山口地方裁判所 昭和45年(わ)39号 判決 1976年5月10日
本籍
韓国済洲道南済洲郡城山面温平里五八一番地の一
住居
山口県下関市上田中町三丁目四番一〇号
貸金業・旅館・アパート経営
木村正吉こと
李斗厚
一九二七年一〇月一日生
右の者に対する所得税法違反被告事件について、当裁判所は、検察官大霜兼之出席のうえ審理して、次のとおり判決する。
主文
被告人は無罪
理由
第一本件公訴事実の要旨は、
被告人は、下関市上田中町三丁目四番一〇号に居住し、貸金業を営むとともに、同市同町三丁目七番二二号所在のホテル若竹ほか同市内七ケ所においてホテル一戸・アパート七戸を経営していたものであるが、
一 所得税を免れる目的をもつて、貸金業については架空名義の当座・普通預金口座などを設け、ホテル・アパート経営については知人と通謀して不動産名義及び事業経営者名義を他人名義に仮装するなどの方法により所得を隠匿したうえ、昭和四一年一月一日より同年一二月三一日までの間の同年度分課税所得金額は四六二万一、九五一円であり、これに対する所得税額は一四六万七、四二五円であつたにもかかわらず、昭和四二年三月一四日同市山ノ口町一番一八号所在の下関税務署において、同署長に対し、課税所得額は六五万円で、これに対する所得税額は零である旨の虚偽の確定申告書を提出し、もつて不正の行為により右課税所得額に対する税額一四六万七、四二五円を免れ、
二 所得税を免れる目的をもつて、前同様の方法により所得を隠匿したうえ、昭和四二年一月一日から同年一二月三一日までの間の同年度分課税所得金額は一、五二〇万六、七六七円であり、これに対する所得税額は六九三万二、一〇〇円であつたにもかかわらず、昭和四三年三月一三日前記下関税務署において、同署長に対し、課税所得額は八〇万円で、これに対する課税額は三、〇〇〇円である旨の虚偽の確定申告書を提出し、もつて不正の行為により右課税所得額に対する税額六九二万九、一〇〇円を免れたものである。
というにある。
当裁判所は、公訴事実一及び二の事業のいずれも、犯罪の証明がないものと認めたので、以下その理由を述べる。
第二当裁判所の認定した昭和四一年度、同四二年度の資産及び負債
一 当裁判所は、財産増減法により、係争年度期首・期末における被告人の資産及び負債の種別・額を確定し、確定し得た昭和四一年度、同四二年度の各勘定科目の金額は、別表一、二の財産増減表記載のとおりである。
二 検察官主張の各年度の資産・負債の各勘定科目(検察官提出の冒頭陳述書記載の内容のほか、昭和四六年二月四日付、同五一年一月二九日付の訴因変更請求書記載の内容も含む)のうち、後記第三争点に関する判断で触れていない部分については、いずれも検察官において各勘定科目にかかる事実を立証するものとして請求し取調べた各証拠および弁護人提出の証拠により、検察官王張のとおりそれぞれ認定することができるものであり、また、右の争点となつた各勘定科目にかかる事実の認定、判断は、これに判示するとおりである。
三 以上によると、被告人の昭和四一年度の資産及び負債推移の状況は、まず資産の期首合計が六、〇五五万三、五三〇円、期末合計が八、五二五万三、五九〇円で、その増加額は二、四七〇万〇、〇六〇円となるが、他方負債については、元入金を差引、便宜上検察官王張の非課税所得金額を加算した場合、期首は合計四、二四〇万四、九四六円、期末負債合計七、二三七万九、三七五円で、負債増加額は二、九九七万四、四二九円となり、同年度の資産増と負債増を対比した場合、五二七万四、三六九円の負債増となる。また、昭和四二年度においては、前同様に資産の期首合計が八、四二四万四、五九〇円、期末合計は九、九八九万五、八四四円で、資産増は一、五六五万一、二五四円となるが、負債については前同様な方法を用いると期首合計は七、一九四万七、二二四円、期末は一億三一九万六、三〇〇円で負債増は三、一二四万九、〇七六円となり、同年度の資産増と負債増を対比するとき、一、五五九万七、八二二円負債増を超えることとなる。そうすると、結局四一年、四二年の両年度にわたつて所得がなかつたことになり、従つて被告人には、所得税をほ脱したとの点は、その証明がないことに帰する。
第三争点に関する判断
当裁判所は、本件審理において、争点となつた各勘定科目ないし各々の資産等の存否について、以下のとおり認定判断したものであるが、右の各判断において、当裁判所は、検察官主張のとおりに、被告人の資産の存在を認めた各財産項目(右には、弁護人および被告人において、検察官主張の資産に関し、被告人の資産でないとして争うほか、その消滅・減少を主張するところを排斥した部分も含む)については、各個には摘示しないものの、右の判断のうちに示した証拠の判断、その収捨のほか、いずれも、検察官が当該事業に関しこれを立証するものとして請求し取調べた各証拠により、それらの事業を認定したものである。このことは、検察官主張の事実を認定し難いものとした各判断についても、同様であつて、右について、検察官が当該の主張事実を立証するものとして請求した証拠は、個別に判断を付加しないものの、各争点において説示したところより、また、認定に採つた各証拠と対比して検討すると、いずれも、採用し難いものか、あるいは当該事実を認定するに十分でないものと判断し得るものである。
以下において、引用する証拠については、次のように略称する。すなわち、当裁判所における被告人の供述(当公判廷におけるそれ、および公判調書中の供述記載)を「被告人供述」、被告人の検察官に対する供述調書を「被告人検面」、被告人の査察官に対する質問顛末書を「被告人質問書」、被告人作成の上申書を「被告人上申書」、証人の当公判廷における供述、公判調書中の供述記載、尋問調書中の供述記載をいずれも「証人某の証言」、参考人の検察官に対する供述調書を「参考人検面」、参考人の査察官に対する質問顛末書を「参考人質問書」、参考人作成の上申書・証明書を「参考人上申書・証明書」、査察官作成の調査事績報告書を「報告書」とそれぞれ略称し、押収してある物については、いずれも昭和四六年押第二九号を省略し、枝番号のみを記載する。
一 定期預金
1 朴昌建 別表一、二の資産増減表昭和四一年・四二年度の勘定科目各4(以下「41-<4>・42-<4>」と略記する)
弁護人及び被告人は、朴昌建名義の定期預金((イ)広島相互銀行下関支店昭和四〇年五月二九日預入、同四四年一月二五日解約した五〇万円の定期預金(番号六-六二六、一-九四六五)、(ロ)西日本相互銀行下関支店昭和四一年六月一六日預入した一〇〇万円の定期預金(番号五八二一二)は、いずれも預金名義人である朴昌建本人の資産であると王張する。
しかし、証人朴昌建は、右金員合計一五〇万円について、これは同証人自身ではなく、父朴候が、昭和三五年ごろ被告人に対し、朴昌建に知らせないで預けたもので、父からその死亡直前にこのことを告げられその後に返済を受けたと証言し、被告人陳述書にも同旨が述べられているが、そうすると、朴候において、預け渡した後昭和四一年一月六日死亡する直前までの約六年間、朴昌建には右事情を知らせないで放置していた理由は不明であり、また、その間の昭和三九年ごろ、朴昌建は事業にいきづまり、同人名義の家屋を被告人に買取つてもらう程資金に窮したこともあるのに、右金員の返還を受けるなどの所為もみられぬこと、その後返済を受けたとする元利合計金員の額についても、その預けた後返済を受けるまでの期間からすると、いささか少額に失することなど右証言・供述内容には疑問があり、結局、右証言・供述は直ちに措信しえない。
そうすると、右各定期預金は、いずれも被告人の仮名預金であると認めるのが相当である。
2 高武夫 42-<4>
証人高武夫は、昭和四一年九月と同四二年九月の二回にわたり、同証人とその妹が結婚資金などにあてる目的で加入していた頼母子講の落札金各五〇万円(合計一〇〇万円)を、被告人に従前から世話になつていることもあつて、返還を請求した際には、何時でも元利金を合わせて返還して貰うが、それまでは被告人において高武夫名義の定期預金として、それを担保に使用するなどして自由に利用してもよいとの趣旨で被告人に預けたと証言しているところ、同証人及がその妹の職業、頼母子講加入の事実からして、同証人の証言を無下に否定することはできない。一方、被告人の検面、質問書の記載中、自己の仮名預金であることを認めた部分があるが、これらは、被告人の供述及び前記高武夫の証言より認められる両者の関係などからして、未だもつて右証言を排斥するに足らず、かつ、他に仮名預金であると肯認するに足る証拠がないので、結局高武夫名義の西日本相互銀行の昭和四一年九月二七日預金した五〇万円の定期預金(昭和四二年九月二九日再契約)と昭和四二年九月一八日預金した五〇万円の定期預金は、いずれも名義人のものであると解するほかなく、これらが被告人の仮名預金とは認められない。
3 高祥順 42-<4> 42-<27>
証人田原和明の証言、証人高祥順の証言、同女の昭和四四年七月一日付検面、昭和四五年一月一四日質問書、西日本相互銀行下関支店長作成の昭和四四年三月二七日付上申書、同行下関支店係員作成の昭和四四年六月一九日付上申書によると、西日本相互銀行下関支店は、被告人のほか、高祥順からも預金を受けいれており、この高祥順の名で預けた金員も実際には被告人の資産に属するものと解せられるところ、担当係員田原和明の証言によると、同人は高祥順ないし被告人に無断で預金額を増すために、高祥順気義の定期預金を担保に手形貸付の方法で同銀行から、鈴木洋一名で二二〇万円、田中光子名五〇万円、武内順子名五〇万円、吉永小百合名五〇万円、武内小百合名一五〇万円でそれぞれ借り受け、そのころ右金員を右名前で(但し鈴木洋一分については、鈴木洋一名五〇万円二口、鈴木麗子名五〇万円、鈴木亜伊子名七〇万円と分割して預金)更に定期預金として預けていること、(但し、武内小百合分については、利息一万二、七五〇円を付加して預金している)が認められ、結局右預金及び借入金は田原和明が当初の預金を操作したものであるから、定期預金及び銀行借入金中、田原和明が操作した金額である合計五二〇万円に見合う資産は存在しないものと判断すべきである。なお、右一万二、七五〇円は、田原和明が操作するまでに生じた高祥順名義の定期預金の利息であるから、これを資産として認定すべきである。
4 李順千 41-<6> 42-<6>
弁護人及び被告人は、李順千名義の山口銀行今浦支店の通知預金は、被告人の仮名預金ではなく、名義人本人に属する預金であると主張する。しかし、証人李順千の証言は、証言それ自体あいまいな点が多く、昭和四〇年、同四一年に李順千名の普通預金、定期預金、当座預金がないとの山口銀行今浦支店作成の捜査関係事項照会に対する回答書に照らすと、措信しがたい。従つて、右通知預金は、被告人の仮名預金であると認定するのが相当である。
