小倉簡易裁判所 昭和45年(ろ)157号 判決 1971年5月06日
被告人 早麻信幸
大七・六・九生 無職
主文
被告人は無罪。
理由
一、本件公訴事実は、
被告人は、自動車運転の業務に従事する者であるところ、昭和四五年三月一四日午後五時五〇分ごろ、軽四輪貨物自動車を運転し、北九州市小倉区紫町東一丁目先の交通整理の行なわれていない交差点を同区白銀町方面から片野方面に向け直進しようとしたが、同交差点は自車の進行する幅員約五・八メートルの道路と幅員約二九メートルの道路とが交わる場所であつて、被告人が同交差点の直前で一時停止したころ、明らかに幅員の広い右方道路の同交差点の手前約三〇メートルの地点を北株要広運転の普通乗用自動車等七、八台の車輛が一団となつて同交差点に向け進行してきており、被告人の車輛がただちに交差点内に進入すれば前記車輛との衝突の危険が予想できる状況にあつたので、自動車運転者としてはそのまま停止して前記車輛の通過を待つたうえ交差点に進入すべき業務上の注意義務があるのに、前記車輛の状況を十分に確認せず自車が先に通行できるものと軽信して、ただちに同交差点に進入した過失により、前記北株運転の車輛に自車右側部を衝突させ、その結果同人に加療約三か月間を要する頸椎捻挫等の傷害を、同人の車の同乗者中村市郎に加療約五か月半を要する頸椎捻挫等の傷害を、自車の同乗者二宮康夫に加療約一〇日間を要する頸部挫傷等の傷害を、同二宮ミドリに加療約一〇日間を要する左肩部挫傷等の傷害を、同二宮保宏に加療約一〇日間を要する頸項部挫創等の傷害を、早麻ツルエに加療約一か月を要する頭部挫傷等の傷害を、それぞれ負わせたものである。
というのである。
二、本件各証拠によると、前記日時場所で被告人運転の車輛右側部と北株要広運転の車輛前部とが衝突し、その結果同人ほか五名がそれぞれ前記のような傷害を負つたことが認められる。
三、右事故の発生した現場が前記のとおり被告人の進行してきた幅員約五・八メートルの東西道路と幅員約二九メートルの南北道路とが交わる交差点であつて、当時交通整理が行なわれていなかつたこと、および被告人の車輛が同交差点に進入前その直前で一時停止したことは本件各証拠によつて認めることができる。そして、右各道路の幅員の数値の対比はもとより、司法警察員作成の実況見分調書二通および当裁判所の検証調書により認められる現場の状況に照らしても、被告人の車輛の進行道路のそれよりもこれと交差する南北道路の幅員が明らかに広いことが認められる。
四、ところで、検察官は「被告人が右交差点の直前で一時停止したころ、前示明らかに幅員の広い道路の交差点の手前約三〇メートルの地点を七、八台の車輛が一団となつて同交差点に向け進行してきていた。」旨主張する。しかし、これに副う証人上原健一の公判廷での供述は、当裁判所の検証調書および同証人に対する尋問調書ならびに後記認定の両車の速度、衝突地点に照らして信用できないし、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
五、そこで、被告人の車輛が右交差点の直前で一時停止した後発進したとき、右方道路から同交差点に向け進行してくる車輛の状況がどうであつたか、そしてその状況のもとで検察官主張のような注意義務が被告人に存在するかについて検討する。(証拠略)を総合すると、次の各事実を認めることができる。
(一) 被告人の車輛は、発進地点から衝突地点までの約一一メートルの間を、時速約七~八キロメートルの速度で進行した。その間途中でとくに加速したことも認められないので、五~五・五秒を要したことがうかがわれる。
(二) 北株要広の車輛は、時速約五〇キロメートルの速度で(これをかなり超える速度であつた疑いがあるが、確たる証拠はない。)同交差点に向け進行してきた。そうすると、同車は前記被告人の車輛の発進時には、衝突前の制動による減速を考慮に入れ、衝突地点の手前六〇~七〇メートルの地点、同交差点の手前の側端から五五~六五メートルの地点であつたことがうかがわれる。そして、他にその左方に並進しあるいは後方に従う車輛が存在した。
(三) 北株の車輛が右の地点にあつたころ、その左前方五~一〇メートルの地点、同交差点の手前の側端から約五〇メートルの地点を両車よりかなり速度で先行する車輛が存在した。
