岐阜地方裁判所 昭和57年(ワ)188号 判決 1985年9月30日
原告 小松春子
<ほか二名>
右原告ら訴訟代理人弁護士 牛久保秀樹
被告 医療法人敬愛会
右代表者理事 赤齋
<ほか一名>
右被告ら訴訟代理人弁護士 浦田益之
主文
一 被告両名は、原告三名のそれぞれに対し、金六〇万円ずつとこれに対する昭和五七年四月二五日以降その支払いずみに至るまで年五分の割合による金員とを連帯して支払え。
二 原告三名のその余の請求は、いずれもこれを棄却する。
三 訴訟費用は、これを二分し、その一を原告三名の、その一を被告両名の、各負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮にこれを執行することができる。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告両名は、原告三名のそれぞれに対し、金四六三万円ずつとこれに対する昭和五七年四月二五日以降その支払いずみに至るまで年五分の割合による金員とを連帯して支払え。
2 訴訟費用は、被告両名の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告三名の被告両名に対する請求は、いずれもこれを棄却する。
2 訴訟費用は、原告三名の負担とする。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
(一) 原告小松春子(以下、「原告春子」という。)は亡小松啓一(昭和五五年九月一六日死亡。以下、「亡啓一」という。)の妻であり、また、原告渡辺啓子(以下、「原告啓子」という。)は亡啓一の長女、同小松浩子(以下、「原告浩子」という。)は亡啓一の次女であって、原告三名以外に亡啓一の相続人はない。
(二) 被告医療法人敬愛会(以下、「被告法人」という。)は、岐阜県各務原市那加門前町三番地八九に赤病院を開設・経営している医療法人であり、また、被告赤燮子(以下、「被告赤医師」という。)は、被告法人によって雇用され、右病院で診療に従事している医師である。
2 亡啓一が死亡するに至った経緯
(一) 亡啓一は、昭和五五年九月一五日午後七時二五分ころ、岐阜県各務原市鵜沼各務原五丁目二〇二番地先の道路上に佇立していた際、後方から進行してきた普通乗用自動車に衝突されて左背部等を強打した。亡啓一は、この交通事故によって多発性肋骨骨折(左第一ないし第一〇肋骨骨折)、脾臓破裂等の傷害を負い、同日午後七時四〇分ころ、救急車で赤病院に搬入された。
(二) 赤病院搬入時点における亡啓一の容態は、(ア)顔色蒼白で冷汗をかく、(イ)胸部痛のほか、左肩から左肩甲骨に至る部位についても痛みを訴える、(ウ)嘔吐がある、というものであった。
(三) 被告赤医師は、同病院に搬入された亡啓一を診察したが、その際、同被告は、触診で亡啓一の左肋骨に骨折があることを発見した。そこで、同被告は、右骨折の部位、程度を明らかにするためにレントゲン撮影を行った結果、亡啓一に多発性肋骨骨折が認められる旨の診断をし(もっとも、この時点では、同被告はいまだ亡啓一の骨折箇所のすべてを発見してはおらず、亡啓一の客観的な骨折状況が第一から第一〇肋骨に至る合計一九箇所にものぼる重篤なものである旨の正確な診断まではできなかった。)、右骨折及び擦過傷に対する応急処置を施した。しかし、その際、同被告は、腹部損傷の有無に対する検査としては簡単な問診と触診を試みただけで、十分な腹部の診察や血圧測定等を行わず、また、亡啓一がこのとき左肩から左肩甲骨に至る部位についての痛みを訴えたことについてその原因等に対する特段の顧慮もしなかった。そして、経過観察の必要があるという理由で、亡啓一を赤病院に入院させた。
(四) 被告赤医師は、このようにして亡啓一を赤病院に入院させたが、その際、入院患者の看護にあたる安田美咲准看護婦(以下「安田看護婦」という。)に対して、亡啓一に輸液と酸素吸入とを施用することを指示しただけで、この他に亡啓一の経過観察上留意すべき事項や施用すべき処置について特段の指示をしなかった。
(五) 赤病院に入院した亡啓一に対しては、被告赤医師の指示で同日午後八時四五分ころから二時間にわたって輸液が施され、また同九時ころからは酸素吸入の処置も行われた。しかし、このような処置によっても亡啓一の苦痛は治まるどころか、かえって亢進を続けた。亡啓一に付き添っていた原告春子と同浩子は、このような状態を見かねて、被告赤医師に再度の診察を懇請したが、同被告はこれを拒否した。そして、同日午後一一時ころ、安田看護婦は、同被告に対して、亡啓一が苦痛を訴えている旨報告したが、このような報告を受けた機会においてすら、同被告は、鎮痛剤(インテバン坐薬)投与を同看護婦に指示しただけで、みずから亡啓一を診察しようとはしなかった。こうして、亡啓一の容態は、被告赤医師の診察も受けられないまま、悪化の一途をたどり、この間、亡啓一は、入院時九〇(毎分)あった脈拍数が一〇六(毎分)にまで急増するという状況変化があったのに、このような異常な状況の変化さえ顧慮されないまま放置された。
(六) そして、翌一六日午前零時ころ、亡啓一の容態は極度に悪化した。この段階に至り、被告赤医師は、漸く亡啓一の病床に駆けつけたものの時すでに遅く、亡啓一は危状篤態に陥っており、人工呼吸の施用や強心剤・呼吸促進剤の注射もその効果はなかった。遂に、同日午前零時三〇分、亡啓一は、脾臓破裂により失血死するに至った。
3 被告赤医師の過失
本件において、被告赤医師は、救急車で搬入された救急外来患者(交通事故による受傷患者)の診療にあたる医師がその業務上尽くすべき以下のような注意義務を懈怠した。
(一) 初診時における過失
交通事故で受傷した救急外来患者の診療にあたる医師には、外観上明らかな創傷や四肢の骨折等だけに目を奪われることなく、頭部、胸部、腹部等の損傷の有無やその状況についても十分な診察を行い、その発見・診断に努むべき注意義務がある。しかして、初診時における亡啓一の症状の中には、腹部損傷、就中、脾臓損傷を疑わせるいくつかの徴候が認められたのにもかかわらず、被告赤医師は、医師として尽くすべき右注意義務を懈怠し、亡啓一の肋骨骨折にのみ目を奪われ、右徴候を見落としたまま安易に腹部損傷の可能性を否定し、又は腹部損傷が存在する場合の事態の重大性に想いを致さず、これに対する適切な診察・治療を行わなかった。以下、この点について敷衍して説明する。
(1) 診断上の過失
