岡崎簡易裁判所 昭和32年(ろ)106号 判決 1958年10月21日
被告人 中村憲博
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実は、被告人は、自動車運転者であるが、昭和三十二年五月二十四日午前八時三十五分頃普通貨物自動車愛一す三、三三四号を運転し、時速三十五粁位で岡崎市能見町地内二級国道蒲郡岐阜線路上左側(西側)を北進し、同町四十二番地先え差しかゝつた際同所は名古屋鉄道岡崎市内線の神明社電車停留所であり、折から南進して来た市内電車及び乗合自動車が停留中であつたから、その左横を通り抜けるには自動車運転者たるものは、道路左側より、右電車及び乗合自動車え乗車しようとして、自己の進路上を右え横断する者の有無を確認し、右横断者に対し警笛を吹鳴して警告を発するは勿論、何時でも方向転換停止等の処置をとり、事故を未然に防止し得る程度に減速して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、自己の進路上を左から右え横断するものがないものと軽信し、警笛を吹鳴せず、右停留中の電車のみに注意を奪われ、慢然時速三十五粁位で進行したため鷹見よし枝(明治三十三年六月二十日生)が右停留所へ赴くため、被告人操縦車の前を左から右へ横断しようとしたのを車体の左斜前方一米位の地点に発見し、始めて危険を感じ、急拠把手を右え切り、急停止の処置をとつたが及ばず、車体前端を同女に衝突させ、更に左後輪でその背部を轢き、同女をして、その場において、背柱損傷腹壁裂創により、死亡するに至らしめたものである。というにある。
司法警察員作成の被告人の供述調書、当審における証人杉山みつの尋問調書、医師竹内次郎作成の鷹見よし枝の死体検案書の各記載によれば、被告人は自動車運転者であるが、昭和三十二年五月二十四日午前八時三十五分頃普通貨物自動車愛一す三、三三四号を運転して、岡崎市能見町四十二番地々先道路を北進中、被告人が運転する自動車の前面を西側から東北方に向つて斜めに横断しようとした鷹見よし枝に衝突し、左後輪で同人を轢き、その場において背柱損傷腹壁裂創により、死亡するに至らしめたことが認められる。
よつて、右の事故が、被告人の過失に基くものであるかどうかについて案ずるに、被告人の当公廷における供述、当審における検証の結果、当審における証人杉山みつの尋問調書、司法警察員作成の実況見分調書、司法警察員作成の被告人の供述調書、同加藤源裕の供述調書、司法巡査作成の小林きくの供述調書、同杉山みつの供述調書の各記載によれば、本件事故現場である岡崎市能見町四十二番地先は、蒲郡市より岡崎市を経て岐阜市に通ずる二級国道蒲郡岐阜線の岡崎市内を南北に縦貫する路上であつて、幅員十一米、その中央東寄に幅二、一七米の軌道があつて、その中央に幅一、一二米の狭軌式軌条が単線で敷設され、その東側は幅三、三七米、西側は、幅五、四五米、アスフアルトで舖装されているが、歩車道の区画はなく、事故現場より南方約三百米の地点から北方約五十米の地点までの間は直線をなし、見透し良好で、南方約百米の所から北方約二百米に亘り、北方に向つて緩るやかな下り勾配となつて居り、現場より南方二十四米の所で東西に通ずる道路と交叉して十字をなし、両側に人家櫛比する商店街であること、現場の歩車道西側端に、電車架空線を支える電柱が立ち、これに停留所名「神明社」の標示があり、その標柱より南方一〇、二五米歩車道の西側端に名鉄バス及び国鉄バスの停留所の標識各一基があり、市内電車が、定期に北行南行交互に往復し、又名鉄バス及び国鉄バスが定期に往復する外、自動車、自転車、歩行者の通行が頻繁であること、電車は、右標柱の位置に車輛の前部又は中部を置いて停車し、進行方向の左側で乗降客を扱い、又国鉄バス並に名鉄バスは何れも北行車は西側歩車道の西側端にある前記標識位置に車輛の前部を置いて停車し、南行車は、東側歩車道の右標識位置に対応する所に車輛の前部を置いて停車して乗降客を扱うこと、本件事故当日、被告人は、愛一す三、三三四号四屯