広島地方裁判所 平成元年(ワ)589号 判決 1996年2月29日
原告
甲野一郎
同
甲野太郎
同
甲野花子
右三名訴訟代理人弁護士
小笠豊
同
金尾哲也
同
吉本隆久
被告
日本赤十字社
右代表者社長
山本正淑
被告
乙山春男
右両名訴訟代理人弁護士
森脇正
主文
一 被告らは、各自、原告甲野一郎に対し金六六〇〇万円、原告甲野太郎及び原告甲野花子に対し、それぞれ金三三〇万円並びにこれらに対する昭和四九年一二月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、原告らに生じたもの及び被告らに生じたものをそれぞれ二分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告らの負担とする。
四 この判決は、一項に限り、仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは、各自、原告甲野一郎に対し、金一億一六〇〇万円及びこれに対する昭和四九年一二月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告らは、各自、原告甲野太郎及び甲野花子に対し、それぞれ、金五五〇万円及びこれに対する昭和四九年一二月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は被告らの負担とする。
4 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
3 仮執行免脱宣言
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 医療事故
(一) 原告甲野一郎(以下「原告一郎」という。)は、原告甲野太郎(以下「原告太郎」という。)及び原告甲野花子(以下「原告花子」という。)間の二男(昭和四七年一一月四日生)であるが、昭和四九年一一月中旬ころから三八度前後の高熱、嘔吐等の症状があったため、近所の個人医院で診察を受けたところ、風邪と診断された。
(二) しかしながら、原告一郎の病状は一向に改善されなかったため、母である原告花子は、風邪にしてはおかしいと心配し、大きい病院で正確に診てもらいたいという気持ちから、原告一郎を被告日本赤十字社(以下「被告日赤」という。)の経営する広島赤十字病院(以下「被告病院」という。)で診察させることにし、同月二五日、被告病院において、小児科医師として勤務する被告乙山春男(以下「被告乙山」という。)の診察を受けたところ、アセトン血性嘔吐症及び急性咽頭炎との診断を受けた。
被告乙山は、二、三日通院して点滴すればすぐ治ると言ったが、原告花子は、原告一郎が夜間に容体が悪くなったらと心配で、入院を希望し、同日から被告病院に入院した。
(三) 原告一郎の容体は、同日の入院以後も、解熱剤で一時的に解熱する以外は三八度以上の高熱が持続し、手足の痛み、頭痛、腹痛、嘔吐、食欲がない状態が続くなど症状の改善はみられなかった。
そのため、原告太郎らが、被告乙山に「自家中毒にしては高熱や嘔吐が治らないのはおかしい」、「二、三日で治るといわれたが、いっこうに治らないのはどうしてか」といった質問を何度もしたが、被告乙山はすぐ治るからと言って取り合ってくれなかった。
その間、被告乙山が原告一郎を診察しなかった日があった。
(四) 同月二九日ころから、原告一郎の容体は急激に悪化していき、食事も全然とらず、ウトウトして眠ったような状態になり、同月三〇日にはウトウトして名前を呼んでも覚醒せず、嗜眠状態で瞳孔反応が鈍くなった。
(五) 被告乙山は、同月三〇日午前一〇時ころ、原告一郎に対し、髄液検査を実施し、結核性髄膜炎の疑診のもとに抗結核剤の投与が始められた。
(六) 原告一郎は、同年一二月五日、被告病院から訴外国立療養所広島病院に転送された。
原告一郎は、同病院において結核性髄膜炎と診断され、抗結核剤、副腎皮質ホルモンによる治療を受け、昭和五〇年一二月二四日、右半身不随(上下麻痺)、言語障害、聴力障害の後遺症を残して退院した。
(七) その後、原告一郎は、リハビリ訓練に努め、びっこをひきながらもかなり歩けるようになったが、廿日市養護学校吉島分校、太田川学園等に入園していたが、昭和六一年ころ、不自然な跛行が原因で股関節の亜脱臼を起こし、昭和六二年ころには全く歩けなくなっため、福山若草園(重度身体障害者施設)に転園して、現在に至っている。
原告一郎は、昭和五一年四月六日、障害名「疾病による身幹機能障害」により身体障害者手帳二級の交付を受け、昭和六二年以降、障害名「脳性麻痺による上肢機能障害(二級)、移動機能障害(二級)」を合算して一級に等級変更された。
現在、原告太郎や原告花子が、月に二、三回福山若草園に面会に行き、月に一度は自宅に連れて帰るという生活をしているが、言葉はほとんどしゃべれず、排便・排尿も一人ではできず、おむつが必要であり、移動も車椅子は自分では使用できずに介助者に乗せてもらってやっと移動できる状態であり、日常生活のすべてに全面的な介助を要する状態である。
2 被告らの責任
(一) 不法行為責任
(1) 被告乙山は、昭和四九年一一月二五日もしくは遅くとも同月二八日以前に、原告一郎の症状から、「結核性髄膜炎」と診断し、適切な治療を行うべきであったにもかかわらず、誤って「アセトン血性嘔吐症・急性咽頭炎」とのみ診断し、充分な検査もせず、同月三〇日まで「結核性髄膜炎」に対する適切な治療を行わなかった過失により、原告一郎の適切な治療を受ける機会を失わせ、前記身体障害を発生させたものである。
すなわち、原告一郎は外来受診前一週間から一〇日間、高熱と嘔吐が持続していたが、自家中毒症(アセトン血性嘔吐症)や急性咽頭炎では、通常二ないし四日程度で高熱や嘔吐などの症状は治まるのが通常であるのに対し、本件では、三八度以上の高熱や嘔吐が長すぎることに疑問をもち、結核性髄膜炎の疑いを持つべきであった。
結核性髄膜炎は、早期治療が要求される疾患であり、早期(一期)に治療されるとほとんど後遺症を残さず治癒する半面、治療が遅れると死亡率が高く、また、死亡は免れても、重度の後遺症を残す可能性が高くなるものである。
(2) なお、結核性髄膜炎の臨床所見は、一期から三期に分けられている。
一期は、一般的な非特異的な症状の時期で他の疾患と見誤りやすい。発熱、無気力、無表情、嘔吐、ときに頭痛、腹痛等がみられ二歳以下の小児では痙攣が見られることもある。
通常一期は、一〜三週間持続するが、一期では、治癒率が一〇〇パーセントで、永久的な神経系後遺症も少ないことが期待できる。
二期は、神経学的な症状の発現によって特徴づけられるが、髄膜の炎症によって項部硬直が出現し、ケルニッヒやブルジンスキー徴候は陽性となり、斜視や眼瞼下垂、瞳孔反応の緩徐化、視力障害、深部腱反射の異常、錯乱、失見当識、意識障害、四肢の振戦などの症状が出現する。
二期になると最善の治療を行っても死亡率が一五パーセントで、七五パーセントに神経学的な後遺症を残す。