初診時における亡啓一の症状には、(ア)顔色蒼白・冷汗、(イ)左肩から左肩甲骨に至る部位についての痛み、(ウ)嘔吐、というような腹部損傷、就中、脾臓損傷を疑わせる徴候が認められた。それにもかかわらず、被告赤医師は、亡啓一の腹部損傷を疑わず、また、その可能性を顧慮した十分な検査もしなかった。特に責むべきは以下の二点である。①まず第一に、同被告が亡啓一の訴える左肩から左肩甲骨に至る部位についての痛みを看過した点である。この左肩付近の痛みは、講学上Kehr, s signと称せられる脾臓損傷に特有の所見であって、その診断上有用な徴候であるとされているのにもかかわらず、被告赤医師は、きわめて安易にこの痛みをも肋骨骨折あるいは同打撲に起因するものと即断したのである。②第二に、同被告が内出血の有無とその程度を知るのに必要かつ基本的・初歩的な検査手法である血圧測定と結膜の貧血検査とを怠ったまま、亡啓一に腹部損傷の存する可能性を否定し又はこれを軽視した点である。
このように、被告赤医師が初診時に亡啓一について腹部損傷の可能性を全く否定し、あるいはその可能性を無視できるほどにきわめて小さいものと診断したのは、明らかに同被告が医師として尽くすべき注意義務を懈怠したことによるものというべきである。
(2) 治療上の過失
被告赤医師がその初診時に亡啓一の腹部損傷、就中、脾臓破裂を疑わなかったため、その後、同被告が現実に亡啓一に対して施用した治療手段は、脾臓破裂に対するそれとしては有害無益な処置ばかりであった。すなわち、脾臓損傷による大量出血に対処するための唯一緊急の医療手段は、開腹手術によって脾臓を摘出することであるが、右手術を行うまでの間、患者の全身状態の悪化を防止するための有効な手段を講ずることが望まれる。そして、このためには、患者の出血状態を把握しながら、これを補うに足りる量(概ね、出血量の二倍)の輸液・輸血を行なうことが必要である。ところが、被告赤医師は、亡啓一の脾臓破裂による大量出血に対処するのには全く無意味ともいうべき止血剤を投与し、また、不十分な量の輸液を行ったため、かえって亡啓一の血圧を一時的に上昇させ、その出血量を増大させる結果をもたらした。このように、同被告が亡啓一に施用した治療方法は決して適切・相当なものではなかったのであって、この意味において、同被告の右治療には医師として尽くすべき注意義務の怠があったものといえよう。
(二) 経過観察上の過失
被告赤医師は、初診時における診察の結果、亡啓一について経過観察が必要であるとして、その入院を指示したのであるから、同被告には、亡啓一の入院後は同人を経時的に診察して、その症状の変化を的確に把握し、これに応じて適切な治療を施用すべき注意義務があった。特に交通事故による受傷患者の経過観察にあたっては、腹部損傷の存在を疑わせるような明確な徴候がすでにその初診時から現れているような事例は決して多くなく、したがって、そのような損傷の有無・状況を的確に診断することが困難な場合も少なくはないのであるから、仮に初診時に腹部損傷の存在を疑わせるような所見を発見できなくても、安易にその可能性を否定することなく経時的に繰り返し診察を重ねるべき注意義務がある。しかるに、被告赤医師は、亡啓一の経過観察につき、病棟勤務担当の安田看護婦になんらの指示も与えなかったばかりでなく、亡啓一の入院後同人が危篤状態に陥った前記九月一六日午前零時までの間、初診時の誤った診断のもとに亡啓一を放置し、その診察を一回も行わなかった。このような被告赤医師の行為(作為・不作為を含む。)に医師として尽くすべき基本的注意義務懈怠のかどがあったことはあまりにも明らかである。以下、若干敷衍して説明する。
(1) 指示の懈怠
救急外来患者を入院させてその経過を観察するにあたって、その担当医師は、すべからく、病棟勤務の看護婦に対して経過観察上留意すべき事項や投薬等についての具体的な指示を与えるべきである。しかるに、被告赤医師は、安田看護婦に対し、交通事故による受傷患者の経過観察上基本的かつ初歩的ともいうべきバイタルサインの把握(血圧や脈拍の測定)すら指示しないまま、亡啓一の観察を同看護婦に委ねた過失がある。しかも、安田看護婦が、本件当時いまだわずか一七才の経験の浅い准看護婦であったことをも併せ考量すると、被告赤医師の過失の重大性は一層明らかであろう。
(2) 診察の懈怠
そして、最も責むべきは、被告赤医師自身が、亡啓一を入院させた後同人が危篤状態に陥るまで、一回もその診察をしていないことである。すでに述べたように、腹部損傷の存在を疑わせる所見が初診時にはいまだ顕著でないことも決して少なくないのであるから、初診時に腹部損傷の存在を疑わせる所見を発見できなくとも、医師としては経時的に繰り返し患者の診察を行い、特に以下①ないし③のような諸点に留意しながらその発見に努むべき義務がある。
① 血圧、脈拍数とその性状、呼吸数と呼吸パターン、意識状態、体温、血膜の貧血度等のバイタルサインの把握
② 圧痛、腹筋の緊張(デファレンス)、ブルンベルグ症状、腹部膨満等の腹部所見の有無
③ 腹痛、嘔気等の自覚症状の把握
しかしながら、本件において、被告赤医師は、亡啓一に対する経過観察に際し、右①ないし③に指摘したような諸点に全く留意せず、あまつさえ、前記九月一五日午後一一時ころには、安田看護婦から亡啓一が苦痛を訴えている旨の報告を受けながら、軽卒にも右苦痛は多発性肋骨骨折に起因するものにすぎない旨即断し、亡啓一の診察に臨まなかったのである。このような被告赤医師の診療態度に医師として尽くすべき基本的注意義務の懈怠のかどがあることは明らかであって、疑いをいれる余地がない。
4 権利侵害
(一) 生命侵害
右3に主張したような被告赤医師の過失行為の結果、亡啓一が脾臓破裂による失血を原因として死亡するに至ったことは以下に述べるとおりであって、前記のような同被告の診療上の過失行為と亡啓一の死亡との間に相当因果関係が存在することは明らかである。すなわち、もしも、被告赤医師が医師として尽くすべき注意義務を懈怠することなく亡啓一の診療にあたっていたとすれば、初診時に――仮にしからずとしても、遅くとも亡啓一の全身状態が悪化する以前に――同被告は、亡啓一の脾臓損傷を疑わせる多くの所見を把握することができたはずであり、そうなれば、同被告としては、さらに腹腔試験穿刺等の補助的診断方法をも併用することによってその脾臓損傷を発見することができていたはずである。そして、しかも、この脾臓損傷が発見されていたならば、これに対する治療方法としては開腹手術による脾臓摘出が唯一無二のものであるから、可及的すみやかに同手術が行われていたはずである。しかして、右手術自体は比較的容易で救命率も高く、かつ、脾臓の摘出は成人の生存に特段の支障をきたさない。これを要するに、もしも被告赤医師が医師としての注意義務を尽くして亡啓一の診療にあたっていたとすれば、同人の脾臓損傷が早期に発見でき、しかも開腹手術を施すことによって亡啓一を救命することができたということができるであろう。
(二) 診察・治療を受ける利益・権利の侵害
