広島高等裁判所岡山支部 平成20年(行コ)5号 判決 2011年3月31日
控訴人
X
同訴訟代理人弁護士
清水善朗
同
松岡もと子
同
山根大輔
被控訴人
和気労働基準監督署長 A
同指定代理人
B(他11名)
主文
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人が控訴人に対し,平成15年3月27日付けをもってした労働者災害補償保険法による休業補償給付及び療養補償給付の不支給決定処分を取り消す。
3 訴訟費用は,1,2審とも被控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一控訴の趣旨
主文と同旨
第二事案の概要
一 本件は,訴外a株式会社(以下「訴外会社」という。)に雇用されて塗装作業等に従事していた控訴人が,業務として化学物質に接するうちに化学物質過敏症に罹患したと主張し,被控訴人に対し,労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)による休業補償給付及び療養補償給付の支給決定を求めたところ,被控訴人が,控訴人の発症した疾病はいずれも業務との相当因果関係が認められないとして,平成15年3月27日付けで休業補償給付及び療養補償給付につきいずれも不支給決定処分(以下「本件処分」という。)をしたことから,これを不服として,本件処分の取消しを求めた事案である。
原審は,控訴人が化学物質過敏症に罹患しているとは認められず,控訴人の症状が業務に起因して生じたとは認められないとして,控訴人の請求を棄却したところ,控訴人が控訴した。
二 前提事実(証拠等により認定した事実については,かっこ内に証拠等を掲記する。その余の事実については,当事者間に争いがない。)
次のとおり加除訂正するほかは,原判決の「事実及び理由」の「第2 事案の概要」の「1 前提事実」(原判決2頁13行目から同4頁2行目まで)に記載したとおりであるから,これを引用する。
1 原判決3頁1行目「国立療養所d病院(」の次に「現在の独立行政法人国立病院機構d医療センター。」を付加し,同4行目「訪ね」を「受診して負荷テストを受けるための入院を予約し」と改める。
2 原判決3頁7行目「原告は,」から同8行目「認められた。そこで,」までを削り,同9・10行目「(以下「E医師」という。)は,」の次に「ホルムアルデヒド,トルエン,キシレンに対しては,控訴人に日頃の症状を再現するような有意な症状が出現したと判断して,」を付加し,同11行目「臨床」を「臨床経過」と改める。
3 原判決3頁23・24行目「岡山労働災害補償保険審査官」を「岡山労働者災害補償保険審査官」と改め,同4頁1行目「<証拠省略>」の次に「,<証拠省略>」を付加する。
4 原判決4頁2行目末尾に,改行して次のとおり付加する。
「 労働保険審査会の上記再審査請求に対する裁決は,受理後3か月を経過してもなされなかった。
(5) 法令等の定め
ア 労災保険法
平成19年4月23日法律第30号による改正前の労災保険法は,業務上の事由又は通勤による労働者の負傷,疾病,障害,死亡等に対して迅速かつ公正な保護をするため,必要な保険給付を行い,あわせて,業務上の事由又は通勤により負傷し,又は疾病にかかつた労働者の社会復帰の促進,当該労働者及びその遺族の援護,適正な労働条件の確保等を図り,もつて労働者の福祉の増進に寄与することを目的とするものであり(1条),同法による保険給付は,労働者の業務上の負傷,疾病,障害又は死亡(以下「業務災害」という。)に関する保険給付等について行われ(7条1項),この業務災害に関する保険給付は,①療養補償給付,②休業補償給付,③障害補償給付,④遺族補償給付,⑤葬祭料,⑥傷病補償年金及び⑦介護補償給付とされている(12条の8第1項)。そして,このうち,①ないし⑤は,労働基準法(以下「労基法」という。)75条から77条まで,79条及び80条に規定する災害補償の事由が生じた場合に,補償を受けるべき労働者若しくは遺族又は葬祭を行う者に対し,その請求に基づいて行うものとされている(12条の8第2項)ほか,④及び⑤について,労基法79条及び80条は,それぞれ,労働者が業務上死亡した場合に支払うものと定めている。
イ 労基法
労基法75条2項は,上記業務上の疾病の範囲については厚生労働省令で定めるものと規定している。
これを受けて,厚生労働省令である労働基準法施行規則35条は,労基法75条2項の規定による業務上の疾病は,別表第1の2に掲げる疾病とすると規定し,別表第1の2で職業病を有害因子ごとに分類整理して列挙している。別表第1の2においては,1号に「業務上の負傷に起因する疾病」を掲げ,特定の有害因子を含む業務に従事することにより当該業務に起因して発症しうることが医学経験則上一般的に認められている疾病を2号ないし7号に掲げた上,8号で将来における追加の必要性に備えて厚生労働大臣の指定する疾病を掲げたほか,これらによっても業務に由来する疾病をすべて網羅することができないことから,個々の事案における補償に適した疾病を対象とする余地を残すために,9号において「その他業務に起因することの明らかな疾病」を定めている。
同別表1の2第1号ないし第8号で列挙された疾病については,労働者が特定の業務に従事していて当該疾病にかかったこと及びその業務が内容,従事期間その他の点で当該疾病を引き起こすに足るだけの程度のものであることを立証すれば,特段の事情のない限り業務起因性が推定されることになる。
しかしながら,同別表1の2第9号「その他業務に起因することの明らかな疾病」に関しては,業務起因性についての推定が働かないため,補償給付の請求者側で,業務との因果関係を具体的に立証しなければならない。
化学物質過敏症は,同別表1の2第1号ないし第8号及びこれを受ける厚生労働省令に具体的には列挙されていない。そこで,化学物質過敏症が「業務上」と認められるためには,同別表1の2第4号8の「1から7までに掲げるもののほか,これらの疾病に付随する疾病その他化学物質等にさらされる業務に起因することの明らかな疾病」又は同第9号の「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当しなければならない。また,仮に,控訴人が化学物質過敏症ではない場合には,やはり,控訴人の疾病が「業務上」と認められるためには,同別表1の2第9号の「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当しなければならない。」
三 争点及び争点に関する当事者の主張
次のとおり訂正付加するほかは,原判決の「事実及び理由」の「第2 事案の概要」の「2 争点及び争点に関する当事者の主張」(原判決4頁4行目から同12頁9行目まで)に記載したとおりであるから,これを引用する。
1 原判決4頁6行目「31条1項」を「38条1項」と,同行目「労働」を「労働者」と,同10行目「労働審査会」を「労働保険審査会」と各改める。
2 原判決4頁22行目「同9月ころから」を「同作業中,高濃度の有機溶剤に長期間曝露されてきた。控訴人は上記再生作業の内容である塗装等作業に平成7年4月から平成12年12月まで従事し,このため,平成7年9月ころから」と,同23行目「共通」を「胸痛」と,同25行目「これが」を「平成8年,同9年,同10年,同11年,同12年,同13年と毎年上記の症状を訴えて通院・入院治療を受けてきており,これら症状が」と各改める。
3 原判決7頁6行目「明らかである。」の次に「また,工場内には,有機溶剤や塗料の容器が,空き缶の上部を切り取って蓋代わりに被せただけの状態で保管され,気化した溶剤が漏れ出し,常時蒸気が蒸発していた上,基本的に窓を閉めた状態で,風や雨の日にはシャッターも閉めて作業をしており,換気扇も設置されていなかった。」を付加する。
4 原判決7頁16・17行目「現在実施されている方法」の次に「(二重盲検法(ダブルブラインド方式))」を付加し,同20行目末尾に改行して以下のとおり付加する。
「 (オ) 控訴人は,m病院を受診してO医師の診察を受け,諸検査を受けた結果,平衡機能障害,眼球追従運動障害,自律神経失調が認められており,心因では,上記検査結果の異常を説明できない。