5 呉又三 42-<4>
弁護人らは、呉又三名義の朝銀山口信用組合の定期預金五〇万円(昭和四二年三月一三日預入、番号三六七七)と一〇〇万円(昭和四二年三月二四日預入、番号三七一九)は、いずれも名義人の資産であると王張する。しかし、証人呉又三の証言(第一六回、昭和四九年九月三〇日付証人尋問調書)によるも、同女が買受資金を蓄積し得た営業という「もやし」の製造販売について、それを開始した時期や、昭和四二年ころまでの間の年間の収益状況について、夫鄭性祥の証言に照らしても判然とせず、しかもその営業規模も定かでないものであり、同女が工員として働く夫との生活の中で夫に内諸で一五〇万円もの資産を捻出した経過の証言内容もあいまいであり、かつ、右一五〇万円の定期預金を担保にして被告人が五〇〇万円借り入れ、そのうちの二〇〇万円を用いて、被告人により鄭寿徳から下関市大字才川字長浜三七六番一雑種地六四四平方メートルを買い受けて貰い、同土地を被告人に月一万円で賃貸しているとも証言するが、その資料を取得しているとの証言に沿う証拠もなく、右事実も疑わしく、結局同女の証言は直ちに措信できない。また、証人鄭寿徳においても、呉又三とは直接面会しておらず、その土地買受代金の出所についての証言も、被告人からの伝聞に過ぎないから、直ちに右金員が呉又三が出捐したものであるとも認定できない。そのほかに、同女の捻出した金員であるとの右証言と同旨の被告人陳述書も右同様の理由によつて採用し難く、他に同旨の被告人陳述書も右同様の理由によつて採用し難く、他に同旨を肯定し得る的確な証拠がなく、かえつて被告人は昭和四四年六月一〇日付質問書において、自らが鄭寿徳から買受けたものと供述しているのであるから、右各定期預金は被告人の仮名預金であると認定するのが相当である。
二 頼母子講 41-<8>・<30> 42-<8>・<30>
被告人が昭和四一・四二年度中において加入していた頼母子講に関する被告人の資産(未落札分)、負債(落札分)の概要は、別表三記載のとおりである。
同表中資産(未落札分)欄中に「0」とあるのは、被告人において、当該期末までに落札し、講金の掛戻債務のみを負い、掛金債権を有しないもの、ないしは、当該講が半ばでその開催が中止されたものであり、負債(落札分)欄中に「0」とあるのは、当該期末までの間に落札せず、したがつて、掛戻債務を負担していないものであり、また、金額の下に(争)と記載したものは、弁護人らにおいて存否を争つているものである。
1 山下幸一分(同人を講元とする頼母子講以下同様の趣旨で標記する)
証人山下幸一は、同証人が講元となつた頼母子講について、その講の内容、被告人が早期の段階で落札していたが、その時期、講の人数などについては判然とした記憶がないものの、昭和四五年五月、六月ころの捜査段階において、検査官ほ事情を尋ねられた際、頼母子講の帳簿を同証人の許から持ち出した者で右頼母子講の内容に精通している者から、被告人の関与した講の内容を聴き出し、自らの記憶も右説明のとおりの講の状況であつたので、その旨のメモを作成したと証言している。ところで、右情報を知らせた者の氏名等は明らかにされていないけれども、同人が右頼母子講に関し、被告人に対して為にする目的で、故意に虚偽の事実を述べたとの特別の事情が窺えないことからすると、山下幸一の昭和四五年六月一二日付検面添付のメモは十分措信できるものと認められる。他方、被告人は、昭和四五年一月一二日上申書で頼母子講の未落札分、落札分の状況を上申し、昭和四五年六月二六日付検面でその補充訂正などをしているが、被告人は当時加入していた頼母子講について講の人数、掛金、落札の時期などについて備忘のためメモなどをした事実もなく、講の内容について被告人の供述も具体的なものではなく、期末における総額の記憶に頼つた供述しかないことからすると、右山下幸一作成のメモに対比して検討すると被告人の供述は、直ちに措信できない。
証人山下の証言、同人の昭和四五年五月一五日付、同年六月一二日付検面によると、冒頭で記載したとおり認定できる。(その内訳は、昭和四〇年一〇月講は、一一名、五万円掛で、被告人は、同年一二月落札し、同年期末には三五万円の負債が、翌年期末には負債が零となる。昭和四一年八月講は、二〇名で、三万円掛、被告人は同年一二月落札し、同年期末の負債は四〇万円で、四二年期末は四万円である。昭和四一年一一月講は、二二名で、五万円掛、同年一二月に落札し、同年期末の負債は一〇〇万円で、四二年期末の負債は四〇万円である。昭和四二年一〇月講は、二五名で五万円掛、被告人は同年一二月落札し、四二年期末の負債は一〇五万円である。)
2 松田圭司分
証人宮本実の証言、被告人の昭和四五年六月二六日付検面、昭和四五年一月一二日付上申書によると、昭和四二年期末には、被告人が加入していた二口の講があり、被告人が同年内に落札して今後掛戻し支払うべき金額は四〇万円と一五〇万円であつて、合計一九〇万円の負債があると認められる。
3 金田義雄分
証人金田義雄は、同人の開いた講について、雑記帳に講の状況をメモしていたとし、証言当時においては、その講の内容は明らかには記憶していないものの、四〇年期末には、被告人の加入した講は、三口で負債は合計で一〇〇万円位であると証言し、被告人も前記2で掲示の検面・上申書において、四〇年期末の負債が五〇万円のものと二五万円のものとの二つがあると供述するものであるので、同年度の負債は合計七五万円であると認めるのが相当である。
4 高山幸子分
高山幸子こと趙富子検面によると、同女が講元となつた講で被告人が加入したのは一回だけであり、昭和四一年一一月被告人を含む一七人が加入する五万円掛の講を始め、被告人は同年一二月に落札したことが認められ、被告人においてこれと異なる主張をしていない。そうすると、四一年期末の負債は七五万円で、四二年期末は一五万円となる。
5 高本吉補分
証人高本吉補の証言によれば、同人は、昭和四一年及び昭和四二年に、松田圭司に依頼して高本吉補の名で頼母子講を三回行つて貰い、まず(イ)昭和四一年一〇月ころに二二人講五万円掛の講を行い、被告人は同年一二月ころに落札し(被告人の昭和四一年末の掛戻債務の総合計は九五万円である、この点について弁護人らは争わない)そして(ロ)昭和四二年八月ころに一六人講で五万円掛を行い、被告人は同年九月ころに落札し、また(ハ)昭和四二年一〇月、二三人講五万円掛の講を行い、被告人は同年一一月ころに落したもので、被告人の昭和四二年末における掛戻債務の総合計は、右(イ)(ロ)(ハ)の三口の講の同年末における掛戻債務の合計の一九〇万円であることが認められる。被告人は、四二年期末の掛戻債務額は、右(ロ)(ハ)の二口合計一五〇万円であると主張しているものと考えられるが、被告人は、右高本の講の詳細について供述をしておらず、単に同年末の負債の合計は右のとおり一五〇万円であると供述していることからすると、右供述は、証人高本吉補の証言に比し措信できない。
三 受取手形
1 山科誠・山本トモエ(二重計上) 41-<9>・手持ち手形・担保手形・約束手形
弁護人らは、昭和四一年末には、被告人は山本トモエを借王として、これに三〇万円を貸付けたのみであつて、この際に、(イ)山本トモエ振出の約束手形で、昭和四一年一一月二二日西日本相互銀行下関支店(以下、単に「西相下関」と略称し、銀行・支店名を同様に略記する)に担保差入した支払期日昭和四二年一月二四日、手形金額三〇万円、支払場所山口銀行漁港支店とするもの、(ロ)山科誠振出の約束手形で、昭和四二年四月一九日西相下関に取立依頼し、昭和四一年末には手持ちしていた支払期日昭和四二年四月三〇日、金額三〇万円、支払場所正金下勧とするもの、(ハ)同じく山科誠振出の約束手形で、昭和四一年一二月三一日商銀下関に割引に出していたもので(なお、振出人名を山科珠として扱つている)、支払期日昭和四二年四月三〇日、金額三〇万円、支払場所正金下関とするもの、以上(イ)(ロ)(ハ)の三通の約束手形を受取つたけれども、その原因関係である貸借は、前記のとおり一個であるから、まず(ハ)の手形にかかる資産のみを認め、他の(イ)(ロ)の手形に関しては、(ハ)の手形と二重計上であるので、これらを争う、と王張する。
まず、(ロ)(ハ)の各手形について検討する。商銀下関支店長作成の上申書、西相下関の四三期市内他所代手記入帳(13)、椋田正和の昭和四四年八月四日付報告書、同銀割引手形元帳(22)、証人山科誠の証言によると、被告人は、(ハ)の手形すなわち昭和四二年一二月三一日商銀下関に割引に出したものと、(ロ)の手形すなわち昭和四二年四月一九日に西相下関に取立に出しているものの二通の手形が存在するが如き外形を呈しているが、右各手形の要件の記載事実、証人山科誠の証言、すなわち、先に山本トモエ振出の手形に裏書の方式で保証をなしたところ、右手形が不渡りになるおそれがあつたため、被告人に対し四か月の済度の三〇万円の手形一通をあわせて振出したものであるとの証言内容からすると、右(ロ)と(ハ)の手形は結局同一の手形であると認めるほかない。そうすると(ロ)と(ハ)とは、二重計上の関係にあるから、資産・負債両建で被告人に有利な(ハ)の割引手形のみ認める。
次に(イ)と(ハ)の手形の関係について判断する。証人山本トモエの証言中には、弁護人らの前記王張に沿う部分があるが、同女は、昭和四一年ころ喫茶店を営業し、各所から手形割引などの方法で金を借り、これまでにも不渡りを出したことがあり、昭和四一年一一月ごろには再び不渡りを出しているところ、同女の被告人からの借入の事情についての証言は、なおあいまいな点が窺われ、はたして被告人から同年内に一回しか借入れしていないものか疑問であり、前記証人山科誠の証言内容に照らすと、同女の右証言は直ちには措信できない。他に、弁護人らの主張を認むべき的確な資料はなくむしろ、右(イ)・(ハ)の手形の存在及び右両名の証言によれば、右各手形は、同一の原因関係にもとづくものではなく、別個の原因によるものであると認めることができる。
従つて、四一年期末における資産としては、(イ)の担保手形三〇万円と、(ハ)の割引手形三〇万円が存在することになる。なお、(ロ)の手持ち手形三〇万円は、前記のとおり二重計上であるから除外し、それにともない四二年期末の負債である前受利息七万二、〇〇〇円も除外されることとなる。
2 富士タクシー(二重計上)42-<9> 手持ち手形・取立手形・担保手形
