宮崎地方裁判所 昭和53年(ヨ)115号 判決 1980年6月30日
債権者 河辺周一郎
右法定代理人親権者父 河辺一周
右同母 河辺真理子
右訴訟代理人弁護士 高森浩
右同 滝聰
債務者 大迫英彦
右訴訟代理人弁護士 小倉一之
主文
債務者は債権者に対し、昭和五三年八月から本案判決言渡しに至るまで毎月末限り月額金一五万円を仮に支払え。
債権者のその余の請求を棄却する。
訴訟費用は債務者の負担とする。
事実
一 申立
1 債権者
債務者は債権者に対し毎月金三一万八〇〇〇円を仮に支払え。
2 債務者
債権者の請求を棄却する。
訴訟費用は債権者の負担とする。
二 申請の理由
1 当事者及び診療契約の締結
債権者は、後記2の医療事故(以下本件事故という)当時九才の小学生であり、債務者は、宮崎市において大迫外科病院を開設して外科の診療業務を行っていた医師である。
債権者は、昭和五二年五月一三日午後八時ころ、債務者から急性虫垂炎と診断され、債務者により虫垂摘出手術を受けるため同病院に入院した。
2 本件医療事故の発生
(一) 債権者は、翌一四日午前一一時ころ、債務者より腰椎穿刺による麻酔薬ネオペルカミンS一・四mmの注射(以下、腰麻という)を受けた直後、血圧の急激な低下をきたし、呼吸、心拍が相前後して停止するというショック状態に陥った。その後、債権者の自動呼吸、心拍動は再開したが、意識は回復せず、現在まで意識不明のいわゆる植物人間の状態が継続している。
(二) 右ショックは、債権者が高度の脱水状態にあったため発生したものである。
3 債務者の責任
(一) 本件事故は、債務者の後記(二)の過失によるものであるから、債務者は、債権者に対し、債務不履行又は不法行為により債権者の被った後記4の損害を賠償する義務がある。
(二) 過失
(1) ショック招来の過失
小児腰麻において、高度の脱水状態は禁忌症とされ、これを看過して腰麻を施せば、前記ショックを招来する危険は誠に高い。それ故、担当医は、事前に問診、検査等により脱水状態の有無を確め、脱水状態にある患者に腰麻を実施する場合には、右危険を回避するため、患者に十分な輸液を補給する等予防措置を講ずるべき義務がある。
本件事故後、債権者は腎性尿崩症の患者であることが判明したが、同患者は脱水症状を呈することが多く、多飲多尿がその特徴である。
債権者の母は債務者に対し、初診の際、債権者に幼少の時から多飲多尿の傾向があることを告知している。
従って、債務者は、正確な病名はともかく、債権者の脱水状態の存在を疑い、適切な問診、検査をなすべきであるのに、これを怠り、債権者が脱水状態にあることを看過し(債務者の指示により、債権者は、一四日午前三時から同一一時まで水分を全く摂取していないため、脱水状態は進行していた)、前記の予防措置を講ずることなく、債権者に腰麻を施した過失により前記のショックを招来せしめたのである。
(2) 回復措置上の過失
医師たるもの、患者に腰麻を施したのちにおいては、患者の血圧、呼吸、麻酔の進行度に十分に注意し、その症状変化に即応した措置を講ずべき注意義務があるのに、債務者は、債権者の右症状変化を十分に観察しないまま、手術に着手したため、債権者における前記ショックの徴候発見が遅れ、適切な回復措置を採りえなかったばかりか、債務者の補助者である看護婦口智恵子はショック発生に動転し、債権者に酸素ガスを供給すべきところ笑気ガスを供給するという重大な過失を犯した。
4 損害と保全の必要性
(一) 債権者は事故後同年八月末日まで昼夜を問わず強度の全身痙攣の発作を断続的に継続し、以来現在に至るまで県立宮崎病院でベットに臥したまま意思、感情を示さず、自発的運動能力は全くなく発語不能であり、咀嚼能力なく、食事は鼻腔からチューブを通して流動食をとり、排便は浣腸により、排尿は膀胱に管を通してなしている状況であり、債権者の右障害は将来改善され、意識、知能が回復してくる見通しもなく、症状急変、余病併発に厳重な注意を要し、昼夜を問わず付添看護を必要とする状態である。
債権者の父は高校教師であり、職業付添婦を雇う資力に欠けるため、債権者の母が、日中は毎日、夜間は月に一〇日、付添看護をしているが、家庭には、債権者の弟二人があり、一家の日々被っている損害は甚大である。
債務者は、右八月末日までは付添費を負担していたが、その後は負担しない。
(二) 債権者は、債務者に対し、損害賠償請求の訴を提起しているが、本案判決を待っていては回復し難い損害を被るおそれがある。それ故付添看護費用一日金一万円、入院雑費一日金六〇〇円、毎月金三一万八〇〇〇円の限度で、債権者が本件事故により被った損害の内金の仮払いを求める。
三 申請の理由に対する認否
