広島高等裁判所 昭和30年(う)717号 判決
そこでまづ事実誤認の点について検討してみるに、本件公訴事実は「被告人は昭和三十年四月二十六日午後十一時三十分頃広島市千田町三丁目九百二十五番地先路上で、警邏中の広島県広島西警察巡査浅海正から挙動不審のかどで職務質問を受けた際突然紙片を口中に入れたので、更に職務質問を続行するため近寄つた同巡査の両肩を所持の鞄を両手で持ち上げて突きその場に顛倒させ、以て同巡査の職務の執行を妨害し、その際右暴行により同巡査に対し、全治五日間位を要する右拇指捻挫の傷害を負わせたものである」というのであるが、原審証人浅海正同松本保彦の各証言、被告人の原審公判廷における供述、浅海正の検察官に対する第一回供述調書、被告人の検察官に対する第三回供述調書、司法警察員作成に係る実況見分調書、広島西警察署長の回答書(記録八四丁)、押収に係る各証拠物、当審証人浅海正同栗村叡の各証言を綜合して判断すると、本件の経過について次のような事実を認めることができる。即ち広島市千田町巡査派出所勤務の巡査浅海正は昭和三十年四月二十六日午後十一時頃より管内巡視中、同日午後十一時半頃同町広島工業高等学校南西側三又路の地点に来た際その南方五、六百米の地点に自動車の停止したのを認め、ついで三又路の南方約百五十米の付近道路上を自己の方に向つて歩行して来る被告人を目撃したが、同月四日頃同所付近で三人組自動車強盗事件のあつたことを想起し、被告人の服装、容貌、年令等から同人が若しや右強盗事件の指名手配犯人(年令二十七、八才、氏名不詳身長五尺四寸位長髪面長紺背広上下短靴)ではないかと思料し、近ずいて来た被告人に対し氏名年令職業行先等を質問し、ついで同人が携帯していた手提鞄の内容をみせるよう要求した。一方被告人は当夜付近の学生会館で演説会を聴き同市水主町の下宿先に帰る途上であつたが、予て共産党中国地方委員会書記の地位にあり、昭和二十九年夏頃にも警察官に尾行されたようなことがあつて警官を嫌悪していたのみでなく携帯せる鞄の中に党の機密文書があり、且つ党員間の連絡事項及び連絡用暗語等を記載したメモ(証第五十六号)を身辺に所持していたので自己の正体を曝露され、且つ前記秘密文書を閲覧されることを虞れ、身分は学生だと虚偽の事実を告げ、本名は黙秘し、鞄の開披要求は人権侵害だと主張して之を拒否した。当時被告人は普通の背広を着用しその風貌、服装、所持品等に異常なものなく、携帯の手携鞄も通勤者が通常所持しているものと同種同型で、その内容物も押収に係る書類、ノート、タオル、風呂敷等で犯罪に関連のあるようなものは何一つなく、被告人の言動も氏名を黙秘し、鞄の開披要求を拒否した外不審な態度はなかつた。そして浅海巡査は被告人が氏名を黙秘し且つ鞄の検査を拒否したので疑を深め、被告人に前記派出所へ同行を求め、同人と種々問答しながら前記工業高等学校南側道路を東方に約二百八十米進行して井上勇荘方付近に至つた際、被告人が同家東側道路を右折南進しようとしたのでそれを阻止した上、鞄内を調査させなければあくまでも派出所に同行すると迫つた(七四丁参照)。そこで被告人は鞄の中に兇器乃至賍品類が入つていないことを示せば浅海巡査が釈放してくれるものと思い四十Wの街灯下で所携の鞄を開けて同人に一瞥させた上之を閉ぢ前記事情により同巡査の任意な調査を許さなかつた。当時既に被告人に対する強盗容疑は解消し(七三丁七九丁参照)しかも前掲三又路及び右現場は共に夜間で車馬の往来はなく、井上勇荘方屋外には街灯もあつたから、必要があればその場で職務質問を継続することが可能であつたのに拘らず、浅海巡査は被告人が鞄内の任意調査を許さなかつたので、同人が何等かの犯罪を犯し若しくは犯そうとしているものと誤解し、被告人に対し派出所へ同行するよう強く要望した。そこで被告人は結局同人の申出を肯んじ再び同行して当初の方向へ約十米位歩いたが、派出所へ行けば所持品の総てを検査され前記メモをも閲覧されることは必定であり、さすれば党及び党員達に累を及ぼすであろうと考え、突如右メモを嚥下しようとして口に入れた瞬間、浅海巡査が之を発見して賍品或は犯罪の証拠物件を湮滅するものと誤解し「何をするか、そんなことをせんでもよいではないか」と云うと同時に之を制止しようとして被告人の身体に手をかけ実力を行使したので、被告人は同人を遠ざけるため鞄を持ちながら両手で同巡査の肩の辺を押したところ、同人が不意をつかれて後へ尻餅をつき、その際身体を支えた右手拇指に捻挫傷を負つたものであつて、なおそれがため公務執行妨害の現行犯としてその場で逮捕されたものであることを認め得る。尤も原審並びに当審証人浅海正は被告人がメモを嚥下しようとした場所は井上勇荘方東側路上であり、又その際被告人の身体に手をかけたことはないと証言するのであるが被告人が逮捕された場所が派出所へ通ずる道路上であること(前出実況見分調書参照)及び前段認定の経緯に照し右証言部分は信用し難い、なお記録を精査してみても右認定を左右するような資料はない。而して原判決の認定したところは根幹において以上と同様であることが原判文に徴し明瞭であるから原判決の事実認定には誤はない。