大判例

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宮崎地方裁判所 昭和50年(タ)17号 判決 1983年3月25日

原告

甲山太郎

右訴訟代理人

吉良啓

被告

甲山ハナ子

右訴訟代理人

小倉一之

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

第一婚姻の存在<省略>

第二離婚理由の検討

一事実の認定

<証拠>を総合すると、

(一)  原告は○○村で昭和四年一〇月二四日出生し、付近の小学校、高等小学校を経て、昭和一九年四月県立高鍋農業学校に入学したが、翌昭和二〇年に同校を退学し、家業の農業を手伝つていた。

(二)  昭和二四年原告は他の女性と初婚。しかし、同女は原告方に小姑など家族が多く、辛抱できないで二ケ月位して離婚した。

(三)  昭和二八年五月一四日頃、原告は訴外甲川ツネ子の紹介で被告と見合をし、原、被告(旧姓名乙川ハナ子)は同年七月一五日婚姻届出をして、宮崎県東臼杵郡S村で婚姻生活を始めた。

(四)  被告は昭和二年五月一〇日宮崎県東臼杵郡M村で出生し、昭和一六年三月○○○高等小学校を卒業後農業、牛馬の育種、売買をして裕福に暮らしていた実家の家事手伝をしていたところ、前示のとおり原告と見合し兄達にすすめられるまま原告と結婚した。

(五)  昭和二八年七月一五日頃前示のとおり被告は原告方へ嫁入りし、原告の家で夫婦生活を始めた。その頃原告の家には義父母や原告の弟姉が同居しており、人間関係が複雑で時には気まづいことや多少の軋轢がないこともなかつたが、原、被告は農業、縄作り、むしろ作りに精を出し、被告の実家からの援助も受けて苦しい生計を切盛しつつ円満な生活を送つていた。

(六)  昭和二九年七月一日長女一枝出生。

(七)  昭和三〇年六月原告の母梅子死亡。昭和三四年四月一日原告の父死亡。

(八)  昭和三四年頃原告は父母の財産を相続し、その移転登記費用を捻出するため、上椎葉ダムへ工事人夫として出稼ぎに出た。

(九)  昭和三五年一月一日長男一郎出生。

(一〇)  昭和三六年三月二一日原、被告と同居中の原告の妹令子が自殺(縊死)。

(一一)  同年五、六月頃原告はS村での生活に見切りをつけ、前示相続した山地田畑等を売払つて、被告をはじめ家族一同を伴つて、その頃購入した宮崎市高千穂通三丁目一九三番地八家屋番号二一三番三の建物に転居した。転居後右建物の増改築をし貸部屋を七室にして毎月約三万円の賃料を得て貸家業を始めた。

(一二)  同年七、八月、原告は、S村の山林を売却してその登記を了し(甲六の1〜9)、同年九月一四日宮崎市千草町一〇九番地八の店舗兼住宅(以下、旧建物と略す)につき売買による取得登記を了した(売買予約は五月一五日になされている)(甲九号証)。

(一三)  同三六年一一月から原告は落合の食堂で働き、翌昭和三七年二月一日から一〇日までK寿司へ移つて働いていた。

(一四)  昭和三七年二月一一日頃原告は宮崎市高松通りの広さ約一五坪の店舗を賃借し、同年三月一日「都寿司」の商号で寿司屋を開店した。以後、原告の実妹甲山三代子が右寿司店を手伝つている。

この頃被告は原告の自転車の後部荷台に乗せられ、毎朝一〇時頃寿司の材料の買出しに出掛けたり、店で使う御飯を炊いて店へ持参するなどして寿司店の仕事の助勢をしていたが、子供が小さいので店の営業を手伝うことはあまりなかつた。このような原、被告の間柄は近所の人達がおしどり夫婦と噂するほどに仲睦まじいものであつた。

もつとも、被告は嫉妬心が少し強いところがあり、右寿司店の家主で同店と同一建物内に美容院を経営していた丙野千子に電話をかけ原告との関係を疑い早く結婚しなさいと申し入れたり、寿司店のカウンターの中に女性客が入り込み手伝つているのをみて憤慨し扇風機を倒して出ていつたことなどがあつた。

