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岡山地方裁判所 昭和45年(わ)399号 判決 1972年2月24日

主文

被告人は無罪。

理由

一、本件公訴事実

本件公訴事実のうち、主位的訴因は

「被告人は、自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四四年一一月一七日午後四時ごろ、大型乗用自動車(岡二い二五一一号)を運転し、岡山県和気郡日生町日生六三一番地の二先の日生役場前宇野バス停留所へ停車した後、日生駅方面に向けて発進しようとしたが、このような場合、自動車の運転者としては、自車の前方および周囲の安全を十分確認してから発進すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、左右のバックミラーを見、左前部のアンダーミラーを一瞬見たのみで漫然発進した過失により、発車前に自車前面に子供用二輪車に乗つて来た鈴木英樹(当四才)に気づかず、自車前部で同人を押し倒し右後輪で轢過し、よつて同人をして頭蓋骨粉砕骨折等により即死するに至らせたものである。」

というにあり、予備的訴因は

「被告人は、自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四四年一一月一七日午後四時ころ、車掌藤田啓子が乗務する大型乗用自動車(岡二い二五一一号)を運転し、岡山県和気郡日生町日生六三一の二番地先の日生役場前宇野バス停留所へ数分間停車した後、日生駅方面に向けて発進しようとしたが、このような場合、自動車の運転者としては、同所は、幼児等が停車中に運転台から死角をなしている車体左側前部等付近に歩み寄る危険のある街路上であつたのであるから、とくに自車の前方および周囲の死角圏内に注意し、あらかじめ警音器を吹鳴して警告を発するはもちろん、幼児らの立入り、その他の危険を厳戒するため、車掌を下車させるなどして自車の周囲の状況を監視させながら、その発進合図によつて発進を開始するなど事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、車掌に監視させることなく、左右のバックミラーを見、左前部のアンダーミラーを一瞬見たのみで、漫然発進した過失により、発車直前に自車前面付近に子供用二輪車に乗つて来た鈴木英樹(当四才)に気づかず、自車前部で同人を押し倒し、右後輪で轢過し、よつて、同人をして頭蓋骨粉砕骨折等により即死するに至らせたものである。」

というものである。

以下右事実の存否ないし罪の成否につき検討する。

二、本件事故の発生状況

<証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができる。

被告人は、宇野自動車株式会社の自動車運転手として、岡山市と岡山県和気郡日生町を結ぶ定期バス路線の一般乗合旅客運送用自動車の運行に従事していたものであるが、昭和四四年一一月一七日午後四時頃大型乗用自動車(岡い二五一一号)(以下本件加害車という)を運転し、同県同郡同町日生六三一番地の二先日生役場前宇野バス停留所に停車し、乗客一名を降車させたうえ、時速約五キロメートルで発進した直後、同車台下でゴトンゴトンという金属音がするのに不審を抱き、ゆるく制動をかけ、発進後一四、五メートルの地点に停止し、車掌に同車体周辺を見分させたところ、その後方約一メートルの地点に鈴木英樹(当四年)が頭蓋骨を粉砕され、脳髄を飛沫させて倒れて死亡しており(以下本件事故という)、同車台下のフロント。アクスルの中央部よりやや右寄り後方に、子供用二輪車(補助後輪付)が前車輪を前方に向けて引掛つており、右アクスルの中央部及び車台下部前車輪横付近のエヤーパイプ等に擦過痕が認められ、また後車輪タイヤ(二重)に血液が付着し、その後方に右タイヤによつて印象されたと思料される約七〇センチメートルの長さのタイヤ痕が認められた。

以上の事実によれば、本件事故は、被害者が本件加害車の右発進により、同車の前部から右二輪車とともに同車台下にまき込まれ、同車の右後輪でその頭部を轢過されたため、生じたものであると推認することができる。

