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広島高等裁判所 昭和43年(う)287号 判決 1974年12月10日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

<前略>

これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

(以下説明の便宜上、引用の証拠につき原判決の用語例に準じて、(公)―公判廷における供述もしくは公判調書中の供述記載、(裁)―裁判所の尋問調書、(命)―受命裁判官の尋問調書、(官)―起訴前の裁判官の尋問調書、(検)―検察官に対する供述調書、(員)―司法警察員に対する供述調書、(巡)―司法巡査に対する供述調書、(鑑)―鑑定書、(診)―診断書、(検証)―検証調書、(捜索)―捜索差押調書、符1―当庁昭和四四年押第三九号符号1の証拠物、以下符の下位番号は同様証拠物の番号、をそれぞれ示すものとし、被告人、証人、鑑定人の供述もしくは供述記載については、公判廷における供述と公判調書中の供述記載部分とを特に区別せずに用いることにする。)

第一本件控訴趣意中被害者村上芳子の死因についての事実誤認の主張について

一この点に関する論旨は、要するに、原判決は村上芳子が饅頭に付着していた有機燐剤の農薬による毒作用により急性中毒死したものと認定しているが、農薬中毒による重症の場合は嘔吐、発汗、流涙、唾液分泌亢進等の症状を伴い、口辺に農薬特有の臭気が嗅ぎとられるのに、芳子には右のような状況は見当らず、また、有機燐農薬による急性中毒の場合、瞳孔径は一ミリメートル以下数分の一ミリメートルに著しく縮少するのに、芳子のそれは右の値に達していないことからみて、芳子の死因を有機燐製剤の農薬による急性中毒死とみることはできず、原判決はこの点につき事実を誤認しているというのである。

二しかし、<証拠>によると、

(一) 昭和三六年一月八日午前八時過頃、被告人およびその父母村上芳清、同ハルヲの三名が肩書住居地の対岸にある佐木島へ農作業のため自宅を出発した後、同日午前八時半頃から午前九時頃までの間において、被告人の妻キヌコが肩書被告人方母屋表六畳間東側の土間(中庭)踏段に腰を掛けて四女の蘭子(生後四ケ月余)に授乳していた際、右六畳間の西に並ぶ表八畳間付近で遊んでいた長女恵子が、右八畳間の書院台付近に置かれていた饅頭四個を見つけ、初めにその内の一個を手にとつてキヌコのところへ持参して手渡し、再び八畳間へ引き返して右書院台付近から饅頭一個を持参し、偶々キヌコのそばにいた被告人の姪芳子(亡兄芳三郎の長女)にキヌコの指示で手渡し、さらに、八畳間の書院付近に引き返して残りの饅頭二個を持参し、その内の一個を自分で取り、他の一個を居合わせた被告人の姉冨美子にキヌコの指示で手渡し、四人で分け合つたうえ、右冨美子を除く三名がそれぞれ手にした饅頭を食べ始めたが、キヌコにおいて、一口食べた瞬間苦味とともに舌を刺すような感じを覚えてその場に吐き出し、直ちに同女の機転で恵子や芳子に饅頭を食べることを差し止めたが、その時点で、恵子は饅頭のかわの部分を少しかじる程度に食べ、芳子は子供の口で一口ないし二口位中の餡が見える程度に食べていて、二人とも「からい、からい」と云いながら唾をはいていたので、同女らを台所の方へ呼び寄せたうえ、キヌコ、恵子の順に水で嗽し、最後に芳子に嗽をさすべく水の入つた茶碗を同女に渡したところ、同女が茶碗を手に取つて間なしに足許へ落し、体をふらつかせて倒れかかつたので、キヌコが傍らから同女を抱きかかえたが、同女は手足を硬直させて言葉を発せず、恰もひきつけを起したごとき容態を呈したため、事態の急変に驚いたキヌコにおいて、芳子を抱いて近くの田中医院へ連れて行き、田中医師の治療をうけたが、同医師が診察した時点では脈はくはなく、心音がかすかに聴取されうる状況であり、強心剤注射と人工呼吸を施したが、同日午前九時三〇分頃死亡したこと。

(二) 芳子の死体は、ほどなくキヌコの手で自宅へ運ばれて奥六畳間に安置され、翌九日葬儀にそなえて表八畳間に移されたが、第三者の通報により所轄因島警察署が変死の疑いをもち、葬儀の延期を求めたうえ、翌一月一〇日芳子の死体を香川鑑定医の解剖に付し、死体の外表、内景諸検査の結果、瞳孔が直径0.2センチメートル余正円形に縮少し、上下の歯の間に舌尖を咬み、農薬中毒死にみられる特徴を呈していただけでなく、胃の中に小豆澱粉、小麦澱粉等饅頭の組成物が存在し、かつ、胃の内容物から有機燐剤のエチルパラチオン、メチルパラチオン、または、EPNと認められる物質が検出され、血液中に占めるコリンエステラーゼの活性低下の割合が一〇〇分の一一の数値を示し、パラチオン剤(有機燐)による中毒死の徴候がみられたことから、芳子の死因を農薬有機燐(パラチオン剤)の急性中毒死と判定したことの各事実が認められる。証人村上キヌコの当審第三回(公)中右(一)の認定事実に関し、芳子は当日饅頭を食べていない旨の供述部分は、前掲キヌコの(官)、(命)、(検)、山本和夫外一名作成の(鑑)と対比してたやすく信用することのできない。

三そして、右各事実、ことに、饅頭四個が前記家屋の表八畳間書院台付近におかれていた状況、右饅頭を食べたキヌコ、恵子、芳子の三名が「からい」もしくは「にがい」味を覚え、あるいは、舌を刺すような異様な感じを覚えていること、饅頭を食べるまで元気でいた芳子の饅頭を食べて間なしに急死したこと、同女の死体解剖の結果、胃内容物から農薬有機燐のパラチオン剤が検出され、農薬有機燐による中毒死の徴候を示していたことなどにてらすと、何者かが右饅頭四個に有機燐剤の農薬を付着混入させて前記書院台付近に置き、前述の経緯でこれを発見して食べ始めた三人のうち、比較的多く食べた芳子が、饅頭に付着していた有機燐剤の農薬による毒作用により急性中毒死したものと認めるのが相当である。もつとも、当審で取調べた上野正吉著「農薬中毒(犯罪捜査のための法医学)、平木潔、兵頭浩二郎共著「農薬中毒」の各書籍には、パラチオン剤の農薬中毒に関し論旨のごとき症状を指摘しており、芳子を診察した田中医師は嘔吐、排便、口臭等なかつた旨供述し(芳子の診療録―符15、証人田中穂徳の当審昭和四八年九月二一日(裁))、芳子の死体の解剖にあたつた香川鑑定医も臭気、嘔吐、唾液分泌亢進、流涙等につきなんら触れておらず(鑑定人香川卓二作成の(鑑))、また、縮瞳数値も0.2センチメートル余で前記指摘の数値との間にやや隔りがあるが、右書籍を精読するとき、有機燐中毒症の場合、そこに網羅された症状がすべて現われるものとまでは解されないところであり、幼児の瞳孔が通常0.6ないし0.7センチメートルであること(証人田中穂徳の原審昭和三七年七月二日(裁))に比し、芳子のそれが0.2センチメートル余であつたことは、同女が有機燐製剤の農薬による中毒症状を呈したものとみることの妨げとならないばかりでなく、前記著書の教える重症中毒症の場合にみられる全身痙攣、昏睡、呼吸停止等の症状は、饅頭を食べた後に起つた芳子の容態と合致しており、さらに、前記上野著書の指摘しているように、農薬中毒の判定は死体の解剖と化学的検査によつて決定することが最も確実であることを考慮すると、芳子の死体の解剖とその化学的検査によつて得られた結論、すなわち、死体の胃内容物からパラチオン剤(有機燐製剤農薬)が検出されたこと、ならびに、右パラチオン剤はその毒作用により血清中のコリンエステラーゼの働きを阻害するものであるところ、本死体の血液中に占めるコリンエステラーゼの活性低下率は一〇〇分の一一(健康体の数値は通常一〇〇分の八〇ないし九〇)の数値を示し、本死体が明らかにパラチオン剤による中毒死の特徴を伴つていたことの鑑定結果は、芳子の死因の判定にあたり最も重視さるべき資料といわなければならず、以上の見地から考察するとき、論旨の指摘の点を考慮に入れても、芳子の死因のパラチオン剤(有機燐製剤の農薬)による急性中毒死であるとの原判決の認定に誤りは存しない。論旨は理由がない。

第二本件控訴趣意中訴訟手続の法令違反の主張について

一被告人の司法警察員(但し昭和三六年四月七日付のものを除く)、検察官に対する各供述調書の証拠能力について

この点に関する論旨は、要するに、被告人は身柄拘束等によりヒステリー症を昂進させ、事理弁別の混迷、自暴的心情のもとで警察官の執拗巧妙な追及的取調をうけ、警察官のいうなりに供述したもので、この供述を録取した被告人の警察官に対する供述調書は任意性に欠けるものがあり、また、検察官に対する供述調書についても、警察官の不当な取調による影響のもとに作成録取されたものであつて、以上捜査官に対する各自白調書はいずれも任意性に欠け、証拠能力を有しないのに、これらの各供述調書を断罪の資料に供した原判決には、訴訟手続の法令違背があるというのである。

そこで、記録ならびに関係証拠にてらし調査するに、本件殺人事件(芳子殺害、キヌコ、恵子および冨美子殺害未遂の各事件を総称)発生以来、その犯人として被告人の起訴されるに至るまでの捜査経過、ならびに、被告人の捜査官に対する供述の概略は、次のとおりである。

1 前掲第一の二の(一)の経過をたどつて芳子が急死した後、翌一月九日午後芳子の葬儀が挙行される手筈となつていたが、これより先、同日午後〇時過頃同一町内に住む男性から、因島区検察庁に「今日被告人方の女の子の葬儀があるが死に方がおかしい。三、四年前にも被告人方では三、四人の家族が死んでいるが、これも同様死に方がおかしいという評判だ。直ぐ検察庁で内容を調べてくれ」という電話通報があり、右電話を受けた同区検庶務課長から所轄因島警察署刑事課長へ連絡をとり、因島警察署は直ちに警察官を被告人方へ急行させたうえ芳子の葬儀を延期させ、翌一月一〇日広島県警捜査員の応援を得て捜査に乗り出し、芳子の死体および被告人方家屋の検証、ならびに、右家屋の捜索を行ない、右家屋の東側にある被告人方菜園のごみ捨場から饅頭「志ま娘」の包紙一枚(符2)と紙袋一枚(符18)を押収したほか、被告人を含む家族からの事情聴取を手始めに、いわゆる聞き込み捜査に全力を挙げ、以後被告人が後述のように同年二月二日逮捕されるまでの間、被告人の近親者を中心に取調が続けられ、芳子の死因が農薬有機燐の急性中毒死である旨の解剖結果が得られた後、饅頭に焦点を合わせた聞き込み捜査を一段と行ない、やがて、芳子死亡の前日の午後四時頃被告人が福忠店で饅頭を買つているのを目撃した旨の参考人供述を得、妻キヌコの一〇回におよぶ取調結果と相まつて、被告人に対する本件殺人事件の容疑を固め、同じ頃聞き込み捜査により判明した被告人方の飼犬死亡に関連して、被告人方に作男として働いていた箱崎米吉こと箱崎米義、キヌコほか近親者らを取調べ、これにより原判決が先行事件として判示する農薬塗布のバナナ饅頭による芳子殺害未遂の容疑をも固め、同年二月二日右両者の被疑事実で被告人を逮捕した。