さらに、本件における亡啓一のように、救急外来患者として医療機関に搬入され、該医療機関での診療が開始されたのにもかかわらず、その後当然なされるべき診察や治療も行われないまま放置された場合、当該医療機関から疾病治癒のために相当な診療を受けることのできる患者の利益・権利は右医療機関によって違法に侵害されたものというべきである。このような患者の利益・権利の侵害もまた、生命侵害と並んで独立の不法行為を構成するものと解される。
5 亡啓一の慰藉料請求権
亡啓一は、被告赤医師の無責任きわまる診療行為の故に、患者として当然に期待することのできる診察や治療を受けることができず、しかも、そのために死亡するに至ったものであって、そのことの故に亡啓一が被った精神的苦痛は筆舌に尽くしがたく、これを慰藉するに足りる慰藉料相当額は少なくとも金一二〇〇万円を下回ることがないものというべきである。
6 原告らの損害
(一) 慰藉料請求権の相続
しかして、亡啓一は、昭和五五年九月一六日に死亡したので、亡啓一の妻である原告春子、同じく長女である啓子、同じく次女である同浩子の三名が、亡啓一の右慰藉料請求権を各法定相続分(三分の一)に応じて相続した。よって、原告らはそれぞれ、被告赤医師に対し、金四〇〇万円ずつの慰藉料請求権を有する。
(二) 弁護士費用
原告らは、亡啓一の死亡後、被告らが亡啓一に施用した治療方法等の不完全なことを指摘し、この点について被告らに謝罪方を求めてきたが、被告らはなんら誠意ある態度を示さなかったので、已むなく亡啓一から相続により取得した慰藉料を請求するため本訴を提起した。本訴は、その事案の内容からして、その提起・追行を弁護士に委任するほかはなく、原告らは、これを原告ら訴訟代理人弁護士牛久保秀樹に委任し、弁護士報酬として、同弁護士に合計金一八九万円(原告各人金六三万円宛)を支払うことを約諾した。原告らが同弁護士に支払うべき右弁護士報酬もまた、被告赤医師の不法行為と相当因果関係のある損害というべきである。
7 よって、原告らは、被告赤医師については民法七〇九条に基づき、また、被告法人については同法七一五条一項に基づいて、被告らが原告らに対し各原告ごとに右の損害金四六三万円(8の(一)と(二)の金員の合計額)とこれに対する本件訴状副本が被告らに送達された日の翌日である昭和五七年四月二五日から右各支払いずみに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金とを連帯して支払うことを求める。
二 請求原因に対する認否並びに被告の主張
1 請求原因1の(一)及び(二)の各事実は、いずれもこれを認める。
2(一) 同2の(一)の事実は、これを認める。
(二) 同2の(二)の事実は、そのうち、亡啓一が赤病院搬入時に嘔吐したとの点は知らないが、その余の諸点は、これを認める。
(三) 同2の(三)の事実は、そのうち、①被告赤医師が、赤病院に搬入された亡啓一の診察にあたったこと、②同被告が、原告らの主張するような触診とレントゲン撮影とによって亡啓一に多発性肋骨骨折がある旨の診断をしたこと、③同被告が、右診断結果に依拠して亡啓一の右骨折及び擦過傷に対処する治療を施したこと、④同被告が、その初診時に亡啓一の血圧測定をしなかったこと、⑤同被告が、亡啓一については経過観察の必要があると判断し、その入院を指示したこと、以上の各点は、これを認めるが、その余の諸点はすべて否認する。
被告赤医師は、レントゲン検査によって、亡啓一に第一ないし第九肋骨の骨折があることを正しく診断していたし、しかも、右骨折だけに目を奪われることなく、同人の頭部、胸部、腹部の異常の有無についても念入りな診察を行った。その際、亡啓一が、腹部の痛みを訴えたというようなことはなかったし、被告赤医師の診察によっても腹部の膨満や圧痛、腹筋の緊張等の所見は全く認められなかった。また、その際の亡啓一の脈拍数は九〇(毎分)でその緊張に異常は認められず、血圧の低下も窺われなかった。このような所見の上に立って、被告赤医師は、亡啓一については腹部損傷の疑いが小さい旨の診断に到達したのである。同被告は、このような診断に到達しながらも更に慎重を期するため、亡啓一に内臓損傷のあった場合に備えて、輸液を行うとともに、止血剤を投与することにしたのである。
(四) 同2の(四)の事実は、そのうち、被告赤医師が、亡啓一を赤病院に入院させた際、安田看護婦に対し、亡啓一に輸液と酸素吸入とを行うよう指示したとの点は、これを認めるが、その余の諸点は、すべてこれを否認する。
赤病院においては、入院患者の経過観察にあたり看護婦として注意すべき事項やなすべき処置についての看護婦教育が常時十分かつ完全に行われており、また、病棟勤務にあたる看護婦をして右教育に従って患者の経過観察に従事させる態勢もできているのであるから、このような態勢のなかにあっては、被告赤医師が安田看護婦に対してした原告ら指摘のような指示も、指示として必要かつ十分なものであったというべきである。
(五) 同2の(五)の事実は、そのうち、①亡啓一に対して、被告赤医師の指示に基づいて原告ら主張のころ輸液と酸素吸入の処置が施されたこと、②同被告が、安田看護婦に対して、前記九月一五日午後一一時ころ、亡啓一に鎮痛剤(インテバン坐薬)を投与することを指示したこと、以上の各点は、これを認めるが、その余の諸点は、これを否認する。
亡啓一は、赤病院入院後ただちに被告赤医師の指示に基づいて輸液と酸素吸入とを受けたため、その全身状態が改善され、しばらくは安定した状態を保っていた。そして、九月一五日午後一一時ころの安田看護婦からの報告内容も、亡啓一が、胸部=骨折部位の痛みを訴えている、というものであって、該報告を受けた同被告においては、ただちに右看護婦に対して亡啓一に鎮痛剤(インテバン坐薬)を投与するよう指示した。したがって、同被告が亡啓一に対して適切な診療を施用しないまま事態を放置したというようなことはない。
(六) 同2の(六)の事実は、そのうち、①亡啓一が、翌一六日午前零時ころ危篤状態に陥ったこと、②この時、被告赤医師が、その病床に駆けつけ、亡啓一に対して原告ら主張のような処置を施したこと、③それにもかかわらず、亡啓一が同日午前零時三〇分ころ死亡したこと、以上の各点は、これを認めるが、その余の点、すなわち、亡啓一の死因が脾臓破裂による失血死であるとの点は、これを否認する。
亡啓一の死因は、多発性肋骨骨折のために胸郭運動のバランスが崩れ、その結果引き起こされた動揺胸郭によるショック死(外傷性ショック死)である、と考えられる。仮にしからずとしても、亡啓一は動揺胸郭によるショックと脾臓破裂による大量出血とが競合して死亡するに至ったものと考えられる。そうとすると、亡啓一の死因を脾臓破裂による失血死であると断定するのは、正鵠を射たものとは言い難い。
3 同3の冒頭の事実は、これを否認する。
(一) 同3の(一)の事実は、そのうち、交通事故により受傷した救急外来患者の診療にあたる医師に原告主張のごとき注意義務のあることは、一般論としてはこれを争わないが、その余の諸点は、すべてこれを否認する。