三、本件事故発生の予見可能性

1、本件事故現場付近の状況

<証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができる。

本件事故の発生した宇野バス日生町役場前停留所は、岡山県備前警察署日生派出所前を南西より北東に通ずる国道と、北西方の三石方面からの県道とが交差して、丁字路となつている地点のすぐ北東側にあり、右国道は、有効巾員約7.2メートルで、白色センターラインにより区画され、別紙一、現場見取図記載のように、本件加害車進行方向左側(北西側)は、丁字路交差点北東隅に前記派出所、その横手にその駐車場があり、それに引き続いて、国道の舗装部分より五、六メートルはなれて民家が建ちならんでいるが、右駐車場に隣接する民家の敷地は、道路面より数メートル低くなつており、道路との直接の交通は困難な状況にあり、また右国道の加害車進行方向右側は、民家が一軒あるのみで、吉浦方面から交差してくる道路を隔てて、それより先は海面となつており、本件事故現場の近辺には、小学校、幼稚園、保育所等もなく、日頃から閑散とした場所であり、本件事故現場より前方約五〇〇メートル、後方約一〇〇メートルは、いずれもほぼ直線で、その見通しは良好である。

2、本件事故直前の被害者及び被告人の行動等

<証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができる。

被告人は、当日午後二時四五分本件加害車を運転し、いわゆるワンマンカーで、岡山市内山下を出発し、片上真光寺前で車掌藤田啓子を乗車させたうえ、前記一、記載時刻ころ、五名の乗客を乗せつつ、本件事故現場の日生役場前停留所に停車し、乗客のうち中田高明一名を降し、乗る客はなかつたので、間もなく発車したのであるが、右中田の降車に際し、同人が所定乗車料金五〇円を支払うため、同車前部入口の運転席横に設けられた料金箱に一〇〇円札を投入したうえ、五〇円のつり銭を車掌に求めたため、車掌の藤田啓子がつり銭を要する場合には、両替を求めたうえ、所定料金のみを料金箱に入れてもらわねば困る旨異議を述べ、一、二分間同人と口論したが、結局車掌が両替器より五〇円を取り出して右中田に支払い、同人が降車すると、被告人は直ちにドア開閉コックを操作して閉戸し、まず車体左前部に取り付けてあるバック・ミラーを、次いでほぼ同所のフロント・アンダ・ミラーを、最後に右前部に取り付けてあるバック・ミラーを見たところ、右バック・ミラーに対向車が通りすぎた後姿が映つたのみで他に人影も車影も見当らなかつたので、進路の前後左右は安全であると判断し、前記一、記載のとおり発進したものであるが、右閉戸から発進にかかるまでに特に通常の場合以上に時間を要した事情は存在しなかつたものである。

ところで、本件事故前の被害者の行動であるが、<証拠>によれば、中田高明が前記のとおり五〇円のつり銭を受領して前部入口から降車しようとした際、入口の斜前方の同車左前部付近に子供が進行方向に向いて前かがみになり、子供用二輪車にまたがつて、とまつていたのを認めたが、意に介さず、そのまま加害車の後方に向き帰途についたこと及び右子供用二輪車の停車位置は、加害車体の左側から五〇センチメートル位はなれ、その後輪は加害車体前面の線よりやや後方あたりにあつたことを認めることができる。

本件においては、右中田高明が本件事故発生直前被害者らしい姿を認めた唯一の目撃者であり、他に事故発生当時現場付近において被害者らしい人影を認めた証拠がないから、右中田の供述にかかる子供がその存在位置及び自転車騎乗姿等よりして本件被害者であつたと推認できる(もつとも、本件事故現場の停留所に停車する前、その手前の丁字路交差点付近で五、六才位の男児が同車直前を右から左へ走つて横断し同交差点北西角の町役場広場入口附近に至つたことは証拠により認められるが、同人二輪車に乗つておらなかつたのであるから、本件被害者とは別人である思われる。)

3、被告人等による本件被害者認知の有無ないしその可能性

(一)、ところで、被告人は公判段階のみならず、捜査段階から一貫して、本件事故発生前被害者の姿を認めなかつた旨供述しているので、まず本件加害車運転席から、右中田高明の指示する位置における被害者及び同所から同車の直前面に移動し、前記一、記載のとおり同車体にまき込まれる直前までの被害者の各姿を認めることができるか否かを検討する。