西相下関四三期市内他所代手記入票綴によると、富士タクシー振出にかかる(イ)振出日昭和四一年一二月二七日支払期日昭和四二年二月二六日金額六万円の手形(手持ち手形)と(ロ)支払期日昭和四二年一月七日金額六万円の手形(取立手形)とは別個の手形であること、(ハ)振出日昭和四一年一二月三〇日、支払期日昭和四二年三月一五日金額二〇万円の手形(手持手形)と(ニ)支払期日昭和四二年二月一五日金額二〇万円の手形(担保手形)とは別個の手形であることが認められる。
3 内川武道(二重計上)42-<9> 取立手形<32>
被告人の昭和四四年六月一七日付、同年八月二二日付質問書、正金下関支店長作成の昭和四四年四月二四日付上申書によると、被告人は、内川武道振出にかかる振出日昭和四二年一〇月五日、支払期日昭和四三年二月一〇日、金額五万円の約束手形を受取り、右手形を正金下関に昭和四二年一〇月七日取立依頼したことが認められ、従つて、手持ち手形と取立手形と二重計上されているものと解されるから、取立手形の科目にかかる分を除外する。そして、取立依頼した手形に関して受取つたとの主張にかかる前受利息四、一〇〇円も除外する。
4 植村正三(二重計上)42-<9><23> 手持ち手形
被告人の昭和四四年八月二〇日付質問書及び河南竹夫の昭和四三年一一月二日付報告書によると、被告人は、黒園春好から、振出日いずれも昭和四二年八月五日、支払期日を(イ)昭和四二年一一月三〇日、(ロ)同年一二月三〇日及び(ハ)昭和四三年一月三〇日とし、金額一五万の三通の約束手形(金額合計四五万円)の裏書譲渡を受けこれを手持していたが、昭和四二年八月五日西相下関支店に対し、前記の(ハ)の支払期日昭和四三年一月三〇日金額一五万の手形を取立依頼したことが認められ、右取立依頼した手形と前記手持ち(ハ)の手形は同一手形であるから、右 いわゆる二重計上である。従つて、手持手形中から(ハ)の手形を除外する。そしてその前受利息九、〇〇〇円も除外する。
5 木村文雄(誤記)42-<9> 取立手形42-<34>
被告人が正金相互銀行下関支店に取立中の有限会社木村文雄振出、受取人木村文雄、支払期日昭和四三年一月二五日、額面一〇万円、支払場所広島銀行下関支店の手形について、検察官は有限会社木村文雄と受取人である被告人別名木村文雄とは別人格であると王張し、弁護人らは被告人の別名木村文雄が有限会社木村文雄の手形の取立をするのは疑問であり、かかる手形は存在しないと王張する。
ところで、本件全証拠によるも右の有限会社木村文雄振出の額面一〇万円の存在を認め得る証拠はない。もつとも正金下関支店長作成の昭和四四年四月二四日付上申書及び正金下関支店代表商手取立帳(23)によると、有限会社富士タクシー振出、受取人を木村文雄とする金額、支払期日が右と同一である手形を前記銀行に取立中であることが窺われるところ、前記のとおり被告人が捜査段階からその存在を争い、公判の審理においても有限会社木村文雄振出の手形の存否が争われているのに対して、検察官において有限会社木村文雄振出の手形の存在を王張していることからすると、単に検察官が右手形の振出人を誤記したものとして扱うのは相当ではない。従つて、右検察官王張の手形に相応する被告人の資産があるとは認め難く、また、これを貸付けたとして計上してある前受利息五、〇〇〇円も存在しないと扱うべきである。
6 翌期発生手形
弁護人らは、被告人は後記(一)ないし(六)の各手形については、被告人の手元不如意などの理由で、振出日欄記載の振出日もしくはその年度内に手形金額に見合う金員を貸付けたものではなく、いずれも実際にはその翌年度に至つてこれを貸付けたものであり、かつ、その貸付けた年度内にいずれも決済されているからこれらは、資産計上除外すべきであると王張する。ところで、手形貸付の方法で金員を貸付る際、借受人から手形の振出若しくは交付を受け、これと引換えに金員を貸付けるに際し、借受人である振出人等においては、振出日欄に、現実に手形を振出した期日を記載するのが一般であるものとも直ちには解されず、かえつて種々の事情から振出日白地のまま振出されることもあり、また、手形貸付を受ける者において、資金の融資を受けるとの約定のもとに、未だ貸金を交付されない相当前に、手形を交付し、しかもその際に、右交付した日を振出日として記載し、更に、現に貸金の交付をうけないまま相当期間経過するも、交付した手形の返還を求めようとしないこともまま散見されるものではある。しかし、本件のように所得税ほ脱事件の課税年度を決定する場合においては、現実に貸付がなされた年度において、所得の発生があつたものとして課税すべきではあるが、現実に貸付が行われた時期を的確に証明する他の資料がない場合、当時者間で授受された手形に記載の振出日において、その貸付がなされたものとして、課税年度を決定するほかない。そこで、以下、右に従つて、個別に判断する。
(一) 浜谷信行 42-<9> 手持ち手形
弁護人らは、被告人は浜谷信行に対する手形貸付の際、(イ)大野商会振出、振出日昭和四一年一二月二日、支払期日昭和四二年三月三〇日、金額一四万三、一二〇円の手形(昭和四二年二月一日西相下関に取立依頼、支払期日に入金支払)については、実際には翌年度昭和四二年一月中旬に貸付けたもの、(ロ)浜谷信行振出、振出日昭和四一年一一月二四日、支払期日昭和四二年一月二七日、金額一〇万円の手形(昭和四一年一月五日西相下関に取立依頼、支払期日に入金支払)については、翌年度昭和四二年一月五日に金員を貸付けたもので、いずれも昭和四二年度の発生であると王張する。しかし、証人浜谷信行の証言、同人作成のてん末書によると、浜谷信行は当時被告人との貸借状況についてある程度メモをし、営業上の支払帳・手形受払帳を作成しており、本件のようないわゆる融通手形については手形受払帳にも記載しないこともあり、現に割引を得た日を摘記しないこともあつたものの、右の帳簿の記載と自らがメモしていたことによる記憶に基づいて前記てんまつ書を作成しているもので、これは一応信用するに足るというべく、他方被告人においては金員の貸付日を帳簿などに記載していないもので、特段に右両手形に関する貸借について記憶が鮮明であるとの事情も窺えないから、結局弁護人らの王張に沿う的確な証拠はないので、検察官王張のとおり昭和四一年期末における貸付と判断せざるを得ない。
(二) 植田正義 41-<9> 手持ち手形
弁護人らは、被告人は、植田正義に対し振出日昭和四一年一二月三〇日、支払期日昭和四二年二月二〇日、金額二三万円の手形(昭和四二年二月二二日西相下関に取立、支払期日に入金支払)について、昭和四二年内にこれの手形割引を依頼されたが、年末の資産不足のため、昭和四一年内には割引かず、翌昭和四二年初めに二三万円を貸付たものであると王張する。
証人植田正義の証言中、右王張に沿う部分もあるが、他方当時同人の経営する植田工務店は、資金繰が悪化し、いわゆる自転車操業をしていたものであるうえ、その金員の借受状況について特に帳簿に整理などして記載していたものでないことを考慮すると、右証言は直ちには措信しえず、その他に右王張を明らかにする証拠がない以上、これを昭和四一年期末における貸付と認めるほかない。
(三) 神武恒登 41-<9> 手持ち手形
弁護人らは、神武恒登に対する手形貸付のうち神武恒登振出の振出日(イ)昭和四一年一二月一三日、支払期日昭和四二年四月三〇日、金額一〇万円の手形(昭和四二年二月二九日西相下関に取立依頼、昭和四二年五月一日入金支払)及び(ロ)振出日昭和四一年一二月一三日、支払期日昭和四二年三月三〇日、金額七万二、〇〇〇円の手形(昭和四二年二月二九日西相下関に取立依頼、昭和四二年三月三〇日入金支払)は、昭和四一年一二月二五日割引依頼されたが、結局昭和四二年に入つてから貸付たものであると主張する。しかし、神武恒登は、昭和四二年九月ころ倒産しその後所在不明となり、このこともあつて、その間の事情を認め得る的確な証拠は、被告人陳述書のほかなく、また、被告人の昭和四一年末までの手持手形の状況について、関門水道工業株式会社との間で融通手形を振出し、それを銀行に割引に出していたとの事実も証拠上判然とせず、結局、右両手形については、その振出日の記載自体からして、昭和四一年中の貸付であるとするほかない。
(四) 豊洋商会 42-<9> 手持ち手形
弁護人らは、高橋造船株式会社代表取締役高橋輝正から、昭和四二年末に有限会社豊洋商会振出、振出日昭和四二年一二月二八日、支払期日昭和四三年四月一〇日金額八万四、六〇六円の手形(昭和四三年一月一八日商銀下関に取立依頼し支払期日に入金)で、手形貸付を依頼されたが、当時若水・日光ホテルの建築で手元が不如意であつたため、翌昭和四三年一月初めに金員を交付したものであると王張する。
証人高橋輝正の証言中、これまで被告人に手形割引を依頼し、その割引を延ばされたことはほとんどないと前置きして、右王張に沿う証言をしているが、他方、同人の検面(二通)、質問書によると、右高橋造船株式会社は、昭和三九年ごろから、被告人から手形貸付の方法で金を借り、昭和四〇年一二月には不渡手形を出し、被告人から未払手形の支払を強く催促され、同証人所有の下関市武久町汐入にある土地約四〇〇坪を返済にかえて、被告人に売渡し、その後も残債務を一部ずつ支払つている事実からすると、右証言部分は直ちに措信しがたく、他に右王張を的確に証明する資料もない。そうすると、右手形についても、その記載のとおり昭和四二年一二月内に手形貸付がなされたものと認めるのが相当である。
(五) 重村強 42-<9> 手持ち手形
弁護人らは、被告人は、昭和四二年末に重村強から、同人振出の昭和四二年一二月三〇日振出、支払期日昭和四三年三月二七日金額四万円の手形(昭和四三年一月一八日商銀下関に取立依頼、支払期日に入金)で貸付を依頼されたが、昭和四三年一月初めに金員を貸付けたものであると王張する。
ところで、証人重村強の証言中には右王張に沿う部分があり、その証言内容もある程度具体的ではあるが、同人の証言もまた手形元帳など客観的な帳簿に基づくものとは窺われず、他方、前記のとおり被告人も貸付事期について、記帳をしていないのであるから、その陳述も正確を期し難く、結局、右手形の記載どおり右貸付は昭和四二年末になされたものと認めるのが相当である。
(六) 大芳モータース 42-<9> 手持ち手形、割引手形
弁護人らは、被告人は、(イ)和田伝から割引を依頼された有限会社大芳モータース振出の振出日昭和四二年一二月二六日、支払期日昭和四三年二月二六日金額一五万円の手形(昭和四三年一月二六日に広相下関に取立依頼、支払期日に入金支払)また、(ロ)前記大芳モータース振出、振出日昭和四二年一一月一〇日、支払期日昭和四三年一月二三日金額一五万円の手形(昭和四二年一一月一六日広相下関に割引依頼、支払期日に入金)については、いずれもその金員を貸付た日時は翌四三年であると王張する。