(1) 同3の(一)の(1)の事実は、そのうち、亡啓一の初診時に、原告主張の(ア)及び(イ)のような症状があったことは、これを認めるが、その余の諸点はすべて否認する。
被告赤医師は、亡啓一の初診時に、腹部損傷の有無についても十分な診察をした。そして、①亡啓一には腹部外傷を疑わせるような腹部所見がなく、②脈拍はその緊張が良好で、脈拍数も九〇(毎分)を数えるなど、血圧低下を窺わせるような徴候がなかったので、被告赤医師は、亡啓一にみられたこれらの症状・所見に照らし、亡啓一については腹部外傷の疑いが小さい旨診断したのであって、この診断は、初診時の診断としては妥当なものであった。ところで、原告らは、亡啓一が右初診時に左肩から左肩甲骨に至る部位に痛みを訴えていた旨を指摘し、該指摘事実に依拠して、被告赤医師が亡啓一の右の訴えを無視又は軽視したのは同被告の診療上の過誤である旨を強調する。しかしながら、亡啓一が左肩から左肩甲骨に至る部位についての痛みを訴えていたからといって、このような痛みからただちに脾臓損傷を疑わなかった被告赤医師の対応が医師として尽くすべき注意義務を欠いていたものと認めるのは妥当ではない。また、被告赤医師が亡啓一の血圧測定を行わなかった点についても、本件においては初診時に亡啓一の血圧低下を示すような徴候がなかったのに加え、亡啓一が肋骨骨折のために強い痛みを訴えていた関係上、血圧を測定するために同人を仰臥させることは、同人に対して不必要に強い苦痛を強いることになるため、同被告は、この段階での血圧測定を見合わせたのであって、同被告のこの判断もまた医師の裁量の範囲内にあるものといえよう。以上のように、被告赤医師の亡啓一に対する初診時の診察・診断になんらの過失もなかったことは明らかである。
(2) 同3の(一)の(2)の事実は、すべてこれを否認する。
被告赤医師が、その初診時に、亡啓一に対して下した前示のような診断に徴すると、この段階で亡啓一に対して講じられた治療処置はすべて適切・妥当なものであった。原告らの主張は、医師に対して初診時に患者のすべての疾病を発見し、かつこれに対する治療を開始することを要求するものであって、時々刻々と変化する患者の症状を把握しながらこれに対処してゆかなければならない救急医療の実態を看過した不当な主張であるといわざるを得ない。
(二) 同3の(二)の冒頭の事実は、そのうち、①被告赤医師が、亡啓一に対して、経過観察のための入院を指示したこと、②したがって、同被告が経時的に亡啓一の症状の変化を把握し、これに応じて同人に対して適切な治療を施すべき注意義務を負担していたこと、③同被告が、亡啓一を入院させた後、同人の容態が悪化した前記九月一六日午前零時ころまでの間、亡啓一を診察しなかったこと、以上の各点は、これを認めるが、その余の諸点は、これを否認する。
(1) 同3の(二)の(1)の事実は、すべてこれを否認する。
(2) 同3の(二)の(2)の事実は、すべてこれを否認する。
被告赤医師においては、亡啓一本人及びその看護にあたる付添いの家族もしくは病棟勤務の看護婦から亡啓一の症状に変化がみられる旨の報告を受ければ、いつでもただちに診察のできる態勢で、亡啓一の経過観察に臨んでいた。ところが、亡啓一本人及び付添いの家族からは、亡啓一の症状の変化についてなんらの報告もなかったし、また安田看護婦の報告内容に徴すると、亡啓一は、被告赤医師の当初の治療が奏効してその全身状態に改善がみられ、安定した状態を保っているものと認めるのに十分であった。このような状態にあったからこそ、被告赤医師は、亡啓一を診察しなかったにすぎない。ところが、亡啓一は、前記九月一六日午前零時ころ、その容態が急変し、突然危篤状態に陥ったのであって、かかる事態は、それまでの同人の症状の推移からは全く予見し得ないものであった。そうすれば、亡啓一を赤病院に入院させた後における被告赤医師の対応を非難し、同被告に過失があった旨を強調する原告らの主張は明らかに失当であるというのほかはない。
4(一) 同4の(一)の事実は、すべてこれを否認する。
亡啓一の死因は、前述のように動揺胸郭によるショック死である。そして、そのショック状態は、死亡直前の前記九月一六日午前零時ころ、突然発現したものであるから、この経過にかんがみれば、亡啓一を救命し得た蓋然性はなかったものと断ぜざるを得ない。
仮に、亡啓一の死因が脾臓破裂による失血死であったとしても、同人に対し、脾臓摘出手術を行い、これを救命することは、技術的にも時間的にもほとんど不可能であったといわなければならない。なぜならば、亡啓一が脾臓破裂のほかに重篤な多発性肋骨骨折の状態にあり、この骨折に起因して胸郭運動のバランスが崩れ、心肺機能にも異常をきたしていたことは明らかである。かかる状態にある患者に麻酔を施し、開腹手術を敢行することは危険きわまりなく、その死期を早める可能性も大きい。このような患者に対して原告らが主張するような開腹手術を行うことは難事というのほかはない。しかも、仮に、亡啓一を赤病院に入院させた前記九月一五日午後八時三〇分ころから同人が危篤状態となった翌一六日午前零時ころまでの間に、被告赤医師が亡啓一の脾臓破裂を発見していたとしても、赤病院には開腹手術を行うだけの医療スタッフがなく、そのためには、亡啓一を岐阜歯科大学付属村上記念病院に転院させなければならなかった。そうとすると、被告赤医師が亡啓一の脾臓破裂を発見するまでに要する時間、右転院に要する時間、右村上記念病院での手術準備に要する時間等をも考慮にいれて、亡啓一に対する開腹手術の成否を検討すれば、その成功の可能性はきわめて低いものといわざるを得ない。
このように、死因のいかんを問わず、亡啓一を救命し得た蓋然性はきわめて小さいものというのほかはない。
(二) 同4の(二)の事実は、これを否認する。
5 同5の主張は、これを争う。
6(一) 同6の(一)の事実は、このうち亡啓一の死亡に伴う相続関係の点に限ってこれを認めるが、その余の点を争う。
(二) 同6の(二)の主張は、これを争う。
第三証拠《省略》
理由
一 まず、請求原因1の(一)及び同(二)の各事実は、いずれも当事者間に争いのないところである。
二 そして、請求原因2のうちの(一)の事実は当事者間に争いがなく、また、《証拠省略》を総合すれば、交通事故によって受傷した亡啓一が救急車で赤病院に搬入されてから死亡するまでの間の同人の症状の変化と同病院における診療の経過等に関しては、以下1ないし7のような各事実が認められる(なお、以下に説示する諸事実のなかには、事実欄記載のように当事者間に争いのない事実も一部含まれているが、説示の便宜上、特に当該説示の事実が当事者間に争いのないことを明示しないこととする。)。すなわち、
1 赤病院に搬入された際における亡啓一の主なる症状は、(ア)顔面蒼白で冷汗をかく、(イ)胸部の痛みのほかに、左肩から左肩甲骨に至る部位についても痛みを訴える、(ウ)嘔気が認められる、というものであった。
