広島高等裁判所 昭和54年(う)131号 判決
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【判旨】
控訴趣意中、事実誤認ひいては法令適用の誤りの主張について
論旨は要するに、被告人は原判示大型貨物自動車(以下、本件車輛という)の発進に際し、その前方及び左右の安全を十分確認して、自動車運転者として必要な注意義務を尽くしたのであるから、本件事故の発生につき何等過失責任がないにもかかわらず、被告人に対し、運転席から身を乗り出してフロントガラスに顔を近づけたり、助手席に身を移して助手席側窓から首を出すなどして本件車輛左前部周辺に存在する死角圏の安全を確認すべき義務上の注意義務を課したうえ、これを怠つたとして被告人の過失を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認ひいては法令の解釈適用に誤りがあるから破棄を免れない、というものである。
所論にかんがみ、原審で適法に取調べた証拠に当審における事実取調べの結果を加えて検討すると、本件車輛の発進に際し、被告人に車輛左前部周辺に存在していた死角圏の安全を確認すべき業務上の注意義務があることは否定できず、右死角を消除しないまま漫然発進したため、本件事故が発生したことが明らかであるから、被告人は本件事故につき過失責任を免れない。
すなわち、前記各証拠を総合すれば、本件事故発生に至る情況は次のとおりであることが認められる。(1)、被告人は原判示日時、本件車輛に鉄材約八瓲を積載して原判示丸加海運住友倉庫まで運搬し、荷卸しのため同倉庫従業員中原正守の誘導のもとに倉庫北側出入口から後退させながら倉庫内に入れたが、倉庫の奥行が約8.8メートルしかなく、これに倉庫出入口と歩道間に介在する幅員約1.4メートルの空き地部分を加えてもなお右車輛の車長約11.73メートルにおよばないので、その車体前部を倉庫前の歩道(幅員約3.6メートル)に約1.5メートル突き出す状態で駐車させ、約一〇分間、倉庫内での荷卸し作業を手伝つたのち、本件車輛を右歩道を左折しながら通過して南北に通ずる幅員約10.9メートルの車道に進出させるべく、再び運転席に戻つたこと、(2)、ところで、本件車輛は、構造上、正常な運転姿勢(本件の場合被告人の眼の位置は地上から約2.5メートル)のもとでは、その車体左前部周辺に肉眼、サイドミラー及びアンダーミラーによる注視をもつてしても歩道上の安全が確認できない死角が広範囲にわたつて存在し、その範囲は、本件車輛左前部を基点として、アンダーミラーで確認できる南方約1.1メートル、西方約1.3メートルの弧を描いた範囲を除き、歩道上では原判決添付の現場見取図に示すとおり南方約7.5メートル、西方約三メートルの範囲におよび、歩道上で幼児用三輪車に乗つている幼児の場合には、その範囲が縮少されるものの、本件車輛に近い部分がなお残存し、身長約1.05メートルの本件被害者が幼児用三輪車に乗つている場合を想定すると、坂田博英作成の写真撮影報告書中一四号証と二五号証によればその高さが約九四センチメートルであるから、司法警察職員作成の実況見分調書(三)添付の交通事故現場見取図(四)で検すれば、南方約三メートルの範囲におよぶと推認されること、(3)、被告人は、荷卸し作業後、本件車輛助手席ドア附近で南側歩道上を、次いで北に向つて車体前部を回りながら北側歩道上をそれぞれみたうえ、運転席ドア付近で倉庫内の作業進行状況をみてから運転席に乗り込み、正常な運転姿勢で肉眼、サイドミラー及びアンダミラーによる車体前方及びその左右の確認を行つたのみで、自車進路左前方には歩行者などがいないものと思つて毎時約五キロメートルの速度で本件車輛を発進させ、歩道上を左折しながら通過して車道に進出したところ、折から歩道上を幼児用三輪車に乗車して南から北に進行し、右死角圏内にいた南康浩(当時三歳六ケ月)に気付かず、自車左前部を同人に衝突させたうえ、右後車輪で轢過して死亡させた(なお、司法警察職員作成の実況見分調書(二)添付交通事故現場見取図は仰臥図と思われる)こと、以上が認められる。次に、現場付近の状況についてみると、右各証拠によれば、本件事故現場は、一般民家、アパート、事務所、倉庫などが密集する市街地の一角で、倉庫出入口前の車道は最高制限速度毎時二〇キロメートル及び駐車禁止区域の各指定がなされていたこと、倉庫出入口前歩道における歩行者の通行量は、通常の場合にはさほど多くはないものの、登・下校時(本件事故発生時刻は午後二時三五分ころ)には、児童らの通行が多いほか、幼児、児童らが歩道上あるいは倉庫出入口付近で遊ぶことも屡々であつたこと、本件事故当時、右倉庫出入口の南北両側にいずれも空き地部分と歩道の一部に跨がつて普通乗用車が駐車していたこと及び被告人は約一年三ケ月にわたり本件車輛の運転を継続していて構造上死角があることを知つているほか、右倉庫へは常時積荷を運搬して、付近の状況に精通していたこと、が認められる。