しかし、(イ)の手形については、証人和田伝の証言(昭和五〇年七月一七日付尋問調書)には、右王張に沿う部分があるが、同証人の第一一回公判期日の証言内容からして、被告人との間に多数回にわたる貸借があり、二五〇万円の借用証書を作成するなどもしており、昭和四一年七月ごろ倒産した同人において、その後、被告人から、本件手形を除いて手形割引を断わられたことがないものか疑問であり、そうすると、他に右王張を立証する明らかな資料がない以上、この手形にかかる貸付も四二年内におけるものであると認めるのが相当である。また、(ロ)の手形については、被告人が西相下関に割引依頼した日時からして、弁護人らの王張は採用できない。
7 山村千枝子(期中弁済) 41-<9> 手持ち手形 <32>
証人山村千枝子の証言、商銀下関支店長作成の昭和四四年四月二八日付上申書、福相下関支店長作成の昭和四四年五月一日付上申書、被告人の陳述書によると、被告人は、昭和四一年末に、山村千枝子に対し手形貸付の方法で、五〇万円貸付け、昭和四一年中に三五万円の支払を受け、他方同女振出の支払期日昭和四二年一月三一日、金額五万円と支払期日昭和四二年二月二八日金額五万円の二通の手形を商銀下関で割引き、同じく同女振出の支払期日昭和四二年三月三一日金額五万円の手形を福相下関で割引いていることが認められる。従つて、四一年期末における手持ち手形金額三五万円は弁済により消滅したことが認められる。そして右貸借の前受利息と認められる七万二、〇〇〇円も除外すべきである。
8 ナガノミキト(期中弁済)41-<9> 取立手形
西相下関支店長作成の昭和四四年五月七日付上申書及び西相下関市内他所記入票綴(13)によると、被告人がナガノミキトに対する手形貸付の際、同人から受取つたナガノミキト振出にかかる支払期日昭和四一年一二月三〇日、支払場所佐賀信用金庫ハヤツエ、金額一〇万円の手形を、昭和四一年一一月一八日西相下関に取立依頼したが、右の取立依頼を受けた西松下関において、支払場所に支払のための呈示をしたのは、期日後の昭和四二年一月九日であり、同日入金されてその弁済がなされたものであることが認められる。従つて、現実に呈示され、支払がなされた右の日時に債権が消滅したと解すべく、結局四一年期末には右手形は支払われていないことになるから、弁護人の期中弁済の王張は採用しない。
9 松下展久(期中弁済) 42-<9> 手持ち手形
最初は、松下展久関係の昭和四二年二、三月ころの債権額について、検討する。
証人松下展久の証言(第七、第二六回)、証人岡本輝男の証言、(1)公証人土田吾郎作成の松下展久・神武恒利間の債務承認並支払契約公正証書正本、(2)松下展久作成の債権譲渡通知書謄本、(3)被告人・松下展久間の債務承認並支払契約公正証書正本、(4)被告人・岡野敬三間の債務承認並支払契約公正証書正本、被告人の供述、陳述書、昭和四五年三月二日付及び同月五日付検面、昭和四四年二月二七日付質問書(同書に添付された松下展久債務確認書)によると、被告人は、昭和四一年末までに、松下船舶を経営する松下展久に対し、手形貸付などの方法をもつて、約六四〇万円を貸付けていたところ、受取つた手形は銀行に対し取立・担保提供若しくは割引にまわすなどしていたが、松下展久がその支払を怠り、昭和四二年二月ごろから、その事実が悪化したため、右債権の回収をはかるため、まず松下展久から、昭和四二年二月一六日付で同人が神武恒利に対して有する三七一万六、八七〇円の債権((1)のとおり公正証書が作成されている)の譲渡を受け、また松下展久から、昭和四二年二月二三日付で同人の岡野敬三に対する四〇万円の債権の譲渡を受け、同年三月一〇日付で岡野敬三との間に前記(4)の公正証書を作成したこと、そして昭和四二年三月九日ころ松下展久との間に右神武恒利、岡野敬三から支払を受けることとした債権額を除いて、債権額は三〇〇万円であることを確認したうえ、その支払方法を約して(4)の公正証書を作成し、あわせて下関市小月町字東新田一四一一番の一田他三筆の物件に抵当権を設定したことが認められる。
ところで、弁護人らは、右(3)の岡野敬三との四〇万円の債務承認並支払契約は、(4)の松下展久間の三〇〇万円の支払にあてられたものであると王張するが、右(2)(3)(4)の書面から推測し得る松下展久に対する債権回収の確保をはかつた措置の時期及び一連の経過、証人松下展久の三〇〇万円の弁済方法についての証言内容、被告人の昭和四四年八月二〇日付質問書における岡野敬三に対する債権の存在を認めたうえで松下展久との間に債務確認をしたとの供述からすると、右王張は採用することができない。
次に、松下展久と債務確認をした際、松下展久から手形貸付の際受取つた振出人下関ガス、支払期日昭和四二年二月二二日、金額二二万九、四〇〇円(昭和四一年一一月七日福相下関に割引したもの)、(ロ)振出人瀬口工業所、支払期日昭和四二年三月一五日、金額五〇万円(昭和四一年一一月一八日商銀下関に割引したもの)、(ハ)振出人岡本鉄工所、支払期日昭和四二年二月二〇日、金額一〇〇万円(昭和四一年一一月一四日に西相下関に割引したもの)の三通の手形を、右三〇〇万円に含まれるとしたか、あるいは除外して確認したものであるかが問題となる。本件証拠調べを通じ、被告人は、昭和四〇年ころから貸金業を拡大し、多数の手形を扱い、その扱い方も同一の貸金原因であるのに、数通の手形を受取り、いずれも銀行に取立・割引などに出したり、あるいは貸付をしていないのにもかかわらず手形を受取り、これを取立に出していることなども散見され、はたして右三通の手形について、振出人の資力及び手形の支払期日を勘案して、期日には決済される若しくは決済されたことを確認したものであるか疑わしく、また、昭和四四年二月二四日付松下展久名義の債務確認書も、その作成の経過や記載されてある手形の振出日・支払期日・金額からすると、右は実際に貸金の都度振出された手形を記載したものではなく、昭和四四年になつて昭和四一年、同四二年の貸金総合計を確認して併記した面が強く窺われるのであつて、結局右(イ)(ロ)(ハ)の手形を除外して債務確認をしたものではなく、被告人が松下展久から受取つた同人振出の手形や他の商業手形で、前記(2)(3)(4)の手続をする際、(イ)(ロ)(ハ)を含む未だ決済されていないものを念頭において、三〇〇万円の債務確認をしたものと認定するのが相当である。
そうすると、昭和四二年三月ころ、松下展久関係の確認され得る債権は、松下展久の確認した三〇〇万円、神武恒利に対する三〇一万六、八七〇円、岡野敬三に対する四〇万円である。
次いで、松下展久関係の四二年期末における債権額について、検討する。
正金下関代手商手取立帳(23)によると、松下展久に対する三〇〇万円中の前記(イ)(ロ)(ハ)の各手形は、それぞれ支払期日に決済されているから、合計一七二万九、〇〇〇円が支払われ、更に松下展久が昭和四二年末までに九五万五、〇〇〇円を支払つているから、四二年期末の資産は三二万一、〇〇〇円となる。神武恒利に対する三〇一万六、八七〇円については、神武恒利が昭和四二年一〇月倒産し、その後所在不明となつたから、貸倒れと認め、四二年期末の資産は零となる。岡野敬三に対する四〇万円については、岡野敬三検面・質問書、被告人の昭和四四年八月二〇日質問書によると、四二年期末には一〇万円の弁済を受けたものと認められ、他方残額債権について貸倒れの事実は認められず、結局四二年末の資産は三〇万円となる。従つて、松下展久関係の四二年期末の資産は、六二万一、〇〇〇円となる。
10 尾籠謹吾(期中代物弁済) 42-<9> 取立手形、割引手形
証人百合野孝志の証言、正金下関支店長作成の昭和四四年四月二四日付上申書、被告人の陳述書、昭和四五年三月六日付検面によると、被告人は、昭和四二年一一ごろ、尾籠謹吾に対し、支払期日・金額がそれぞれ(1)昭和四三年一月八日、一五万円、(2)昭和四二年一月八日、一〇万円、(3)昭和四二年二月一五日、一五万円(以上(1)ないし(3)は正金下関に取立依頼したもの)(4)昭和四三年一月一〇日、一〇万円(正金下関に割引依頼したもの)の各手形により、それぞれ百合野孝志から手形裏書の形式でその保証を得たうえ、各手形金額相当額を貸付けたが、しばらくして尾籠謹吾は不渡りを出して倒産し、数日後百合野孝志が被告人に対し三〇万円相当の絨緞を交付して手形金の支払にあてたことが認められる。ところで、弁護人は、代物弁済にあたり、債権の本頼の給付と異なる給付をする場合、その物品の給付の価格は問わないものであり、特に一部の弁済であるなどの当事者の合意のない限り、本来の債権全部に対する弁済としてなされるものであるから、本件の場合被告人はこれを債権五〇万円の金額に対する代物弁済と認め債権関係を解消したものであると王張する。しかし、前記証人百合野孝志の証言及び被告人の前記検面によれば、もともと四回にわたつて貸付けていた金員の合計が五〇万円になつたものであるうえ、百合野孝志は、合計五〇万円の債務を負うものの、これに対し価格三〇万円相当の絨緞を交付したのであり、同人は手形裏書人であるとはいえ、実際には保証人の立場に過ぎない事情を説明し、被告人から同証人自身には更には取立をしないとの確約を得たこと、他方、被告人は尾籠謹吾に対してはこれに対する債権雑額二〇万円は貸倒れであると考えていたことが認められ、右の絨緞の価格、債権が残存することを前提としたと解される双方の合意などから考えると、百合野との間に合計五〇万円の債権金額について代物弁済をしたものとは認められない。また、尾籠謹吾に対し、債権の免除をした事実も認められない。
そうすると、(1)ないし(4)の合計五〇万円のうち、三〇万円が弁済されたことになるから、右は被告人に有利に、(1)及び(3)の二通の手形の支払にあてたものと解し、(2)及び(4)の手形を四二年期末における資産と認める。なお、(1)及び(3)の手形の前受利息((1)四、〇五〇円、(3)一万〇三五〇円)は、除外する。
11 新生電気(期中弁済) 42-<9> 受取手形
証人山口啓孜の証言、新生電気工業振出の手形一袋(8)によると、被告人は、神武組(代表者神武恒登)に対し、同組との間に融通手形を振出していた新生電気工業振出の手形で手形貸付をなし、昭和四二年一〇月ごろ神武組が倒産した際、新生電気振出の手形金額合計三〇〇万ないし四〇〇万円を有していたが、四二年期末には、新生電気振出の(イ)振出日昭和四二年一二月二一日、金額三〇万円、(ロ)振出日昭和四二年一二月五日、金額八〇万円、(ハ)振出日昭和四二年一二月二一日、金額一〇〇万円、(ニ)振出日昭和四二年一二月一七日、金額四〇万円、(ホ)振出日昭和四二年一二月八日、金額五〇万円の手形五通、手形金額合計三〇〇万円の債権を存していたことが認められる。
