大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

岐阜地方裁判所 昭和49年(ワ)420号 判決 1983年3月28日

原告 島尾洋子

右訴訟代理人弁護士 端元博保

被告 加藤賢治

右訴訟代理人弁護士 南谷幸久

同 南谷信子

同 畔柳達雄

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金二〇〇万円とこれに対する昭和四九年一一月七日から支払いずみまで年五分の割合による金員とを支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者について

原告は、昭和九年五月二八日生まれの主婦で、夫である島尾冨士夫(昭和七年一〇月二三日生)れとの間に、長女由美子(同三四年一月二一日生れ)と次女峯子(同三六年一月二一日生れ)の二子がある。

被告は、その肩書地で、加藤医院の名称で内科・小児科の医院を開業している医師である。

2  原・被告間の診療契約の締結

昭和四二年ころから膀胱炎(ちなみに、被告の後記診断結果によれば、その正確な病名は急性尿路感染症であるということである。しかし、請求原因中においては、便宜、膀胱炎という。)に罹患していた原告は、同四五年九月ころ、被告方医院を訪れ、被告との間において、原告の右膀胱炎の治療を目的とする診療契約を締結した。

3  被告による治療行為の内容等と原告に生じた障害について

(一) 原告は、右診療契約に基づいて、昭和四五年九月中に、被告方医院に前後三回くらい通院し、その都度被告から右膀胱炎の診察と治療を受けた。その間、原告は、被告から二回にわたって左臀部にクロラムフェニコール薬液(ちなみに、三共株式会社製造の後記クロロマイセチンゾルもその一種)の注射を受けたが、その二回目の注射に際し、腰部に「ビリッ」とした痛みを感じたため、すぐにそのことを被告に訴えたところ、被告は、その注射が患者にその種の痛みを感じさせるものである旨説明した。そこで、原告は、その時点においては被告の説明を完全に信用し、右の痛みについて格別の疑問を抱くこともなかった。

(二) 原否の膀胱炎の病状は、前記の治療によって一応小康状態を得るに至ったものの、同年一一月一八日ころ再び悪化したため、原告は、そのころ被告方医院において被告の診療を受け、二日分の内服薬の投与を受けるとともに、左腕に一本の静脈注射を受けた。

(三) さらに、原告は、同月二〇日午後五時ころにも、被告方医院において、被告から右膀胱炎の診療を受けたが、その診療を受けるのにさきだち、被告に対して、「前示(二)の内服薬を服用した結果、胃の調子が悪くなり、食欲もなくなった。」旨訴えた。これに対して、被告は、「それでは、内服薬の投与をやめて、注射をする。この注射は先に施用した注射(前記(一)の注射のことである。)と同種類ではあるが、製造会社が違うから痛くないはずだ。」と説明したうえ、原告の左臀部にクロロマイセチンゾル一グラムを注射した(以下、この注射行為を「本件注射」ともいう。)。

ところが、右の注射を受けた瞬間、原告は、「ビリッ」とした痛みと熱感との交錯したような名状しがたい衝撃が下半身を突き走るような苦痛に侵襲され、あわせて、臍部よりも下方の下半身全体に強度の熱感を覚え、さらに、その直後、ほとんど一瞬のうちに、身動きができなくなったのに加えて、胸部の苦悶と極度の呼吸困難を訴えざるを得ないような状態に陥った。

(四) 原告は、翌一一月二一日、被告の指示によって、岐阜大学医学部附属病院(以下、「岐阜大学病院」という。)に入院して同病院医師の診察を受けたが、同病院医師の診察によると、原告は、(1)腰部以下の体動が全く不可能で、両側下肢の全体にわたって触痛温覚と振動覚が完全に消失している、(2)臍部よりやや上方に約二センチメートル幅にわたる帯状の知覚鈍麻状態を呈する部位があるほか、膀胱と直腸の麻痺が認められる、(3)両下肢が弛緩性麻痺の状態を呈している、(4)本件注射の施用された部位である左臀部には、注射痕を中心として半径約一〇センチメートル大の紅斑が認められる、ということであった。

(五) 原告は、前記のごとくにして昭和四五年一一月二一日岐阜大学病院に入院し、爾来、同病院の内科と整形外科で種々の治療を受けたものの、第二腰髄よりも下方の知覚脱失、下腹部(第一二胸髄又は第一腰髄)の知覚鈍麻、両下肢の弛緩性麻痺並びに膀胱・直腸障害の各症状にはなんらの好転も認められず、結局、単独歩行も不可能な状態のまま同四六年一一月上旬に同病院を退院し、勿論、現在においても下半身不随という悲惨な状態にある。

