)  浜田校長の指示命令に従わなかった事実(同9(三)ないし(一〇)の事実)について

<証拠>によると、被告の主張9(三)の事実を認めることができる。右認定の状況からすると、生活指導部長である原告小野本としては、浜田校長が適切な生徒指導について注意を喚起するため、その場に残るよう指示したことを知りながら、これを無視して退出したことが推認されるから、これを生徒指導に関する指示・命令違反事由としてとらえることも強ち不当とはいえない。

被告主張9(五)、(六)、(八)の事実については前記(一)に認定したとおりであり、<証拠>を総合すれば、同9(四)、(七)、(九)、(一〇)の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。なお、同9(八)の事実については原告小野本らが校長の指示に反発を示したことは前記(一)認定のとおりであるが、指示に従わなかったという点については、前記3(四)と同旨の理由でこれを認めるに足りる証拠はない。

原告らは、浜田校長の生徒指導についての右各指示命令は、教育の内的事項に対する不当な干渉であり不法であると主張する。しかしながら、同9(五)、(九)の指示は、教育課程に定められた授業の実施を命ずるものであって、不当な干渉にあたらないことはいうまでもなく、同9(四)、(六)の指示については、前記のとおり、街頭デモ等を生徒会活動として実施することを認めるか否かは、学校側の裁量に委ねられることもありうるとしても、その方針は、職員会議の議を経て最終的に校長において決すべきところ、(六)の指示は、職員会議の議を経てなされたものであり、(四)の指示も、原告らが浜田校長の着任を認めていない以上、信義則に照らし、職員会議の議を経ることは要しないというべきであるから、いずれも手続上違法でないことは明らかである。よって、右主張は採用できない。

以上によると、原告小野本の行為が地公法三二条、三五条に違反することは明らかである。

五裁量権の濫用

福井校長辞任に至る学内の混乱の原因については、本件処分にあたって考慮すべき事情の一つであるが、この点について、当事者は互いに相手に非がある旨主張するので、以下若干の検討を加える。

1  学内混乱に対する原告らの責任の有無

(一)  前記(一)(本件紛争の経緯―浜田校長着任まで―)の事実及び証人福井宗兵衛の証言によれば、原告らが、福井校長と激しく対立した根本の原因は、独立問題に対し、学校発足にあたっては生徒に我慢してもらうしかないという立場で生徒指導を主張する福井校長と、生徒の疑問・要求を正当なものとして支持し、その要求を実現する方向で生徒指導を主張する原告らとの意見対立にあったものであり、福井校長の職員会議開催の職務命令に対する反発等は右意見対立を背景に派生的に生じたものとみるのが相当である。この点について、被告は、原告らは、従前からの要求事項である「職員会議の最高議決機関化」「校務分掌の公選制」の実現を狙って独立問題を巧みに利用したにすぎない旨主張するが、前掲乙第三〇号証によれば、原告らは、独立前に通信制・全日制の各分会と合同の団体交渉において「校務分掌の公選制」を当時の校長に要求したことは認められるものの、それはあくまで団体交渉の場での要求にすぎないうえに、福井校長着任後も、学校運営上、右の点をめぐって対立があった形跡はなく、また、「職員会議の最高議決機関化」については独立の前後を通じ、原告らから福井校長に対する要求事項に掲げられたことを認めるに足りる証拠はないのである。被告は、原告らは独立問題を利用するために、生徒を巧みに煽ったとも主張するが、独立問題は、当初生徒の一部(4A)から提起された独立に関する疑問・不満が、生徒会で討議され全校生徒の間に広がりをみせるなかで、内容的にも当初の大宮高校で卒業させよという名門校意識の加わった素朴な不満から、独立に伴う定通併修構想導入反対等へと発展し、教育委員会に対する来校説明を要求して、全学ストを決議するにまで至ったものであり、それは、全て生徒の自主的な行動の結果ということができるのであって、その過程で、原告らにおいて次の(二)(1)のように生徒の行動を助長する言動があったことは認められるとしても、それを煽りとまでは評価することはできない。結局、被告の右主張は、本件紛争過程に対する一面的な見方であって採用できないというべきである。

(二) もっとも、前記一認定のとおり、原告らが、(1)六月上旬以降、生徒指導の方針が全校的に統一されていない状況のもとで、生徒の要求を支持する態度を生徒総会における校長への質問等で明らかにし、校長の承認のないまま職員会議の生徒傍聴を許し、職員内部の対立状況を生徒の目前に曝した結果、生徒に校長への不信感を生じさせ、独立問題の動向に少なからぬ影響を与えたこと、(2)本来、職員会議は、教師が教育専門家として主体性をもって教育事項等につき討議する場であるのに、これを予め分会の討議事項に取り上げ、組合員内部の少数意見を多数意見に統合して職員会議に臨み、数の優位で校長と対峙するという、教育の本質からすれば必ずしも妥当とはいいがたい行動をとったため、職員会議の調整機能を失わしめ、更には、生徒に職員会議を傍聴させ、職員会議の開催を不能ならしめたこと等は、福井校長の責任ある学校運営を著しく困難にさせたものとして、原告らの側に存する問題点として指摘できよう。

