広島高等裁判所岡山支部 平成19年(う)79号 判決 2007年8月08日
主文
本件控訴を棄却する。
当審における未決勾留日数中80日を原判決の刑に算入する。
理由
1 本件控訴の趣意は,弁護人近藤幸夫作成名義の控訴趣意書及び控訴理由補充書(当審における事実取調べの結果に基づく弁論,すなわち弁論要旨及び弁論補充書を含む。)にそれぞれ記載されたとおりであるから,これらを引用する。
2(1) 控訴趣意中,事実誤認の主張について
論旨は,要するに,原判決は,罪となるべき事実第1として,被告人が,平成18年7月17日午前11時10分ころ,岡山市内のA方玄関付近において,A(当時58歳)に対し,殺意をもって,所携の包丁でAの左前胸部を1回突き刺し,左前胸部刺切創の傷害を負わせ,これに基づく失血及び心タンポナーデにより死亡させて殺害したとの事実を認定判示したが,被告人には確定的殺意はもとより,未必的殺意も認められないので,確定的殺意による殺人の事実を認定した原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるというのである。
そこで,原審記録及び証拠物を調査すると,原判決挙示の関係証拠によれば,被告人のAに対する確定的殺意に基づく殺人の事実を認定した原判決は,その「事実認定の理由」の項において説示するところとともに正当として是認でき,当審における事実取調べの結果を併せ検討しても,原判決に判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるとは認められない。
すなわち,関係証拠によると,Aが受けた傷害は,左前胸部刺切創であり,創部が左第5肋間から左胸腔内へ刺入して心嚢の前面左側から心膜腔へ至り,更に左心室側壁から左心室心筋へ刺入して左心室腔へ刺出して創底が左心室腔内に終わるものと左心室側壁の心筋内を進んで心筋内に終わるものの2つに分かれ,創洞の深さは約10センチメートルに達していて,体表の傷から心臓に到達するまでほぼ一直線であって,創管の軌跡に乱れがない。この刺切創に使用された凶器は,刃体の長さが約20.8センチメートル,有効刃体の長さが約16.4センチメートルの刃先の尖った鋭利な刺身包丁であり,これで身体の枢要部である胸腹部を突き刺した場合には,十分な殺傷能力がある。刺切した状況は,被告人の述べるところによっても,A方玄関前でこの包丁の柄を右手で握って腰に溜めて待ち構えていた被告人が,内側から玄関ドアを開けて姿を現したAに対し,少し包丁を後ろに引き反動をつけてそれなりの力を込めて右腕を前に出し,直立するAに包丁の刃先を向けて突き刺したことが認められる。以上のとおりほぼ一直線に突き刺して心臓に達していること,十分な殺傷能力のある鋭利な刺身包丁を用いていること,腰溜めにして待ち構えて刺している事実からだけでも,優に確定的殺意が推認できる。のみならず,被告人は,原判示日時の前日から,Aを刺す決心をして凶器を準備するに当たり,自宅台所にあった3本の包丁の中からAに最も大きな打撃を与えられると考えてこの包丁を選んだのであって,その性状を十分に認識していた上,包丁の柄と刃の根元部分に布製の包帯を巻くなどして,自分の手を刃で傷付けることのないように準備をした。加えて,被告人は,舗装業を営み,Aを従業員として雇用して目を掛け,平成14年4月ころから平成17年3月ころまでの被告人が服役した期間中,その舗装業の経営や経理をA及びその妻Bに委ねるほどであったが,仮出獄後,その経理に不審を抱き,1000万円程度使い込んだと疑い,当初は妻が使い込んだというAの言を信じ,平成18年2月ころ,Aの刑事事件に情状証人として出廷するなどしていたが,実際はAが使い込んだと思われたことから,そのころからAと数回口論,同年3月には刃物を持って対峙したこともあるほどであった。そして被告人は,舗装業を廃業し,保有していた自動車を手放し,生活費にも困るようになって,Aに援助を求めたが,Aはこれを無視するような態度をとったことを恨みに思っていたところ,飲酒を続けて体調を悪化させていたこともあって,原判示日時の前日,不義理な態度をとるAに対し「けじめ」をとるために1回突き刺すことにしたという経緯も認められる。これらの事実に徴すると,原判示犯行当時,被告人には確定的殺意があったと認められる。