4  本件障害の発生原因について

前項記載のような原告の症状(以下、「本件障害」ともいう。)は、講学上、脊髄横断麻痺(その別名は脊髄横断障害症候群)と称せられるものである。ところで、この脊髄横断麻痺は、通常、脊椎骨に外力に基因する骨折・脱臼の損傷が生じた場合、その他、病原体に基因する脊髄炎等罹患の場合に起こりうるものと考えられる。しかし、原告は、元来、健康な主婦であって(もっとも、前記のような膀胱炎に罹患してはいたが、このような疾病はもとより重視するにはあたらない。)、前記のごとくにして岐阜大学病院に入院してから、同病院で梅毒の血清反応検査とクロロマイセチンに対する過敏性検査を受けても、その結果はすべて陰性であり、また同病院の眼科及び婦人科における診察によってもなんらの異常も発見されなかったものである。しかして、外観上、原告の脊椎骨に骨折・脱臼等の損傷が全く認められないことに徴して、原告の本件障害すなわち脊髄横断麻痺が物理的な外力に基因して惹起されたものでないことはきわめて明らかであるのに加えて、本件障害が原告の体質や過敏性等のごとき原告に固有の欠陥に由来するものでないこともまた右の諸検査の結果に照らして疑問の余地のないところである。

そこで、まず、本件障害の直接的原因を考察してみると、それは、脊髄に栄養を供給する血管の硬化とこれに基因する血圧亢進とのいわゆる相互的悪循環がもたらした脊髄出血か、あるいは、血栓ないしは塞栓に基因する脊髄血管の閉塞かのうちのいずれかにほかならないことは明らかである。しかして、以上の事実に、原告の症状に脊髄全体にわたる麻痺状態が認められること及び原告の臀部に壊疽状態が認められないことをも併せて検討すると、原告の本件障害は以下のような経過をたどって発生したものと認めるのほかはない。

すなわち、被告が、本件注射に際し、誤ってその注射液を原告の臀部にある上臀静脈内に注入したために、懸濁液たるクロロマイセチンの薬液が前脊髄動脈、後脊髄動脈、又は肋骨動脈のいずれかを経て脊髄枝内に迷入して、脊髄枝を急激に閉塞するに至らせ、このことによって本件障害が発生した。

5  被告の債務不履行責任について

被告が、原告との間に締結した原告の膀胱炎治療を目的とする診療契約上の受任者にあたることは、すでに第2項に記載したとおりである。されば、被告において、右契約に従って原告の膀胱炎を治療するための手段として原告の臀部にクロロマイセチン液の筋肉注射をするにあたっては、臀部の血管内に注射液が混入するときは本件のような障害を発生させることがありうるから、注射針が同血管に刺入することのないよう十分に配慮し、太い血管の分布しない安全部位を注射部位として選択するのは勿論、右安全部位に注射する場合においても、注射針の深度を調節するなど適切な注射方法を講ずべきであったのに、被告は、このような方法を講じなかったために、結局、第3項・第4項記載のごとき経緯をたどって原告に本件障害を生じさせたのであるから、ひっきょう、原告の本件障害は、被告の右診療契約債務の不完全履行に基因することが明らかであるというをうべく、被告は、原告に対して、とうてい該債務不履行に基づく損害賠償責任を免れないものである。

6  原告の被った損害について

(一) 慰謝料 金五〇〇万円

本件障害の発生当時いまだ三六歳の主婦であった原告は、爾来、下半身不随のために用便すら意のままにならず、もとより夫島尾冨士夫との夫婦生活も不能となってしまった。かてて加えて、きわめて当然のことではあるが、その他の日常生活も自力でこれを行うことは全く不可能な状態にあるなど、原告の苦痛はまことに筆舌に尽くし難いものがあるというべきである。しかして、原告の被った右の苦痛を金銭的に評価すれば、それは、決して、金五〇〇万円を下廻るものではない。

(二) 逸失利益 金六〇〇万三三六三円

原告は、さきに記載したように、昭和九年五月二八日生れの元来健康な主婦であった。そこで、本訴状副本が被告に送達された月の翌月である同四九年一二月(同時点における原告の年齢は四〇歳六か月である。)から平均稼働可能最終年齢六三歳までの間の原告の労働能力全面喪失に起因する逸失利益額を算出すると、それは金六〇〇万三三六三円と算定される(ちなみに、算定の基礎となるべき年収額は昭和四七年度賃金センサス第一表記載の女子労働者平均賃金に依拠し、これをホフマン式計算法に従って右昭和四九年一二月の現在額としたものである。なお、その詳細については、本判決末尾添付の別表参照のこと。)。

(三) 付添費用 金一六五二万九三〇五円

原告は、さきに記載したように、下半身不随で、単独歩行も不可能な状態にあって、この状態が今後少なくとも六三歳まで継続することは当然に予備されるところであるから、昭和四九年一二月以降原告が六三歳に達するまで、原告に付添婦を付して、その看護・介護に当たらせる必要があることはいうまでもないところである。ところで、右付添婦の日当を金三〇〇〇円として前記期間中における付添費用総額をホフマン式計算法によって昭和四九年一二月における現在額として算出すると、それは、左記計算式のとおり金一六五二万九三〇五円と算定される。

