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岡山地方裁判所 平成10年(ワ)70号 判決 2000年10月11日

原告

甲野太郎

右法定代理人親権者母

丙山春子こと乙山春子

原告

丙山春子こと乙山春子

右原告両名訴訟代理人弁護士

竹内俊一

鴨崎多久巳

被告

岡山市

右代表者市長

萩原誠司

右訴訟代理人弁護士

服部忠文

森脇正

右訴訟復代理人弁護士

佐々木基彰

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告は、原告甲野太郎(以下「原告太郎」という。)に対し、一五〇〇万円、原告丙山春子こと乙山春子(以下「原告春子」という。)に対し、五〇〇万円及びこれらに対する平成九年三月三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  被告

1  主文同旨

2  仮執行免脱宣言

第二  事案の概要

一  本件は、二歳のころ、右精巣摘出手術を受けた原告太郎が、平成九年三月三日、左精巣の痛みを感じて被告の開設する総合病院岡山市立市民病院(以下「被告病院」という。)を訪れて診察を受けた際、原告太郎を診察した被告病院泌尿器科医師である難波克一(以下「難波医師」という。)は、原告太郎の症状として精巣捻転症を疑い、精巣(睾丸)が壊死に至る前に精巣を固定する手術又は診断的開創手術を行い、精巣の壊死を回避する処置をとるべき注意義務を負っていたにもかかわらず、これを怠った結果、原告太郎は精巣を摘出せざるを得なくなったとして、原告らが、被告に対し、不法行為(民法七一五条)又は診療契約上の債務不履行に基づき、損害賠償(一部請求。附帯請求は、不法行為日又は債務不履行日である平成九年三月三日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金)を求めた事案である。

二  争いのない事実<省略>

三  争点及び争点に関する当事者の主張<省略>

第三  争点に対する判断

一  前記争いのない事実、証拠(甲一ないし二五、乙一ないし二四〔枝番を含む。〕、証人難波克一、同公文裕巳)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

1  経過

(一) 原告太郎は、昭和六〇年六月九日生まれの男子であるが、二歳のころ、右精巣捻転症のため、被告病院で手術を受け、右精巣を摘出した。

(二) 原告太郎は、平成九年三月三日午前四時ころ、左陰嚢部に痛みを感じ、排尿の際にも痛みがあり、その後朝まで三ないし四回排尿したが、残尿感はなく、嘔吐があった。

(三) 原告太郎は、被告病院に到着したとき、歩行は可能であり、一人でベッドに行って、自分で寝て看護婦の指示により診察準備をすることができ、全身状態は良好であった。

(四) 原告太郎は、まず、小児科を受診して市場医師の診察を受けたところ、市場医師は、本件症状は精巣の炎症が原因と考えられるが、嘔吐との関係が不明であるとして入院を決定し、その後、原告太郎は、市場医師の紹介により泌尿器科の診療を受けた。

被告病院泌尿器科の医師は難波医師と棚橋医師の二人であり、本件当時は、難波医師が月曜日、水曜日、金曜日の外来を、棚橋医師が火曜日及び木曜日の外来を担当し、原則として初診日に診察した患者を引き続いて担当していた。

(五) 難波医師は、同日午前一一時ころ、原告太郎を診察し、右精巣捻転症により右精巣を除去していることを原告春子から聞き、これを念頭に置いて触診したところ、右陰嚢皮膚は正常で、その中に既に摘出されているため、右精巣及び右精巣上体は触診されず、左陰嚢皮膚は、発赤及び浮腫はなく、その中にある左精巣の大きさは正常で、自発痛及び圧痛はなく、精巣と精巣上体は、十分に区別して触知され、周辺の組織と癒着せず、上下に十分に運動し、上下運動により疼痛は改善され、左精巣上体の頭部及び尾部は肥厚し、硬度を増し、圧痛があった。

原告太郎の体温は、外来時三七度、入院時37.4度であり、排尿痛、頻尿などの尿路刺激徴候があり、検尿所見は、一視野に通常ゼロの白血球が外来時一〇、入院時五で、外来時には尿中に球菌及び酵母の存在が観察され、感染症と判断された。精巣捻転症の場合にみられる精巣を挙上したとき痛みが増悪することはなかった。

