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広島高等裁判所岡山支部 平成18年(う)89号 判決 2006年12月13日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

1  本件控訴の趣意は,弁護人有本耕平作成の控訴趣意書に記載されているとおりであるから,これを引用する。

そこで,記録を調査し,当審における事実取調べの結果を併せて検討する。

2  控訴趣意中,原判示第2の事実に係る訴訟手続の法令違反の論旨について

論旨は,要するに,原判決は,被告人の検察官事務取扱検察事務官調書のみを根拠として原判示第2の事実を認定しているので,刑訴法319条2項に違反する,というのである。

しかしながら,原判決は,原判示第2の事実につき,被告人の警察官及び検察官事務取扱検察事務官に対する各供述を証拠として挙示しているものの,自白を補強する証拠は,必ずしも自白に係る犯罪構成事実の全部にわたる必要はなく,自白に係る事実の真実性を保障し得るものであれば足りるものと解されるのであって,原審記録によれば,原裁判所は,原判示第2の事実の証拠として,被告人の上記各供述調書のほか,診断書並びにAの被害届及び警察官調書も証拠として取調べ,これらを証拠の標目に掲げているのであり,これらの証拠は,被告人の捜査段階における上記自白に係る事実の真実性を保障し得るものということができるから,原審の訴訟手続に所論の指摘するような違法はない。

論旨は理由がない。

3  控訴趣意中,原判示第1及び第2の各事実に係る事実誤認の論旨について

(1)  論旨は,要するに,①原判決は,Aの警察官に対する供述並びに被告人の警察官及び検察官事務取扱検察事務官に対する自白を基礎として,原判示第1の傷害の事実を認定したが,Aの上記供述及び被告人の上記自白はいずれも信用できず,被告人は,原判示第1の暴行を加えていないし,仮に,被告人が上記暴行を加えたとしても,Aに生じた上記傷害との間には因果関係がない,②原判決は,被告人の警察官及び検察官事務取扱検察事務官に対する自白を基礎として,原判示第2の傷害の事実を認定したが,被告人の上記自白は信用できず,被告人は,原判示第2の暴行を行っていないし,仮に,被告人が上記暴行を行ったとしても,Aに生じた上記傷害との間には因果関係がない,として,被告人は,原判示第1及び第2のいずれについても無罪であるから,原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実認定の誤りがあるというのである。

本件各公訴事実(検察官の原審第3回公判期日における訴因変更を経たもの。)は,「被告人は,第1 平成17年8月2日午後3時ころ,岡山市a町b番c号dアパートe被告人方において,A(当31年)に対し,その手をつかんで約1ないし2メートル引きずるなどの暴行を加え,よって,同人に加療約6日間を要する両下腿挫傷,左足背部挫傷の傷害を負わせた 第2 同月18日午後11時10分ころ,同市f町g番h号西側駐車場に駐車中の車両に乗車中の上記Aに対し,その左腕辺りに右肩付近を押し付けて同人を助手席側に転倒させるなどの暴行を加え,よって,同人に加療約1週間を要する背部・両前腕部打撲の傷害を負わせたものである。」というものであり,被告人は,捜査段階において,本件各犯行を自白したが,原審第1回公判期日以降,上記公訴事実第1については,「右手で布団の上に座っていたAの右手をつかんで引き上げ,同人を椅子に座らせたにすぎない。」旨供述し,上記公訴事実第2については,「自動車の鍵を抜き取ろうとした自分に対し,Aが飛びついてきた際,その左肩が自分の肩に当たって,Aが転倒したにすぎない。」旨供述し,上記各公訴事実にあるような暴行に及んだことはない旨主張して争ったが,原判決は,原判示第1の事実については,Aの警察官に対する供述及び被告人の捜査段階における自白の信用性をいずれも肯定し,原判示第2の事実についても,Aの警察官に対する供述の一部及び被告人の捜査段階における自白は信用できるとし,本件各犯行を否認する被告人の原審公判供述は信用できないなどとして,各公訴事実と同旨の傷害の事実を認定した。

