大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

山口地方裁判所 昭和28年(行)14号 判決 1953年7月30日

原告 古市実慶

被告 山口労働者災害補償保険審査会

主文

被告が原告に対し昭和二十六年一月二十六日為した「請求人(原告)の申立は認めない」との決定を取消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、その請求の原因として次のように述べた。

原告は昭和二十二年七月二十九日から宇部市厚南区東須恵伊藤勝正経営の中原炭鉱に雇われていた労働者であるが、昭和二十三年九月二十四日同炭鉱坑内で仕操作業に従事中足を辷らせて坑木を抱えたまま転倒し、その際その坑木で胸部に打撲傷を受け右第二肋骨々折、及び脳震蕩を起した。そこで宇部市長沢病院天野医師の治療を受け、右骨折は約三ケ月で大体治癒したが、その後時々の労働に際し右打撲傷症状の続発乃至再発の為胸部に軽度の疼痛があるので右長沢病院等で医療を受けていたところ、昭和二十四年五月頃から全身に異状が起り、胸部痛、頭痛、不眠症等が一進一退の状態となり同年九月からは右疾病療養の為労働することができなくなり、従つて賃金を貰えなくなつた。そこで原告が昭和二十五年五月二十八日労働者災害補償保険法により宇部労働基準監督署長に対し昭和二十四年九月一日から昭和二十五年五月二十六日迄の休業補償費の給付を請求したところ同署長は之を拒絶する決定をなしたので原告はこれに対し各適法に保険審査官の審査を請求し更に被告審査会に審査を請求した。その間同年七月十七日頃原告が防府綜合病院で松本允正医師の診察を受けた結果前述の諸症状は外傷性神経症であつて前記昭和二十三年九月二十四日の業務上の負傷に起因する疾病即ち業務上の疾病であることが明らかとなつた。

然るに被告審査会は昭和二十六年一月二十六日請求人(原告)の申立にかかる諸症状は業務上の負傷たる胸部打撲傷とは関係がなく業務上の疾病でないとの理由で「請求人の申立は認めない」との決定をした。被告の為した右審査決定は違法であるからここに原告はその取消を求めるものである。

被告審査会代表者は原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とする、との判決を求め、答弁として次のように述べた。

原告の主張事実中原告がその主張の日からその主張の炭鉱に雇われていた労働者であり、その主張の日その主張のような業務上災害により胸部打撲傷を受け昭和二十三年十一月二十八日迄長沢診療所(病院ではない)矢野医師の加療を受けたこと並に原告がその主張の日宇部労働基準監督署長にその主張のような休業補償費の給付を請求し、同署長がこれを拒絶する決定をなしたこと、及び右決定に対し原告が各適法に保険審査官及び被告に審査の請求をし、被告が原告主張の日原告主張のような決定をなしたことはいずれも認めるが、原告が右の業務上災害により右第二肋骨々折、及び脳震蕩を起したこと並に、原告が昭和二十三年十一月二十九日以後においても長沢診療所等で医療を受けたことは否認する。右の胸部打撲傷は昭和二十三年十一月二十八日を以て治癒しているから仮に原告に昭和二十四年九月一日から昭和二十五年五月二十六日迄の間(原告の休業補償費請求にかかる期間)その主張するような神経症があつたとしても、元来原告には気管支炎、狭心症等の業務上災害に因らない疾病があり右神経症はこれらの疾病に起因するものとみるべきであつて、右の胸部打撲傷とは因果関係がなく、自然科学的な因果関係があるとしても法律上の相当因果関係がないから業務上の疾病ということはできない。従つて被告の審査決定には原告の主張するような違法はない。(立証省略)