そこで、難波医師は、本件症状を急性精巣上体炎であると一応診断したが、精巣捻転症の可能性も考慮して経時的に病態を観察し、三月五日にもう一度診察したい旨市場医師に伝え、病態の変化に対応するべく小児科に入院させることに決定し、小児科主治医である市場医師と相談の上治療することとした。

原告太郎は、三月三日午前一一時ころ、被告病院小児科に入院した。入院時は、陰嚢の痛み、腫脹、発赤は認められず、吐気、嘔吐もなく、腹痛もなかった。

(六) 市場医師は、同月四日午前一〇時、原告太郎を診察したところ、圧痛があったが吐気はなかった。

同日午前一二時ころ、陰嚢の発赤、腫脹が著明となり、一時的に腫脹が鼠径部に及んだこともあり、触れただけでも痛みがあったので、看護婦が陰嚢部分を氷で冷却したところ、その後、腫脹は減少した。

市場医師は、原告太郎が二歳の時に、棚橋医師により右精巣摘出手術を受けていたことから、棚橋医師に往診を依頼した。

棚橋医師は、同日午後一時三〇分、原告太郎を診察し、精巣上体炎と精巣捻転症を最も可能性の高いものと考え、長時間触診していたところ、陰嚢皮膚に発赤、浮腫はなく、精巣上体頭部及び体部に圧痛があったが、精巣には圧痛はなく、精巣の移動性も良好で、触診中、疼痛が消失したので、精巣捻転症より精巣上体炎の可能性の方が強いと診断し、原告らに対し、精巣捻転症が確実であれば手術もありうることを説明し、経時的に抗生物質による治療を行うこととした。

棚橋医師は、同日午後五時、原告太郎の陰嚢部分を触診したが痛みはなく、同日午後六時の時点では、軽度の痛みと発赤があり、腫脹は軽減していた。

なお、同日の市場医師の小児科のカルテには、精巣上体頭部の炎症の可能性はある、しかし、既往症より捻転が出現したり、軽快したりしている可能性もあるので、症状進行すれば緊急手術の適応とする(除睾術ではなく固定術として)旨の記載がある。

(七) 棚橋医師は、同月五日朝、原告太郎の部屋を訪れて触診したところ、精巣の可動性はあり、精巣の挙上又は牽引による痛み増強はなく、精巣上体頭部及び体部に軽度の痛みがあり、炎症と判断する材料の方が多いため、精巣捻転症の可能性については否定的であると考えたが、原告らに対し、入院中に、炎症の症状は一次的に悪化するが、予防的に固定術をすることもできる旨説明したところ、原告春子は手術を希望する旨答えた。

そこで、棚橋医師は、本件症状は急性精巣上体炎であるが、精巣捻転症が併発した可能性も否定できず、右精巣は既に摘出され、左精巣しか残っていないことも踏まえて、精巣上体炎が一次的に悪化する可能性があることも承知の上で、精巣固定術を行うことを決定した。

同日の市場医師の小児科のカルテには、精巣の腫脹、発赤、圧痛は昨日より進行、自発痛はなし、棚橋医師と検討の結果、精巣上体炎はあるが、固定術の適用はある、①精巣捻転症の既往、②夜間睡眠中の突然の精巣痛の発症、③嘔吐の合併、④臨床症状上も検査所見上も炎症徴候なし、以上は精巣上体炎単独の病態を否定する所見、捻転は自然整復されているが、何らかの物理的変化が合併した可能性が強く、手術の適応がある、との記載がある。

