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岡山地方裁判所 平成元年(行ウ)3号 判決 1991年10月29日

原告

森本光子

右訴訟代理人弁護士

松井健二

被告

社会保険庁長官北郷勲夫

右指定代理人

稲葉一人

斎藤俊英

横山紫穂

毛利甫

近藤英幸

中島誠

五明治

鳥山幸男

殿村貴央

久本恵弘

高谷佳美

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告が原告に対し、昭和六三年七月七日付けでした厚生年金保険法による遺族年金を支給しない旨の裁定を取り消す。

第二事案の概要

本件は、厚生年金保険の被保険者であった者の内縁の妻である原告が、遺族厚生年金不支給処分の取り消しを求めている事案である。

一  争いのない事実

1  乙井太郎(大正三年四月二一日生、以下「乙井」という。)は、もと厚生年金保険の被保険者であったが、昭和六三年二月二五日死亡した。

2  乙井は、訴外乙井二三子(以下「二三子」という。)と婚姻していた。

3  原告(昭和二年七月二五日生)は、昭和三三年八月頃、乙井と知り合い、その後乙井は、二三子と法律上の離婚をしないまま、原告と内縁関係に入り(重婚的内縁関係)、右内縁関係は乙井の死亡に至るまで継続した。

4  原告は、昭和六三年三月、厚生年金保険法(以下単に「法」という。)三三条に基づき、乙井の配偶者として遺族厚生年金(以下「遺族年金」という。)の支給裁定を請求したが、被告は、同年七月七日、乙井には戸籍上の妻二三子がおり、その法律婚が形骸化していないため、法五九条一項の遺族に該当しないことを理由として遺族年金を支給しない旨の裁定(以下「本件裁定」という。)をした。原告は、本件裁定を不服として、岡山県社会保険審査官に審査請求をしたが、同年一一月二九日、右審査請求棄却の決定が下された。原告は更に、同年一二月二七日、社会保険審査会に再審請求をしたが、三か月を経過するも裁決をしていない。

二  争点

争点は、原告が厚生年金保険法五九条一項にいう「配偶者」に該当するか否かである。

第三争点に対する判断

一  重婚的内縁関係者と遺族年金の受給権

被保険者又は被保険者であった者が死亡したとき、同人によって生計を維持されていた配偶者は、遺族年金の受給権者となり(法五八条、五九条)、また右配偶者には、被保険者又は被保険者であった者と事実上婚姻関係と同様の関係にあった者も含まれる(法三条二項)のであるが、法律上の婚姻関係を結び、配偶者のある被保険者又は被保険者であった者が、重ねて他の者と事実上の婚姻関係にある場合(重婚的内縁関係)については、民法が法律婚主義を採用していること、婚姻に関する社会の倫理観、評価に照らし、原則として法律上の婚姻関係を優先し、戸籍の届出に係る配偶者が法五九条一項に規定するところの「配偶者」に該当するものと解すべきである。しかし、被保険者又は被保険者であった者の遺族の生活の安定と福祉の向上に寄与するという遺族年金の制度目的(法一条)に鑑みると、法律上の婚姻関係が既にその実体を失って形骸化し、かつ、この状態が固定化していて、近い将来解消される見込みのない状況にあり、当該重婚的内縁関係が、法律上の配偶者のない者が内縁的配偶者を有する(法三条二項)のと実質的に同視できるような場合には、もはや法律上の右配偶者は、右条項にいうところの受給権者たる「配偶者」には該当せず、重婚的内縁関係にある者が右「配偶者」として遺族年金の受給権を有するものと解すべきである。

二  乙井と二三子の婚姻関係の状態

1  乙井と二三子は、昭和一三年一二月一五日婚姻し、両名の間に昭和一三年一二月三日長女甲子が、昭和一七年一月二二日長男甲介が、昭和二一年一月一日二女乙子がそれぞれ生まれた(<証拠略>)。

2  乙井と二三子及びその家族は、(住所略)(住所表示変更後の表示)にある家屋に同居していたが(<証拠略>)、乙井は、昭和三〇年九月二一日、右住所地に旭東布帛株式会社(その後、昭和四一年五月一日、株式会社大東貿と商号変更、以下「会社」という。)を設立し(<証拠略>)、右土地の国道二号線沿い部分にある事務所とその裏の工場を使用して、ブラウスや作業着の製造、販売をしていたが、実体は乙井の個人企業であり、右工場の裏には、右自宅があった(<証拠略>)。