理由

一、原告が昭和二十二年七月二十九日から宇部市厚南区東須恵伊藤勝正経営の中原炭鉱に雇われていた労働者であつて昭和二十三年九月二十四日同炭鉱坑内で仕操作業に従事中足を辷らせて坑木を抱えたまま転倒して業務上の負傷をしたこと(以下においてこの事実を本件業務上災害をいう)、原告が昭和二十五年五月二十八日宇部労働基準監督署長に対し昭和二十四年九月一日から昭和二十五年五月二十六日迄の休業補償費の給付を請求したところ同署長がこれを拒絶する決定をしたこと並に原告が右決定に対し各適法に保険審査官及び被告に審査の請求をなし、被告が昭和二十六年一月二十六日請求人(原告)の申立にかかる諸症状は業務上の負傷たる胸部打撲傷とは関係がなく業務上の疾病でないとの理由で「請求人の申立は認めない」との決定をしたことは当事者間に争がない。

二、本件業務上の負傷に就て。

(一)  原告が本件業務上災害により胸部に打撲傷を受け昭和二十三年十一月二十八日迄その治療を受けたことは被告の認めるところである。そして同日以後において右打撲傷の症状が続発乃至再発したと認めるに足る証拠はなく却つて乙第十号証(成立に争ない)によれば右同日を以つて右の打撲傷は治癒していることが認められる。

(二)  原告はその際右第二肋骨々折を起したと主張するがこれを認めるに足りる証拠はない。然しながら原告の右主張に副うような多くの証拠があるので以下に於てこれらを採用しなかつた理由を明らかにする。

(1)  証人矢野富士隆は原告の右第二肋骨々折があつた旨述べているが同証人の証言と乙第二号証(同証人の証言により成立に争いない)を綜合すると同証人は昭和二十三年十月二日撮影した原告の胸部レントゲン写真(右乙第二号証添付)を読んで右第二肋骨々折ありとの診断に達したものであることが明らかである。然しながら本件業務上災害発生後僅か八日後の撮影にかかる右レントゲン写真の右第二肋骨部位には骨折の痕跡らしいものは認められないのみならず右写真上骨折部位を示したと認められるFraktarと書かれた矢印が右第一肋骨と胸軟骨との接合部の黒影を向いていることからみると同証人は右の写真を誤読したのではないかという疑もあり証人亀井四郎の証言、乙第三号証乙第六号証(いずれも右亀井証人の証言によつて成立を認める)及び乙第八号証(弁論の全趣旨によつて成立を認める)に照らしても前記診断は間違つている疑があり、従つて右矢野証人の証言は採用できない。乙第一号証(同証人の証言により成立を認める)、乙第四号証、及び乙第十号証には右証言同旨の記載があるがこれらはいずれも同証人の右の間違つている疑のある診断に基いているものであると認められるからこれら証拠も採用の限りでない。

(2)  証人松本允正はレントゲン写真(これは証拠として提出されていない)によつて原告の右第二肋骨に骨折の跡があることを確認したと述べているが原告本人訊問の結果によれば原告がはじめて同証人の診察を受けたのは昭和二十五年七月十七日であるから同証人が右の確認をしたのは少くも同日以後に属する。然るに乙第八号証によれば九州労災病院長内藤三郎はそれより以前である同年四月二十六日撮影にかかる同号証添付の原告の胸部レントゲン写真において右第二肋骨々折を認めなかつたことが認められるし、又前記証人亀井四郎の証言に乙第三号証及び乙第六号証を綜合すれば右証人もそれより以前である同年七月六日撮影にかかる右乙第六号証添付の原告の胸部レントゲン写真において右第二肋骨々折を認めなかつたことが認められる。従つて松本証人も原告の右第二助骨々折については誤診した疑があり同証人の前記の証言は採用できない。甲第二号証(同証人の証言により成立を認める)甲第四号証の二(成立に争ない)甲第五号証(成立に争ない)には右証言同旨の記載があるがいずれも同証人の間違つている疑のある診断に基くものと認められるからこれら証拠も採用の限りでない。

(3)  甲第六号証(成立に争ない)にも「肋骨々折に起因する神経症」なる記載があるがこれも前顕の諸反証に徴し採用できず、他に原告の主張に添うような証拠で右第二肋骨の骨折を認めるに足りる証拠はない。