三期は、無反応、後弓反張、除脳硬直、乳頭浮腫などを示す。
三期になると、五〇パーセントの死亡率が見込まれ、発達遅滞、脳神経麻痺、運動麻痺、視神経萎縮などの神経後遺症は生存者の八〇パーセントに及ぶ。
(3) 結核性髄膜炎は、髄液検査及び血液培養で確定的に診断できる。
一方、アセトン血性嘔吐症は、二〜三歳以後の小児において発作的に反復する嘔吐を主徴とし、アセトン尿、意気消沈を伴う疾患であって、一つの症状名である。発病は突然嘔吐で始まることもあるが、前駆症として全身倦怠、意気消沈、食欲不振、腹痛、便秘等をみる場合もある。多くは軽熱又は無熱であり、発作は三〜四日で終焉する。
また、急性咽頭炎は、扁桃炎、及び咽頭扁桃炎を包含した咽頭のすべての急性の感染症を総称する。この疾病は一歳以下の小児では一般的でない。頻度はその後増大し四〜七歳からピークに達し、小児期後半から成人まで続く。その原因はウイルスである。中等度の咽頭痛を伴った発熱、倦怠、食欲不振を初期症状とする。嗄声、咳、鼻炎などの症状も現れる。疾病期間は二四時間以内のこともあり、通常五日間を超えることはない。合併症は稀である。
したがって、被告乙山は、一一月二五日の時点で、結核性髄膜炎の可能性を疑い、髄液検査をすべきであった。
仮に、右時点で結核性髄膜炎を疑うことが困難であり、一応アセトン血性嘔吐症及び急性咽頭炎と診断したことに過失がなかったとしても、その後、強力な抗生物質治療と輸液をやっても症状が改善しないことから、二六日、あるいは遅くとも二七日又は二八日には、診断を修正して、髄液検査を実施すべきであった。
それを被告乙山は、一一月三〇日になって初めて結核性髄膜炎を疑い、髄液検査をしたものであり、その時点まで診断の修正をしなかったのは、小児科医として明かな重大な過失がある。
(4) 被告日赤は、被告病院の経営母体であり、被告乙山は被告日赤の被用者であるが、被告乙山は被告日赤の事業の執行として本件診療を実施したのであるから、被告日赤は民法七一五条により被告乙山が本件不法行為により原告一郎に加えた損害を賠償する責任を負う。
(二) 債務不履行責任
(1) 原告一郎が、被告日赤の経営する被告病院で受診した昭和四九年一一月二五日、原告一郎と被告日赤との間に、原告一郎の病気を治療することにつき準委任契約が成立した。
(2) したがって、被告病院は、原告一郎に対し、最も妥当な方法により原告一郎の症状の原因を究明し、最も妥当な診療行為をなすべき義務を有していたが、被告日赤の履行補助者である被告乙山は、前(一)で述べたとおり十分な原因究明をせず、不十分な検査結果から、アセトン血性嘔吐症、急性咽頭炎と誤診して結核性髄膜炎を見落とし、必要な治療行為をしなかったので、被告日赤に債務不履行責任がある。
3 因果関係
原告一郎は、昭和四九年一一月中旬ころ、結核性髄膜炎にかかるまでは身体的、精神的障害は全くなかったところ、同月二五日、被告病院に入院後、意識不明に陥り、前1(七)のとおり障害を残すに至った。そして、前記のとおり、原告の病状は同日の時点でいまだ一期であり、適切な治療が施されれば後遺症は全くない状態で治癒していたと考えられるから、原告一郎の前記障害はいずれも、同日から翌一二月五日にかけての被告海田の治療上の過失が原因となって発生したものである。
4 損害
(一) 逸失利益
原告一郎には重度の脳障害があり、労働能力を一〇〇パーセント喪失している。
昭和六一年度の労働省調査賃金構造基本統計調査報告(賃金センサス)第一巻第一表による産業男子労働者旧中・新高卒年齢平均年収額四一五万五八〇〇円を基礎にし、ライプニッツ方式により年五分の割合による中間利息を控除するため、右年収額に一五歳に適用するライプニッツ係数15.695を乗じて高校卒業後満一八歳から満六七歳までの就労期間中の逸失利益の現価格を算定すると、右現価格は、金六五〇〇万円を下らない。
(二) 付添看護料 金七〇〇万円
原告花子は、原告一郎が昭和四九年一二月五日から昭和五〇年一二月一四日まで一年余りの国立療養所広島病院に入院中、ずっと泊まり込んで原告一郎を付添看護した。
さらに、原告一郎が、昭和五〇年一二月二四日に国立療養所広島病院を退院してから昭和五六年八月に太田川学園(精薄施設)に入園するまで、約五年半、原告花子が自宅でほとんどつききりで介護した。
その間の付き添い看護料を一日金三〇〇〇円とすると、その間の付添看護料は金七〇〇万円を下らない。
(三) 施設負担金 金二七三二万九八〇〇円
(1) 原告太郎は、前記福山若草学園に対し、施設の自己負担金として、昭和五六年八月から毎月金二万円くらい、平成元年ころから平成四年四月末まで毎月金四万一二〇〇円を支払っており、平成四年四月末までの負担金合計額は金三五〇万円となる。
平成四年四月三〇日からは毎月金六万八七〇〇円を支払っており、同日から平成七年二月末日まで三四箇月の合計額は金二三三万五八〇〇円となる。
(2) 原告太郎は、原告一郎の生存中、右負担金を払い続けることになるが、将来の自己負担金の合計額は、二二歳男子の平均余命五五年、そのホフマン係数26.0723で計算すると、金二一四九万四〇〇〇円となる。
(四) 原告一郎慰謝料 金二〇〇〇万円
原告一郎の精神的損害に対する慰謝料は、金二〇〇〇万円が相当である。
(五) 原告一郎弁護士費用 金九〇〇万円
(六) 原告太郎、同花子慰謝料各金五〇〇万円
原告一郎が重度の障害を負うに至ったため、原告太郎及び原告花子は、国立療養所広島病院に入院してからは、原告花子が付添看護し、昭和五〇年一二月から昭和五六年八月までは自宅で介護し、それ以後も、太田川学園入園中は月数回、福山若草園に移ってからは月一回は、重たい原告一郎を抱えて車に乗せて連れ帰り、次の日にはまた施設に送り届けるような生活が続いている。そして、自分たちが将来老いていったときどうなるものか不安を抱えている。
原告一郎がこのような重度の障害を負ったため、原告らがこれまで負った辛苦、今後も続く不安や辛苦に対しては、各金五〇〇万円の慰謝料が相当である。
(七) 原告太郎及び原告花子弁護士費用 各金五〇万円
5 よって、被告らに対し、原告一郎は、不法行為(被告日赤に対してはさらに債務不履行)による損害賠償として、金一億一六〇〇万円(4の内金)、原告太郎及び原告花子は、不法行為による損害賠償として、金五五〇万円及びこれらに対する不法行為後の日(被告病院を退院した日)である昭和四九年一二月五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1(一)は、原告らの身分関係を認め、その余の事実は不知。
同(二)は認める。ただし、原告一郎の入院は被告海田の指示によるものである。
同(三)は否認する。なお、被告海田が診察しない日は、他の医師が診察している。
同(四)は、二九日の状態は否認し、三〇日の状態は認める。
同(五)は認める。ただし、治療は結核性髄膜炎との確定診断のもとに行われている。
同(六)は、原告一郎が一二月五日、被告病院から国立療養所広島病院に転送されたことは認め、その余は不知。