しかしながら,記録を調査し,当審における事実取調べの結果をも踏まえて検討すると,Aの供述内容及び被告人の自白調書の信用性には疑問を抱かざるを得ないのであって,これらに信用性を認めて本件各公訴事実を認定している原判決の認定説示は首肯することができず,他の関係証拠を併せ考えてみても,本件各公訴事実が合理的な疑いを超える程度に証明されているとはいえない。以下,その理由を述べる。

(2)  関係各証拠によれば,次の事実が認められる。すなわち,

ア  被告人とAは,平成9年9月ころ知り合い,その後,内縁関係となり,平成15年4月ころからは,原判示第1の居室において共に生活していた。

イ  Aは,平成17年8月1日から翌2日にかけて,その経営に係る居酒屋の片づけをしたり,知人の経営するスナックで飲酒するなどした後,帰宅したところ,帰宅が遅くなったことを咎めた被告人との間で口論となった。Aは,その後,同日午後1時ころ,被告人方2階の四畳半寝室において,Aの異性関係に疑念を抱いた被告人との間で更に激しい口論となり,Aが被告人に対し,別れ話を持ち掛けるなどした。

ウ  Aは,上記口論のあった平成17年8月2日,被告人方を出て,被告人とは別居するに至った。そして,Aは,同月4日,B整形外科医院において,医師の診察を受け,両下腿挫傷,左足背部挫傷との診断を受け,その旨記載された診断書を入手した後,同月10日,C警察署において,原判示第1の傷害の事実に係る被害届を提出した。

エ  Aは,上記のとおり被告人と別居した後,被告人と前に共同で購入した,運転席が左側にある自動車シボレーアストロ(3列シート)を単独で使用していたが,被告人からは上記自動車の返還を迫られていた。そして,Aは,同月18日午後11時10分ころ,原判示第2の駐車場に駐車中の上記自動車の最後部座席に積載していた荷物を整理していたところ,同所に到着した被告人との間で,上記自動車の返還をめぐって口論となった。

オ  Aは,翌19日,D病院において,医師の診察を受け,背部,両前腕部打撲の診断を受け,その旨記載された診断書を入手するとともに,C警察署において,原判示第2の日時,場所における傷害の事実に係る被害届を提出した。

(3)  Aの供述内容

ア  Aは,警察官に対し,原判示第1の被害状況等について,「被告人と口論する中で,自分が,被告人に対し,『もう本当に別れよう。』と言って,そっぽを向くと,被告人は,突然,両手で自分の両手首を持って,被告人の方に自分の身体を向かせ,その場に自分を引き倒し,『椅子に座れ。』と言って,部屋に置いていたテーブルの椅子の方向に約1メートル引きずった。そして,被告人は,自分を椅子に無理やり座らせると,『別れる言うな。』などと言ってきたが,自分は,別離の意思が変わらないことを告げて,家を出た。自分は,被告人から受けた暴行により身体中が痛くて仕方なかったので,翌3日は店を休んだが,両足に痣ができており,その箇所を押さえると痛みがあったことから,8月4日に医師の診察を受け,加療約6日間を要する両下腿挫傷,左足背部挫傷との診断を受けた。」などと供述し,原判示第1の被害状況等として,向かい合って立った状態で,被告人から両手首をつかまれ,前方に引っ張られて引きずり倒された状況や,引きずり倒された際には,右足を折り曲げた状態で,その前面を床面に接着させ,左足は膝を立てた状態であったこと,その後,被告人により椅子に座らされたことを趣旨とする被害再現をしている。また,Aは,警察官に対し,原判示第2の日時,場所における被害状況等について,「自分が,アストロの運転席と助手席の間のスペースにおいて,中腰の状態で後ろ向きになって後部座席に積んでいた荷物を整理するなどしていたところ,被告人がアストロの運転席に乗り込んできたので,自分が,中腰のまま,前方に振り返ると,被告人は,『おどりゃあ。車を返せ。』などと言って,自分の両手首を両手でつかんできた。そこで,自分は,手を前後左右に振って,被告人の手を振り払おうとしたが,その際,自分の腕や背部が運転席のシートに当たるなどした。そして,最後には,被告人に両手首をつかまれ,後方に強く押しつけるようにされたため,その勢いで肘当て用のレバー部分に背中が当たった。そのときは,背中が痛くて仕方なく,翌日,D病院で医師による診察を受け,約1週間の加療を要する背部,両前腕部打撲との診断を受けた。」などと供述している。