2 強制転校の違法性と県教育委員会の対応の問題点について

原告らは、大宮第二高校の分離・独立は生徒の強制転校を伴うものであって違法であるとしたうえで、独立問題に対する県教育委員会ないし福井校長の対応には問題があったと主張する。

(一)  大宮第二高校の分離・独立は、前記一認定のとおり、宮崎県議会の昭和四四年三月二九日の条例改正による大宮第二高校の設置と、被告教育委員会が、同年四月一日、大宮高校定時制課程の在学生を大宮第二高校への全員転校させた措置の二つからなることが明らかであるが、後者の措置については根拠法規はなく、これを教育委員会において生徒(ないし親権者)の同意なくなしうるかは問題のあるところである。そこで、まず、高校生の在学関係についてみるに、高校教育は義務教育とは異なり、入学を強制されるものではなく、高校に入学しようとする者が、学校の選別・課程を自主的に選択し、入学試験を経て入学を申し込み、学生たる身分を取得するものであるから、その在学関係は県立高校においては、地方公共団体との間の契約関係であると解するのが相当である。そして、右契約関係においては、その所属高校、教育課程の種別(定時制、全日制、商業科等)は、契約の主たる内容をなすものであって、契約の当事者である地方公共団体において、生徒の在学中に合理的な理由なく、その内容を一方的に変更することは原則として許されないと解すべきである。これを大宮高校定時制の分離・独立についてみると、定時制の在学生については在学契約の主要な内容をなす所属高校を大宮高校から新設の大宮第二高校に一方的に変更されるものであるから、それには合理的な理由の存在が必要であるというべきところ、証人坂口鉄夫、同児玉郁夫の各証言によると、県教育委員会は、生徒の勤労と学習の二重負担の軽減、中途での脱落の防止や未就学者の促進などの課題を解決し、定時制通信制教育の改善を図ることを目的に、昭和四三年度まで検討を進めた結果、定通モデル校制度の適用を受けるため、大宮高校の定時制の課程を分離し、大宮第二高校として独立させ、昭和四五年度には定通教育モデル校の指定を受けて独立校舎の建設を行い、宮崎県の定通教育の中心校として発展させていく計画のもとに独立の準備を進めていたことが認められ、右事実からすれば、大宮第二高校の分離・独立は、教育条件の整備・充実を目的とするもので一応の合理性を是認できる。加えて、一般には定時制は全日制とは入学試験、卒業年限、授業時間帯等において異なる課程であり、両者を分離しても特に不都合は生じないと考えられることや、大宮第二高校の分離・独立後、教育条件で特に生徒に不利益に変更された点は認められないこと等からすれば、県教育委員会が大宮高校定時制を大宮第二高校に分離・独立させた措置をもって違法とまでは評価することはできないというべきである。

(二)  もっとも、県教育委員会は、全員移籍という契約関係の変更を伴う手段をとる以上は、年次移行の方法を取りえなかった理由も含め、その合理性につき、契約当事者である生徒ないしその父兄に対し、事前に十分な説明をなすのが妥当な措置であったと言える。(その意味では、生徒、原告らが県教育委員会の来校説明を求めたことには正当な理由がある。)しかるに、県教育委員会は生徒らに対する事前の十分な説明のないままに分離・独立を実施した結果、生徒間に独立への疑問や不満を生じさせたばかりでなく、その後、生徒らの要求に応じてなした説明も、定通併修構想に対する批難を回避するためか、前記計画内容を率直に明かさず、そのため、かえって、生徒らにビジョンのない独立という印象を与えたことも否めないのであって、県教育委員会の対応には適切さの欠ける面があったと言わねばならない。この点は裁量にあたって考慮すべきであろう。