所論は,被告人の供述に基づいて,被告人は,従前からAとは強い信頼関係で結ばれていたところ不信感が生じ,「けじめ」をとることにしたが,その「けじめ」の内容は懲らしめ,ひと刺しであって,殺意まではなかった,また,被告人は,Aの腹を狙っていたのであって,左胸に入ったのは被告人の予想外のことであったという。しかしながら,被告人は,A方玄関前で待ち構え,Aが玄関ドアを開けるや,直立していたAを刺したのであって,被告人にもAにも予想外の挙動は見当たらないことからすると,被告人は狙いどおり包丁を用いてAを刺した,つまり,狙いどおりAの胸部心臓を包丁でひと刺ししたのであって,この行為は殺意に基づく行為といわざるを得ない。殺意がなかったなどという被告人の供述は到底信用できるものではない。所論は,心筋内刺入と心室内刺入との前後関係が不明であり,心室内刺入が後であれば,心室内刺入は被告人とAとがもつれ合った結果であって,予想外の偶発的な経過による失血死ということになるという。しかし,鑑定書を作成した証人Cの原審証言によれば,凶器が心臓に到達するまでにもみ合いがあったことは成傷からは窺うことができない,包丁は1回の作用でAの心臓にまで到達していると認められるのであるから,心室内刺入と心筋内刺入の前後が被告人の殺意の認定に影響するものではない。所論は,被告人が甚平にサンダル履きで,Aの在宅も確認せずにA方に向かっていること,おもちゃの十手を用いるなど計画的とはいえないともいう。しかし,自宅にある包丁の中から刺身包丁を選び出し,包帯を何重にも巻いて滑り止めにしたことはやはり計画的というべきであって,甚平にサンダル履きなどの事実があるからといって計画的でないなどとはいえない。所論は,1回しか刺しておらず止めをしていない,10センチメートルしか刺入しておらず力一杯刺したとはいえないことをもって,殺意がなかったともいう。しかし,被告人がAを突き刺したのとほぼ同時に,Aに両手で被告人の右手を掴まれたのに,それでも包丁は,約10センチメートルも刺入して心臓に達している。また,被告人は,その後,玄関口から外に押し出されて転倒するなどのAによる反撃を受けたが,Aの反撃が弱まった後,さらに包丁でAを刺したり切り付けたりする行為には出なかったし,Aを病院に連れて行こうとしたところ,Aが歩けなくなったため,A方まで乗ってきた原動機付自転車で近くの交番へ行き,Aを包丁で刺したことを告げて救急車を要請しているが,これらのことを考慮しても,被告人がAに追撃を加えなかったのは,被告人としては,Aを包丁で刺してけじめを取るという目的を達したので追撃を加えなかったとみることや,刺されて身動きの不自由なAの様子を見て翻意したともみることができ,被告人の犯行後のこれら行動が犯行前の殺意の有無を直ちに左右するものではない。
以上によれば,被告人に確定的殺意があったと認められ,原判決に所論のいう事実誤認は認められず,論旨は理由がない。
(2) 控訴趣意中,訴訟手続の法令違反の主張について
論旨は,要するに,原審は,検察官及び弁護人双方からAの妻Bが証人請求され,これを採用する旨の決定をしたにもかかわらず,同人が2回にわたり喚問された期日に出頭しなかったため,上記採用決定を取り消したが,喚問された証人が予定の期日に出頭しないからといって,その採用決定を取り消すのは違法であるから,同人の証人尋問を実施しないまま宣告された原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があるというのである。