同(七)は不知。
2 請求原因2ないし4は否認し又は争う。
三 被告らの主張
1 被告乙山が原告一郎を診察した結果、アセトンが三プラスであり、また、腹部陥凹、咽頭発赤が認められたので、アセトン血性嘔吐症(自家中毒症)及び急性咽頭炎との診断をし、入院加療が必要であるとの指示をしたものである。そして、一一月二九日までの間に結核性髄膜炎の神経学的所見とされている痙攣、項部硬直、意識障害、四肢強剛、顔面麻痺等の症状は出現していない。そして、一一月三〇日に項部硬直を認めたため腰椎穿刺をして髄液を検査した結果、結核性髄膜炎と診断し、以後、その治療を継続したものである。
このように、被告乙山が原告一郎を自家中毒症及び急性咽頭炎と診断し、項部硬直が発症するまでその治療をしながら症状の推移を観察してきたことに過失はない。
2 結核性髄膜炎は、一度発症してしまうと、強力な抗結核剤を使用できる今日でも約三分の二は後遺症を残し、後遺症を残すことなく治癒する割合は以前と比べて全く増加していない。
したがって、原告が主張する時期に髄液検査を実施して結核性髄膜炎を確定診断しても、後遺症の有無についての有意差はほとんどない。
したがって、被告乙山が一一月二九日までに髄液検査をして結核性髄膜炎との診断をしなかったことと原告一郎の後遺症との間には因果関係はない。
四 抗弁
1 原告一郎は、国立療養所広島病院を退院した昭和五〇年一二月二四日の時点で右半身不随(上下麻痺)、言語障害、聴力障害の後遺症(現在の後遺症の状態もこの当時予見できたものである。)が発生しており、また、原告太郎は、この結果に納得がいかず、被告乙山らに何度も説明を求めたものである。
そうすると、原告らは、原告一郎の後遺障害が被告乙山の行為によって発生したものであることの認識を有していたものであり、被告乙山又は被告日赤に対して、不法行為又は債務不履行による損害賠償請求権を行使するについて何らの法律上の障害はなかったものである。
したがって、原告らの主張する損害賠償請求権は、昭和五〇年一二月二四日から一〇年経過後の昭和六〇年一二月二四日の経過をもって時効により消滅しているので、平成元年九月一三日の本件第二回口頭弁論期日においてこれを援用した。
2 被告乙山は、昭和五六年、原告太郎に対し、金一〇〇万円を支払った。
五 抗弁に対する認否
1 原告一郎は、重篤な後遺障害を残したが、それでも昭和五四年に小学校に入学したころは歩行が可能であったところ、昭和六一年ころ、不自然な歩行をすることが原因で股関節の亜脱臼をおこし、昭和六二年ころから全然歩けなくなったのであるから、後遺障害が固定したのは昭和六二年ころであり、それまでは消滅時効は完成しない。
そして、原告太郎及び原告花子は、昭和六三年一二月の東京地方裁判所の類似事件の判決を新聞で知り、初めて被告らの責任を問うことが可能であることを認識したのであるから、消滅時効の起算点はこの時である。
2 抗弁2は認める。
第三 証拠<省略>
理由
一 原告一郎(昭和四七年一一月四日生)が原告太郎及び原告花子との間の二男であること、原告一郎が昭和四九年一一月二五日、被告日赤が設置する被告病院の小児科医師である被告乙山の診察を受け、アセトン血性嘔吐症(自家中毒症)及び急性咽頭炎との診断のもとに入院して治療を受けたこと、同月三〇日、腰椎穿刺による髄液検査の結果、結核性髄膜炎と診断され、以降その治療を受け、一二月五日、国立療養所広島病院に転送されたことは当事者間に争いがない。
また、甲第一号証の一ないし一五、甲第二号証、甲第三号証、甲第七号証の一、二、原告花子の供述及び弁論の全趣旨によると、原告一郎の結核性髄膜炎の治療及び後遺症に関して請求原因1(六)及び(七)の事実を認めることができる。
二 原告らは、被告乙山は、初診日である昭和四九年一一月二五日(以下、原則として「昭和四九年」は省略する。)に、あるいは遅くとも一一月二八日までには原告一郎が結核性髄膜炎にり患していることの診断をつけ、その治療を開始すべきであったとして、その治療上の過失を主張するので、以下、この点について判断する。
1 乙第二号証ないし第四号証、乙第一九号証ないし第二四号証、原告花子及び被告乙山の各供述によれば、原告一郎が一一月二五日に被告病院を受診した以降一一月三〇日に髄液検査により結核性髄膜炎と診断されるまでの原告一郎の症状及び治療等について以下の事実を認めることができる。
(一) 原告花子は、一一月二五日午前、原告一郎は約一〇日前から嘔吐、発熱が続くが、近医にかかっても症状がいっこうに改善しないとして、被告病院を訪れ、被告乙山が原告一郎を診察した。
その際、原告一郎は、体温38.9℃、咽頭発赤、腹部陥凹があり、尿のアセトンが三プラスであったことから被告乙山はアセトン血性嘔吐症及び急性咽頭炎と診断し、近医では適切な治療がされなかったものと考え、原告花子に対し、点滴でもすれば二、三日で良くなる旨を告げた。これに対して、原告花子は、夜間に容体が悪化しても困るとして入院を希望したので、原告一郎は入院して治療を受けることとなった。
なお、原告一郎には、解熱剤や抗生物質の投与、点滴の処置がとられた。
同日午後二時の体温は36.5℃、午後六時の体温は36.8℃であり、また、血液検査の結果、炎症を示すCRPは二プラス、赤沈は三二ミリ/時であった。
(二) 一一月二六日は、原告一郎は嘔吐や吐き気はないが、腹痛を訴えた。そして、体温は、午前一〇時が37.6℃、午後六時が38.4℃、午後一〇時半が35.9℃である。食欲不振で咽頭発赤は続いている。
点滴や解熱剤の投与をする。アセトンはプラスマイナスであった。
被告乙山は、原告一郎の発熱は咽頭炎が治っていないことによるものと考えた。そして、食欲がなく、腹痛を訴えるのはアセトン血性嘔吐症の症状とみている。
(三) 一一月二七日は腹痛、嘔吐があり、午前七時の体温が38.9℃であり、解熱剤を投与され、36.8℃に戻る。睡眠中の顔色不良であり、脱力感著明。
午後一〇時半の体温は38.2℃であり、アセトンは三プラスであった。
点滴の量を増やした。
なお、当日は被告乙山は診察していない。
(四) 一一月二八日は、午前三時半に腹痛訴え、胆汁様のもの嘔吐する。夜間三〇分ごとに嘔吐。顔色不良、午前七時の体温38.2℃、活気なくグッタリしている。午前一〇時二〇分点滴開始、煎餅は食べ、やや活気あり、午後六時腹痛訴える。アセトンは一プラス。
被告乙山は、感染が新たに加わったのではないかと考え、抗生物質を従来のセポランに追加してビスタマイシンを投与している。
(五) 一一月二九日は、午前〇時四五分の体温三八℃、午前一〇時三〇分点滴開始、午後一時一〇分の体温38.9℃、解熱剤注射、昼食に大根すり少々、茶碗蒸し少々、あめ玉五個摂取、午後二時、嗜眠状態の可能性があり、午後六時活気なし、原告花子がインターンと認めた医師が何人か来て、脳膜炎の疑いがある旨告げる。
当日は、被告乙山は、従来の抗生物質が効いていないのではと考え、当時では最も有効的な抗生物質とされていたセファメジンとガンマーグロブリンを併用する処置をとっている。
