山口地方裁判所 昭和26年(行)7号 判決 1952年3月13日
原告 坂井久
被告 宇部労働基準監督署長
補助参加人 山口労働者災害補償保険審査会
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は被告が昭和二十五年三月十五日附で原告に対してなした労働者災害補償保険給付に関する決定はこれを取消す訴訟費用は被告の負担とするとの判決を求めその請求原因として原告は宇部市所在宇部興産株式会社西沖ノ山炭鉱の採炭夫であるが昭和二十四年九月十四日採炭作業中業務上の負傷を受け爾来労働者災害補償保険法による保険給付を受けていたところ被告は昭和二十五年三月十五日附で原告の傷害はその症状が固定し医療効果を期待し得ない状態即ち右法律第十二条第一項第一号の「治つた場合」に該当するものとして同日以後の保険給付をしないことを決定した。そこで原告は同法第三十五条第一項により山口労働基準局保険審査官に審査を請求したところ審査官伊藤武夫は同年五月二十日継続加療は認め難いと審査決定した。よつて原告は更に山口労働者災害補償保険審査会に審査を請求したところ審査会は同年十一月八日継続加療は認められないと審査決定し原告は同年十二月二十日その通知を受けた。しかしながら昭和二十五年三月十五日現在における原告の症状は根性坐骨神経痛で両側上臀神経痛、両側閉鎖神経圧痛、両下腿握痛、ラセーグ氏症候両側陽性、膀蓋腱反射減退、両側下腿特に右側外側左側内側知覚鈍麻等が認められ腰髄両側第四第五に限局性の癒着が存すると認められよつて椎弓切開除術の施行の要があり且つその施術により症状を軽快せしめ得る見込があり決して症状固定して医療効果を期待し得ない状態ではなく従つて右法律第十二条第一項第一号の「治つた場合」に該当しない、現に原告は昭和二十六年一月十日山口大学医学部附属病院において椎弓切除術の施行を受け経過良好の途を辿りつつあり被告の決定が全く不当であつたことが実証せられている。よつて右決定の取消を求めるため本訴に及んだ次第であると述べ、
被告及び同補助参加人の陳述につき労働者災害補償保険法において「治つたとき」の意義が参加人等主張のように取扱われていることは争わないが本件原告の場合はそれに該当しない。被告が慎重な審査の上本件決定をしたことは敢て否認はしないが該決定の根拠となつた資料が間違つているので右決定が間違つたのである。本件が外科後処置診療として措置すべきものであるとの主張、原告の本件傷害が業務災害に起因するものと認め難いとの主張はいづれも否認する。原告の本件障害は故意又は重大なる過失に基くものでもなく又梅毒に基因するものでもない。原告主張に反するその他の主張は総べて否認すると述べた。(立証省略)
被告訴訟代理人兼補助参加人代表者は原告の請求を棄却する訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め答弁として原告主張事実中原告が採炭夫であつてその主張の日に傷害を受け労働者災害補償保険法による保険給付を受けていたところ被告が原告主張の日その主張の如き決定をしたこと、原告がその主張の如く保険審査官及び保険審査会に順次審査の請求をしたけれどもその主張の如き決定があつて原告にその旨通知せられたことはいづれもこれを認めるが原告の後遺症状がその主張の如きものであることは否認する。原告が椎弓切除術の施行を受け経過良好であることは知らない。
原告は宇部興産株式会社西沖ノ山炭鉱の採炭夫として坑内作業に従事中昭和二十四年九月十四日小塊炭が崩落し右膝に打撲傷を受けたが右打撲傷が軽微であつたため作業を続行中左足を滑らし身体をひねつたため腰筋を捻挫したので右法律第十二条第一項第一号同条第二項労働基準法第七十五条により療養補償費の給付を受けていたところその後原告の右打撲傷及び捻挫が治癒したので被告は昭和二十五年三月十五日原告に対し同日以降の療養補償費を支給しないと決定したのである。従つて被告の本件処分には何等違法な点がない。仮に原告主張のように本件決定の当時原告に根性坐骨神経痛が残つていたとしても次の理由によりこれは療養補償の対象とはならない。即ち(一)先づ昭和二十五年五月九日及び同年六月二十二日のミユログラフイ精密検査によれば原告には脊髄膜の癒着又は黄靱帯の肥厚が認められたのであるが右症候は本件のような軽微な外傷によつて惹起するものとは考えられず炭鉱坑内における乾湿又は温度の高低に基因するものとも考えられない。坐骨神経痛は通常見られる疾病であつてその原因も多くは不明であり或種のものは脊髄膜の癒着、黄靱帯の肥厚又は椎間軟骨の脱臼によるものと考えられているがこれらは日常生活中にも起り得るものである。原告の既往症には梅毒がありこれが坐骨神経痛の原因となる例も相当に多い、如上各種の事実から考察すれば右根性坐骨神経痛は直接又は間接にも業務に起因するものであることが明かであるとは言い難いから療養補償費給付の対象とはならない。(二)右根性坐骨神経痛が業務に起因するものであるとしても原告の右症状は手術の結果の良否も不明でありその他の療法は無効であつて症状固定の状態であるから療養補償費給付の対象とはならない。けだし本来療養の対象となるのは治療効果の期待し得られる場合に限られることは労働者災害補償保険法が障害補償の制度を設けていることからして明かである。