2 亡啓一の診察にあたった被告赤医師は、触診によって、亡啓一にはかなり多数の箇所に肋骨骨折があることを発見した。そして、同被告は、右骨折の部位・程度を明らかにするためのレントゲン撮影を行った結果、亡啓一が多発性肋骨骨折の傷害を受けている旨の診断をした。
3 ついで、被告赤医師は、亡啓一の頭部・胸部・腹部等に異常があるか否かを診断するために、同人に対して若干の発問をするとともに、併せて同人の前示各部位について触診を行った。その際、亡啓一は、前記のように胸部並びに左肩から左肩甲骨に至る部位についての痛みを訴えたが、そのほかに頭部、腹部等についての異状を訴えるようなことはなかった。また、同被告による亡啓一の腹部に対する前示触診によっても、圧痛・腹筋の緊張・腹部膨満というような腹部損傷の存在を疑うに足りる所見はついに見いだせなかった。そして、被告赤医師は、その際における亡啓一の脈拍の状態は、脈拍数が九〇(毎分)を数えたほか、その緊張も良好であったから、このような脈拍の状態に徴して、亡啓一に著しい血圧低下や貧血はないものと判断した。以上のような所見に照らし、同被告は、亡啓一については内臓損傷就中、腹部損傷の疑いはきわめて小さい旨の判断をした。なお、被告赤医師が亡啓一に対して上記のような診察をしていた機会に、外来担当の看護婦が亡啓一の血圧を測定しようと試みたことがあった。しかし、このとき、亡啓一が肋骨骨折による痛みのため側臥位のまま身をかがめていた関係上、同人を仰臥させてその血圧を測定しようとすれば同人が激痛を訴えるであろうことが十分に予測せられた。そこで、右のように亡啓一の内臓損傷の疑いが小さいと考えていた被告赤医師は、亡啓一の苦痛を増大させてまでその血圧を測定するまでもないと判断し、看護婦に対して強いて亡啓一の血圧を測定するようにという趣旨の指示をしなかった。
4 以上のように亡啓一の診察をした被告赤医師は、まず亡啓一の肋骨骨折及び擦過傷に対する治療として若干の薬液注射((ア)打撲に起因する腫脹を抑えるための薬液ベノプラント、(イ)抗生剤ビスタマイシン及び(ウ)鎮痛剤ペンタジンの各注射)を同人に施したうえ、さらに、亡啓一の前示肋骨骨折の程度にかんがみその経過を観察する必要があると判断して、同人に入院方を指示した。そして、同被告は、入院後の亡啓一に対して、酸素吸入と点滴(なお、この点滴にあたっては、(ア)外傷性ショックを予防するためのステロイド剤プレトニンを投与すること、(イ)亡啓一の骨折の状態に徴すると、外傷性気胸などの胸部損傷の存在も否定できないため、このような損傷の存在する場合に備えて止血剤アドナ及びトランサミンを投与すること)とを施用すべき旨を病棟勤務の安田看護婦に指示した。
5 亡啓一は、入院のために病室に搬入される際、ストレッチャー上で若干嘔吐した。ちなみに、この事実は、亡啓一の存命中、ついに被告赤医師に対して報告されないままに終わった。
こうして、亡啓一は、同日午後八時三〇分ころ病室に搬入された。そして、安田看護婦は、被告赤医師の指示に従って、亡啓一に対し、(ア)同八時四五分ころから約二時間にわたって点滴を施用し、さらに、(イ)同九時ころからは酸素吸入をも開始した。
6 以上のような処置が施されたのにもかかわらず、亡啓一の苦痛は治まるどころかかえって亢進を続け、大量の嘔吐さえするような始末であった。しかも、同人は、安静を保っていたのにもかかわらず、その脈拍数が、毎分九四、九六、一〇六と順次増加していった(ただし、これらのことは、被告赤医師に報告されないままに終わった。)。そして、同日午後一一時ころに至って、ようやく安田看護婦は、被告赤医師に対して亡啓一が苦痛を訴えている旨の報告をした。しかし、同被告は、このような報告を受けても亡啓一の病床に赴かず、たやすく、右報告にかかる苦痛が肋骨骨折に起因するものにすぎない旨即断し、鎮痛剤(インテバン坐薬)を投与すべきことを同看護婦に指示するにとどまった。
7 このように、亡啓一は、せっかく赤病院に入院したものの、入院後は、被告赤医師の診察を受けることのないままに時間が経過し、翌九月一六日午前零時ころ、その症状が極度に悪化するに至った。そして、その旨の連絡を受けた被告赤医師が亡啓一の病床に駆けつけた時には、同人は、すでに危篤状態に陥っており、同被告において、人工呼吸を行いながら強心剤と呼吸促進剤とを注射したものの、その効果はなく、同日午前零時三〇分、亡啓一は死亡した。
以上1ないし7の各事実が認められる。《証拠判断省略》
三 そこで、以下に亡啓一の死因原因について検討する。《証拠省略》に証人勾坂馨の証言を総合すると、(一)亡啓一の遺体は、その死亡後間もなく、死因等を明らかにする目的のもとに、当時岐阜大学医学部法医学教室教授であった勾坂馨教授の手によって司法解剖に付され、該司法解剖の結果、①その脾臓が粉砕状に破裂していること、②右損傷のために約一七〇〇CCにのぼる大量の出血(なお、亡啓一の死因を確定するにあたって右一七〇〇CCの出血中に含まれる血液以外の体液の量を考量する必要のないことは、《証拠省略》によって明らかである。)があったこと、以上の二点が明らかとなったこと、③そして、(ア)右の約一七〇〇CCにのぼる出血量は、ヒトを失血死させるに足りる(死亡原因たりうる。)程度の出血量であること、(イ)亡啓一の心内膜に失血死特有の出血が認められ、しかも同人の臓器(ただし、肺を除く。)内には総じて少量の残存血量が認められたにすぎないなど、その屍体には失血死に特徴的な所見が認められたこと、(ウ)他に死亡原因と考えられるような特段の所見を認めることができなかった(肋骨骨折の存在が認められたけれども、それ自体だけで死亡原因とはなり得ないことは明らかであり、また、右骨折の結果、仮に呼吸困難という状態が招来されたとしても、本件においては、該呼吸困難が死亡と結びついたことを窺わせるような特段の所見はない。)こと、(二)前記勾坂教授は、上記(一)の①ないし③の諸点をかれこれ総合・考察した結果、亡啓一の死亡原因が、前記脾臓破裂に起因する失血死であることは明白である旨の断定的な鑑定・判断(以下、この判断を「鑑定意見」ともいう。)をしたこと、以上の事実が認められる。
これに対して、《証拠省略》と証人今西嘉男の証言とによれば、同証人においては、勾坂教授による亡啓一の剖検所見の記載と亡啓一の初診時のレントゲン写真とを主要かつ中心的な資料として亡啓一の死亡原因を検討し、その結果、亡啓一の死亡原因が脾臓破裂による失血死ではなく、動揺胸郭によるショック死(外傷性ショック死)であると考えるのが相当である旨の判断をしたことが認められる。すなわち、右今西証人は、亡啓一には左第一ないし第一〇肋骨に合計一九箇所にのぼる多数の骨折箇所があったことが剖検結果と右レントゲン写真とによって明らかであるとしたうえ、(ア)まず、右レントゲン写真によれば、胸椎にも圧迫骨折が認められる。(イ)そして、このような肋骨及び胸椎にみられる骨折が存在する場合には胸郭の運動は正常を保つことができず、動揺胸郭が起こる。(ウ)しかして、動揺胸郭が起こると、これに引き続いて縦隔動揺・奇異呼吸が起こり、そのために心肺機能に異常をきたし、最後には呼吸不全によるショック死に至ることが多い、として、本件においても、亡啓一は上記のような経緯をたどって死亡するに至った可能性が高い旨を指摘する。