当裁判所の検証調書二通によれば、被告人が本件加害車の運転席に正常な運転姿勢で座つた状態においては、別紙二、死角範囲図記載のとおりの死角があり、前記中田高明が供述する被害者の姿は、前面窓ガラス下部のボデー部分及び運転席横に設置されている料金箱のプラスチック製上蓋によつて視線を遮断されて、直接見通すことができないのみならず、加害車左前部に付置されているアンダー・ミラー及びバック・ミラーのいずれによつても、その付設角度の関係上、それを見通すことができなかつたことを認めることができ、この限りでは、前記被告人の供述は真実であると認められる。

次に、被害者が本件事故発生直前に、右位置から加害車前面に移動し、そのため発進した同車の前面から、その下部へまき込まれたものと推認しうることは、前述のとおりであるが、その際被害者を被告人が認知することができたか否かについて検討するに、前掲証拠によれば、本件加害車両前部から前方へ1.44メートルないし1.6メートルの範囲内は、前記アンダー・ミラーにより、また右の範囲より前方は肉眼のみで直接いずれも見通すことができることが認められるので、被害者が同車よりどれ位の距離をおいて同車前面を横切ろうとしたか、証拠上明らかではないが、いずれにしても、被告人が運転席において、同車にまき込まれる直前の被害者を認知することは、客観的には可能であつたものと認められる。

(二)、さらに、被害者が前記(一)記載の死角内に入る直前において、被告人席から同人の姿を認知することができたか否かであるが、本件事故発生前における被害者目撃証拠は、前記中田高明の供述以外になく、被告人も本件事故現場停留所に停車する前後を通じ、被害車を目撃しておらないこと右認定のとおりであるから、被害者がいずれの方向からやつて来たのかは、推測の域を出ないのであるが、当裁判所の昭和四六年八月二八日付検証調書によれば、本件現場前の日生派出所横手にある駐車場は、コンクリート舗装が施され、道路に向つて若干の下り坂になつておることが認められ、また第二回公判調書中証人赤松荘太郎の供述部分によれば、被害者等の子供が日頃右下り坂を利用して自転車遊びをしていたことが認められるので、被害者は、当時右の坂を利用して子供用二輪車で遊んでいるうちに、停留所に停車している本件加害車の左前部付近まで到達したが、本件加害車が停留所に停車する直前は、たまたま右駐車場の最奥部分(坂の頂上)にいたため、被告人からは右派出所建物にさえぎられて、同人を認知することができなかつたのではなかろうかと推測しうる。

そうだとすれば、別紙一、現場見取図のとおりの右駐車場と停留所等の位置関係及び前記認定のように、本件加害車運転席からは別紙二、死角範囲図のとおり同車左横側にかなり広範囲の死角があることを併せ考えると、被害者がおおむね本件加害車の死角内を通つて前記中田明の指示する同車左前部付近に至つた可能性も否定することができず、被告人の本件事故発生前被害者の姿を認めなかつた旨の供述はこの段階においても措信でき、また客観的にも被害者を認知しようとしてもすることができなかつた可能性を否定できないといわざるを得ない。

(三)、次に、本件加害車同乗の車掌藤田啓子において、被害者を認知することができたか否かであるが、右藤田の司法警察職員に対する供述調書によれば、同人はそれを認めなかつた旨供述しているが、当裁判所の昭和四六年八月二八日付検証調書によれば、同人が乗客中田高明とつり銭のことで口論した同車運転席横の位置において、右中田が指示する位置における被害者の姿を認知することは、客観的には充分可能であると認められ、同人が右供述のとおり被害者を認知しなかつたとすれば、それは認知することができたのに、認知しようとしなかつた結果であるといわざるを得ない。

四、被告人の過失の有無

以上の事実関係の下において、被告人に検察官主張の如き過失があるか否か以下検討する。

1、前記認定事実によれば、被告人が乗客中田高明の降車終了後直接又は左右バックミラー及びアンダー・ミラーにより車両周囲の安全確認をした際には、被害者は同車左前付近に存在する死角内におり、同車運転席における正常な運転姿勢においては、それを認知することができず、また被害者が右死角内に入る直前の段階においてもその姿を認知することが期待できなかつたわけであるが、一方、被害者が同車の発進直前右位置から同車前面に移動する段階においては、アンダー・ミラーを通して、同人を確認し得たはずであることも事実である。