(三)  原告が本件業務上災害に際し脳震蕩を起したことは原告本人訊問の結果を右災害発生の状況に照らして認めるが乙第四号証乙第九号証(成立に争ない)及び乙第十号証にこれについて何等の記載がないことに徴すれば右脳震蕩は左程強度のものであつたとは認められない。

三、昭和二十四年九月一日から昭和二十五年五月二十六日迄の期間(原告の休業補償費請求にかかる期間)の原告の健康状態に就て。

(一)  証人矢野富士隆、同松本允正の各証言、鑑定人中村敬三の鑑定の結果及び甲第四号証の二に弁論の全趣旨を綜合すれば次の事実を認めることができる。

(1)  原告は本件業務上災害発生の日から七ケ月余経た昭和二十四年五月頃から次第に身体に異状を来たし十一ケ月余を経た同年九月から次第に異状症状が顕著となつたこと。

(2)  右の期間自覚症状として前胸部痛、呼吸困難、頭痛、不眠症等があつたこと。

(3)  右期間の他覚症状としては手指が震顫していたこと。

(4)  原告の右症状は何等の器質的病変を有しない神経症であつて、それは一つの明白な疾病であること。

(二)  被告は原告には気管支炎、狭心症等業務上災害に因らない疾病があつたと主張するので前記の期間に限定してこの点を考える。先ず証人矢野富士隆の証言と乙第五号証(同証人の証言により成立を認める)によれば同証人が右期間の頭初昭和二十四年九月二日原告を初診した際原告の自訴するところによつて一応肋間神経痛及狭心症の病名で診断したことが認められるが同証人はその翌日から原告の症状に外傷性神経症(前記の神経症が正にこれであることは後に認定するとおりである)の疑を持ちやがてその確信を持つに至つていることが右証拠の他の部分によつて明らかであるからこれを以つて原告がそのような疾病を有したものと認めることはできない。又乙第十一号証の三(弁論の全趣旨により成立を認める)と原告本人訊問の結果によれば原告は急性気管支炎及肋間神経痛の傷病名下に昭和二十四年九月四日から昭和二十五年五月三十一日迄の期間の健康保険法による傷病手当金の支給を受けた(尤も昭和二十五年三月四日以降の分は超過支給されたものである)ことが認められるが他の証拠と弁論の全趣旨に徴すると右の事実を以て原告が前記の期間右病名の疾病を実際に有したと認めることはできない。そして他に原告が前記の期間右神経症以外に何等かの疾病を有したと認めるに足る証拠はない。

(三)  原告が右の期間労働することができなかつたことは被告の明らかに争わないところであるから自白したものと看做すがこの事実に右(一)及(二)で認定した事実を併せ考えると原告は右の期間前記神経症の為労働することができなかつたことが認められる。

四、右神経症と本件業務上の負傷との因果関係に就て。

(一)  被告は原告に神経症があるとしてもそれは原告の業務上災害に因らない疾病である気管支炎、狭心症等に起因するものとみるべきだと主張する原告に神経症のあることは右認定のとおりなので先ずこの点から考える。

(1)  少くも前記の期間に於て原告が右神経症以外の何等かの疾病を有したものとは認められないことは已に述べたとおりである。

(2)  原告が本件業務上災害発生以前に気管支炎に罹り、胸部痛を訴えたことがあることは乙第一号証、乙第十一号証の一及び二(弁論の全趣旨により成立を認める)によつて認められ又本件業務上災害による胸部打撲傷の治療中気管支炎を併発したことは乙第四号証によつて認められるが、鑑定人中村敬三の鑑定の結果によれば気管支炎に起因して前記のような神経症が起ることはないことが認められる。

