岐阜地方裁判所 昭和24年(行)8号 判決 1953年10月05日
原告 北原慶造
被告 岐阜労働者災害補償保険審査会
主文
原告の請求はこれを棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、被告審査会が昭和二十四年十月十一日なした原告に対し訴外北原行夫死亡による遺族補償金二十万六千三百八十円を同人の配偶者北原あきえに支払うべき旨を命じた決定はこれを取消す訴訟費用は被告の負担とするとの判決を求め、その請求の原因として、訴外恵那貨物自動車株式会社は貸切貨物自動車運送業を営む会社であり、原告は事実上同会社付知営業所を主宰していたものであるが、昭和二十四年一月十二日右営業所所属の運転手北原行夫が業務上の自動車事故により死亡するに至つた。しかるに大井労働基準監督署長は、同年五月十四日付をもつて原告を労働基準法第七十九条、第八十条に所謂使用者、労働者災害補償保険法(以下労災保険法と略称する)第十八条に所謂保険加入者と認めて原告に対し、北原行夫の配偶者北原あきえの請求にかかる遺族補償費、葬祭料の支給については、労災保険法第十八条を適用して、原告が重大な過失により保険金の納付を怠り、事故発生後たる昭和二十四年三月十八日に至り漸く保険料を納付するに至つたものであるから保険給付の全部を支給しない旨の決定をした。原告は右保険給付に関する決定に異議ありとして岐阜労働基準局保険審査官の審査を請求したところ、同審査官は同年六月十六日付をもつて、原告の申立は認めない旨の決定をなした。そこで、原告は、更に被告審査会に審査を請求したところ、被告審査会は同年十月十一日付をもつて、前同様原告が恵那貨物自動車株式会社付知営業所の事業主たる前提の下に原告が重大な過失により保険料の納付を怠つたものであると認定し、原告は労災保険法第十八条の規定に基き、事故により死亡した運転手北原行夫の遺族補償費金二十万六千三百八十円を支払うべきものであるとの決定をなし、右決定は同月二十六日原告に送達された。
然しながら労働基準法第七十九条第八十条に所謂「使用者」、労災保険法第十八条に所謂「保険加入者」と認むべきものは営業免許を有する恵那貨物自動車株式会社であつて、事実上事業を主宰していた原告個人と認むべきではない。
けだし、国は営業権を有しないものが営業主体となることを許さず、従つて営業権を有しない者が営業権を有する者の営業名義を借りて営業することは脱法行為であつて許されず、労災保険は強制加入であるから若し労働基準監督署及びその他の労働関係監督庁が脱法行為によつて名義を借り営業をなす者を保険加入者たる事業主と解釈し、その様に扱うことは、国は、一方において禁止しながら、同時に他方においてこれを許すという矛盾に陥るし、且又労災保険法は窮極においては労働者を保護する新しい制度なるにも拘らず経済的に弱小であり、特に事故によつて莫大な損害を受けている個人を事業主と解するときは結局経済的能力の不足のため労働者保護に欠くる結果となるからである。仮に原告が主宰していた恵那貨物自動車株式会社付知営業所が恵那貨物自動車株式会社から独立した事業主体と認むべきものであるとしても、同営業所は原告と訴外三浦喜三郎、今井勉、花田丈夫、吉村富喜夫の協同経営であつて原告の個人経営ではない。しかるにこれ等の事実を無視して原告個人を保険加入者たる事業主と認定してなされた原決定は違法である。
仮に右主張が理由なきものとしても、原告は前記事故発生後において、はじめて労災保険強制加入の法規のあること、その他これに関する所定の手続をして置かねばならぬことを知つたのであつて、決して故意又は重大な過失によつて保険料の納付を怠つたのではない。従つて右災害による遺族補償費等は労災保険法により政府が支払うべきものであつて、労災保険法第十八条を適用した被告審査会の本件決定は違法である。