3  ところで、原告は、訴外乙田乙夫(以下「訴外乙田」という。)と婚姻していたが、原告にも一斑の責任がある訴外乙田の借金が原因で、訴外乙田と別居していた昭和三三年ごろ、乙井と知り合って、男女関係を持ち、昭和三五、六年ごろには、(住所略)の二階建の借家に移り、その一階を喫茶店にして、営業をするようになった。そして、乙井は、そこへ通ってきては、原告と男女関係を続けていたが、もともと、乙井は、金銭には細かい人物であって、喫茶店の売上は乙井が持ち帰り、原告には、毎月、喫茶店の女子従業員給料の倍額程度の手当てを渡していたに過ぎない。その間に、乙井は、原告に対し、訴外乙田と離婚するように求め、訴外乙田の負債五五万円を立て替えて支払い、そこで、原告は、昭和三七年八月六日、訴外乙田と協議離婚をした(<証拠略>)。

右の事実のほか、その後右喫茶店の営業権を他に売却した代金を乙井が取得している事実(原告)によれば、右借家の賃貸や喫茶店の開業のための資金は乙井が出捐したものであることが推認でき、また、乙井と原告の関係は、当時は、互いに愛情と信頼によって結ばれた関係ではなく、乙井にとって原告は男女関係を求めるだけの者であり、原告にとって乙井は主として生活の安定を図ってくれる者に過ぎなかったことが推認できる。

その後、乙井と原告は、昭和四二年五月から(住所略)で同居し、昭和四五年六月に、乙井は、(住所略)の土地を購入し、昭和四六年二月にその地上に家を建てて、これを原告との共有(乙井の持分は四分の三、原告の持分は四分の一)とし、死亡するまで同所で原告と同居していた(<証拠略>)。

4  右のような乙井と原告の関係は、やがて二三子の知るところとなり、乙井は、気まずくなって、昭和三九年ごろ、二三子や子らを自宅に置き、自ら家を出て、家族と別居した。しかし、前認定のように金銭に細かいはずの乙井は、別居するに際してはもとより、その後も同人が所有する書画類や系図は自宅に置いたままであった。そして、乙井は、別居後も、用件のある都度、自宅に帰っては二三子に会っており、その頻度は殆ど毎日である時期もあったが、そのうち、乙井と共に会社の業務に携わっていた長男甲介が会社を退社して、代わって原告が会社の業務に関与するようになって、乙井と原告が共にいる時間の多くなった昭和五六、七年ごろを境に、乙井は、二三子に会わなくなった(<証拠略>)。

5  乙井は、別居直後から、二三子に対し、毎月継続して、月額一〇万円を自ら手渡しており、二三子ら家族の生活費としては、これで特別不自由はなかった。その後、昭和五六年一一月(これは、ほぼ原告が会社の業務に関与するようになったころと一致する)からは、これが減額され、月額五万円が毎月、二三子の銀行口座に振込まれ、時には、長男を介して二三子に渡されることもあったが、当時、三人の子どもたちは、それぞれ成人して、結婚するなど独立しており、自宅で長男あるいは二女と同居し、既に厚生年金の受給権者でもあった二三子としては、右減額された送金でも、とりたてて生活に困窮するということはなかった。こうして乙井の送金は昭和五七年一一月まで続いた(<証拠略>)。

6  他方、原告は、昭和五六、七年ごろから、それまで乙井の長男の妻がしていた会社の会計のほか会社の業務に携わり、懸命に働いた。しかし、会社の業績は、昭和五七年以降悪化し、昭和六一年七月三一日には、手形の不渡りを出して事実上倒産し、本店を盛岡市に移していた関係から盛岡地方裁判所で、同年一〇月二四日、破産宣告を受け、昭和六三年六月三日、財団(ママ)不足による破産廃止決定が確定した。右会社の倒産後、乙井の負債整理のため、二三子が住んでいた自宅は売却され、二三子はここを出て、その後は親戚や二女の許に身を寄せていて、特別の資産があるわけでもなく、収入は年金と二女から貰う孫の子守賃のほかにはない。しかし一方、原告は、会社の倒産により、なにがしかの個人の負債を負うに至ったかもしれないが、既に乙井から昭和五六年八月に(これも原告が会社の業務に関与するようになったころとほぼ一致する)、前記岡山市円山の土地と建物の乙井の持分の贈与を受け、これをもって負債整理に当てることができたものであり、また原告の才覚によるところが大きいとしても、原告は、昭和六二年一二月から、別会社(有限会社常磐)を興し、倒産した会社の機械や得意先等を利用して、会社と全く同種の業務を行っている(<証拠略>)。