(カ) 化学物質過敏症には,健康保険上傷病名コードが付され,診断書の病名として用いられ,休業補償や生命保険関係の書類にも使用でき,障害年金の対象となり,化学物質過敏症の後遺症が労災と認定されるようになっている。
ウ 控訴人は,訴外会社において塗装作業等に従事することによって,高い濃度のキシレン,トルエン等を含む有機溶剤に曝露されてきて,曝露後に症状が発症しているから,労基法施行規則第35条別表第1の2第4号に該当する。」
5 原判決8頁26行目末尾に,改行して次のとおり付加する。
「 そして,化学物質過敏症を除いて考えても,控訴人の症状は,有機溶剤中毒等業務による有機溶剤の曝露によるものではなく,控訴人の症状に業務起因性は認められない。」
6 原判決10頁8行目「を退職した」を「の業務から離れた」と改め,同25行目「内容」の次に「及びこれにより症状が軽快した事実」を付加する。
7 原判決11頁6行目「<証拠省略>」を「<証拠省略>」と改める。
8 原判決12頁6行目末尾に,改行して次のとおり付加する。
「 (キ) 化学物質過敏症に健康保険上傷病名コードが付されたとしても,それは,レセプト電算処理システム等における診療報酬請求の事務処理上の便宜が図られたにすぎないのであり,その疾病概念が確立したものではない。
(ク) 控訴人の症状について,l病院のM医師(以下「M医師」という。)は自律神経失調の要素を含む神経症,k病院のP医師は自律神経失調症(慢性疲労症候群)と診断しており,心理的要因が大きいこと,化学物質過敏症以外の疾患ないし原因によることが推定される。
ウ 仮に,控訴人が化学物質過敏症に罹患しているとしても,控訴人はトルエン,キシレンから離れても症状があり,その罹患時期は平成13年以降と考えられること,控訴人と同一の作業に従事した者は,いずれも控訴人と同様の症状を呈していないこと,低濃度の化学物質であっても曝露が長期になった場合化学物質過敏症を発症するのであれば,むしろ日常の生活環境全般による影響によって発症したとするのが自然であること,Q鑑定書において,重心動揺計検査:著変なし,指標追視検査:鋸歯状波形認めず,呼吸機能検査:正常範囲,胸部立位レントゲン検査:胸部に異常所見は認められなかったことなどから,業務起因性は認められない。」
9 原判決12頁7行目「ウ」を「エ」と改める。
第三当裁判所の判断
一 本案前の争点について
当裁判所も被控訴人の主張には理由がないと判断する。その理由は,次のとおり付加するほかは,原判決の「事実及び理由」の「第3 当裁判所の判断」の「1 本案前の争点について」(原判決12頁12行目から同20行目まで)に記載したとおりであるから,これを引用する。
原判決12頁17行目「主張する」の次に「ところ,労災保険法40条1号が定める「再審査請求がされた日から3か月を経過しても裁決がないとき」は,不備の補正がなされて再審査請求が受理された日から起算するのが相当である」を付加する。
二 本案の争点について
1 認定事実
(1) 控訴人の職歴(<証拠省略>,弁論の全趣旨)
控訴人は,昭和50年8月1日から昭和52年3月30日まで,o株式会社に勤務し,自動車整備の職種で,自動車分解,修理,整備,車検整備,洗車,オイル交換,新車納車点検整備などの仕事をしていた。
控訴人は,昭和52年9月10日から昭和54年8月10日まで,p商店株式会社に勤務し,ビデオ組み立ての職種で,ビデオ部品組み立て,機械オペレーターの仕事をしていた。
控訴人は,昭和54年8月20日から昭和55年1月31日まで,岡山t株式会社に勤務し,自動車整備の職種で,自動車分解,修理,点検整備,車検整備,洗車,オイル交換などの仕事をしていた。
控訴人は,昭和55年4月4日から昭和56年12月25日まで,有限会社u店に勤務し,店員の職種で,ガソリン,軽油,オイル,灯油の給油と配達,洗車などの仕事をしていた。
控訴人は,昭和57年12月1日から昭和58年6月7日まで,q運輸株式会社に勤務し,運転手の職種で,バス・タクシーの運転手,洗車の仕事をしていた。
控訴人は,昭和58年7月4日から平成4年8月20日まで,r株式会社に勤務し,機械オペレーターの職種で,コネクター組み立て,機械管理,機械修理,製品選別の仕事をしていた。
控訴人は,平成5年7月26日から同年10月19日まで,b株式会社に勤務し,機械整備の営業職種で,農業機械修理,整備,配達,営業の仕事をしていた。
控訴人は,平成6年7月1日から同年9月10日まで,v株式会社に勤務し,機械組み立ての職種で,アルゴン溶接,ふるい機組み立て,部品磨きの作業をしていた。
(2) 控訴人の訴外会社での作業内容
証拠(<証拠省略>)及び弁論の全趣旨により次のとおり認められる。
ア 平成7年4月から同9年4月まで
午前8時30分ころから再検査対象の使用済みガスボンベを検査場へ持ち込み,持ち込んだ使用済みガスボンベ60本のラベルはぎ,残ガス抜きを1時間30分かけて行い,目視による使用済みガスボンベの外観検査を行って,60本分のボンベの検査成績表を記入し,バルブを外し,「容器反転機」でボンベの中のゴミを出し,目視によるボンベ内の検査を行い,ボンベに水を注入し,耐圧検査機に取り付け,水圧検査を行い,検査結果を記録し,水を排出して,ボンベを乾燥させた後,ねじの切り直し及び刻印打ちを行い,バルブの検査をし,バルブ及びキャップの取付けを行い,その後半日を要して,スプレーガンと刷毛を使用してボンベ60本について,ボンベ1本1本外側全面に充填ガス別指定色塗装をし,さらにボンベごとにガス名・所有社名等の表示をラッカースプレーを吹いて塗装し,文字プレートを洗浄し,ボンベにバルブを取り付ける。なお,キャップの取付終了までに半日を要する。もっとも,当初は,2日かけて作業を行っており,その場合,2日目に塗装作業を行っていた。そして,水圧検査については,控訴人が作業するようになったころには,ボンベの一部のみを抜き取って検査する程度で,あまりしなくなっていた。また,小さい容器の塗装はたまに行う程度であったが,屋内で行っていた。
控訴人は,当初先輩作業員と2人で塗装作業等をしていたが,そのうち1人ですることが多くなった。また,検査準備から塗装作業終了までは2日間で行う場合,うち塗装作業をするのは1日おきであったが,平成7年10月ころ以降はボンベの本数が増えたため,控訴人は毎日塗装作業をしていた。
なお,平成7年から平成9年4月までの1日当たりの検査・塗装するガスボンベの本数は25本から30本であったとのHの聴取書(<証拠省略>)があるが,採用できない。
イ 平成9年5月から同12年12月まで
平成9年5月からは作業を2名で行うこととなり,60本ごとにそれぞれが2日がかりで作業を行うこととされ,1日目は,午前8時30分ころから再検査対象の使用済みガスボンベを検査場へ持ち込み,持ち込んだ使用済みガスボンベ60本のラベルはぎ,残ガス抜きを1時間30分かけて行い,目視による使用済みガスボンベの外観検査を行って,60本分のボンベの検査成績表を記入し,バルブを外し,昼休憩を挟んで午後2時ころまで,ボンベを「自動水圧検査・蒸気乾燥機」に入れてボンベの耐圧検査を行い,乾燥が終わると「ショットブラスト」で塗装の剥離,刻印打ちの作業を行い,その後,約2時間をかけてボンベのバルブ60個の検査を行い,ガスボンベを「塗装ブース」へ移動させ,検査成績表の処理を行い,2日目は,前日に塗装の終わったボンベをフックから外すなどの雑作業を午前中に行い,午後からは約2時間をかけてボンベをフックに掛けてつるし,自動塗装機で塗装をし,塗装の終わったボンベからスプレーでガスの名称・社名等を塗装して,ガスの名称のプレートと自動塗装機のノズルをシンナーで洗浄して,ボンベのバルブを取り付けて容器番号をペイントマーカーで書いて1日の作業を終える。自動塗装機によってボンベ60本を塗装するのには約90分,バルブの取付けには90分から120分を要し,ボンベ外装にラッカースプレーで名前を吹き付ける作業には20分から30分程度を要した。ただし,平成9年9月ころ,控訴人は塗装以外の作業を行っていた。平成10年ころからは,自動塗装機による塗装作業中に監守の他に平行してボンベ外装にラッカースプレーで名前を吹き付ける作業を行うようになった。なお,プレートはボンベ1つ当たり2から4種類を用いた。以上により,控訴人は2日に1回塗装作業を行っていた。また,控訴人は,上記のほかに,小容器の塗装を毎月2回,1回に80ないし100本程度約6,7時間程度手動でスプレーガンを使用して行っていた。この作業は控訴人のみが行っていた。もっとも,控訴人は,平成12年7月以降は体調不良で休むことが多く,塗装作業を前記のとおりの出勤日を経て,同年12月8日まで行い,その後は体調不良により欠勤し,同月16日に出勤したものの,そのほかは欠勤が続き,休職,退職に至った。