(一五)  昭和三八年八月頃原告は旧家屋を代金二八〇万円で売却し、これに被告の実父から借受けた一五〇万円と宮崎信用金庫から融資を受けた金二〇〇万円を資金として、宮崎市千草町二四番四(後に住居表示の実施により八四番四と変更)の宅地145.45平方メートル、同町二四番一(後に住居表示の実施により八四番一と変更)の宅地184.85平方メートル(以下、これらを千草町の土地という。)及び同地上の建物を取得し、右建物に金二六五万円をかけて建物三棟、貸室数約一三部屋の構造にし、毎月四万円位の家賃収入を得た。同年一〇月原告は都寿司の客が少ないので別のところで営業したいといつて右寿司屋を閉店した。

(一六)  同年一二月頃原告は宮崎市中央通りに土地を買い、店舗を借りて「都寿司」という商号で寿司屋を開店した。その後間もない昭和三九年三月右土地を売却し、寿司屋を閉店した。

(一七)  昭和四〇年一月頃原告は右中央通の都寿司の店舗を売却し、宮崎市大淀の土地を買受けたうえ、宮崎信用金庫等からも融資を受けて志多組から三越旅館の営業権を買取りその経営を始めた。その頃、原告は五代曙(未亡人)を連れてきて被告に引き合わせ、旅館を手伝うようになつたと説明し、以後同女は住込みで右旅館の経理その他の手伝をするにいたつた。

(一八)  昭和四〇年三月頃、被告は原告の女性関係の噂を確めるため夜一二時頃右旅館に様子を見に行つたところ二階の部屋で原告と五代が一緒に寝ているのを発見した。五代は直ちに逃げて姿を晦ましたが、原告は狂つたように訳もなく被告を激しく殴打した。右事件の一、二日後原告が被告の兄訴外乙川清らを伴つて千草町の自宅に来たので、訴外T、H、被告らが集つて話合をした。その際原告が五代との関係を否定するので原、被告間の夫婦関係が長期間ないのは原告の性機能に異常があるのではないかということで県立宮崎病院で検査を受けることとなつたが、原告はこれを実行しなかつた。

(一九)  同年四月五日、原告と五代との関係が明らかになり、騒ぎが大きくなつたので原告は宮崎に居ずらくなつたため宮崎の地を離れて他へ出奔する決心をし、前示(一七)で買受けた大淀の土地を売払つてその売却代金を持ち、五代と共に自動車で宮崎を出て長崎方面に向つて逃げた。

(二〇)  同月六日頃原告は長崎から訴外T宛に「自分は二度と宮崎に戻らない決心であるので行方を捜さないでほしい。財産はすべて被告らに譲るのでよろしく伝えてくれ。」との内容の手紙を出した。原告はその際東臼杵郡西郷村大字田代の山林の権利証の入つたキャビネットの鍵、千草町の権利証一切と原告の実印を同封して訴外T宛に送り、その頃同人は右の書類、実印等一切を被告に渡した。被告は登記費用もないので、司法書士と相談して千草町の土地建物(既登記のもの)につき被告一人の名義で仮登記をした。

(二一)  同月一九日原告は長崎から被告あてに手紙を出しそれには「強いおかあさんになつて下さい。……なにもいえた義理ではないのですが本当にすみません」との文言がある(乙九号証)。

(二二)  原告と五代は長崎から諫早、大阪、姫路、東京と転々とし、同年六月頃兵庫県赤穂市で喫茶店の経営を始めた。同年九月二五日頃、原告の伯父のK夫婦が原告らを尋ね、ぜひ宮崎へ帰るよう説得し、原告と五代はKに連れられて同年一〇月二日頃千草町の自宅へ帰つてきた。その際、T、乙川喜代、乙川長次、K、清水町のおばあさん(丙田某女)、被告らの面前で原告と五代は別れることを誓い、五代は右丙田某女に預けられることになつた。

(二三)  同一〇月二日、五代は一たん前示市内清水町の丙田某女方に引取られたがその一、二日後、原告は被告に道案内をさせて右丙田方に五代を訪ね、五代が希望しているといつてすぐに同女を千草町のアパートに住ませた。同月中旬ころ五代は被告の目を逃がれて市内大工町へ転居し、原告がよく同所に出入するようになつた。

