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広島高等裁判所岡山支部 平成17年(う)119号 判決 2006年3月22日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

1  本件控訴の趣意は,弁護人岡本哲作成の控訴趣意書に記載されているとおりであるから,これを引用する。

そこで,記録を調査し,当審における事実取調べの結果を併せて検討する。

2  控訴趣意中,事実誤認の点について

論旨は,原判決は,被告人について完全責任能力を認めているが,本件当時,被告人の責任能力が低下していたことは明らかであるから,原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある,というのである。

原審で取調べられた関係各証拠によれば,本件の経緯,顛末について,以下の事実が認められる。すなわち,被告人は,(1)本件当時,住所地のアパートに居住し,居室にいるときは何をするでもなく過ごし,ほとんど外出することもなく,生活保護を受給して生活していたこと,(2)平成17年4月27日昼過ぎころ,被告人方アパート近くのショッピングセンターA西口店付近路上において,被告人以外の者同士が,「お金が2億円程B【注:被告人と同じ姓】の家に流れていった。」などと話しているのを聞いたと思い,被告人の金2億円をBがチョロまかしたと考えて立腹したこと,(3)同月28日昼ころから,被告人方居室で缶ビール(350cc)を5本程飲んでいた際,上記話を思い出し,何で2億円がBの所に流れとんならと思って再度立腹し,その2億円だけでも返して貰おうと考え,同日夕刻ころ,何も持たずに岡山市a町b丁目c番d号所在の見ず知らずのC【注:Bと同姓】方へ赴き,インターフォンを執拗に鳴らし,ドアを叩くなどしたが,誰も応対しなかったため,一旦被告人方に戻ったこと,(4)暫くしてから,もう戻っているだろう,腹が立つから包丁を持って行ってやろうなどと考え,刃体の長さ14センチメートルの包丁を持ち出し,同日午後6時5分ころ,C方だと思って同市a町b丁目c番e号所在のD方まで赴き,インターフォンで応対した同人の妻E(当時59歳)に対し,「旦那は居るか。」「いつ帰って来る。」などと申し向け,同女から,「どなたですか。」と尋ねられると,「Bだ。」と答え,不審に思った同女が玄関へ行き,ドアを少し開けたところ,強引に居宅内に立ち入ろうとし,同女が必死にドアを閉めようとした際,「旦那に金をとられた。返せ。」などと申し向けながら上記包丁を突き出し,示凶器脅迫の本件犯行に及んだこと,(5)その後,同女と押し問答となり,同女が上記包丁を被告人から取り上げ,戸外に逃げて行ったため,同女を追いかけて行き,同市a町b丁目c番f号所在のF方北側路上において,同女と口論していたところ,同日午後6時20分ころ,同女の息子から通報を受けて上記A付近に駆け付け,その周辺を検索していた警察官に発見され,職務質問を受けた際,「GとBという男に2億円を貸したが,返してくれないので包丁を持って行った。」「家に行くと中年のおばさんが出てきたので包丁を突き付けて,金を返せと脅した。」などと申し立てたことから,同日午後6時40分ころ,本件の現行犯人として逮捕されたことなどが認められる。以上のとおりの本件の経緯,顛末によれば,被告人は,唐突に,Bの下に被告人の2億円が流れ,Bがこれを不正に取得したと思い込み,一旦はC方に赴いたものの,最終的には被害者方がB方であると考え,包丁を準備した上で本件犯行に及んだことは明らかである。