なお,自動塗装と手動塗装とを行うのに要した時間は少なくとも2時間30分,長いときには4時間を超えたとの控訴人の陳述書(<証拠省略>)があるが,採用できない。
ウ 控訴人が作業に当たって使用していた有機溶剤には主にトルエン,キシレン及び酢酸イソブチルが含有されており,塗料とシンナーを約2対1の割合でうすめ,塗装をしていた。塗装時には有機溶剤用マスク(シゲマツ製,直結式小型防毒マスク)及び作業用革手袋を着用していた。マスクの吸収缶は1週間程度で交換していた(<証拠省略>,弁論の全趣旨)。
この点,控訴人は,防毒マスクの吸収缶を2週間以上交換せずに使っていたと供述するが(<証拠省略>),反対趣旨の証拠(<証拠省略>)に照らし信用できない。
(3) 訴外会社の作業環境
証拠(<証拠省略>)及び弁論の全趣旨により次のとおり認められる。
ア 作業場には,ボンベが数十本以上,塗装の前後を通じて並置され,塗装後乾燥を終えるまで置かれていた。また,有機溶剤や塗料を入れた缶が,上部を切り取り,これをふたにしてかぶせただけで,密閉されないで置かれていたため,これらが常に蒸発していた(<証拠省略>)。
作業場には排気設備は当初なく,平成9年5月より自動塗装となってから,自動塗装装置に局所排気装置が取り付けられ,平成12年4月,控訴人ほかの従業員らが自主的に換気扇2台を取り付け,平成14年6月にはさらに換気扇2台を取り付けた(<証拠省略>)。作業場では,換気を行うため,出入口のシャッターを開け,扇風機を回し,又は作業場の窓は開けるようにしており,自動塗装機を導入する以前は塗装は屋外(工場の入口)で作業をしていた。もっとも冬の寒い時期や雨の降り込む時は窓を閉めており,1月,2月は窓を閉めているときが多かったし,冬の特に寒い日にはシャッターも閉めて,工場内で作業をしていた。また雨の日には工場内で作業をすることもあった(<証拠省略>)。
控訴人は,作業時には作業場の窓を開けることはなく,換気扇を稼働させることもなく,換気ダクトについてはガムテープでふさがれていた旨主張し,これに沿う供述をしているが,たやすく採用することができない。
イ 訴外会社では,平成13年4月20日及び平成14年4月11日に作業環境測定が実施されているが,その結果は,本件報告書によると,トルエン,キシレン及び酢酸イソブチルについて,当該作業場の6測定点のいずれにおいても管理濃度(トルエン50ppm,キシレン100ppm,酢酸イソブチル150ppm)以下となっており,「当該単位作業場所の95%以上,その場所で気中有毒物質の濃度が管理濃度を超えない状態の管理1」とされている(<証拠省略>)。
控訴人は,この環境測定について,文字塗装の工程を省いて実施されており,実際には手動での文字塗装が行われていたのであって,控訴人の作業していた環境を再現できていない旨主張し,これに沿う供述をしており(<証拠省略>),証拠(<証拠省略>)では塗装作業について自動塗装のみしか記載がないが,証拠(<証拠省略>)に照らすと,測定当日文字塗装が行われない状態であったとは見られず,上記主張は採用できない。もっとも,証拠(<証拠省略>)によると,測定当日は局所排気装置のほかに,換気扇,扇風機が稼働し,出入口ドア及び窓(平成14年測定では窓の一部のみ)を開けた状態であったことが認められるところ,前述のとおり,換気扇が取り付けられたのは平成12年4月であり,窓を開けるのは常時行われていたとまではいえず,日によってはシャッターを閉めるなどして工場内で作業をしていたこともあったから,上記環境測定結果については控訴人の作業状況を忠実に再現しているということはできず,控訴人が作業していた当時の作業環境においては,上記測定結果よりもトルエン等の化学物質がより高い濃度で存在していたものと推定されるが,これが上記管理濃度を超えるものであったと認めるに足りる証拠はない。
ウ なお,訴外会社において,控訴人と同じ作業に携わった者4人については,経営者及び当該作業員によると,いずれも控訴人のような症状を呈していないという(<証拠省略>)が,控訴人及び同時期に働いていた従業員によると,同僚であるGは喘息ようの症状でよく休んでいたという(<証拠省略>)。
(4) 控訴人の稼働状況及び医療機関への受診状況
前提事実に加え,証拠(<証拠省略>,証人M,同D,原審証人Q,当審証人Qの回答書,Q鑑定書)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 訴外会社に就職するまでの控訴人の既往症は概ね次のとおりである。
16,17歳のころ,交通事故により,後頭部など全身を打撲し,頸椎症により1,2か月間入院した。その後,10年程度は特段の症状はなかったが,26歳ころに,夜ライトが眩しく目がくらむ,頸部痛,肩こりゃ首が回らないとの症状が現れた(<証拠省略>)。
19,20歳のころ,扁桃腺炎の手術を受けた(<証拠省略>)。
平成5年1月,前年11月ころ上腹部痛により近医受診したところ,胃前庭部ポリープを疑われたとの経過を訴えてk病院を受診し,胃・十二指腸ファイバーの結果,慢性胃炎,十二指腸潰瘍と診断された。その後平成5年2月にも同病院に通院したが,体調は良く,食欲も良かった(<証拠省略>)。
イ 控訴人は,平成7年4月1日,訴外会社に就職したが,平成12年12月16日に就労したのを最後に休職し,平成13年12月31日をもって訴外会社を退職した。その間の欠勤は,平成7年が2.5日,平成8年が13日,平成9年が0日,平成10年が32日である。また,平成11年1月から平成12年6月までは,毎月19日(1月)から24日就労し,通常の勤務に服していたが,同年7月が4日,8月が9日,9月が0日,10月が6日,11月が10日,12月が6日就労したにとどまり,欠勤が重なった。しかし,平成11年と平成12年6月までは欠勤はなかった(<証拠省略>,弁論の全趣旨)。
ウ 控訴人は,平成7年9月1日,3か月前より咽頭痛がある,痰が出る,職場はほこりっぽいと訴えてh耳鼻咽喉科を受診し,慢性咽喉頭炎,急性鼻・副鼻腔炎と診断され,同月8日と同月11日に同耳鼻咽喉科に通院したほか,同月29日,左耳痛を,平成8年8月19日,鼻孔痛を,平成9年9月29日,痰,咳をそれぞれ訴えて同耳鼻咽喉科を受診したが,いずれも当日だけ治療を受けるにとどまった(<証拠省略>)。
控訴人は,平成8年10月21日,排尿困難や吐き気を訴えてw病院泌尿器科を受診した。同科医師は,控訴人について前立腺肥大の疑いとの所見を持ち,さらに,しんどいという訴えに対し,どうもよくわからないとのことで,同病院内科を紹介した。控訴人は,同月22日,同病院内科を受診し,主訴として全身倦怠感,不整脈を訴えた。その時,控訴人は,仕事が多忙で,夏ころからしんどさが増してきた,全身倦怠が強く,横になりたくなる,腰痛や肩凝りもある,歩いていると右へ右へ曲がるし,変なのでなどと述べ,さらに,肩凝りにXでもらった薬のみ飲んでいる,10月15日に会社の健診を受け不整脈を指摘されたと述べた。控訴人は,同月29日,同年11月5日,w病院の内科及び泌尿器科を受診し,内視鏡検査の結果,十二指腸潰瘍の瘢痕及び十二指腸炎が認められた。控訴人は,同日,立ちくらみを訴え,10月にめまいがあったと訴えた(<証拠省略>)。
控訴人は,X病院を,平成7年11月18日受診して右肩痛の増強を訴え,その後同年12月に2回,平成8年1月,同年2月,同年7月,同年8月に受診して右肩痛の訴えをしており,頸肩腕症候群の病名を付されていた。控訴人は,平成8年11月12日,3週間前に気分不良で立っていられなくなった,昨日(他院で)頭部CTを撮ったが問題なしと言われた,胸がつかえたような感じがあると訴えてX病院を受診し,さらに,立っているのがしんどい,目まいが3週間前にあったなどとも訴えた。同病院で神経学的な検査を各種されたがいずれも正常であった。同月14日左下腹部痛があり,疼痛が増強したことから,同月15日から同月25日まで,左尿管結石の疑いで同病院に入院し,同月19日左尿管結石と診断された。控訴人は,入院の際にはめまいも訴えており,入院中,数か月前から右前頭部に違和感があると訴え,頭痛,左耳痛,咽頭痛,腰痛を訴えることもあったが,排石があり,同月25日には軽快して退院した。控訴人は,平成9年2月21日左肩こりを訴えてX病院を受診し,吐き気,嘔吐も訴えていた。控訴人は,同年3月7日,3月21日にも同病院を受診したが,変化はなかった。同年9月29日にも同病院を受診し,以前と同じ肩凝りを訴えた(<証拠省略>)。
