広島地方裁判所 平成8年(ワ)1421号 判決 2000年1月19日
原告
甲野太郎
右訴訟代理人弁護士
小笠豊
被告
広島県
右代表者知事
藤田雄山
右訴訟代理人弁護士
秋葉信幸
右指定代理人
川﨑正典
主文
一 被告は、原告に対し、金一六〇六万八三五五円及びこれに対する平成四年九月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを三分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。ただし、被告が金一二〇〇万円の担保を立てるときは、右仮執行を免れることができる。
事実及び理由
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対して、金二五〇〇万円及びこれに対する平成四年九月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
3 担保を条件とする仮執行免脱宣言
第二 事案の概要
本件は、原告が、被告が開設・運営する県立広島病院(以下「被告病院」という。)において食道アカラシアに対する手術を受けた際、脾臓が損傷したこと等について、被告病院の担当医に手術適応違反、説明義務違反ないし手術手技上の注意義務違反の過失があったとして、被告に対し、債務不履行又は不法行為(使用者責任)に基づき、損害賠償を求める事案である。
一 争いのない事実
1 当事者
(一) 原告は、昭和三一年ころ、食道アカラシア(下部食道噴門部の弛緩不全による食道の通過障害や、食道の異常拡張などがみられる機能的疾患)の手術を受けた者である。
(二) 被告は、被告病院を開設・運営している地方自治体である。
2 事実経過
(一) 平成四年九月一日(初診日)
原告は、平成四年九月一日、佐伯郡大柿町所在の浜井病院(以下「浜井病院」という。)の紹介状とレントゲン写真を持参し、被告病院第一外科を受診した。紹介医の診断は、食道アカラシア(術後)、高血圧症、左横隔膜神経麻痺、痛風、逆流性食道炎であった。
右受診時の原告の訴えは、胸内苦悶感、喉頭部違和感(通過障害)、心悸亢進であった。すなわち、原告は、右症状が約五年前からあり、近日症状が増悪し、喉までのつかえ感と痛みが食後約五時間継続する上、食餌摂取困難による栄養障害から五キログラムの体重減少があることを訴えた。
また、浜井病院での上部消化管透視撮影では、食道胃接合部における消化管壁の肥厚と内腔の狭窄(八ミリメートル径)及びそこから口側における食道内腔の拡張(5.5センチメートル径)の所見を認め、前回手術部位の炎症性肥厚又は瘢痕性肥厚による食道胃接合部の狭窄を呈していた。そして、胸部単純撮影の所見では、左横隔膜の麻痺(昭和三一年ころの手術が原因)による横隔膜の挙上が認められた。
以上より、原告を診察した被告病院第一外科部長乙川二郎医師(以下「乙川医師」という。)は、食道アカラシア再発(術後再狭窄)であると診断した。
そして、乙川医師は、狭窄の程度が近日悪化し、食後五時間以上つかえ感があり患者の苦痛が激しいこと、食餌摂取障害による栄養不足がひどく体重が五キログラム減少していること、三六年前の手術部位の再狭窄であることからして狭窄の発生機序が初発例と異なり内科的治療による効果は望めず手術以外の治療法がないとの判断から、治療方針として外科的治療を行うことを考えた。
(二) 平成四年九月七日(入院日)から同月一五日(手術前日)まで
(1) 原告は、同月七日、被告病院に入院した。被告病院の丙沢一郎医師(以下「丙沢医師」という。)は、原告に対し、入院時の問診及び理学所見をとった。
問診内容は、以下のとおりであった。
ア 主訴
食物つかえ感
イ 既往歴
昭和三一年ころ、河石病院にて食道アカラシア手術。二回手術施行(胸腔内膿瘍が原因か)。
昭和四〇年ころ、虫垂切除術。
昭和六三年ころ、胆石症で手術(浜井病院)。
一年前より不整脈、精査で指摘される。
二〜三か月前から前立腺肥大。
(2) 丙沢医師は、右所見から、問題点は①再発症例であること、②膿胸の既往症(+)、③不整脈、④前立腺肥大であると考え、これに対して各種検査計画を立て、同月八日、血液検査、出血時間、尿検査、胸部腹部単純撮影、心電図、心エコー、肺機能検査、腹部エコーを、さらに翌九日には上部消化管透視を施行した。
右検査のうち、血液検査の結果は、白血球数五九〇〇、赤血球数五二五万、ヘモグロビン一デシリットル当たり17.4グラム、ヘマトクリット49.9パーセント、血小板数二六万、出血時間四分であり、また腹部単純撮影の結果、左横隔膜挙上ありとされた。
同月一五日には、麻酔科による術前診察がなされた。
(三) 平成四年九月一六日(手術当日)
同月一六日、原告に対する手術(食道拡張術)が施行された。手術の途中、被告病院の医師は、一部、腸管を損傷し、また、脾臓を損傷して止血が不可能となり、やむなく脾摘術を行った。
手術時間は四時間三二分であった。
(四) 平成四年九月一七日(手術翌日)から同年一二月二七日(退院日)まで
(1) 九月一七日(術後第一病日)
左ドレーンより胆汁様の排液があり、右ドレーンからは漿液性の排液があった。この左ドレーンからの胆汁様排液は、腹腔内に残った術中洗浄液等も疑われたが、縫合不全も否定できず、翌日上部消化管造影の予定とされた。
また、血液検査では軽度の肝障害と重度の低蛋白血症、膵外分泌酵素の上昇が認められた。このため、低蛋白血症により、創傷治癒の遅延から重度の縫合不全と循環血液量の低下による急性循環不全を惹起する可能性が予想された。このため、丙沢医師は、血漿蛋白を補う目的でアルブミン製剤と新鮮凍結血漿を投与し、昇圧剤の持続点滴を行った。
(2) 九月一八日(術後第二病日)
丙沢医師は経鼻チューブより造影剤を注入し、上部消化管造影を施行したところ、食道、胃、十二指腸からの明らかな造影剤の漏出は認められなかった。造影剤での検出不可能な微少漏出(マイナーリーク)か、手術中に一部損傷した小腸からの漏出の可能性も疑われたが、結論は出なかった。