したがつて、被告人が左方バック・ミラー及びアンダー・ミラーを見、次いで右方バック・ミラーを見て、周囲の安全確認をした後、再度アンダー・ミラーにより同車直前部の安全確認をしておれば、本件被害者を認知し得、ひいては本件事故発生を未然に防止し得たはずではあるが、付近の通行人ないし同車の乗降客が多数いるなどわずかの時間内にも同車の進路前面に人が侵入している蓋然性が認められ、或いは先になしたアンダー・ミラーの確認から発進まで相当時間の経過がある場合は別論として、本件事故現場近辺に小学校、幼稚園、保育所等がなく、日頃から閑散とした場所で乗客も少なく、当日も停留所停車の前後を通じて人影を認めず、降客が一名あつたのみで乗り客はなく、且同車のアンダー・ミラーを見、次いで右バック・ミラーを見たうえ、発進にかかるまでに、右動作以外のために特に時間を要したことが認められない本件事案においては、その間にアンダー・ミラーによつてしか確認し得ない同車前面に、いずこからか人が入つてくる可能性はきわめてとぼしく、それを予想しなかつたとしても、それを非難することは酷にすぎるものといえるので、かかる場合再度アンダー・ミラーにより、同車直前部の安全を確認すべき業務上の注意義務はないものと認めるのが相当である。

したがつて被告人が加害車発進に際し、その直前に再度アンダー・ミラーによる前方安全確認の措置をとらなかつたとしても、この点をとらえて、被告人に過失があるということができない。

2、次に、乗客中田高明の降車の際、加害車の左前部付近の死角内にいた被害者は、運転席からは死角内であつても、同人につり銭を交付した車掌の位置からは容易に確認し得たものであり、また運転手とは異なり、車内において行動の自由な車掌ならば、そのような行動に出ることが容易であるから、運転席からの死角内に幼児等が存在するかもしれないことを予想し、警笛を吹鳴して警告するとともに同乗する車掌をしてその有無を確認させ、その確認をまつてはじめて発進にかかるべき業務上の注意義務を被告人に求められるべきか否か検討する。

なるほど、被告人が当時従事していた一般乗合旅客運送事業に関しては、輸送の安全等を確保するため、道路運送法にもとづき自動車運送業等運輸規則(以下運輸規則という)が制定され、その第三四条には「発車は車掌の合図によつて行なうこと」及び「発車の直前に安全の確認ができた場合を除き警音器を吹鳴すること」が運転者の遵守事項として、また同第三五条には、「発車の合図は旅客の安全及び事業用自動車の左側にその運行に支障がないことを確認し、かつ乗降口のとびらを閉じた後に行なうこと」が車掌の遵守事項としてそれぞれ規定されており、また花房繁明の司法警察職員に対する供述調書及び第二回公判調書中証人赤松荘太郎の供述によれば、前記運輸規則をうけた宇野自動車株式会社の乗務員服務規程中にも「発進後退時は、車掌の合図で、進路前方左右の安全確認をしなければならない」旨規定されており、日頃の安全教育においても、それを従業員に指示していることが認められる。その故か、被告人も第二回公判期日においては、車掌が確認を怠つたために本件事故が発生したとしても、同人に対する監督を怠つたということで刑事責任をまぬがれない旨この点に関する自己の過失を自認しているのであるが、その後、被害者が本件加害車発進前死角内にいたことが判明するにしたがい、右を否認するに至つたのである。

ところで、被告人において、被害者が発進前にいた同車の左前部付近が運転席から死角内にあることを了知していたか否かが問題であるが、この点に関する被告人の供述は変遷しており、また第二回公判調書中証人赤松荘太郎の供述によれば、同車左前部付近に死角があるが、運転手に対する指導教育においては、そのような死角はないと言つてきた旨供述している。永年大型自動車の運転業務に従事してきた者が、車体左前部付近に死角の存在することを知らなかつたとは、不自然な供述であるのみならず、もしそうであつたならば、一般的にはその運転適正自体に問題があり、またそれを運転手に周知徹底しなかつた事業主にも安全運行管理上の責任があることにもなりかねないが、それは別論として、本件において被告人が右死角の存在を知らなかつた場合はなおさら、仮りにそれを知つていたとしても、右死角内に幼児等が存在するかもしれないことを予想し、その有無を車掌に確認させ、必要あるときはさらに警笛を吹鳴して危険を告知したうえ、発進する業務上の注意義務が要求されるか否かは、なお慎重に検討されるべき余地があるものと思われる。なぜなら、業務上過失の有無は、具体的な事実関係の下における規範的判断であつて、一般的な行政取締法規等に違反する場合であつても、具体的な死傷の結果との間に因果関係がない場合があり、またそれが行われた具体的な事情のもとでは、その違反自体が阻却される場合があつて、右行政取締法規等に違反するからといつて、直ちにそれをもつて業務上過失を構成するものと断定できないからである。