40歳 3,000円×30日×7か月×0.9524=600,012円

41~63歳 3,000円×365日×14.5473=15,929,293円

以上合計 16,529,305円

(四) 弁護士費用 金二七五万三二六六円

本件は、いわゆる医療過誤訴訟事件であって、該事件の性質等にかんがみ、原告が正当な権利救済を受けるために、弁護士にその訴訟追行を委任することは通常是認せられる相当な手段・方法というべきである。そして、その弁護士委任費用のうち、右(一)ないし(三)の各損害額の合計額の一〇パーセントにあたる金二七五万三二六六円は、被告においてこれを負担するのが当然である。

7  結論

されば、原告は、被告に対し、前指摘にかかる債務不履行に基づく損害賠償として、第6項の(一)ないし(四)記載の各金額の合計金三〇二八万五九三四円を請求しうべきところ、本訴においては、右金員の内金として金二〇〇万円とこれに対する本件訴状副本が被告に送達された日の翌日である昭和四九年一一月七日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否及び被告の主張

1  請求原因第1項及び第2項の各事実は、全部これを認める。

2  同第3項に対する答弁は、後出第5項の「被告の主張」欄の(一)と(二)に記載されているとおりである。

3  同第4項については、そのうち、原告の症状が脊髄横断麻痺であること、そして、この脊髄横断麻痺が、一般的には外力に基因する骨折・脱臼の損傷が生じた場合、その他病原体に基因する脊髄炎等罹患の場合に起こりうること、岐阜大学病院における諸検査の内容とその結果がいずれも原告指摘のとおりであったことは、これを認めるが、その余の諸点、とくに本件障害発生の原因に関する原告の主張事実はこれを否認する。

4  同第5項及び第6項については、それらのうち、原告が現在もなお引き続き下半身麻痺の状態にあることは、これを認めるが、その余の事実はすべてこれを否認する。なお、被告に本件診療契約の不完全履行に基づく損害賠償責任がある旨の原告の法律的主張は勿論これを全面的に争う。

5  被告の主張

(一) 本件診療(注射を含む。)の経緯と本件注射後の被告の処置について

(1) 原告は、昭和四五年九月二四日、被告方医院を訪れ、被告に対し、頻繁な排尿、排尿時の疼痛、下腹部の不快感などの諸症状を訴えて被告の診療を求めた。そこで、被告は、原告を診察して、原告の病名を急性尿路感染症と診断した。被告は、その治療として、クロラムフェニコールゾル協和(協和醗酵工業株式会社製造の抗生物質剤で、日本薬局方名クロラムフェニコールをその成分とし、主としてグラム陽性・陰性菌・リケッチアウイルスに作用する薬品である。)一グラムを原告の臀筋部に筋肉注射し、ウロサイダル(エーザイ株式会社製造の薬品で、日本薬局方名スルファメチゾールを主成分とするサルファ剤の一種である。)を処方してこれを原告に内服するよう指示した。

被告は、さらに同月二五日、同月二六日と引き続いて被告方医院を訪れた原告に対して、その都度、右同様の診療処置をした。ついで、同月二八日被告方医院に来た原告を被告が診察したところ、従来の症状が顕著に改善されていたため、被告においては、右尿路感染症が間もなく治癒するであろう、と判断し、前記ウロサイダルを処方するにとどめて、これを原告に内服するよう指示した。

ところが、原告は、同年一一月一九日、またも被告方医院を訪れて、最初の来院の際とほぼ同様の症状を訴えたため、被告において原告の尿を採取・検査したところ、その尿中に膿が認められた。そこで、被告は、原告に尿路感染症が再発したものと診断し、ヘサチラミン(武田薬品工業株式会社製造の注射液で、日本薬局方名ヘキサミン注射液を主成分とする尿路消毒剤である。)五ミリリットルを原告の静脈に注射したほかエリスロシン錠(大日本製薬株式会社製造、エリスロマイシンという抗生物質を含有する製剤で、主としてグラム陽性菌・リケッチアウイルスに対して効果がある。)九錠(右物質が一錠につき一〇〇ミリグラム含まれている。)を二日分処方し、これを原告に内服するよう指示した。

(2) ところが、原告は、翌一一月二〇日午後五時ころ、またも被告方医院を訪れ、被告に対して、「右エリスロシンを内服したところ、従来からの頻尿と下腹部の不快感に加えて、上腹部にも不快感を覚えるようになった。」と訴えたため、被告は、原告に対し、右エリスロシンの内服を中止するよう指示するとともに、同年九月の治療時と同じく前示クロラムフェニコール液を筋肉注射しようと考えて、その旨を原告に伝えた。

そして、被告は、原告を診察台に寝かせ、同日午後五時二〇分ころ、クロロマイセチンゾル(三共株式会社製造のクロラムフェニコール注射液)一グラム(四ミリリットル)を原告の左臀部の筋肉に注射した(これが原告のいう「本件注射」である。)。しかして、右注射の部位は、原告の左臀部を縦横に二分の一ずつ合計四部分に区画したうちの上外側四分の一領域で、腸骨稜縁から二横指下部、左外側から約三分の一付近である。被告は、原告の臀筋肉に注射針を刺入してから、いったん注射器の内筒を引き、注射針が血管等を刺していないことを確認し、しかるのち、緩徐に注射液を注入し終わった。しかも、注射後、しばらく該注射部位をもみ、さらに原告に対してもみずから該注射部位をもみ続けるよう指示した。