3  以下、個々の処分事由につき必要なかぎりで、裁量にあたって考慮すべき点を指摘する。

(一)  浜田校長等排斥行為について

原告らが浜田校長の受け入れの手続について種々要求し、その着任を拒んできた理由は、<証拠>及び前記経過からすると、福井校長が職務を放棄し、その後の混乱を招いたとして同校長、県教育委員会の責任者を生徒、教師らの前に出させ、その責任を追及することにあったと考えられるが、福井校長の辞任の経過において、前記のとおりその責任の一端が原告らにあることを考えると、右要求が実質的にみても不当であることは言うまでもない。(なお、この点について、原告らは、浜田校長が、七月三日、原告らの要求に対して努力する旨約したにもかかわらず、何らの努力もしなかったのであって、この浜田校長の背信的行為が尾を引いてその後の着任拒否が継続された旨主張し、このうち浜田校長が努力する旨約した点については原告小野本は、それに沿う供述をするが、その余の点は、原告らが作成した前掲乙第二九、三〇号証に徴してもこれを認めるに足りるものはなく、右主張は採用できない。)また、着任拒否の結果、原告らにおいて自主的に学校運営を行ない、教師の生徒指導という枠を超えて、生徒と一体になって要求運動を行ったその後の経過をみると、右着任拒否は要求運動遂行のための口実と受け取られても仕方がなく、特に、原告らが、前記のとおり、授業・テストを実施せず、むしろ生徒の活動を活性化させるような行動をとったことや、後述するように原告ら分会員と意見を異にする三教師を職員会議から排除するなどしたことは、不適切な行為であったと評価できよう。もっとも、六月末の緊迫した情勢の中での福井校長の突然の辞任が、事の真相がどうであれ、生徒に同校長の職務放棄として受けとられ、福井校長や県教育委員会に対する不信感を醸成し、その後の学内の混乱に拍車をかけたことは否定できないのであり、混乱の一因を作った県教育委員会としては、生徒の右のような心情を考えれば、教育的配慮をもって誠実に対応し、早期に着任拒否という異常な事態の解決をはかる努力をすべきであった。しかるに、証人浜田宣弘の証言によれば、県教育委員会は、九月に入るまでは、学内正常化のため動こうとしなかったことが認められるのであって、県教育委員会の対応にも妥当性を欠く点がなかったとはいえないのである。この点は、着任拒否が一〇〇日余という長期に及んだ原因の一つとして裁量上考慮すべきであろう。

(二)  校務分掌業務拒否、授業放棄、校長室不法占拠行為

これらの処分事由は、いずれも、原告らと浜田校長との間で生徒指導の方針をめぐって対立し、浜田校長が生徒や原告らの要求を受け入れようとしないことに反発し、あるいはその要求を通す過程でなされたものである。原告らは、このような行動に出たのは浜田校長の職員会議の結果を尊重せず、生徒らの要求を押さえ込もうとする強硬な態度に原因があった旨主張するが、原告らの要求内容は、独立問題の要求運動や校名変更につき県議会や知事への陳情に浜田校長が協力することを求めるなど、校長本来の職務を超えるものであって、これに対し、浜田校長が拒んだのはやむを得ないというべきであろう。従って、同校長の対応に問題があったということはできない。

(三)  卒業式妨害行為

証人浜田宣弘の証言によると、浜田校長は、二月二二、三日には既に式次第を印刷していたことが認められ、同校長が、そこまで用意周到に自己の意図する卒業式に向けて準備していたのであれば、生徒の企画委員会の案に対する期待を打ち消すために、もっと早い段階で、原告らに対し、明確な職務命令を発して、右印刷物を生徒に配布し、式次第についての徹底をはかるべきであったと考えられる。もっとも、証人浜田宣弘の証言によると、浜田校長は、企画委員会の案を一部取り入れてもよいと考え、職員会議でその調整をはかろうとしたために、右印刷物の配布をさき送りにしたことが窺われるのであるが、結果として、式前日の配布となったことは、生徒間の混乱を招きかねない措置であったと言えよう。従って卒業式妨害行為については、二月二八日の時点で校長の職務命令に従わない旨の意思を表明した点、式次第を配布しなかった点、卒業式において混乱を鎮めるべく行動しなかった点で職務命令違反行為はあるとしても、処分の裁量にあたっては校長側の対応に問題があったことも考慮すべきである。

4  福井校長・重信教頭、三教師との平等原則違反

原告らは、本件の一連の過程で最も重要な職務違反を犯した福井校長と重信教頭には何らの処分はなく、また、原告らと夏休み中まで行動を共にした松本、永峯、植野の三教師に対しても何の処分もないと主張する。

(一)  福井校長、重信教頭の辞職について

福井校長、重信教頭の辞職は、前記一本件紛争の経緯から明らかなように、独立問題をめぐる生徒への対応について、原告らと生徒指導の方針が対立するなかで、原告らが、数の優位で校長と対峙し、校長の承認のないまま生徒傍聴を許して職員会議の開催を不可能ならしめたうえ、本来、学校内で教職員が一致協力して処理すべき生徒指導につき、高教組を通じて生徒の要求(教育委員会の来校説明)の実現をはかるなどしたため、福井校長、重信教頭は、もはや学校運営の責任を果たし得ないと判断して辞職に至ったものと推認できるのであって、その経緯からすれば、原告らにおいて同校長らの辞職を職務放棄と非難すべき筋合のものではない。また、辞職手続も適法になされている以上、福井校長、重信教頭には何らの職務違反も認められないのであるから、原告らの右主張は理由がない。