1 申請の理由1、2の事実は認める。
2 同3の事実中、債務者の過失は否認する(詳細は、後記債務者の主張のとおりである)。
3 同4の事実は不知。県立宮崎病院は、完全看護制であるから付添いは不要である。
四 債務者の主張
本件事故発生につき債務者は無過失である。
1 診療の経過及び事故後の処置
(一) 債務者は、昭和五二年五月一三日午後八時ころ、債権者を初診し、血液検査の結果、早期手術を要する急性虫垂炎と診断した。債権者は、緊急に手術を要する病状にはなかったが翌日は土曜日であり、土、日曜を手術以外の治療で過すのは危険であるので、債権者の母に手術を勧めたところ、その応諾を得た。債権者の母は債務者に対し、債権者は大病をしたことはなく、元気がよくて水をよく飲む、他に異常はない、と述べるに止まった。そこで、同日午後九時過ぎ債権者を入院させ、翌日手術すべく、債権者に対し、絶食すること、明朝三時までは湯、茶、水に限って飲んでよい旨指示を与えた。
(二) 翌一四日午前一一時ころ、債権者を手術室へ移し、尿検査を行うとともに全身につき詳細に診察したところ、手術前の心理的影響と考える程度の血圧上昇(一二六/一〇二)があったほかは、頻脈不整脈、心音の異常等はなく、少なくとも眼瞼のくぼみ、舌や皮膚の乾燥、尿量の減少、顔ぼうの変化等の脱水症状は見られず、尿(蛋白、糖、ウロビリノーゲン)についても異常はなく、腰麻および手術に支障ある所見は全くなかった。
(三) 午前一一時一分、債務者は手術を開始、先ず債権者に対し予防的昇圧剤としてエフェドリン〇・八mmを皮下注射をするとともに、リンゲル液五〇〇mmを点滴静注を行い、同一一時二六分、腰椎穿刺によりネオペルカミンS一・四mmを注入したところ、債権者には、数分後から腰麻による定型的副反応としての血圧降下が認められたため、念のため強心昇圧剤ネオシネジン一号一mmを点滴内に混合し、さらにマスクによる酸素吸入を開始した。その結果、血圧は八六/六六を最低として徐々に上昇して九六/六八に達した。
また麻酔効果、範囲は正常で、債権者の胸式及び腹式呼吸も正常で、その意識は清明であった。
(四) 同一一時四四分、債務者は執刀したが、債権者の血液の色調は正常で、意識、血圧にも変化はなかったが、約二分後血圧が急激に下降しはじめ、同時に術創の血液の色調が暗赤色を帯びはじめ、ショック状態が発生したため直ちに手術を中止した。
同一一時四八分ころ、債権者の意識はこん濁し、脈拍微弱、呼吸困難となったので直ちにマスク加圧人工呼吸を開始したが、一回の全身強直性けいれんを発現すると共に、同五三分頃自動呼吸停止、相次いで心停止が起ったので経胸壁心マッサージを開始した。同五六分心拍動再開、同五八分自動呼吸も再開した。この間終始エアウェイによって気道は十分確保され、又、ショック状態継続中は、ラクテック点滴静注及び五パーセントブドウ糖点滴静注内にテラプチク三mm(呼吸促進剤)、デキサメサゾン八mg(副腎皮質ホルモン剤)、プロタノールL一mm(強心昇圧剤)、ジギラノゲンC二mm(強心剤)等の薬剤を混入投与した。
(五) 同一二時一〇分頃、ショック状態は脱出したが、債務者の意識不明は持続したので、約五時間後県立宮崎病院へ転院させた。
2 債務者の無過失
(一) 本件事故後、県立宮崎病院で調査した結果、債権者は、家族性腎性尿崩症であることが判明した。従って、本件事故は、債権者が右特異体質のため、手術前八時間に及ぶ絶水、絶食により相当高度の脱水状態となり、循環血液量の減少、細胞内外液電解質の不均衡等を生じているところに、腰麻がなされたため発生したもの、すなわち、腰麻固有のショックによるものではなく、債権者の特異体質に基因するものというべきである。
(二) ところで、前記本件診療の経過に照すと、債務者が、債権者の特異体質とこれによる脱水状態を術前に発見することは不可能であった。何故ならば、腎性尿崩症は学理上も未解明な点の多い極めて稀な疾患であるが、虫垂炎の治療を目的とする外科医としては、患者側からその存在を疑わせる的確な資料、情報を提供されるか、或いは、患者に外見上の異常な状態が存在するのでなければ、術前の視診触診等の診察によりこれを発見するのは無理である。ところが、債権者の母は、問診に対し「債権者は大病をしたことはなく、元気が良くて水をよく飲む、他に異常はない」と答えたにすぎず、又、債権者に外見上脱水症状は存しなかったのである。このような状況下、債務者が債権者の特異体質とこれに基因するであろう脱水状態を確知しえず、これら症状のない通常人に対するのと同一の方法によって債権者に腰麻を実施したからといって、債務者が責められるべき理由はない。
(三) 腰麻施術後、就中ショック発生後、債務者が債権者に採った措置は、先に主張のとおりであり、そこに何らの過ちはない。