(3)  原告が前記の期間以前に於て狭心症、その他の疾病を有していたと認めるに足る証拠はない(前記三の(二)参照)。

以上のとおりであつて被告の右主張は理由がないものである。

(二)、証人矢野富士隆、同松本允正の各証言、鑑定人中村敬三の鑑定の結果、原告本人訊問の結果及び乙第五号証に以上認定してきたところを綜合すると、原告の前記神経症は本件業務上災害が直接の原因となつて発生したものではなく、原告が災害補償を願望する心的準備状態のもとに(尤も原告が前記の期間災害補償を殊更に欲求していたとは認められない)本件業務上負傷を受けたことに執着を持ち殊に右災害によつて第二肋骨々折を起した(これが認められないことは已に述べたとおりである)ものと思い込みこれに根強い執着を持ち続けたことが心因となつて生起し、更に又原告がこれらの神経症状が本件業務上の負傷殊に右第二肋骨々折に起因するものと思い込むことによつて亢進して来たところの器質的病変を有しない外傷性神経症であると断定することができる。

(三)  原告の外傷性神経症は右(二)で認定した関係において本件業務上負傷を原因とする疾病であるが、それが災害補償に値する「業務上の疾病」と言い得る為には、換言すればそれが労働基準法施行規則第三十五条第一号の「負傷に起因する疾病」に該当する為にはこの規定の解釈上右両者の間に法律上の相当な因果関係がなければならないことは当然である。そして原告にみるような何等の器質的病変を有しない外傷性神経症は鑑定人中村敬三の鑑定の結果によれば本件業務上負傷と同程度の業務上負傷を受け、何等の器質的病変を残さない場合受傷者の誰もがこれを惹起するものではなく、又右の疾病は常に業務上の負傷を直接の原因として起るものではなく単にそれを心因的起因とするものにすぎないものであることが明らかであるが、労働者保護立法の一環として特段の事情ある場合を除くの他原因の如何、責任所在の如何を問わず凡そ労働者が業務に関係して労働能力の減退乃至喪失を惹起した場合迅速且つ公正に当該労働者及びその家族の生活保護乃至労働能力の回復を計ることを目的とする労働者災害補償保険法の精神に鑑みるときは前記の事実を以つて直に器質的病変を有しない外傷性神経症は一般的に業務上の負傷と相当な因果がないと言い去ることはできない。一方同人の鑑定の結果によれば右のような外傷性神経症は受傷者が自分の受けつつあり且つ将来受けると予想される待遇よりもより以上のものを希求する(これが主として災害補償欲求に関するものであることは容易に推察される)心的準備状態を不可欠の一因として生ずるものであることが明らかであるが、右のような心的準備状態は右の疾病に対しそれ自体業務上の負傷と何等の関係を有しない別個の原因とみるべきであり、且つそれが各症例により強弱種々に作用することは右の鑑定結果から容易に推認されるからこの事実のみを以つてしても右のような外傷性神経症が業務上負傷と一般的に相当な因果関係があるということは到底できない。このように考えてみると結局原告にみるような何等の器質的病変を有しない外傷性神経症が業務上の負傷と相当な因果関係があるか否かは前記立法の精神とその疾病の特異性に照らしながら、業務上負傷の状況、種類及びその程度、災害補償願望意識の態様(潜在的か、顕在的か、抑制的か、意欲的か等)神経症発生の時機及び態様、神経症の具体的症状、殊に他覚的症状の有無、労働能力減退の程度、その他諸般の事情を考慮して具体的事件毎にこれを判断する他はない。飜つて本件における原告の業務上負傷と前記期間におけるその外傷性神経症に関する具体的事情は以上述べてきたとおりであるが右に述べた見地に立つて慎重に判断すれば右の負傷と疾病の間には相当な因果関係があるということができる。従つて原告の外傷性神経症は前記労働基準法施行規則第三十五条第一号の「負傷に起因する疾病」として業務上の疾病に該当する。

五、以上のとおりであつて被告審査会の決定は違法であるから原告の請求はこれを認容し訴訟費用の負担については民事訴訟法第八十九条を適用し主文のとおり判決する。

(裁判官 河辺義一 榧橋茂夫 宮崎富哉)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例