ところが、右の注射後、間もなく、原告は、被告に対し、まず両下肢の熱感を、ついでしびれ感を訴えたのに加え、その一~二分後には、さらに強度の腰痛をも訴えるに至った。そこで、被告は、原告に対して、暫時診察台に静かに横たわるよう指示し、その容態の推移を観察した。しかして、原告の、右腰痛は五分ないし一〇分間継続したが、その後、原告の両腰部と両下肢部、すなわち、その下半身全体に知覚脱失と運動障害が認められるに至った。

(3) 被告は、右の状況に照らして、本件注射の故に原告の身体には薬物による重篤なアレルギー症状が生ずるに至ったものと判断し、これが改善、除去のために以下のようなもろもろの措置を講じた。

すなわち、被告は、原告の右症状が薬物によるアレルギーに基づくものと判断した時点で、ただちに、原告に対して、二〇パーセントロジノン(武田薬品工業株式会社製造のブドウ糖注射液である。)二〇ミリリットルとグルタチオン一〇〇ミリグラム(持田製薬株式会社その他多数の製薬会社で製造されている薬品で、代謝に関与する解毒剤の一種である。)を静脈注射したが、原告の症状にはなんらの改善も認められなかったため、さらに、静脈を確保し、リンゲル糖液五〇〇ミリリットル、五パーセントブドウ糖液五〇〇ミリリットル、デキサメタゾン注射薬(ステロイド製剤と称せられる合成副腎皮質ホルモン剤の一種で、抗アレルギー作用などがある。)五ミリグラム、タチオン注射用(山之内製薬株式会社製造のグルタチオン注射薬である。)二〇〇ミリグラム及びビタノイリン(武田薬品工業株式会社製造の複合ビタミン剤で、神経痛・リウマチ・神経障害などに適用される。)一筒を順次点滴によって静脈から注入した。

被告が右のような諸措置をとり始めてから前示点滴の終了まで約二時間を要したが、この間、原告は、上腹部に軽度の不快感と軽度の頭痛を訴えたほか、数回にわたって胆汁を嘔吐した。しかし、原告に呼吸困難・胸内苦悶・心悸亢進・チアノーゼなどの諸症状は認められず、脈拍もその数は七〇前後で、かつ、規則的であり、その緊張が良好であったのに加えて、血圧は最高一二〇、最低八〇を示すなど、これらに特段の異常は認められなかった。しかし、下半身の知覚脱失と運動障害という原告の前記状態は依然として持続し、これに改善の徴候は毫も認められなかった。

しかして、右点滴終了時に、被告が、原告を腹臥位にして本件注射部位の状況を確認したところ、原告の左臀部に、該注射部位を中心として、境界の鮮明な直径約三〇センチメートル大の類円状の赤紫色うっ血像(これは、樹枝状血管網を思わせる。)が認められたが、このうっ血像の色調は、その後約二時間を経て、二分の一ないし三分の一程度に褪退した。

(4) 被告は、原告に対して前示のような諸措置を講ずるとともに、他方、岐阜日赤病院長の井戸豊彦医師(内科担当)と岐阜県立岐阜病院内科部長の訴外森甫医師に連絡して被告方医院への来訪を求め、右両医師をして原告を診察させたが、右両医師の診察にもかかわらず、原告の前記症状の原因はついに解明することができなかった。しかし、この時点においては、原告の容態は一応安定しているものと認められたため、被告は、とりあえず、原告を当夜被告方医院にとどめてその容態の推移等を観察し、ついで、翌一一月二一日、原告を岐阜大学病院の内科に入院させた。

(二) 岐阜大学病院における診断と治療について

(1) 原告は、このようにして昭和四五年一一月二一日岐阜大学病院に入院したが、その際、原告を診察した同病院医師の所見によると、該入院時における原告の症状は、概ね請求原因第3項(四)記載のとおりであったが、そのほかにも、両下肢のアキレス腱反射と膝蓋腱反射の機能消失が認められ、他方、バビンスキー反射等には異常の点が認められなかった、というのであって、同病院医師は、これらの所見から、原告には急性横断性脊髄炎のそれと同様の症状を認めることができる旨診断した。

岐阜大学病院においては、原告の右入院時以降約三か月にわたり、原告について原告主張のごとき各種の検査を実施したのに加え、原告主張のごとき約一年間にわたる入院期間を通じて、前示のような原告の横断性脊髄炎症がどのような原因に基づき、また、どのような機序のもとに発症したのかについての究明を試みたが、結局最後までこれを解明することができなかった。