(六) 一一月三〇日は、午前七時覚醒しているがすぐウトウトしている、相変わらず活気ない。午前八時三〇分には名前を呼ぶも覚醒せず、開眼するもすぐ閉眼する。午前九時一〇分嗜眠状態にて瞳孔反射にぶい、午前一〇時脱力感著明にて反応なし。
被告乙山は、顔色不良、仮面様顔ぼうから意識障害があるのではないかと考えて髄膜炎を疑い、初めて項部硬直の検査をしたところ項部硬直があり、直ちに腰椎穿刺で髄液検査するに至る。
髄液の状態から結核性髄膜炎を疑いその治療を開始した。
以上の事実を認めることができる。
なお、被告らは、被告乙山が一一月二五日の初診時に原告一郎の項部硬直の有無を検査した旨を主張するが、被告海田は、本人尋問において、一一月二九日以前に項部硬直の検査をしたかの質問に対し、「覚えていませんけれど、していなかったんじゃないかと思います。」と供述しているのである。
鑑定人日本大学医学部小児科学教授大国真彦の鑑定(以下「大国鑑定」という。)は、項部硬直の検査は熟練した小児科医なら必ずチェックしているとして、被告乙山は一一月二五日には項部硬直の検査をして陰性であったものと推測している。
被告乙山がそのように小児科医のルーティーンとして項部硬直の検査をするようにしているのであれば、前記の質問に対して、当然、カルテには記載がないが、項部硬直の検査はするようにしているので当日もしているはずである旨明確に供述するはずであるが、そのような供述はしていない。
なお、甲第一三号の証国立療養所広島病院のカルテには、一一月二五日に被告病院で受診した際項部硬直の検査は陰性であった旨の記載がある。しかし、原告花子の供述によれば、原告一郎が一二月五日に右療養所に転送されたとき、担当医師から被告病院での検査内容や症状等を尋ねられたことが認められるが、その際の原告花子の不正確な受け答えから誤解されて右のように記載されたものと認められる。
2 結核性髄膜炎、アセトン血性嘔吐症及び急性咽頭炎等の症状、治療、予後等については、医学文献に以下のとおり記載されていることが認められる。
(一) 結核性髄膜炎
(1) 「ネルソン小児科学(原著一二版)」(一九八六年六月一〇日発行)(甲第一〇号証)
臨床所見は便宜的に次の三期に分けられる。
一期(一般的な非特異的症候)、二期(明白な神経学的徴候の出現)、三期(昏睡)
一期の間は、症状が非特異的なので、正確に診断することが困難である。
患者は、遊びに対する興味を失い、ぼんやりと虚空を見つめており、ときには熱があることもある。次第に易刺激性が高まる一方で、ときにはこれに無表情な状態が入り混じってくる。患児のおよそ半分に嘔吐の既往を認めるが、あまり著明なものではない。頭痛を訴える患者もいる。二歳以下の小児には痙攣の出現を認めることがあるけれども、年長児では稀である。ごく稀に、便秘や下痢、腹痛などがみられる。通常一期はおよそ一週間持続するが、ときには三週間にわたることもある。もし結核結節がクモ膜下腟に破れてしまった場合には、一期はごく短くなって症状が完全に出きらないうちに急速に三期へと進行してゆく。
二期は神経学的な症状の発現によって特徴づけられるが、こうした症状は大脳半球を覆う浸出物によって発現する。髄膜の炎症によって項部強直が出現し、ケルニッヒやブルジンスキー徴候は陽性となる。
患児は、今度は急速に三期に突入して、無反応、後弓反張、除脳硬直、乳頭浮腫などを示す。
結核性髄膜炎の診断をできる限り早期に確定すべきであることは明白である。その場合に、結核患者との接触歴は重要であり、ツベルクリン反応はほとんどの場合に陽性である。X線写真で肺病変が示されることもある。腰椎穿刺では、常に異常髄液所見を認める。
二つの大きな因子、すなわち患者の年齢と治療が開始された時点での病期とによって予後が決定される。一般に二歳以下の小児では死亡率が明らかに高く、また、神経学的な後遺症も高頻度に出現する。
一期では、治癒率が一〇〇パーセントで、永久的な神経系後遺症も少ないことが期待できる。二期では、最善の治療を行っても死亡率が一五パーセントで、七五パーセントに神経学的な後遺症を残す。三期では、五〇パーセントの死亡率がみこまれ、実に、神経後遺症の出現頻度は、生存者の八〇パーセント以上にも及ぶ。最も多い神経学的後遺症は、発達遅滞や脳神経麻痺、水頭症、視神経萎縮、聾、運動麻痺、持続性の昏睡又は痙攣そして下垂体障害などである。
(2) 「新小児医学大系」(小林登他責任編集)(一九八三年八月二五日発行)(甲第一六号証)
本症は、各種抗結核剤出現以前では、髄膜炎菌髄膜炎を除くと最も頻度の高い細菌性髄膜炎であった。抗結核療法の進歩により本症の頻度は著明に減少したが、依然として本症は結核の最も重要な合併症であり、結核による死亡の多数を占めている。
本症はいかなる年齢にも生ずるが、小児期、とくに乳幼児期に好発する。
発症は徐々であり、食欲不振、不機嫌、頭痛、軽度の体温上昇などの前駆症状が数日間続く。その後、傾眠、過敏性、体温は徐々に上昇し、三八℃台になるが、まれに軽度上昇のみのこともある。脈拍は頻脈となり、全身性・局所性の痙攣、突然の叫喚モウニングクライなどを呈する。髄膜刺激症状は、この時期ではいまだ明確ではないが、軽度の項部硬直、知覚過敏、羞明などがみられることが多い。ときとして、この時期では臨床症状は一過性に動揺し、改善したようにみえることもあるので注意が必要である。
発症して一週間以上たつと典型的な本症の臨床症状を呈する。著明な意識障害、ついには昏睡になり、三九℃台の高熱、脈拍はしばしば徐脈、不整となり、周期性不規則呼吸を呈する。項部強直、ケルニッヒ症状もみられるが、化膿性髄膜炎ほど著明ではない。
本症のごく初期では、髄液の変化はごく軽度のことが多く、疾患の進行につれ明確な変化を示すようになる。
本症の診断には、以下のごとき臨床所見が重要である。
結核菌の濃厚感染の既往歴
肺、リンパ節、骨などの結核性病巣の存在
ツベルクリン反応
前記の臨床症状、髄液所見
本症の予後を左右する因子としては①発症年齢、②臨床所見、③適切な早期治療の三因子が最も重要である。
発症年齢では、乳児と老人が予後不良のことが多い。
臨床所見については、次の三群に分けて評価するのがよい。
① 髄膜刺激症状はあるが、意識障害、局所性神経学的所見、水頭症などを認めない群
② 軽度の意識障害、局所性神経学的所見のいずれか、あるいは両者を有する群
③ 昏迷、譫妄などの意識障害、片麻痺(または対麻痺)のいずれか、あるいは両者を有する群
①の群では、適切な早期治療により八〇パーセントはほぼ完全に治癒し、後遺症を残すことはきわめて少ない。②の群では、八〇パーセント以上は種々の程度の後遺症を残して回復する。死亡は二〇パーセント以下である。
これに対し、③の群では、死亡は五〇パーセント以上であり、死亡を免れても永続的な脳障害を残す例が多数を占める。
(3) 「小児診断治療の指針」(医学博士蒲生逸夫著)(昭和四八年九月三〇日発行)(甲第一九号証)