棚橋医師は、同月六日、手術につき再び原告らに説明し、原告らは手術に同意した。

棚橋医師は、原告太郎の症状につき、同月六日も変わらないが、痛みは消失したとの報告を受け、炎症が少し落ち着いた状態で手術に臨めると考えた。

同日の市場医師の小児科のカルテには、精巣の発赤、腫脹、圧痛は変化なしとの記載がある。

(八) 棚橋医師は、同月七日、固定術を行う予定で原告太郎の左陰嚢皮膚を切開したところ、原告太郎の精巣は暗紫色で阻血状態で壊死しており、精巣及び精巣上体の捻転部分を探すが確認することができなかった。そこで、原告春子に手術室に入ってもらい、精巣部分の循環状態が改善される見込みがなく、このまま精巣を陰嚢内に収めても最終的には萎縮することになるので、除睾術を選択したい旨説明し、左精巣及び左精巣上体を摘出した。

(九) 原告太郎の摘出された精巣ないし精巣上体の頭部及び体部は暗黒色となって梗塞しており、精巣上体の尾部は黄色で梗塞していなかった。

そして、原告太郎の摘出された精巣について、同月一一日付けの村尾医師の病理所見では、「精巣には全体ではありませんが壊死がみられます。一部まだ死生の状態です。回転があったのでしょう。」との記載がある。

棚橋医師は、同月一二日、村尾医師に対して病理の所見を尋ねたところ、同医師より原告太郎の精巣は保存しても再生する可能性はなかったと口頭で告げられた。

2  急性陰嚢症及びその鑑別診断

(一) 陰嚢内の器官

陰嚢内の器官には、精子を作る精巣、精子を運ぶ管系である精巣上体、精管、血管、リンパ管などを合わせた精索などがあり、その位置関係は別紙のとおりである。

精巣は、睾丸ともいい、長径四ないし五センチメートルのやや平たい卵形の器官で陰嚢内に収まっている。

精巣上体は、副睾丸ともいい、精巣の頭部に乗っていて、伸ばすと約六メートルの長い管が曲がりくねった形で陰嚢の中に納められており、その部位により頭部、体部、尾部に分けられ、頭部は精巣上端に、体部と尾部は精巣後縁に密着し、尾部は精巣下端で次第に細くなって精管に移行する。

陰嚢内の血管のうち、精巣上体動脈は、精巣動脈又は精巣上体に近い部分から分岐し、精巣上体頭部及び体部に血液を供給するが、精巣上体尾部は、挙睾動脈や精管動脈が複合、吻合したループから血流を受けている。そのため、精巣上体頭部及び体部が血流障害により梗塞しても、精巣上体尾部は血流が障害されず梗塞が生じていないという状況が生じる可能性がある。

(二) 急性陰嚢症

陰嚢の内容が痛みを伴って腫脹している状態を急性陰嚢症と総称し、早期に適確な診断が必要である。その原因疾患には、精巣捻転症、急性精巣上体炎、付属器小体捻転症などがある。そのほか、病態や原因が未解明である特発性精巣梗塞がある。

(1) 精巣捻転症

精巣捻転症は、精索捻転(回転)症、睾丸捻転(回転)症ともいい、精巣又は精索の異常な可動性があって、さらに精巣挙筋の急激な収縮が起こると、精索を軸として、精巣は足元から見て右側は時計方向、左側は反時計方向に回転し、その結果、急激な血流の障害を生じる点に特徴がある症状である。

精巣捻転症には、突然ねじれが生じて元に戻らなくなる急性完全型、ねじれたり戻ったりを繰り返している再発不全型、再発不全型が急性完全型に移行する移行型の三つのタイプに分かれており、数としては再発不全型が最も多い。

精巣捻転症を発症すると、急激な陰嚢内疼痛、腫脹をきたし、放置すると血行障害のために精巣は短時間で壊死に至る。二四時間以内であれば、回転を復元すれば精巣保存の可能性がある。

捻転の程度は様々で、回転度数は九〇度から一四四〇度(四分の一回転から四回転)まで報告されており、回転度数及び捻転の持続時間により障害の程度が異なってくる。一回転以上の回転があれば、有意な障害が招来されて六ないし一二時間で壊死となり、九〇度回転では七日間壊死とはならなかったが、一回転では一二時間まで変化はなく、その後二四時間以内に壊死に陥り、四回転では二時間で完全に壊死が生じるという報告がされている。