2 被告人に対する逮捕状は右同日午後八時四五分頃執行されたが、これに引き続く警察官の取調において、被告人は、芳子の死亡前日ねずみを取る目的で饅頭に農薬アカールを塗り、これを取り敢えず表八畳間の書院棚の上に置いておいたが、翌日朝仕事に行く仕度をしている間に他所へかわすことを忘れてしまい、これを芳子が食べて死亡したもので、結果的に殺したといわれても仕方がない旨の供述をしたが、二日後の二月四日に至り、逮捕状の被疑事実である本件殺人事件および芳子殺害未遂の両者について、いずれも自己の犯行であることを自供したほか、原判決が先行事件として掲げる被告人の二女洋子、三女順子、兄芳三郎、兄嫁スミコの各死亡に関しても、自己が殺害した旨概括的な自供をし、同月五日検察官の取調に対しても、右逮捕被疑事実について自供し、右同日逮捕被疑事実と同一の事実により勾留され、以後起訴前の勾留期間(延長)満了前日の同月二三日までの間、警察官に対する供述調書八通、検察官に対する供述調書二通が作成されているが、本件殺人事件については、いずれの供述調書においても、その間に手段方法に関する差異はあるものの、福忠店で買つた饅頭四個に農薬ホリドールを仕込んで表八畳間の書院台の上に置き、芳子を含む家族婦女子の毒殺を企図したとする点で一貫した供述をし、一方、前記先行事件については、警察調書では、芳子殺害未遂が自己の犯行であること、洋子、順子、芳三郎、スミコの各死亡が自己の殺害犯行によることをいずれも肯定する供述をし、検察官調書では、芳三郎、スミコを除くその余についてのみ自己の犯行であることを肯定する供述をした。

3 そして、勾留期間(延長)満了前日の同月二三日、被告人の精神状態を鑑定する目的で被告人に対し鑑定留置状が執行され以後同年七月二三日までの間検察官の嘱託にかかる鑑定医の精神鑑定をうけるところとなり、その間にも、警察官による補充捜査が続けられたが、前記押収にかかる饅頭「志ま娘」の包紙(符2)から有機燐剤のエチルパラチオン、メチルパラチオン、または、EPNと認められる物質が検出されたこと、福忠店では饅頭「志ま娘」の販売を取扱つていないこと、ならびに、福忠店の村上キミコが被告人に饅頭を売つたことを強く否定すること等から、本件捜査にあたつた検察官において、本件殺人事件につき福忠店から饅頭四個を購入したとする被告人の自供に疑問をもち、被告人の取調を終始担当していた県警捜査員に右の点に関する被告人の取調を指示し、鑑定留置期間中の同年四月五日から同月七日にわたる警察官の取調において、被告人は芳子死亡の前日夕方妹タミコの夫柏原万寿が手土産に持参した饅頭の食べ残り四個を本件に使用した旨、饅頭の入手先に関して従前と異なる供述をし、該取調の結果が同月七日付供述調書として作成され、その後鑑定留置期間満了の翌日である同年七月二四日、本件殺人事件についてのみ公訴提起がされた。(なお、被告人は、本件公判において公訴事実を全面的に否認している。)

以上の事実が認められる。

そして、右事実によると、被告人は、逮捕当日の同年二月二日早くも警察官に対し、奥倉で饅頭四個に農薬アカールを塗つて書院棚に置いた旨供述し、次いで、二日後の同月四日本件殺人事件の全面自供をし、以後捜査官に対し一貫して自己の犯行であることを認めており、その間本件殺人事件について強硬に否認した形跡はなく、また一連の先行事件についてまで早期に供述しているのであつて、右自供の経過、内容にてらし、論旨指摘のように警察官において被告人に対し、任意性を疑わせるほどの執拗な追及的取調を行なつたものとは認め難いばかりでなく、被告人の取調にあたつた警察官卜部秀雄の原審第一〇回(公)、第一二回(公)、当審第四回(公)、登治郎の原審第二四回(公)によると、被告人の取調にあたつてその都度供述拒否権を告げ、被告人に対し暴行、いやがらせ等強制にわたる取調を行なつておらず、取調時間も逮捕当日を除き夕方までに終るよう配慮しており、殺人という重大事件に関する供述であるため任意性を疑われないよう十分注意したことが認められるので、被告人の司法警察員に対する各供述(但し昭和三六年四月七日付(員)については後述参照)はいずれも任意になされたものであり、検察官に対する各供述調書も、その供述の経過、内容にてらし任意性を十分認めることができる。

もつとも被告人は原審公判において、警察官の取調状況に関し、「警察官が自分の言わないことを勝手に調書に書いた」(第二〇回(公))、「警察官に供述を押しつけられ、手を捻じられたり、首を締められたりされた「(第二一回(公))、「手を後に組まされたり、頭を突かれたり、繩でくくる恰好をされたり、足で突いたりされた」(第三〇回(公))、「首をしめる真似をしたり、足の方を突かれたり、鉛筆で額を小突かれたりされた」(第三二回(公))と供述しているのであるが、右供述は、前記卜部、登の各供述および本件自白の経過、内容にてらし信用できない。また、所論は、被告人の逮捕が、事件発生以来広島県警本部の熟練捜査員によつて近親者および関係者に対し執拗、広範囲に行なわれていた聞き込み捜査の最中で、しかも、報道機関によつて右捜査状況が大々的に報道されている渦中でなされたため、被告人の心的動揺が甚だしかつたように主張するが、捜査の第一次的責任を負う警察が、殺人という重大事件につき練達の捜査員を参加させ、所轄署の全力を挙げて捜査に乗り出し、関係者から十分な事情聴取をするのは当然であり、被告人が右捜査あるいは報道によつて動揺し、初の身柄拘束をうけて熟練の捜査員と相対するとき、ある程度圧迫感をうけたことは想像に難くないとしても、捜査官が被告人をことさら不安定な精神状態に追いこみ、その状態を利用して取調を強行したとの資料の存しない以上、被告人がある程度圧迫感をうけていたことをもつて、直ちにその供述に任意性がないものということはできない。

また、所論は警察官の福忠店村上キミコに対する取調の状況、ことに、同人は饅頭を被告人に売つていないのに売つた旨虚偽の供述を強いられていること、被告人の姉村上冨美子に対する供述調書の内容、ことに、同人は供述能力が全くないのに、右調書には簡にして要を得た内容が記載されていること等にてらし、被告人に対する警察官の取調も右同様異常であつたと推定されると主張するが、被告人以外の者に対する取調に所論指摘のような事実があつたからといつて、被告人に対する取調も同様であつたといえないこともちろんであり、被告人に対する取調の状況は前記認定のとおりであつて、所論指摘の事情を考慮しても、被告人の供述に任意性がないものということはできない。

結局、この点に関する論旨は理由がない。

二被告人の司法警察員に対する昭和三六年四月七日付供述調書の証拠能力について

この点に関する論旨は、要するに、被告人の司法警察員に対する昭和三六年四月七日付供述調書は、鑑定留置による被告人の身柄拘束を利用して取調べた結果作成されたものであつて、鑑定留置を捜査のために利用することは違法であるから、かかる違法な取調による供述調書には証拠能力がなく、仮にそうでないとしても、被告人は右取調当時、鑑定のため激痛を伴う脊ずい液検査により全身手足のしびれを訴え、心身ともに困憊しており、かかる状況下で取調べられた右供述調書には任意性がないから、これを断罪の資料に供した原判決には、訴訟手続の法令違背があるというのである。

(一) しかし、被疑者に対する鑑定留置は、被疑者の心神または身体に関する鑑定目的を達成するために必要な留置処分として行なうものであり、捜査官において、鑑定留置による身柄拘束を被疑者の取調に利用する目的で鑑定留置を請求することの許されないのはいうまでもないが、鑑定人の鑑定目的遂行に支障を及ぼさない限度において、鑑定留置中の被疑者を任意に取り調べることは許容されるものと解するのが相当である。本件においてみるに、証人片岡力夫の原審第九回(公)、当審昭和四九年六月一九日(裁)によれば、被告人が起訴前に精神鑑定のため鑑定留置をうける運びとなつたのは、被告人の自供する動機をもつてして本件殺人事件を敢行したとすることは、通常の精神状態の持主では理解し難い面があつたことから、被告人の精神状態を明らかにし、自供にかかる動機をもつて本件殺人事件と結びつくかどうかを確め、そのうえで起訴不起訴を決しようとした点にあつたことが認められ、捜査官において、鑑定留置による身柄拘束を被疑者取調に利用する目的で被告人(当時の身分は被疑者)の鑑定留置を請求したものではないことが看取され、また、前掲証人片岡力夫の(公)、(裁)、証人卜部秀雄の原審昭和四一年六月二七日(裁)、当審第四回(公)、同登治郎の原審第二四(公)によれば、鑑定留置中の被告人に対する取調は、予め鑑定人浅田成也の許可をうけて鑑定遂行に差支えのない時期を選び、昭和三六年四月五日から同月七日までの三日間比較的短時間取調を行ない、右取調の結果同月七日付供述調書を作成したものであることが認められるのであつて、右鑑定留置中の被告人の取調が、結果的には、所論の指摘するように鑑定留置による身柄拘束を利用した取調に帰しているとはいえ、その取調の方法、期間、程度にてらし未だ右取調を違法視することはできない。

(二) 次に、警察官の右取調が被告人の心身困憊下におけるものでその供述に任意性がないとする所論について考察するに、鑑定人浅田成也の(鑑)、証人卜部秀雄の原審昭和四一年六月二七日(裁)、当審第四回(公)、同登治郎の原審第二四回(公)によると、被告人は昭和三六年二月二三日広島拘置所を留置場所とする鑑定留置をうけ、同年三月一三日および同月二〇日の二回にわたり、鑑定人医師浅田成也により脊ずい液検査のため、腰椎穿刺の方法による脊ずい液採取が行なわれたが、右二度目の採取時手足のしびれ、頭痛、めまい等を訴え、右のような症状がその後数日間続いた後、平常の健康状態に回復し、以後常時と変らない状況にあり、被告人を取調べた同年四月五日から同月七日にかけての時期は、すでに前記脊ずい液採取による影響を脱し、健康状態を回復した後における取調であつて、右取調の態様も、拘置所の看守立会のもとに、初日の四月五日は被告人が取調官をからかつたり、罵倒したりしたため、短時間で打ち切り、同月六日、七日の両日午前中一、二時間、午後二、三時間の割で、主として饅頭の入手先に関する取調を行ない、これにより同月七日付供述調書を作成したことが認められ、右によれば、被告人の心身状態が前記取調に堪え難い状況にあつたことを理由に供述の任意性を争う所論は、是認することができない。

