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広島高等裁判所 昭和45年(う)259号 判決 1972年3月23日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

弁護人椎木緑司、同門前豊巳の控訴の趣意は記録編綴の控訴趣意書記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

控訴趣意中事実誤認の主張について

論旨は要するに、被告人には道路交通法七〇条の安全運転義務に違反する故意も過失もなかつたというのである。

所論にかんがみ記録を精査し、当審における事実取調の結果をも参酌するのに、本件の事実関係は次のとおりと認められる。すなわち、

現場は、ほぼ南北に通じる国道一八七号線(東側に歩道があり、その幅1.6米、車道幅6.6米)これから東に分岐し木積方面に通じる町道(幅3.6米位、ただし国道近くの部分は4.6米)とがやや斜めに交差するところで、交通整理は行なわれておらず、国道上では南北とも各一〇〇米位の見通しがきくが、右三差路の東南隅には原田健一方商店が国道と町道に接して建ち、東北隅にはいちぢくの木や藤棚があつて、町道から国道へおよび国道から町道への見通しはいずれも極めて悪い。被告人は原判示日時(午前九時ごろ)普通貨物三輪車(全長5.12米、幅1.685米)を運転して国道から町道に入り同道左側部分に前部を木積方面に向け、車の後部(当日は高さ四〇糎の荷台後板を水平に倒していた)を国道車道端かめ4.6米位になるところに駐車し、原田商店内で商談していた際、国道から町道に進入しようとしてきた普通貨物自動三輪車運転の中村三郎から車を通すために被告人車を移動してくれるよう頼まれたので、これを承諾し国道上を一べつして南北どちらからも自動車は来ないと思い、すぐ自車を国道に向つて一気に後退させた。ところが折から西村正運転の普通乗用自動車が北方から国道を東側歩道よりに時速四五米位で南進中で、同人は本件三差路手前一三米位のところで右後退中の被告人車を発見したが、こらを避けるまもなく国道の車道内に約七〇糎入つた地点(駐車地点から約5.3米)まで後退して来た被告人車の左後部に西村車の左前部が接触し、負傷者はなかつたが、同車のラジエイター、左ヘッドライト、フェンダーが破損した。

以上の事実によると、被告人は、国道を南進中の車があり、かつ国道から町道への見通しが極めてよくない状況であるのに、その交通状況を十分に確認しないで南進中の車はないものと軽信した過失により、後退の時機、程度、方法についての判断を誤まり、車体後部を国道(車道)に突出させるまで後退させるという危険な運転方法をとつたことが明らかである。

所論は、後退に際し被告人において交通状況を十分確認していたから過失もなかつたと主張するが、被告人は当審公判廷で、「国道の上下を見てから事故発生まで六秒位かかつた」と供述しており、この供述が真実としても時速四五粁位の西村車(同車の被害程度、負傷者のできなかつたことにかんがみると、当時同車が所論のように高速であつたとは考えられない)は六秒前には三差路から七五米位の地点を走行していたことになり、被告人において十分交通状況を確認していれば当然西村車を発見し安全な後退の時期、程度、方法を択び得たはずであり、こらを発見しなかつた被告人には過失があつたと認められる。

そうすると、被告人の本件後退行為が道路交通法(昭和四六年法律第九八号による改正前のもの…以下単に法という)七〇条にいわゆる「道路、交通および当該車両等の状況に応じ他人に危害を及ぼさない速度と方法で運転しなかつた」ことにあたるとしても、それは過失によるもので故意になされたものではないというべきであるから、故意による安全運転義務違反を認定した原判決は事実を誤認しており、既にこの点において原判決は破棄を免れない。

のみならず、そもそも被告人の本件後退行為を法七〇条の安全運転義務違反罪に問擬すること自体問題である。すなわち、同条の規定は法の他の各条で定められている道路交通の危険防止のための典型的、類型的義務の各規定を補充する趣旨で、これら各規定ではまかない切れない具体的危険行為を禁止するため設けられているので、もし道路交通上危険と思われる或る行為が右各典型的、類型的義務のいずれかに違反する内容をもつときは、当該個別法規を問擬すべく法七〇条の安全運転義務違反罪の規定を適用することは許されないと解されるところ、本件事実関係は前記説示のとおりであつて、本件後退行為は、法二五条の二の一項に定められている「他の車両等の正常な交通を妨害するおそれがあるときは後退してはならない」との義務に違反する内容をもつことが明らかであるから、前記理由により法七〇条の安全運転義務違反罪の成立する余地はない。