(二)  三教師について

<証拠>によると、浜田校長着任後、三教師は、事務引継ぎないし福井前校長の紹介がないから浜田校長の着任を認めないという原告らの主張に反対していたが、七月八日の職員集会で、原告らにより「浜田校長を認めないということを非組合員である三教師に申し入れさせ、申し入れの状況は分会員が後ろから監視する。」ということをその反対にもかかわらず決議、強要され、更に、七月一一日の職員集会でも原告らにより非組合員が県教育委員会に対する要求書を作成することや取り付け交渉に行くことを一方的に決定、強要された。また、福井校長辞任後、連日のように開かれた職員集会において、三教師は、原告ら分会員から「なぜ組合に入らないのか、組合に入らなくてどうやって生徒たちの要求を貫徹できるのだ。」という激しい追及を受け、また、原告らの職員会議を最高議決機関として認めろという議論についてこれを認めようとしないため、年休をとって家にいると「職員会議を今やっているから出て来い、出て来なければ生徒に授業をボイコットさせるぞ。」ということで連れ出されたり、「馬鹿殿に馬鹿家来ではないか。」とか、「権力の犬、バカ死ね、人間じゃない。」などと罵言雑言を浴びせられ、連日つるし上げを受けていた。七月一九日の職員集会において、三教師は、学校における最終決定権は校長にあるという点はどうしても譲れないとしたため、職員会議の最高議決機関性をめぐる議論に終始して、議事が進行しないことから、原告らから「君たちは大宮第二高校の職員としては認められない。」ということで、結局職員会議に対する自分の考えを文章にし、それに署名、押印のうえ、職員会議から出ていけということを決議されて、三教師は職員会議及び暮礼の場から追放され、職員室にも入れない状態になった。

以上の事実が認められる。右認定に反する<証拠>は、前掲各証拠に照らし採用できない。

右認定事実によると、三教師らが、原告らの浜田校長排斥行為に加担したものでないことは明らかである。

なお、原告らは、三教師は生徒指導の方針や指導の仕方について常に原告らに同調していた旨主張する。たしかに、<証拠>によれば、三教師らは、七月一九日までの間、浜田校長を排除した職員集会に参加し、一学期末テストの中止や、県教育委員会に対する要求書提出に賛成したことは認められるところではあるが、証人松本淳は、原告らとは、主張に対立があるものの、独立問題は生徒からの要求でもあり、生徒を抱える立場としては、何とか原告らと協調してやって行かなければならず、この時期は非常に教師として苦しんだ旨供述しており、前記認定事実に照らして考えれば、右供述内容は当時の三教師の心境として是認できるところであって、このような当時の三教師の置かれた立場からすれば、前記の点をもって生徒指導の方針について原告らに同調していたと評価するのは相当ではないというべきであろう。

以上のとおり、三教師には処分事由として評価できるような職務違反事実は認められないのであるから、原告らの平等原則違反の主張は採用できない。また、三教師に職務違反が認められない以上、原告らに対する処分は原告らが組合に属することを実質的な理由とするものであるとする他事考慮の主張も理由がないことに帰する。

5  まとめ

本件各処分事由は、一言でいえば原告らが、生徒の諸要求に教師として適切に指導していくという立場を離れて同調し、生徒と一体になって要求運動を展開していったなかで行われた職務違反行為である。その背景として、<証拠>及び前記認定の本件紛争の全経過によれば、働きながら学ぶという厳しい条件のもとに置かれた生徒に対し、その生活全般にわたり良き相談相手として接していた原告らが、行政当局から、一方的に分離・独立させられたことによって生じた生徒の切実な要求に同情・共感したことが認められるとしても、半年以上にわたり、前記各処分事由により、学校運営を正常とは言い難い状態に置いた責任は大きく、その他前記に指摘した被告の対応の問題点を総合考慮しても、なお、本件各処分は、裁量の範囲を超えたものと言うことはできない。

六よって、原告らの請求はいずれも理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官川畑耕平 裁判官寺尾洋 裁判官多和田隆史)

別表Ⅰ

番号

処分事由

原告氏名

1

昭和四五年一月一三日から一月一七日までの間、あなたの職責である授業を放棄し、その間、校長から再三授業を実施するよう命令されたにもかかわらずこれを放棄しつづけるなどして、学校の正常な運営を阻害した。

井野正、斉藤竹治、出口修身、原正義、樋口義、吉野宏、池田紘志、中山博允、竹下義正、寺坂洋子、小野本昌幸、成合宗久、甲斐通敏、井上喜代司

2

昭和四四年八月二九日、校長から諸行事の打ち合わせのため招集された職員会議に、正当な理由なくこれに出席せず、更に、昭和四四年九月一日校長から、再度招集された職員会議も正当な理由なくこれを放棄した。又、昭和四四年一二月一〇日、同じく校長が招集した職員会議にも正当な理由なく出席しなかった。

井野正、斉藤竹治、出口修身、戸高国博、原正義、樋口義、吉野宏、井上喜代司、中山博允、竹下義正、寺坂洋子、小野本昌幸、成合宗久、中田(桑原)ゑみ子

3

昭和四四年七月一日付で発令された校長が同月二日より着任して以来、同年一〇月八日まで一部の教職員と共謀のうえ、校長を排斥する行動をなし、校長の執務を阻害した。また、昭和四四年七月一五日付で発令された教頭に対しても同月一八日より同年の一〇月八日まで、同様な行動を行ない、教頭の執務を阻害した。