そして,被告人は,捜査段階において,B方だと思って被害者方に赴いたことや2億円の点などについて,警察官に対し,平成17年5月15日,「『B』の家に行ったつもりなのに,何故Dさんの家に行ったのかよく分かりません。間違えて他人の家に行ったのかも知れません。知らない間に家が勝手に動いたのかもしれません。」などと供述し,警察官の「2億円はどうやって稼いだのか。」との問いに対し,「過去の自分の貯金であり,財産じゃ。通帳が無いから,いつからあるのか分からないが確かに私が稼いだ金じゃ。」と供述し,「君は生活保護を貰っているのに,いつ稼いだのか。」との問いに対し,「小さいころからの財産として私が持っていたものじゃ。兆という金が動いており,H銀行にはI銀行から200億円という金が流れてきている。銀行が金を盗むんじゃ,ものすごい額じゃ。この金をバクチをして集団の中をぐるぐると動いとる。バクチは賭け事ではなく,言葉のやりとりとして行うものじゃ。実際には20億という金が動いているが,その中の2億円を私と名前が一緒ということで『B某』の所に流れ,Bがその金をチョロまかしたんじゃ。」と供述し,「今まで2億円という金はどこにおいていたのか。」との問いに対し,「通帳に入れていたのでどこか分からない。親から相続したものではなく,自然と財産として持っていたものじゃ。」と供述し,更には,「2億円という金を返して貰いに行っただけであり,真剣に話しを聞いて貰うために包丁を持っていったのだ。今回の件がけりが付いたあとは,よそに流れているかもしれない2億円の行き先を突き止め,返して貰いに行かなければならない。なぜなら,2億円は私の金だからだ。」などと供述(検16号証)し,同月16日には,「自分の2億円という金を返して貰いに行ったのであり,話を真剣に聞いて貰うため,包丁を持っていったのです。」などとも供述した(検17号証)上,同月18日,検察官に対しても,「今回の件は,人づてに,Cなんとかという人が私のお金をチョロまかしたと聞いていたので,腹がたってそのお金を取り戻しに行ったのです。包丁を持って押し掛けた家が,Dという人の家だそうですが,Cなんとかという人の家に押し掛けたつもりでした。なぜその家に行ってしまったのかよくわかりません。」などと供述しており(検18号証),このような供述内容に徴すると,本件犯行が相当強固かつ不可解な幻覚・妄想の影響下で敢行されたことが強く疑われる上,被告人が,これまで毒物及び劇物取締法違反の罪又はこれを含む罪により,昭和59年9月6日及び平成5年1月22日,2回罰金刑に処され,同7年7月21日,同11年10月5日及び同13年1月16日,3度にわたって懲役刑に処された前科を有しているばかりか,捜査段階において,「シンナー後遺症の治療のため,18歳のころJ病院に,29歳のころK病院に,42歳のころL病院に入通院するなどしていた。」などと供述している(検15号証)ことに鑑みると,原審第1回公判期日における罪状認否において,被告人が本件公訴事実を認める陳述をし,責任能力の点を特に争点化しなかったことを考慮しても,本件当時,被告人の責任能力に欠けるところがなかったか否かは,できる限り慎重に審理・判断する必要があったというべきである。