しかし、《証拠省略》に右勾坂証人の証言を総合すれば、①今西証人が前記レントゲン写真からその存在が読影できるとして、同証人の前示判断の前提とした亡啓一の胸椎の圧迫骨折は、前記解剖の結果その存在を認めることができなかったこと(そうとすると、今西証人の前記見解は、すでにその依拠した前提そのものが疑わしいこととなる。)、②また、肺の損傷を伴わない多発性肋骨骨折に起因する呼吸障害は比較的容易(受傷後三日以内)に回復する例が多いこと、以上の二点が優に認められる。のみならず、③《証拠省略》と今西証人の証言とを仔細に検討してみても、同証人が、亡啓一に約一七〇〇CCという大量の出血があったことや、亡啓一には失血死に特徴的な前説示のような各所見が認められたということについて十分な顧慮・検討を加えたものとはとうてい認めがたい。しかして、以上①ないし③に指摘したような事実に照らしてみれば、《証拠省略》及び今西証人の証言は、いまだこれに十分な信頼をおくことができないものといわなければならず、これらの証拠は、ひっきょう、亡啓一の死亡原因が脾臓破裂による失血死であるとする前記鑑定意見の結論を左右するには足りないものであると評価せざるを得ない。そうとすれば、《証拠省略》及び勾坂証人の証言によって、亡啓一が、脾臓破裂に起因する失血によって死亡したことを優に肯認することができるものというをうべく、他にこの認定・判断を左右するに足りるような的確な証拠はない。
四 それでは、亡啓一が前記二で認定・説示したような経過をたどって前記九月一六日午前零時三〇分脾臓破裂に起因する失血により死亡したこととの関係において、被告赤医師の側には、果たして原告らの主張しているような診療行為上の過失があったであろうか。以下、この点について検討をすすめよう。
《証拠省略》によれば、交通事故の受傷患者に対して施用すべき現代医療の一般的水準に依拠した救急医療のあり方、とりわけ、当該患者の傷害内容が脾臓損傷である場合における同傷害の診断と治療に関しては、以下のような対応をすべきことがその担当医師に対して要求されていることは明らかといわなければならない。すなわち、
1 交通事故等により受傷した救急外来患者の診察にあたっては、創や四肢の骨折に目を奪われて、そのために頭部・胸部・腹部の損傷を見逃すようなことがないように留意すべきである。
2 腹部損傷はその初期症状が必ずしも著明でないことも多く、また、とくに多発性外傷患者の場合にあっては、腹部損傷に起因する症状が他の損傷に粉飾されて不明瞭となることもある。このため、腹部損傷の存在をその初診時に確知することが因難な場合も決して少なくはない。
3 そこで、仮に腹部損傷を疑わせるような所見がその初診時には乏しい場合であっても、安易にその可能性を否定することなく、経済的な診察を繰り返すことが必要である。そして、その診察にあたっては、以下の各点を注意すべきである。
(一) 血圧、脈拍、呼吸状態、呼吸数等のいわゆるバイタルサインの正確な把握に努めるべきことは担当医師に対する初歩的、基本的な要請事項である。そして、輸液や輸血などの処置にもかかわらず、当該患者に進行性の血圧低下が認められるような場合には、腹腔内出血を疑うべきことはもちろんであり、このような場合にあっては、十分な量の輸液や輸血を施すことによって患者の全身状態が悪化するのを防止しながら、開腹手術に踏みきらねばならない。なお、最高血圧が八〇mmHg以下となり、脈拍数が一二〇(毎分)以上となった場合は、患者はすでに出血性ショック状態にあるものと判断されるから、このような場合にあっては、ただちにショック離脱のための方策を講ずることが必要である。
(二) 腹部損傷患者にあっては、その腹部に(ア)圧痛、(イ)腹筋の緊張(デファレンス)、(ウ)ブルンベルグ症状、(エ)腹部膨満、等の所見がみられるので、このような腹部所見の有無を繰り返し診察することが重要である。
(三) その他、腹部損傷に伴う通常の臨床所見としては、(ア)顔色蒼白・冷汗等の貧血症状、(イ)腹膜刺激症状として発現する嘔吐・嘔気・腹痛等が考えられる。そして、さらに、脾臓損傷の場合には、右(ア)、(イ)の所見のほか、(ウ)同損傷に特異的な所見ともいうべきKehr's sign(左肩付近の疼痛)の存在することが多いため、このようなKehr's signの有無についても十分に留意することが肝要である。
(四) これら臨床所見の消長を経時的に見極めると同時に、さらに、腹腔穿刺(ちなみに、脾臓損傷による出血の存在は、腹腔穿刺によって一〇〇パーセント近く確認できる。)、腹腔洗浄法、レントゲン撮影、CTスキャン等の補助的診断方法をも施すことによって、確定診断に至り得る。
4 脾臓損傷などによる腹腔内出血に対する治療方法は、開腹手術による止血(脾臓損傷についていえば脾臓摘出による止血)が唯一無二のものである。右開腹手術は輸液や輸血によって全身状態の改善を図ったうえでこれを行うことが望ましいが、全身状態の改善にとらわれるのあまり、その手術時期を失しないように留意すべきである。全身状態の改善を図ることができないまま開腹手術を行わざるを得ないような場合(すなわち、開腹手術自体がショック離脱の方法となる場合)も決して少なくはないという点において、脾臓損傷などによる腹腔内出血に対する止血術としての開腹手術については、一般の選択的手術とは異った判断が要求される。
以上のような諸点が認められるから、救急外来患者の診療にあたる医師には前指摘の諸点に配意しながら該診療に臨むべき注意義務があるものと解すべきである。
そこで、前指摘のような現代医療の一般的・水準的な知見・指摘に照らしながら、前記二において認定・説示した被告赤医師による本件診療行為の当否について判断する。