仮に本件が労災保険法第十八条適用の場合に該当するとしても、原告がその事業経営に困難を極めていることは一般事業と同様であるのみおらず原告は本件事故に基く車輛の大破損に因つて莫大な損害を受け、しかも、その事故が原告の責に帰すべきものであればともかく全く原告の責に帰すべきものでなく、且大井労働基準監督署の前例によれば、昭和二十三年末頃までは本件事故のような事情にあるものは政府において遺族補償費を支払つてきたものの如くである。従つて右事情を参酎し、政府において補償費の大部分を支給すべきであるのに金二十万六千三百八十円という多額の補償費の支払を命じた被告審査会の決定は著しく不当であり違法たるを免れない。
よつて被告審査会の本件決定は違法として取消さるべきものであるから、本訴においてその取消を求めると述べ被告の答弁事実はすべて之を争うと述べた。(立証省略)
被告審査会代表者は、原告の請求を棄却するとの判決を求め、答弁として、原告主張事実中原告主張日時恵那貨物自動車株式会社付知営業所々属運転手北原行夫が業務上の自動車事故により死亡したこと、大井労働基準監督署長が同年五月十四日付で原告に対し原告主張のような決定をしたこと、原告が右決定に異議ありとして、岐阜労働基準局保険審査官の審査を請求したところ、同審査官は同年六月十六日付をもつて、原告主張のような決定をしたこと、原告は更に被告審査会に審査を請求したところ、同審査会が同年十月十一日付をもつて原告主張のような決定をし、右決定が同月二十六日原告に送達されたことは認めるが、その余の事実は争う。殊に原告は恵那貨物自動車株式会社付知営業所の事業主であつて、原告主張の如く単なる事実上の主宰者ではない。即ち、恵那貨物自動車株式会社付知営業所の前身は恵北貨物自動車運送有限会社であつて、恵那郡付知町において、貸切貨物自動車運送業を経営していたが、戦時中企業整備のため恵那郡一円の業者が統合して単一組織体である恵那貨物自動車株式会社を設立し、同郡岩村、大井、中津、明知上村、陶及び付知の七ケ所にそれぞれ営業所を設置し、貸切貨物自動車運送業を経営していた。然るに戦後各営業所共戦前の分散企業を希望し、所轄官庁である道路管理事務所にこの旨陳情したが許されず、爾後再三、再四陳情を繰返えすうち、当局においても営業権の分散は認めなかつたが、経営上の分散を暗黙のうちに容認し、干渉せざるようになつたので、昭和二十一年十二月頃から各営業所共それぞれ経営を別個にして事実上独立経営に移行し、恵那貨物自動車株式会社自体は表面上営業権を有するに止まり、何等実質的業務はなさず、殆んど解散に均しい事情であつて、原告においても他の営業所と同様に単独営業をなしていたものである。要するに原告は恵那貨物自動車株式会社の名称を潜称して貸切自動車運送業を経営していたもので、実質的に独立経営であり、且これを認めているのであるから、原告個人が労働基準法第十条に所謂事業主であり、労災保険法第十八条に所謂保険加入者たる事業主であること明らかである。仮に右会社が事業主であるとしても労働基準法第十条は「この法律で使用者とは事業主又は事業の担当者その他その事業の労働者に関する事項について事業主のために行為をするすべてのものをいう」と規定しており、原告において付知営業所を事実上主宰していたのであるから原告は事業主である会社のために行為してきたものとして少くとも労働基準法、労災保険法に所謂使用者であると認むべきである。而して原告の経営する恵那貨物自動車株式会社付知営業所と国との間に昭和二十二年九月一日労災保険法の施行と同時に保険関係が成立したものであるが、該保険法については一般に官報に登載公示されたのであるから不知と云うことはできないし、且関係官庁においても右保険法の解説を岐阜タイムス、中部日本新聞、岐阜新聞に掲載し、或は事業主打合会を開催し、又はこれに関する書面、労働基準法、労災保険法の解説書を原告営業事務所に送付の方法をもつて労災保険法の趣旨、加入手続等につき周知徹底を期してきたにも拘らず、原告においてこれを放置し同法施行規則第四条による概算保険料報告書の提出はもとより同法第二十八条の規定による保険料を納付せず前記事故発生後の昭和二十四年三月十八日に至り漸く保険料の納付をなしたものであつて、これ故に原告は重大な過失によつて保険料を納付しなかつたものと謂うべく、右事情に基き被告審査会が原告主張の如き決定に出でたのは正当であつて、原告の本訴請求は失当であると述べた。(立証省略)