(三) もつとも、右供述調書に関する取調に関し、被告人は、原審公判において、同調書に記載されているような饅頭の入手先に関する変更供述がされるに至つたのは、「取調官から饅頭は万寿が持つて来たと母が言つているぞと押しつけられ、万寿から貰つた覚えはないと否定したが、取調官がそれなら母を呼んでこようとかと脅すので、それならよいように調書にしてくれといい、その結果右のような調書ができたものであつて、自分から右変更供述をしたものではない」(第二一回(公))、「取調官からお前は福忠店で買つたと嘘を言つているではないか、妹むこの万寿が持つてきたと母もタミコもそう言いよつたと押しつけられ、私はそのような覚えがないので知らんと答えたが、取調官は知らんでもよいと言つて万寿が持参した旨の調書を書いた」(第三〇回(公))と供述し、一方、右取調にあたつた卜部秀雄、登治郎は、被告人の指摘するような事実を強く否定し、被告人に饅頭の入手先を確めたところ、被告人から万寿が持参した旨任意に供述した(証人卜部秀雄、同登治郎の前掲(公)、(裁))といい、右両者の供述からは果していずれが真なりやにわかに断じ難いところであるが、右卜部、登の両警察官は、本件殺人事件の捜査に初めから関与し、被告人を逮捕する以前から「警察の捜査が始まつた数日後頃、被告人が私(キヌコ)に対し、一月七日の節句の日に饅頭と飴を万寿がもつてきたと話していた」(村上キヌコの昭和三六年一月二九日(員)―刑訴法三二八条書面として取調のもの)というキヌコの供述のあることを熟知していたものと推測されるうえに、前記一の3の経過で、検察官から饅頭の入手先に関する再取調を指示されて前記の取調をなすに至つたものであること、被告人は本件逮捕当初から一貫して福忠店で饅頭四個を買つた旨自供し、右福忠店の村上キミヌコと対質する方法で取調をうけ、同人が被告人に饅頭を売つたことを否定するにも拘わらず、終始右供述を固持し続けていたことの状況にてらすと、物証に乏しい殺人事件の解決を焦る右卜部らにおいて、キヌコの前記供述にそうような被告人の供述を求めるべく、被告人に執拗な説得を反覆し、時には誘導を交えた取調を行ない、その結果前記のような被告人の変更供述をみるに至つたのではないかと疑う余地もないではないが(この点は供述の信用性に関する判断に譲る)、未だ強制による自白ないし偽計による自白とまで認めることはできない。

以上の理由により、この点に関する論旨も理由がない。

三医師浅田成也作成の鑑定書の証拠能力について

この点に関する論旨は、要するに、捜査官が浅田医師に被告人の精神鑑定を嘱託するにあたり、被告人の精神状態の鑑定にとどまらず、捜査官の手持資料である関係者の供述等全ての資料にもとづき被告人の供述が信用できるか否かの鑑定まで求め、これに応えて右浅田鑑定書が作成されているが、右鑑定書は、本来課すべからざる鑑定の範囲を逸脱したものであり、違法な鑑定書として排斥さるべきであるのに、これを認定資料に供した点において原判決には訴訟手続の法令違背があるというのである。

そこで、検討するに、右浅田鑑定書は、本件殺人事件の捜査担当者である検察官において、本件の起訴前の段階で未だ被疑者の地位にあつた本件被告人につき、犯行時とその前後ならびに現在における被疑者の精神状態を鑑定するため、右浅田鑑定人に鑑定を嘱託し、これにもとづき作成されたことが明らかである。なるほど、鑑定留置請求書(記録二六二〇丁)には、所論の指摘するように、鑑定の目的として「犯行時とその前後、現在における被疑者の精神状態を鑑定し、責任能力の有無、供述の信用性を明らかにするため」なる文言が記載されているが、右は、被疑者の精神状態を鑑定することにより、当面捜査官において、被疑者の責任能力や供述の信用性を判断するうえでの参考資料にすることを意味し、鑑定事項としては、あくまで被疑者の精神状態の鑑定を求めたものであるから、捜査官による右鑑定嘱託が、課すべからざる鑑定の範囲を逸脱した事項の鑑定を命じた違法のものということはできない。もつとも、右鑑定書には、鑑定嘱託者から提供された被告人を含む関係者の各供述調書などに関し、個別的に各供述の信用性に触れているが、右は、鑑定者自身被告人の精神状態を究明する補助手段として行なつたものに過ぎず、これをもつて、被告人や関係者の各供述の信用性自体を鑑定したものとするのはあたらない。この点に関する論旨も理由がない。

第三本件控訴趣意中被害者村上芳子の死因に関する点を除くその余の事実誤認の主張について

一この点に関する論旨は、要するに、被告人は本件殺人事件の犯人ではないのに、原判決が被告人の捜査官に対する自白の信用性を肯定し、その補強証拠も存在するとして、被告人に有罪を言い渡したのは、事実を誤認したものであるというのであり、右自白の信用すべからざる根拠として、右自白の内容を本件犯行の動機、先行事件、本件犯行の手段、方法等に分け、それぞれにつき詳細に所論を展開しているので、以下右各所論にそくし、右内容別に順次その信用性を検討する。

二本件犯行の動機について

(一) この点に関する所論は、要するに、原判決は本件犯行の動機として「被告人は背徳症なる精神変質を件うヒステリー性および類テンカン性素質を帯びた性格の持主で、時々不機嫌症に陥つていたうえ、父芳清から曾祖父が大酒家で先祖伝来の財産を減らしたのを祖父および父が懸命に働いて取り戻したので、被告人も人並以上に働いて家の財産を守るよう常々言いきかされ、被告人自身も家の財産を殖やすことに異常に執着して人並以上に働いていたが、生まれてくる子供は女子ばかりで、養育しても成長して他家に嫁ぐだけで財産殖やしに役立たないだけでなく、嫁入り仕度の必要から財産を減らすばかりであり、そのうえ死亡した兄芳三郎夫婦の長女芳子まで引き取つて養育しており、また、姉は生来の精神薄弱者で満足に働くことができず、妻キヌコものろまで役に立たないとして、これらの婦女子は死んでしまつた方がよいと思う程強い不満を抱いていたが、昭和三五年暮頃から同三六年初めにかけて、家の財産あるいは女達に要する出費のことなどを考え詰めているうち、頭がのぼせて不機嫌症に陥り、同年一月三日妻キヌコが実家へ里帰りする際、芳子を置いて里帰りするようすすめる母ハルヲの意見に反対し、キヌコに対し芳子を親元に連れて行つて置いて帰れと言い張つたうえ、同日親元の村上保左衛門に宛て、芳子もキヌコも親元へ帰す旨のハガキ(符4)を書き、同月六日芳子を親元へ引き取らせようと思いつめて右ハガキを投函し、さらに、翌七日キヌコが七草節句で里帰りする際も、キヌコに対し芳子を親元に置いて帰れ、それが気にいらねばお前も帰れ等と言つたが、母にたしなめられてそれ以上強く言わなかつたものの、内心の不満は募る一方であり、折柄の不機嫌症も手伝つて、翌八日は朝から両親と三人で佐木島の畑へいく予定であり、家にはキヌコ、長女恵子、姪芳子、姉富美子ら女子供ばかり残るので、厄介者が一人でも減つた方がよいと考え本件犯行を決意した」と認定し、この点に関する被告人の自白は、医師浅田成也作成の(鑑)記載の被告人の性格、精神状態にてらし、十分納得しうると説示しているのであるが、女児の誕生を喜ばないのは農村一般のならわしであり、被告人が格別に女児を嫌悪していたものとは考えられないのみならず、肉親の情として財産保全のために我が子を亡きものにするということは理解できず、特に妻キヌコについては、農業を営む被告人にとつて極めて重要な労働力であり、如何に被告人が財産的打算に走つたとしても、妻まで殺害の対象とすることは通常考えられず、被告人の知能、資質、性格等に欠陥があるとしても、肉親の情愛を無視することはできないのであるから、いずれにしても、被告人の犯行の動機に関する自白は不自然不合理で到底首肯することができないというのである。

(二) そこで検討するのに、被告人の昭和三六年二月四日(員)、同月八日(員)、同月一五日(員)には、本件犯行の動機およびその形成過程として、「被告人は常日頃財産を守ることに異常な執着心をもち、これが昂じて女児や精神薄弱者の姉が役に立たないどころか、かえつて金がかかると思い込んで女子供を嫌悪し、また妻キヌコに対してものろまで役に立たないとして、ふだんから同様嫌悪の感情をもち続け、同女を離別する意思すら有していて、その後次第に右婦女子に対する嫌悪感が昂揚し、初めのうちは、女子供のうち一人でも二人でも死んでくれればよいと思つていたものが、遂に右婦女子をすべて亡きものにしようと考えるに至つた」旨原判決認定と同旨の記載があり、かかる動機の内容自体極めて特異であつて、もし被告人の性格、精神状態が通常人と異ならないとすれば、所論のとおり右自白は不自然、不合理であるとして、その信用性否定の一根拠となりうると考えられる。しかし、医師浅田成也の原審昭和三七年八月一四日(裁)と同人作成の(鑑)には、「被告人の知能程度は正常者と軽愚の中間段階にあり、右のような軽き低能の土台の上に、非常に嫌悪癖の強いヒステリー素質や、粘着性と爆発性を基盤とした類テンカン素質が上層累加され、加えて、軽き低能者に随伴してみられる背徳症(道徳観念に欠ける性格異常)をもつ精神変質者の範疇に属し、高等感情の発達が不良で欲求や感情を制止することができず、また、被告人は右の低能、ヒステリー性、類テンカン性という基盤の上に、不機嫌症(感情障害)を反覆する特性を有し、昭和三五年暮から昭和三六年一月七日頃までの間右不機嫌症に陥つていて、右のような感情の障害を伴う不機嫌症により、被告人はその当時、感情に支配された行動をとり易く、平素心裡にある動機を強勢し、容易に短絡行動に走りうる精神状態にあつた」旨の記載があり、このような被告人の性格、精神状態を基盤として、被告人の前記各調書にみられる動機の形成過程を考察するときは、通常の精神の持主にとつて不自然不合理と考えられるような動機も、被告人にとつては、所論のように必ずしも不自然不合理なものとはいい難く、問題は、右浅田鑑定書の信用性であるが、その鑑定経過、資料にてらし、一沫の疑念をさしはさむ余地がないとはいえないにせよ、その内容は概ね首肯し得なくはないから、結局、動機の面から自白の信用性を否定しようとする所論には賛成し難い。

三先行事件について

(一) この点に関する所論は、要するに、原判決は、被告人の本件における自白の信憑性を判断するにあたり、被告人の捜査官に対する「本件以前にも本件と同様の動機で次女洋子、三女順子、兄芳三郎、兄嫁スミコを殺害し、芳子を殺害しようとしたが未遂に終つた」旨の供述が真実であるか否かを検討し、結局これらの事件に対する供述の信用性を肯定しているが、検察官において公訴を提起していないのにもかかわらず、右先行事件につき確信的断定をもつてのぞもうとする原判決のあり方は、不告不理の基本理念に副わざるものがあり、その内容の判断にあつても、死因不明という鑑定結果を考慮することなく、被告人の供述とこれに符合する関係者の供述等により、たやすく信用性を肯定しているのは不当であるというのである。

(二) そこで、先ず、原判決が前記先行事件に関する被告人の供述の信用性を判断したことの当否について考えるに、一件記録によると、原審は、被告人の自供にかかる先行事件と本件とが原因、動機の面で密接な関連があるものと認め、先行事件に関する各証拠の取調を行なつたうえ、右事件に関する被告人の供述ならびに証拠を検討し、被告人の本件における自白の信用性判断の一助としているのであつて、原判決が本件と原因、動機の面で密接に関連する右先行事件について判断を加えたことに違法はなく、また、これら先行事件を罪となるべき事実として認定したものではないから、不告不理の原則に違背するものということもできない。