井野正、斉藤竹治、出口修身、戸高国博、本山正和、原正義、樋口義、吉野宏、井上喜代司、池田紘志、中山博允、竹下義正、寺坂洋子、小野本昌幸、成合宗久、甲斐通敏、中田(桑原)ゑみ子

4

昭和四五年二月二八日、校長から昭和四四年度の卒業式を実施するために、「卒業式について」という文書を作成し、生徒に配布するよう指示命令されたにもかかわらずこれに応ぜず、卒業式の実施を困難ならしめた。

斉藤竹治、原正義、池田紘志、中山博允、竹下義正、成合宗久、甲斐通敏、井上喜代司、吉野宏

5

昭和四五年一月一三日校長に対して同月一四日延岡市に出張したい旨申し出たが、校長はこれを承認しなかったにもかかわらず一四日無断で延岡市に行った。

斉藤竹治、出口修身、原正義、吉野宏、小野本昌幸

6

昭和四四年八月二九日、校長から諸行事の打ち合わせのため招集された職員会議に、正当な理由なくこれに出席せず、更に昭和四四年九月一日校長から再度招集された職員会議も正当な理由なくこれを放棄した。

本山正和、池田紘志、甲斐通敏

7

あなたの職責である授業を放棄したばかりでなく、昭和四五年一月一六日から同年一月一八日の間、「ハンスト決行中」と称し、校長室を無断で占拠して、寝泊りし、校長が同室より退去するよう命じたにもかかわらず、なお同室の座り込みを続けて、校長の正常な業務の執行を阻害するとともに学校の正常な運営を困難ならしめた。

原正義、樋口義、竹下義正、成合宗久、井上喜代司

8

昭和四四年一一月中旬から約二ケ月にわたって、公文書等の受領作成をせず、また暮礼時に校務分掌に関する連絡・発言などせず、校務分掌による自己の業務の遂行をしなかった。

原正義、樋口義、小野本昌幸、成合宗久、井野正

9

宮崎大宮第二高等学校の生活指導部長としての職責を有しながら、生活指導に関する校長の指示に従わず学校の正常な運営を阻害した。

小野本昌幸

別表Ⅱ

被処分者一覧表

被処分者

(校務分掌)

(担当クラス)

処分事由

根拠法規

地方公務員法

処分内容

教論

原 正義

(保健部長)

(二年C担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

3 校務分掌業務拒否行為

4 授業放棄行為

5 無断出張行為

6 校長室不法占拠行為

7 卒業式妨害行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三三・三五条

三二・三三・三五条

停職六月

教論

樋口 義

(進路指導部長)

(四年副担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

3 校務分掌業務拒否行為

4 授業放棄行為

5 校長室不法占拠行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三三・三五条

停職六月

教論

竹下 義正

(教務)

(三年S担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

3 授業放棄行為

4 校長室不法占拠行為

5 卒業式妨害行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三三・三五条

三二・三三・三五条

停職六月

教論

成合 宗久

(教務部長)

(二年副主任)

(後二年A担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

3 校務分掌業務拒否行為

4 授業放棄行為

5 校長室不法占拠行為

6 卒業式妨害行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三三・三五条

三二・三三・三五条

停職六月

教論

井上 喜代司

(進路指導)

(四年S担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

3 授業放棄行為

4 校長室不法占拠行為

5 卒業式妨害行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三三・三五条

三二・三三・三五条

停職六月

教論

小野本 昌幸

(生活指導部長)

(二年副担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

3 校務分掌業務拒否行為

4 授業放棄行為

5 無断出張行為

6 生徒指導拒否行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三五条

停職三月

教論

斉藤 竹治

(生活指導)

(四年A担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

3 授業放棄行為

4 無断出張行為

5 卒業式妨害行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三三・三五条

減給(一〇分の一)六月

教論

出口 修身

(生活指導)

(三年副担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

3 授業放棄行為

(一月一三日のみ)

4 無断出張行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三五条

減給(一〇分の一)六月

教論

吉野 宏

(生活指導)

(三年C担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

3 授業放棄行為

4 無断出張行為

5 卒業式妨害行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三三・三五条

減給(一〇分の一)六月

教論

池田 紘志

(進路指導)

(四年C担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

(一二月一〇日を除く)

3 授業放棄行為

4 卒業式妨害行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三三・三五条

減給(一〇分の一)三月

教論

中山 博允

(生活指導)

(一年B担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

3 授業放棄行為

4 卒業式妨害行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三三・三五条

減給(一〇分の一)三月

教論

甲斐 通敏

(保健)

(一年S組)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

(一二月一〇日を除く)