その後、原告は、昭和四六年一一月上旬に至り、自宅療養を希望して岐阜大学病院を退院したが、右退院時における同病院医師の所見によると、原告の症状としては、(イ)両側第二腰髄より下方の知覚の完全麻痺(ロ)下腹部(第一二胸髄又は第一腰髄)の知覚の不全麻痺(ハ)両下肢の弛緩麻痺が認められ(ちなみに、左右膝関節の屈伸は全く不可能ではなく、補助具装着と介助によってようやく起立・歩行が可能となるものの、独力歩行はもとより不可能である。)、なお、膀胱・直腸障害には改善のあとが認められない、というもので、以上の症状に照らして、その病名は、急性播種性脊髄炎である、と診断された。

以上のごとく、原告は、岐阜大学病院入院以来約一年間にわたって諸般の治療を受けたにもかかわらず、その退院時の諸症状は、入院時のそれと比較して、その一部についてわずかな改善が認められたにとどまり、全体的・実質的にはほとんど変化が認められなかった。

かくして、退院後も、引き続き横断性脊髄炎の諸症状、すなわち、次項記載のごとき脊髄横断麻痺と呼称される両側下半身の神経麻痺症状が原告の後遺症として残ることとなった。

(三) 脊髄横断麻痺について

原告の前記退院時における岐阜大学病院医師の診断によると、原告の病名は、前示のとおり、急性播種性脊髄炎とされているが、原告の前記下半身不随の症状には、両側下肢を含む下半身の知覚麻痺と膀胱・直腸障害等を伴う点にその特徴が認められ、このような一群の病変を、講学上、脊髄横断麻痺又は脊髄横断障害症候群と呼称する(以下、「脊髄横断麻痺」という。)。

しかして、脊髄横断麻痺は、なんらかの原因により脊髄に障害が生じ、しかもその障害が左右のいずれにも偏ることなく横断面の全体にわたって生じた場合に発生する症状である。ところで、この脊髄横断麻痺は、原告が請求原因第4項において指摘するように、脊髄骨に外力に基因する骨折・脱臼等の損傷が生じた場合、その他、病原体に基因する各種脊髄炎等罹患の場合に起こりうるものであるが、さらに、脊髄の特定部位に関係する血管等の循環系障碍に基因する場合もありうるものと考えられる。そして、このような血液循環系の障碍原因としては、脊髄血管の硬化・血圧亢進等に基づく脊髄出血(いわゆる脊髄卒中)、血栓・血管攣縮・塞栓等に基づく脊髄血管閉塞が挙げられるであろう。しかし、右の血栓や血管攣縮等の原因はきわめて多岐にわたるものであって、その究明はもとより容易ではない。

(四) 本件注射と原告の本件障害との因果関係について

(1) 本件注射の部位は、前記(一)の(2)のとおりで、この付近には太い血管や主要な神経が存在しないため、臀筋に筋肉注射をする場合には、前記の部位を選択することが最も安全性の高い方法であるとして、学説上も臨床上も推奨されているところである。

さて、本件の場合、注射の部位が正当であったことは前指摘のとおりであるが、このこととは別に、本件注射に際して、被告に注射針の深度を誤まるなどの過失がなかったこともまた以下の理由によっておのずから明らかであろう。けだし、一般に、仮に医師が前示のように注射の手技を誤っても、そのことによって患者に神経麻痺を生じさせる場合としては、、(イ)注射針が直接的に神経を傷害する場合、(ロ)注射により体内に注入された薬液が隣接する筋肉層間に介在する結合組織(結締織)内に流入して神経に到達する場合との双方が考えられるであろう。しかし、これらのいずれの場合においても、当該神経麻痺は注射の実施された側面のみに限局的に発現するという特徴を有することを看過すべきではない。しかるに、本件の神経麻痺は、既に詳説したように第一二胸髄神経ないしは第一腰髄神経付近に発生した脊髄の横断麻痺であって、その神経障害は、単に注射の実施された側面のみにとどまらず、その反対側面にも同様に発現しているのである。しかも、(イ)本件注射の部位である臀部と障害の発生した脊髄とは物理的にも遠く離れていること、(ロ)右注射部位に注入された薬液を脊髄まで到達させるような連絡路の存在しないことは現在における医学常識であることなどをも併せて考察すれば、原告の本件障害が被告による注射の手技上の過誤の故に惹起されたものでないことはきわめて明白であろう。

(2) そこで、すすんで、原告の本件障害の原因を岐阜大学病院の前記所見等を参考にしながら推察してみるに、原告もその請求原因第4項において指摘しているように、本件障害が、脊椎骨に外力に基因する骨折・脱臼等の損傷の生じた結果惹起されたものでないことと、病原体に基因する脊髄炎等の故に惹起されたものでもないことは、一応これを是認しなければならないのであって、本件障害は、該障害の部位付近を支配する血管等の循環系障碍を原因とするものであろうと想像される。