そこで,当審において,被告人の精神鑑定,鑑定人の証人尋問を実施したところ,本件当時,被告人は,統合失調症,有機溶剤遅発性精神病性障害,両疾患の合併のいずれかの状態にあったことが明らかとなった。すなわち,鑑定人M作成の鑑定書及び同人の当審公判供述によれば,現在の精神科臨床において,精神疾患の診断基準として一般的に使われているDSM-Ⅳによれば,統合失調症の特徴的症状として,(1)妄想,(2)幻覚,(3)解体した会話,(4)ひどく解体した又は緊張病性の行動,(5)陰性症状のうち2つ以上が1か月の期間ほとんどいつも存在することとされているところ,被告人の場合,病歴から上記5つの症状のいずれもが存在していたことは間違いなく,鑑定人が診察や検査を行った約2か月間をみても,(1)幻覚,(2)妄想,(3)解体した会話は持続していたと考えられ,鑑定期間中に直接観察できたとはいえないものの,本件前の無為・自閉的な生活態度からは,(5)の陰性症状が持続していたことが強く示唆され,また,犯行そのものは(4)のひどく解体した行動と捉えることもできる上,幻覚・妄想の態様についてみても,幻覚・妄想は統合失調症以外の疾患でも観察されることが多いものの,その症状群,すなわち,(1)思考化声,(2)話しかけと答えの形の声の幻聴,(3)自己の行為を注釈する声の幻聴,(4)身体的非影響体験,(5)思考奪取と思考干渉,(6)思考伝播,(7)妄想知覚,(8)感情・意欲の領域における被影響体験や作為体験は,第1級症状と呼ばれ,これらのうち,2,3の症状が確実に存在する場合,統合失調症である可能性が高いことが広く認められており,ICD-10などの他の診断基準の中でも重視されているところ,被告人が示す幻覚・妄想については,上記第1級症状のうち,少なくとも(3)ないし(7)の5項目が認められ,この点からも被告人が統合失調症である可能性が支持されること,もっとも,DSM-Ⅳにより統合失調症と診断するためには,シンナーなどの物質の影響がないことを要し,これらの影響が考えられる場合には統合失調症との診断は行わないこととされており,被告人にシンナー乱用及びシンナー依存の既往が認められ,シンナー吸引開始に先立って幻覚・妄想があったと判断できる情報がないことに徴すると,被告人の示す幻覚・妄想などの症状は,シンナーによる遅発性精神病性障害,すなわち,幻覚・妄想などの精神病症状が物質の直接的な効果が作用していると想定される期間を明らかに越えて持続する場合であると考えることも可能であるが,被告人が統合失調症である蓋然性があることに徴すると,確定的にシンナーによる遅発性精神病性障害と診断することはできないこと,また,一般的に使われる診断基準は,上記両疾患の合併を認める立場はとっていないものの,統合失調症の発症年齢は20歳前後が多く,16ないし40歳が主な発病危険年齢であり,被告人の場合,シンナー吸引を始めたのは12,13歳であり,この年齢で統合失調症が発症することは稀であるから,シンナー吸引を開始した後に明らかとなった幻覚・妄想は,一部は有機溶剤遅発性精神病性障害によるものであり,また一部は後に発症した統合失調症によるものとも考えられることなどが認められる。

そして,統合失調症,有機溶剤遅発性精神病性障害,両疾患の合併のいずれの場合においても,被告人が示す幻覚・妄想とは何ら矛盾はなく,診断名ではなく状態像として表現すると,明らかな幻覚・妄想状態にあるということができ,被告人は,本件前,生活保護を受けていたことや居住していたアパートの家賃を記憶しているなど,一定の現実見当識が残存しているものの,家賃の何万倍もの預金があったのは不自然であるとの矛盾点を突き付けても,巨額の金員を盗られたという主張は揺るぎなく訂正不能であり,妄想として固定化しており,また,上記のとおり,被告人は,その財産を盗ったと主張する人物とは無関係の被害者方を訪れていること,59歳の女性という,被告人よりも身体能力が劣ると考えられる人物によって携帯した包丁を取り上げられたこと,犯行後,逃走したり隠れたりする積極的な行動を取らず,駆け付けた警察官に現場のすぐ近くで逮捕されたことなど,本件当時の被告人の行動には纏まりを欠いた奇異な部分が散見されるところ,これら諸点は被告人が本件当時にも多様な幻覚・妄想を呈していたことを強く支持する所見である上,心理検査の結果,被告人の知能指数は軽度精神遅滞レベルに相当するものの,被告人が幻覚・妄想状態にあることと矛盾しない所見と解されることに徴すると,被告人は,本件当時,相当強固かつ不可解な幻覚・妄想に支配された状態にあり,現実的な是非善悪の弁別能力を有していなかったと認めるのが相当である。なお,本件犯行については,統合失調症又は有機溶剤遅発性精神病性障害に起因する人格水準の低下のために被告人の自制力が低減していたこと,中学校時代から反社会的行為が習慣化していたという生活環境要因が影響したことも否定できないものの,それが本件犯行の主因ではなく,被告人が現実的な是非善悪の判断能力を有していなかったことを機軸とし,これに付加して上記諸事情が影響したと考えられるとの前記鑑定人の見解も首肯することができる。

以上の検討結果によれば,本件当時,被告人は責任能力を欠いていたというべきであるから,原判決には事実の誤認があり,これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

論旨は理由があり,その余の点について判断するまでもなく,原判決は破棄を免れない。

3  よって,刑訴法397条1項(382条)により原判決を破棄し,同法400条ただし書により当裁判所において無罪の言渡しをすることとし,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 安原浩 裁判官 河田充規 裁判官 吉井広幸)

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