(二四)  同年一二月頃、原告は被告に喫茶店をしたいので前示三越旅館の売却代金を喫茶店の権利金四〇万円の支払にあてたいといつて、喫茶店の借主名義を被告としてその了解を得たうえ、五代の姉婿であるW司法書士からも資金を借りて市内橘通西一丁目で喫茶店「パンセ」を経営し始め、三か月位して五代が右店を手伝うようになり、いつの間にか「パンセ」の借主名義は被告から五代名義に変更された。被告は長女の一枝や知人のTと共に「パンセ」に赴き原告に五代とのことを談判したところ、原告は五代を一生面倒みるとまで公言して憚らなかつた。なお、この頃から原告は市内下北方町に借家をして千草町の家に帰らなくなつた。

(二五)  昭和四一年五月頃「パンセ」の借主名義が五代に変つていることを聞いた被告が不動産業者緒方と共に「パンセ」に原告を訪ねると、原告は入院のため病院に行くところだといい出して被告を宮崎市内の井上精神病院へ連れて行き、強制措置入院の手続を取つた。これは原告が、自己が胃腸を患い脱毛症に罹患したのは、被告が包丁を振り回したり、薪で原告を殴打したり塩酸のビンを殴げつけるなどの嫉妬妄想ないし精神異常の言動に基づく心労によるものであるといつて、誇張、虚言の訴えを右井上病院の医師にしたことに起因するものであつた。助けを求める被告からの電話や入院患者に密かに託した手紙などによりこれを知つた被告の兄乙川喜代らが宮崎県衛生部予防課や宮崎保健所に強く抗議し、訴外甲川五郎らの仲介もあつて被告は数日後右病院を退院した。

なお、原告は被告の甥Oの要求で同人と共に自動車で被告に面会するために右井上病院へ向う車中で、「気違いにして病院へ入れることは離婚の対象になるから、入れた。こうでもしないと女と一緒に住めない。」といつた。

(二六)  昭和四二年二月二二日ころ、被告は原告から前示(二〇)により贈与を受けていた千草町の土地、建物の名義を被告、長女一枝、長男一郎の共有名義(但し、未登記建物は被告単独名義)に変更するため当時保管していた原告の実印と本件土地の権利証を持参して奈須司法書士事務所を訪れ、右手続を依頼した。同人は昭和四二年二月一〇日付の贈与契約書(乙第一号証)を作成のうえ、前示(二〇)の仮登記を抹消して昭和四二年二月二二日付で原告から被告、一枝、一郎らに持分各三分の一の共有による所有権移転登記手続をした。同年一一月頃、被告は同じように前示(二〇)のとおり原告から贈与を受けていた宮崎県東臼杵郡西郷村大字田代の山林を原告から被告と一郎に持分各二分の一の共有による所有権移転登記手続をした。

(二七)  昭和四四年六月一八日奈須司法書士は前示(二六)の依頼に基づき被告が前示(二〇)のとおり原告から贈与を受けていた千草町八四番地四上の末登記の建物を家屋番号八四番四の二木造セメント瓦葺二階建居宅(以下千草町の建物という。)一階23.27平方メートル、二階27.52平方メートルとして被告名義に保存登記した。

(二八)  原告は昭和四六年五月一六日仕事中に意識を失い倒れて県立病院に入院し、同年六月頃胃潰瘍の手術を受けた。同年七月頃原告は退院し一旦被告のもとに帰つたものの、数日を経ずして右家を出た。そして市内村角に借家をし、昭和四七年六月頃からその敷地の一部に植木や花木類を栽培し、それらの販売で生活している。

(二九)  昭和四九年正月頃原・被告間で「従前の千草町の建物三棟中二棟を取り毀し、敷地の奥の部分に新しく建物を建て、表通りに面した部分は駐車場にし、新築した建物は被告の所有名義とする。」旨の合意が成立した。建築資金は主として被告の手持金や宮崎信用金庫から被告名義で融資を受けた金員で賄い、右合意に基づいて同年四月初頃、原・被告は建物の新築工事に着手し、同年一二月三一日右新築の建物の完成引渡しがなされ、昭和五〇年二月一日千草町八四番地四家屋番号八四番四の三木造瓦葺二階建居宅(以下、千草町の新築建物という)一階65.90平方メートル、二階59.62平方メートルとして被告名義に所有権保存登記がなされた。