しかしながら、本件障害の原因を右のような循環系障碍に求めるとしても、そのような循環系障碍がどのような原因・経過のもとに本件注射の直後に発生したかの点は全く不明である。クロロマイセチンの薬液をも含めて、臀筋部位に対する薬液注射の結果として本件のごとき脊髄横断麻痺の障害が発生するような事態は全く考えられないところというのほかはない。

他方、岐阜大学病院が原告の既往歴を調査したところ、原告には、昭和四五年三月ころ、深夜にわかに両下肢にしびれ感と冷感を覚えて、睡眠から醒め、みずからマッサージをして五分間以内に右の症状を消失させた、という既往歴のあったことが判明した。このような原告の既往歴は、本件注射にさきだち、既に原告の脊髄付近においてある種の病変が起こっていたことを窺わせるものというべきである。そして、このような既往歴が原告にあったことを前提として本件障害発生の機序を推論してみると、遅くとも本件注射の七か月余りも以前から、原告の脊髄に緩徐な障害が進行していたこと、その障害が本件注射の直前ころに急激に悪化したこと、このような状況を背景として、本件注射を契機に、原告に本件神経障害が突発的に発生するに至ったものと考えるのが相当であろう。

(五) 結論

(1) 以上に詳論したごとく、本件注射と原告の本件障害との間に、通常想定できるような因果関係はとうてい認められないから、本件障害に基因する原告の損害について被告がこれを賠償すべき責任を負担しないことは明らかである。

(2) また、仮に百歩を譲って、本件障害の発生について本件注射がその誘因となったことが認められるとしても、被告に本件障害に基づく原告の損害を賠償すべき責任のないことは後記の理由に徴して明らかである。けだし、被告の注射部位の選択とその注射の手技自体になんらの誤りもなかったことは明白であり、しかも当時、原告の脊髄に異常があることを窺わせるような外部的徴候の認められていなかった本件において、原告に対する本件注射の施用が脊髄横断麻痺というがごとき重大な障害発生の原因となりうることを予測することはとうてい不可能であったというのほかはなく、被告においてかくのごとき事態をも予測をして原告に注射を施用しなければならない義務のなかったことは余りにも明らかだからである。

(3) 以上の次第であるから、原告の本訴請求は、もとよりその理由がない。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因第1項及び同第2項の各事実はすべて当事者間に争いのないところであり、また、その余の請求原因事実のうちでも、被告が昭和四五年一一月二〇日夕刻被告方医院において、原告に対してクロロマイセチン注射液一グラムをその左臀部に注射したこと、原告が右注射を受けてから間もなくその両下肢を含む下半身全体にわたる麻痺状態に陥ったこと、原告は、翌二一日以降約一か年にわたり岐阜大学病院に入院し、同大学病院において前示の下半身麻痺の症状について診察と治療を受けたが、結局その原因を解明することができず、また、右症状もほとんど改善されなかったこと、そこで、原告は、昭和四六年一一月上旬に同大学病院を退院し、現在肩書自宅において療養中であるが、いまなお、いわゆる下半身不随の状態にあること、原告の右症状は脊髄横断麻痺にあたること、以上の諸事実もまた被告の認めて争わないところである。

二  《証拠省略》を総合すると、本件障害発生の経過等に関して次のような事実が認められる(なお、以下に判示する諸事実のうちには、前記のごとき当事者間に争いのない事実も一部含まれているが、説示の便宜上、特に当該説示部分が当事者間に争いのない事実にあたる旨を明示しないこととする。)。

1  原告は、昭和四五年九月二四日、排尿の際の苦痛などを訴えて、被告方医院を訪れ、被告の診察を受け、ただちに急性尿路感染症と診断されたこと、そこで、原告は、同日は勿論、翌二五日及び二六日の都合三回にわたり、被告から右疾病治療の方法として、抗生物質であるクロラムフェニコールゾル協和一グラム(各回)の筋肉注射を受けたが、その際、注射部位である臀部に「ビリッ」とした痛みを感じたこと、

2  原告の右尿路感染症は一旦快方に向かったものの約二週間後に再び悪化したため、原告は、同年一一月一九日再び被告方医院を訪ねて、被告から尿路消毒剤であるヘキサミンの静脈注射を受けるとともに抗生物質であるエリスロシン錠内服薬二日分を投与されたこと、原告が右エリスロシン錠を服用したところ、その服用後、胃に不快感を覚えたため、原告は、同月二〇日午後五時ころ、被告方医院を訪ねて、被告に対して右症状を訴えたこと、そこで、被告は、原告に右エリスロシン錠を内服させることに代えて、原告に対してクロラムフェニコールの筋肉注射をすることにしたこと、そして、被告は、ただちに原告を診察台上に腹臥させ、三共株式会社製造のクロラムフェニコール注射液であるクロロマイセチンゾル一グラム(四ミリリットル)を原告の左臀部に筋肉注射したこと、右注射部位は、原告の左臀部を縦横の各中央線によって四部分に区画されたうちの上外側四分の一領域内で、腸骨稜縁から二横指下部、左外側から約三分の一付近であり、被告は、該注射部位に注射針を約三センチメートルの深さまで刺入したのち、一旦注射器の内筒を上方に引くことによって注射針が血管内に刺入していないことを確認し、しかるのち緩徐に臀部筋肉に右注射液四ミリリットル全部を注入したこと、