(3) 九月一九日(術後第三病日)
前日の造影で明らかな縫合不全は認められなかったが、高熱(三八度以上)が術後三日たっても下がらないこと、腹部のガーゼが汚染していること、そして血液検査で白血球数が一万八七〇〇という感染、炎症を示す数値に上昇していることから絶飲食とし、丙沢医師は絶食中の高カロリー栄養を行う目的で中心静脈栄養を開始した。
(4) 九月二一日(術後第五病日)
排ガスが認められた。白血球増多は徐々に改善傾向を示したが、同月一七日提出の培養検査で緑膿菌が検出された。丙沢医師は、抗生剤をこの菌に対して感受性が陽性であるアンピシリンに変更した。ドレーンからの排液は胆汁性ではなく、膿性になった。
(5) 九月二五日(術後第九病日)
依然として発熱、白血球増加等の感染、炎症を示す所見が続くため、丙沢医師は腹腔内の膿瘍形成の可能性を疑い、腹部CTを施行した。
消化管手術後の縫合不全は、十分なドレナージが効いていれば心配ないが、膿瘍を形成した場合、敗血症を引き起こし、これが急性循環不全やDIC等の生命を脅かす状態に移行する可能性があることから、膿瘍の検索が行われた。
CTの所見は、膵尾部から下行結腸の後方の前傍腎部腔(後腹膜腔)に液体貯留を認めた。診断としては後腹膜腔での液体貯留と考えられ、膿瘍形成は否定された。後腹膜腔はドレーンの留置してある腹腔とは後腹膜によって隔離されており、この部位への液体貯留は感染や炎症の原因とは考えられず、経過観察とすることにした。
(6) 一〇月一日(術後第一五病日)
上部消化管透視を施行した。食道胃接合部の通過は良好で、造影剤の漏れも認められなかった。
(7) 一〇月五日(術後第一九病日)
腹部エコーにて、左傍腎部に少量の液体貯留が認められた。
(8) 一〇月六日(術後第二〇病日)
同月四日の透視で統合不全を認めなかったこと、同月五日の腹部エコーで後腹膜腔の液体貯留が少量であったこと、そして発熱は続いていたものの明らかな感染源がなく白血球数も一万三〇〇〇と改善傾向を示していたことなどから、丙沢医師は原告に関し経口摂取を開始した。
(9) 一〇月一二日(術後第三週)
原告に関し発熱が続くため、丙沢医師は中心静脈栄養チューブの入れ換えを行った。
(10) 一〇月一四日(術後第四週)
腹部痛の訴えがあり、心電図で不整脈を認めたため、丙沢医師は抗不整脈剤を使用した。
このころ、ドレーンからの排液量が増加してきたため、翌日から再度、絶飲食とし、丙沢医師は高カロリー栄養を行った。
(11) 一〇月一五日
上部消化管造影が施行され、胃幽門部の幽門形成術部位からの微少な造影剤漏出が疑われた。
(12) 一二月一日
上部消化管透視が施行された。
(13) 一二月七日
原告は、被告病院を退院した。
(五) 平成五年三月三日
原告は、平成五年三月三日、被告病院の外来において退院後四回目の受診をした。それまでの受診の際には、食欲もあると述べており、経過は良好であったが、この日には、前日に黒色便があったとの訴えがあった。便ヒトヘモグロビン検査三日間を提出した結果、いずれも陰性で血便は否定的となった。
血液検査の所見は、白血球数七七〇〇、赤血球数四九三万、ヘモグロビン一デシリットル当たり12.4グラム、血小板数49.5万、肝機能正常というものであった。
二 争点
1 過失の有無
(一) 手術適応違反の有無
(原告の主張)
食道アカラシアの手術成績は良くないものであり、特に食道アカラシアに対する再手術例は少なく、その手術の成功例は低く、困難性が増すため、患者にとって負担の少ない内科的治療としてのブジーやバルーンを用いた拡張術をまず実施すべきであったし、また、逆流性食道炎に対する薬物治療も試みるべきであった。
しかるに、被告の担当医は、食道内視鏡検査を実施して病態を正確に把握することや、手術適応についての検討を十分にすることもなく、拡張術や薬物治療を試みずにいきなり外科的手術を実施した。
したがって、本件の手術適応には疑問があり、被告の担当医が外科的手術を実施したのは適切な選択ではなかった。
(被告の主張)
(1) 食道アカラシアに対する治療法は、薬物療法、拡張術、手術がある。
このうち薬物療法は、拡張度が低い限られたものについてだけ適応があり、現実にはこの適応となる症例は少ない。
また、比較的初期の症例では拡張術の適応があるが、①効果が手術より劣ること、②拡張術は長期間繰り返し行うことが必要で最終的に手術の適応と判断されたときには食道噴門部の繊維化のために手術に支障を来すこと、③食道の破裂が起こること、等の問題がある。
手術については、①進行したアカラシアで著明な拡張と蛇行を食道に認める場合、②重症の食道炎がある場合、③癌が疑わしい場合、④以前に食道胃接合部付近の手術が行われている場合、のいずれかの場合には手術の適応がある。
この点、原告は昭和三一年ころに食道アカラシアの手術を受けていたこと、病歴としては三〇年以上になること、五年前より嚥下障害を来たし近医で加療を受けるも、一か月前より増悪し少し水を飲んでものどのつかえ感と痛みがあり、五〜六時間も続くと訴えていたこと、体重も五キログラム減少していたこと、食道造影でも狭窄部の上方の食道は著明に拡張・蛇行していたものであることからすれば、前述の手術適応①及び④に当たり、手術適応ありと判断したことに何ら問題はない。
(2) 原告の症状は食道の嚥下性弛緩の欠如を本態としている病態である点において、アカラシア一般の治療法に準拠して治療方法を検討することは、医師の裁量の範囲内である。
なお、食道アカラシアの再発又は食道下部の再狭窄と呼ぶべき病態に関して、本件のような筋切開法術後の逆流性食道炎に関しては、保存的に薬物療法を六か月以上続けても症状が取れず、内視鏡所見も悪化する場合には再手術に踏み切るとする文献があるところ、本件では再手術の前に相当の期間治療薬を服用させており、また、筋切開法術後の瘢痕狭窄に関しては、ブジーにより穿孔の危険がある場合には再手術の適応があるとする文献があるところ、本件では食道胃接合部が屈曲しており、穿孔のリスクがあったものである。