また,控訴人は,平成8年12月2日,i内科を受診し,左尿管結石,高脂血症と診断され,以後平成12年6月29日まで左尿管結石,高脂血症,全身倦怠感,大腸炎,急性上気道炎で通院し治療を受けた。
そのうち,全身倦怠感で通院したのは平成9年7月1日から同月12日までの間に6日であり,同月12日には咽頭炎もあった。また,大腸炎で通院したのは平成9年7月11日及び平成10年10月19日から同年11月24日までの間の5日,急性上気道炎で通院したのは平成9年2月17日及び平成10年11月6日から同月10日までの間に3日であった(<証拠省略>)。平成11年6月15日から同月17日までの3日間,腹痛,下痢,気分が悪い,疲れ,風邪などの症状を訴えて通院し,胃炎,尿管結石,慢性肝炎,高脂血症の疑いとの診断を受けた(<証拠省略>)。
エ 控訴人は,平成9年7月17日,訴外会社工場内で仕事中,シンナー入りの缶を持ち上げたところ,これを落とし,衝撃でシンナーが噴出して控訴人の顔面に当たり,右目に入り,痛みがあるとしてg眼科を受診し,右角膜化学傷と診断され,平成12年6月5日にも薬品が左目に入ったとして同眼科を受診し,左結膜化学傷と診断されたが,いずれも当日だけ治療を受けるにとどまった(<証拠省略>)。
オ 控訴人は,かかりつけのI医師から胃・十二指腸潰瘍,胃ポリープと診断され(<証拠省略>),平成10年7月9日,1か月前からの下痢とその悪化を訴えて○○町立病院を受診し,前日に目まいがあり,排尿困難を訴えた。控訴人は,同日より同月28日まで同病院に入院し,その間,胃内視鏡検査によって十二指腸炎と診断され,CT検査により十二指腸の壁がやや厚めであると診断された。入院中,控訴人は,下痢を7月9日から11日,14日,27日に,全身倦怠感を7月9日に,下腹部鈍痛を7月10日,15日から26日までそれぞれ訴えた。下腹部痛は7月18日以降軽快に向かった。そして,退院後も肝腎障害,下腹痛,胸部痛等を訴え,同年10月15日まで同病院に通院した。特に同月5日には,塗装作業中に胸が痛く息苦しくなったため,社長の車で来院し,レントゲン検査を受けた上,ニトロペインを処方された(<証拠省略>)。
カ 控訴人は,平成11年2月6日,胃の痛み,肩の痛みを訴えてI医院を受診し,慢性胃炎,肩関節周囲炎と診断されたほか,同年5月23日,吐気,嘔吐,下痢を訴えて同医院を受診し,咽喉頭炎,急性胃腸炎と診断され,同月25日にも同医院を受診し,肩凝りを訴えた。その後,同年12月11日にも同医院を受診し,慢性胃炎,右肩関節周囲炎と診断され,平成12年2月5日から同年7月7日まで毎月,種々の体調不良を訴えて同医院を受診し,咽喉頭炎,気管支炎,急性胃腸炎,慢性肝炎等と診断された。その間,同年7月3日には熱を伴う下痢を訴えたこともあった(<証拠省略>)。
控訴人は,平成11年6月12日にs医院を受診し,尿管結石,下痢症と診断され,同年12月29日にも同医院を受診し,咽喉頭炎と診断された(<証拠省略>)。
キ k病院内科・循環器科(以下「内科」という。)での診療について(<証拠省略>)
(ア) 控訴人は,平成12年7月10日午前4時30分,起床すると息苦しさと胸部の締め付け感があり,同病院を受診し,6月30日に塗装後気分が悪かったことなどを訴えた。同年7月10日から同病院に入院し,同日,心エコーを実施して,狭心症,心筋症,口内炎,十二指腸潰瘍との診断を受けた。控訴人は,入院時,1年前から仕事中(シンナー)に息が詰まる感じ及び胸部圧迫感があり,近医受診後放置していた旨告げたが,入院中は平成12年7月13日に時々胸が重苦しい感じがすると訴えたほか,胸部症状を訴えることはなく,そのほかには少し頭痛,全身倦怠感の訴えがあり,モニター上頻脈がみられた。k病院では,控訴人は性格的に気にしすぎるところがあり,医師から説明があると安心するようなので,コミュニケーションに気を配るなどの方針を立てた。控訴人は,同月17日に退院した(退院時の診断名は非特異的胸痛発作,肥大型心筋症,十二指腸潰瘍,(心筋緻密性障害疑い)とされた。)ものの,同日夕方より息苦しさが徐々に強くなり,胸部圧迫感を覚え,不整脈も自覚して同病院を受診し,心室性期外収縮が認められた。
(イ) 控訴人は,同月27日,31日にも受診していたが,同年8月2日午後3時24分ころ,訴外会社においてボンベをスプレーで塗装作業中に呼吸困難,胸部苦悶感が出現し,救急車により,同病院へ搬送された。このときの控訴人の状態は,SpO2は97%,喘鳴はなく,整脈で,心雑音も認められなかった。
(ウ) 控訴人は平成12年8月13日に左脇腹に急に痛みが出現したので,同月14日k病院整形外科を受診し,ヘルペスの可能性があるとされた。同月16日には頭痛とのどの痛みを訴えて同病院内科を受診し,気管支炎と診断された。その際,控訴人は,シンナーを使用しない職場に変わることで胸の症状は改善していると述べた。控訴人は,同月17日以降も,同病院の受診を継続し,同年9月6日には,同月1日ころから労作時に動悸があり,微熱,全身倦怠感があると訴え,脈は120/分であり,しんどさがあった。同月14日には脈が速く,だるく感じると訴え,その後も,胸痛,咳,痰,のどの痛み,下痢,動悸を訴えて受診し,平成13年2月21日には喘鳴があり,心拍は120回/分であり,心電図で洞性頻脈が認められ,同年3月1日のCT検査の結果等により,同月16日には慢性気管支・細気管支炎と診断された。これら症状は薬剤投与によって改善傾向にあった。控訴人は,同月26日,急に胸苦しくなったと訴えて受診し,仕事の日は茶色痰が多く,4年前から塗装の日は気分不良であったと述べた。このような経過の後,上記診断をしたJ医師は,被控訴人に対し,控訴人の症状について,原因不明の慢性気管支炎であると意見を述べた。
ク k病院神経内科・精神科(以下「神経内科」という。)での診療について(<証拠省略>)
(ア) 控訴人は,平成12年7月10日ころから胸が押さえつけられるような息苦しさがあると訴えていたが,内科で精査してもその原因が不明であることから,同科より紹介を受けて,同月31日,神経内科を受診し,神経症と診断された。その際,7月14日にカテーテルの検査をして後不整脈が出るようになり,医師に腹が立つこと,1か月以上前から左半身をだるく感じること,仕事において有機溶剤を使用しており,臭いが気になること,仕事が忙しくストレスが溜まることを医師に申し出ている。
(イ) 同年8月以降も,左半身違和感,胸部疼痛,頭痛,体が疲れやすい,物忘れがひどい,背中が痛い,のどの炎症,いらいら,右手指痺れ感,全身倦怠感,微熱等を訴えて同科を受診し,同月21日には自律神経失調症,慢性疲労症候群と診断された。
(ウ) 同月29日以降も控訴人は同科を受診し,のどの痛み,わき腹痛,胸の辺りの動悸,締め付け感,肩こり,左半身のだるさ,痛み,微熱,頭痛,イライラ等を訴え,同年12月15日にはパニック障害であると診断され,同月19日には,自律神経失調症,慢性疲労症候群の病名で,胸部疼痛,動悸等の症状が増悪傾向を示していることから2週間の自宅療養が必要であると診断された。
(エ) 控訴人は,その後も,めまい,どうき,しんどい,興奮したとき頭がわれるように痛い,疲れやすい,吐き気,頭痛等の症状を訴えて同科の受診を継続し,平成13年1月5日,控訴人は,仕事のことを考えると不安になる,職場に嫌な人が大勢いると述べ,同月9日には調子が悪い旨,頭痛,動悸,頻脈等を訴えて,うつ病の薬であるトレドミンを処方された。同月15日,トレドミンが少し効果があると述べたが,脈がときどき速くなる,頭痛がよく出ると訴えた。担当医師は,同科でのこれまでの診察において,仕事上,家庭のストレスが多いようであり,控訴人は,体質又は神経質のために少量の向精神薬で副作用の訴えがある旨カルテに記載している。
