大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

宮崎家庭裁判所 昭和57年(家)1166号 審判 1982年11月13日

申立人 奥脇五月

主文

申立人の氏奥脇を山崎に変更することを許可する。

理由

申立人は主文と同旨の審判を求め、その申立の実情は、申立人は申立人が二一歳であつた昭和三九年ごろ、肩書本籍地で山崎宏祐と知り合い、昭和四三年七月二七日同人との間の子、奥脇江里子を出生しその後宏祐の本籍地である徳島県阿南市で同人、同人の母や子ら(宏祐と妻トシヱ間の長男泰雄、長女静子、二男新二)と同居し、昭和四六年六月一一日再び宏祐との間の子奥脇富子を出産したが、宏祐とその妻トシヱとの離婚が成立しないために、二児とも申立人の氏を称する入籍をし、宏祐は昭和四七年二月二三日上記二児の認知届をし、宏祐の籍には入らないものの、申立人と二児とは事実上山崎の氏を称して生活してきたが、戸籍上の氏が奥脇のままであるので種々不自由をしてきたところ宏祐は昭和五四年五月労働災害(ダンプカー転落)のため重傷を受け就労できなくなり、その療養のため、宮崎市において入院生活を続け、申立人も二児と一緒に宮崎市の肩書住所に転居して宏祐の看護に当つている。申立人は山崎宏祐と同棲以来今日まで一四年以上の期間事実上の夫婦として生活し、その間通称として山崎の氏を使用しているので、この申立をするというにある。

よつて審理するに、当裁判所昭和五七年(家)第七五五号、七五六号子の氏変更許可申立事件記録中の筆頭者山崎宏祐、筆頭者奥脇五月の各戸籍謄本、当庁家庭裁判所調査官作成の調査報告書及び申立人に対する審問の結果によると、次の事実が認められる。

一  徳島県那珂郡○○村大字○○○字○○○××番地に本籍を有した山崎宏祐(ヒロスケ、昭和二年二月二八日生、以下宏祐という。)は昭和二八年四月二〇日野田トシヱ(大正一四年九月一日生)と婚姻し、本籍を同村大字○○○字○○○(行政区画変更により阿南市○○町○○○)×××番地の×に定め山崎の氏を称し、夫婦間に同年五月一九日長男泰雄、昭和三〇年一月三一日長女静子、昭和三三年八月一九日二男新二を儲けたが、夫婦間に不和が生じ、昭和四〇年ごろから妻トシヱはその実家に起居して宏祐及びその三児と別居し、そのころ宏祐及びトシヱから各1回づつ徳島家庭裁判所阿南支部に申立した家事調停では合意に達しないで、別居が続いていた。

二  申立人は本籍地で農業を営む両親の三女として生れ、同地で中学校を卒業し、母校の事務員として四年程就職し、大阪市内で一年洋裁を学んだ後再び実家において家業に従事中山林取引を兼ねていた実父の許に来訪した宏祐と知り合い、木材買いつけの業務上繰り返えし来訪する宏祐と親しくなつて昭和四二年同人との間の子を懐胎し、これを知つて宏祐の知人中原正義のすすめではじめて宏祐の本籍地の住居を訪ね、宏祐及びその母と姉妹三児と対面し、懐胎の事実を告げて帰宅し、延岡市内において長女江里子を出産した。

三  申立人は江里子(昭和四三年七月二七日生)の生後四月目のころ同女を連れて阿南市に転居し宏祐の姉土井ミツヱの世話してくれた借間に若干日起居した後阿南市○○××番地×に居住していた宏祐の一家(宏祐の母サカヱ及び宏祐の長男泰雄、長女静子、二男新二が宏祐と同居。母サカヱは宏祐の兄二名がいずれも戦死していたため、その遺族扶助料を受給していた。)に主婦として同居し宏祐の従事する造園業の加勢もし、昭和四六年六月一一日二女富子を出産し、(二児とも申立人からの出生届で奥脇の氏で入籍し)昭和四七年二月二三日宏祐は江里子、富子を自分の子と認知する届出をし、阿南市立○○○○保育所に通園時並びに小学校において江理子富子が山崎の氏を使用したほか一般の社会生活では申立人及び江理子富子は山崎の氏を使用していた。

四  阿南市で申立人らと同居していた宏祐は昭和五四年五月造園の業務に従事してダンプカーを運転中、その車と共に穴に転落負傷する事故にあい、申立人は入院した宏祐に付添看護を余儀なくされ同年夏休以来江里子、富子を申立人の本籍地にいる申立人の両親に預け、宏祐は宮崎県立○○病院において頸椎軟骨の手術を受け、同年一二月同院からの退院に引つづき宮崎市○○町×丁目×番の○○外科病院に入院して申立人の看護を受けながら現在に及んでいる。申立人は昭和五五年七月同病院に近い同市○○×丁目××-××に借家して江里子、富子を呼びよせ、爾来阿南市におけると同様に山崎姓のまま宮崎市の中学校小学校に二児を通学させ、申立人は○○○○○株式会社のキヤデイとして就労し、外出許可を受けて来訪する宏祐を囲む生活を続けている。宏祐は後遺障害があり社会復帰についてまだ目途が立たず、労災補償を受給している。

五  申立人と宏祐との間の子奥脇江理子は宮崎市立○中学校×年に、同じく富子は宮崎市立○○小学校×年に在学中であり、現在は学校当局の了解を得て山崎の氏で通学しているが、戸籍上の氏が奥脇であると、上級学校へ進学するのに支障が生ずるとして親権者である申立人が昭和五七年七月七日当裁判所に上記二児の氏奥脇を父の氏山崎に変更する審判を求める申立をし、当裁判所は当庁家庭裁判所調査官をして山崎宏祐の妻山崎トシヱ及長男山崎泰雄の意向を尋ねさせた(長女静子は昭和五一年一二月一五日沼井剛と婚姻し、二男新二は昭和五五年一二月一日杉下加久子と婚姻し、いずれも宏祐の籍から離れている。)ところ妻トシヱは、江里子、富子を宏祐を筆頭者とする戸籍に入籍させることに強く反対の意向を回答し長男泰雄からは何の回答もない。

以上認定の事実関係からすると、申立人と山崎宏祐との間の二児の福祉のためには父の氏に変更することが望ましいが、現在のところ宏祐の妻がこれに強く反対している以上、その意向を無視することは相当でなく、むしろ申立人が本件において申し立てているごとく既に申立人が今日まで一四年以上の期間山崎宏祐と事実上の夫婦として生活し、その間通称として山崎の氏を使用し氏を変更するやむを得ない事由があると認められる以上、申立人の氏奥脇を山崎に変更することを認め、江里子、富子にもこの変更後の母の氏山崎を称させ母子同籍のままにしておくことが妥当であると解される。

よつて戸籍法一〇七条一項、家事審判法九条二項、特別家事審判規則四条により主文のとおり審判する。

(家事審判官 境野剛)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例