イ  さらに,Aは,当審公判廷においては,原判示第1の被害状況等について,「被告人と口論した後,2階の四畳半寝室で,座椅子を平らにして眠っていたところ,被告人にたたき起こされ,自分は机の前の椅子に座った状態で,衣装ボックスに座っていた被告人と口論をした。その後,被告人は,立ち上がって,椅子に座っていた自分の両手首を持って引っ張った。そのため,自分は,椅子から引きずり下ろされ,机等にぶつかりながら,右前方に体ごと転倒し,じゅうたんを敷いていた床に引きずられる形になった。そして,被告人は,そのまま,自分を引きずりまわし,自分は,寝室内のたんすや衣装ボックス等にぶつかった。足を負傷したのはこのときの暴行が原因である。被告人は,自分を椅子に座らせる前にも自分を引きずる暴行を加えた。」などと供述し,原判示第2の日時,場所における被害状況等については,「自分がアストロの2列目の左右のシートの間で後方を向いて荷物を整理していたところ,車に乗り込んできた被告人が,助手席に置いていたアストロの鍵を奪い取ろうとしたので,自分は,先にこれを手に取って,バッグに入れた。すると,被告人は,右手で自分の左肩を押して突き飛ばし,その結果,自分は左肩甲骨付近を運転席のひじ掛け部分で痛打し,転倒した。このとき,腕も車内のどこかに衝突して負傷したと思う。」などと供述するに至っている(以下,これらのAの捜査段階及び当審段階における供述全体を指して「A供述」という。)。

(4)  A供述の信用性

ア  原判示第1の暴行があったとの点について

まず,原判示第1に係るA供述の信用性を検討するに,本件においては,確かに,Aが原判示第1の傷害を負った旨の記載がある,本件の2日後に作成された診断書が存在するほか,本件の9日後に撮影された写真によれば,Aの右下腿部の背面に近い側面と左足背面(甲部)には痣状の傷跡が存在したことが認められる。しかしながら,Aの原判示第1の被害再現状況の実況見分調書によれば,Aは,被告人によって引きずり倒された際の自らの体勢として,右膝を折り曲げて右足の前面を床面に接着させ,左膝を立てて前方に出した状態を再現していたことが明らかであるところ,このような再現に係る体勢によって床面に倒れたのであれば,床面に接着していなかったと認められる右下腿部の背面に近い側面についてはもとより,膝を立てた状態の左足の背面(甲部)についても傷害が生じるとはおよそ考えにくいといわざるを得ない。そして,Aは,上記傷害の原因について,警察官調書においては,「どのような形で負傷したか分からない。ひきずられた時に何かで足を打っているのかもしれない。」旨供述するにとどまっていたものの,当審公判廷においては,「足の怪我は,引っ張られた際,机等に接触して生じた。」旨供述するに至っている。しかしながら,Aは,当審公判廷において,最終的には,被告人に腕を引っ張られたことにより,向かって右方向に転倒した旨供述しているところ,Aが当審公判廷において作成した図面によれば,本件当時,Aの背後には机等が存在したものの,Aの右側には家具等の設置されていない空間が存在したものと認められるのであるから,前方にいた被告人から腕を引っ張られた際に,足を机等に接触させて負傷したというのはいささか不自然といわざるを得ない。そもそも,Aは,当審公判廷において,捜査段階においては,被告人が自らを椅子に座らせようとして暴行に及んだ旨供述していたことを指摘されるや,「椅子に座るのも,引っ張られたのかな,引っ張られたね。」「椅子に座らされた後にまた引っ張られたんだわ。」などと,椅子に着席する前後にわたり,被告人から2度,引きずり倒される暴行を受けた旨唐突に供述するに至っているところ,上記被害届や警察官調書等には,このように被告人から2回にわたって引きずり倒される暴行を受けたとの記載は全くないのであって,Aの当審公判供述には看過できない変遷があるといわざるを得ない。