まず、初診時における被告赤医師の診療行偽の当否について検討してみると、同被告においては、①亡啓一から腹痛の訴えがなかったのに加えて、同被告の触診によっても前記3の(二)指摘のような腹部所見がなかったこと、②亡啓一の脈拍は九〇(毎分)を数え、その緊張状態も良好であったこと、の故に、初診時の段階では、亡啓一に腹部損傷、就中、脾臓損傷のあることを疑わなかったことは前説示のとおりである。ところで、同被告が、右のような診断をするにあたって、亡啓一の血圧測定を行わなかったばかりでなく、また亡啓一の訴える左肩から左肩甲骨に至る部位の痛みについてもこれに十分な検討を加えなかったことは、前説示のとおりであるから、同被告の右の診察には、その限りにおいて、十全でない点のあったことは明らかである。しかし、救急外来患者の診察にあたる医師に対して、すでにその初診時において完全な診察と正確な診断をなすべきことを要求するのは必ずしも相当ではない。一般に、腹部損傷はその初期症状が著名でないために初診時にその旨の診断を下すことが困難な場合も決して少なくないことは、さきに右2において説示したとおりであるから、この点をも併せ考察すると、被告赤医師が、右①及び②のような所見のもとに、その初診時において亡啓一に腹部損傷、就中、脾臓破裂の傷害のあることを疑わなかったからといって、同被告には該診断について医師として尽くすべき注意義務を怠った過失があるとまではにわかに断定しがたいものというべきである。そして、被告赤医師が亡啓一を初めて診察した際に下した右の診断(すなわち、同被告が、その初診時には亡啓一に腹部損傷、就中、脾臓破裂の傷害のあることを疑っていなかったこと)を前提とすれば、同被告が初診時に亡啓一に対して施した前示のような処置や投薬は、現代医療の水準に照らしても、医師の裁量の範囲内のものとして是認することのできるものということができる(このことは《証拠省略》によって明らかである。)から、右処置や投薬について、同被告に医師として尽くすべき注意義務を怠った過失があるということもできない。そして、本件のあらゆる証拠を精査してみても、初診時における被告赤医師の診断や治療に医師として尽くすべき注意義務を怠った過失のあることを肯認するに足りるような証拠を発見することができない。
ついで、亡啓一を経過観察のために赤病院に入院させた時点以降における被告赤医師の行為の当否について検討すると、同被告は、亡啓一を同病院に入院させた前記九月一五日午後八時三〇分ころから、同人が危篤状態に陥った翌一六日午前零時ころまでの約三時間半の間、一回たりとも亡啓一の診察に赴いたことがなく、また、右3の(一)ないし(四)に挙げたような当然に履践すべき経過観察上の処置・検査の点についても、本件においては、わずかに安田看護婦の手によって亡啓一の脈拍が三回検査された(なお、該脈拍検査の結果、亡啓一の脈拍数が、安静を保っていながら、毎分九四、九六、一〇六と順次増加するという異常を示していることが判明したにもかかわらず、この異常は、経過観察上全く顧慮されずに終った。)ことがあるのにとどまり、その余の検査がなんら行われていないことは、すでに認定・説示したとおりである。しかして、被告赤医師のこのような診療態度が医師として尽くすべき注意義務を怠るものであることは、右3の(一)ないし(四)に認定・説示したところに照らして明らかというのほかはなく、結局、同被告には、亡啓一の経過観察について医師として尽くすべき右3の(一)ないし(四)のごとき処置・診察を怠った過失があったものというべきである。
もっとも、被告らは「本件当時、赤病院において、入院患者本人又は付添看護人・看護婦らから患者の症状に変化がみられる旨の報告あった場合には、ただちに診察を行うことのできる態勢がとられていた。被告赤医師もまたこのような態勢のもとに亡啓一の経過観察に臨んだものである。ところが、亡啓一の入院後同人が危篤状態に陥るまでの間、その異常や症状の変化については同被告のもとにはなんらの報告ももたらされず、同被告としては亡啓一の全身状態が改善され安定を保っているものと考えていた。したがって、同被告が亡啓一の診察に臨まなかったとしても同被告には責むべき点がない。」旨主張し、同被告も、その本人尋問において、その旨の供述をする。しかし、同被告が右主張のような姿勢で亡啓一の経過観察にあたっていたこと自体、すでに医師としての基本的注意義務を懈怠するものであって、このことは、右3の(一)ないし(四)に説示したところに徴して明らかである。のみならず、本件においては、同被告が右主張のような亡啓一の経過観察に臨んでいたからこそ、同被告において前認定のごとき亡啓一の症状悪化(嘔吐の事実、苦痛の亢進、脈拍数の増加)の事実を把握できなかったのであるから、この点に想いを致せば、被告らの前記主張が失当であることはきわめて明らかであろう。
以上のとおりであって、亡啓一を入院させてから同人が危篤状態に陥るまで一回もその診察を行わなかった被告赤医師には患者の経過観察上医師が尽くすべき前示の注意義務を怠った過失があるものと断ずるのほかはなく、本件のあらゆる証拠を精査してみても右認定・判断を左右するに足りるような証拠は発見できない。
五 それでは、仮に、本件において、被告赤医師が患者の経過観察上医師の尽くすべき注意義務を懈怠することなく亡啓一の経過観察にあたっていたとすれば、果たして同人を救命することができたであろうか。以下、この点について検討をすすめる。
脾臓損傷に対する治療方法としては開腹手術による止血(脾臓摘出手術)が唯一無二のものであることは、すでに説示したとおりである。そして、《証拠省略》を総合すれば、(ア)脾臓は成人の生存に不可欠な臓器ではないこと、(イ)本件において、もしもその摘出によって止血に成功することができておれば、亡啓一を救命することができたはずであること、以上の二点を肯認することができる。しからば、本件において、もしも、亡啓一に対する脾臓摘出手術を行っていたとすれば、その成功の蓋然性はどのようなものであったろうか。《証拠省略》を総合すれば、以下1ないし3の各事実が認められる。すなわち、
1 亡啓一の脾臓は粉砕状に破裂しておって、その損傷が激しく、右損傷からは受傷後約二時間以内に相当多量の出血が生じたであろうことが推測できるのにもかかわらず、その初期症状は必ずしも著明ではなかった。
2 仮に、被告赤医師において亡啓一に対する十分な経過観察を行い、その結果、脾臓損傷を発見することができたとしても、赤病院では開腹手術を実施するに足りる医療スタッフがそろわず、亡啓一をそのような手術の可能な最寄り病院である岐阜歯科大学付属記念村上病院に転送したうえ、同病院で右手術を行ってもらうほかはないところ、医師としての標準的な識見・注意力を有する医師が本件のような状況のもとで亡啓一の脾臓損傷を発見するまでに要するであろう時間、右転送に要する時間、右村上病院での手術準備に要する時間等の点を考慮すると、果たして、本件において、亡啓一が赤病院に入院してから危篤状態に陥るまでのわずか約三時間半以内に亡啓一の開腹手術に着手できたか否かについては、そのいずれともにわかに断定しがたい。
3 仮に、亡啓一の脾臓損傷が発見でき、しかも右発見後大量の輸液や輸血によって全身状態の改善を図りながら開腹手術が開始されるに至ったとしても、それが亡啓一の受傷時から相当時分を経た後とならざるを得ないであろうことは右1及び2に指摘したところに徴して明らかというべく、この段階で想定される亡啓一の全身状態(とくに、大量の出血による血圧低下と外発性肋骨骨折による呼吸困難の状態)のもとにおいては、亡啓一に所要の麻酔を施すことによって同人を死亡させるに至る可能性も否定できない。
