広島高等裁判所 昭和26年(う)590号 判決
原判決書に依れば所論の様に原判決は検察官の公訴提起に係る事実全部に付之を認めるに足る証拠が十分でなく従つて犯罪の証明がないものとして無罪の云渡しをしたものであつて、其の判文簡に過ぎ其の理由の当否を審査するに苦しむのであるが、原判決が本件公訴事実の中冒頭の「被告人が大政翼賛会小野田支部長であつたことに因り昭和二十二年二月二十七日、大日本武徳会小野田支部長であつたことに因り同年十二月三十一日(原判決に昭和二十三年とあるは昭和二十二年の誤記と認める)夫々覚書該当者として指定を受けたものである」ことを認める証拠が十分でないから公訴事実記載の様な被告人の所為があつたか否かに拘らず犯罪の証明がないものと判示したものであるならば被告人は原審第一回及第十二回各公判で右事実を認めて居り、之と検察官提出の山口県知事作成の証明と題する書面、内閣総理大臣官房監査課長の山口地方検察庁検事正宛の追放者に就ての照会に対する回答と題する書面の謄本等を措信すれば右事実を認めることも出来ない訳ではなく、又被告人が右の様な覚書該当者として指定を受けたものであることの証拠はあるが其の余の公訴事実を認める証拠が十分であるという趣旨であるにしても被告人は第一の事実に付ては「返上しなければならぬ」との発言部分を除く其の余の事実は大体認めて居り(原審第一回公判調書)第三の事実に付ては被告人が提出せしめたとの点を除く其の余の事実に付ては大体之を認めて居り(原審第一回公判調書)昭和二十六年四月十六日付起訴状記載の公訴事実に付ては「農民はかかる悪法を実施されては困る」との発言部分を除く其の余の事実は之を認めて居る(原審第十二回公判調書)ところであり、第二の事実に付ては其の発言内容を全部否認するも「自分は山下町長を推薦したものとして申訳ない」と陳謝の発言をなしたことは之を認めて居り(原審第一回公判調書)之等の供述と検事所論の様な証拠を措信すれば公訴事実に符合する様な事実のあつたことを認められない訳ではなく、仮に検察官所論の証拠を全部措信しないとしても、本件記録を精査すれば、公訴事実全部例えば、被告人が覚書該当として指定されたこと、公訴事実にある様な日時場所で其の記載の様な会合のあつたこと、被告人が其の会合に出席して居たこと、被告人が其の会合で何等かの発言をしたこと、被告人が公訴事実にある様な日時場所で厚狭町長山下穰と面談したことがあること、公訴事実にある様な被告人名義の要求書が山口地方検察庁次席検事松浦英雄に提出されたこと等に付之を認めるに足る証拠がないものと断ずることは出来ない。証拠の取捨判断は事実審裁判所の自由裁量に委されて居るところではあるが、裁判官の意恣を許したものではなく経験則に従つて行われることを要することは言をまたないところである。
而て現行制度に於ては控訴審は原則として事後審であつて第一審判決の当不当を審査するのであるから、第一審に於て公訴事実の証明がないものとして其の旨判示するに当つても、公訴事実に符合する証拠は存在するが之を措信しないのならば其の旨(出来得れば其の措信しない理由をも併せて)或いは公訴事実の一部は之を証拠に依り認め得るが犯罪構成要件を充足する事実全部を認めるに足る証拠がないとするのならば其の旨、出来る限り控訴審が其の判断の当不当を判定することが出来る程度に判示しなければいくら無罪の判決だからといつて単に犯罪の証明がないと判示した丈では控訴審として其の判断の当不当を事後審査するに困難を感じ又は全く不可能を来す場合も生ずる虞があり、其の程度の如何によつては無罪の理由不備なものとして破棄を免れない場合も生ずるであろう。原判決は本件公訴事実に付其の証明がないものと判示して罪の判決をし無たのであるが、本件公訴事実全部に付其の証明がないとの趣旨ならば前記の如く其の或部分に付ては之を認めるに足る証拠がない訳でもないから事実を誤認した疑があるものというべく、或いは本件公訴事実の一部に付ては之を認めるに足る証拠があるが夫丈では検察官主張に係る昭和二十二年勅令第一号第十五条第一項違反に該当せず、其の余の公訴事実に付ては之を認めるに足る証拠がないという趣旨ならば其の旨を具体的に判示しなければ単に犯罪の証明がないとの理由だけでは理由不備の違法があるものといわざるを得ない結局原判決は孰れの趣旨に出でたものか判然せず論旨は理由があり原判決は破棄を免れない。