3  被告は、右の注射終了後、しばらく該注射部位をもみ、さらに原告に指示して原告をして引き続いて該部位をもませたが、右注射後一~二分が経過したころ、原告が、まず両下肢の熱感を、ついでしびれ感を訴えたのに加えて、その後、強度の腰痛をも訴えるに至ったため、被告は、原告に対して、暫時診察台上に静かに横たわっているように指示して、その容態の推移を観察したこと、そして、約一〇分間が経過したころ、原告の両腰部と両下肢部を含む下半身全体にわたって知覚脱失と運動障害が認められるに至ったこと、被告は、このような状況にかんがみ、原告の右症状が原告の左臀部内に前記のごとくにして注入されたクロロマイセチンゾルによる薬物アレルギーに基づくものである、と推断し、右症状の改善・解消のために、約二時間にわたり、ブドウ糖液をはじめ、解毒剤の一種であるグルタチオン液などを静脈注射又は点滴の方法によって原告の体内に注入したこと、この間、原告の意識は清明で、呼吸困難・胸内苦悶・心悸亢進・チアノーゼの症状も認められず、脈拍と血圧はともにほぼ正常であったが、原告は、上腹部に軽度の不快感があることと軽度の頭痛を訴えたほか、三~四回にわたって胆汁を嘔吐したこと、そして、前記のごとき原告の下半身知覚脱失と運動障害の状態はそのまま継続し、これらになんらの改善の徴候も認められなかったこと、しかして、右点滴終了時に被告が、原告を腹臥位にして本件注射部位の状況を確認したところ、右注射部位を中心として境界の鮮明な直径約三〇センチメートル大の類円状の紅斑(暗赤色)が認められたが、右紅斑の色調はその後約二時間を経て、二分の一ないし三分の一程度に褪退したこと、

4  原告の前記症状が右の状態で一応安定したため、被告は、とりあえず原告を当夜被告方医院にとどめてその容態の推移を観察し、ついで翌一一月二一日、原告を岐阜大学病院の内科に入院させたこと、原告の右入院後、ただちに原告を診察した同病院医師の所見によると、原告の症状は、意識の清明さの点において欠けるところはないが、腰部以下の体動が左右両側とも完全に不可能で、両側大腿部の付け根よりも下方の触痛温覚と振動覚が完全に消失し、膀胱・直腸麻痺のほか、臍部よりやや上方に約二センチメートル幅にわたる帯状の知覚鈍麻部分の存在が認められるのに加えて、両下肢が弛緩性麻痺の状態にあって、アキレス腱反射及び膝蓋腱反射の各機能がいずれも消失していることも認められるが、バビンスキー反射等の異常反射は認められない、というにあったこと、しかして、右のような諸症状に照らして、原告の病名が急性横断性脊髄炎であると診断されたこと、

5  岐阜大学病院においては、原告に発症した前記障害の原因究明のために、諸般の検査を実施したが、梅毒血清反応、クロロマイセチンに対するアレルギー反応の検査結果はいずれも陰性で、脳脊髄液検査によっても脊髄液の通過障碍を認めることができず、その他、眼科、婦人科、整形外科の関係医師の所見によっても、本件障害の原因と認めるに足りるような異常はついに発見することができなかったこと、右大学病院においても、結局、原告の本件障害についてその原因を解明することができず、原告は、約一か年にわたる同病院での治療にもかかわらず、ほとんど改善のあともないまま、昭和四六年一一月八日同病院を退院するに至ったこと、

6  本件注射後に原告の左臀部の注射部位付近に出現した前記の紅斑は、翌一一月二一日にもいまだ半径約一〇センチメートル大を保って、左臀部から左側腹部及び下腹部に及んでいたこと、なお、右紅斑に隆起はなく、同紅斑は、指圧によって消失するものであったが、同月二九日にほとんど消失したこと、翌三〇日、本件注射部位の周囲に出血斑が出現し、これがその後潰瘍となったが、同潰瘍は昭和四六年四月に至って完全に快復したこと、

7  右大学病院退院当時における原告の状態は、左右両膝関節の屈伸が全く不可能でないとはいえ、補助具装着と介助によってかろうじて起立・歩行が可能となる程度であって、独力歩行はもとより不可能であり、また、膀胱・直腸障害についてはなんらの改善のあとも認められない、というもので、入院時に比較して一部にきわめてわずかな改善の跡があったものの、実質的・全体的にはほとんど入院時におけると同様であって、現在においても、原告は、いわゆる下半身不随の状態にあること、