ところで、弁護人は、証人出口啓孜は被告人に悪意ある証人であり、かつ、新生電気から一部支払を受けた際の手形の書替事実からしても、昭和四二年内に約一〇〇万円の弁済を受けており、四二年期末には二〇〇万円の債権があるに過ぎないと王張する。なるほど、証人出口啓孜は、神武組との間に互いに融通手形を振出したものであるが、その実質は新生電気の神武組に対する一方的な手形による融資であるとして、被告人に対し右事情を説明して、利息の利率を低利にするよう要望したものの、受入れてもらえなかつたことは同証人の証言からも窺われるところである。しかしながら、証人出口啓孜の昭和四二年内に一〇〇万円位支払つたとの証言部分については、同証人の被告人に対する悪意とは別に、同証人自身神武組倒産当時の手形合計金額自体につき、なお判然と記憶してはいないのであるから、この支払にかかる証言から直ちに被告人王張の事実を肯定し難いし、更に四二年期末における残額が三五〇万円若しくは三〇〇万円であつたとの証言自体、特に信用性に疑問があるものとも判断できない。また、弁護人は、新生電気工業振出の振出日昭和四三年一月一三日、支払期日昭和四三年二月一一日金額四〇万円の約束手形の存在を指摘し、右は前記(ロ)の金額八〇万円の手形の一部支払により、書替られた手形であり、かつ、右四〇万円の支払は昭和四二年末になされたものと考えられると王張しているが、右昭和四二年内において弁済されたとの王張に沿う的確な証拠はなく、また、仮に右王張のとおり昭和四二年内に支払われたとすると、残存債権は、(イ)三〇万円、(ロ)八〇万円が四〇万円弁済されて残額四〇万円、(ハ)一〇〇万円、(ニ)四〇万円、(ホ)五〇万円の以上合計二六〇万円となり、証人出口啓孜の証言、被告人の昭和四四年六月一七日付質問書とも相違が生ずる。従つて弁護人らの王張は採用することができない。
12 上野里美、大野商会、木下義人(期中弁済)42-<9> 取立手形
商銀下関支店長作成の昭和四四年四月二八日付上申書商銀下関取立手形受払帳(14)によるといずれも、商銀下関に取立に出された(イ)上野里美振出、支払期日昭和四二年一二月三〇日金額二〇万円支払場所山銀唐戸の手形は、昭和四二年一一月一三日に取立依頼され、昭和四三年一月四日入金されていること、(ロ)大野商会振出、支払期日昭和四二年一二月三一日、金額一五万九、六六二円、支払場所勧銀は、昭和四二年一〇月一九日取立依頼され、昭和四三年一月五日入金されていること、(ハ)木下義人振出、支払期日昭和四二年一二月三〇日、金額四八万円は、昭和四二年一一月一三日取立依頼され、昭和四三年一月四日入金されていることが認められるが、(イ)(ロ)(ハ)につき、商銀下関において、いつ各支払場所に呈示したか、本件全証拠によるも不明であり、そうするといずれの手形も不渡処分などの特別の措置がなされたとの事実が認められない以上、支払期日から二取引日以内に各支払場所に呈示され、そのころ支払がなされたものであつて、前記各入金日、すなわち各銀行の帳簿上の記載日は、銀行業務の休日等の関係から、これが遅れたものと解するほかなく。そうすると(イ)(ロ)(ハ)手形は、いずれも四二年期末には既に弁済されたことになるから、これらは、資産計上除外すべきである。
13 旺文印刷(期首持込) 41-<9> 手持ち手形
証人平井貞子の証言(第八回、第二五回、昭和五〇年九月一七日付証人尋問調書)、平井千里の借用証書七枚(12)、被告人の陳述書によると、被告人は、(有)旺文印刷に対し、昭和四〇年一〇月ごろから、手形貸付の方法により金員を貸付け、昭和四〇年末には、右会社の営業資金に融資し、若しくは平井貞子の娘の結婚資金にあてるとの目的で、貸付けた金員三〇万円があること(この点については、これに反する客観的資料がない)、その後右会社から貸付金の返済を受けるとともに、新たに右会社に貸付け、下関市小月町大字古新田一一九五の一所在の平井千里所有の建物などに抵当権を設定し、昭和四二年末には、その貸付金残高が一三七万円であることが認められる。従つて、四一年期首に三〇万円の資産を持込み、四一年期末には一三七万円の資産があると認定する。
14 島田洋行(期首持込) 41-<9> 手持ち手形
証人島田一郎の証言、(第一七回、昭和五〇年七月一八日)同人作成の上申書及び被告人の陳述書によると、被告人は、島田洋行に対し、手形貸付の方法で、昭和四〇年末に七〇万円を貸付け、昭和四一年末にも一部返済を受け、若しくは新たに貸付けるなどして、結局七〇万円貸付けていたこと、そして昭和四二年末には同様に六九万七、〇〇〇円を貸付けていたことが認められる。従つて、四一年期首に七〇万円の、四一年期末に七〇万円の、四一年期末に六九万七、〇〇〇円の資産があるものと認める。なお、四一年期首及び期末の前受利息については、他に的確な証拠がないから負債として認めない。
15 武永組(期中債権放棄・二重計上) 42-<9> 受取手形
証人徳増博司、同横山顕治の各証言、被告人の陳述書、昭和四五年三月六日付、同月七日付各検面、昭和四四年六月一七日、同年八月二二日付各質問書、興業社常務取締役作成の昭和四三年一二月二四日付上申書によると、被告人は、武永組や徳増組に手形割引きどの方法で金員を貸付けていたところ、武永組が元請、徳増組が下請の関係で建築工事を施行しており、武永組が被告人から金員借入れをする際、徳増組が保証の意味で別個の手形を振出交付していたが、昭和四二年下半期に武永組の経営が悪化したため、武永組自身が融資金を必要とするときも、徳増組自体が借受人となつて被告人から一〇〇万円の手形割引を受け、その際に武永組においては、振出日昭和四二年八月三〇日、支払期日昭和四二年一〇月三一日、金額一〇〇万円の約束手形を振出し、保証の趣旨で交付していたこと、ところが武永組が昭和四二年八月に倒産し、その後同年一〇月一七日徳増組も銀行取引停止処分を受け、倒産するに至つたこと、そして昭和四二年一一月一四日(株)興業社が徳増組の債権者代表となり、徳増組に対する債権の三分の二を放棄し、三分の一相当の金員を日機産業から支払を受ける旨の協議が成立し、その結果、被告人は徳増組に対する債権合計四五〇万円のうち、日機産業から約束手形額面合計一五〇万五、一〇五円に相当する部分の弁済を受けたが、その余の債権を放棄したことが認められる。ところで、被告人は、昭和四二年一〇月ころ武永組に対し、右約束手形の取立訴訟を提起し、更に昭和四三年一二月四日付で右債権の放棄手続をしているものの、まず本件証拠調べによれば、被告人は金員を貸付けた際保証の意味で受取つた手形についても、王債務者振出の手形におけると同様に銀行等に対し、取立・割引に出したり、担保差入れしていることが散見され、右債権放棄手続についても、昭和四三年一一月査察を受けた際、査察官から回収不能と思われる債権の放棄手続をすれば、貸倒れ受取手形として扱つて貰えることもありうると聞いたため、他の内川武道・伸栄工業・基洋工業・佐藤精肉店・黒園春好に対する債権放棄の手続と一緒にこれをなしたものであり、果してそれぞれの手形の債権発生原因について確認したうえ、右手続をとつたものであろうかとの疑問は払拭できず、加えて証人徳増博司、同横山顕治の証言内容と対比すると、右手続をとつたことのみをもつて、武永組に対する独自の貸金であるとは推認されず、結局、本件手形は、右のとおり徳増組に対する債権の担保手形であると判断するのが相当である。従つて、本件手形は四二年期末の徳増組に対する手持ち手形と二重計上になるから、減額すべきである。
16 貸倒れ受取手形 41-<23> 42-<23>
弁護人及び被告人は、後記各手形について、いずれも借王が営業不振に陥り、不渡手形を出して倒産し、借王自身又は会社代表者が下関市内から出奔し所在不明になつたので、債権の取立が不能になり、右貸金は債権としては存在するが、実質的に経済価値を失つているので、四一年期末若しくは四二年期末において貸倒れになるものであると王張する。
ところで、貸金債権が法律的に存在する場合であつても、債務者の資産の状決・支払能力などから、それが回収できないことが明らかになつた場合、その時点において貸金の貸倒れとなるものと解するのが相当である。そして、右債権の回収ができない場合とは、債務者の資力・支払能力の実情に即して、債務者の経済部門での外部的にあらわれた諸事実を総合考慮して判断するほかない。被告人の場合、多くの貸付先は、いわば中小企業若しくは零細企業、個人営業王であり、右借王においては資本が少く、市中銀行から融資を受けるほか、なお営業資金に困り、高利率ではあるが、物的担保をさほどには求められない町の金融業者から借金をして営業しているところが多く、たとえ営業不振に陥つて不渡手形を出すに至つても、しばらくして新しく別個の法人を作り、又は配偶者・親族名を利用して事業を継続することもままあり、その際には、従前の債務についても新しい別会社が引継ぐことも多いこと、他方被告人においても、借王は実質的には同一であるから、債権の放棄などをすることなく、引続き返済を請求していることが後記摘示の証拠により認められるものである。そうすると、貸倒れの事実の有無を判断する際、結局、外部にあらわれた客観的事実、即ち手形の不渡の事実、債務名簿の執行により債権の一部の回収しかできなかつたとき若しくは執行手続費用を弁済して剰余の見込みがない事実、事業が倒産し、借王若しくは会社代表者が出奔し、その所在が不明になつたことが、被告人を含む多数の債権者に客観的にも明確になつたことなどの諸事実をもとに、債権の貸倒れとその時期を判断するのが相当である。
(一) 森山精版印刷所 41-<9> 手持ち手形 <23>
証人島田一郎の証言、被告人の昭和四五年七月八日付検面によると、被告人は、昭和三八年から昭和三九年の間に(有)森山精版印刷所に対し、同会社が振出若しくは裏書した手形九通金額合計四九万〇六一〇円、堀江常子振出の手形三通金額合計五三万円、柏原博振出の手形二通金額合計三五万円をそれぞれ受取り、そのころ合計一三七万〇六一〇円を貸付けたが、森山精版印刷所は昭和三八年一一月ころ不渡りを出し、続いて堀江常子、柏原博振出の各手形も不渡りとなり、しばらくして両名は行方不明となり、その後右森山精版の土地・家屋も他の債権者のものとなり、他にみるべき資産もなかつたこと、そして、右会社の裏書した手形中振出人の一人である藤永実に対し支払命令を申立てたが、その執行費用さえも取立不能となり、昭和四一年五月ころには、右会社は店舗を閉鎖し、社長森山光男も所在不明となつたことが認められる。右諸事実を総合考慮すると、債務者の資産の状況・支払能力などから、右手形債権については四一年期末には、債権の回収できないことが客観的にも明らかになつたものと解することができる。そうすると、四一年期首及び期末に、森山精版印刷所に対し、手持ち手形として、一三七万〇六一〇円の資産があつたものの、右のとおりこれらは貸倒れ受取手形と認められるから、同額を四一年期末の負債として計上すべきである。