そして,上記傷害が医師による治療を必要としない軽傷であって,これらの部位における上記の程度の傷害であれば,種々の機会に生じ得るものと考えられることや,Aが上記傷害について診察を受けるに当たり,自ら記入した問診表には,「両足の打ち身の診断書を頂きたいのです。」との記載は存在するものの,「診察を希望する部位には外傷(出血や傷)は存在しない。」旨明記されていることをも併せ考慮すると,A供述の原判示第1の暴行態様に関する部分は変遷が著しく,傷害の部位,程度についても合理的に説明できない疑問が残り,信用性に乏しいといわざるを得ない。

イ  原判示第2の被害状況について

次に,原判示第2の日時,場所における被害状況等に関するA供述の信用性を検討するに,A供述には,まずもって,被害状況そのものについて,単なる記憶違い等では説明できないほどの著しい変遷が認められる。すなわち,Aの警察官調書には,「被告人から両手首をつかまれた状態で後方に押しつけるようにされた。」旨の供述記載があるにもかかわらず,Aは,当審公判廷において,両手首をつかまれたのではなく,「被告人から左肩付近を押された。」旨供述するに至っているところ,Aは上記のように被告人から受けた暴行の態様といった本件の正に核心部分について供述を変遷させた理由について,何らの説明もしていない。また,Aの上記警察官調書においては,「自分は,運転席と助手席の間において,後方を向いた中腰の状態で,運転席にいた被告人の方を振り返った際,両手首をつかまれたが,その際,背中が運転席の座席に当たった。」旨の供述記載が存在し,Aの当審公判供述の内容をみても,「自分は,自動車内において,2列目の座席の間付近において,中腰の状態で後方を向いた姿勢から,上半身をねじって左前方の運転席付近にいた被告人の方を振り返っていた際,被告人から左肩付近を押され,運転席の肘当て用のレバーで背部を痛打した。」というものであるところ,Aが本件当時,上記供述に係る体勢であったことを前提にすれば,Aは,自動車内の右側の座席付近で背部を痛打するものと考えられるのであって,自動車の左側に存在した運転席の肘掛け付近で背部を痛打したとのA供述は,本件当時のAの体勢等に照らし,不合理である。加えて,Aは,捜査段階及び当審公判段階を通じ,両前腕部打撲の発生原因については,明確な供述を一切していない。

以上によれば,A供述のうち,原判示第2の日時,場所における被害状況等に関する供述部分は,その内容が,客観的な負傷状況等を合理的に説明し得ないあいまいかつ不自然なものである上,その核心部分である暴行の態様について著しい変遷が存在し,その変遷の過程に合理的な理由も認められないのであるから,その信用性にはかなりの疑いがあるというべきである。

(5)  被告人の自白の内容とその信用性について

ア  被告人は,捜査段階において,原判示第1の犯行状況等について,平成17年9月9日,警察官に対し,「はっきりとどのような格好であったかは覚えていないが,座ったような状態であったAが,壊した携帯電話を投げつける格好をしてきたので,落ち着かせるために,両手でAの両手首をつかみ,約2メートル引きずって付近の椅子に着席させた。」などと供述し,原判示第2の犯行状況等については,「自分がアストロのエンジンキーを抜き取ろうとした際,Aが前方に来てこれを妨害してきたので,自分は,右腕をAの左腕付近にぶつけるようにして押してやったりして妨害をさせまいとした。すると,Aはその勢いで転倒した。」などと供述していたところ,同年10月13日には,検察官事務取扱検察事務官に対し,原判示第1の犯行状況について,「床に無理やり座らせたAの片手を引っ張って約1ないし2メートル引きずった。」などと供述し,原判示第2の犯行状況について,「車のドアを開けていきなり運転席に飛び乗って鍵を抜くために,Aの身体を自分の右肩付近でタックルするような形で押したところ,Aの臀部付近が運転席と助手席の間に挟まれ,Aの上半身は助手席に転倒した。Aの両腕をつかんだ記憶はないが,エンジンキーを抜こうとしたAの腕をつかんだかも知れない。」などと供述するに至っている。