(オ) 控訴人は,平成13年1月24日から同年2月7日まで,薬剤処方と休養による神経症(パニック障害)治療のため同科に入院し,心身の安静に努め,トレドミン等の投与を受けた。控訴人は,入院時,動悸,胸部違和感,全身倦怠感,イライラ感,頭痛を訴えていたが,血液検査,胸部エックス線検査,心電図検査,脳波検査を行ったものの特に異常は認められず,入院中は症状は落ち着いており,頭痛や胸部症状もかなり改善した。退院時の診断名は適応障害であった。このころ,控訴人は,動悸,胸痛が続いていたことから,「胸のまん中に刺し込む痛みがあってその後連脈になって心配になる。」,「胸のことが気になって仕事ができそうにない。」,「心臓は何もよくなっていない」と訴えていた。
(カ) 退院後の平成13年2月14日,控訴人は,退院後ずっと咳が強く,時々心臓がどきどきし,胸が息苦しく,締め付けられる感じがすると訴えて同科を受診した。
(キ) 控訴人は,平成13年2月19日以後も同年5月8日まで,同科の受診を続け,咳,痰,不眠,胸内苦悶,少し動くと体がしんどい,動悸等の症状を訴えていた。
ケ k病院泌尿器科,外科,耳鼻咽喉科,整形外科での診療について(<証拠省略>)
控訴人は,平成9年7月25日に,同月24日から左脇腹痛があるとして同病院泌尿器科を受診し,左尿管結石と診断された。
控訴人は,平成12年8月18日,足の付け根が仕事をすると腫れて痛むと訴えて同病院外科を受診し,左大腿ヘルニアと診断された。
控訴人は,平成12年8月13日ころから,咽頭痛,頭痛,わき腹痛等を訴えて,同病院耳鼻咽喉科を受診し,急性咽喉頭炎と診断され,同年9月13日まで診療を受けた。
控訴人は,平成12年8月14日,左胸痛を訴えて,同病院整形外科を受診し,左胸部痛と診断され,同月18日まで診療を受けた。
コ l病院での診療について(<証拠省略>)
(ア) 控訴人は,平成12年9月18日,喉の痛み,左胸痛を訴えて同病院を受診し,同日以降,頚部MRI,胸部CT,心エコー,理学的検査などの検査を受け,後頸部を押さえると圧痛があり,頸部C5/6に軽度椎間板ヘルニアが認められたほかは,特に異常はなかった。同年10月3日,神経内科K医師は,控訴人の症状について,控訴人が15歳か16歳のころ遭遇した交通事故によるむち打ち症の後遺症に起因する,労作時の頚部,肩への負担が増したことによる,気分の悪化があるようだ,頚部の圧痛が認められるとして,外傷性頭頚部症候群と診断し,頚部の筋肉の発達状態などからシンナーによる故障とは考えられない旨の意見を示した。
(イ) 平成12年10月10日,L医師は,控訴人の症状について,不安神経症,心臓神経症,胸痛発作と診断し,同月31日,「職場でのシンナー吸引に対する不安が強くシンナーを吸引しなくても良いような職場への転換をしてもらうことが望ましい」との意見を示した。控訴人は,同日,左肩甲骨ないし右肩ないし左前胸部の痛みを訴え,左肩のこりは以前よりあった,のどの違和感がある,後頭部が痛い,塗装の仕事の後気分が悪くなる,ビールを飲むと吐き気がすると告げているが,ほかに何らかの物質の曝露による症状は告げていない(<証拠省略>)。
(ウ) 控訴人は,平成13年4月2日と同月9日,同病院内科のM医師の診療を受けたが,それまでに,同病院で行った検査に加え,M医師が行った検査も併せると,塵肺検査,心臓超音波検査,心電図検査,CT検査,MR検査,血液検査,細菌検査,尿検査,血液ガス分析,生化学検査等の検査を行っていたが,控訴人の症状の原因については明確にはならず,ただCT検査(同年3月1日検査分)で軽度の気管支壁の肥厚が認められていたので,気管支炎,細気管支炎と診断された。M医師は,慢性気管支・細気管支炎の所見があることから,塵肺がその原因となっていると診断できれば労災と認定することが可能となるところ,胸部X線写真上は塵肺と診断できないので,肺の組織の一部を採取して塵肺の原因物質が肺内にたまっているかどうか調べるために胸腔鏡補助下肺切除手術(VATS)を実施する必要があると考えた。ただ塵肺と診断がついても治療法がないため,M医師は,同手術の適応があるかどうか検討してもらうため同病院外科に紹介したところ,同病院外科のT医師は,控訴人に対し,手術の術式と危険性を説明し,採取できる肺組織の量がごく少量なので塵肺の診断がつかない可能性も高いが経気管支肺生検(TBLB)をまず実施し,診断がつかなければ胸腔鏡補助下肺切除手術(VATS)をするという話になった。M医師は,次回の診察を平成13年4月16日に予約したが,控訴人が同日受診しなかったので,M医師は,控訴人が胸腔鏡補助下肺切除手術(VATS)や経気管支肺生検(TBLB)を拒否したと考えた(証人M)。なお,同月2日付けk病院医師の紹介状には,咳,痰に加え,動悸,頻脈がある旨記載されていたが,M医師の診療を受けた際の控訴人の訴えは,主として咳,痰を中心とした呼吸器の症状であった。また,S医師が診察するまでに,控訴人には化学物質過敏症の疑いがもたれていたことから,看護師その他のl病院職員は,後記M基準とほぼ同旨の内容が記載された文書を控訴人に交付し,同文書に控訴人からの聴き取りにより,主症状については,持続あるいは反復する頭痛が時々あり,筋肉痛あるいは筋肉の不快感が胸部にあり,持続する倦怠感・疲労感があること,副症状については,咽頭痛,集中力・思考力の低下・健忘,興奮・精神不安定・不眠があり,下痢が時々あり,指先の感覚異常があったが仕事をしなくなってよくなった旨記載され,M医師はこれに基づいて診察し,化学物質過敏症の病名をカルテに記載している(<証拠省略>,証人M)。
(エ) 控訴人は,平成12年10月3日,同年11月16日に,同病院神経科を受診し外傷性頭頚部症候群と診断され,同年11月9日に同病院泌尿器科を受診し,左精索静脈瘤と疑われるが静脈の怒張はなく痛みも定型的ではないので否定的と診断され,同年9月21日から同年12月14日まで同病院耳鼻科を受診し,初診時には喉と舌の下の痛みを訴え,口内炎,急性喉頭炎と診断され,平成12年11月9日から同年12月1日まで受診した同病院麻酔科において,左鼡径部痛について症状からは内臓牽引痛のようであるが,何らかの器質的な原因がありそうであるとされ,また,腹痛については心因性疼痛と診断され,同年11月9日に同病院外科を受診し,左鼡径部痛と診断され,同年10月3日には同病院整形外科を受診した。控訴人の痛みには向精神薬が一定の効果を示していた。同年11月ころ,控訴人の大腿部痛及び下腹部痛については,薬物チャレンジテストでモルヒネでは痛みに対して効果がなく陰性であったが,リドカインでは,大腿部痛には痛みが和らぎ陽性,下腹部痛には効果がなく陰性であり,チオペンタールで大腿部,頭部,腹部の各痛みに効果があり陽性であった。薬物チャレンジテストでは,最初の2回は生理食塩水を投与し,その後薬剤を投与するところ,控訴人は,リドカインテストとチオペンタールテストでは,2回目の生理食塩水の投与で,既に痛みが和らいでいた。これについて,麻酔科医師は,モルヒネの効果がないことから侵害受容性疼痛ではなく,神経症又は心因性の疼痛が強く疑われると判断し,控訴人には侵害受容性疼痛ではなく神経の機能の異常による痛みである旨説明した。また,そのころ,控訴人は,病院の各診療科を転々とさせられ,控訴人の症状についてどの科でも異常はないと指摘されることに立腹していた。
サ 控訴人は,平成12年11月27日,k病院における診療経過及び胸痛,胸のしめつけ感,胸の不快感,不整脈を訴えて,心臓病センターf病院(以下「f病院」という。)を受診し,同病院において検査を受けたが,担当医師からもう一度k病院の医師に十分な説明を受けるように言われた。そのため,控訴人は,同病院循環器科を受診し,平成12年12月12日,同病院循環器科N医師の心筋症疑い,不安神経症,十二指腸潰瘍との紹介を受けてf病院内科を受診し,同病院で経過を見ていくこととされた。控訴人は,同病院における平成12年12月12日の受診の際,安定剤を飲むとボーッとして車の運転ができないと述べている(<証拠省略>)。
シ c病院での診療について(<証拠省略>,控訴人本人)