① 前駆期(一週間) 比較的徐々に発病する。頭痛または不機嫌、不元気、食欲不振ときに嘔吐を示す。微熱または無熱。
② 髄膜炎期(一週間) 髄膜刺激症状(項部強直、腱反射亢進や左右不同、ケルニヒ徴候)が現れ、意識は次第に傾眠状となる。
③ 麻痺期(一週間) 次第に昏睡に陥る。
初期には単純な胃腸障害として見逃されやすいが、大泉門の膨隆は診断に役立つ重要な症候である。感染源を詳しく調べる。ツベルクリン反応は本症ではしばしば陰性。
結核性髄膜炎早期の胸部レ線像は、二〇パーセントでは粟粒結核、一〇パーセントでは石灰化した初感染巣が認められるが、残りは正常または正常に近いから、胸部レ線像が正常だからといって、結核性髄膜炎を除外することはできない。少しでも疑わしければ、直ちに髄液検査を行い、確かめる。
(4) 「結核(第二版)」(久世文幸他編集)(一九九二年六月一五日発行)(甲第三一号証)
RFPの導入による抗結核科学療法の進歩によっても、本症の死亡率は減少したが、後遺症を残さずに治癒する例は、過去に比べて決して改善したとはいえない。表四―四(別紙)は最近われわれが経験した全症例であるが、二二例中七例(三二パーセント)に中枢神経後遺症が見られ、二例(九パーセント)が死亡している。
予後に大きく影響するのは診断時の病期であり、一期(前駆期)に診断された症例は全例後遺症を残さずに治癒しており、早期診断の重要性を示している。しかし、一期には本症に特異的な症状はなく、症状のみから診断することは困難であり、羽曳野病院での一期診断例はいずれも肺結核、粟粒結核の診断時に実施された髄液検査によって発見されている。
したがって、本症の早期診断のためには、小児を診る医師がすべからく本症を念頭に置くべきであり、また乳幼児での結核では、髄膜刺激症状の有無にかかわらず髄液検査を実施すべきである。
(5) 「小児内科一三巻五号」(一九八一年五月発行)(甲第三二号証)
初発から入院するまでの症状を比較的詳しく知りえた症例について、本症とその頻度を表記すると表二(別紙)のようになる。初発症状は発熱、嘔吐、痙攣が多く、この三症状でほぼ三分の二を占める。
昭和四八年以後の当院症例の予後は表六(別紙)とおりである。
生存例のうち二七分の一六(五九パーセント)は神経学的な後遺症を残し、二七分の五(一九パーセント)はいわゆる植物的状態にある。昭和二三年から昭和四九年の山登のデータと比較すると、死亡群が後遺症群に移行しただけで、治癒群の比率(三八パーセント)は以前(四七パーセント)より逆に低下している。
発症後診断までに要した日数は後遺症の有無で有意差がない。すなわち、発症後すぐに診断が確定しても重篤な後遺症が残る可能性があり、ただ神経学的所見の出現する以前に診断が確定したものに関してのみ予後良好といえることが表六よりわかる。
(6) 「結核(第二版)」(久世文幸他編集)(一九九二年六月一五日発行)(甲第三三号証)
我が国での死亡率は二五パーセントないし三七パーセントと高率である。
昭和五〇年以前の症例を含んだ小児の集計を見ると、一五歳までの症例で死亡率二八パーセントである。
上記の集計では、予後の内訳として、総合効果では、著明改善一〇例(34.5パーセント)、中等度改善五例(17.2パーセント)、軽度改善二例(6.9パーセント)、増悪二例(6.9パーセント)があげられており、明らかな後遺症として五症例(脳水腫二例、下半身痙性麻痺二例、半身麻痺一例、視力障害一例、神経障害一例)が記載されている。他の集計でも、死亡二七パーセント、後遺症二三パーセントとされている。本症は明らかに予後の悪い疾患である。
(7) 小児科臨床の医学雑誌(表題不明 一九七六年発行)(乙第二七号証)
予後は悪い。昭和四九年、五〇年計七六例中死亡一九例二五パーセント、後遺症四〇例52.6パーセント、治癒一七例22.4パーセント。後遺症を残したものが多いが、その内訳は表六(別紙)のとおり重い。
治療上最も重要なものは早期発見、早期治療である。現在の本症の治療成績は上掲のように決してよくない。その原因は、多くの例で診断が遅れ、進んだ状態になって初めて治療が開始されていることにある。小児の結核症が著減したために、不明の発熱、嘔吐、神経症状等を呈する児を見た場合に、本症が念頭に浮かばなかったことが診断の遅れの重要な原因であろう。本症の可能性を思い起こすことが、診断の第一歩である。
(二) アセトン血性嘔吐症(自家中毒症)
(1) 「小児科診療」(昭和六一年四号)(乙第三四号証)
アセトン血性嘔吐症は習慣的に自家中毒症とも呼ばれる。
それまで元気であったものが、急にぐったりし、嘔吐が始まる。腹痛を訴える。嘔吐と嘔吐の間には生あくびを連発する。吐物は胆汁を混ずるようになり、しまいにはコーヒー残滓様のものになる。呼気にはアセトン臭がある。放置すると意識を失い、あるいは痙攣を来たし、死線をさまよう。下痢は来さない。発病初期から尿アセトンが強陽性で、糖は検出されない。
診察所見では、脱力が著名で、目は落ち窪み、腹壁の緊張はなく、触診では、つきたての餅のような軟らかさである。脈は微弱となり、拡張期血圧が低下し、股動脈音を明瞭に聴取する。発熱はあってもなくてもよい。
アセトン尿は通常一ないし三日で消失するが、中には一週間も持続する例がある。
(2) 「小小児科書」松村忠樹著(一九八二年四月一日第四版発行)(甲第八号証)
二から三歳以後の小児において発作性に反復する嘔吐を主徴とし、アセトン尿、意気消沈を伴う疾患であって、一つの症状名である。厳密にいえば消化器疾患ではなく、系統的な自律神経・代謝障害である。
発病は突然嘔吐で始まることもあるが、前駆症として全身倦怠、意気消沈、食欲不振、腹痛、便秘などを見る場合もある。
嘔吐ははじめ不消化物を吐くが、やがて粘液性、胆汁を混ずるようになり、ついにコーヒー様残滓物を吐出する。軽症自家中毒症では嘔吐を伴わないこともある。
多くは軽熱または微熱である。急性感染が誘因となる場合にはそれに応じた発熱を見ることは当然である。
呼気にアセトン臭あり、尿中にアセトンを証明する。
発作時低血糖症を見る。
速脈、呼吸頻数、血圧低下、溜息などがある。重症ではけいれん、昏睡をきたす。
発作は三から四日で終焉する。
(三) 急性咽頭炎
「ネルソン小児科学原著一二版」(乙第三三号証)
この病名は、扁桃炎、及び咽頭扁桃炎を包含した咽頭のすべての急性の感染症を総称する。しかし、厳密にいえば、その主たる炎症の場が咽喉頭にある場合をいう。この疾病は一歳以下の小児では一般的でない。頻度はその後増大し、四歳ないし七歳からピークに達し、小児期後半から成人まで続く。
急性咽頭炎は、発熱の有無に関係なく、その原因はウイルスである。A群β溶連菌は、唯一の一般的な原因菌であり、流行時を除くと一五パーセント以下の頻度である。
ウイルス性急性咽頭炎は、一般に徐々に発症するもので、中等度の咽頭痛を伴った発熱、倦怠、食欲不振を初期症状とする。咽頭痛は初めから現れることもあるが、一般には他の症状より一日ほど遅れて出現し、第二から三病日にそのピークに達する。嗄声、咳嗽、鼻炎などの症状も現れる。ピーク時でも咽頭の発赤はわずかであるが、ときに著明となり、軟口蓋及び後咽頭壁の小潰瘍を形成することがある。