イ  そこで,これらの自白の信用性について検討するに,被告人の上記各自白調書には,被告人が原判示第1の暴行を行った際の被告人及びAの体勢等やその当時の寝室内の状況等に関する供述記載は全くなく,結果を簡潔に述べるにとどまり,その内容は体験した者でなければ供述し得ない臨場感や迫真性を欠くものといわざるを得ない。さらに,被告人の原判示第1の暴行の具体的な態様について,被告人の警察官調書においては,「両手でAの両手首をつかんで引っ張った。」旨の供述記載が存在するにもかかわらず,検察官事務取扱検察事務官調書においては,「片手を引っ張った。」旨の供述が録取されるなど,その自白の内容には重要な部分においての変遷が認められるところ,上記検察官事務取扱検察事務官調書には,被告人がこのように供述を変遷させた理由についての記載が全く存在しない。また,被告人の原判示第2の犯行状況に関する自白調書には,「当時酒に酔っており,興奮もしており,思い違いをしているところがあるかもしれない。」などとも記載されている上,その記載内容をみても,暴行を加えた際のAの位置や体勢,本件自動車の内部の状況等についての記載が全くなく,その内容は相当にあいまいで漠然としたものといわざるを得ない。その上,被告人の上記警察官調書には,「自分が,ドアの開いていた運転席から自動車に乗り込んだ後,前方にやって来たAとの間でエンジンキーをめぐっての争いが生じ,その過程で,自分が右腕をAの左腕付近にぶつけるようにして押すなどした。」旨の供述記載があるにもかかわらず,上記検察官事務取扱検察事務官調書では,「自分が自動車のドアを開けて,突然に,右肩でAに体当たりをした。」旨の供述が録取されるなど,その自白の内容には核心部分における変遷がある。しかしながら,上記検察官事務取扱検察事務官調書には,被告人が上記のように供述を変遷させた理由については全く触れられていない。

ウ  加えて,被告人は,原審公判廷において,捜査段階で自白調書が作成された経緯について,「警察官は,自分の言い分をほとんど聞いてくれなかったが,警察官からは,Aから被害届が提出されている以上,供述調書を作成する必要があり,事件は,検察庁に送致されるかもしれないが,供述調書を作成すれば手続は終了する旨告げられており,自分も,夫婦喧嘩の事案であり,大したことにならないと思い,早く帰宅したかったので,不本意ながらも自白調書に署名等した。検察庁でも,自分にとっては不本意な内容の供述調書を作成したが,自分は,大したことにはならないと思い,自白調書に署名等した。また,検察庁では,罰金刑になるかもしれないと言われるとともに,略式手続によることに異議がないことなどを内容とする書面に署名等するように指示され,納得できなかったが,大した事案ではなく,これらの書面に署名等しても罰金刑にはならないと思ったことや,指示に従わなければ帰宅できないと思ったことから,上記書面に署名等した。」旨供述している。上記供述のうち,検察庁において,略式手続によることに異議がないことなどを内容とする書面に署名し,指印を押捺しても実際には罰金刑にならないと思っていたとの部分は,被告人には罰金刑に処せられた前科が2犯あり,そのいずれも略式命令によって科されていることなどに照らすと容易に理解し難いことは否定できないけれども,上記書面自体は,略式手続によることについて異議がないことや罰金刑が科される場合には,仮納付の裁判を希望することを記載したものにすぎず,不起訴処分の存在を考慮すれば,これに署名等することによって,直ちに罰金刑に処せられるとは限らないことは被告人の述べるとおりであるし,本件が内縁関係にあった者の間の傷害事件であって,その傷害の程度がいずれも特段の治療を要しない極めて軽微なものであったことや,被告人が本件によって逮捕等されていなかったことをも併せ考慮すると,本件を軽微な事案と考え,取調べ等による事実上ないし心理的拘束状態から早急に逃れたいとの気持ちから,取調官の指示に従って,不本意な内容の自白調書や略式手続によることに異議がない旨の書面に署名・指印したとの被告人の上記原審公判供述が不自然であるとまではいい難い。

エ  原判決は,これと異なり,被告人の自白について,被告人が自己の記憶に基づいて供述したものとみるほかなく,被告人が記憶に反して捜査官の一方的な押し付けにより自供したとは想定し難いとして,被告人の自白の信用性を肯定し,その理由として,①原判示第1の事実に関し,Aが携帯電話を投げつけたり,あるいは,投げつけようとしていたとのAの警察官調書等には現れていない事項についての供述記載があることや,②原判示第2の事実に関し,Aの両腕をつかんだ記憶はないなどといった同人の供述とは厳密に一致しない供述記載もみられること,③被告人の原判示第1に係る自白の内容は,原判示第1の被害状況に関するAの警察官に対する供述とほぼ一致していること,④被告人の原判示第2に係る自白の内容は,タックルするような形で押したところ,Aの臀部が運転席と助手席にはさまれ,上半身は助手席に転倒したとの部分が詳細であることの諸点を挙げる。