(二) 説明義務違反の有無
(原告の主張)
原告は、判断を受けた乙川医師から、「簡単な手術だから手術した方がよい」「手術したら普通に食べられるようになる」「二〇日くらいの入院予定」と言われ、手術を受ける気になったものである。
被告病院の担当医からは、手術前に、食道アカラシア術後の瘢痕性狭窄であること、それに対する手術は初回の手術より困難で、効果も少ないこと、別の治療法としてブジーやバルーンを用いた拡張術や、逆流性食道炎に対する薬物治療があることの説明はなかった。また、手術承諾書も、原告は見ておらず、署名もしていない。
手術に当たっては、手術の危険性、改善の見込み、代替的治療法、治療をしない場合の予後などについて説明する義務があるから、その説明がなかったことについて説明義務違反が成立する。
(被告の主張)
丙沢医師は、平成四年九月一四日、原告に対し、少なくとも三〇分にわたり、食道下部の狭窄の状態を所定の説明用紙を使って図示し、術後狭窄による逆流性食道炎で手術が必要なことを右用紙に文字を書きながら説明し、合併症として縫合不全、肺炎、出血、腸閉塞について触れた。その際、原告は丙沢医師に対し、手術方法について、「上がこう袋みたいになっとるから、そこから切ってもらえんですか。」と希望を述べていた。
右経過を経て、原告は手術を承諾した。承諾書に署名したのは原告の妻であるが、原告は口頭で承諾した。
丙沢医師は、入院期間が二〇日間であるというような説明はしていない。また、原告は、初回のアカラシア手術によりそのときの手術内容をよく知っており、その手術には長い時間を要し、手術後半年間入院したという認識であって、アカラシア手術が短時間で退院できるような簡単で負担の軽い手術でないことは十分知っていた。
また、そもそも内科的な薬物治療の方が良いといった状況ではなかった。
以上の状況からすれば、被告病院の医師に、何ら説明義務違反はない。
(三) 脾臓を損傷した過失の有無
(原告の主張)
被告病院の医師は、手術中に脾臓を損傷し、脾臓からの出血について止血できないため、やむをえず脾臓を摘出した。
この損傷は、軽微な被膜損傷ではなく、脾臓の比較的深部に至る実質損傷を起こしたと考えられる。このような実質損傷を来した理由としては、通常左手で脾臓を手前に牽引しながら、奥の癒着部分を剥離するところ、その際、脾臓を牽引する際の操作で、指が脾臓の実質深部に入ったり強く握りすぎたりしたためと推測できる。
これは、通常の注意をもって手術すれば避けられ、また、避けなければならない損傷であるから、脾臓の深部損傷については被告病院の担当医に過失がある。
(被告の主張)
開腹手術により腹腔側から下部食道の狭窄部拡張を目的とした手術をするためには、食道胃接合部を十分に露出させ下部食道にテーピング(食道全周が引き出せるように食道の背側を通してシリコンチューブなどをかけること)をした上で、右側、手前、下方に牽引することは必要不可欠な操作である。胃底部を横隔膜下面から剥離する際及びテーピングの際、牽引の力が特に強く働かなくても、思わぬ所に力が入り、胃脾間膜の脾臓への付着部分が裂けて脾被膜(脾臓の表面)が部分的に剥離し、脾実質からの出血をみることがある。腹腔内に癒着がない場合には、脾臓背面にひも付きガーゼ等を挿入して脾臓を前方に授動して、脾被膜に張力が掛かるのを防ぐことができるが、脾臓が周囲(特に後方)に癒着している場合には、これらの予防策もできず、細心の注意を払った場合にもこのような事態に至ることが多い。
この点、本件では、左横隔膜下面(腹腔側)とそこに接する胃底部(胃弓隆部)及び脾臓がそれぞれ強く、しかも広範囲にわたって癒着していたものである。乙川医師が食道下端を術野に露出するために、胃底部を慎重に剥離している際に脾臓に損傷が及んでしまった。
脾臓が出血しやすい臓器であることから、乙川医師らは細心の注意を払って胃底部の剥離及びテーピングを行っており、本件で脾臓損傷は細心の注意をもってしても避けられないものであって、過失には当たらない。
(四) 胃底部後壁を穿孔させた過失の有無
(原告の主張)
本件では、胃底部後壁が穿孔しており、これについて被告病院の担当医に過失があった。
(被告の主張)
胃底部後壁の穿孔の原因は、前述のごとく胃底部が周囲組織特に横隔膜とひどく癒着しており、剥離操作によって脆弱化した胃底部後壁が穿孔したものであって、避けられなかった。
(五) 粘膜を穿孔させた過失の有無
(原告の主張)
粘膜穿孔についても被告病院の担当医に過失があった。
(被告の主張)
食道胃接合部(狭窄部)は、初回手術であれば、狭窄部の筋層のみを縦に切開し、粘膜を切開せずに筋層を横に縫合することで、狭窄を改善できる。しかしながら、今回は再手術であり、同部位は筋層と粘膜の境界もはっきりせず、古い繊維性の炎症像を呈していた。被告病院の担当医は、注意深く縦切開を行ったが、粘膜を残すことができず、粘膜まで切開(穿孔)してしまい、やむなく術式をヘラー法(筋層縦切開横縫合)からウェンデル法(全層縦切開横縫合)に切り替えて手術を行ったものである。
(六) 十二指腸球部を穿孔させた過失の有無
(原告の主張)
被告病院の担当医は、癒着を剥離する際、十二指腸球部を損傷しているが、これは、十二指腸側の損傷による消化液の漏出を防ぐために比較的胆嚢床寄りの層で剥離を心がけることによって避けることができたと考えられることから、この十二指腸球部の損傷について過失があった。
(被告の主張)
原告は昭和六三年ころ、胆石症により胆嚢摘出術を行い、上腹部正中切開にて開腹手術を受けていたため、まず腹壁の切開部に胃、小腸、横行結腸などが癒着しており、さらに胆嚢摘出部の肝床部(胆嚢が肝臓と面していた部分の肝臓面)には、左右肝管や総胆管が胃幽門部に隣接する十二指腸球部及び下降脚とともに一塊となって癒着をしていた。このため、幽門形成術を施行する目的で胃幽門部を剥離露出したが、この際小腸を損傷したのも、胆嚢摘出術後の強い癒着が原因であった。