(三〇)  その後右駐車場の部分の土地所有権の帰属に関し、原・被告間に紛争が生じ、同年七月七日原告は宮崎家庭裁判所に夫婦関係調整の調停を申立てたが、九月二五日不調となつた。

(三一)  昭和五〇年六月中頃、原告から被告に対し離婚を申し入れたが、被告はこれを拒否した。

次いで、原告は被告に対し、同年一〇月二三日本件訴訟を提起し、後に千草町の土地、新築建物の所有権移転登記手続を求める訴を提起した。現在被告には婚姻継続の意思がないでもないが、原告にはその意思はない。

以上の各事実を認定することができ、<反証排斥略>、他に右認定を覆えすに足る証拠がない。<中略>

第三有責配偶者の離婚請求の検討

被告は抗弁として、婚姻破綻の原因はもつぱら原告の有責行為に基くものであるから離婚請求が許されない旨主張するので、この点につき判断する。

夫婦の相互的な愛情のみが婚姻の窮局にある二人を結びつける唯一の絆であり、互いに愛情を失つてしまつた夫婦にとつては、婚姻破綻の解決としての離婚が不可避のものとなる。民法七七〇条一項五号はこのような思想の下に相手方の有責いかんを問わず婚姻が客観的に破綻し、「婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」に裁判離婚を認め、いわゆる破綻主義離婚法を採用している。

そして、破綻主義離婚法の下においては、必ずしも婚姻破綻の有責者からの離婚請求が全く認められないものではないが、婚姻破綻の責任が夫において他に情婦をもち、妻を遺棄して情婦と同棲するなどもつぱら自らの背徳行為に起因する場合で、相手方にさほどの落度がないなど一方的な婚姻生活に対する義務違反や他方に対する一方的な精神的肉体的虐待行為その他双方の婚姻維持の誠意や努力において著しい差異があり、これに離婚後の生活など諸般の事情を比較考量して自ら婚姻の破綻を招き有責性の著しい者がなす離婚請求を社会的倫理観、公序良俗ないし信義則に反する場合には民法一条に照らしその離婚請求権の行使は権利の濫用として許されないものと考える。

前認定第二の一の各事実をみると、原、被告の婚姻が破綻したのは、主として原告が情婦五代曙と情を通じ、同一(一九)のとおり昭和四〇年四月五日同女と出奔し、同(二二)のとおり同年一〇月二日一たん自宅に連れ戻されたが、(二三)(二四)のとおり同女との関係を断ち得ず、(二五)のとおり被告を精神病院へ入院させたり、(二八)のように自ら胃潰瘍の入院手術を受ける際には突然被告を頼つて舞戻り、その看病を受けながら退院するや、数日を経ずして家を出て帰らないことなど原告の身勝手、気侭な背徳行為に起因するもので、被告には原告の不貞行為に誘発されてその嫉妬から多少行き過ぎた言動もみられないでもないが、これも異常とまではいえるものでないこと、もつとも、原告は五代と出奔中、出先から前認定一(二〇)のとおり昭和四〇年四月六日、Tに対し山林、土地建物を被告に贈与してほしいといつて権利証などを送付し、前同(二一)のとおり昭和四〇年四月二一日に被告あてに反省と詫び状を送つているが、前示のとおり出奔先から帰つた後は一転して身勝手や気侭な言動を繰返すにいたつていること、被告は原告から前同(二〇)により贈与を受けた不動産につき仮登記をなし、同(二六)のとおり昭和四二年二月二二日被告と長男、長女の共有名義に本登記をなし、同(二七)のとおり未登記の贈与建物につき被告名義の保存登記を了し、現在駐車場、アパートを経営し生活を維持しているものの、被告が離婚に応じないのは単に原告に対する意地や反感など報復的感情によるものではなく、原告が情婦との関係を断つて被告のもとに立ち帰るのを待つて健全な婚姻関係を回復したいと望んでいることが認められ、これらの事実を考え併せると、本件婚姻の破綻はもつぱら原告の背徳行為に起因するものであり、これに前示諸般の事情を比較考量すると、有責性の甚だしい原告の離婚請求権の行使は民法一条三項に照らし権利の濫用として許されないものといわねばならない。

第四結論<省略>

(吉川義春 有満俊昭 鳥羽耕一)

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