そこで、以上の事実関係のもとで被告人に過失があつたか否かを検討する。一般的に、自動車運転者が駐車中の車輛を発進させるに際しては、可能な範囲でその前方、左右の安全を十分確認し、接触又は衝突などの事故を未然に防止する注意義務があることは勿論であるが、本件のように、車輛の通行が原則として禁止されている歩道上に車体の一部を出して駐車している大型貨物自動車を発進させ、そのまま歩道上を斜めに横切つて通過する場合には、歩道がもともと歩行者の専有する部分で、かつ、車輛の通行による危険から保護されている場所であることにかんがみ、歩行者の居る可能性が殆どないような特段の事由がある場合を除き、自動車運転者としては、歩道上のすべてにわたつてその安全を確認し、もし、自車の構造上、歩道内に死角圏が存在するような場合には、誘導者などによつて死角を消除して安全を確認したうえで発進すべき業務上の注意義務があると解するのが相当である。そして、本件の歩道における歩行者などの通行、利用状況に徴すれば、本件車輛の前記死角圏内に人の存在する可能性は十分予測し得たのであるから、被告人としては、誘導者による確認などによつて死角を排除し、その安全を十分確認したうえで本件車輛を発進すべき業務上の注意義務があつたといわざるを得ず、本件においては倉庫従業員中原に誘導を依頼し、その誘導により死角圏を消除することは容易であつたのであるから、被告人に難きをしいるものでもない。ところが、被告人は、本件車輛に乗車する前に助手席ドア付近で死角圏すなわち南方歩道上をみたのみで、それも駐車中の普通乗用車により視界の一部が遮られているのに、これで足りるとし、その後、運転席側に回つて発進するまでの時間内に右死角圏に歩行者などが入り込むことも考えられるにかかわらず、死角を消除することなく、運転席における前方及びその左右の安全確認のみで本件車輛を発進させ、歩道上を左折しながら通過したため、本件被害者に気付かなかつたものであるから、発進に際しての業務上の注意義務を怠つた過失があつたものというべく、これによつて本件事故が発生したことが明らかであるから、本件事故に対する被告人の過失責任は免れない。
所論は、被告人が乗車前に南北両側の歩道上の確認をしたことをもつて、必要な注意義務を十分尽くした旨主張するが、所論主張の乗車前の安全確認自体、歩道上の一部が駐車中の乗用車に遮ぎられていた情況にあり、かつ、発進直前でないうえ、本件事故直後に本件車輛右側に位置していた畠山聖子にも気付いていないなど十分でなかつたことも窺われるのみならず、本件の事実関係のもとでは、死角を消除してその安全確認が必要とされることは前説示のとおりであるから、これと見解を異にする所論は採るを得ない。
ところで、原判決は、その「罪となるべき事実」に、本件の注意義務の内容として、「発進にあたり同車左前部周辺の安全を十分確認し、とりわけ右死角圏内の安全確認のために運転席から身を乗り出してフロントガラスに顔を近づけたり、助手席に身を移し助手席側窓から首を出すなどして」と判示して、本件の場合、右の方法で死角圏の安全確認ができ得るものとの前提のもとに被告人がこれを怠つたため本件事故が発生した旨認定判断している。しかし、運転席から身を乗り出してフロントガラスに顔を近づけても、その死角範囲は一部縮少されるものの、なお残存することは原判決挙示の検証調書によつて明らかであるところ、他方、関係証拠によつて本件被害者の事故直前の行動をみると、本件事故前に本件事故現場の南方約一五メートルの歩道上の地点で幼児用三輪車に乗車し、歩道上を北進中本件事故現場で本件車輛に轢過されたことは認められるけれども、いつ本件車輛の死角圏内に入つたかについては判然としない(原判示挙示の実況見分調書(五)及び被告人の原審公判廷における供述のいずれも、幼児の運転する三輪車の速度がまちまちであることを示している)のであるから原判示のようにフロントガラスに顔を近づけたとしても、そのとき、被害者がそれによつて確認しうる範囲内に進入していたとは断定し得ない(もつとも、フロントガラスに顔を近づけた場合、本件事故現場の確認ができることは原判決の説示するとおりであるが、確認後、正常な運転姿勢に戻り、かつ、発進して衝突するまでの時間内に被害者が右地点に到達した可能性も否定できない)のであり、次に、助手席に身を移し助手席窓から首を出して確認する場合についても、助手席に移動すれば自車右側が死角になるうえ、助手席から運転席に戻つて発進し、衝突するまでの間(被告人は当公判廷において運転席から助手席への移動に要する時間は往復で七秒ないし八秒である旨供述している)には再び以前の死角が復元するのであるから、その間に被害者が死角圏内に進入して本件事故に遭遇した可能性も前同様否定できないのである。してみれば、原判決が判示する方法では、いずれも本件車輛の死角圏の安全確認は十分でなく、本件事故の発生を防止するには前に説示したように、発進時から歩道上を通過し終るまでの間の死角消除義務の存在が必要となるのであつて、原判示の方法による安全確認義務を怠つたため本件事故が発生した旨認定判断した原判決には過失を構成する注意義務の内容について事実の誤認があり、右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、この趣旨において原判決は破棄を免れない。
(干場義秋 荒木恒平 堀内信明)