精巣捻転症の発症は、思春期及び一歳未満の乳児期に多く、思春期の場合は、精巣鞘膜臓側板と精索との固着が不完全なため、新生児の場合は、精巣鞘膜と陰嚢内面の固着が不完全なために生じる。

症状としては、捻転とともに、局所から下腹部にかけて激痛があり、初期には、悪心、嘔吐、下腹部痛などの限局性腹膜炎様症状が前面に出ることがある。しだいに陰嚢内に痛みは限局し、局所は発赤、腫脹し、著しい圧痛を伴うが、疼痛は四日ないし六日で消失する。そして、精巣捻転症が発症すると、立位で見ると、精巣の軸変位のため、精巣が横位になっているといわれるが、陰嚢浮腫が次第に拡大するため、早期に診察できなければ分からなくなってしまうおそれがある。

治療方法としては、緊急手術又は思春期の症例の場合には徒手により回転を解除することが知られている。

なお、再発不全型の場合は、精巣を周囲の陰嚢の組織に結びつけるという予防的固定術の方法がとられることがある。

(2) 急性精巣上体炎

急性精巣上体炎は、急性副睾丸炎ともいい、ブドウ球菌、連鎖球菌、大腸菌、淋菌などの感染により起こり、前立腺炎、尿路感染に続発するほか、前立腺摘除術、カテーテルの尿道留置などにより発症する。

発症すると、精巣上体は急速に腫大して固くなり、精巣との区別もつかなくなる。陰嚢は発赤し、まれに精巣上体の膿瘍が破れ、排膿をみる。

悪寒戦慄を伴う四〇度近い高熱で発症し、数時間後に局所の腫脹、自発痛、圧痛、発赤、熱感が著明となる。疼痛は、陰嚢内から精索方向に向かい、精巣上体の圧痛が著明であり、検尿で尿中白血球及び細菌を認め、いわゆる感染症の所見があり、排尿痛、残尿感及び尿意頻数を認めることがある。疼痛は精巣捻転症に比較して一般に軽く、発現及び進展も緩やかであるとされている。

治療としては、安静を保ち、陰嚢を挙上し、局所を冷やすなどにより苦痛軽減を図り、抗生物質、鎮痛剤の投与などの化学療法を行うが、炎症が消退しても腫大が消失するのに数週間を要するものとされている。

(3) 特発性精巣梗塞

特発性精巣梗塞は、広義では、血栓その他支配血管の循環障害による精巣の梗塞及び壊死の症状をいうが、狭義では、その詳しい病態のメカニズム及び原因が、結果的にみても現在の医学では解明できなかったもののことを指し、その事態は非定型的な病態であり、その症例数は極めて少ない。特発性精巣梗塞の大半は思春期から青年期にかけて見られ、一一歳から二〇歳までが最も多く八〇症例中四四症例(五五パーセント)を占めていたという報告もあり、左右のうちでは左側が多く、症状が精巣捻転症、急性精巣上体炎、精巣腫瘍などに類似しているうえに、適格な他覚的検査方法がないため術前診断は容易ではないとされており、治療方法としては、ほとんどが精巣に不可逆的変化を来しているため、精巣摘出が行われる場合が多いとされている。

なお、精巣梗塞の原因は、支配血管の直接的閉塞と間接的閉塞に大別され、直接的閉塞の原因としては、血栓、動脈炎及び痙攣性閉塞などが挙げられ、間接的閉塞としては、精巣捻転、精巣炎、外傷、腫瘍及び炎症後の瘢痕による支配血管の圧迫閉塞などが考えられる。

(4) 精巣捻転症と急性精巣上体炎の鑑別診断

精巣捻転症と急性精巣上体炎との鑑別は、発症からの経緯や理学的所見に類似性を有するため診断の決め手に欠け、困難なことがある。そのため、精巣捻転症の症例の半数は精巣を失う状況にある。

両者の相違につき、急性精巣上体炎の場合は、精巣を挙上したとき痛みが軽減し、精巣捻転症の場合は増悪するものとされているが(このことをプレーン徴候という。)、右徴候は当てにはならないとの見解も有力である。また精巣上体炎では、精巣の長軸が縦方向であるが、精巣捻転症の場合はねじれて横向きとなるとされている。