したがって、十二指腸球部の穿孔は避けられないものであり、過失に当たらない。
(七) 総胆管を損傷した過失の有無
(原告の主張)
被告病院の担当医は、総胆管を損傷しており、これについて過失があった。
(被告の主張)
総胆管を損傷したことはない。手術中、最初に総胆管を損傷したと誤って認識し、Tチューブ挿入等の処置を施したが、これは、このあたりの腸管及び胆管が癒着で一塊となって肝臓右葉下面に癒着していたこと、繊維性の癒着が原因で臓器の色がはっきりせず区別が付きにくかったこと(通常、胆管、小腸、門脈等の血管は色で区別が付く)、そして胆嚢摘出術によって各臓器(特に小腸)の解剖学的な位置関係が変わっていたことが原因である。実際には、Tチューブからの造影で十二指腸球部の損傷と分かった。
(八) 縫合不全を起こした過失の有無
(原告の主張)
(1) 本件では、幽門形成部の微小漏出が起きた。この点、粘膜を残して筋層だけ切開する方法なら幽門形成部の縫合不全はほとんど起こらないが、本件は全層を切開しているため、幽門形成部の縫合不全が起こったものである。
したがって、被告病院の担当医が、幽門形成術に際し、全層切開したことも過失である。
(2) また、縫合部の寄せ合わせがまずかったことも推認される。
(被告の主張)
原告には本件手術後、軽度の縫合不全はあったが、これは脾臓摘出及び腸と胃の穿孔とは関係がない。縫合不全は消化管の手術が行われる限り避けられない合併症であり、手術手技の向上や手術管理の向上によっても皆無にすることができないのが現状である。
今回の手術では、腸吻合に準じた方法で腸管穿孔部を全層連続縫合と漿膜結節縫合の二層で縫合した。すなわち、まず、吸収糸を使って全層を連続縫合(縫合部が緊密に縫われ、縫合不全になりにくい縫合方法)し、次に非吸収糸(絹糸)で漿膜を結節縫合(縫合部に狭窄が起こりにくい上、縫合部への血流もより保たれる縫合法)した。
また、針についても、通常の針糸ではなく、針の端に糸の断端が連続的に同じ径で接続されており、組織を傷つけずに針を通すことができるatraumatic needleを全層縫合はもとより漿膜縫合においても使用しており、穿孔部の縫合閉鎖に最大限の注意を払っている。
さらに、縫合不全を防止する目的で、血液中の凝固に関係するタンパク質で重合体を作り血液凝固等に関与することが分かっており人体内で接着剤のような作用を持つベリプラストP(フィブリン糊)を、食道胃接合部の狭窄拡張部(縦切開横縫合部)に塗布した。
以上のとおり、被告病院の医師らは縫合不全の発生防止に十分注意を払って処置しており、本件縫合不全の発生について被告病院の医師に過失はない。
2 損害の有無
(原告の主張)
(一) 逸失利益 一四〇〇万円
(1) 原告は、本件手術当時六二歳であり、タクシーの運転手であって、六二歳男子の平均年収四三九万一五〇〇円程度の収入はあったところ、本件手術後、十分な仕事ができなくなり、平成五年七月から復職したが、月間七日から一〇日程度しか仕事ができず、平成八年には体調が悪いため仕事も辞めざるを得なくなった。
原告には、脾臓の摘出により、敗血症の危険性や、発熱や、血栓塞栓症の危険性が増加した。原告の術後の発熱や腹腔内感染は、幽門形成部などの縫合不全に基づくものと考えられるところ、脾臓摘出による免疫力の低下が腹腔内感染の遷延化の原因となった可能性も否定できない上、血小板増加症も見られた。また、縫合不全により、入院期間も大幅に長引いた上、退院後も下痢が長く続き、また消化管出血も起こし、貧血にもなった。
(2) 原告は、本件手術当時六二歳であったから、収入を六二歳男子の平均年収四三九万一五〇〇円、就労可能年数を九年、ホフマン係数を7.278とし、また、脾臓摘出の後遺障害は、後遺障害別等級表八級の一一に該当し、その労働能力喪失率は四五パーセントと評価されることからすると、原告の逸失利益は一四〇〇万円を下らない。
(計算式)
4,391,500×0.45×7.278=14,382,601
(二) 慰謝料 八〇〇万円
原告は、手術中の脾臓損傷や食道、小腸、総胆管損傷などにより術後縫合不全、腹腔内膿瘍などを合併し、入院期間も当初の二〇日間の予定から四か月間に大幅に延びた。また手術後も、脾臓摘出の後遺障害のため、極度の貧血が続き、下痢もひどく、体調不良のため、手術前にはできていたタクシー運転手の仕事もできなくなった。
後遺障害の程度は、後遺障害別等級表八級の一一に該当するから、後遺障害慰謝料及び入・通院慰謝料として八〇〇万円が相当である。
(三) 弁護士費用 三〇〇万円
被告の負担すべき弁護士費用としては三〇〇万円が相当である。
(被告の主張)
本件では、軽度の縫合不全の発生に伴い、これの治療のために入院が長引いたことはある。しかし縫合不全に対する治療は奏効しており、これによる後遺障害はない。
脾臓摘出によって極度の貧血や体調不良を来すことは通常ない。脾臓摘出による影響として、乳幼児では敗血症の頻度が高いが、成人では感染症の心配は普通はない。また敗血症は大多数が脾臓摘出後二年以内に発症するところ、原告には手術後に敗血症が発症したことはない。原告の被告病院退院後の症状は、脾臓摘出と無関係であり、手術一年後の貧血は潰瘍によるものである。原告は本件の入院前から不整脈を訴え、前立腺肥大の治療を受け、左横隔膜麻痺、痛風、高血圧の治療も受けていたのであり、仮に本件術後に体調不良があったとしても、脾臓摘出と因果関係はない。
原告は、本件手術後にタクシー乗務を再開し、六五歳で乗務から引退しているが、原告が勤務する会社では六〇歳が定年であり、同僚と同様のコースをたどっている。
したがって、原告には逸失利益はない。
第三 争点に対する判断
一 過失の有無
1 争点1(一)(手術適応違反の有無)について
(一) 前記第二の一の争いのない事実及び証拠(甲三ないし五、乙一、二、四、五、証人乙川、同浜井、同安藤、鑑定)によれば、以下の事実が認められる。