(二) ヨシズ産業 41-<9> 手持ち手形
弁護人らは、ヨシズ産業から振出日昭和四一年一二月三〇日、支払期日昭和四二年三月二一日、金額一〇万円の手形について、ヨシズ産業代表者は一二月末に所在不明となりこのため、右は取立不能になつたから、四一年期末において、貸倒れと認定すべきであると王張する。証人岡野敬三は、昭和四一年四月ころから同年一二月ごろまで、雑貨品の卸売販売業を営むヨシズ産業に勤務していたが、同会社は昭和四一年末に倒産し、代表者は所在不明になつたと証言するが、同証人はその証言によると、右会社の販売方面を担当し、同会社の経理内容については詳しくは知らなかつたこと、右会社が不渡手形を出した後、会社のために立替支払をしたこともあつて、しばらくしてからは、同会社に出入りせず、その後の会社の資産状況についてはわからないものであることが窺われ、他方被告人自身、昭和四五年三月六日検面三項において、ヨシズ産業は右証言にいう期日と異なる昭和四二年二月倒産し、経営者は所在不明となつたと供述しており、また被告人において債権回収のための具体的な措置をとつたことも窺われず、結局、本件各証拠によるも右会社が不渡を出した時期は不明確であり、かつ、右会社の資産の状況・支払能力についても判然としない。従つて、右債権について、四一年期末はもとより四二年期末においても貸倒れであるとは末だ認められない。
(三) 茶山産業(二重計上) 41-<9> 手持ち手形
貸倒れの王張に対する判断に先立つて、二重計上の王張について検討する。
弁護人らは、被告人が、茶山産業に手形貸付により貸付けた手形で、茶山産業から振出を受けた手形のうち、四二年期末に手持ちしていた二通の手形(検察官冒陳二四丁記載のもの)は、振出日昭和四一年一二月二二日、支払期日昭和四二年二月二二日、金額一〇万円、支払場所親和下関と振出人・手形要件が全て同一であるから、いわゆる二重計上であると王張する。しかし、西相下関の四三期市内他所代手記入帳(13)によると、弁護人ら指摘の一通は(イ)振出人茶山産業・振出日昭和四一年一二月一二日、支払期日昭和四二年二月一五日金額一〇万円、支払場所親和下関、手形番号一二五五七で昭和四二年二月一日に西相下関に取立依頼し、昭和四二年二月一五日に取立に出されたが不渡により返却されたもの、他方の手形は、(ロ)振出人茶山産業、振出日昭和四一年一二月二二日、支払期日昭和四二年二月二二日、金額一〇万円、支払場所親和下関、手形番号一二五五六で昭和四二年二月一日に西相下関に取立依頼し、同人入金されたものと認められ、右は別個の手形であることは明らかである。弁護人は、前記茶山産業振出の(イ)(ロ)の各手形について、いずれも四一年末において貸倒れであると王張する。しかし西相下関の四三期市内他所代手記入帳によると、(ロ)の手形については、昭和四二年二月一日に西相下関に取立依頼し、支払期日の昭和四二年二月二二日には入金されており、(イ)の手形は不渡り返却されていることが認められるものの、証人佐々木敏之の茶山産業の倒産時期に関する証言はあいまいであり、その資産状況についても判然としていないから、未だ右手形について四一年期末において貸倒れであるとは認めるに足る証拠はないとするほかない。
(四) 佐藤円蔵 42-<9> 手持ち手形・担保手形
弁護人らは、被告人が昭和四二年期末において、手形貸付により佐藤円蔵から受取つていた手形(手持ち手形八通、金額合計三六五万円と担保差入手形三通、金額合計一五〇万円、以上合計五一五万円)について、いずれも同年末には貸倒れとなつたものと王張する。
しかし、証人佐藤円蔵の証言、被告人の陳述書、被告人の昭和四五年三月六日付、同月七日付、同年六月二六日付検面、昭和四四年二月二八日付質問書添付の佐藤円蔵に対する昭和四三年一二月四日付債権放棄通知書二通、被告人の昭和四三年分確定申告書付属書類不良債権内訳、東相下関支店作成の昭和四四年五月七日付上申書、同銀行の貸付金記入帳(17)によると、被告人は佐藤円蔵から同人振出の一四通の手形、(手形金額合計六六〇万円)を受取り、右のうち一二通分五六五万円を貸付けたところ、そのうち振出日昭和四二年一〇月三日、支払期日昭和四二年一二月三〇日金額五〇万円の手形については、期日までに弁済を受けたが、受取つていた手形は同人に返還しないままでいたこと、そしていずれも金額五〇万円の(イ)振出日昭和四二年一〇月二三日、支払期日昭和四三年一月二五日の手形を西相下関に担保差入し、(ロ)振出日昭和四二年一〇月一〇日、支払期日昭和四三年一月一五日の手形は昭和四二年一一月七日に右銀行に担保差入し、(ハ)振出日昭和四二年一〇月一二日、支払期日昭和四三年一月二〇日の手形はこれを昭和四二年一一月一〇日に担保差入してそれぞれ金融を受けたこと、その後佐藤円蔵の精肉店の営業が悪化し、ついに昭和四二年一二月三一日夜、下関市内から夜逃げをしたこと、その後被告人は右事実を知り、次いで右担保差入してあつた手形が支払期日に不渡りとなり、本件事件で査察を受けた後の昭和四二年一二月四日付で受取つた一四通の手形の債権放棄の手続をなし、課税庁において支払期日が昭和四二年期末までの手形については、昭和四三年度貸倒れとして扱われていることの事実が認められ、以上の諸事実からすると、昭和四二年一二月三一日に佐藤円蔵が所在不明となつたとはいえ、受取つた手形の一部はそのころにも支払われ、他方銀行に損保差入されていたことからすると、四二年期末において、貸倒れであるとは未だ判断できない。
(五) 伸栄工業 42-<9> 小切手
弁護人らは、伸栄工業振出の振出日・支払期日金額二五万円の小切手について、昭和四二年末に代表者が所在不明となつたので、昭和四二年期末において貸倒れであると王張する。
証人坂井康正の証言によると、同証人は、伸栄工業の経理関係について関与しておらず、経理内容の状況についてわからないと述べ、不渡手形の事実とその時期についても判然とした記憶がないものであつて、直ちには採用し難く、他方被告人の昭和四四年二月二八日付質問書添付の伸栄工業に対する昭和四三年一二月四日付の債権放棄通知書によると、右小切手のほか、振出日昭和四三年二月八日、金額一三万円の小切手若しくは手形があることが認められ、右諸事実を前記証言を考慮すると、前記小切手については四二年期末においては貸倒れであるとは認められない。
(六) 友伸小型自動車 41-<9> 割引手形
被告人は、(有)友伸小型自動車に対し、同社振出の支払期日昭和四一年一月三〇日、金額二〇万円、支払場所山相本店の手形を受取り、金額相当額の貸金をなし、その後昭和四一年一二月三〇日正金下関に割引依頼したが、同社は昭和四一年末に倒産し、四一年期末に貸倒れとなつたものであると王張する。しかし、証人山中邦彦の証言によるも、同社の倒産した時期は不明であり、まだ正金下関支店長作成の昭和四四年三月五日付上申書によると、被告人は右のとおり昭和四一年一二月三〇日正金下関で手形割引を受けていることからすると、右王張の当時には同会社振出の他の手形が不渡りになつていたとは直ちに推認されず、結局未だ四一年期末における貸倒れとは判断できない。
(七) 清水和紅 41-<9> 割引手形
被告人は、昭和四一年一一月ころ、清水和恵(若しくは初江とも言う)に対し、同女振出、支払期日昭和四二年一月二八日、金額一〇万円の手形を受取り、手形金額相当額の貸金をなし、その後昭和四一年一一月二一日商銀下関に割引依頼したが、同女は昭和四一年一二月ころ営業不振で所在不明になり、右手形については四一年期末の貸倒れであると王張する。しかし、証人久保朝久の証言によるも、清水和恵が下関市内から出奔した時期や、昭和四一年来の営業状況は不明であり、他に右王張に沿う明確な事実が認められないから、未だ右王張は採用できない。
(八) 基洋工業
被告人は、(有)基洋工業に対し、同社振出、支払期日昭和四三年二月二九日、金額一五万円の手形を受取り、手形金額相当額の貸金をなし、その後昭和四二年一二月三〇日広相下関に割引依頼したが、同社は昭和四二年末倒産し、代表者が所在不明となつたから、四二年期末に貸倒れとなると王張する。しかし、広相下関の商業手形元帳(15)によると、右手形は前記の支払期日に支払場所西銀下関に取立に出され、入金されているから、被告人の王張は採用しない。
四 店王勘定 41-<22> 42-<22>
1 被告人、高祥順の質問書、検面及び供述(証言)の信用性
被告人及び妻高祥順は、店王勘定について供述を三転し、当初査察官に供述した金額(被告人の昭和四四年六月一三日付上申書も同様)から、被告人が身柄を拘束されて検察官の取調べを受けた際には正直に事実を話すと前置きして実はそのほぼ二倍の生活費、医療費を要したと供述を変更し、更に公訴提起された後、従前の査察官に述べた金額とほぼ同様であると供述を変遷させるに至つた。ところで、被告人の供述、証人高祥順の証言によると、被告人方家族は、被告人、妻高祥順、長女李和善、長男李柄秀、次女李春江の五人で、大阪にいるとの義父や、韓国にいる実父らに対し生活費の援助などの意味で送金している事実もないことが認められることからすると、検察官に対し過大に供述していた点が窺われ、また、楢林神経科院長楢林博太郎作成の回答書や同医院作成の証明書記載の和善の入院費・手術費等と査察官に対する昭和四四年六月一三日付、同年八月二三日付質問書記載のそれとを対比すると、査察官に対してもある程度金額を増額して供述しているものと推認される。また、本件審理では、所得の確定につき財産増減法を用いているが、世上、生活費は課税の対象から全部若しくは一部控除され、生活費が多額であると申告すれば、税法上何がしかの恩恵を受けるものとの考えを抱くことはままありうるところ、被告人のように貸金業やアパート・ホテル業につき帳簿書類をほとんど作成しないまま、専ら被告人の記憶でこれを営み、まして生活費などについては帳簿などに記帳することをしない場合、査察官の査察を受けても、それを立証する的確な資料がないのであるから、いきおい前記の思惑から課税を免れる目的で、生活費を過大に供述することも十分推認でき、右のことは査察官による調査ほぼ終了し、告発を受けた検察官から取調べをされるに至つた後においても、特に異るものではない。そして、証人高祥順の証言及び昭和四五年三月一二日付検面によると、同女は、先に検察官の取調べを受けた被告人から生活費を過大に供述したと聞き、その後なされた検察官の取調べにおいて被告人の先の供述内容に沿う供述をしていることからすると、被告人及び高祥順は、検察官に対し故意に過大に供述したものと窺うことができる。そうすると、店王勘定の認定においては、前記楢林神経科クリニツク作成の回答書など裏付けのある資料のあるものについては、それによることとし、裏付資料のないものについては、一応被告人、高祥順の査察官質問調書によるほかはない。