(ア) 控訴人は,平成13年4月18日,頭痛,胸痛,しめつけ,のどの痛み,痰が朝に大量に出る,筋肉痛,左足付け根の関節痛,下痢,腹痛,精神不安定,不眠,集中力低下,指先感覚異常,脈が速い等を訴えて同病院を受診し,D医師の診療を受けた。同医師は,控訴人の症状を気管支喘息,自律神経失調症,気管支炎と診断したほか,化学物質過敏症の疑いもあると診断した。この間,平成13年4月の段階で,控訴人は,l病院のM医師及び上記D医師から化学物質過敏症の病名を告げられ,D医師が症状を全部聴き入れてくれ化学物質過敏症について根気よく治していこうと言われ,少し希望を感じた(<証拠省略>,控訴人本人)。
(イ) 控訴人は,平成13年4月25日から平成16年3月28日までのc病院での受診時,動悸,頻脈,胸部痛,頭痛,痰,指先感覚異常,左胸背部痛,肩凝り,左右の手指の痛み,咽頭痛,左鼡径部痛,不眠,左脇腹痛,左下腹痛,左大腿部関節痛,左膝痛,腰痛,倦怠感,息苦しさ,手足等関節痛,口内炎,気分不良,下痢,足裏の痺れ,疲れやすさ,味覚異常等があり,各症状がその日によってそれぞれ改善と悪化を繰り返していること,野焼き・ゴミ焼きをされると息苦しくなり,入浴剤・漂白剤・石けんを使用すると息苦しさや痛みを覚えたり気分が悪くなったりし,たばこやオーデコロン等の臭いにより下痢になるなどするが,空気がよいと調子が良くなること等を訴えた。
(ウ) 同病院においては,胸部レントゲン,心電図,尿検査,血液検査,生化・免疫検査,血清検査,肺機能検査,血清たんぱく検査,細胞診検査,一般細菌検査,アレルギーIgE検査,凝固化学検査,経気管気管支肺生検,CT検査,腹部超音波検査,心臓超音波検査等の検査が控訴人の受診期間中に行われた。このような検査を行うも,D医師は,控訴人の症状について,気管支炎,自律神経失調症と診断しても,平成13年11月6日段階ではその原因については不詳であるとした。
(エ) D医師は,控訴人の症状について,m病院臨床環境医学センターO(以下「O医師」という。)に対し,照会をしたところ,平成14年2月22日付けで同人は,控訴人の症状は典型的な化学物質過敏症と思われると回答した。
(オ) D医師は,平成14年6月12日及び平成15年2月15日,和気労働基準監督署長から求められた控訴人の症状に係る意見書の提出につき,控訴人の症状は化学物質過敏症であるとの意見書を提出した。
ス 控訴人は,平成13年4月20日,化学物質過敏症,頻脈,痰,息苦しさを訴えて,n病院を受診し,肺機能検査を受け,気管支喘息,じん肺と診断され,平成13年4月27日の受診時には,一般細菌検査,抗酸菌検査,内視鏡検査,気管支鏡検査,病理組織検査,細胞検査,気管支肺胞洗浄検査を受けた(<証拠省略>)。
セ d病院での診療について(<証拠省略>)
(ア) 平成13年10月29日,D医師は,控訴人の症状について化学物質過敏症を疑い,控訴人にd病院アレルギー科のD医師を紹介し,同医師に化学物質過敏症か否かの診断確定のため曝露試験を依頼した。
(イ) 控訴人は,平成13年11月2日,同病院を受診し,同日,問診,多数の質問への回答をした。控訴人は,上記質問に対する回答において,主な症状として,胸や背中が痛み息苦しくなる,関節痛(痛む場所が変わる),ガスや化学物質が焼ける煙の臭いで左下腹が痛くなり下痢になる,頭痛,微熱,味覚異常,手指のしびれ感を挙げるとともに平成7年9月ころにこれらが発現したと述べ,車の排気ガス,ペンキやシンナー,コールタールやアスファルト臭,マニキュア,除光液,ヘアスプレー,新車の臭いに曝露されると動けなくなるほどの症状(10点満点で10点)が起き,殺虫剤や除草剤,消毒剤や漂白剤に曝露された場合にも強い症状(同8点)が生じると回答したほか,曝露された場合に中等度の症状(10点満点で5点)が生じるものとして,香水や芳香剤(同5点),タバコの煙(同4点)を挙げた。控訴人は,平成13年12月17日から同月21日まで同病院の環境アレルゲンクリーンルームに入院し,血液検査,生化学・免疫学検査,血液ガス検査,血沈検査,アレルギー検査,呼吸機能検査,抗酸菌塗抹検査,抗酸菌検査,一般細菌検査,心電図検査,負荷テスト等を受けた。血液検査(CBC,肝腎機能,血液ガス),心電図,呼吸機能検査等では明らかな異常はなかった。控訴人は,化学物質過敏症,気管支喘息(疑)と診断された。
(ウ) 本件負荷テストについて
a 負荷テストは,クリーンルームにおいて,極めて微量の化学物質を15分間吸入負荷する,対照として化学物質を含まない空気を15分間吸入する,両者の負荷はランダムに行われ,被検者には知らされないものである。
b 平成13年12月18日,控訴人に対し,ホルムアルデヒドを使用した負荷テストが行われ,控訴人は,ホルムアルデヒドが含まれていない空気の場合,吸入から2分から5分に咳が数回,5分から10分に少し胸,頭が重い感じがあったが,そのほか明らかな症状を示さなかった。ホルムアルデヒド40ppbを含有する空気に対しては吸入2分後より胸が少し重く,咳があり,5分後より頭重感,左手と胸,頭と目の違和感,10分後より全身倦怠感,息苦しさ,咳,頭重感,手の違和感,胸苦しさ,首の凝りが出現した。
同月19日,控訴人に対し,キシレン80μg/m3を使用した負荷テストが行われ,控訴人は,キシレンが含まれていない空気の場合には検査前から頭が重く,検査中も変化がなく反応がなかったが,キシレンを含有する空気に対しては,吸入2分後より胸が重く,頭と目の奥の違和感,頭痛,咳,痰が出現し,5分後より,頭の違和感,胸苦しさ,左手の痛み,胸やけ,においを感じる,10分後より,咳,頭痛,右手の違和感,胸苦しさ,首と肩の凝りを自覚した。
同月20日,控訴人に対し,トルエン80μg/m3を使用した負荷テストが行われ,控訴人は,トルエンが含まれていない空気に対しては検査前から少し頭が重く,検査中も変化がなく症状を示さなかったが,トルエンを含有する空気に対しては,開始直後より咳が出現し,2分後より胸の重さ,咳,頭痛があり,5分後より胸と肩の重さ,咳,頭痛があり,10分後より左胸の重さ,右肩と右指の違和感,首と体全体の重さ,咳,発汗が認められた。
c なお,本件負荷テストにおいては,ホルムアルデヒドは厚生労働省の環境基準(濃度指針値)の2分の1(40/80)を含有する空気が,トルエンは環境基準の3分の1弱(80/260)を含有する空気が,キシレンは10分の1弱(80/870)を含有する空気が用いられ,また,被検者は,当日テストする化学物質名を知っているが,何回目の空気に含まれているかは知らず,被検者のみブラインドで行われた。しかし,その後,学会資料及び議論を踏まえ,環境基準の10分の1を含有する空気を用いる検査が追加され,被検者のみではなく,検査者も含めてブラインドとするダブルブラインドで行われるようになっている(<証拠省略>)。この二重盲検法による場合に,指針値の半分以下というごく微量のホルムアルデヒドの曝露と症状の発現との間に関連性は認められなかったとの実験報告がある(<証拠省略>)。
(エ) d病院アレルギー科のE医師は,本件負荷テストで,ホルムアルデヒド,キシレン,トルエンに対して過敏であることが認められたとの見解を有し,控訴人に対し,平成14年1月18日付け病状説明書により,控訴人の場合,臨床経過と本件負荷テストの結果より,化学物質過敏症としてよい旨を説明し,また,D医師は,D医師に対し,E医師との連名による同年2月1日付け文書において,本件負荷テストの結果を報告した。
控訴人は,上記病状説明を受けたころから,E医師の助言により,外出時にはマスクを着用するようになった。同マスクには酸素を出す装置が付いており,店舗に入るときなどにこれを使うこともある(弁論の全趣旨)。
(オ) D医師は,平成14年7月11日,和気労働基準監督署長から求められた控訴人の症状に係る意見書の提出につき,控訴人の症状は化学物質過敏症であるとの意見書を提出した。
D医師は,その後,平成17年10月28日,さらに意見書を提出して,化学物質過敏症の診断については現在でも確立されているとは言い難く,負荷テストも絶対的な診断の基準になるものではなく未だ研究的領域にあるもので,負荷テストのみで診断できるものではなく,d病院では負荷テスト自体は無料で行っていること,平成14年当時判断のよりどころとしていた後記コンセンサス1999も,現在に至るまで診断基準として普遍性を持ったものとはなっていないこと,そのため,診断基準が確立していないことから,平成14年当時と異なり,現在では,d病院では化学物質過敏症の確定診断は実施していない旨記載した(<証拠省略>)。