二歳以上の小児のレンサ球菌性咽頭炎は、頭痛、腹痛、嘔吐により始まる。
これらの症状は四〇℃の高熱を伴うが、ときには一二時間以上も発熱をみないこともある。初期症状出現後数時間して咽頭痛が現れ、患児の約三分の一は扁桃の腫張、分泌及び咽頭の紅斑を認めるようになる。患児の三分の二は扁桃の腫張分泌を伴わず、軽い咽頭の紅斑のみを示す。発熱は一から四日続くが、重い場合には疾病期間が二週間にもなることがある。
3 そこで、被告海田に原告ら主張の診療上の過失があったか否かについて判断する。
(一) 前認定の各医学書の記載から明らかなとおり、結核性髄膜炎は、その初期(一期、前駆期)には非特異的症状しかなく、見逃されやすいのに対し、予後が悪く、そのため、早期発見、早期治療が強く要求されているものであり、小児科医は常に念頭に置くべきものとされているのである。
結核の減少とともに症例が少なくなり(なお、乙第二八号証の医学文献によれば、小児結核性髄膜炎の症例件数は全国で昭和四九年が四四件、昭和五〇年が三五件であることが認められる。)、医師の関心が薄れていくが、これに対して警鐘が鳴らされているものである(書証として提出された医学文献の改訂版の発行年度は本件医療事故後ではあるが、右のことは本件医療事故当時から言われていたことであると認められる。)。
(二) 前認定のとおり、原告一郎は、被告病院を訪れる約一〇日前から発熱と嘔吐が続き、近医に風邪であると診断されて治療を受けたものの、原告花子は、原告一郎の症状がいっこうに改善せず、風邪にしてはおかしいと思って被告病院を受診したものである。
そして、被告乙山は、尿中のアセトンが三プラスであり、また、咽頭発赤があること等から、アセトン血性嘔吐症(自家中毒症)及び急性咽頭炎と診断し、個人病院では点滴等のしかるべき治療をしなかったので、症状が長引いていると判断し、原告花子に対し、点滴でもすれば二、三日で良くなる旨告げたものである。
原告らは、被告乙山は、この初診の時点で髄液検査をして結核性髄膜炎の診断をすべきであった旨主張する。
大国鑑定は、「入院した時点で、問診の結果、嘔吐が一〇日間も続いており、発熱も38.9℃あったことなどから、小児科医としてはどのような疾患を疑い、どのような検査・治療を実施すべきであったか」との鑑定事項に対し、「無菌性髄膜炎、化膿性髄膜炎なども発熱と嘔吐がある時は考慮に入れ、頸部硬直をチェックするが、これが認められない場合は幼児なら除外する。」、「結核性髄膜炎も考慮にいれるべきで疾病があるが、入院時発熱がなかったこと、頸部硬直を認めなかったことにより、これを積極的に考えねばならない根拠に乏しい。結核性髄膜炎は頸部硬直を伴わないこともあることを熟知した本症の経験豊富な医師なら、積極的に考えることも出来ようが、本件の初診時点では既に稀な疾患になっており、被告医師の卒業年度からみても、これを考慮にいれるのは常識的ではない。」との意見を出している。
被告乙山は初診時には原告一郎の項部(頸部)硬直の検査をしていないのであるから、大国鑑定は、その前提を誤っているものであるが、しかし、一〇日間も発熱、嘔吐が続いていた場合、小児科医としては、髄膜炎(結核性髄膜炎に限らない。)を疑うべきであるということは明らかである。
もっとも、右時点で項部硬直の検査をしていた場合、原告一郎に項部硬直があったか否かは明らかではない。右時点では、発病から一〇日間経過しているのであるから、病期においては、通常一週間とされている一期又は前駆期を経過しているものであり、原告一郎に項部硬直が存在した可能性を全く否定することはできない。結核患者を扱うことの多い大阪府立羽曳野病院の医師である証人豊島協一郎は、嘔吐も髄膜刺激症状の一つであるから、右時点で原告一郎に同じ髄膜刺激症状である項部硬直も存在した可能性がある旨証言する。
一方、乙第四〇号証の広島市立舟入病院小児科部長藤井肇作成の「私的鑑定書」では、一一月二九日に項部硬直を検査すれば陽性であることが推定される旨記載されていることからして、初診時には項部硬直の存在を否定するものであろう。
前掲「新小児医学大系」(甲第一六号証)には「その後、傾眠、過敏性……全身性・局所性の痙攣、突然の叫喚モウニングクライなどを呈する。髄膜刺激症状は、この時期ではいまだ明確ではないが、軽度の項部硬直……などがみられることが多い。」と記載されているが、これからすると、初診時の原告一郎の症状に傾眠や痙攣はなかったことからして、軽度の項部硬直があったことについては否定的ということになろう。
右は、いずれも推測の域を出るものではないが、原告一郎に項部硬直があった可能性は低いというべきであろう。
いずれにせよ、初診時に原告一郎には項部硬直があり、被告乙山が検査をしていればそれを発見して結核性髄膜炎を疑い、髄液検査をすれば、結核性髄膜炎の診断がついたはずであるとして、直ちに被告乙山の過失を結論づけることはできないというべきである。
また、大国鑑定は、「昭和四九年当時、一般小児科臨床上、髄液検査はどのような症例に対して実施されていたか」との鑑定事項に対し、「髄膜炎が疑われる症例に対して実施されていた。すなわち、髄膜刺激症状(頸部脈直など)がある例に対しては、直ちに実施されるものである・髄膜刺激症状としては頸部硬直の他にケルニヒ徴候、頭痛、嘔吐があげられるが、頭痛と嘔吐は他の多くの疾患でみられるので、前二者が認められない限り髄液検査は施行されることは少ない。」との意見を出していることからして、項部硬直がないとした場合には、初診の時点で髄液検査をすることは、当時の医療の実践からは期待できないことであると認められる。
そして、初診時の原告一郎の症状(アセトンが三プラスで、咽頭発赤があった等)からして、被告海田がこれをアセトン血性嘔吐症及び急性咽頭炎と診断し、点滴をし、抗生物質を投与したことを医師として有り得ない判断をしたものということのできないことは、大国鑑定、証人豊島協一郎のいずれも認めるところである。
被告乙山は、原告一郎が被告病院を受診する前、個人病院では風邪と診断して適切治療を受けなかったので、症状が長引いているものと判断し、抗生物質の投与等をして経過をみようとしたものであるから、被告乙山が結核性髄膜炎に対する認識が甘かったとはいえるものの、右の診断をし、これに対する治療を開始したこと自体に過失はないというべきである。
(三) 一一月二六日にはアセトンはプラスマイナスで改善がみられるが、発熱は続いている(熱が下がったのは解熱剤の投与による一時的なものである。)。
そして、一一月二七日には発熱は続くのみならず、脱力感も著明となっていき、アセトンも再び三プラスとなり、一向に症状の改善がみられない。そして、一一月二八日は嘔吐を繰り返し、発熱もあり、活力無くグッタリしている。
この時点になっても、被告海田は従来の診断の見直しをしようとはしていない。