急性精巣上体炎では、炎症反応陽性、白血球増多、膿尿が認められることが多く、逆に膿尿は捻転症では検出されなかったことも鑑別診断上の参考となるが、決定的な評価基準とはいえないとされている。

その他、補助診断法として、精巣シンチグラフィー、超音波断層検査、超音波ドップラー血流計、カラードップラー検査などがあるが、これらの検査方法はいずれも決定的な確定診断方法とはいえない。また、精巣シンチグラフィーは放射性同位元素を必要とし検査に困難がある。なお、被告病院泌尿器科外来には、超音波断層検査機器、超音波ドップラー及びカラードップラーは常備されていなかった。

陰嚢領域の急性有痛性腫脹をもたらす疾患群について、小児に限ってみれば、新生児から一八歳までの二四五症例中、精巣捻転症が二三パーセント、急性精巣上体炎が一九パーセント、一五歳以下の一〇〇症例では、精巣捻転症が四二パーセント、急性精巣上体炎(精巣炎も含む)が一二パーセントであったと報告されている。

精巣捻転症との鑑別診断が困難であることから、精巣捻転症を疑えば、可能な限り早期に手術を行うべきとの見解もある。

二1 右認定事実によれば、難波医師は、平成九年三月三日午前一一時ころ、原告太郎を診察した際、原告太郎が二歳のときに右精巣捻転症のために右精巣が摘出されていることを十分に意識して慎重に触診をしたところ、左陰嚢皮膚には発赤及び浮腫はなく、左精巣の大きさは正常で、自発痛及び圧痛はなく、精巣と精巣上体は十分に区別でき周辺の組織と癒着せず、上下運動により疼痛は改善され、発熱も三七度ないし37.4度であるという比較的緩やかな症状であったが、他方で、精巣上体は頭部及び尾部が肥厚し、硬度を増し、圧痛があり、排尿痛、頻尿などの尿路刺激徴候があり、尿検査の結果、白血球、球菌、酵母が観察され感染症と判断できるなど、急性精巣上体炎の特徴が観察され、かつ、精巣捻転症にみられるプレーン徴候もなかったことから、本件症状を急性精巣上体炎であると一応診断し、局部を冷やし抗生物質を投与するなどの急性精巣上体炎に対する治療を行いつつ、精巣捻転症の可能性も考慮して経時定的に病態を観察することとしたのであるから、難波医師に、精巣捻転症であることを看過して漫然と経過観察の指示しかしなかった過失を認めることはできない。

確かに、前記認定事実によれば、精巣捻転症は、特に急性完全型の場合、いったん発症すると、捻転の回転度にもよるが、急激な血行障害のために、そのまま放置すると精巣は比較的短時間で壊死に至り、再生不可能になるというのであるから、精巣捻転症であると診断した医師は、できる限り早期に、しかもゴールデンタイム内に捻転を修復するための措置をとるべき注意義務を負うものというべきであるが、本件においては、前記認定のとおり、本件手術の際に捻転部分は確認されなかったことが認められ、少なくとも原告太郎が急性完全型の精巣捻転症であったと認めるに足りる証拠はなく、むしろ、難波医師の診察当時の原告太郎の症状からすれば、積極的に精巣捻転症であると診断できる所見はなく、他方で急性精巣上体炎を疑うべき所見が強かったことが認められるのであって、難波医師は、原告太郎が精巣捻転症であるとの確定診断はしておらず、また、そう診断すべきであったということもできないから、精巣捻転症であるとの確定診断を前提とする右の注意義務を難波医師が負っていたということはできない。そして、原告太郎は、吐気、嘔吐があり、精巣捻転症を疑うべき症状もまったくなかったとはいえないが、嘔吐は来院前夜の一度のみであるし、それ以上に、精巣上体部限局性の腫脹、硬結、尿路刺激徴候及び感染症などの炎症を疑うべき症状が強く、他方で精巣の挙上、精巣挙筋反射(精巣が上下運動すること)の消失などの精巣捻転症を疑うべき症状がなく、医学的常識として、炎症を発症している際は固定術などの開創手術は避けるべきであったのであるから、難波医師が診察した時点において、原告太郎を炎症の悪化にさらしてまで、精巣捻転症の治療を行うべき積極的な理由を見出すことは困難であり、かえって、難波医師が、原告太郎の症状を一応急性精巣上体炎と診断した上で、依然として精巣捻転症の可能性も考慮して、炎症に対する治療を行いつつ経時的な観察を行うこととしたのは相当な処置であったと評価すべきである。