積普通貨物自動車に、約三屯入タンクにアミノ酸醤油を約半分入れて積載し、時速約三十五粁で運転し、岡崎市能見町国道上を北進中、事故現場より南方約五十米の所で、神明社電車停留所に南行電車一輛が停車して、その東側で、乗降客が乗り降りするのを発見し、その南方十五米乃至二十米の所で、自動車のアクセルペタルより足を離し、何時でもブレーキが踏めるように、ブレーキペタルの上に足をのせて進行を続け、電車の側面に達した時電車の発車のベルを聴いたので、アクセルペタルに足を乗せかえた時、突然左前輪の辺に本件の被害者が、東北方に向つて走り出したのを発見したので、右にハンドルを切ると同時にブレーキをかけたが、被害者と衝突して前方へはね飛ばし、前面に南行国鉄バスがその前方で電車が客扱中であつたため、一旦停止して居るのに気付き、これと衝突を避けるため、更にハンドルを左へ切り返へしたため、後輪で被害者を轢き停止したことその時被害者は商用で名古屋市へ赴くため、前記神明社電車停留所へ来て先着の杉山みつと電車停留所標柱のきわで立話中、国鉄バスが東側歩車道を南進して来て、電車停留所に接近するや、西側歩道の南方を全然注意することなく東北方に向つて走り出し、被告人運転の自動車前部に衝突したことが認められる。被告人の如く自動車運転の業務に従事する者は常に前方を注視し、殊に、電車又はバスが停留所に停車して客扱中は、これに乗降する者が道路を横断するから、車輛の側面を通過する場合には道路を横断する者の有無に注意し、何時でも急停車し得る程度に減速徐行して、事故の発生を未然に防止すべき注意義務があることは勿論であるが、およそ被告人に刑法上の過失の責任ありとしてこれに刑罰を科するには被告人が相当の注意を用いたならば結果の発生を予見し得た場合でなければならない。
然るに、本件の場合を見るに、被告人は本件事故現場より、南方約五十米の地点で、南行する電車が停車して、その東側で乗降客を扱つて居るのに気付き、その電車の南方十五米乃至二十米の地点で、自動車のアクセルペタルから足を離して、速度を二十粁乃至二十五粁位に減じて除行し、電車の側面に達した時、電車発車のベルを聴き、アクセルペタルを踏んだのはこの場合の運転方法としては、相当の注意を払つたものと認められる。而して、その時には、電車は客の乗降を終つて将に発車せんとする時で、被告人の進路前方には通行人は全然なく、電車を降りて道路を東から西に向つて横断しようとする者もなく、又バスの停留所は、電車の停車位置よりも南方一〇、二五米の所にあつて、既に無事通過した後であるから、電車停留所の西側から突然被告人の進路上へ人が飛び出すことは、被告人が前以て知り得る状況でなかつたことが認められるし、被告人の急停車の措置が適切でなかつたこと、その制動機に故障があつた等の事実も認められない。殊に、高度に機械化され、その速度と運搬能力を生命とする自動車の目的を実現せしめるには、これにより生ずべき危険を防止するため、運転者に対してその運転資格を厳にし速度を規整し、前記の如く、高度の注意義務を課し、若しこれを怠つた場合には単純過失犯に比し重刑を以て臨む反面歩行者においても、これに協力して注意義務を分担しなければならない。然るに、当審における証人杉山みつの尋問調書、司法巡査作成の杉山みつ及び小林きくの各供述調書によれば、本件の被害者鷹見よし枝は、当日足袋を手に持つた侭神明社電車停留所へ来て、杉山みつと立話をし乍ら片足に足袋を履き、折から国鉄バスが南進し来るや、所定の停留所にあらざるに、片足の足袋を手に持つた侭全然西側歩車道の南方に注意することなく恰も、飛込自殺をするかの如く、被告人運転の自動車の直前に飛び出したがために本件の事故を見るに至つたものであつて、歩行者として、当然なすべき注意を怠つたことが認められる。
以上の点を綜合するときは、本件の結果につき、被告人に過失の責があるとは認められない。その他本件が、被告人の過失に基くものであることを認めるに足る証拠がないから、刑事訴訟法第三百三十六条により、被告人に対し無罪の言渡をする。
(裁判官 西川銕吉)