(1) 原告は、昭和三一年ころ、食道アカラシアの手術を受けたものであるが、平成四年九月一日、浜井病院の紹介状とレントゲン写真を持参し、被告病院第一外科を受診した。紹介医の診断は、食道アカラシア(術後)、高血圧症、左横隔膜神経麻痺、痛風、逆流性食道炎であり、なお原告は浜井病院で薬物療法を受けていたが奏効しなかったため、担当医において外科的治療の可能性を考慮し、被告病院外科に紹介したものである。
被告病院での原告の訴えは、胸内苦悶感、喉頭部違和感(通過障害)、心悸亢進であった。すなわち、原告は、右症状が約五年前からあり、近日症状が増悪し喉までのつかえ感と痛みが食後約五時間継続する上、食餌摂取困難による栄養障害から五キログラムの体重減少があることを訴えた。また、浜井病院での上部消化管透視撮影では、食道胃接合部における消化管壁の肥厚と内腔の狭窄(八ミリメートル径)及びそこから口側における食道内腔の拡張(5.5センチメートル径)の所見を認め、前回手術部位の炎症性肥厚又は瘢痕性肥厚による食道胃接合部の狭窄を呈していた。そして、胸部単純撮影の所見では左横隔膜の神経麻痺(昭和三一年ころの手術が原因)による横隔膜の挙上が認められた。
以上より、原告を診断した乙川医師は、食道アカラシア再発(術後再狭窄)であると診断した。
そして、乙川医師らは、治療方針として外科的治療を行うことを考え、同月一六日、原告に対する手術が施行された。
(2) 食道アカラシアとは、下部食道噴門部の弛緩不全による食物の通過障害や、食道の異常拡張などが見られる機能的疾患であり、その治療法は、薬物療法、しなかったものである。
そこで、拡張術か手術かを検討することになるが、手術は患者に負担がかかること、再手術による改善率が初回よりは若干低くなること、下部食道噴門部周囲の高度癒着による手術の困難性も十分予想されること等からすれば、まず拡張術を施行しても構わなかったようにもみえるが、一方拡張術についても瘢痕性狭窄の程度により穿孔の危険があり、また反復施行の必要性も高いこと等からすれば、乙川医師らが治療方法として手術を選択したことは同人らの裁量の範囲内の行為であって、本件においては最初に手術ではなく拡張術を選択しなかったのが治療行為として適正を欠いたものとは認め難い。
したがって、本件は手術適応に疑問があったとの原告の主張は理由がない。
2 争点1(二)(説明義務違反の有無)について
(一) 前記第二の一の争いのない事実及び証拠(乙一、二、一〇、証人丙沢、同浜井、原告本人)によれば、以下の事実が認められ、原告本人の供述中この認定に反する部分は採用できない。
(1) 原告は、被告病院の診察を受ける前には浜井病院にて受診し、同病院の浜井雄一郎医師(以下「浜井医師」という。)らから食道アカラシアに対する投薬治療を受けていたが改善しなかったため、担当医において、外科的治療の必要性を考慮し、被告病院外科に紹介し、原告自身も、より根治的治療を希望し、被告病院で受診することにしたものである。
(2) 平成四年九月一四日、丙沢医師は原告及びその妻甲野花子(以下「花子」という。)に対し、狭窄部位のある食道胃接合部等の図を所定の説明・同意書用紙に描き、レントゲン写真とも照らし合わせながら、狭窄部位が食道胃接合部にあること、昭和三一年ころの食道アカラシア手術の後に起こった膿胸による癒着の存在が疑われること、その癒着が原因で狭窄ができていること、本件は術後狭窄による逆流性食道炎であり治療対象であると診断したこと、手術方法としては狭窄部位を拡張するような手術をすること、前回の手術であった縫合不全の可能性が今回もありうること等を、少なくとも一五分から二〇分にわたり説明した。原告は、右説明を受けて、手術を承諾した。
その後、丙沢医師は、花子に対し、手術による合併症として、術後肺炎、縫合不全、出血、腸閉塞、心筋梗塞及び肺梗塞等が考えられることを説明した。花子は、これらの説明を受けて、説明・同意書用紙に署名した。
(3) 原告は、昭和三一年ころに食道アカラシアの手術を受けたことがあったが、その手術には長い時間がかかり、半年間も入院していたものであって、このことを原告は丙沢医師からの右説明の際に認識していた。
(二) なお、原告は、被告病院の担当医らから「簡単な手術だから手術した方がよい」「二〇日くらいの入院予定」等の説明を受けた旨主張し、原告本人供述中にも右主張に沿う部分があるが、本件は食道アカラシアの再手術であること等に照らせば、被告病院の担当医らが右供述のとおりの説明をしたとはにわかに信用し難く、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。
(三) 以上の事実を前提にすれば、被告担当医は原告に対し、手術の内容及びこれに伴う危険性等について説明したものということができる。
なお、原告は、被告担当医には代替的治療法について説明する義務があるにもかかわらず、本件では拡張術や薬物治療があることの説明がなかった旨の主張をしているが、いかなる医療措置をなすかの選択はまさに医師の職責であり、高度の専門性があることや、本件においては前記認定のとおり食道アカラシアの病態そのものに対する薬物療法の適応はないと考えられること、本件における拡張術と手術の適応については一長一短があること等からすれば、本件の被告担当医らに拡張術や薬物療法といった代替的治療法の存在についてまで説明義務があったとは認め難い。
したがって、被告担当医らには説明義務違反があったとの原告の主張は理由がない。
3 争点1(三)(脾臓を損傷した過失の有無)について
(一) 前記第二の一の争いのない事実及び証拠(乙二ないし四、一〇、証人乙川、同丙沢、同安藤)によれば、以下の事実が認められる。
(1) 本件手術前における手術計画
食道アカラシアに対する手術の方式は多種多様の術式が考えられ、どの術式を採用するか、あるいは組み合わせるかは各医療施設により異なるところ、被告病院においては、①弛緩不全に陥っている食道下部のうち、粘膜を残して筋層のみを縦切開して食道下部を拡張するヘラー法、②通過異常の恒久的拡張維持を図るための粘膜外噴門部筋縦切開・筋層横縫合、③術後の逆流性食道炎の予防と恒久的拡張維持のための粘膜弁作裂、胃底部縫着及び胃底部横隔膜固定、④迷走神経の食道下端部における廃絶による幽門部の弛緩不全を防止するための幽門形成術、を一般的に組み合せて行っていた。