2  次に、原告らは、仮に本件症状が急性精巣上体炎であったとしても、本件のように診断的に境界にある症例の場合は診断的開創手術を行うべきであり、難波医師は、泌尿器科の主治医として主体的対応を行うべき注意義務を怠り、小児科に主体的管理を任せていた点において過失がある旨主張し、原告らの提出した藤田民夫作成の鑑定意見書(甲二五、以下「藤田意見」という。)においてもこれに沿う意見が述べられている。

確かに、精巣捻転症と急性精巣上体炎の鑑別診断は、その決め手がないことから困難であることが一般的に知られており、本件において、炎症の所見が観察され、一応急性精巣上体炎であると診断されつつも、精巣捻転症の可能性は常に念頭に置かれていたことからも、本件症状が、必ずしも単なる急性精巣上体炎であったと明快に診断できた場合であるということはできない。また、精巣捻転症を疑う場合は、精巣捻転症が短時間に急激な血流障害を生じる病気であることから、可能な限り早期に診断的開創手術を行うべきとの見解が存在することも確かである。

しかしながら、本件においては、前記のとおり、難波医師の診察時の原告太郎の症状は、尿路刺激徴候及び感染症などの炎症を疑うべき症状が強く、炎症を増悪させる危険を冒してまで診断的開創手術を行わなければならないほどに、精巣捻転症を疑うべき症状が観察されたと認めるに足りる証拠はなく、また、診断的開創手術自体の是非についても賛否両論があることから、難波医師が診断的開創手術を行わなかったことをもって直ちに過失があったということはできない。

また、本件においては、原告太郎の泌尿器科の担当医師は、初診時は難波医師であったが、入院自体は小児科が主体として行っており、小児科の市場医師が原告太郎の主治医であったことが認められる上に、棚橋医師が原告太郎が二歳のときの右精巣摘出手術を行っていることから、市場医師は、平成九年三月四日、泌尿器科の診察につき棚橋医師に依頼し、以降、泌尿器科としては棚橋医師が中心となって診察、治療の指示を行っていることから、難波医師が、泌尿器科の主治医として、初診時以降も主体的に関与すべき注意義務があったのにこれを怠ったと認めることはできないし、なお付言すると、前記一1で認定した経過によれば、市場医師と棚橋医師は、原告太郎を診察し、連絡をとり相談しつつ原告太郎の治療方針を決定しており、手術の適応の判断、原告らに対する説明など、泌尿器科の専門的事項については棚橋医師が中心となって行っていることから、市場医師、棚橋医師及び被告病院としても、その診療体制に問題があったとはいえない。

3  さらに、原告は、本件症状が特発性精巣梗塞であったとしても、難波医師の初診時において早期手術を実施していれば、精巣回転による血流障害及び精巣の壊死という結果を回避できたのであるから、難波医師が早期手術を実施しなかった点に過失がある旨主張する。