理由
昭和二十四年一月十二日恵那貨物自動車株式会社付知営業所の運転手北原行夫が業務上の自動車事故により死亡したこと、大井労働基準監督署長が同年五月十四日付をもつて、原告を労働基準法、労災保険法に所謂使用者又は保険加入者と認めて、原告に対し北原行夫の配偶者北原あきえの請求にかかる遺族補償費、葬祭料の支給については、労災保険法第十八条を適用して、原告が重大な過失により保険料を納付せず、事故発生後に至り漸く納付したとなし、保険給付の全部を支給しない旨の決定をしたこと、原告が右決定に異議ありとして、岐阜労働基準局保険審査官の審査を請求したところ、同年六月十六日同審査官は原告の右申立は認めぬ旨の決定をなしたので、原告は更に被告審査会に対し審査の請求をしたところ、被告審査会は同年十月十一日付をもつて、原告主張の如く、原告は北原行夫の配偶者北原あきえに対し遺族補償費金二十万六千三百八十円を支払うべき旨の決定をなしその決定が同月二十六日原告に送達されたことは当事者間に争がない。
而して、労働者災害補償保険審査会は、保険給付に関する決定即ち労災保険に関し政府が保険給付をなすか否か及び支給金額に関する決定の当否を審査するのみであつて、進んで事業主に対し補償の責を負担させる権限を有するものでないこと労災保険法第三十五条の趣旨に照らし明である。従つて被告審査会が前記認定の如く原告に対し、訴外北原行夫の遺族補償費金二十万六千三百八十円を同人の配偶者北原あきえに支払うべき旨の決定をなしたのは、その権限を逸脱したものであつて、一種の勧告的性質以上の効力を有しないものといわなければならない。被告審査会の本件決定を文字通り解するときは右の如く何等法律的効果を生ぜさる勧告に過ぎず、行政訴訟の対象となり得べき行政処分と認めることが出来ないこととなるのであるが、右決定は右の如く解すべきではなくしてその措辞必ずしも妥当ではないが、要するに政府は労災保険金の一部即ち遺族補償費について給付しないことを宣言するものと解しなければならない。然るときは被告審査会の本件決定はその権限内の適法な行政処分であり行政訴訟の対象となり得るものといわねばならない。而して右の如き審査会の決定ありたるときは保険加入者たる使用者は当然労働基準法第八十四条に基き差額補償義務を負担しなければならぬこととなるから、之に対し不服申立をなし得る利益あること勿論である。然るに原告は自ら保険加入者たる使用者に非ざることを主張し本訴を提起しているが、原告がその主張する如く保険加入者に非ずとすれば被告審査会の本件決定に対し何等の利害関係を有せず、従つて本訴を提起すべき利益を有しないものといわねばならない。
原告は更に被告審査会の決定における労災保険法第十八条の規定の所定要件存否並補償金額に関する判断の当否を争つているが、これ等の主張は、いずれも原告が保険加入者であることを前提とするものであり、而も原告はむしろ保険加入者に該当せざることを自認しているものと認めねばならないから、原告が保険加入者であることを前提とする右主張の当否を判断することは無意味であるといわなければならない。
そうすると原告の本訴請求は訴の利益を欠き主張自体失当であるから、爾余の点の判断をまつまでもなく、之を棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条の規定を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 奥村義雄 小淵連 小沢博)