3 授業放棄行為

4 卒業式妨害行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三三・三五条

減給(一〇分の一)三月

教論

井野 正

(総務部長)

(三年副担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

3 校務分掌業務拒否行為

4 授業放棄行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

三二・三三・三五条

減給(一〇分の一)三月

教論

寺坂 洋子

(進路指導)

(四年副担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

3 授業放棄行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

三二・三五条

減給(一〇分の一)三月

実助

戸高 国博

(保健)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

減給(一〇分の一)一月

教論

本山 正和

(生活指導)

(二年A担任)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

(一二月一〇日を除く)

三二・三三・三五条

三二・三五条

減給(一〇分の一)一月

教論

中田(桑原) ゑみ子

(保健)

1 校長等排斥行為

2 職員会議放棄行為

三二・三三・三五条

三二・三五条

減給(一〇分の一)一月

別表Ⅲ

職員集会等一覧表

月日(曜日)

職員集会の議題(開催時間)

生徒総会等の

実施状況

職員集会

欠席者

七月三日  (木)

一~四限生徒総会

七月四日  (金)

独立問題について(一四時~一六時四五分)

一、二限統一LHR

三、四限生徒総会

池田

七月五日  (土)

独立問題について(八時三〇分~一二時一〇分)

これまでの総括と反省(二〇時三〇分~二一時一五分)

一~三限生徒総会

七月七日  (月)

独立問題の総括と今後の取り組みについて(一四時~一六時四五分)

一~四限普通授業

井上、寺坂

七月八日  (火)

今後の取り組みについて(一四時~一六時)

一~四限普通授業

寺坂、原、

井野

七月九日  (水)

今後の取り組みについて(七月の行事日程について)(一四時~一六時四五分)

一、二限普通授業

三、四限生徒総会

寺坂

七月一〇日(木)

独立問題について(一四時~一六時四五分)

軟式野球予選開催について、三者懇談会について(二一時三〇分~二二時五五分)

一~四限生徒総会

原、寺坂

七月一一日(金)

県教委に対する要求書作成について(一四時~一六時四五分)

(生徒休養日)

七月一二日(土)

県教委に提出する要求書の内容検討・日程・その他について(一四時~一六時四五分)

一、二限生徒総会

三、四限LHR

樋口、原、

竹下

七月一四日(月)

要求書提出後の取り組みについて(一一時~一三時)

一限普通授業

二、三限生徒総会

池田、戸高

七月一五日(火)

一、二限LHR

三、四限統一LHR

七月一六日(水)

要求書の回答に対する姿勢について(二一時三〇分~二一時五〇分)

(生徒休養日)

井上、池田

七月一七日(木)

県教委に対する要求書の回答に関する件(一三時三〇分~一五時四〇分)

一限~四限生徒総会

井上、甲斐

七月一八日(金)

要求書に対する(県教委)の回答の件、今後の運動の進め方(1組織をつくる件、2態勢強化の件、3教頭発令の件、4諸支払の件)(一四時~一六時四五分)

一限LHR

二~四限生徒総会

七月一九日(土)

今後の取り組みについて(1要求書を再び提出するか否か、2街頭演説・署名運動等について、3夏季休業中の取り組みについて、4終業式について)、街頭演説・署名運動について(一四時~一六時四五分、一八時四〇分~二〇時二〇分)

一、二限LHR

三、四限生徒総会

樋口

七月二〇日(日)

原告ら及び生徒街頭演説・署名運動・ビラ配布

七月二一日(月)

街頭運動・署名運動の反省、職員側の今後の取り組み、長欠生徒の取り扱いについて(一四時~一六時四五分)

一、二限LHR

三、四限生徒総会

寺坂、

中田(桑原)

七月二二日(火)

管理職の問題について、長欠生徒の取り扱いについて、夏季休暇中の取り組みについて(一六時~一六時四五分)

一、二限生徒総会

三、四限LHR

寺坂

七月二三日(水)

教育・授業についての考え方(一四時~一六時四五分)

(夏季休業)

七月二四日(木)

三教師の問題について、事務職員の勤務時間について(一四時~一六時四五分)

( 〃 )

七月二五日(金)

三教師に対する姿勢の確認について、夏季休暇中の日程について、授業の受けとめ方について(一四時~一八時三〇分)

( 〃 )

七月二六日(土)

明日の具体的行動(街頭演説・署名・ビラ配布)について(二一時一〇分~二一時四〇分)

( 〃 )

七月二七日(日)

独立問題に関する総括と資料検討について(一九時~二時)

原告ら及び生徒街頭演説・署名運動・ビラ配布

七月二九日(火)

示威行進に関する具体策について、野球部の全国大会参加について(一八時~二三時一〇分)

(夏季休業)

八月三日  (日)

原告ら及び生徒街頭デモ行進、街頭署名

井上

八月七日  (木)

原告ら及び生徒街頭デモ・ビラ配布・街頭演説(一六時から)

井上、寺坂

八月一七日(日)