次いで、右先行事件に関する被告人の供述の信憑性について案ずるに、(イ)芳子殺害未遂の件、(ロ)洋子および順子殺害の件、(ハ)芳三郎殺害の件、(ニ)スミコ殺害の件に関する被告人の各供述、ならびに、これらに関係する各証拠を検討すると、(イ)につき、昭和三三年六月頃バナナ饅頭を四個に割つて農薬テップを塗り、芳子と嫂スミコに食べさせようと思つて同人らの居住する納屋の入口に置いたが、芳子がからいからと言つて食べず、作男の米吉が飼犬に食べさせて右犬が死んだ旨、(ロ)につき、洋子が生まれて一ケ月余り過ぎた孫入りの前夜、妻キヌコが入浴している間に、傍らに寝ていた洋子の鼻と口を手でおさえたら、間なしに容態が急変して死亡し、また、順子が生まれて二週間余り経つた昭和三四年一月中頃の夜明け頃、キヌコが用便に起きて離れた間に、傍らに寝ていた順子の鼻と口を手でおさえたら、洋子と同じ様に間もなく容態が急変して死亡した旨、(ニ)につき、同年九月頃の分家村上マサコ方へ貰い風呂に行つた当夜、自宅台所に置いていた食べ残りのウドンを大茶碗に入れて汁をかけ、これに農薬テップを二、三滴混入したうえ、折柄自宅西側の海岸べりの涼み台で風呂あがりを涼んでいた嫂スミコのところへ持つていき、同女に食べるようすすめ、同女が全部食べるのを待つて引き揚げ、その後同女も納屋二階に引き揚げたが、間なしに同女の苦しそうな泣くような声が聞こえ、その儘知らん顔をして就寝し、翌日同女が死んでいるのを家人が発見した旨の被告人の捜査官に対する各供述は、いずれも大綱において信用性がないとはいえない。もつとも、(イ)のバナナ饅頭を食べた飼犬、(ロ)の洋子、順子、(ニ)のスミコの各死因について、これらの骨や死体を発掘して鑑定した結果(鑑定人香川卓二作成の昭和三六年四月一〇日(鑑)、昭和三七年五月五日(鑑))では、いずれも死因不明もしくは死因不詳とされているので、各死因について確実な証拠に欠けるとはいえるのであるが、死後相当日時が経過し、これらの検体から適確に死因を判定することが困難であつたため、死因不明もしくは死因不詳の鑑定結果となつたことが窺知されるので、右鑑定の結果があるからといつて、被告人の前記各供述の信用性が一概にないものということはできない。他方、前記(ハ)の芳三郎殺害の件についての被告人の供述の大要は、「昭和三二年一二月九日朝自宅にあつた一合入瓶の清酒に農薬テップを二、三滴混入したうえ、これを納屋に居住する兄芳三郎のところへ持参し、酒好きの同人に『酒をやろう』といつて手渡した。同人は『有難う』といつてズボンのポケットに入れた。夕方畑仕事から帰宅していると、実家の保左衛門が『芳三郎が家の近くの路地で苦しんで倒れて死んだ』と連絡があり、直ぐ現場に行つてみると、兄は道路端に倒れ、どらちかの手に白い紙に包んだたんさんを持つたまま死んでいた。私がやつたテップ入りの酒をのんで死んだものと思う」という内容のものであるが、この点に関する関係各証拠と対比して検討すると、同人の死亡直後警察官によつて行なわれた異常死体見分、ならびに、警察官立会のうえ行なわれた医師の死体検案において、農薬中毒死の徴候を示す縮瞳、嘔吐、咬舌はなく、苦悶死の状況は全く窺えなかつたこと、同人は平素から病弱で医師の診療をうけることが多く、日頃医師から農作業はひかえるよう注意をうけており、作業中しばしば息切れ現象を呈していたこと、死亡当日朝早くから海岸に出てたき木になる木片拾いをし、午後引き続き畑の開墾作業に従事したものであつて、夕方実家近くまで引揚げてきた当時、終日の労働で疲労困憊していたものと認められ、これらの事情を斟酌するとき、死体を検案した医師の死亡診断にもあるとおり、心臓麻痺による急死とみる余地が多分に存し、テップ混入の清酒飲用による農薬中毒死とみることには多大の疑問があり、従つて、テップ混入の清酒入り瓶を芳三郎に手渡して毒殺を図つたとする被告人の前記供述は、たやすく信用し難いところである。

(三) 以上検討の結果によると、被告人の先行事件に関する供述中、前記(イ)(ロ)(ニ)の各事件についての供述は、各死因についての確実な証拠に欠けるとはいうものの、所論のように一概に信用性がないとまではいえないのであり、そうすると、(イ)(ロ)(ニ)の先行事件についての供述の内容と本件についてのそれとは、原因、動機において密接な関連があり、手段、方法において類似性がないとはいえないから、本件についての供述も、右先行事件についての供述と同様信用性がないとはいえないのではないかとの疑いが生ずる。しかし、被告人の先行事件についての供述の中には、前記(ハ)の事件についてのように信用性の認められないものが混入しているのも事実であり、また(イ)(ロ)(ニ)の事件の手段、方法が単純、簡単であるのに比し、本件のそれは、後述のようにかなり複雑かつ事前の準備を必要とする点で全く同一であるとはいい難く、さらに(イ)(ロ)(ニ)の事件自体絶対確実といえるほどの補強証拠に欠けることにかんがみると、右先行事件についての供述に信用性がないとはいえないからといつて、それのみで直ちに本件についての供述にも信用性があるとはいえず、右信用性については、さらに他の面からも慎重に検討を要する。

四本件犯行の手段方法―(その一)―饅頭の入手先について

(一) この点に関する所論は、要するに、本件犯行に使用された饅頭の入手方法に関して、原判決は、被告人の司法警察員(但し昭和三六年四月七日付のものを除く)および検察官に対する各供述調書(昭和三六年二月四日(員)、同月八日(員)、同月九日(員)、同月一〇日(員)、同月二一日(員)、同月二二日(員)、同月五日(検)、同月一二日(検))中「昭和三六年一月七日午後四時頃から午後四時半頃までの間福忠店で村上キミコから饅頭四個を購入した」旨の供述部分は、(イ)右村上キミコの原審昭和三八年七月二日(裁)、昭和三六年二月一七日(検)中「当日は七草節句で昼食をすませた午後一時頃から二女幸子を連れて実家の柏原ユキコ方へ里帰りし、午後九時頃帰宅したので、被告人に饅頭を売つたことはない」旨の供述部分、(ロ)柏原ユキコの昭和三六年二月一八日(員)、同証人の原審昭和三九年一一月一四日(命)、堀尾良子の原審昭和四〇年一月二七日(裁)により認められる、キミコは被告人が饅頭を買つたという時刻頃実家に帰つていて店にいなかつた事実、(ハ)被告人が前記日時頃福忠店で饅頭を買うのを見たという藤井龍子の警察での供述(昭和三六年一月二七日(員))は、日時が曖昧で信用し難く、これと同旨の検察官に対する供述(同年二月一二日(検))も同様措信し難いこと、(ニ)被告人は従前しばしば福忠店で買物をしているので、別の日に経験した事実を一月七日に置きかえて述べることも可能であることの諸事情にてらし真実とはなし難いとし、一方、被告人の昭和三六年四月七日(員)中「一月七日の夕食後母から義弟(妹タミコの夫)柏原万寿が土産に饅頭をもつてきてくれたと聞いた」旨の供述部分は、(ホ)被告人が逮捕前妻キヌコに万寿が一月七日饅頭を持参した旨述べたことに関するキヌコの証言経過(原審昭和四一年三月九日(裁)、(ヘ)村上キヌコの昭和三六年一月二九日(員)(刑訴法三二八条書面として取調べたもの)にあらわれたキヌコと被告人との饅頭に関する内容の供述、(ト)父芳清がキヌコから芳子の死亡状況を聞いた際、饅頭は「志ま娘」ではなかつたかと尋ねていること、(チ)本件発生二日後に被告人方のごみ捨場から「志ま娘」の包紙が発見され、右包紙を鑑定の結果、これに農薬有機燐と同成分のパラチオン剤(別名ホリドール)の物質が付着していたこと、(リ)「志ま娘」の饅頭を製造販売する清月堂の関係者は、万寿に饅頭を売つたかどうか憶えていないと供述するが(証人藤井良樹の原審昭和四一年六月二七日(裁)、証人藤井フクコの原審昭和四二年一月一九日(裁))、だからといつて、万寿に「志ま娘」を売らなかつたとも断定することはできないこと、(ヌ)万寿が饅頭を持参していない旨の父芳清、母ハルヲ、妹タミコ、義弟万寿の供述は、同人らがいずれも被告人の肉親で、父芳清が饅頭のことにつき口止めしていることにかんがみ、必ずしも信用できないこと等の諸事情にてらし、十分首肯しうるとして、万寿が土産に持参した食べ残りの饅頭四個を用いて本件犯行を敢行した旨認定しているが、饅頭を万寿が持参したとする被告人の変更供述の内容自体からみても、食べ残りの饅頭が四個あつたとすることが不合理であるばかりでなく、万寿が持参したことについての裏付資料は皆無であり、従前一貫して福忠店で購入したとしながら、卒然と万寿が土産に持参した旨供述を変更した経緯にてらしても、何故供述を変更したのか首肯すべき理由を見い出せず、右変更供述に信用性を肯定した原判決は、証拠の価値判断を誤つているというのである。

(二) そこで、検討するに、被告人の昭和三六年二月四日(員)、同月八日(員)、同月九日(員)、同月一〇日(員)、同月二一日(員)、同月二二日(員)および同月五日(検)、同月一二日(検)中、本件発生の前日である昭和三六年一月七日午後四時ないし午後四時半頃福忠店で村上キミコから饅頭四個を購入した旨の供述部分が真実と認め難いこと原判決説示のとおりであり、問題は、後の変更供述(昭和三六年四月七日(員))にある万寿が土産に饅頭を持参したという供述の真実性が認められるかどうかにある。