8  しかして、原告に認められる以上の諸症状に徴すると、原告の本件障害は脊髄横断麻痺と呼称されるものであること、

9  なお、原告には、昭和四五年三月ころ、深夜にわかに両下肢にしびれ感と冷感を覚えて睡眠から醒め、みずからマッサージをして五分間以内に右症状を消失させたという一種の既往歴のあること、ちなみに、該既往歴の事実は、岐阜大学病院所属の医師が本件障害の故に同病院に入院した原告に対してこれが原因解明の目的をもって諸般の問診を試みた結果はじめて判明するに至ったものであること、

以上の各事実が認められ(る。)《証拠判断省略》

三  そこで、すすんで、原告に生じた本件障害と被告が原告に対して施用した本件注射との間に因果関係が是認されるか否かについて、以下、検討を加えることとする。

本件障害の原因ないしは機序として原告の主張するところは、要するに、被告が原告の左臀部に対して本件注射を施用するにあたり、その注射液であるクロロマイセチン液を臀部の上臀静脈内に注入し、そのために、同注射液が同静脈から、前脊髄動脈、後脊髄動脈又は肋骨動脈のいずれかを経て脊髄枝内に迷入したことによって本件障害が惹起された、というに帰着する。

しかしながら、前認定の諸事実を《証拠省略》と併せ考察すると、本件注射の部位である臀部には太い血管や主要な神経が存在しないため、同部位は筋肉注射を施用する部位としては人体のうちでも最も安全な部位であること(しかも、さきに認定説示したように、被告は、本件注射にあたって、注射部位に一旦刺入させた注射針が該部位付近の血管内に刺入していないことの確認措置を講じてからクロロマイセチン注射液を当該部位に注入していること)に照らして、そもそも右注射液が原告の左臀部血管内に注入されたことの可能性はきわめて少ないものと考えられること、しかのみならず、右注射液が仮に原告の臀部血管内に注入された場合を想定するとしても、(1)まず、その注入にかかる血管が臀部動脈であるという場合においては、該注射液が動脈の強い血流に逆って脊髄にまで到達することは全く不可能であること、(2)つぎに、その注入にかかる血管が臀部静脈であるという場合においては、右注射液は当然に多量の血液によってそのほとんどが稀釈されるのに加えて、該薬液中の不溶性部分もまた肺の毛細血管によって捕捉・濾過されることなどの関係に照らして(ちなみに、一般に大量の薬液が静脈中に侵入した場合には、血流の経路等の関係上、肺血管における散在性の塞栓や脳塞栓の現象を惹起し易いが、本件においては、原告にこのような現象が認められない。)、該注射液が上臀静脈を経て脊髄に到達することの可能性もまたこれを否定せざるを得ないこと、以上の事実が認められ、他に前認定を左右するに足りる証拠は毫もこれを見いだし得ない。

一方、前掲各証拠に徴すると、本件注射後にその注射部位周辺に出現した前認定の紅斑は同部位付近における血行障碍に基因して発生したものと認めるのが相当であるところ、この事実を、原告が本件注射にさきだつこと約七か月のころ、深夜就寝中、その両下肢にしびれ感と冷感を覚えた旨の前認定の事実と併せ考量すると、本件においては、本件注射にさきだつこと数か月のころから既に原告の中枢神経血管になんらかの異常が存在していたこと、そして、本件注射の際の注射針刺入等に伴う苦痛ないしは刺戟が誘引となって該異常部位に急激な変化が発生し、このことによって原告の本件障害を惹起するに至ったことの可能性を推測する余地のあることを否定し得ないであろう。

しかしながら、仮にかくのごとき経過のもとに本件障害が惹起されるに至ったとしても、前掲各証拠に徴すると、右のような経過のもとに本件のような障害が惹起されるに至るというがごとき事態が通常起こりうるものではないことはきわめて明らかであるばかりでなく、さらに、本件注射当時、被告は、原告に前説示のごとき循環系障碍を疑わせるような既往歴のあることを知らなかったことが認められ、他方、本件においては、被告がこのことを知り得べきであったとして被告を非難すべき事由となる事実関係を認めるに足りる証拠もまた毫もこれを発見することができない。

四  以上説示の点をも含めて、ひっきょう、本件においては、全証拠をつぶさに検討してみても、被告の本件注射行為と原告の本件障害との間にいわゆる相当因果関係の存在することを肯認するに足りる証拠が毫もないのに加え、仮に右両者の間にいわゆる相当因果関係を除くなんらかの因果関係(いわゆる特別因果関係を含む。)が存在するとしても、本件注射の当時、被告が該注射によって原告に本件障害を被らせるに至るべき特段の事情を知っていた旨の事実又は被告が該事情を知りうべき状況にあったことを窺わせるがごとき事実を認めるに足りる証拠は、これを見いだすことができないものというのほかはない。

五  結論

以上のごとく、原告の被告に対する本訴請求がすでに前説示の点においてその理由のないことは明らかであるから、その余の点についての判断を示すまでもなく、原告の被告に対する本訴請求はとうてい失当として排斥を免れない。

よって、原告の本訴請求を失当として棄却することとし、なお、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 服部正明 裁判官 熊田士朗 嶋原文雄)

<以下省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例