広島高等裁判所 昭和24年(う)782号 判決
併し原判決挙示の証拠を綜合すれば原判示事実を認定することが出来、記録を精査するも原判決に所論の様な事実誤認を疑はしめる事由は認められない。刑法第三六条第二項に所論防衛の程度を超えたか否かは客観的に考察して之を決すべきもので行為者の主観的観察如何に依り定むべきものではないから、たとい被害者林作が生来粗暴な男で被告人より身体も肥大し力量も優つて居り本件犯行直前に被告人が養父林作から耳たぶを噛切られる様な暴行を受けたことがあつたとしても林作が鍬を以て被告人を殴打せんとした際被告人が突差に之を避ける為所携の出刄庖丁で林作の下腹部を突き刺した所為に付て急迫不正の侵害に対し自己の生命身体を防衛する為己むことを得ざるに出でた所為と認むるは格別、其の後に於ては林作の攻撃が如何に急激であつたにせよ、林作は何等の武器をも持つて居なかつた素手であり又当時六十一年の足の悪い老人であつたものであるから、被告人が林作から組み敷かれて首を締められ、或いは被告人の持つて居た庖丁で反対に首の辺を突き刺されんとする様な危険があつたからといつて、之を防衛する為林作を死に致すべきことを認識しながら右庖丁を以て其の頸部等を突き刺し之を殺害する等のことは、防衛に必要な程度を超えた所為というべく殊に仲井睦彦作成の鑑定書に依り認められる林作の被告人から受けた傷害の部位程度が、右頭頂部に長さ三糎骨膜に達する斜切創、顔面右頬部に何れも長さ三糎皮下に及ぶ三ケ所の切創、咽頭部より頂部に横走せる長さ一五糎、右耳後部より斜方にY字状の長さ一〇糎の孰れも総頸動静脈其の他を切断し頸椎気管に達する切創、背頂部に長さ一〇糎頸椎に達する切創、背頂部に長さ八糎背椎に達する切創、左肩胛部に長さ八糎肩胛骨椎骨縁に達する切創、胸椎部に長さ四糎肺に及ぶ切創、背椎に斜走する長さ五糎背椎に達する切創、前胸部に孰れも長さ五糎内臓及皮下に達する二個の刺切創、腹部に長さ一〇糎皮下に及ぶ斜切創、右上膊部に孰れも長さ八糎筋層に及ぶ二個の切創、右拇指球部に長さ四糎筋層に及ぶ切創、左肩峰部に長さ三糎筋層に及ぶ切創、左腕関節部に長さ約一〇糎椎骨々端を切除する切創、右大腿部に長さ約八糎筋層に及ぶ切創、左下腿部に長さ四糎筋層に及ぶ切創等の甚大にして多数に及んで居る点を考察すれば被告人が林作の攻撃を防衛するに必要の程度を超えた所為に出でた事を認めるに十分である。従つて原判決が被告人の所為に対し防衛の程度を超えたものと認定したのは真に相当で論旨は理由がない。
併し職権を以て按ずるに被告人は実母キノの連子として同女が大正十二年江口林作と結婚するに当り其の養子となり中学一年を中途退学後母と共に生計を維持し、養父林作が妾と共に別居して家庭を顧みない為、林作の実子で被告人の異父弟に当る文弘、学の両名を養育してきたが林作か性狂暴にして屡々家人に対し金銭を強要したり家財を持出したりし又乱暴を働くので日夜苦慮して居たところ、本件犯行当日の朝も林作が母キノに対して妾に旅館をやらせる為の費用として金弐万円を要求し弐万円を出さなければ被告人と母と二人して多年に亙り漸く築きあげて来た食糧品及文房具の商店及商品を担保にして金を借りると無理難題を申込んで来たとのことに、殊更自己が赴くことを避けて林作の姪で被告人の妻となつている静枝を母の家に赴かせたところ、却て静枝が林作に暴行を受け泣いて帰えつて来たので、之を問責する為母の家に赴くと又林作の為反対に殴打せられた上手斧を以て追いかけられ、左の耳たぶを噛み切られる等の暴行を受けたので、一旦自宅に逃げ帰つたが、母キノも亦林作から暴行せられて居るのではないかと其の身を案じて護身の為出刄庖丁を携えて再び母の家に赴いたところ、林作が又も被告人に暴行せんとしたので母の勤めに従い自宅に帰りつつあつた際、尚も執拗に被告人を追つて来た林作が矢庭に所携の鍬を振り かぶつて被告人めがけて打ちかかつて来たので突嗟に之を避ける為原判示の様に携えて居た庖丁で林作の下腹部を突き刺したが尚も林作が被告人に組付いて来て被告人を組敷いたので原判示の様に之を殺害するに至つたものであることは本件記録竝原審及当審に於て取り調べた証拠に依り之を認めることが出来、林作の姉妹も林作が悪いのだからこの様になるのは当り前だと云い、林作の実子文弘、学の両名も父が生きて居れば無茶ばかりするので居ない方が良い、殺してもらつて安心だと云つて居ること等も認められるので、之等諸般の事情を考量すれば、原審が被告人に対し懲役七年を以て処断したのは甚しく其の量刑が過重であると認めざるを得ない。従つて此の点で原判決を破棄すべきものとする。
よつて刑事訴訟法第三九七条に依り原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書に則り当裁判所に於て直ちに判決をする。原判決の認定した事実を法律に照すと刑法第二〇〇条に該当するが前記の様な被告人の経歴、性行、養父林作の性行、及家庭の事情竝びに本件犯行の動機等を考量し被告人林作が被告人の直系尊属ではあるが実父でなく養父である事情、被告人が原判示の様に防衛の程度を超える行為を為すに至つたのは、林作の攻撃が激烈で組敷かれた上自己の持つて居た庖丁で却て自己の首の辺を突かれ様とするが如き状態となり自己の生命に危険があるものと感じたのと、林作の従来の所業竝に本件犯行当日の林作の被告人及被告人の妻に対する非道な行為に対し、うつ積して居た忿懣の情が激発した結果に因るものとも認められる事情等諸般の情状を斟酌すれば、被告人の本件犯行は、最も反倫理性を有するものと考えられる尊属殺の罪に該当するものではあるけれども、刑法第三六条第二項後段の規定を適用して其の刑を免除するを相当とし、刑事訴訟法第三三四条に従い被告人に対し其の刑を免除する言渡を為すべきものとする。