被告人は、昭和三六年四月七日(員)において、「一月七日夕食後母が茶を出し、庭の戸棚から黒色の木の菓子器のものに塩せんべいを入れたものと、何か新聞紙に包んだものを出した。新聞紙の包みは新聞半頁位の大きさのもので包み、ゴムのバンドがかけてあつた。タミコが新聞紙のゴムをはずしてひろげ、薄茶色の紙袋をばりつと破り、中に薄い白い紙で包んだ饅頭が一〇個位あつた。タミコが紙袋を破つた時、母がかずさん(万寿)がもつて来てくれたんじやと言つた。包んだ紙は薄く何か字が書いてあつたが憶えていない。自分は饅頭を一、二個位食べたが、他の者も食べたと思うが誰がどのように食べたかしらない。雑談をしていると午後七時頃キヌコが帰つてきた。その時饅頭はまだ残つていた」旨供述し、また、右のように饅頭の入手先を変えた理由につき、「本当のことを話すと、親やタミコや万寿が取調べられ可哀想だと思つたので、今まで嘘のことを言つた」と供述しており、右供述の内容をみるとき、夕食後の食卓に饅頭が出された状況や、その際における母親の言動に関する被告人の供述は写実的であり、経験したものでなけれは知り得ないと思われるような供述とみられなくもないのであるが、新聞紙の包みにゴムのバンドがかけてあることや、右バンドをはずして新聞紙をひろげ、中の紙袋を破つて饅頭をとり出すということは、どこの家庭でも日常経験する事柄であり、被告人にとつてもまた経験事実に属するということができるから、被告人が従前経験した事実を右の場に置きかえて供述することも可能であり、このような事情を考慮に入れると、右に指摘する供述の写実的なことをとらえて、直ちに被告人が真実を述べたものとするには躊躇せざるを得ない。また、母ハルヲが饅頭を万寿が持つて来てくれたと話した旨の供述について、原判決は、捜査官は被告人が福忠店で饅頭を買つたことに疑問を持つていたが、万寿が持参したことにつきなんら裏付証拠もなかつたし、無理に万寿が持参したと認めさせようとした形跡もなく、被告人が捜査官の問に対し素直に供述したものであるとしているが、前記第二の一の3、第二の二の(三)においてみたごとく、本件捜査担当の片岡検察官は、押収にかかる「志ま娘」の包紙(符2)から農薬ホリドールと同成分のパラチオン剤の物質が検出された旨の鑑定結果を知つた後、被告人が饅頭の入手先として自供する福忠店では「志ま娘」の饅頭を売つていないことから、被告人の右自供に疑問をもち、警察官に饅頭の入手先について被告人を再度取調べるよう指示し、これにより卜部秀雄、登治郎の両警察官が被告人を取り調べた結果、前記のような饅頭入手先の変更供述を内容とする供述調書が作成されたものであること、本件記録によると、右警察官らは、本件捜査に終始関与し、キヌコの取調によつて得られた資料、すなわち、警察の捜査が始まつた数日後頃被告人が私(キヌコ)に対し、一月七日の節句の日饅頭と飴を万寿が持つてきたと話していた、という村上キヌコの昭和三六年一月二九日(員)によつて、饅頭の入手先に関する予備知識をもつていたこと、その他、証人卜部秀雄の原審昭和四一年六月二七日(裁)、当審第四回(公)、同登治郎の原審第二四回(公)、被告人の原審第二一回(公)、第三〇回(公)により認められる饅頭の入手先に関する取調の状況、取調に要した日数等、右取調に関する一連の事情を斟酌すると、物証に乏しい殺人事件の解決を焦る捜査官において、被告人に対し前記キヌコの供述にそうような供述を求めるべく、被告人に執拗な説得を反覆し、時には誘導的言動を交えて取調を行ない、その結果前記のような供述をみるに至つたのではないかと疑う余地もあり、右供述の信用性については、さらに他の証拠との関係で検討を要するものといわねばならない。

(三) 進んで、原判決が右変更供述の信用性を肯定する理由として掲げる(ホ)ないし(チ)の事由について、順次検討する。

1 原判決が証人村上キヌコの原審昭和四一年三月九日(裁)における同証人の供述経過として掲げる問答の大要は、「問、昭和三六年二月二日付司法巡査に対する証人の供述調書(原審第一二回公判で刑訴法三二八条書面として取調済のもの)には、私の主人の一二に事件後何日位経つたか判りませんが、約一週間位のちと思います。夜寝床に入つて私が主人に『あんたは七日の日に饅頭を食べたんじやないんの』と聞くと、主人は『七日の日にタミコらと饅頭を食べた。飴も五〇円の袋入りを買つて食べた』と言つていました。私はそれ以上は聞かずその儘寝ました。その後主人にそのことを聞くと、『買つた飴は食べない。饅頭は知らん』と言い出して今に至つております。と書いてあるが、証人はそのように述べたことがありますか。答、はつきり覚えません。問、証人は被告人とそのような話合いをしたことがあるのですか、それともないのですか。答、はつきり覚えません。問、昭和三六年一月二九日付司法警察員に対する証人の供述調書(原審第一二回公判で刑訴法三二八条書面として取調済のもの)には、夫の一二が疑われるようになつてからだつたと思います。夫に対し『七日の節句に私が親元から帰つた時、あんたら饅頭を食べよつたじやないの、あれはどうしたんね』とかまをかけたのであります。実際には見ていないので知らなかつたのであります。すると夫は、『饅頭と飴をかずさん(万寿)が持つてきたんや』と言うので、さらに『あの残りはどうしたんね』というと、『お前はわしを疑うとるんか』とひどい剣幕になるので、これ以上聞くこともできないのであります。と書いてあるが、そのような供述をしたことがありますか。答=はつきり覚えません。問=かまをかけて尋ねたことがありますか。答、警察の人がいろいろ尋ねられた時、『七日の日に本当に饅頭を食べていないか』と尋ねられたので、『食べてないです』と言いますと、警察の人が『食べている筈だ、このように尋ねてみい』と言われたのです。問、警察の人が『かまをかけて尋ねてみい』と言つたのですか。答、はい。警察の人が『一二は食べたのを知らんといつているが、食べている筈だ。このようにしてかまをかけて尋ねてみい』と教えてくれたのです。問、それで証人は被告人に尋ねたのですか。答、はい。問、それに対して被告人はなんと言いましたか。答、はつきり覚えません。問、被告人がどう言つたか覚えていないのですか。答、はい覚えません」というにあつて、右の内容を精読しても、結局のところ、キヌコの被告人に対するかまかけ質問に対し、被告人がどのように答えたか覚えないということに尽き、キヌコの右供述は、饅頭を万寿が持参したとする前記被告人の自供を裏付けるに足る積極的な価値を有しないものといわなければならない。なお、この点に関し検察官は、キヌコが真実被告人が饅頭を食べるのを見ていたからこそ、右のような質問をしたものと推認するのが相当であるというのであるが(弁論要旨五一丁)、キヌコは本件捜査の初めから重要参考人として警察の取調をうけ、早くから家庭の内情を詳さに供述しており、そのうえ、事件当日饅頭を食べて被害にかかつた本人であるから、前夜帰宅時食卓に饅頭のあることを見ておれば、それと結びつけて警察に饅頭のことを話すのが普通と思われるのに、同夜饅頭を見たことについては全く述べていないこと等からみて、キヌコにおいて被告人が饅頭を食べるのを見ていたとする検察官の推論にはたやすく賛成し難い。

2 また、原判決は、村上キヌコの昭和三六年一月二九日(員)(刑訴法三二八条書面)中にあらわれた「私は実際には見ていないので知らなかつたが、私が警察で調べをうけ出して五、六日位過ぎた頃、夫に対し『七日の節句に私が親元から帰つた時あんたら饅頭を食べよつたじやないの、あれはどうしたんね』とかまをかけたのであります。すると夫は『饅頭と飴をかずさん(万寿)が持つてきたんじや』と言うので、さらに『あの残りはどうしたんね』というと、『お前はわしを疑うとるんか』とひどい剣幕になるので、それ以上聞くこともできないのであります」の供述部分を引用して、右供述を、万寿が饅頭を持参したとする前記被告人の供述の信用性肯定の材料にするごとくであるが、キヌコの右供述調書は、キヌコの原審公判もしくは公判準備における供述の証明力を争うため、刑訴法三二八条書面として提出されたものであるから(原審第六回、第一二回公判調書参照)、これをもつて、本件犯行に使用された饅頭を前日万寿が持参したとする被告人の捜査官に対する供述の信用性の裏付資料に供することは許されないところといわねばならない。

3 つぎに原判決が村上芳清の昭和四六年二月一八日(検)の供述記載中、「キヌコから芳子死亡の状況を聞いた後、私から『どんな饅頭であつたか』と尋ねると、キヌコは『かわ(饅頭の表皮部分)が黒味がかつたものだつた』というので、私は『志ま娘ではないか』というと、キヌコは『判らん』と言つていた」旨の供述を引用し、かわの黒味がかつた饅頭は「志ま娘」に限られないのに、芳清が即座に「志ま娘」ではないかと尋ねているのは、本件当時(一月八日以前)被告人方に「志ま娘」があつたのを思い出し、その饅頭を食べたことが芳子の死因ではないかと推測したからではないかと思われると推論したうえ、芳清の右供述部分を、万寿が饅頭を持参した旨の被告人の供述の真実性を肯定する資料にしている点について考えるに、右芳清が芳子死亡の当日、キヌコに命じて自宅にあつた農薬ホリドールを隠匿していること(証人村上キヌコの昭和三六年三月一七日―三月一八日(官)、原審同年一一月三〇日(裁))と合わせ考え、同人は、本件発生前に自宅に饅頭「志ま娘」があつたことを知つていて、右のような発言をしたのではないかと推測する余地があり、その限りにおいて、芳清の右発言は、被告人方に本件発生前「志ま娘」の饅頭があつたことを推測する一資料といえようが、右饅頭が被告人の供述にある万寿が持参した饅頭と直ちに結びつくかどうかは、以下に述べる事情、すなわち、被告人の供述にある万寿持参の饅頭は、新聞紙に包んでゴムのバンドをはめていたというものであるところ、「志ま娘」の饅頭を一手に製造販売する清月堂は因島市内の有名菓子店であり、たとえ個別売りをするにしても、店の正規の包装紙に包むのではないかと思料され、右包装の状況から判断する限り、清月堂で購入した「志ま娘」とみることは困難であることに徴し、なお疑問の存するところであり、従つて、芳清の右供述をもつて、被告人の前記供述の真実性を担保するに十分なものともいい難い。

4 さらに、原判決が、被告人方のごみ捨場から芳子の死亡二日後の一月一〇日饅頭「志ま娘」の包紙(符2)が発見押収され、右包紙を鑑定した結果、有機燐製剤のエチルパラチオン、メチルパラチオン、またはEPNと認められる物質(パラチオンは別名ホリドールともいわれている)が付着していることを挙げて、被告人の供述の信用性の裏付資料にしていることについても、証人村上キヌコの昭和三六年三月一七日―一八日(官)、証人大出トクミの原審昭和四二年一月一九日(裁)によると、前掲第一の二の(一)記載の経過で、恵子が三度目に表八畳間の書院台付近へ残りの饅頭を取りに行つた際、饅頭の包紙を剥ぐような動作が窺え、それに続いて、同女が包紙に包んであるものと裸のもの各一個の饅頭をキヌコのところへ持参したが、恵子が右のように書院台付近を離れた折、その付近の八畳間畳の上に四角い紙片が転がつていたこと、当日午前中大出トクミが右八畳間とこれに続く東側六畳間を掃除し、掃いたごみを六畳間の東側内庭へ落とし、次いで、内庭、外庭を別の人が掃除し、最後に掃き集めたごみを被告人方家屋の東側に隣接する被告人方菜園のごみ捨場に捨てたことが認められ、これによれば、右菜園ごみ捨場から押収された「志ま娘」の包紙は、前記の経過で恵子が剥いだ饅頭の包紙、換言すると、本件犯行に使用された饅頭四個の内の一個の包紙に該当するものと推認する余地が多分にあるが、前記3に述べたところと同一の理由から、右「志ま娘」の包紙が、被告人の供述にある万寿が持参した饅頭と直ちに結びつくかどうかは疑問の存するところであり、右包紙の存在をもつて、被告人の饅頭の入手方法に関する前記供述の真実性を裏付けるものともいい難い。