原告ら及び生徒街頭デモ行進・市民集会開催

寺坂、原

八月二四日(日)

原告ら及び生徒ビラ配布・街頭署名・個別訪問

八月二五日(月)

県教委に対する再回答要求について(一〇時~一三時)

原告ら及び生徒街頭デモ(一四時から)

八月二八日(木)

第二学期の授業の在り方、第二学期行事日程について、始業日のあり方について(一四時~一六時五〇分)

(夏季休業)

八月三〇日(土)

始業日の日程について(一三時~一八時四五分)

( 〃 )

九月一日  (月)

始業日の日程について、夏季休業中の反省と今後の取り組みについて(一三時~)

一限LHR

二~四限生徒総会

九月二日  (火)

野球部遠征決算報告、休業中の反省と今後の取り組みについて(1教科授業の件、2校外活動の件、3鹿児島県立西高校視察報告)(一四時~一六時四五分)

九月四日  (木)

市民集会について(一六時一〇分~一七時)

成合、池田、

寺坂、斉藤

九月五日  (金)

一限普通授業

二~四限生徒総会

池田、寺坂

九月六日  (土)

一、二限普通授業

三、四限生徒総会

九月七日  (日)

原告ら及び生徒街頭デモ、市民集会開催

九月九日  (火)

(校長の)申入書について、五校合同スポーツ交換会について(一四時~一七時)

一限普通授業

二~四限生徒総会

九月一一日(木)

一、四限普通授業

二、三限生徒総会

九月一二日(金)

(校長の)第二次申入れについて(一四時三〇分~一六時三〇分)

一限普通授業

二、三限統一LHR

四限生徒総会

九月一三日(土)

一、二限LHR

三、四限普通授業

九月一六日(火)

一限普通授業

二、三限生徒総会

四限クラブ活動

九月一八日(木)

五校合同スポーツ交歓会について(一四時~一六時四五分)

九月二四日(水)

校内旅費規定について、体育祭について、授業について(一四時~一六時四五分)

九月二五日(木)

授業について、体育祭について(一四時~一七時一五分)

一~三限普通授業

四限生徒総会

九月二六日(金)

一、二、四限普通授業

九月三〇日(火)

三限LHR

一、二、四限普通授業

一〇月二日(木)

体育祭について(二〇時~二〇時三〇分)

三限LHR

一、二、四限普通授業

一〇月三日(金)

体育祭について(一四時~一六時四五分)

一〇月四日(土)

体育祭について(一五時~一六時三〇分)

一〇月八日(水)

二限LHR

三、四限生徒総会

担当授業目録

原告氏名

職名

昭和四五年一月一三日から同月一七日までの

具体的授業の義務

校長の授業実施職務命令

年 月 日

校時

教科

学年

ホーム

ルーム

(学級)

小野本 昌幸

教諭

四五、一、一三

理科

C

同年一月一三日午後四時一〇分から開催された職員会議において正規の授業を実施すること及び生徒に対しても正規の授業を受けるようじゅう分指導することを命令した。

同年一月一四日、暮礼時に再度前日と同様の職務命令をした。

同年一月一六日暮礼時の午後五時四〇分文書で前同様の職務命令を発した。(乙第四号証の二)