以上1ないし3の各事実が認められる。《証拠判断省略》そうとすると、本件においては、亡啓一に対する脾臓摘出手術の成功の可能性が相当高かったということを認めるに足りるような十分な証跡はないものというのほかはなく、ひっきょう、脾臓摘出手術によって亡啓一が救命されたであろうことを認定することは困難であるといわざるを得ない。その他、本件の全証拠を精査してみても、もしも被告赤医師が医師として尽くすべき注意義務を懈怠することなく亡啓一の経過観察にあたっていたとすれば、同人を救命し得たであろうことを肯認するに足りるような証拠はこれを発見することができない。
六 以上にみてきたように、本件においては、仮に、被告赤医師が医師として尽くすべき注意義務を懈怠することなく亡啓一の経過観察にあたったとすれば、その結果亡啓一を救命することができたはずであるというがごとき事実関係は、これを認定するに足りないものの、同被告は、亡啓一の経過観察を目的として同人を赤病院に入院させておきながら、その入院後、医師が経過観察上行うべき前(第四項の3の(一)ないし(四))説示のごとき診察等を全く行わず、結局、亡啓一に脾臓損傷の傷害のあることさえ発見できないまま、亡啓一をして脾臓破裂に起因する失血死という転帰をたどらせたものであって、同被告は、ひっきょう、亡啓一に対する経過観察自体を懈怠したものというべく、その過失は重大であるといわねばならない。しかして、以下に認定・説示するような諸般の事情を総合考量すると、同被告の右のような懈怠行為の結果侵害された亡啓一の利益ないし権利は決して軽視することができず、被告赤医師は、その違法行為の故に亡啓一が味わわざるを得なかった精神的苦痛を慰藉するに足りる相当な慰藉料額を支払うべき義務を負うものというべきである。以下、この点について説明しよう。
赤病院に搬入された当初から、亡啓一には、(ア)顔色蒼白、冷汗、(イ)左肩から左肩甲骨に至る部位の痛み、(ウ)嘔気、などの所見が認められたばかりでなく、入院後も、亡啓一が(エ)嘔吐、(オ)苦痛の亢進、(カ)脈拍数の増加というような異常状況を現わしたことは、すでに認定・説示したとおりである。これらの事実に加え、《証拠省略》によれば、亡啓一には一七〇〇CCにのぼる大量の出血があったため、その死亡に至る以前の段階で、右大量出血に起因する(キ)進行性の血圧低下、(ク)腹筋緊張・腹部膨満等の腹部所見、が発現していたであろうことが優に肯認できる。《証拠判断省略》そうとすれば、本件において、もしも被告赤医師が医師として尽くすべき注意義務を懈怠することなく亡啓一の経過観察にあたっていたとすれば、亡啓一が死亡する以前に右(ア)ないし(ク)記載のごとき所見を把握し、これに基づいてその脾臓損傷の診断を下すことができたはずのものというべきであろう。そして、脾臓損傷が発見されていたならば、これに対する唯一無二の治療手段である開腹手術の実施に向けて全身状態の維持・改善を図りつつその準備が進められたであろうこと、そして、しかも、右手術が行われておれば、亡啓一が救命された可能性も絶無ではないこと、これらの事実はすでに認定・説示したところに徴して明らかである。以上の事実を総合すると、亡啓一は、被告赤医師の不十分な診療行為(経過観察の懈怠)の故に救命の可能性を奪われたままなすすべもなく無為のうちに死の転帰をたどらざるを得なかったものというべく、ひっきょう、亡啓一は同被告の前示診療懈怠の故に患者が医療機関から受けることのできる相当な医療を受けるべき機会・利益を完全に失ったものであって、右のような利益はもとより法的保護に値するものと認めるのが相当である。
したがって、被告赤医師の前説示のような過失ある診療行為が亡啓一に対する不法行為を構成することは明らかであり、同被告は、右のような過失ある診療行為の故に亡啓一が味わわされた精神的苦痛を慰藉するに足りる相当な慰藉料を支払うべき義務を免れることができない。
そこで、右慰藉料の額について考えてみると、被告赤医師の診療姿勢や亡啓一が侵害された利益など上来説示の諸事情をあれこれ総合考量すると、被告赤医師が亡啓一に対して支払うべきであった慰藉料額は、金一五〇万円が相当であると認められる。
七1 しかして、請求原因1の(一)の事実が当事者間に争いのないことはすでに説示したとおりであり、また、同6の(一)の事実のうちの亡啓一の死亡に伴う相続に関する部分も当事者間に争いがないので、亡啓一が、昭和五五年九月一六日に死亡したことによって、原告らは、亡啓一の被告赤医師に対する前説示の慰藉料請求権をその法定相続分に応じて各三分の一ずつの割合(金五〇万円ずつ)で相続・承継したことが明らかである。
2 原告らは、被告赤医師の不法行為による損害の賠償を請求して本件訴訟を提起したものであるところ、原告らが、本訴の提起・追行方を弁護士牛久保秀樹に委任したことは、本件記録に編綴されている原告ら名義の訴訟委任状によって明らかである。しかして、原告らは、原告らが右牛久保弁護士に支払うべき弁護士報酬金各金六三万円ずつ(合計金一八九万円)もまた被告赤医師の不法行為と相当因果関係のある損害であるとして、同被告に対しその賠償方を請求をするので検討するのに、本件事案の性質、右認容額など諸般の事情を総合考量すると、原告らが牛久保弁護士に支払うべき弁護士報酬のうち、各原告ごとに金一〇万円ずつ(合計金三〇万円)が被告赤医師の前示不法行為と相当因果関係のある損害と認めるのが相当である。
八 よって、被告赤医師は、原告らに対し、各原告ごとにその不法行為に基づく損害賠償として、第七項の1及び2に認定した金員の合計額金六〇万円を支払うべき義務を免れないものであることが明らかである。
九 以上のとおりであるから、原告らの本訴請求は、そのうち、被告赤医師及びその使用者として民法七一五条一項の責任を免れない被告法人の両名に対し、各原告ごとに金六〇万円ずつとこれに対する本件訴状副本が被告らに送達された日の翌日であること記録上明白な昭和五七年四月二五日からその支払いずみに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金との連帯支払方を求めている限度ではその理由があるので、これを正当として認容するが、これを超える部分は、その理由がないのでこれを失当として棄却することとし、なお、訴訟費用の負担については民訴法八九条・九二条本文を、仮執行の宣言については同法一九六条一項を、それぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 服部正明 裁判官 高橋勝男 綿引万里子)