そこで検討するに、右一で認定した事実によれば、本件手術において陰嚢開創により観察された原告太郎の左陰嚢内部の状況は、精巣及び精巣上体の頭部及び体部が暗黒色で梗塞により壊死していたが、精巣上体尾部については壊死を逃れているという特殊な状態であったこと、捻転部分は確認できなかったこと、病理所見の結果、右手術において摘出された精巣は再生の可能性がなかったこと及び一般的に、特発性精巣梗塞は発見が極めて困難である上、血流障害による壊死自体は不可逆性であることから、特発性精巣梗塞の患者のほとんどは精巣摘出という結果が不可避であったことが認められる。また、右のような原告太郎の左陰嚢内部の状況が生じた原因について、難波医師は、その供述の中で、原因は不明であり、捻転が原因であるとはいえず、ただ事後的に検討した結果、可能性としては、初めに急性精巣上体炎が発症し、その後、精巣の捻転が起きたり戻ったりを繰り返している間に癒着が生じて精巣梗塞が生じたことが考えうる旨供述し、被告の提出した公文裕巳の鑑定意見書(乙二三)及びこれを補充する同人の証言(以下、併せて「公文意見」という。)によれば、右に認定した精巣及び精巣上体の状況からすれば、極めて複雑かつ稀な病態であって、その原因を正確に推定することは困難であるが、一つの推論として、急性精巣上体炎に再発不全型の精巣捻転症が合併していると考えると右に認定した事実を比較的矛盾なく説明でき、仮に急性精巣上体炎に再発不全型の精巣捻転症が合併していた場合であったとして、難波医師が初診をした段階で予防的固定術を実施したとしても、血流障害はもっと早い段階で生じていたと推測されることから時期的には間に合わず、壊死は回避できなかったとし、藤田意見は、右に認定した精巣等の状態の原因として、①不完全な精巣捻転症、②精巣の何らかの病態(急性精巣上体炎、精巣付属器小体捻転、不全精巣捻転)に精巣捻転が続発したこと、③精巣の何らかの病態(急性精巣上体炎、精巣付属器小体捻転、不全精巣捻転)に精巣梗塞が続発したこと(かなり珍しい事例である)が考えられ、①及び②の場合であれば、陰嚢の試験的開創術により精巣の機能の喪失を回避できた可能性があるが、発症後の経過時間からすれば精巣摘出もやむをえなかった可能性も残るし、そもそも①及び②の推論は、あくまで精巣捻転を前提とするもので捻転が否定されれば否定されるもので、また、精巣捻転が否定された場合に考えうる場合である③の場合は、仮に手術を行ったとしても全面的な虚血障害により精巣を喪失した可能性が高かったとしている。

以上からすれば、原告太郎の精巣及び精巣上体(尾部を除く)壊死の原因は、事後的にみても不明であったといわざるをえず、可能性としては、急性精巣上体炎に再発不全型あるいは不完全な精巣捻転が合併していたことが推測されるが、そうであった場合、難波医師の初診時において、直ちに開創手術を行い、予防的固定術などの何らかの外科的処置を実施していたとしても、血流障害の進行状況により、壊死を防止できた可能性は少ないとみるべきであり、これを臨床的な見地からみれば、難波医師の初診時において、原因不明の壊死がその後に進行することを予測するのが困難であるのはもちろんのこと、再発不全型あるいは不完全な精巣捻転を伴った壊死がその後に進行することを予見しようにも、再発不全型の精巣捻転自体、診察時に捻転が生じていないときはその診断が困難であり、実際にも右初診時には捻転が生じているものとは診断されず、したがって、予防的固定術又は治療的固定術の適応の判断も困難であったのであって、このような状況下において、予防的固定術の適応を判断し、かつ現に目前でその症状から明らかな急性精巣上体炎をさらに増悪させる危険性を冒してまで開創手術をすべきであるという確信に近い判断により、壊死の進行を予見して開創手術を行うべき注意義務を課すことは、不可能を強いるものであって、右のような注意義務が存在したものとは到底認めることのできないものである。したがって、難波医師に、その初診時において、再発不全型の精巣捻転又はその他原因不明の壊死の発生を予見して、開創手術を行うべき注意義務があったと認めることはできないから、この点に関しても、難波医師及びその他の被告病院における原告太郎の治療に携わった医師につき、原告らの主張するような過失を認めることはできない。

4  以上からすれば、本件において難波医師に過失は認められず、したがって、その余の点について判断するまでもなく、原告太郎の左精巣及び精巣上体の喪失の結果を回避できなかったことにつき、被告に責任を認めることはできない。

三  よって、本件原告らの請求は、いずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法六一条、六五条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・小野木等、裁判官・村田斉志、裁判官・村上誠子)

別紙<省略>

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