同年一月一七日暮礼時の午後五時三〇分から午後六時五〇分までの間、再度前日と同様の職務命令をした。

四五、一、一三

数学

A

四五、一、一四

理科

S

四五、一、一六

理科

S

四五、一、一六

理科

C

四五、一、一六

数学

A

四五、一、一七

数学

A

四五、一、一七

理科

S

斉藤 竹治

教諭

四五、一、一三

理科

C

右同

四五、一、一三

理科

A

四五、一、一四

理科

A

四五、一、一四

理科

C

四五、一、一六

理科

A

四五、一、一六

理科

C

四五、一、一六

理科

B

四五、一、一七

理科

B

四五、一、一七

理科

A

出口 修身

教諭

四五、一、一三

理科

B

右同

四五、一、一三

理科

B

原 正義

教諭

四五、一、一三

英語

C

右同

四五、一、一四

英語

A

四五、一、一四

英語

B

四五、一、一四

英語

A

四五、一、一六

英語

A

四五、一、一六

英語

C

四五、一、一七

英語

C

四五、一、一七

英語

B

樋口 義

教諭

四五、一、一三

英語

選択

右同

四五、一、一三

英語

選択

四五、一、一四

英語

A

四五、一、一六

英語

A

四五、一、一六

英語

B

四五、一、一七

英語

B

四五、一、一七

英語

A

吉野 宏

教諭

四五、一、一三

国語

S

右同

四五、一、一四

国語

A

四五、一、一四

国語

C

四五、一、一六

国語

B

四五、一、一六

国語

B

四五、一、一七

国語

C

四五、一、一七

国語

B

池田 紘志

教諭

四五、一、一六

国語

B

右同

四五、一、一六

国語

A

四五、一、一七

国語

C

四五、一、一七

国語

C

中山 博允

教諭

四五、一、一三

国語

A

右同

四五、一、一三

国語

S

四五、一、一四

国語

A

四五、一、一四

国語

B

四五、一、一六

国語

B

四五、一、一六

国語

S

四五、一、一七

国語

A

四五、一、一七

国語

S

竹下 義正

教諭

四五、一、一三

数学

B

右同

四五、一、一四

数学

B

四五、一、一四

数学

B

四五、一、一六

数学

B

四五、一、一六

数学

C

四五、一、一七

数学

C

四五、一、一七

数学

B

寺坂 洋子

教諭

四五、一、一三

保健体育

SC女

右同

四五、一、一四

保健体育

BA女

四五、一、一四

保健体育

BA女

四五、一、一四

保健体育

SBA女

四五、一、一六

保健体育

SC女

四五、一、一六

保健体育

SC女

四五、一、一六

保健体育

SC女

四五、一、一七

保健体育

BA女

四五、一、一七

保健体育

SC女

成合 宗久

教諭

四五、一、一三

国語

C

右同

四五、一、一三

国語

A

四五、一、一四

国語

C

四五、一、一四

国語

B

四五、一、一六

国語

A

四五、一、一六

国語

A

四五、一、一六

国語

B

四五、一、一七

国語

A

四五、一、一七

国語

A

甲斐 通敏

教諭

四五、一、一三

商業

S

右同

四五、一、一四

商業

S

四五、一、一四

商業

S

四五、一、一六

商業

S

四五、一、一六

商業

S

四五、一、一七

商業

S

四五、一、一七

商業

S

井上 喜代司

教諭

四五、一、一三

商業

選択

右同

四五、一、一四

商業

選択

四五、一、一四

商業

S男

四五、一、一四

商業

S男

四五、一、一六

商業

S

四五、一、一六

商業

選択

四五、一、一七

商業

S

井野 正

教諭

四五、一、一三

社会

S

右同

四五、一、一四

社会

C

四五、一、一四

社会

S

四五、一、一六

社会

C

四五、一、一六

社会

B

四五、一、一七

社会

B

四五、一、一七

社会

A

校務分掌目録

原告氏名

校務分掌

受付年月日

受付

番号

件名

受領拒否年月日

小野本昌幸

生活指導

部長

昭四四、一二、四

八二四

学校管理と冬季休業中の指導について

昭四四、一二、五

昭四四、一二、九

八三一

冬の青少年を守る運動の実施について

昭四四、一二、九

昭四四、一二、九

家庭の日ポスターの配布について

昭四四、一二、九

昭四四、一二、一一

八三八

年末年始の交通安全指導の徹底について

昭四四、一二、一一

昭四四、一二、一二

八四一

衆議院選挙運動用ポスターについて

昭四四、一二、一七

昭四四、一二、一八

八四八

高校図書館部会開催について

昭四四、一二、一九

昭四四、一二、二四

八七一

生徒の免許所有者並びに通学状況等の調査結果について

昭四四、一二、二六

昭四五、一、五

八七五

「レクリエーションみやざきNo11」の送付について

昭四五、一、一三

原正義

保健部長

昭四四、一二、八

八二八

インフルエンザ予防対策の強化について

昭四四、一二、九

昭四四、一二、一三

八四六

永年勤続給食従事員へ感謝状授与について

昭四四、一二、一九

昭四四、一二、一三

八四五

給食功労者表彰の推せんについて

昭四四、一二、一九

昭四四、一二、一八

八五〇

夜間給食連絡協議会の開催について

昭四四、一二、一九

樋口義

進路指導

部長

昭四四、一二、三

八一七

第三回米国における英語研修講座

昭四四、一二、四

昭四四、一二、三

八一七

四十五年度都立大入学選抜方法について

昭四四、一二、四

昭四四、一二、三

八一七

高卒の就職のための推せん及び選考開始の時期について

昭四四、一二、一九

昭四四、一二、一六

八五四

第十回県下高校新人柔道大会開催について

昭四五、一、一六

井野正

総務部長

昭四五、一、一六

八九三

刊行物「持田古墳群」の寄贈について

昭四五、一、二〇

昭四五、一、一六

八九七

四十四年度卒業式及び卒業予定者調査について

昭四五、一、二〇

昭四五、一、二一

九一七

PTAの現況調査について

昭四五、一、二二

成合宗久

業務部長

昭四四、一二、四

八二三

県教委育英資金借用書の提出について

昭四四、一二、五

昭四四、一二、一〇

八三三

入試学力検査の出題方針について

昭昭四四、一二、一一

昭四四、一二、四

八二〇

進学説明会(綾中)

昭四四、一二、五

昭四四、一二、八

八二九

育英会奨学金借用証書徴集について

昭四四、一二、九

昭四四、一二、二四

八六九

四十五年度県立高校生徒募集定員について

昭四五、一、七

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
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