しかしながら,所論は,原判決が証人の採用決定を取り消したのは違法であると主張するのみであり,刑訴法その他どの法律のどの条項に違反するのかを具体的に主張しておらず,その主張自体から理由がない。なお,記録上,Bの供述調書は既に4通(原審検15,16(不同意部分を除く。),41,弁4)取調べを終えていることに加えて,その立証趣旨に照らして更に証人尋問する必要性や重要性,被告人質問等による代替可能性,勾引までして出廷させて得られる供述見込み,殺人の被害者の妻である立場等を総合勘案すれば,原審がBについて証人の採用決定を取り消したことが,証人の採否あるいは採用取消しに関する裁量を逸脱して違法であるとも認められない。
したがって,原判決に所論のいう訴訟手続の法令違反があるとは認められず,論旨は理由がない。
3 控訴趣意中,量刑不当について
論旨は,要するに,被告人を懲役13年に処した原判決の量刑は重過ぎて不当であるというのである。
そこで,原審記録及び証拠物を調査し,当審における事実取調べの結果を併せ検討する。
本件は,被告人が,前記のとおり,Aを確定的殺意をもって殺害した(原判示第1)ほか,その際,業務その他正当な理由による場合でないのに,包丁1本を携帯した(原判示第2)という事案である。
被告人は,Aが玄関ドアを開けて姿を現すや,右手で柄を握って構えていた刃先が鋭利で十分な殺傷能力のある刺身包丁を用い,いきなり人体の枢要部であるAの左前胸部を勢いよく突き刺したもので,その態様は冷酷かつ残虐なものである。のみならず,確定的殺意に基づき,予め包丁に包帯を何重にも巻き準備した計画的殺人である。その結果は,被害者が左前胸部に心臓に達する傷害を負わされ,そのころ同傷害により死亡したという重大かつ悲惨なものである。唐突に生命を奪われた被害者の無念さは察するに余りある。被害者の妻は,被害者との離婚を考えたことがあったとはいえ,これを翻意して再度婚姻生活をやり直そうと思った矢先,夫である被害者を奪われたもので,その悲嘆の程度も決して軽視できず,被害者の子供たちの処罰感情には厳しいものがある。また,動機は,被害者に対する憤りを募らせた挙げ句,被害者を包丁で刺してけじめを取ろうと考えたもので,被害者に命を奪われるほどの落ち度があるとは認められれず,被告人は,身勝手であるだけでなく,人命を軽視する点で強い非難に値する。さらに,被告人には,昭和51年に殺人未遂等の罪により懲役刑に処せられて服役した前科があり,この点からも人命軽視の態度が窺われ,その他の前科もあり,規範意識が低い。本件の犯情は芳しくなく,被告人の刑事責任は重大であるといわなければならない。
そうすると,被告人は,被害者に1回攻撃を加えただけで,反撃を受けたとはいえ,重ねて攻撃を加えたものではなかったこと,犯行後,自ら被害者を病院へ連れて行こうとしたほか,警察官に犯行を申告して自首した上,救急車の要請をしたこと,被害者は,実際に被告人の金員を使い込むなど,その被告人に対する態度に全く問題がなかったとは言い切れないこと,被告人が,本件についてそれなりに反省の情を示していること,糖尿病及び肝機能障害で体調が悪いこと,被害者の兄が原審公判廷に情状証人として出廷し,被告人を助けてやりたいと述べていること,多数の付近住民による嘆願書が作成されていること,原判決後,被告人は,本件の謝罪金として10万円を弁護人に預けたことなど,被告人のため斟酌すべき諸事情を十分考慮しても,被告人を懲役13年に処した原判決の量刑が重過ぎて不当であるとは認められない。
論旨は理由がない。
4 よって,刑訴法396条により本件控訴を棄却し,刑法21条を適用して当審における未決勾留日数中80日を原判決の刑に算入し,当審における訴訟費用は,刑訴法181条1項ただし書を適用してこれを被告人に負担させないこととし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 小川正明 裁判官 河田充規 裁判官 西川篤志)