現代社会において、大量輸送手段の一翼をになう一般乗合旅客運送用自動車は、一定の運行計画に則る迅速且定時の運行を確保しなければ、その社会的要請を充たすことができないものであるが、他方交通繁雑な場所を通行することが多くその運行に際し、多数の乗降客がその周辺に散集するものであるとともに、その構造が大型であることから、各所に運転席よりの死角が生ずる宿命にあり、その運転に従事する者は、右社会的要請を没却しない範囲丙において、他の自動車の運転に従事する者以上に慎重な運転を要請されるものであるから、周囲の状況等により特にその必要がないと明らかに認められる場合を除いては、一般旅客運送用大型自動車の運転に従事する者は、停留所等からの発進に際し、肉眼による直接ないしアンダー・ミラー及びバック・ミラーを通じて車両前方及び左右の安全を確認すべきことはもちろん、さらに車掌が乗車している場合においては、運転席から右の方法による死角内に人が存在するかもしれないことを予想して、車掌にその有無を確認させ、必要ある場合には警笛を吹鳴して危険を告知するなどし、自車周辺の安全を確認したうえで発進すべき業務上の注意義務があるものというべきである。

本件において被告人は、本件加害車発進に際し、肉眼により直接及びアンダー・バック両ミラーにより車両周辺の安全を確認したのみで、警笛を吹鳴することなく、また車掌に死角内の安全確認をさせなかつたものであることは、前記認定のとおりであるが、さらに同認定事実によれば、停留所停車の前後を通じ、付近に人影を認めず、(もつとも同停留所停車直前五、六才位の男児が同車前方を走つて横断したが、同人は同所交差点西北隅の役場前広場入口方向に向つたことを確認しており、また同人と本件被害者とは別人である)降り客も一名あつたのみで、乗り客がなく、周囲は人家もたて込んでおらず、日頃から閑散とした場所で、小学校、幼稚園、保育所も近辺になかつたのであるから、わずか一、二分間の停車中に、いずこからか、同車の左前部付近の死角内に、しかも運転席からとらえることができないような経路によつて幼児等がやつてくる可能性は通常皆無に近いものというべきである。したがつて、被告人がそのような皆無に近い事態あるを予想して車掌にそれを確認させ、また警笛を吹鳴して危険を予告しなかつたとしても、それを業務上過失として本件死の結果発生に対する刑事責任を追求することは酷にすぎるといわざるを得ず、本件事案は、前記注意義務を阻却する「周囲の状況等により、特にその必要がないと明らかに認められる場合」に該当するものと認められる(なお、前記一及び三、2各認定のとおりの本件事故の発生状況及び本件事故発生直前の被害者の行動からして、被告人が本件加害車発進前に警笛を吹鳴したとしても、本件事故の発生を防止し得たか否か自体についてはなはだ疑問の残るところである。)なるほど、同乗車掌藤田啓子が、加害車両内において被害者を容易に発見しうる位置におりながら、安全運行に対する配慮不足により、それを見落したことは、同人の重大な職務過怠であり、それが本件事故発生の原因をなしていることは間違いなく、その点において同人の責任が追求せられるべきであり、またそれが宇野自動車株式会社の車掌に対する日頃の安全教育の欠陥にも由来するものであるという点において、同社が担当する大量輸送業務における社会的責任上非難を受ける余地があり、また同会社が本件に対する民事上の責任を免れえないことは別論として、それをもつて被告人に対し刑事責任を帰する事由とすることはできない。

五、結論

以上によれば、本件事故の発生につき、被告人に主位的訴因及び予備的訴因いずれの訴因にかかげられた過失についても、その証明がないことになるから、刑事訴訟法第三三六条により無罪の言渡をする。 (大森政輔)

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