理由
一 申請の理由1、2については当事者間に争いがなく、《証拠省略》によると、債務者の主張1の事実(但し、同項(一)の問診時の債権者の母の発言を除く)が、《証拠省略》によれば、本件事故は、債権者が、のちに判明した腎性尿崩症の疾患を有していたため、手術前の長時間に及ぶ経口摂取の制限等により、高度の脱水症に陥り、循環血液量の減少、細胞内外液電解質の不均衡を招いていたところ、債務者は債権者の右状態を把握しえず、輸液補給による体液、電解質の調整を行わず腰麻を実施した結果、債権者は、血圧低下、呼吸抑制、同停止、心停止のショックを招き、そのため、脳への酸素供給が杜絶され、脳幹部損傷を受けたことにより発生したものであること、以上の各事実が疎明される。
二
1 そこで申請の理由3(一)(二)(1)について判断する。
本件に明らかなとおり、脱水症の存在を看過して腰麻を行えば、重大な結果を惹起する場合があるのであるから、医師が腰麻を行うに際しては、他の麻酔禁忌症に対するのと同様、患者の脱水症の存否については慎重にこれを確認すべき高度の注意義務が課せられているものというべきである。そうして、脱水症の存在が判明すれば、前記の予防措置を講じたうえで腰麻を行うか、それが出来なければ、設備のある病院へ転医させるのが原則であろう。
従って、右の点につき債務者の過失が存するか否かを検討するに、債務者は、債権者には、外見上脱水症の所見はなく、問診その他の診察においても脱水症の存在を疑うべき何らの徴候もなかった旨主張するのである。しかしながら、一般に、小児は水分必要量が多く、手術前の絶食、絶水によって容易に脱水状態に陥るとされているうえ、《証拠省略》によると、債権者は、外見は健康で特に異常はないが、幼時より、きわだって多飲多尿であるため、かつて、医師の診断を受けたところ、特に病気と指摘はされなかったが、将来、激しい運動をする際には精密検査を受ける必要があることを指示されていたので、債権者の母は、本件初診の際、債務者に対し、債権者が多飲多尿であることを申し述べていたことが疏明されるところ(《証拠判断省略》)、極端な多飲多尿は代謝又は循環異常を疑わしめるに十分であるから、これら事情のもとにおいては、債務者は、債権者の外見に脱水症状が顕著ではなかったとしても、脱水症の存在に疑念を持ち、債権者の母に対する問診を深め、或いは、尿比重の検査を行う等脱水症を念頭においた、より適切な方法により診察をなすべきであり、かつ、これを果していれば、債務者は債権者の脱水症を看過することはなかったものと一応認められるのである。
従って、以上の点において、債務者の過失は否定できない。
2 次いで、申請の理由3(一)(二)(2)について判断するに、本件腰麻実施から事故発生に至るまでの経緯については、先に認定(債務者の主張1(三)(四))のとおりであるから、この点に関する債権者主張の過失の疏明は十分ではない(成立に争いのない疏乙二八号証の二のル(麻酔記録表)には、債権者に笑気ガスを吸入させた如き記載がされているが、《証拠省略》によると、右は担当看護婦の誤記と認められる。)。
3 よって、本件事故は、債務者の右1認定の過失によって発生したものと一応認められるから、債務者は、債権者の本件事故による損害を賠償する責任がある。
三 《証拠省略》によると、申請の理由4(一)(二)の各事実が疏明されるところ、債権者の病状の態様程度に照すと、たとえ、県病院が、いわゆる完全看護制であるとしても、近親者の付添費用相当の損害金は、後記の限度で、本件事故と相当因果関係の範囲内にあり経験則ならびに弁論の全趣旨によると右付添費用相当の損害金は一日金四五〇〇円、入院雑費は一日金五〇〇円、合計月金一五万円であると一応認めるのが相当である。
而して、債権者が本件事故によって被った総損害は相当高額にのぼるものと考えられるところ、事故発生後すでに三年を経過しているのに、債権者はいまだ極く僅かの経済的補償しか得ていない事情をも併せ考えると、本件仮処分の必要性も一応認められるところである。
従って、債権者の本件申立ては、本件申立がなされた昭和五三年八月から本案判決言渡しに至るまで毎月金一五万円の仮払いを求める限度で正当である。
よって、債権者の本件申立を右の限度で認容、その余を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九二条を適用し主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 蒲原範明 裁判官 村岡泰行 裁判官前原捷一郎は転任につき署名押印できない。裁判長裁判官 蒲原範明)