ソ 控訴人は,平成19年7月4日,e病院において,重心動揺検査及び指標追視検査を受けた。
重心動揺検査の結果は,軌跡長が開眼で117.36(基準値63.9),閉眼で180(基準値62.7),外周面積が開眼で9.77(基準値2.906),閉眼で13.54(基準値4.159)であった。上記結果について,Q鑑定人は,軌跡長や外周面積異常があり,静的対平衡異常が示唆される結果であるが,この結果だけで平衡機能障害の有無の評価や局在診断(中枢性や末梢性など)を行うことは困難であると判断し,O医師は,実測値が基準値を大幅に超えていることから平衡機能障害が明瞭に示されていると判断し,j大学神経内科教授のR医師(以下「R医師」という。)は,軌跡長や外周面積が平均+2SDを超えており,平衡異常が示唆されるが,前庭性障害を示唆する前後方向への動揺が際立つ所見がなく,感覚性失調を示唆するロンベルグ率の異常もみられないことから,Q鑑定人の判断を支持している。もっとも,前後径は開眼で5.65(基準値2.829),閉眼で7.17(基準値2.946)であるから,異常がある。
指標追視検査の結果について,Q鑑定人は,基線の揺れは多少認めるものの再現性がなく鋸歯状波形とは認められない,最後の方では比較的スムーズに追視できていると判断し,O医師は,水平・垂直方向とも鋸歯状波形が認められ,眼球追従運動障害があると判断し,R医師は,Q鑑定人の判断を支持している。
控訴人は,平成19年7月4日,問診を受け,関節痛,耳鳴り,下痢,頭痛,肩こり,呼吸困難,咳,痰,目の痛み,頭がボーとする,足がふらつく,胸痛の症状を挙げた。しかし,Q鑑定人が認めた最も顕著な症状は咳嗽であったが,問診票記載のために考えている間にはほとんどこれを認めなかった。
(<証拠省略>,当審証人Qの回答書,Q鑑定書)
タ 控訴人は,平成21年7月15日,m病院を受診し,同日,赤外線瞳孔検査,重心検査,眼電位図検査を受けた。
赤外線瞳孔検査の結果,控訴人に自律神経失調のあることが示された。
重心検査の結果は,総軌跡長は開眼で255.37cm,閉眼で376.76cm,ロンベルグが1.48,外周面積は開眼で12.62cm2,閉眼で18.81cm2,ロンベルグが1.49であった。上記結果について,O医師は,総軌跡長は一般に開眼で70cm前後,閉眼で100cm以下であり,外周面積は一般に開眼で4cm2以下,閉眼で5cm2以下であること,ニュートラルネット解析で異常が示されていることから明瞭な平衡機能障害があると判断し,Q鑑定人は,軌跡長や外周面積異常とロンベルグ率が大きくないことが示されているが,基本的にはこの結果だけで平衡機能障害の有無の評価などはできないと判断した。
眼電位図検査の結果について,O医師は水平方向はほぼ問題ないが,垂直方向の滑動性追尾運動においてうまく追従できておらず,階段状も混入している異常があると判断した。
控訴人は,平成21年7月15日,問診を受け,現在の自覚症状として,咽頭痛,咳嗽,頭痛,ふらつき,胸痛,倦怠感,腹痛,下痢,眼の痛み,嗅覚過敏,呼吸困難を挙げるとともに平成7年9月にこれらが発現したと述べ,タバコの煙,殺虫剤や除草剤,ペンキやシンナー,消臭剤や漂白剤・洗剤,特定の香水や芳香剤,マニキュア,除光液,ヘアスプレー,新しい絨毯や,カーテン,新車の臭いに曝露されると動けなくなるほどの症状(10点満点で10点)が起きると回答し,自動車の排気ガス,ガソリン臭,コールタールやアスファルト臭に曝露された場合にも強い症状(同8,9点)が生じると回答している。
(<証拠省略>,当審証人Qの回答書)
チ 控訴人には,ピリン系薬で発疹が出るアレルギーはある(<証拠省略>)し,ダニ,ハウスダストへのアレルギーは陽性であるが,病態に影響を及ぼすほどのものではなく(Q鑑定書),そのほかにはアレルギー疾患はなく,アレルギー体質でもなかった(<証拠省略>,Q鑑定書)。
控訴人は,平成10年6月居宅を新築して同年8月26日引渡を受け,その後入居した。当該居宅のメーカーは,ホルマリンを含まないか濃度の低い材料等を使用し,換気性能を向上させた仕様としている(<証拠省略>)。控訴人には2人の同居家族がいるが,控訴人以外に控訴人と同様ないしシックハウス症候群・化学物質過敏症が疑われる症状の者はいない(<証拠省略>)。
控訴人は20歳ころから平成12年9月ころまでほぼ毎日ビール350ないし500cc/日程度の飲酒を継続していた(<証拠省略>)。しかし,その後平成13年4月ころ以降はビール半杯/1日を週2回程度に抑えるようにしている(<証拠省略>)。また,控訴人は,煙草を20歳ころから平成12年11月ころまではほぼ毎日3ないし5本/日(ただし,平成12年7月ころは10本/日)吸っていたが(<証拠省略>),平成13年4月ころには1日1,2本程度とほとんど吸わなくなり,同年11月ころには吸わなくなった(<証拠省略>)。
(5) 化学物質過敏症について(<証拠省略>)
ア 化学物質過敏症は,米国でランドルフが1950年代に環境病という名称で症例等を報告し,その後米国でカレンが1987年に多種化学物質過敏症(MCS)として提唱しており,欧米でハウス内疾患も含めて用いられ,日本では当初シックハウス症候群に含められていた(<証拠省略>)。低用量化学物質の曝露による健康障害の議論の出発点となったカレン提唱のMCS(多種化学物質過敏状態)に関係し,石川哲博士(以下「石川博士」という。)により化学物質過敏症として紹介され,わが国において用いられてきた概念である(<証拠省略>)。
定義づけとしては,①後天的疾患であり通常は大量の化学物質摂取後に多い,②症状は多臓器性であり,ほとんどの症例が神経症状(含む自律神経症状)を有する,③自己に有害であるという物質に再接触すると発症する傾向がある,④症状は1つからやがて拡大し過敏を示す化学物質の数も増大する傾向がある,⑤反応は通常安全とされる量の1/100位までであることが多い,⑥神経系,感覚器系,呼吸器系に症状が出やすい,⑦本症以外ほかに病気を有することは極めて少ない,以前は健康であった人が罹患しやすい,⑧女性に多く特に40~50歳代に多い(ローゼンストック及びカレン1998)(<証拠省略>),あるいは①証明可能な環境由来の曝露,傷害,又は疾病に関連して発現する後天性の障害であり,②複数臓器に症状が発現し,③原因と思われる刺激に反応して症状が再発及び軽減し,④化学構造と中毒作用が多様な化学物質の曝露により症状が誘発され,⑤(低レベルであるが)証明可能な化学物質曝露により症状が生じ,⑥非常に低い,すなわち,人体に有害な反応を起こすことが知られている平均曝露量より数標準偏差値以上も低い曝露により症状が生じ,⑦広く使われているいずれの身体機能検査でも症状が説明できない症状である(カレン)(<証拠省略>)とされたりしている。上記カレンの定義は,平成12年当時,多くの国々で利用されている(<証拠省略>)。
多種化学物質過敏症(MCS)の定義かつ診断基準として,①慢性疾患であり,②症状は化学物質の曝露で再現性がある,③通常安全と考えられているよりも低レベル(少量ないし低濃度)の化学物質への曝露に反応を示し,④関連性のない多種類の化学物質に反応を示し,⑤原因物質の除去で症状は改善又は回復し,⑥症状が多くの器官・臓器にわたっているものとされたものがあり(米国政府(EPA)及び米国医師会(AMA),米国消費者連盟(CPS)の合意事項(1999コンセンサス)。以下「合意事項」という。),これは米国等で一般に受け入れられていると言われる(<証拠省略>)が,標準的な基準として広く認識されるには至っていないとの認識もある(<証拠省略>)。
日本においては,MCS(多種化学物質過敏症,化学物質過敏症症候群)の定義として,「微量化学物質の慢性接触により生じた生体の自律神経,中枢神経,免疫系,内分泌系を中心とする過敏反応の症候群」(石川博士。<証拠省略>),あるいは,「最初にある程度の量の化学物質に曝露されるか,あるいは低濃度の化学物質に長期間反復曝露されて,いったん過敏状態になると,その後極めて微量の同系統の化学物質に対して過敏症状を示す者」と定義付けられたり(石川博士。<証拠省略>),過去にある程度大量の化学物質に接触,曝露され何らかの症状がみられた人が,次回からその物質及び累次物質でも何らかの症状を呈し,その後は極微量でも似たような症状がみられる(飯倉祥治他)と定義されている(<証拠省略>)。