(四) 南北道路は、ほぼ直線で見とおしはよく、路面はコンクリート舗装がされており、公安委員会により車輛の制限最高速度を時速五〇キロメートルと指定されている。
以上の各事実に基づいて、被告人に訴因に掲げる発進を中止すべき注意義務があつたかどうかについて検討する。
道路交通法三六条三項によると、車輛等が交通整理の行なわれていない交差点に入ろうとする場合に「幅員が広い道路から当該交差点に入ろうとする車輛等があるときは、車輛等は、…………幅員が広い道路にある当該車輛等の進行を妨げてはならない。」のであるが、ここに「幅員が広い道路から当該交差点に入ろうとする」とは、狭い道路の車輛と同時に交差点に入ろうとする場合に限られないことはもちろんで、交差点付近にあつて交差点に入ろうとしている場合を含むものである。そして、その限界は当該道路における路面の状況および車輛の法定(指定)最高速度を考慮し、多少の余裕をもつて制動をなしうる距離が交差点の手前に残されているか否かによつて定めるのが相当である。
これを本件について見ると、被告人の車輛が交差点の直前から発進したとき、北株の車輛ほか一団の車輛が交差点の手前の側端から六〇メートル前後、その左前方の車輛が五〇メートル前後の地点にあつたことが認められることは前示のとおりであるところ、これらの車輛の進行した道路が公安委員会による指定最高速度時速五〇キロメートルであつて、コンクリート舗装がされているのであるから、通常の車輛は三〇メートル前後の余裕があればゆうに交差点の手前で停止できることに照らせば、これらの車輛がいまだ前示道路交通法三六条三項にいう「交差点に入ろうとしている車輛」には当らないというべきである。
一方、同法三五条一項によると、「車輛等は交通整理の行なわれていない交差点に入ろうとする場合において、既に他の道路から当該交差点に入つている車輛等があるときは、当該車輛等の進行を妨げてはならない。」のであつて、それは交差する道路のいずれが広い幅員を有するかにかかわりのないことである(同法三六条四項参照)。
前示の相互車輛の進行経過に照らせば、本件の場合、北株の車輛ほか一団の車輛およびその左前方の車輛が交差点に入ろうとするときは、被告人の車輛がすでに同交差点に入つている状態となることは明らかである。そうすると、いかに広路を進行するとはいえ、それらの車輛は被告人の車輛の進行を妨げてはならない筋合のものである。そして、被告人の車輛の発進時それらの車輛が右の義務を無視して被告人の車輛の進行を妨げることが明らかに看取できるような状況にあつたことを認めるに足りる証拠はない。
以上のような状況のもとでは、被告人が交差点の直前で一時停止後発進するに当り、右方を見て南北道路の車輛がいまだ交差点に入ろうとしておらず、自車が先に交差点に進入してもこれらの車輛の進行を妨げることはないと考えたことは(右方道路の状況に対する十分な確認をせず、かつ運転経験の浅いことにより、自己の認識と客観的事実との間にかなりくいちがいがあつたとしても)、その限りにおいて、何ら自動車運転者としての客観的な注意義務に欠けるところはない、と認めるのが相当である。
他に被告人に右の発進を中止すべき注意義務の存在したことを認めるに足りる証拠はない。
六、このようにして、被告人には検察官主張の注意義務の存在を認めることはできないのであるが、右の発進後被告人としては右方道路から一団となつて交差点に向け進行してくる車輛のあることを認めたのであるから、交差点内を進行するに当りこれらの車輛の進行状況を十分に確認しその位置および速度を的確に判断してその状況に応じた加速あるいは停止等の処置をとることにより衝突の危険を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これらを怠りかつ慢然と時速七~八キロメートルの低速で進行した過失が存在する疑いが残るところ、この点について検察官は訴因として掲げる意思のないことを明らかにしているので、検討の限りでない。
七、以上のとおりであつて、本件公訴事実はその証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条後段により、無罪の言渡をする。