もつとも法二五条の二の一項所定の義務違反罪は故意犯であつて、少くとも同条項にいわゆる「他の車両等の正常な交通を妨害するおそれがある」と認められるに足る事情についての認識は必要と解されるところ、被告人が本件後退行為に及んだのは前記説示の事実関係から明らかなように国道上の交通状況を十分確認せず南進中の車があつたことに気づかなかつた過失によるものであり、当時国道上の交通がひんぱんであつたとの事情もうかがえないので、被告人には確定的故意はもちろん、未必的故意もなかつたと認められ、本件後退行為につき右条項所定の義務違反罪は成立せず、また右義務違反罪については過失犯処罰の明文の規定もないので過失犯としても処罰することはできない。そこでこのような場合には法七〇条の安全運転義務違反罪の過失犯処罰の規定(法一一九条二項)を適用することができるとの見解もありうるし(同罪の故意犯の成立しないことは前記事実関係の説示により明らかである)、現に検察官も当審において過失による安全運転義務違反罪の訴因を予備的に追加している。しかし、もともと法七〇条の安全運転義務違反の内容は他の各条で定められている類型的義務ではまかない切れないこれ以外のこれと異なる内容をもつているのであるから、法七〇条の安全運転義務違反罪の過失犯には当然他の各条で定められている類型的義務違反の過失犯を含まないと解されるばかりでなく、法が七〇条の安全運転義務以外の各種の類型的な危険防止義務につきそれぞれ過失犯処罰の有無を明確に規定し、かつ、過失犯処罰を設けると否とにつきその必要性等を十分考慮していて合理的区別をしていること(過失犯処罰を規定している各種義務違反罪の構成要件はおおむね公安委員会の指定する駐車禁止、一時停止等の諸種の制限禁止事項、信号機、踏切り、進行帯等の危険防止のための諸設備の各存在の認識を前提とするもので、いずれも右各存在の認識を欠く事例が多いことが予想されるが、その危険性の大なることにてらし過失犯をも処罰する必要性が十分認められるのに対し、過失犯処罰の規定されていない各種義務違反罪はいずれも過失犯がもともと予想され得ないか、或いはそうでなくても過失犯まで処罰する必要はないと考えられるものである)にかんがみるときは、ある種の類型的義務違反につき過失犯処罰の規定を設けなかつた以上当然それらの義務違反については一切過失犯を処罰しない法意と解される(もし処罰の必要があればその義務違反につき過失犯処罰の規定を設ければ足りる)から、法二五条の二の一項所定の義務違反罪につき過失犯処罰の規定のない以上、法七〇条の安全運転義務違反罪の過失犯処罰の規定を適用することも許されないのである。

果してそうだとすると、本件所為につき法七〇条、一一九条一項を適用した原判決は法令の解釈適用を誤つたものであり、この点でも原判決は破棄を免れない。

よつてその余の控訴趣意(理由不備、量刑不当の主張)についての判断を省略し、刑事訴訟法三九七条一項、三八〇条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但し書に則り本件につきさらに次のとおり判決する。

本件公訴事実の要旨は、「被告人は、昭和四四年一一月三日午前九時一〇分ころ山口県玖珂郡錦町大字河本原田健一方前道路の三差路において、普通貨物自動車を運転して、狭い道路から国道に後退するに際し、左右道路の安全を確認しないで後退したため、同国道を後退方向に向つて右側から直進して来た普通乗用自動車の左前部を自車の左後部に衝突させ、もつて他人に危害を及ぼすような方法で運転したものである」というのであり、当審において予備的に追加された訴因の要旨は、「被告人は右日時右三差路において狭い道路から国道に後退するに際し、同所は交通整理が行なわれておらず、後退方向に向つて左右の見とおしのよくない状況にあるので、何人かの誘導をうけるか、或いは車体後部が国道に到達する手前で停止する等国道左右の安全を確認して後退すべき注意義務があるのに、左右の安全確認不十分のまま後退した過失により車体後部を約七〇糎国道に突出させ、同国道を右側から直進して来た西村正運転の普通乗用自動車の左前部を自車の左後部に衝突せしめ、もつて他人に危害を及ぼすような方法で運転したものである」というのであるが、前記説示のとおり本件は過失による道路交通法二五条の二の一項の義務違反行為であつて、罪とならないから、刑事訴訟法三三六条により被告人に無罪の言渡をする。

よつて主文のとおり判決する。

(幸田輝治 村上保之助 一之瀬健)

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