7  その時期は不明であるが、乙井は、一度だけ、なんら記入のない離婚届用紙を二三子に渡したことがあるが、二三子は、しばらくしてこれを捨てた。しかし、その後、乙井から二三子に対し、右離婚届けについて催促したり、問い合わせるようなことはなく、そのままとなっていた。大正五年生まれの二三子としては、子どもたちのことを考え、また時が経てば乙井も二三子の許に帰ってくるであろうと考えて、乙井と離婚する意思はなかったし、両名が互いにその婚姻関係を清算するべく話し合ったことはなく、それを働き掛ける人もなく、ただ月日だけが経過していった。むしろ、乙井は、会社が倒産した直後の昭和六一年八月、別居生活の解消について二三子と話し合ったことがある。しかし、その時は、乙井が「いまさら帰るわけにもいかないか」というようなことをいって、結論が出ないままとなった(<証拠略>)。

8  乙井は、当時七二歳の老齢であり(<証拠略>)、会社の倒産直後ごろは、病院に入院していたこともあり(原告)、これに右6、7の認定事実を総合すると、乙井が二三子を訪ねた目的は、会社の倒産によって、二三子が居住する自宅の敷地、建物を手放さなければならなくなることについての相談もあるにはあったが、同時に、会社が倒産し、体調も悪くて気弱になった乙井が、自分や二三子(当時七〇歳)の老い先のことに思いを巡らし、二三子との復縁を希望し、これを打診することにあったこと、しかし、二三子とすれば、予想どおりの結果であるとはいえ、乙井と原告との関係がきちんと清算されておらず、また長年にわたる乙井と原告の不貞によって耐えてきた二三子の苦痛に比して、乙井のこの希望はあまりにも得手勝手であるため、二三子において即座に受け入れることを躊躇したことが推認できる。

原告の供述のうち、以上の各認定に反する部分は、前掲の各証拠と対比して直ちには採用できない。

三  乙井と二三子の婚姻関係の形骸化等の有無

右二認定の事実等をもとに、乙井と二三子の婚姻関係が、先に説示したように、乙井の死亡当時、既に形骸化していたなどの状況にあったか否かについて検討する。

前二認定の事実によれば、なるほど乙井と二三子は、昭和三九年から乙井が死亡した昭和六三年二月二五日までの約二四年間別居し、乙井は、一度だけではあるが離婚届の用紙を二三子に渡したことがある。

しかし、同じく前二認定の事実によれば、乙井は、同人が大切にしていたはずの物を自宅に残したままであって、別居の間、少なくとも原告が二三子の自宅と同じ敷地内にある会社の事務所等に出社して会社の業務に関与するようになる昭和五六、七年ごろまでは、乙井と二三子の間には、細々ではあっても交流があり、また、会社に勤める長男を介して、互いの様子を知ることができたのであり、乙井は、金銭に細かい性格であったが、会社の経営状態が次第に悪化していく昭和五六年一一月までは、二三子にとって必要な最小限の生活費相当の金銭を同女に送っており、右離婚届の用紙も何ら記入のないもので、乙井は、これが二三子から返送されないまま放置していたばかりか、昭和六一年八月には、二三子に対し復縁を打診しているというのである。これに対するに、原告と乙井の関係は、そもそも、乙井と二三子が離婚して原告と乙井が婚姻することを前提に始まったものではなく、原告が供述するように、仮にその後、乙井が原告と婚姻をするといい、二三子との離婚について専門家の意見を聴取したことがあったとしても、乙井の右二三子に対する態度と併せ考えると、乙井の右発言や行動は、原告の意を迎えるべくなされた可能性もあり、これが乙井の真意にでたものであるとするには疑問がある。さらに、乙井は、原告に不動産を贈与しており、また、昭和五五年三月五日、同人の財産を原告に包括遺贈することなどを内容とする公正証書遺言をしているが(<証拠略>)、これらはやはり、乙井が主として原告との関係を維持するために行ったものであるほか、原告との同居中、原告が乙井の世話をすること、原告が、乙井の兄の死亡後、乙井が引き取った乙井の実母を、三か月後に死亡するまで看護した(原告)という原告の労苦に報いる趣旨も含まれていたものと解する余地がある。

そうすると、乙井が二三子と離婚するという確定的な意思をもっていたということはできず、乙井と二三子との婚姻関係が、乙井の死亡当時において、その実体を失って形骸化しており、その状態が固定していたということはできず、原告の主張に沿う趣旨の同人の供述は前記のとおり採用できず、他に乙井と二三子の婚姻関係が形骸化している等の事実を認めるに足りる採用はない。

四  結論

以上のとおりであれば、先に説示したところから、原告の裁定請求に対し、乙井と二三子の婚姻関係は形骸化しておらず、したがって原告は法五九条一項所定の「遺族」には該当しないとして、原告に乙井の遺族年金を支給をしないとした被告の本件裁定は適法である。

よって、原告の本件請求を棄却し、訴訟費用の負担につき行訴法七条、民訴法八九条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 梶本俊明 裁判官 岩谷憲一 裁判官 下村眞美)

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