(四) すでにみたとおり、被告人は、昭和三六年四月七日以前の捜査官に対する取調においては、一貫して福忠店で饅頭四個を購入し、これを本件犯行に使用したと供述しておきながら、四月七日(員)において、本件事件の前日万寿が持参した饅頭を犯行に使用した旨、饅頭の入手先に関する供述を変更したのであるが、従前福忠店で買つたと言つて万寿が持参したことを述べなかつた理由として、「本当のことを話すと両親や万寿夫婦が取調べられ可哀想だと思つたから」と述べており、原判決も、右の理由を肉親間の情として首肯しうるものとしているごとくである。しかしながら、本件捜査の経過にてらし明らかなように、両親や万寿、タミコは本件発生後重要参考人として繰り返し警察の取調をうけてきており、そのことは、被告人も十分熟知しているものと認められるうえ、仮に、被告人において、万寿が饅頭を持参したと早い時期に供述したからといつて、同人らが処罰をうける筋合いのものではないから、前記の理由は、必ずしも首肯しうる事由とはなし難い。なお、検察官において、福忠店で饅頭を買つたとする被告人の供述が虚偽を述べたものである理由として援用する浅田鑑定書、すなわち、被告人には病的虚言症が認められ、「全くの出鱈目を語り、または演じ、他人を欺くのみならず、自分でも嘘を真実と思い込むような節がある」とする点(弁論要旨五三丁)は、被告人の変更供述の信用性を検討するうえでも、十分に考慮されねばならぬ事情といわねばならず、この見地からも、被告人の右供述の真実性を肯定するためには、適確な裏付資料を要するものというべきである。

(五) 被告人の万寿が饅頭を持参したとする供述の信用性如何を考える場合、饅頭を持参したとする万寿、同席してその場の状況を知つていると思われる父芳清、母ハルヲ、万寿の妻タミコの裏付供述が重要な意義をもつことはいうまでもない。ところが、同人らはいずれも、捜査の当初から右の事実を否定する供述をしているのである。原判決は、右同人らは皆被告人の肉親であることなどから、同人らが否定供述をしているからといつて、万寿が饅頭を持参しなかつたと断定することはできない、と説示しているが、右説示の措辞の当否はともかく、当裁判所も、同人らの供述が必ずしも真実を述べているものとまでは考えない。しかし、右否定供述を詮索し、同人らが真実を隠しているのではないかと疑つてみても、所詮否定供述は、被告人の供述の真実性を裏付ける方向に作用するものではない。結局、本件においては、被告人の自供にかかる饅頭の入手先(出所)について、自白の真実性を裏付ける適確な資料はなく、すでにみた饅頭入手に関する変更供述がされるに至つた経緯、供述変更理由の稀薄性、被告人に病的な虚言癖のあることなどの事情を斟酌するとき、右変更供述に真実性を認めることは困難であるといわざるを得ない。

五本件犯行の手段方法―(その二)―饅頭に農薬を仕掛けた方法について

(一) この点に関する所論は、要するに、原判決は、被告人が饅頭に農薬を仕掛けた方法につき、被告人の捜査官に対する供述には一貫しないものがあるが、犯行時の行動を正確に記憶しているとは限らず、忘れている部分も往々にしてあるので、供述のくい違いがあつても真実性は否定できないとしたうえ、証拠関係を検討し、被告人方ごみ捨場から発見押収された「志ま娘」の饅頭包紙(符2)は、本件当日八畳間で恵子が饅頭を見つけた際、同女が饅頭の包紙を剥いで同部屋に放置し、その後同部屋を掃除して前記ごみ捨場に集められた包紙と同じものと推測できること、右押収の包紙には小穴が二個所あいており、被告人方に当時存在していた農薬ホリドールと同じ成分のエチルパラチオン等が付着していたこと、右の包紙は本件捜査の開始された一月一〇日に押収されたが、その段階で饅頭の包紙に穴をあけて農薬を仕掛けた旨の被告人の供述はなく、捜査当局が右包紙に穴をあけてホリドールを滲ませる等の作為をなすとは到底考えられないことから、右包紙は、被告人がホリドールを仕掛けた四個の饅頭のうちの一個の包紙であり、四個の饅頭のうち少なくとも一個について、包紙の上から鉛筆で穴をあけてホリドールをたらし込んだことを認めさせるのみならず、四個の饅頭にホリドールを仕掛けた旨の被告人の供述(昭和三四年四月七日(員))の真実性を担保するものであるとし、奥倉に置いてあるタンスの戸棚にあつた鉛筆で饅頭の包紙(符2)の横から穴をあけ、その中へ右戸棚から取り出した農薬ホリドール瓶のホリドール液をたらしこんだほか、饅頭の裏側に同液を塗りつける等して、四個の饅頭にそれぞれホリドール液を仕込んだ旨認定しているが、被告人方のごみ捨場から発見押収された「志ま娘」の包紙(符2)が、本件犯行に用いられた饅頭の包紙と同一のものかどうかには疑問があるうえ、右包紙にある小穴の形状等からみて、鉛筆によつてあけたものとは到底認められず、その用いたとする鉛筆自体も発見されていないこと、右小穴の中にホリドールをたらし込むことは極めて困難であり、強いてたらし込もうとすれば、包紙の穴の周囲に多量のホリドール液が付着せざるを得ないのに、鑑定の結果では、極めて微量のパラチオン剤の顕出を認めるに過ぎず、これらの点から、被告人の供述は不自然、不合理で到底真実性をもち得ない、というのである。

(二) そこで、饅頭に農薬を仕掛けた方法についての被告人の供述内容ならびに変遷の経過をみると、被告人は、逮捕された二日後の昭和三六年二月四日(員)において、本件犯行を自供するとともに、「使い残りのホリドール瓶(符7の警察領置番号31の2)のホリドールを饅頭四個に塗りつけた」と抽象的に供述し、同月五日(検)において「奥倉にあつた先の尖つた鉛筆で饅頭の横の方に小さい穴をあけ、その穴にホリドールを四、五滴ずつ饅頭全部にしみこませた」と述べ、従前の塗りつけたという供述を変更するとともに、農薬を仕掛けた方法を具体的に供述し、次いで、同月八日(員)において「農薬ホリドールはタンスの一番上の戸棚の中に一斗缶を半分に切つた缶の中に入れてあり、その横の方に草色軸一二センチメートル長の鉛筆が削つて置いていた。同じく戸棚の上にゴム手袋(青色)が置いてあつたので、これを右手にはめて、右鉛筆で饅頭の横へぐりぐりと廻しながら穴をあけた。じわじわと穴をあけて穴のところへホリドールの瓶の口をもつていき、たらたらと二、三滴たらし込んだうえ、ゴム手袋で上から軽くおさえて穴をつぶした。一つの饅頭の横に三つ位穴をあけ、四個の饅頭全部にホリドールをたらし込んだ。穴をあけるのに使つた鉛筆は表に出て海へ捨てた」と述べ、饅頭に穴をあけてホリドールを仕掛けるのに使用した鉛筆の所在と始末に触れ、ゴム手袋(右手)を使用したことを付加して、鉛筆で饅頭の横に穴をあけて農薬をたらし込んだことを具体的に供述しながら、同月二一日(員)においては「饅頭にホリドールを塗つた」と初めの供述に逆戻りし、同月二二日(員)において「鉛筆でゆつくりと饅頭に穴をあけてホリドールをゆつくりたらし込み、しみ込むのを待つて、ゴム手袋をはめた手でじつとおさえて穴をつぶした。一個の饅頭に三ケ穴をあけ、四個の饅頭に同じ様にホリドールを滲ませた。穴をあけるのに使つた鉛筆は母屋と納屋の間から持つて出て海へ捨てた」と、再び同月八日(員)と同様の供述を維持し、さらに、同月二三日(検)において「饅頭の横に鉛筆の先で穴をあけたが、よく考えてみると、饅頭一個につき横側三ケ所位に穴をあけ、一ケ所につきホリドール二、三滴をおとし、穴のところをゴム手袋をはめた指でやんわりおさえた。鉛筆は海に捨てた」とほぼ同趣旨の供述をしたが、同年四月七日(員)において、「饅頭は、包紙をはずして裏側に塗つたり、二つに割つて中に農薬をつけたり、包紙のまま鉛筆で横の方に穴をあけ、その穴の中に農薬をたらし込んだりした。穴をあけたのが何個で、割つたのが何個ということは憶えていない。右のように農薬を仕掛けるのにゴム手袋は使つておらず、素手で塗つたり、たらし込んだのが正しい」と述べ、饅頭四個とも鉛筆で穴をあけて農薬をたらし込んだとする従前の供述を、饅頭四個につき右述の三様の方法を用いて農薬を仕掛けた旨供述を一変しているのである。

被告人が右の如く饅頭に農薬を仕掛けた方法に関する供述を二転、三転した理由について、被告人の供述調書にはなにも触れておらず、その真意は測り難いところであるが、殺人という重大な犯行を自供した被告人において、真実犯人であるならば間違える筈がないと思われる右犯行の手段について、供述が二転、三転すること自体不自然であり、この点に関する被告人の供述の信用性については、他の資料と対比して慎重な検討を要するものといわねばならない。

(三) 本件当日被告人方表八畳間の書院台付近に置かれていた饅頭の発見状況、ならびに、これを芳子が食べるに至つた経過は、前掲第一の二の(一)記載のとおりであり、証人村上キヌコの昭和三六年三月一七日―一八日(官)、原審同年一一月三〇日(命)、昭和三七年一月二七日(命)、昭和四一年二月二四日(裁)によると、恵子が初めと二度目に各一個宛キヌコの手許へ持つてきた饅頭は、いずれも包紙のない裸のものであり(キヌコと芳子が一個づつ受け取る)、同女が三度目に書院台付近から持つてきた饅頭二個のうち、一個は包紙で覆われており、他の一個は包紙のない裸のものであつたが、後者の裸のものは、恵子が書院台付近から運んでくる途中包紙を剥いだため裸となつたものであつて、三度目に持つてきた二個の饅頭は包紙に包んだまま書院台付近に置かれていたこと(右二個のうち包紙のある分が冨美子、途中で包紙を剥いだ分が恵子に分配されている)が認められ、また、恵子が剥いで表八畳間内に放置された饅頭の包紙は、前記四の(三)の4記載のとおり、同部屋の掃除によつて被告人方の菜園ごみ捨場に掃き捨てられた蓋然性が高く、二日後に右ごみ捨場から発見押収された包紙(符2)(司法警察員作成の昭和三六年一月一〇日(捜索)、同月一三日(検証)参照)は、右の経過で掃き捨てられた包紙と同一のもの、いいかえると、本件犯行に用いられた饅頭四個のうちの一個の包紙に該当するものと推認する余地が多分に存するところである。

右にみた事実にそくして被告人の供述を検討するに、饅頭四個にホリドールを塗りつけたとする昭和三六年二月四日(員)、同月二一日(員)は、塗りつけるためには先ず包紙をはがさねばならないが、糊などを準備して剥いだ包紙を元どおりにしたという供述もなければ、そのような形跡も認められない本件において、右の方法をとつた場合、饅頭四個ともに包紙のない裸のものとならざるを得ず、四個の饅頭のうち二個は包紙に包まれていたとみられる前記発見時の状況と合致しないことになり、この点から右供述記載は不合理なものといわざるを得ない。また、饅頭四個とも包紙の上から穴をあけてホリドールをたらし込んだとする昭和三六年二月五日(検)、同月八日(員)、同月二二日(員)、同月二三日(検)についても、四個の饅頭のうち二個は包紙のない裸の饅頭であつたとみられる前記発見時の状況にてらし不合理である。