しかしながら,①の点については,Aが被告人に対し,携帯電話を投げつけようとしたとの部分は,本件の直前の状況に関する部分ではあっても,本件の核心部分とまではいい難い部分であるし,②の点についても,前述のとおり,被告人の自白調書中には,Aの腕をつかんだ可能性を否定できない趣旨のAの警察官調書における記載内容とは矛盾しない供述記載も録取されているのであるから,これらの点はあいまいであるとはいえても,被告人の自白の信用性を肯定する根拠とはなし得ないのであって,原判決の上記見解は首肯し難い。また,③の点については,原判示第1の被害状況に関するA供述が信用性に乏しいことはすでに見たとおりであるから,これと合致することが信用性を肯定する根拠とはならないし,④の点についても,被告人の自白調書には,原判示第2の暴行を加えた際の被告人とAの位置関係や体勢等が一切記載されていないことなどに照らすと,体験した者でなければ容易に供述し得ないほどの詳細な内容とまではいうことができない。したがって,上記①ないし④の点は必ずしも被告人の自白の信用性を肯定するための十分な論拠とはなり得ないというべきであって,原判決の上記判断には賛同できない。

オ  以上のとおり,被告人の本件自白には,不自然な点が存在し,その内容も具体性,迫真性を欠くあいまいなものであることや,供述の核心部分に変遷がみられるなど,その供述経過も不自然であることに加えて,捜査段階において,虚偽の内容の自白調書に署名等した理由に関する被告人の原審公判供述を一蹴することができないことに照らすと,被告人の本件自白は到底信用し難いものといわなければならない。

(6)  被告人の原審公判供述の信用性について

他方,被告人の原審公判供述の内容は,上記3(1)のとおりであるところ,その供述自体に信用性に疑いを差し挟まなければならないような不自然または不合理な点は存在しない。

この点,原判決は,原判示第2に関する被告人の原審公判供述について,被告人が足を地面に接着させた状態で,運転席のドアから手を伸ばしてエンジンキーを抜こうとした際,被告人の肩がAの肩に衝突するとは想定し難いなどとして,その供述の信用性を否定する。

しかしながら,被告人は,原審公判廷において,Aの肩が自分の肩に接触した際の自分の体勢等について,「ドアを開けて足は外で,上半身がシートの上でした。」と述べるにとどまり,足を地面に接着させた状態であったとまでは述べていないし,本件自動車の運転席のシートの高さが被告人の腰の高さくらいであったことや本件自動車のエンジンキーの差し込み口の位置等をも考慮すると,被告人が原審公判廷において供述するような体勢でエンジンキーを抜こうとした際,その肩にキーを抜かせまいとして,後方から飛び掛かってきたAの肩が衝突したとの被告人の原審公判供述が不自然とまでは断じ難いのであって,原判決が指摘する上記の点は,被告人の原審公判供述の信用性を否定する論拠とはなり得ないというべきである。

(7)  以上に検討したところによれば,本件各被害を受けたとのA供述及び捜査段階における被告人の各犯行の自白は,いずれも信用することができず,他に本件各公訴事実を認めるに足りる証拠は存在しないのであって,Aの警察官に対する供述及び被告人の捜査段階における自白の信用性を肯定して本件各公訴事実を認定した原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるといわなければならない。

事実誤認の論旨には理由がある。

4  破棄自判

よって,刑訴法397条1項,382条により,原判決を破棄し,同法400条ただし書により,当審において被告事件について更に判決する。

本件各公訴事実は,上記3(1)において記載したとおりであるところ,上記3において詳細に検討したとおり,原審及び当審において取り調べた関係各証拠を総合してみても,当該事実が合理的な疑いを超える程度に証明されているとはいえず,結局,本件各公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するから,刑訴法336条により無罪の言渡しをする。

よって,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 安原浩 裁判官 河田充規 裁判官 西川篤志)

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