本件においても、乙川医師らは、原告について右のような内容の手術を計画していた。
(2) 本件手術の経過
平成四年九月一六日、原告に対する手術が施行された。
ア 開腹
まず、丙沢医師が原告の上腹部を正中切開にて開腹したが、開腹の際、原告が以前に受けた胆嚢摘出手術時の皮膚切開部に腸管が癒着しており、その癒着を剥離する際、腸管の漿膜筋層が欠損したため、漿膜筋層縫合で補った(粘膜までは損傷していない)。
開腹したところ、癒着が強度であり、また右漿膜損傷があったことから、丙沢医師から乙川医師へと執刀医を交代した。
イ 剥離
食道胃接合部では、胃底部から食道、脾臓にかけて横隔膜との間及び相互間の癒着が強かった。
食道下部の噴門部は通常胃の背面にあり、食道の下端部を十分に露出して剥離しない限り、食道の手術はできないこと、及び、ヘラー法を施行した後に胃底部を縫着するためにも胃底部を十分に剥離する必要があることから、乙川医師はこれらの剥離を試みた。
剥離の際、乙川医師は脾臓を損傷し、出血させた。同医師はすぐにガーゼ等を圧迫して当て、一五分から二〇分程度の間止血を試みたが、止血は不可能となり、やむなく脾摘術を行った。
また、剥離に際して、乙川医師は胃底部後壁に穿孔を起こしたため、直ちにカットグット糸にて連続縫合で縫合閉鎖した。
ウ 食道下部
乙川医師らは、前記のとおり、食道下部については粘膜を残して筋層のみを縦切開するヘラー法の施行を予定していたが、前回手術でのヘラー法と思われる施術によって筋層が切開され、粘膜だけが残った状態となり、その部分の粘膜がところどころ膨隆し、筋層が癒着していた。
乙川医師は、筋層の癒着している部分をできるだけ剥離してヘラー法を施行することを試みたところ、筋層が非常に薄くなっていたことから、食道胃接合部において粘膜の一部が穿孔した。そのため、筋層のみを切開するヘラー法から、内側の粘膜も含めた全層を切開するウェンデル法(全層縦切開横縫合法)に手術方法を変更し、三センチメートルにわたって全層を縦に切開した上、ここをカットグット糸にて連続縫合で横縫合し、さらに非侵襲糸(絹糸)にて結節縫合を加えた。なお、食道の前壁を縦切開することから、同部を通っている迷走神経は食道切開部にて当然切断されることになるため、乙川医師は食道周囲の迷走神経を結紮して切離した。
また、乙川医師らは、前記のとおり、胃底部縫着も予定していたが、胃底部は横隔膜後壁との癒着のために萎縮しており、胃底部縫着ができない状態であった。乙川医師は、縫合不全防止のため、縫合部にベリプラストPを塗布した。
エ 幽門部
胃前庭部から十二指腸にかけては、原告が以前に受けた胆石症による胆嚢摘出術のために強度の癒着があった。
乙川医師は、幽門形成術のため、幽門部から十二指腸までの癒着を剥離したが、剥離の際、十二指腸球部前壁に穿孔を来した。本来は肝臓の下面には胆嚢があるべきところ、原告の場合はその胆嚢摘出部に十二指腸が上行癒着している状態であったため、乙川医師らは当初、右穿孔を総胆管の穿孔であると疑ったが、Tチューブを挿入し、レントゲンで造影検査したところ、穿孔部位は総胆管ではなく十二指腸だったことがわかり、同部を絹糸にて結節縫合で補修した。
その後、乙川医師は、幽門形成術を施行した。その際、乙川医師は、幽門部につき筋層だけでなく全層を切開して縫合した。
オ 閉腹
乙川医師は、ドレーンを左側腹部から食道胃接合部へ、また右側腹部からモリソン腔へそれぞれ挿入留置し、閉腹した。
(3) 乙川医師らは、前記各縫合につき、吻合部からの漏出が少ない方法である二層縫合により行い、その際に使用した針糸も、普通の針ではなく、針に糸が一本だけ付いているため針穴が開きにくいアトラウマティック針を使用し、さらに吻合部にベリプラストPという、生体内での接着剤のような薬剤を塗布し、もって縫合不全の防止を図った。
(4) 本件手術の手術時間は、四時間三二分であった。本件手術中の出血量は全体で一〇六五ミリリットルであったが、このうち脾臓損傷が原因となる出血量は全体の八割程度であった。
(二) 以上を前提にして、脾臓損傷につき過失があったか否かを検討する。
まず、証拠(証人安藤)によれば、脾臓の実質損傷であっても、浅いものであれば止血は可能であることが認められるところ、前記認定のとおり、ガーゼ等の圧迫により一時的にでも出血を阻止し得ていないこと、すなわち止血が困難な状況であったこと、一〇〇〇ミリリットル余りの全出血量の約八割が脾臓損傷によるものであること等からすれば、脾臓損傷の程度は、軽微な被膜損傷ではなく、比較的深部に至る実質損傷であったものと推認される。この点、証人乙川は、脾臓の損傷程度は軽い状態だった旨証言するが、右のとおり、止血困難な状況や出血量等に照らし、信用できない。
次に、被告は、左横隔膜下面と胃底部及び脾臓がそれぞれ広範囲に強く癒着していた旨主張し、証人乙川及び同丙沢らの証言中にも右主張に沿う部分があるが、前記認定のとおり、被告大城は最終的には脾臓を摘出したところ、証拠(鑑定)によれば、脾臓摘出が可能であったこと、すなわち脾門部での血管処理が可能であったということは、下極方向の脾臓周囲の癒着はそれほど広範囲ではなかったと推認され、右各証言部分は信用できない。
そして、脾臓周囲の癒着がそれほど広範囲でなかったにもかかわらず、脾臓に対して、比較的深部に至る実質損傷を生じさせたことからすれば、乙川医師には、癒着部分の剥離に際して、脾臓に深部にまで至る実質損傷を生じさせることのないように癒着部分を剥離すべき注意義務があるのにもかかわらず、剥離のために脾臓を牽引した際、指が脾臓の深部に入ったり、強く握りすぎたなどの手術手技の不備によって本件の脾臓損傷を生じさせたものと推認することができる。この点、乙川医師自身、一般に脾臓の損傷は気を付けてやれば大体防げると言われていることを認めているところである(証人乙川)。