(四) 原判決は、右に指摘した被告人の供述の不合理性を考慮した結果と思われるが、これらの供述による農薬の仕掛け方法を採らず、前掲昭和三六年四月七日(員)の供述に依拠し、「奥倉に置いてあるタンスの戸棚にあつた鉛筆で饅頭の包紙(符2)の横から穴をあけ、その中へホリドール液をたらし込んだほか、饅頭の裏側へ同液を塗りつける等して、四個の饅頭にそれぞれホリドール液を仕込み」と認定しているのである。原判決の右判示は、饅頭四個のうち二個が包紙に包まれ、他の二個が包紙のない裸のものであつたとみられる前記発見時の状況と対比し、饅頭四個のうちの一部の饅頭にホリドール液を塗りつけたとする点において、その限りでは外形上合致しているが、右昭和三六年四月七日(員)に述べる「饅頭の包紙をはずして裏側に塗つた」という供述は、ホリドール瓶の液をどのような方法で饅頭の裏へ塗つたかについて全く触れておらず、ただ裏へ塗つたという抽象的な供述に止まり、迫真力に乏しい供述といわざるを得ない。また、原判決の右判示中「饅頭の裏側に同液を塗りつける等して」とある部分の「等」が何を意味するのか必ずしも明瞭ではないが、前後の文言との関連からみて、包紙の横から鉛筆で穴をあけてホリドール液をたらし込む方法、饅頭の裏側に同液を塗りつける方法のほかに、饅頭に塗りつける方法に類似した別の方法を念頭に置き、これを「等」という文言であらわしたものと理解されるところ、これに該当するものは、前記昭和三六年四月七日(員)中「饅頭を二つに割つて中に農薬をつけた」とする方法しか見当らないが、四個の饅頭のうち一部について、右の「饅頭を二つに割つて中に農薬をつけた」方法がとられたとすることは、前記饅頭四個の発見状況と前掲村上キヌコの供述からみて、四個の饅頭のうちに二つに割られた饅頭の存在した形跡が全く認められなかつたことにてらし、到底首肯することができず、従つて、饅頭を二つに割つて農薬をつけたという右供述は真実なものとは認め難い。

(五) 進んで、原判決の認定する包紙の上から鉛筆で饅頭の横に穴をあけてホリドール液をたらし込んだとする点につき考察するに、警察技師出口正一外一名共同作成の昭和三六年四月一日(鑑)、証人出口正一の原審昭和三七年八月一四日(命)、原審第二四回(公)、当審第二回(公)、証人村上キヌコの昭和三六年三月一七日―一八日(官)、同人の同年二月一九日(検)、司法警察員作成の同年二月二日(捜索)、「志ま娘」の包紙(符2)、ホリドール瓶三本(符7)によると、前記四の(三)において認定した押収にかかる「志ま娘」の包紙(符2)は、縦約11.5センチメートル横約10.5センチメートル大の菓子包紙で、二個所にいずれも直径約0.3センチメートルの類円形の小穴があり、鑑定の結果、右包紙に有機燐製剤のエチルパラチオン、メチルパラチオン、または、EPNと認められる物質(パラチオンは別名ホリドールともいわれる)微量の付着(但し包紙のどの部分に付着していたかは不明)が認められ、また、本件当時被告人方に右包紙に付着していた物質と同じ成分の有機燐製剤の農薬ホリドール(乳剤)があつたことが認められ、これによれば、包紙の上から鉛筆で饅頭の横に穴をあけてホリドール液をたらし込んだとする前記供述と一見符合するごとく認められるが、鉛筆で包紙の上から饅頭の横に穴をあけたという供述のうち、穴を三ケ所、あるいは、三ケ所位あけたとする昭和三六年二月八日(員)、同月二二日(員)、同月二三日(検)は、前記包紙にある穴の数と対比して必ずしも合致しないものがあり、また、鉛筆を用いて包紙の上から穴をあけたとする点についても、前記包紙の紙質、穴の大きさ、あき具合等を考慮して検討すると、繊維質のやわらかい包紙の上から鉛筆を穴の直径が0.3センチメートル大になるようおしこんだ場合、通常破れてできる穴の周囲に破られた部分の紙がおされ、穴の周囲(縁)にそのまま付着するものとみられるのに、右包紙は穴の周囲の部分が完全に脱落しており、先の尖つた鋭利なもので穿ちとつた状態を思わせるものがあるうえ、右当時被告人方奥倉のタンスの戸棚に鉛筆が置いてあつたことについての裏付けは全くなく、右に使用したとする鉛筆の発見されていないことと両々相まつて、鉛筆で穴をあけたとすることには、いかにも不自然不合理な感を免れないものがある。さらに、包紙にあけた小穴からホリドール液をたらし込んだとする点についても、押収の包紙(符2)の二個所の小穴は、いずれも約0.3センチメートルの類円形であつて、内径約1.2センチメートルのホリドール瓶(符7)の口から直接たらしこむにしては、包紙の穴が余りにも小さく、原裁判所の昭和四二年四月八日(検証)による実験結果にてらしても、小穴を通して饅頭の中に液を入れようとすれば、勢い包紙の穴の周囲には、たらし込むホリドール液の大半の量の付着を免れないものと認められ、しかも、前掲証人出口の当審第二回(公)、長岡駆虫剤製薬株式会社作成の回答書、押収の包紙(符2)に徴し、やわらかい繊維質の右包紙の穴の周りに暗黄赤色の乳化油状液体であるホリドールが多量に付着した場合、ホリドールの付着部位に通常しみに類似した痕跡が残るのではないかと思料される(もつとも、司法警察員作成の昭和三六年一月一三日(検証)、証人永川万太郎の原審第二六回(公)によれば、符2の包紙の発見押収当時小雨が降つていたことが認められるが、右降雨のため包紙が水びたし、あるいは、びしよ濡れになつていたような状況は窺われない)のに、押収の包紙の鑑定時、右包紙の小穴の周囲に格別痕跡などを認めていない(前記証人出口の供述、同人外一名作成の(鑑))ことを合わせ考慮すると、前記包紙(符2)に、前述のごとく微量の有機燐のパラチオン剤物質が付着していたことに間違いないとしても、右包紙にある二個の穴からホリドールをたらし込んだとすることには、なんとしても不自然不合理なものを拭いきれず、結局、右の方法に関する供述の真実性には疑いなきを得ない。

(六) 以上説示したごとく、真実犯人であれば間違える筈がないと思われる事柄、すなわち、饅頭に農薬を仕掛けた方法について、被告人の供述は二転、三転しているだけでなく、その仕掛けたとする方法について検討してみても、客観的に認められる事実と符合しないか、あるいは、その方法に不自然不合理な感を拭いきれないものがあり、結局のところ、被告人の犯行の手段方法に関する自白については、その真実性を疑わしめる事情が存し、右自白に信用性を認めることはできない。

六本件犯行の手段方法―(その三)―饅頭を書院台に置いたことについて

(一) この点に関する所論は、要するに、被告人がホリドールを仕掛けた饅頭を表八畳間の西側書院台に置いたかどうかの点について、原判決は、被告人は昭和三六年二月四日(員)で、「一月八日の朝皆が佐木島の畑へ行く仕度をしている時、前日農薬ホリドールを仕掛けてセロフアンの袋に入れておいた饅頭を持ち出し、家の西に廻つて廻り縁のところの硝子戸を開け、手を押ばして書院の障子をあけ、そこに饅頭を袋に入れたまま置いた」旨供述し、その後の捜査官に対する取調にも同様の供述をしているところ、証人村上キヌコの(官)、(命)、(裁)および同人の(検)によつて認められる次の事実、すなわち、恵子が饅頭をみつけたのは八畳間の書院窓側の台の辺りであること、当日(一月八日)朝被告人らが佐木島へ行く前、被告人が右八畳間書院と同一方向にある母屋の西側にある納屋の方から玄関口の方へ歩いてきていたことにてらし、被告人の右供述には真実性が認められると判断しているが、キヌコの前記供述は、被告人が書院のところから出てくるのを見た趣旨のものではなく、書院台に袋ごと饅頭を置いたとする被告人の供述も、恵子の発見状況に徴し不自然なものがあること等を指摘して、被告人の供述の信用性を争うのである。

(二) そこで、検討するに、すでにみた饅頭四個の発見状況に徴すると、被告人が一月八日朝母屋の表八畳間の西側書院台の上に饅頭四個を置いたとする前記供述は、客観的事実と符合し、その限りにおいて真実性を有するごとく認められるのであるが、被告人の右供述は、その供述自体にあらわれている袋との関係において、なお検討を要するものがある。被告人の自供によれば、被告人が書院に饅頭四個を入れて置いた袋は「セロフアンの袋」(昭和三六年二月四日(員))、「ナイロンの袋」(同月五日(検))、「奥倉の入口のところに転がつていたカッパあられ一〇円分のセロフアンの袋」(同月八日(員))、「奥倉の入口の敷居のすぐ外側に転がつていた一〇円のカッパあられのセロフアンの袋」(同月二二日(員))、「カッパあられを入れて売つている紙でないセロフアンみたいな袋」(同月二三(検))、「ビニールのカッパあられを入れてあつた様な袋」(同年四月七日(員))と述べ、セロフアン、ナイロン、ビニールと三様の言い方をしているが、要するに普通の紙製のものでない袋という点で一致した供述をしているのであるが、一方、恵子が八畳間の書院台付近から饅頭を見つけてもつてくるのを目撃したキヌコは、「書院板の上にセロフアン様の袋があつた」(村上キヌコの昭和三六年二月一九日(検))、と述べているものもあれば、「書院の上に饅頭の袋らしいものが見えた」(証人村上キヌコの同年三月一七日―一八日(官))、「書院の台の上方に西洋紙の四分の一位の大きさの白い紙のものが見えた」(同証人の原審昭和三七年一月二七日(命))と述べ、書院台の上の方にあつた袋につき二様の供述をしており(なお、同人の公判および公判準備における供述の証明力を争うための立証趣旨のもとに原審公判で取調べた同人の昭和三六年一月一二日(員)には「書院の上に紙袋(白色)があつた」と述べている)、加えて証人永川万太郎の原審第二六回(公)、司法警察員作成の昭和三六年一月一〇日(捜索)、同月一三日(検証)、広島県警本部長作成の同年三月二七日付「鑑定結果について」と題する書面、押収にかかる紙袋(符18)によると、被告人方の菜園のごみ捨場に捨てられたごみの中に、比較的新しいと思われる前掲「志ま娘」の包紙(符2)と新しい紙袋(符18)とが合わせ発見押収されたほか、右紙袋は、白色に近い色調を呈し、縦約20.2センチメートル横約15.5センチメートル大のものであつて、鑑定の結果、右紙袋から痕跡程度のパラニトロフエノール(パラチオン剤の分解生成物質)を示す反応が認められており、右紙袋が包紙と並んで同一場所に捨てられていた状況や、包紙に関しすでに述べた表八畳間の掃除とこれがごみ処理の経過からみて、右紙袋も包紙と同様、表八畳間にあつたものが掃除によつてごみ捨場に集められたのではないかと考えられる余地が多分にあり、反面において、被告人の自供にある書院台に置かれた紙製でない袋が全然発見されていないことをあわせ考慮すると、紙製でないセロフアン、ナイロン、または、ビニールの袋に饅頭を入れて書院台に置いたという被告人の前記供述には、その真実性に疑いをさしはさむ余地がないとはいえない。