前掲「小小児科書」(甲第八号証)にも、アセトン血性嘔吐症は、多くは軽熱又は微熱であり、急性感染が誘因となる場合には、それに応じた発熱をみると記載されているが、前掲「ネルソン小児科学原著一二版」(乙第三三号証)によれば、急性咽頭炎の発熱は重い場合でも二週間であることが認められる。
被告乙山は、初診のとき、原告花子に対して、点滴でもすれば二、三日で良くなると言っているが、これは単に原告花子を安心させるための言葉ではなく、自己の経験と医学知識からして、アセトン血性嘔吐症と急性咽頭炎では、通常その程度の治療期間で治癒するか少なくとも改善がみられるからであると思われる。
そして、大国は、証人として、抗生物質が感染症に対して効くか否かは三日間投与して結果をみる旨証言し、鑑定人としても入院後強力な抗生物質治療と輸液が行われたにもかかわらず、症状の改善がみられなかった時点で診断を考え直す必要があった旨の意見を出している。
証人豊島協一郎は、初診時に、既に一〇日間も発熱や嘔吐が続いていたという場合には、二四日時間後には診断の見直しをすることが必要である旨証言する。
これは、同証人の証言全体からして、結核性髄膜炎に対する一般の医師の意識の薄さに対する警鐘の趣旨も含まれるとして、多少は割り引いて評価することも必要であると認められるところ、以上によれば、被告乙山は、一一月二八日には、初診時の診断を見直し、結核性髄膜炎等他の重篤な疾病の可能性を想起して、必要な検査をすべきであったと認められる。
被告乙山も、一一月二八日には、入院して三日間になるのに症状が一向に改善しないのはおかしい、何か重篤な感染症ではないかと疑った旨供述しているのである。しかし、被告乙山がそれに対してとった処置は、従来の抗生物質に他の抗生物質を追加して投与したのみであり、項部硬直の検査すらしていないのである。
被告乙山は、髄膜刺激症状(発熱、嘔吐、痙攣)があれば、髄液検査はしなければならないと思っていたが、一一月二八日にはまだ髄膜刺激症状はなかった旨供述するが、嘔吐も非特異的なものとはいえ、髄膜刺激症状の一つであるのみならず、髄膜刺激症状である項部硬直の有無は検査しないのであるから、その態度には疑問があるというべきである。
翌一一月二九日には、原告一郎は、嗜眠状態と思われる状態となり、研修医らしき医師がわざわざ原告一郎のところに来て原告一郎を診て、脳膜炎の疑いがあると原告花子に告げたほどであり、その症状は相当悪化していっているのであるから、前日の一一月二八日に項部硬直の検査をすれば、陽性であった可能性が高いと思われる。
仮に項部硬直がなくても、既に発熱と嘔吐が約二週間続いているのであるから、もはや抗生物質を変えてみて更に様子をみるという事態ではないというべきであり、結核性髄膜炎を疑い、髄液検査をするべきであった。
甲第一一号証及び被告乙山の供述によれば、髄液検査をするには、患者を側臥位にして押さえつけて腰椎穿刺をする必要があり、これは患者に大きな苦痛を与えるものではあるが、このことは、前記状態においては何ら髄液検査を控えることの合理的理由にはならない。
右時点で髄液検査をすれば、結核性髄膜炎の診断はつき、直ちにこれに対する治療を開始することができたはずであるが、被告乙山が項部硬直の検査と髄液検査をしたのは、状態が更に悪化した一一月三〇日であるから、被告海田には、診断を誤り適切な治療の開始を遅らせた重大な治療上の過失があったというべきである。
したがって、被告乙山には不法行為の責任があり、使用者である被告日赤には、使用者責任あるいは診療契約上の債務不履行責任がある。
三 原告一郎が現在重度の脳障害等の後遺症があることは前認定のとおりであるが、被告らは、結核性髄膜炎が予後不良の疾病であることから、右後遺症と非空港海田の過失との因果関係がない旨の主張をする。
確かに、結核性髄膜炎は予後が不良であり、死亡率も高く、また、治癒しても後遺症(発達遅滞、脳神経麻痺、水頭症、視神経萎縮、聾、運動麻痺等)を残すことがあることは前掲の各医学書に記載されているとおりである。
しかし、前掲「ネルソン小児科学」(甲第一〇号証)では、一期で治療を開始すると一〇〇パーセント後遺症なく治癒すると記載されており、前掲「結核(第二版)」(甲第三一号証)では、羽曳野病院での結果でも一期(ただし、病期の分類は厳密に「ネルソン小児科学」の分類と一致するものではない。)では予後は良好であり、すべて後遺症なく治癒しており、二期では、治癒したものもあるが、下肢麻痺を残したもの、知能障害を残したものもあり、三期では死亡したもの多く、死亡しないまでもほぼ全例失明、片麻痺、重度の心身障害等を残している。
また、前掲「小児内科」(甲第三二号証)によれば、神経学的所見があっても、後遺症なく治癒した例も相当の割合であることが認められる。
大国鑑定は、一一月二七、二八、二九日は、原告一郎の病期は二期から三期に入ろうとしている段階であり、この時期に治療が開始されても、重篤な後遺症を残すことは避けられないとし、被告乙山は、一一月二五日から二九日で一期から二期に入っていたのではないかと供述する。
証人豊島協一郎は、一一月二五日は二期で、三〇日は二期から三期に移行する時期であった旨、後遺症の内容、程度は、脳障害が髄膜に限定されているか脳まで及んでいるかによって決まってくるところ、一一月二五日は病巣は髄膜が中心であったが、一一月三〇日は脳病変が存在していた旨、さらに、その経験上、一一月二五日から二八日までは同人の分類では二期で、その間に治療を開始すれば、三分の二は後遺症なく治癒すると推測できる旨証言する。
原告一郎が一一月二八日の段階では、症状は相当悪化し、二期の段階に入っていたと認められることができるところ、以上のことからすると、被告海田が一一月二八日に結核性髄膜炎の治療を開始したとしても、原告一郎に後遺症が残る可能性は相当あったということができるが、それ以上にその正確な確率や後遺症の内容、程度如何を認定することは不可能であるというべきである。
したがって、当裁判所は、原告一郎の現在の後遺症と被告海田の治療上の過失との間には因果関係があることは認め、ただ、賠償の額を算定するに当たっては、前記の各可能性を考慮に入れて、公正で妥当な額を認定することで足るものと認められ、また、そうする以外にはないというべきである。
四 次に消滅時効の抗弁について判断する。
1 甲第四号証、甲第六号証、乙第三七号証、乙第三八号証、原告太郎及び被告乙山の供述並びに前認定の事実によれば、以下の事実を認めることができる。
原告一郎は、昭和五〇年一二月二四日、右半身不随(上下麻痺)、言語障害、聴力障害の後遺症を残して退院し、その後、廿日市養護学校吉島分校、太田川学園等に入園していたが、原告太郎や原告花子は、被告乙山が点滴でもすれば二、三日で治るといいながら、結核性髄膜炎であることを見逃して原告一郎に重篤な後遺症が生じたことに納得がいかず、被告乙山に説明を求め続け、昭和五六年ころには、広島県医師会事故処理委員会宛に窮状を訴えたりした。また、同年、既に被告日赤を退職し、個人病院を開業していた被告海田に対しても憤りをぶつけ、警察騒ぎになったこともあった。しかし、被告らや右委員会は決して被告らの責任を認めようとはしなかった。そして、同年、人権擁護委員の石井蓬莱が仲介に立ち、被告乙山が見舞金として金一〇〇万円を支払うことの話ができ、原告太郎は同年八月一二日、金一〇〇万円を受領し、「御意見を了承し、今後、其の意志を尊重することを誓います。」と記載した石井宛の念書を作成した。