他方、鑑定人安藤は、癒着剥離により脾臓の深部に至る実質損傷を生じさせたことは理解に窮する旨の所見を述べる一方で、証人尋問においては、脾臓の手前の胃を引っ張ることにより、脾臓との間にある間膜を介して脾臓に牽引力が及んで損傷を来すことも十分有りうる旨証言しているが、このような事態も癒着剥離の施術上予見し予防策を講ずべきものと考えられる。この点に関し、被告は、脾臓とその周囲(特に後方)との癒着がある場合は、脾被膜に張力がかかることに対する予防策を取り得ない旨主張するが、現実に右予防策を取り得ないような状況にあったことは本件証拠上具体的に明らかにされていないし、仮に右予防策を取り得なかったとしても、さらにその状況に応じた予防策を講ずべきものというべきである。よって、右の点を考慮しても、本件において脾臓損傷が不可避であったとは認め難い。
なおまた、同鑑定人は、自ら実施した食道癌手術のうち、食道再建のために胃を使用した臨床例五〇〇例余りの中にも、脾臓の止血に困難を来して脾臓を摘出せざるを得なかったのが四、五例ある旨証言しているが、他方で、同鑑定人は、自らの経験に照らし本件のごとく癒着剥離に起因して脾臓の深部にまで実質損傷が生じた機序がすぐには思い至らなかった旨証言していることに鑑みると、同鑑定人が脾摘術を実施した症例が本件と同様に手術手技に起因して脾臓に重篤な損傷を生じたものとは考え難い。
したがって、乙川医師には、脾臓を損傷させた過失があったことが認められる。
4 争点1(四)(胃底部後壁を穿孔させた過失の有無)について
原告は、胃底部後壁の穿孔について被告病院の担当医に過失があった旨主張する。
この点、前記認定のとおり、本件手術において、癒着部分の剥離の際に胃底部後壁に穿孔が生じたことは認められるものの、証拠(鑑定)によれば、疲痕性の癒着の場合、横隔膜損傷による気胸の発生を避けるために比較的胃側で剥離を試みようとすれば、胃底部後壁の穿孔も来しうることが認められるから、本件において、胃底部後壁の穿孔について被告病院の担当医に手術手技の不備があったとは認め難く、他にもこれを認めるに足りる証拠はない。
したがって、原告の右主張は理由がない。
5 争点1(五)(粘膜を穿孔させた過失の有無)について
原告は、食道胃接合部の粘膜穿孔について被告病院の担当医に過失があった旨主張する。
この点、前記認定のとおり、食道胃接合部において粘膜穿孔があったことは認められるものの、証拠(鑑定)によれば、食道アカラシア手術においては初回手術例でも十分に筋層切開を行おうとするあまり粘膜穿孔を来すことは稀ではないこと、特に食道胃接合部の胃側は、筋層と粘膜下層との分離が困難なために穿孔しやすいことが認められ、また前記認定のとおり、本件手術は食道アカラシアの再手術であってより困難さが増していることからすれば、本件において、食道胃接合部の粘膜穿孔について被告病院の担当医に手術手技の不備があったとまでは認められない。
したがって、原告の右主張は理由がない。
6 争点1(六)(十二指腸球部を穿孔させた過失の有無)について
原告は、十二指腸球部の穿孔について被告病院の担当医に過失があった旨主張する。
この点、前記認定のとおり、十二指腸球部に穿孔があったことは認められるものの、一方で、胃前庭部から十二指腸にかけては、原告が以前に受けた胆石症による胆嚢摘出術のために癒着があり、しかもその癒着は、乙川医師らにおいて、十二指腸球部と総胆管の区別が一見してつかなかった程強度なものであったと推認されることからすれば、本件において、十二指腸球部に穿孔が生じたことについて被告病院の担当医に手術手技の不備があったとまでは認め難い。なお、鑑定人安藤は、十二指腸側の損傷による消化液の漏出を防ぐために、比較的胆嚢床寄りの層で剥離を心がけるべきであって、十二指腸球部損傷の回避は不可能であったとは断定できない旨の鑑定意見を述べているものの、その所見によっても、損傷の回避が可能であったとまで推認するには至らないし、他に十二指腸球部の穿孔が回避可能であったことを認めるに足りる証拠はない。
したがって、原告の右主張は理由がない。
7 争点1(七)(総胆管を損傷した過失の有無)について
原告は、被告病院の担当医に総胆管を損傷した過失があった旨主張する。
しかし、前記認定のとおり、乙川医師らが当初総胆管の穿孔ではないかと疑ったものの、検査の結果総胆管ではなく十二指腸球部の穿孔であったことが認められるのみであり、実際に総胆管が損傷した事実を認めるに足りる証拠はない。
したがって、原告の右主張は理由がない。
8 争点1(八)(縫合不全を起こした過失の有無)について
(一) 本件においては、前記認定のとおり、微小漏出が発生していることが認められるところ、証拠(乙二、証人丙沢、同安藤、鑑定)によれば、その発生機序として、幽門形成部において縫合不全が発生し、そこから微小漏出が起こったものであること、及び、右微小漏出のために原告の入院期間が伸長したことを推認することができる。
(二)(1) 原告は、まず、被告病院の担当医が、幽門形成術に際し、全層切開したことが過失に当たる旨主張する。
この点、前記認定のとおり、乙川医師は幽門部につき筋層のみならず全層を切開したことが認められるところ、証拠(証人安藤)によれば、証人安藤自身が幽門形成術を施行する際は筋層のみ切開して粘膜までは切開しないことが大部分であること、したがって、粘膜が残ることから縫合不全は起こらないのが当然であり、実際、同人が施行した幽門形成術は五〇〇例以上であるのに対し、幽門形成部の縫合不全を経験したのは一例だけであることが認められ、また、食道アカラシアの手術術式について記載のある医学書(甲三)には、食道アカラシアの手術術式の幽門形成術としては幽門筋切除による幽門形成術しか記載がないことが認められる。
以上を前提にすると、乙川医師には、幽門形成術に際し、縫合不全を起こさないために全層までは切開すべきではないのに、全層を切開した過失があるというべきである。