2 当裁判所の認定した店王勘定は、次のとおりである。
(イ) 生活費
昭和四一年一月一日から同四二年一二月三一日までの間、月額、食費は、三万円、水道光熱費五、〇〇〇円、学費五、〇〇〇円、交際費五、〇〇〇円、衣服費二万円、雑費五、〇〇〇円、以上合計七万円、そうすると、年間支出合計は八四万円であり、その他臨時支出諸雑費として年間四万円を加え、各年度の生活費の年間合計額は八八万円と認定するのが相当である。
(ロ) 長女和善医療費
昭和四一年一月一日から、和善が楢林神経科クリニツクに入院する昭和四二年八月三一日(同医院作成の回答書及び証明書による)までの医療費は、月額として付添入一名の人件費二万円、治療費五、〇〇〇円、諸雑費五、〇〇〇円であり、月額合計三万円であるから、昭和四一年度の支出合計三六万円、昭和四二年一月一日から同年八月三一日までは二四万円であると認定するのが相当である。
(ハ) 長女和善の入院・手術諸費用
神経科クリニツク医師楢林博太郎作成の証明書によると、和善の楢林神経科クリニツクでの入院・手術費一九万五、〇〇〇円、月額の付添一名の人件費二万五、〇〇〇円、滞在したアパート貸借料二万円、生活費三万円、諸雑費五、〇〇〇円以上月額合計八万円で、右年末までの間に合計三二万円を支出し、そのほか下関市と東京都間の交通費六万円、以上総合計五七万五、〇〇〇円と認められる。
(ニ) 妻高祥順の手時現金・預金
高祥順の昭和四五年三月一二日付検面などの検面や査察官質問書、各銀行支店長作成の上申書・証明書によると、被告人から受けとつた生活費やアパート収入の一部を、同女の手持現金や預金とし、四一年度・四二年度の合計額は四六万二、〇〇〇円であるところ、その取得した金員の半ばは被告人から受けとつた生活費によるものであることが認められ、そうすると右金員の半額である二三万一、〇〇〇円は、生活費として受けとつたものの、結局使用しなかつたものであると解せられ、それぞれ各年度の店王勘定より減額すべきものである。
(ホ) 各年度の合計
以上によると、四一年度は(イ)生活費八八万円、(ロ)医療費三六万円を加算したものから、(ニ)高祥順手持金などの二三万一、〇〇〇円を減額した一〇〇万九、〇〇〇円であると認められる。四二年度は、(イ)生活費八八万円、(ロ)八月までの医療費二四万円、(ハ)入院代等五七万五、〇〇〇円を加算したものから、(ニ)高祥順の手持現金など二三万一、〇〇〇円を減額した一四六万四、〇〇〇円であると認められる。
五 建物
1 許斐惇子 41-<14>
証人許斐惇子の証言、同人作成の「証」と題する領収証、登記官坂本斉治作成の登記簿謄本二通、被告人の供述・陳述書によると、被告人は、昭和三九年一〇月七日ころ、関門不動産を経営していた許斐惇子から、下関市大字園田町園田一九号の一〇所在家屋番号一九番二一のブロツク及び木造亜鉛メツキ鋼板葺二階建建物を六八万円で買い受け、昭和四一年一二月二〇日ころ、同土地にホテル若水を建設するため右建物を取り毀したことが認められる。ところで、右建物の四一年期首の評価額はついてみるに、被告人において建物の取得を申告しなかつたこともあつて、当時の評価額は判然とせず、そのうえ被告人は右建物を取得した際、これと合わせて建物敷地の借地権を取得したものではないかと推認され、したがつて建物取毀し後も引続き借地権を有しているものではあるまいかと考えられるうえ、右建物の建設年月日も不明であるが(右建物の所有権保存登記は昭和三四年一〇月二八日になされているが、翌二九日付で所有権移転登記がなされていることからすると、右保存登記の記載は、建物建設日時を推測する資料とは認められない)、結局四一期首に右建物が存在し、その約二か月前金六八万円で売買されたものであることは否定できず、他に右建物の評価額を証明する的確な資料がないから、同年期首の評価額は六八万円と認め、右金額を四一年期首に持込み、同年末には前記のとおり取り毀されたから、同年期末のそれは零となる。
2 森山精版印刷所 41-<14>
証人川崎敬三の証言、同人作成の報告書、登記官赤木虎二作成の登記簿謄本二通、被告人の陳述書によると、被告人は、昭和三五年三月一八日、森山精版印刷所から、同人に対する債権七五万二、〇〇〇円の代物弁済として下関市大字園田町園田一九番の一〇所在家屋番号一九番一二の木造亜鉛メツキ鋼板葺平家建工場一棟を取得し、昭和三九年五月ごろから三和電気工事(株)(代表取締役川崎敬三)に賃貸し、昭和四一年三月ごろ、同土地上にホテル若水を建設するため、右建物の明渡しを求め、昭和四一年五月三一日ころ右建物を取り毀していることが認められる。そうすると、四一年期首に右建物が存在し、四二年期末には取り毀されて存在しなくなつたことは明らかであるところ、四一年期首における右建物の評価額は、前記登記簿謄本の記載によると、昭和二六年八月二三日森山精版印刷所に所有権移転登記されたものであることからすると、同建物は建設後相当期間経過したのち被告人が取得していることが推認されるから、取得後六年を経過する昭和三五年三月から昭和四一年まで老朽建物として減価償却の必要がないものとは直ちに解し得ないものの、他に資料がない以上段四一期首の右建物の資産としての価額は、取得の対価である七五万二、〇〇〇円と認定するほかなく、また、同年期末の資産は、右のとおり同建物は取り毀されているものであるから零となる。
3 冨任アパート 41-<14>
証人磯部章、同高島厳の証言、被告人の陳述書・昭和四四年八月二二日付質問書によると、被告人は、昭和四〇年一二月ごろまでに左官磯部章、高島厳らに請負わせ合計二〇〇万円で冨任アパートを建築したこと、そして同年内に同アパートに入居した者もいたことが認められる。そうすると右建物は、昭和四一年期首においては、建築されていたものというべく、同年期末における評価額は、特段の評価をなすべき資料はないので、建築費相当額の二〇〇万円であると認め、四一年期首に右金員を資産として持込むのが相当である。また、同アパートは、昭和四一年七月に営業不振を理由に高岡和江に売却していることが認められるから、同年期末の資産は零となる。
4 若水ホテルのクーラー工事(永見鶴樹左官工事) 42-<14>
永見鶴樹作成の証明書、被告人の昭和四四年八月二一日付、同月二二日付質問書、山本嘉啓作成の昭和四四年八月二五日付、同年九月六日付の各報告書によると、永見鶴樹は、昭和四二年六月ごろ、若水ホテルのクーラー設置工事を代金二九万五、五四〇円でなし、同年六月三〇日付でその支払の請求をなし、被告人から同年度内に支払いを受けたことが認められ、他方右クーラー設備は、設置と同時に建物と一体となるものであるから、結局若水ホテルの同年期末の評価額は前記したとおりであり、かつ、右代金は、未払金とは認められず、また、前記被告人の質問書及び前記報告書によれば、右代金相当額が四二年期末の建物の項で、二重に評価されて計上されているものとは認められない。
五 土地(呉又三名義の土地) 42-<18>
弁護人らは、下関市大字才川長浜三七六番一のホテル日光の土地は、被告人が呉又三から交付された金員で、同女名義の定期預金をなし、同預金を担保に銀行借受をして、右金員をもつて、当時の土地所有者鄭寿徳から、同人に対し呉又三が買受人であると説明し、被告人において、呉又三にかわつて呉又三の名でこれを買受けたもので、右土地は名義人のものであると王張する。しかし、前記一の5呉又三名義の定期預金42-<4>で判断したとおり、右買受資金借受の担保となつた先の定期預金は、未だ呉又三のものとは認められず、被告人のものと認められるものであつて、他に呉又三の出損にかかる事情を窺わせる証拠はなく、他方証人鄭寿徳の証言、被告人の昭和四四年六月一二日付質問書、垣内茂司法書士作成の昭和四四年九月四日付上申書によると、鄭寿徳は、右売買交渉の際、買受名義人の呉又三と面会したことはなく、専ら被告人と交渉をなし、同女に対し、直接買受意思の確認の措置もとらなかつたこと、他方、被告人においても、被告人自身ではなく呉又三が買受人であることを明らかにする資料も作成せず、かえつてその後土地所有者でなければできない処分をなしていること(右処分をなすについて、呉又三の同意がなされたと認め得る証拠はない)、そして、前示のとおり買受資金は、被告人に属すると認められる預金を担保として、融資をうけたもので、被告人の計算に帰すべきものであることからすると、買受交渉をし、代金を出資し同土地上に日光ホテルを建設した被告人が、本件土地を買受けたもので、被告人の資産であると解するほかない。従つて、被告人は、昭和四二年三月ごろ、本件土地を一九〇万円で購入し、売買による所有権取得登記に四万〇七七〇円を要しているから、これを加算し、四二年期末の評価額は一九四万〇七七〇円と確定できる。
六 建設仮勘定(高松工務店) 42-<19>
証人高松末吉、同高松久枝の各証言、高松工務店の請求書(32)、領収証綴り(33)、被告人の陳述書、昭和四四年八月二二日付質問書によると、被告人が高松工務店にホテル日光の基礎工事を請け負わせ、その代金等に要した費用として、昭和四二年六月三〇日に一二万九、〇五〇円、同年八月七日に一五万円、同年九月三〇日に二万九、七〇〇円、同年一二月二二日に一万三、五五〇円、同月二九日に五万一、二五〇円(合計三七万三、五五〇円)を支払つたことが認められる。しかし、高松久枝の証言、被告人の陳述書によると、被告人から高松工務店に対し、右の工事と同時期の昭和四二年七月六日にホテル日光建設材等の古材を得るためのキリスト教会の解体工事として七万九、七五〇円を支払い、同年八月二日にはこれとは異なる幡生工場解体工事に要した費用一〇万円を支出し、同年一一月二二日には高松工務店へ二一万円金員貸付したものであることが窺われ、前記のホテル日光の工事代金等の支払というのは右の各支払に該るとの疑いが強く、他に立証はないものであるから、それらがホテル日光の基礎工事代金とは未だ認められない。
七 未払金
1 若水ホテルのボイラー工事(磯部章) 42-<1><32>
証人磯部章の証言、被告人の陳述書、昭和四四年八月二一日付質問書、山本嘉啓作成の昭和四四年八月二五日付、同年九月六日付の各報告書によると、磯部章は、昭和四二年一一月から一二月初旬までの間に、代金一〇万円でホテル若水のボイラー室新設工事をなしたが、右代金は翌四二年一月初旬に被告人から支払を受けたことが認められる。そうすると、右ボイラー室は、新設された際、ホテル若水の建物本体と附合し、ボイラー室自体を独立に資産として評価すべきではなく、右ボイラー室を含んだ建物を一体として資産と評価すべきものであるから、同建物の四二年期末の評価額は二七六万〇一三六円であると認定するのが相当である。