即ち通常医学的に見て治療効果の期待し得られる場合には一定の治療方法を認めこれに対して療養補償費を支給せられるけれども疾病が固定した状態にあつて効果的な治療方法が期待し得られなくなつた場合には療養補償費の支給を打切りなお残存する身体の障害に対して障害補償費が支給せられることとなる訳である。従つて或症状に対し通常医学的に見て有効な治療方法が考えられず仮に何等か治療方法を採つても一般に結果不良の例が多いとか又は良好な結果を期待し得るか否か不明であると云うような場合には療養補償の対象とはならない。このような症状に対し或治療方法を施しその結果が偶々良好であつたとしても必ずしもこの治療方法が有効なものとして療養補償の対象となるものでないことも同様である。けだしこの場合右の良好な結果そのものが果して右の治療の効果であるか否かは一般に医学的に見て明かなものでなく従つて右の症状が通常医学的に見て治療効果の期待し得られる場合に該当しない点においては変りないからである。而して本件の場合は以上に述べた治療効果の期待できない症状固定の状態にあつたものである。
原告は本件傷害につき当初長沢診療所に於て加療しておりその間に九州労災病院に於て診断を受けているが傷病名はいづれにおいても腰部捻挫であつて根性坐骨神経痛の症状は見受けられない。而して被告は主治医矢野富士隆医師及び九州労災病院の意見を徴した上原告の右傷害は治癒の状態にあつて障害補償費を支給すべき場合に当るものと認め療養補償給付を打切る決定をしたのである。原告から審査の請求を受け保険審査官は更に日赤山口病院長大島医師、小野田市立病院宮崎医師の診断所見をも併せて検討し保険審査会は以上の外山口医大附属病院田辺医師の診断所見をも検討の結果いづれも継続加療は認められないとの結論に達したのである。労働者災害補償保険においては保険施設として治癒後の身体傷害者に対し外科後処置診療、義肢義眼等の支給、温泉保養等を実施しており本件の場合仮に根性坐骨神経痛が業務災害に起因するものとしてもこれはむしろ外科後処置診療として措置せらるべきものとはなつても療養の対象とはならないと述べた。(立証省略)
理由
原告が宇部市所在宇部興産株式会社西沖ノ山炭鉱の採炭夫であつて昭和二十四年九月十四日採炭作業中業務上の傷害を受け爾来労働者災害補償保険法による保険給付を受けていたところ被告が昭和二十五年三月十五日附で原告の傷害はその症状が固定し医療効果を期待し得ない状態即ち右法律第十二条第一項第一号の「治つた場合」に該当するものとして同日以後の保険給付をしないことと決定したこと、及び原告がその主張の如く保険審査官並びに保険審査会に順次審査の請求をしたところ継続加療は認められないとの審査決定があつてその旨原告に通知せられたことは当事者間に争がなく当事者弁論の趣旨に徴すれば右各決定は右法律第十二条第一項第一号所定の療養補償費及び同項第二号所定の休業補償費に係るものであることが明らかである。然るところ同法第十二条第十三条労働基準法第七十五条乃至第七十七条の各規定を検討すれば労働者災害補償保険法に基く療養補償及び休業補償の対象となるのは医学的にみて通常治療効果の期待し得られる場合に限られ、疾病が固定した状態にあつて効果的な治療方法が期待し得られなくなつたときはたとえ尚身体の障害が残存していても右疾病は「治つた」ものとして療養補償費及び休業補償費の支給は打切られ右障害は同法所定の障害補償費の支給の対象となるのであつて右の如き症状に対して或治療方法を施してその結果が偶々良好であつたとして右治療方法の効果が医学上一般的に承認せられているものでない限り療養補償の対象とはならないと解するが相当である。而して成立に争のない乙第四号証の記載に証人宮崎正晴、大島宗二、内藤三郎の各証言を綜合すれば本件決定の当時原告の前記傷害及びこれに引続いた疾病はすでに症状固定し効果的な治療方法が期待し得られなくなつており即ち右保険法第十二条第一項第一号に所謂疾病の治つた場合に該当していたものと認めることができる。もつとも成立に争のない甲第四、五号証の記載証人伊藤鉄夫、植木省二、坂井トモ子の各証言並びに原告本人訊問の結果を綜合すれば原告が昭和二十五年三月下旬現在、外傷に基因する根性坐骨神経痛に罹患しており原告主張の如き症状が認められ椎弓切除術の施行を要する旨診断を受けその後昭和二十六年一月十日椎弓切除術の施行を受けて該施術によりその後右根性坐骨神経痛が著しく軽快したことを認めることができるけれども前顕証人宮崎正晴、大島宗二、内藤三郎、伊藤鉄夫、植木省二の各証言によれば本件決定当時原告が罹患していたような症状に対し椎弓切除術を施すことは未だ医学界に於て一般的に効果的な治療方法と認められているものでなく椎弓切除術の効果自体について今尚疑問をもたれていることが明かであるから右の事実を以て前記認定の反証とすることはできないし右認定に反する甲第一、二号証の記載は措信し難く他に右認定を左右するに足る措信すべき証拠はない。さすれば被告の本件決定を違法とすることはできないから爾余の争点について判断を省略して原告の本訴請求を棄却し訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文の通り判決する。
(裁判官 御園生忠男 黒川四海 大前邦道)