(三) なお、原判決は、一月八日朝被告人が佐木島へ畑仕事に行く仕度中に、母屋の表八畳間の書院の西側に隣接する納屋の方から被告人が歩いてくるのを目撃したというキヌコの供述を挙げて、被告人の前記供述の信用性判断の資料に供しているのであるが、同人の供述の大要は、「中庭でじやが芋の種を切り終つた頃、母が被告人に『予防をもつていけ』と言い、被告人が奥倉へ行つた。私も予防をするので後から奥倉へ入つて行つたら、被告人は砒酸鉛(袋入り)、予防器をもつて出ようとしていた。私が農薬を入れてある戸棚を開けて使い残りのホリドール瓶を出し、被告人に『これをもつて行かんのか』というと、被告人は『持つていく』というので、その瓶を渡した。被告人はそれを持つて表の方へ出て行つた。私はその後を予防器のみもつて油小屋の前(外庭)に出てそこへ置いた。その時離れの小屋(母屋八畳間の西側に隣接する納屋)の入口の方から被告人が私の方へ歩いてくるのを見た。八畳間書院の部屋から出てくるところは見ていない」(証人村上キヌコの昭和三六年三月一七日―一八日(官))、「当日午前八時過頃被告人が奥倉の方へいつたので、私も予防器や農薬を使うので奥倉へ行つた。私が戸棚から古い使い残りのホリドール瓶を取り出すと、被告人が『それは自分がもつていく』というので渡した。被告人はその古い瓶をもつて奥倉から出て行つた。私は予防器をもつて油小屋の前へ持つて出て置いた。この時被告人が母屋の西側に納屋があるが、その方から出てきた」(同人の同年二月一九日(検))というものであつて、右供述によつて明らかなごとく、被告人は、キヌコより一足先に砒酸鉛(袋入り)、ホリドール瓶、予防器をもつて奥倉を出たことになるのであるが、このように農作業の仕度に専念している者が、右の予防器や農薬のほかに奥倉のタンスから袋入りの饅頭をとり出し、これを合わせ持つて外へ出たうえ、右仕度の僅かの合間を縫つて八畳間の書院台へ饅頭をもち運ぶということは、犯罪を行う者の心理にてらし不自然な感じを禁じ得ないものがあり、キヌコが八畳間の西側に隣接する納屋の入口の方から歩いてくる被告人を見たことが事実であるとしても、被告人が書院台に饅頭を置いたことと結びつけて考えることには、なお疑問の余地がないとはいえない。

七以上二ないし六において検討したところによると、被告人の自白の内容中、動機、先行事件((イ)、(ロ)、(ニ)の事件)については、その信用性を否定する根拠に乏しく、手段方法については、これが真実性を担保する証拠に欠けるか、または、内容自体不自然不合理で、信用性に疑問があるということに帰する。

ところで、本件は、前記第一において認定したとおり、何者かの犯人が有機燐のパラチオン剤を饅頭四個に付着混入させたうえ、これを秘かに被告人方表八畳間の書院台付近に運び置き、被告人方家人の毒殺を企図した計画的な殺人事件であるが、殺人が右饅頭を書院台付近に置くのを目撃した者はおらず、犯罪の重要な証拠物件と目される右饅頭は、キヌコ、冨美子の手で同家北側の海面入江に投棄され、警察の捜索によつてもこれが発見されておらず、また犯罪現場から直接犯人を特定するに足る指紋その他適確な痕跡も発見されておらず、本件殺人事件の外形的事実と被告人とを結びつける直接証拠としては、被告人の捜査官に対する自白が存するだけである。従つて、被告人に対し有罪を認定するには、被告人と事件との結びつきにつき合理的な疑を容れる余地がない程、自白に信用性、真実性が認められなければならない。そこで、この見地からすでに自白をめぐつて検討してきたところを含め、総合的に自白の信用性を考えてみるのに、先ず自白の経緯は前記第二においてみたとおりであり、被告人は逮捕二日後早くも本件について自白し、続いて先行事件についても自白し、しかも右自白するに至つた動機として、被告人の昭和三六年二月四日(員)(一二枚綴)、同月八日(員)には、自白が悔悟の情に基づいてなされた旨の記載があるうえ、捜査官の取調に任意性を疑わせる状況はなく、さらに最初の自白以後、取調の進行につれて犯行の手段方法の面で供述の変更があつたものの、「芳子ら婦女を殺害する目的で饅頭に農薬ホリドールを仕掛け、それを翌八日朝佐木島へ畑仕事に出かける前、母屋の外から表八畳間書院台の上へ置いた」旨の犯罪実行に関する基本的な供述は終始変更しておらず、右供述に対応する次の事実、すなわち、恵子が表八畳間で饅頭四個を発見し、これをキヌコのところへ持参して恵子、キヌコ、芳子、冨美子の四人で分け合い、キヌコが一口食べかけたら舌を刺すようなにがからい味がし、恵子や芳子を呼んで食べかけていた饅頭をとりあげたが、芳子は中の餡が見える程度まで食べていて、その後同女に嗽いをさすべく水を入れた茶碗を渡したら落とし、ひきつけたように倒れかかり、容態の急変で直ぐ医師のところへ連れていつたが死亡したこと(前記第一の二の(一))、芳子の死体解剖による鑑定の結果、胃の中に小豆澱粉、小麦澱粉等饅頭の組成物が存在し、かつ、エチルパラチオン、メチルパラチオン、または、EPNの物質が認められ、芳子死亡二日後に被告人方菜園ごみ捨場から発見押収された饅頭「志ま娘」の包紙(符2)(恵子が表八畳間の書院台付近から饅頭をキヌコのところへ持参する際、饅頭の包紙を剥いで八畳間に放置し、同じ日の午前中八畳間の掃除によつて前記菜園のごみ捨場に捨てられた包紙と同一のものと推認される蓋然性が高い)には穴が二ケ所あいているうえ、鑑定の結果エチルパラチオン、メチルパラチオン、または、EPNと認められる物質(有機燐)が検出されたこと、本件当時被告人方奥倉にある古いタンスの戸棚に右包紙に付着した有機燐物質と同じ成分の農薬ホリドールが存在していたこと、一月八日朝キヌコが奥倉の右戸棚に入れてある農薬ホリドール瓶(符7、警察領置番号31の2)を手にとつた際、瓶の外側にホリドール液の流れた跡があり、乾ききらずじめじめしていたこと)証人村上キヌコの昭和三六年三月一七日―一八日(官))等の情況事実が認められ、さらに自白中動機、先行事件((イ)、(ロ)、(ニ)の事件)についての供述部分に信用性がないとはいえないこと前記二、三において説示するとおりであり、そのほか、警察の取調にそなえ予め自己の行動をメモしたり(符9)、妻キヌコから本件の犯人についての心当りがあつたら早く言つた方がよいと云われたのに対し、これを否定しながらも、一方では自首したろうかなどと口走つたりしていること(被告人の同年二月二二日(員))の事情を合わせ考慮すると、「芳子らを殺害する目的で饅頭四個に農薬ホリドールを仕掛け、これを翌八日朝八畳間の書院台に置いた」という被告人の捜査官に対する供述(自白)は真実を述べたのではないかと思われるものがある。しかしながら、前記終始変更のなかつた犯罪実行に関する供述部分は、被告人方奥倉の古いタンスの戸棚に農薬ホリドールが置かれていたこと、芳子の食べた饅頭にパラチオン剤の有機燐農薬が混入していたこと(芳子の死体解剖による鑑定結果から推認される)、饅頭四個が一月八日朝表八畳間の書院台付近に置かれていたこと等すべて被告人の供述をもつまでもなく、本件捜査官において既知のことに属し、これに反し、捜査官において容易に知り難く、犯人であれば間違う筈のない饅頭の入手先、農薬ホリドールを仕掛けた方法に関しては、供述が変転しているのであつて、悔悟にもとづく自白にして何故かような変転供述をするのか理解に苦しむ点がなしとしないばかりでなく、饅頭の入手先に関しては、供述変更の理由が薄弱であるうえ、供述の真実性を裏付ける適確な資料もなく、被告人に病的な虚言癖があることと合わせて、右変更供述が真実を述べているかどうか疑いなきを得ないこと前記四において説示したとおりであり、饅頭に農薬を仕掛けた方法については、供述が二転、三転しているだけでなく、その仕掛けたとする方法も、客観的事実と符合しないか、あるいは、その方法に不自然不合理な感を拭いきれないこと前記五において説示したとおりであり、饅頭四個を書院台に置いたとする点についても、右饅頭の容れ物である袋との関係で、供述の真実性に疑いをさしはさむ余地があること前記六において説示したとおりであるから、このように、本件犯行の核心をなす手段方法に関する被告人の自白に真実性を疑わしめる事情が多々存する以上、自白中前記終始不動の部分についても、その真実性に疑問を抱かざるを得ない。けだし、もし饅頭の入手先、饅頭に農薬を仕掛けた方法という、本件においては捜査官に発見し難く推測困難であつて、犯人ならば間違えるはずのない特殊事情についての被告人の供述の真実性に疑いが存しなければ、その余の供述部分(おおむね終始不動の部分)について真実性を認めることは容易であるが、これに反し、右特殊事情についての供述の真実性に疑いがあれば、その余の供述部分については、捜査官の意識的、無意識的な暗示、誘導が可能であるから、右供述部分が終始不動であつても、被告人が真実体験したからそうであるとは軽々に断定し難くなるからである。そうすると、結局のところ、被告人の自白には、被告人と本件犯行との結びつきにつき合理的な疑いを容れる余地がないほど信用性、真実性を認めることはできないといわざるを得ない。

してみると、本件が被告人により敢行されたものではなかろうかとの疑問は払拭しきれないのであるが、さればといつて、本件が被告人の犯行であるとの確信を生ぜしめる証拠も他に存しないから、本件については、「疑わしきは被告人の利益に」の原理に則り、被告人に無罪を言渡すのが相当である。従つて、被告人の自白に信用性を肯定し、これと挙示の証拠により、本件殺人等の罪につき被告人を有罪とした原判決は、自白の信用性に関する価値判断を誤り、ひいては事実を誤認した違法があり、原判決は破棄を免れない。論旨は結局理由がある。

よつて、弁護人のその余の論旨に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、当裁判所は直ちに判決する。

本件公訴事実は「被告人は悖徳症なる精神変質を有するところ、自家資産を保全するため近親者を殺害せんことを決意し、昭和三六年一月八日午前八時頃因島市重井町六八六五番地の居宅表八畳間書院に農薬ホリドール液を泌み込ませた饅頭四個を置き、姉冨美子、妻キヌコ、長女恵子、姪芳子等にこれを食べさせようとし、同日午前八時三〇分過頃長女恵子がこれを見つけ、右四名において一個ずつ分け、姪芳子(昭和三一年二月一日生)にこれを少し食べさせたため、間もなく農薬有機燐の急性中毒により死亡するに至らせて同女を殺害し、妻キヌコ、長女恵子はこれを食べかけたが、すぐ吐き出し、姉冨美子は全然食べなかつたため、いずれも殺害の目的を遂げなかつたものである」というのであるが、さきに説示したとおり犯罪の証明が十分でないから、同法四〇四条、三三六条により無罪の言渡をする。

よつて、主文のとおり判決する。

(牛屋守三 村上保之助 丸山明)

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