その後は、原告太郎及び原告花子は、被告日赤や被告海田に対して抗議することなく、原告一郎の介護に専念する日々を送っていたが、原告一郎は、昭和六一年ころ、不自然な歩行を続けていたことが原因で股関節の亜脱臼を起こし、昭和六二年ころからは全く歩行することができない状態になった。そして、昭和六三年一二月二〇日の中国新聞に、病院のたらい回しと転院先の病院での不十分な治療が原因で女児の化膿性髄膜炎の診断が遅れ、脳障害を残した事件について、東京地方裁判所が病院側の過失を認めて損害賠償を命じる判決をしたことが記事として掲載されたが、原告太郎及び原告花子は、この記事を見て、原告一郎の場合も被告らに法的な責任を問えるのではないかと考え、原告ら訴訟代理人に相談し、もって、平成元年五月三一日、本訴を提起するに至った。
2 右のとおり、原告太郎は、被告乙山の診療に納得ができず、その説明を求めて激しい抗議を続けてきており、昭和五六年には、被告乙山から見舞金名下に金一〇〇万炎を受領している。
被告らは診療上の過失は全く認めようとしなかったものであるが、医師の治療の結果が思わしくなかったような場合、医療過誤として損害賠償請求ができるか否かは、医学上の専門的知識は勿論、法的な知識も必要であり、単なる一私人が、専門家の援助もなく、単に被告乙山が原告一郎は急性咽頭炎と自家中毒症であり、点滴等をすれば二、三日で治ると言っていたにもかかわらず、真実は、結核性髄膜炎であり、重篤な後遺症を残したという事実のみで、被告らに法的責任があると判断することは極めて困難であることはいうまでもない。
原告太郎が昭和五六年に被告乙山から金一〇〇万円を受領したのも、あくまでも見舞金としてであって、被告乙山に対して損害賠償請求ができることを認識し、その一部の弁済として受領したものではない。
したがって、本件の場合、原告太郎が昭和六三年一二月二〇日の中国新聞で類似の事例について病院側の診療上の過失が認められ、損害賠償が命じられた判決を知り、原告一郎も同様に被告らに対して法的責任を問えるのではないかと考えて原告ら訴訟代理人に相談したころまでは、損害及び加害者を知ったとか、権利の行使に法的障害がないとして消滅時効の進行を開始することはないと解するのが相当である。
したがって、本件においては、不法行為又は債務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効は完成していないというべきである。
五 以下、原告らの損害額について判断する。
1 逸失利益
原告一郎が重度の脳障害により労働能力を一〇〇パーセント喪失していることは明らかである。
原告一郎が満一八歳に達した平成二年における賃金センサス第一巻第一表による産業男子労働者旧中・新高卒の平均年収は金四八〇万一三〇〇円であるから、これを基に満六七歳までの間の逸失利益をライプニッツ式で算出すると、金480万1300円×18.169=金8723万4819円となる。
2 付添看護料
原告一郎は、付添看護がなければ生存を保てない状態であることは明らかであるところ、原告花子の供述及び弁論の全趣旨によれば、原告花子は、原告一郎が国立療養所広島病院に入所した昭和四九年一二月五日から退院する昭和五〇年一二月一四日まで、毎日付添看護し、さらに退院後、昭和五六年八月に太田川学園に入園するまでの約五年半の間、原告花子が自宅でつききりで看護したことが認められるが、これは親権者としての通常の看護の程度を超えたものであると認められる。
看護料を一日金三〇〇〇円としても、昭和四九年一二月五日から昭和五六年七月三一日までの間(二四二九日間)の付添看護料は、金七二八万七〇〇〇円となる。
3 施設負担金
甲第二八号証の一ないし七及び原告太郎の供述によれば、原告太郎は、福山若草学園の施設の自己負担金として、昭和五六年八月から一箇月二万円ほど、平成元年ころから平成四年三月まで一箇月金四万一二〇〇円、同年四月からは一箇月金六万八七〇〇円を支払ってきていることを認めることができる。
したがって、平成七年二月末までの自己負担金は、合計金五七二万二六〇〇円となる(昭和五六年八月から昭和六三年三月までの間一箇月金二万円、平成元年一月から平成四年三月までの間一箇月金四万一二〇〇円、平成四年四月から平成七年二月までの間一箇月金六万八七〇〇円で計算)。
また、平成七年三月一日現在(一郎二二歳)で、平均余命五五年であるから、その間の施設負担金の現在額は、金6万8700円×12×18.2559(ライプニッツ係数)=金1505万0163円となる。
合計金二〇七七万二七六三円
4 原告一郎慰謝料
金二〇〇〇万円をもって相当と認める。
5 原告一郎の損害額
以上1ないし4を合計すると、金一億三五二九万四五八二円となる。
そして、当裁判所は、前述のとおり、結核性髄膜炎が予後の悪い疾病であり、昭和四九年一一月二八日から治療を開始したとしても原告一郎は後遺症を残した可能性があること及び結核性髄膜炎の病期と予後との一般的な関係に鑑みるとともに、被告乙山が弁済の抗弁として主張する金一〇〇万円の支払いを考慮し、その約半額である金六〇〇〇万円をもって原告一郎が被告らに対して請求できる損害(弁護士費用を除く。)と認めるのが相当と判断する。
そして、原告らが原告ら訴訟代理人に本訴の提起、追行を委任し、相当額の報酬の支払いを約したことは明らかであるところ、原告一郎に関する本件医療事故と相当因果関係のある弁護士費用の額としては金六〇〇万円をもって相当と認める。
以上のとおり、原告一郎が被告らに対して請求することができる損害賠償の額は金六六〇〇万円となる。
6 原告太郎及び原告花子の損害額
原告一郎の父母である原告太郎及び原告花子が、本件医療事故により、原告一郎の死以上の苦悩と深い悲しみに陥ったことは何らの説明の要はない。
そして、今日まで長期間、原告一郎を介護してき、また、これからもその介護が続いていくとともに、自分達が年老いたときの原告一郎の介護についての不安におののいているのであり、これらは当然、慰謝料をもって慰謝されるべきである。
よって、それぞれ、慰謝料として金三〇〇万円及び弁護士費用金三〇万円の合計金三三〇万円を原告太郎及び原告花子の損害と認める。
六 以上のとおり、原告らの本訴請求は、被告ら各自に対し、不法行為による損害賠償として、原告一郎が金六六〇〇万円、原告太郎及び原告花子がそれぞれ金三三〇万円並びにこれらに対する不法行為後の日である昭和四九年一二月五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当として棄却することとして、主文のとおり判決する。
(裁判官佐藤修市)
別表<省略>