(2) 次に、原告は、縫合部の寄せ合わせがまずかったことも推認される旨主張する。
この点、証拠(証人安藤)によれば、一般的に、消化管損傷について、剥離操作での損傷程度であれば、患者の栄養状態等が悪くない限り、通常は縫合不全は発生しないこと、消化管の縫合不全の原因としては、大きく分ければ患者の栄養状態等と技術的な問題との二つになること、仮に技術的な問題が原因で本件の縫合不全が発生したものである場合、本件では幽門部を縦に切開し、菱形状に広げて横に縫合しており、縫合部の端の部分について寄せ合わせに食い違いが生じてしまったことなどの想定が可能であることが認められるところ、証拠(乙二、一〇、証人丙沢)によれば、本件手術直前の平成四年九月九日になされた検査では原告の栄養状態に異常が見られなかったことが認められるから、本件の縫合不全の原因としては、技術的に不備があったことが推認される。
したがって、乙川医師には、幽門形成部の縫合に際し、縫合不全を起こさないように縫合すべき注意義務があるのにもかかわらず、技術的な不備によりこれを惹起させた過失があるというべきである。
二 争点2(損害の有無)について
1 前記第二の一の争いのない事実及び証拠(甲六、一〇ないし一二、原告本人、鑑定)によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告は、本件手術当時六二歳であり、タクシーの運転手として稼働していたところ、本件手術後は平成五年七月から復職したものの、体がだるいなどの体調不良のため月間七日から一〇日しか仕事をしておらず、平成八年には退職した。
(二) 脾臓は、流血中の異物や細菌を捕捉排除する(組網内皮系)、抗原を認識して免疫グロブリン(抗体)を産生する、好中球やマクロファージの喰作用を助長するオプソニンを産生する、というような機能を有する。
したがって、脾臓を摘出することにより、以下のような障害が発生しうる。
(1) 脾摘後敗血症(重症感染症OPSI)
脾摘術を受けた患者は免疫学的にみて細胞性免疫、液性免疫のいずれもが低下しているので、敗血症(重症感染症)を発症し得る。ただし、脾摘術を受けた患者の何パーセント程度に発症するかは正確なデータに乏しく、1.45パーセントから一九パーセントという報告もある。起因菌としては肺炎球菌が多く、小児期の発症が多いが成人にも起こりうる。発症時期は大多数が脾摘術後二年以内で、約半数は一年以内に発症する。
(2) 脾摘後発熱
脾摘後敗血症とは別の病態であり、その機序は未だ解明されていないが、細網内皮系機能の失調に続発した内因性エンドトキシン血症である可能性が示唆されている。
(3) 血栓塞栓症
脾摘術後一時的に血小板破壊が抑制されるので、血小板数は術後二、三週をピークにして増加し、約一か月後に正常値域に戻る。血小板数が八〇万以上になると血栓形成の危険性が大きくなる。
2 以上を前提として、本件における原告の損害を検討する。
(一) 逸失利益
六〇六万八三五五円
前記認定のとおり、脾臓には、流血中の異物や細菌の捕捉排除、免疫グロブリンの産生、オプソニンの産生といった機能があること、脾臓の摘出により、細胞性免疫及び液性免疫のいずれもが低下し、脾摘後敗血症(発症時期は、大多数は二年以内とされるが、その後の発症も皆無とまでは認められない。)、脾摘後発熱、一過的な血栓塞栓症等の障害が発生しうること、脾臓喪失は、自賠法施行令二条別表後遺障害等級表において第八級の一一に該当し、労働能力喪失割合は四五パーセントとされていること、原告は本件手術後、平成五年七月から復職したが、体調不良のため月間七日から一〇日しか仕事をしておらず、平成八年には退職したこと、もっとも、証拠(乙一、五、証人浜井、原告本人)によれば、原告は平成五年一月以降現在まで浜井病院で受診しているが、主たる症状は胃潰瘍などであり、脾臓摘出の影響による典型的症状は発現していないと認められること、その他諸般の事情を総合考慮すると、原告は、脾臓の摘出により、労働能力の二〇パーセント程度を喪失したものと認めるのが相当である。なお、原告は、右以外にも、縫合不全による術後の発熱や腹腔内感染等をも逸失利益算定の基礎とするが、証拠(乙一、二、一〇)によればこれらは既に治癒していることが認められ、これによる後遺障害が発生しているものとは認められない。
そこで、前記認定のとおり、原告は、本件手術のあった平成四年当時、六二歳のタクシー運転手であったことから、平成四年賃金センサス第一巻第一表産業計・企業規模計・男子労働者・学歴計・六〇歳から六四歳までによる平均年収額四二六万八八〇〇円程度の収入があったものと推認されるので、右金額を原告の逸失利益算定の基礎とし、労働能力喪失期間を平成四年における六二歳男性の平均余命18.54年の二分の一の年齢に達するまでの九年間とし、中間利息控除のため右期間に対応するライプニッツ係数7.1078を乗じ、労働能力喪失率として0.25を乗じて逸失利益を算定すると、左記計算式のとおり六〇六万八三五五円となる(円未満切り捨て)。
(計算式)
4,268,800×7.1078×0.20≒6,068,355
(二) 慰謝料 八〇〇万円
前記認定の脾臓の損傷、幽門形成部の全層切開、縫合不全及び縫合不全による入院期間の長期化等諸般の事情を総合考慮すると、本件における原告の慰謝料としては八〇〇万円が相当であると認められる。
(三) 弁護士費用 二〇〇万円
本件訴訟の審理経過等によれば、被告が負担すべき弁護士費用相当の損害としては二〇〇万円が相当であると認められる。
三 結論
以上によれば、原告の請求は、不法行為に基づく損害賠償として一六〇六万八三五五円及びこれに対する不法行為の日である平成四年九月一六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六四条本文、六一条を、仮執行の宣言につき同法二五九条一項、三項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・田中澄夫、裁判官・後藤慶一郎、裁判官・廣瀬孝)