よつて以上認定の事実関係を基礎にして浅海巡査の行為が果して適法な職務行為といい得るか否かについて勘案するに、警察官等職務執行法第二条によれば、その第一項に「警察官等は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者を停止させて質問することができる」第二項に「その場で前項の質問をすることが本人に対して不利であり、又交通の妨害になると認められる場合においては、質問するため、その者に附近の警察署、派出所又は駐在所に同行を求めることができる」第三項に「前二項に規定する者は刑事訴訟に関する法律の規定によらない限り、身柄を拘束され、又はその意に反して警察署、派出所若しくは駐在所に連行され、若しくは答弁を強要されることはない」第四項に「警察官等は刑事訴訟に関する法律により逮捕されている者については、その身体について兇器を所持しているかどうかを調べることができる」と定め、なお同法第一条第二項には「この法律に規定する手段は前項の目的のため必要な最小限度において用いるべきものであつて、いやしくもその濫用にわたるようなことがあつてはならない」と規定し、更に警察法第一条第二項において「警察の活動は厳格に前項の責務の範囲に限らるべきものであつて、いやしくも日本国憲法の保障する個人の自由及び権利の干渉にわたる等その権能を濫用することとなつてはならたい」と規定しているのであつて、畢竟本件のような職務質問の適法性の限界は、個人の基本的人権と公共の福祉を目的とする警察活動の必要性との調和点に之を求めなければならない。ところで、本件の浅海巡査は前記三又路の地点で被告人を目撃し、被告人の年令、服装、容貌、時間関係その他から被告人がその二十日程前同所付近で行われた三人組強盗事件の指名手配犯人ではないかと思料し職務質問をしたのであるから、それ自体警察官として当然の行為であり、之に対し被告人が氏名を黙秘し、且つ携帯せる鞄の検査を拒否したので不審を抱き、偶々同所が暗い場所で質問を継続するのに適当でなかつたから被告人の承諾を得て派出所へ同行を求め種々問答しながら井上勇荘方横まで進行したのであつて、この間の同行は被告人の任意な意思によるものであるから、警察官等職務執行法第二条の精神に反するとは認め難く、更に同所で被告人が浅海巡査より離れて右折南進しようとしたのでそれを制止し同人に鞄の内容物を検査させるか、さもなくば派出所へ同行を求める旨強く要望し、被告人が同行を拒否するため鞄を四十Wの街灯下で寸時開披したが、充分に調査させなかつたので再び同行を要求したのであるが、当時既に被告人に対する強盗事件の指名手配犯人としての容疑は解消していたことであり、且つ又被告人が氏名を黙秘し鞄の内容物を十分に調査させなかつたため不審の念を抱かしめたとはいえ、之のみでは被告人が何等かの犯罪を犯し若しくは犯そうとしていると疑うに足る相当の理由があると認めるには稍不十分の感を免れ難く、しかも同法第二条第二項に該当する事情もなかつたこと前段認定の通りであるから再度の同行要求は失当たるを免れ難いが、結局において被告人を説得し同人が同行を肯んじたのであるから、同行それ自体必ずしも違法とは断定し難い。更に進んで同行中の被告人が突如紙片を嚥下しようとして口中に入れた行為は、前後の経緯に鑑み全く異常な挙動であることに異論なかるべく、かかる場合被告人の右挙動を目して賍品或は犯罪の証拠物件を湮滅する行為と解するのもまた事柄の成行上極めて自然なことであり、而して浅海巡査のとつた前記措置は之を制止するための行為と認められその程度方法も敢て非難するに当らない。しかも浅海巡査が以上の限度を逸脱したとみるべき証拠は信用に値しない被告人の供述乃至供述記載を外にしては些かも見当らないところであるから同巡査の右措置は一応職務執行行為とみるべきであつて之を目して被告人の身体に対する急迫不正な侵害行為であると認定した原判決は失当たるを免れない。しかしながら立場をかえて被告人の側から観察してみると、被告人は深夜歩行していたとはいえ何等犯罪に関係なく、氏名を黙秘し鞄の内容物の検査を拒否したのも前段認定のような事情に由来するものであつて、その道義上の当否は兎も角被告人の思想的立場からすれば、之亦無理からぬところであり、更に自已の所属する共産党及び党員に累を及ぼすことを慮りメモを嚥下湮滅する行為もそれ自体被告人の自由と解すべきである。ところで、被告人は浅海巡査に同行中右のような懸念から所持のメモを嚥下しようとして口中に入れたとたん、同巡査が発見して之を制止するため自己の身体に手をかけ実力を行使したので、同人を遠ざけるため鞄を持ちながら両手で同巡査の肩の辺を押したところ、不意をつかれた同人が意外にも尻餅をつき、その際右手拇指に捻挫傷を負つたものであることは既に認定した通りである。以上の事実関係より観察すれば、被告人の右行為は浅海巡査に暴行を加え、その職務執行を妨害する意図に基いてなされたものとは到底認められず、寧ろ自己防衛本能に根源する半ば無意識下の反射的挙動と認定するのが相当である。而して本件の発端からの前認定の事情をも加え本件を全体的に考察するに被告人の行為は法的に非難するに値しないものと解せられる。結局本件については暴行、公務執行妨害の犯意の証明不十分と認めるを相当とする。してみれば、浅海巡査の措置を違法と断じ、之に対する被告人の行為を正当防衛と解し無罪を言渡した原判決には法令の解釈適用に誤があること所論の通りであるが、窮局において被告人の行為が犯罪を構成しないことには相違ないのであるから破棄に値しない。論旨は結局理由がない。
(裁判長判事 伏見正保 判事 村木友市 判事 小竹正)