そして、右未払代金一〇万円については、同年期末の未払金となるものと解すべきである。
なお、検察官は、被告人は、昭和四三年初頭に柳井に対し一〇万円支払つており、右は現金で支払われたものと推認され、これは四二年期末に右同額の金員を所持したものと考えられるから、四二年期末の手持ち現金を一〇万円加算すべきであると王張する。しかし、四二年期末に右一〇万円分の現金を所持していたとの直接の証拠はなく、右工事代金について、他に金員捻出の方法がある以上、右王張は直ちに採用しえない。
2 若水ホテル クーラー関係備品(柳井博) 42-<15><32>
証人柳井博の証言(なお、発信者柳井、受信者検察官の電話聴取書によるも、同証人の心覚えのメモの存在は否定しがたく、その証言自体の信用性がないとはいえない)、被告人の陳述書、昭和四四年六月一一日付質問書、山本嘉啓の昭和四四年九月六日付報告書によると、被告人は、昭和四二年六月ごろ、若水ホテルにクーラーを設置することにし、関門電化工業からチユーリングユニツトなど冷房設備を代金合計六五万四、〇〇〇円で、給排水設備としてポンプを代金一〇万円で買受け、そのころ同ホテルに設置したものの、右代金は同年末までには支払わず、その支払のために翌四二年二月支払期日の約束手形を振出し、その支払期日にこれを弁済したことが認められる。ところで、右機械類は、設置されると同時に、勘定科目上の建物若しくは建物付属設備として資産とされるものであり、前記報告書によると、冷房・給排水設備の四二年期末の資産は、合計七二万六、九一六円であるから、四二年期末において検察官王張のとおり建物付属設備として右と同額の資産を認めるとともに、未払金として同額の七二万六、九一六円を認めるべきである。
3 東原鉄工 42-<32>
証人東原徳美の証言、同人作成の領収証、被告人の陳述書、昭和四二年八月二二日付質問書によると、東原は、昭和四二年末、被告人から日光ホテルの手すり工事を代金二〇万で請負い、同年内に右工事を完成したが、右代金は同年内ではなく、翌四三年一月三一日ころに支払を受けたものであることが認められる。そうすると、右手すりは、設置後建物と一体となるから、日光ホテルの四二年期末の建設仮勘定は、資産が増額したとして、検察官が冒頭で王張するとおり二〇万円を増加すべきであり、他方右代金は、同年末には未払であるから、四二年期末の未払金二〇万円とする。
4 唐戸電化センター 42-<32>
証人木村正、同藤光一幸の各証言、唐戸電化センター作成の証明書、山本一夫の昭和四四年八月二五日付報告書、被告人の昭和四四年六月一一日付、同年八月二二日付報告書によると、被告人が唐戸電化センターから買受けたホテル若水の電気器具の四二年期末における未払金は、九四万〇五〇〇円であると認定でき、弁護人らの右のほかに、更に未払金五九万円があるとの王張について、これを証明する的確な証拠はない。
八 銀行借入金(呉順良名義の銀行借入金) 42-<27>
証人田原和明の証言及び西日本相互銀行下関支店の決済カード(写)によると、昭和四二年末における被告人の別名である呉順良名義の西日本相互銀行からの証書貸付による借入金は、五一〇万円であることが認められる。
九 個人借入金
1 高晋三 41-<23> 42-<28>
証人高晋三の証言、同人の昭和四六年一月一三日付検面、山口商銀下関支店作成の代理貸付証書及び貸付元帳、被告人の供述、被告人の陳述書、昭和四四年八月二一日付質問書によると、被告人は、捜査段階において彦島の金と称していた大阪府内に住む高晋三から、昭和四〇年一〇月三〇〇万円、同四一年五月二〇〇万円、同四二年三月五〇〇万円それぞれ借り受け、そして昭和四三年一一月山口商銀より一〇〇〇万円借受け、高晋三に対し返済したことが認められる。そうすると、四一年期首の負債は三〇〇万円、四一年期末の負債は五〇〇万円、四二年期末の負債は一〇〇〇万円である。
2 李慶賢 41-<28> 42-<28>
証人李慶賢は、被告人に対し、昭和四一年一一月二〇〇万円貸し、同四二年には、被告人が三景ホテルに貸渡す五〇〇万円を貸渡し、その後も二〇〇万円か三〇〇万円を貸渡したが、同年中にその一部返済を受け、四二年期末には二〇〇万円の債権を残していると証言する。しかし、同証人の右四二年内に一部返済を受けたとする証言については、同証人が故意に利息の天引した事実を否定したり、その利息の利率につき低利であると強調していること、その後同証人は、同人自身も査察官の査察を受け、営業のほか、匿名で貸付けていた金員についても調査され、先に査察を受け、互いに名を秘す約束で借受けた金員の貸借状況について一部供述するようになつた被告人との間に争いが生じ、被告人から昭和四五年四月二八日付の四二年期末の貸金残高の確認を求められた際、同年五月四日付で被告人との間には一切貸借がないとの内容証明を出すに至つたことが認められ、右事実を考慮すると、証人李慶賢の前記証言部分は直ちに措信しがたい。
証人矢ケ部一善、同高祥順の各証言、被告人の供述、陳述書、被告人の昭和四五年六月二六日付検面、十八銀行下関支店長作成の回答書、登記官野村信作成の登記簿謄本(下関市岬之町一九番宅地)減価償却資産の耐用年数表<35>によると、被告人は、李慶賢から、昭和四一年一一月に二〇〇万円、同四二年二月六〇〇万円、同四二年五月に二〇〇万円をそれぞれ利息天引のうえで借受け、その後、昭和四三年六月から同四四年八月までの間に元本及び利息を返済したものと認められる。そうすると、李慶賢からの借入金は、四一年期末に二〇〇万円、四二年期末に一〇〇〇万円であることが認められる。
3 趙東秀 42-<28>
趙東秀からの借入金五〇〇万円について、その借入年度が争点になつているところ、被告人は、捜査段階(昭和四五年三月七日検面、同年六月二六日付検面)から当公判廷に至るまで、昭和四二年内の借入であると供述し、被告人に付添つて趙東秀方に赴いた高福三は、昭和四五年八月七日付検面において、昭和四三年内の借入であると述べたが、当公判廷で昭和四二年内であると供述を変更した。ところで、右各証拠及び趙東秀作成の内容証明郵便、登記官坂本斉治作成の登記簿謄本によると、被告人・高祥順と趙東秀間に、昭和四二年八月一日付と同四三年三月一日付の二通の五〇〇万円の借用証を作成し、更に右債権の支払を確保するため、昭和四五年一月三一日受付で下関市上田中町三丁目七番地の二二家屋番号七番二二の一の被告人所有の共同住宅に、右昭和四三年三月一日付金銭消費貸借の昭和四四年五月二五日設定契約にもとづく抵当権を設定しているものではあるが、他方、趙東秀は、被告人に対し、昭和四五年三月一九日付の内容証明郵便で金五〇〇万円の貸金元本とその利息・損害金の請求をなしているところ、右催告書中には、その貸借は昭和四二年八月一日に貸渡し、支払期日昭和四四年一二月末日の五〇〇万円と特定明記しているものである。また、被告人・高福三は、前記楢林神経科病院において、その長女を診察・治療を受けるため上京した際、当時在京の右趙から右金員を借り受けたと述べるものであり、同病院院長の昭和四五年八月二九日付回答書によると、右長女李和善の入院期間は、昭和四二年九月一日から同月二三日及び昭和四三年三月二八日から同年四月二七日までの二回であると認められるが、被告人は、右一回目の入院手術の準備のためこれより前に数回上京しており、その際に貸借したとの供述は直ちには排斥し難いものがあり、また、前記催告において、こと更に右趙が被告人と通謀するなどして貸借の日時を偽り記載したとは解し得ないものであつて、以上の諸事実を考慮すると、高福三の季節感から推測した右借入は昭和四三年度内であるとの検面の記載は、直ちに記憶に誤りないもので措信するに足るとはいい難く、他方前記昭和四三年三月一日付の証書の存在及び同日付貸借を原因とする登記がなされている点も、前記各証拠によると、従前の貸借の各期日後にこれを一括した借用証書を作成し、これを登記原因を証する書面として登記を経由したものと窺い得るものである。そうすると、被告人の前記各検面を採用し得べく、従つて、被告人は、趙東秀から、昭和四二年六月一五〇万円、同年七月一五〇万円、同年八月二〇〇万円をそれぞれ借受け、同年期末には合計五〇〇万円を支払つていなかつたものと認められ、四二年期末の負債は五〇〇万円となる。
第四 先に第二・第三において説示したとおり、当裁判所は審理の結果、いずれの租税年度においても、被告人に所得がないものと認定にいたつたものであるが、被告人は、右各年度において、自ら利益を得、所得があつたとして課税庁に対し申告をなしてその申告税額は納付しており、また、右年度においても、貸金業、ホテル・アパート経営に関し、相当に広範な活動をなしていたことが証拠上認められるものであつて、これらからすると、被告人に、なお、いくばくかの純利益が帰していたのではないかとの感は、にわかには否み難たい。けれども、前記第二において説示したとおり、検察官において本件各租税年度における被告人の所得額は、これをいわゆる資産増減法によつて、算出するものとし、これに従つて各年度の右王張の所得額に対する正規の税額・ほ脱税額を王張したもので、右の王張により検察官が個別に明らかにした各勘定科目、および弁護人・被告人らが王張した負債ないし負債に属する会計的事実について、その存否額を認定判断するときは、前記のとおり、計算上各年間の被告人に属する財産の期首における額は、期末におけるそれを下廻るものとなるものであつて、前記のとおり、本件において検察官が採つた王張を前提とし、これにより、被告人の所得、ひいてはほ脱税額を審理する以上、これに従つて、その有無を判断する限りでは、前記した被告人の所得に関する前記のような疑念はなお残るものの、前示した結論に達するほかないものであり、したがつて、被告人において租税をほ脱したとの事実を認め得ないものである。
以上のとおり、公訴事実第一・第二は、いずれもその犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により、被告人に対し無罪の言渡をする。
(裁判官 北村恬夫 裁判官 柴田秀樹 裁判長裁判官野曾原秀尚は転補のため署名押印できない。裁判官 北村恬夫)
別紙一
財産増減表
昭和41.1.1~昭和41.12.31
<省略>
<省略>
備考 △印は減少
別紙二
財産増減額
昭和42.1.1~昭和42.12.31
<省略>
<省略>
備考 △印は減少
別紙三
二頼母子講
41-<8><30> 42-<8><30>
<省略>