最初にある程度の量の化学物質に曝露されるか,あるいは低濃度の化学物質に長期間反復曝露されていったん過敏状態になると,その後極めて微量の同系統の化学物質に対しても過敏症状を引き起こす状態と定義する者も多い(<証拠省略>)。その場合,何か1つの化学物質により罹患しても,その後他の物質で症状が出てくるというのも診断の資料となる(<証拠省略>)。
しかし,これを独立した疾患として認めるべきかどうか,その概念に取り込むべき症例の範囲について様々な議論があり,1996年2月にベルリンで行われた国際ワークショップでは,既存の疾病概念では説明不可能な環境不耐性の患者の存在が確認されるが,化学物質過敏症という病名が証明されていないのに環境中化学物質との因果関係を示していること,臨床的に定義された疾患でないこと,認められた病態を基盤としておらず,有用な診断基準もないとの理由から(<証拠省略>),「本態性環境非寛容症」との概念を提唱し,その定義を,①複数の反復する症状を示す後天性の疾患である,②一般の人では問題とならない多様な環境因子への曝露と関連する,③既知のいかなる医学的,精神科学的及び心理学的疾病では説明できないものとした(<証拠省略>)。また,特発性環境不耐症との名称もある(<証拠省略>)。
さらに,日本の環境庁の委託に基づく研究班の平成12年2月報告では,仮に「本態性多種化学物質過敏状態」という名称を使用し,その発症機序として,自律神経系や中枢神経系に異常をきたし,心因及び心理的ストレスが関わり,それらが引き金となって免疫系や内分泌系その他様々な臓器にも症状が及ぶ病態と考えるとしている(<証拠省略>)。
このように,名称や一義的な定義が確立された概念ではなく,世界的に診断基準が確立されてもいない。統一された確固たる基準はない(<証拠省略>)。さらに,かかる病態の存在について否定的で,心因反応で精神疾患としての身体表現性障害であるなどの見解も示されている(<証拠省略>)。
このように,化学物質過敏症とは,1つの疾病概念であるが,その原因としては,化学物質要因のほかに,心理要因,社会的要因を加える者など,様々な意見があり,疾病概念としても確立していない。さらにこれらのことが曖昧であることから,診断基準,鑑別診断が明確になっておらず,国際疾病分類(ICD-10)にも登録されていない。したがって,化学物質過敏症は,研究段階の疾病であり,国際的に公認された疾病ではない(<証拠省略>)。
なお,化学物質の関与が明確でないにもかかわらず,臨床症状と検査所見の組み合わせのみから「化学物質過敏症」と診断される傾向があったり,通俗的には,有機溶剤等の臭いに対し,敏感であると主観的に感じている者などが「化学物質過敏症」と自称することがあるなど,「化学物質過敏症」は医学的コンテキストからは逸脱した社会的俗称としての側面を帯びた用語としてしばしば使用されている状況にある(<証拠省略>)。
しかし,現時点においては,発生機序の如何にかかわらず,環境中の種々の低濃度化学物質に反応し,非アレルギー性の過敏状態の発現により,精神・身体症状を示す患者が存在する可能性は否定できないと考えられている。ただし,MCSの症状を有すると指摘される患者の中には,他の疾患が見過ごされている患者が少なからず存在することも否定できないと考えられ,これらを区別する臨床検査法や診断基準の確立,治療法及び対応策の確立に向けた更なる検討が必要と言われている(<証拠省略>)。また,平成15年において,化学物質過敏症は,その概念が近年徐々に確立されつつあるとの認識が示されている(<証拠省略>)。
イ 化学物質過敏症の病因については,比較的大量の化学物質に曝露される,あるいは身体に影響が顕在化しない低濃度の有害化学物質に繰り返し長期に曝露されると,人体は自律神経失調やアレルギー症状に極めて類似した身体の反応を示すことが考えられている(<証拠省略>)。化学物質過敏症は未解明の部分が多いが,アレルギー性と中毒性の両方にまたがる疾患,あるいはアレルギー反応と急性・慢性中毒の症状が複雑に絡み合っている疾患であると考えられる(<証拠省略>)。
発症機序として,かなり大量の化学物質に曝露し急性中毒症状が発現した後か,長期にわたり曝露した場合,かなり少量の化学物質に曝露して症状を呈する。最初の曝露により,低濃度の化学物質曝露に対して寛容を失い,以前は無反応であった化学物質曝露により症状を呈するようになると考えられている(<証拠省略>)。また,仮説として,最初の化学物質の刺激に対して単純な刺激症状を示す警告期のあと,刺激が持続すると次第に適応・馴化がおこり症状が隠蔽されてしまうマスキング期を経て,刺激が持続すると適応能力が疲弊して種々の異常反応を示す期間疾病期となると言われている(<証拠省略>)。他の仮説として,刺激やストレスにさらされると,その刺激やストレスに対する感度が徐々に時間の経過にしたがって亢進する現象があるという。さらに,心因的機序を唱える者もいる。化学物質の曝露が必要条件であるが,心身相関,すなわち精神的葛藤や行動様式が体の状態に影響を与えて病気を作り,逆に体の状態が心の働きに影響を及ぼすことが発症のメカニズム及び発症後の病態にも成立しているとの説がある(<証拠省略>)。化学物質過敏症の発症経過としては,徐々であるものが多く,多臓器症状を示し,症状は臓器別にみると多臓器にわたり,頻度別では集中力の低下,不眠,健忘などの精神または神経症状が6割以上の例にみられ,関節痛,筋肉痛,筋肉の不快感が5割位,咽頭痛や微熱などの炎症症状,便秘,下痢・腹痛などの消化器症状も4割程度の例でみられる。このように自律神経症状,精神神経症状を呈するものが多い(<証拠省略>)。
化学物質過敏症の症状としては,眼症状,鼻症状,呼吸器症状が上位であるが,頭痛が上位にくる報告も多い。系統的に分けると,①自律神経系を中心にした精神・神経症状,②粘膜症状,③気道症状,④消化器症状,⑤循環器症状など,きわめて多彩な症状がみられる。①自律神経症状としては,発汗異常,頭痛,疲れやすいなどが主な症状で,精神的症状としては,不眠,集中力低下,うつ状態,思考力低下,イライラなどが主なものである。②粘膜症状としては,目のチカチカする感じ,流涙,鼻汁,鼻出血,のどの痛みなどであり,③呼吸器症状としては,咳,喘息患者の症状悪化などが多い,④消化器症状としては,下痢,悪心・嘔吐,嘔気,⑤循環器症状としては,動悸が主な症状である(<証拠省略>)。また,主な症状として,①内耳障害にめまい,ふらつき,耳鳴り,②気道障害に咽頭痛,口渇,③循環器障害に動悸,不整脈,循環障害,④免疫障害に皮膚炎,喘息,自己免疫異常,⑤自律神経障害に発汗異常,手足の冷え,頭痛,易疲労性,⑥精神障害に不眠,不安,鬱状態,不定愁訴,⑦眼科的障害に結膜の刺激症状,調節障害,視力障害,⑧消化器障害に下痢,便秘,悪心,⑨運動器障害に筋力低下,筋肉痛,関節痛,振せんが挙げられている(<証拠省略>)。
症状を誘発したと考えられる環境化学物質は枚挙にいとまがない程多いが,原因物質の同定は困難であり,量反応関係を検討した報告はない。主な原因物質として,ホルムアルデヒドは粘膜,呼吸器への刺激が強く,シックハウス症候群の主な原因としても取り上げられている。シンナーの主成分であるトルエン,キシレンなどの有機溶剤は粘膜刺激作用と麻酔作用があり原因物質と考えられる。有機リンは殺虫剤に含まれ,原因になると考えられる(<証拠省略>)。また,単一の化学物質だけではなく,多種の化学物質が関与すると報告されているが,現実には,症状が環境中のごく低濃度の化学物質の曝露により誘発されたと客観的に判断できる場合はごく限られているとの見解がある(<証拠省略>)。
鑑別診断を要する疾患としては,嗜癖,アレルギー,中毒があるが,化学物質過敏症はこれらと共通点を持っている。また,精神疾患のパニック障害やうつ病,不安障害,心因性疾患,外傷性ストレス障害,慢性疲労症候群,線維筋肉痛,シックビル・シックハウス症候群との関連ないし類似が指摘される。
ウ そして,臨床の現場においては,厚生省研究班(1998年)ないし石川博士らが提唱した下記の診断基準(以下「石川基準」という。)に照らして「化学物質過敏症」との名称を用いた診断をしており,問診票や眼球運動検査,生理機能検査,視診,呼吸機能検査,血液生化学検査,アレルギー検査,指標追跡検査,不安検査,眩暈検査,環境調査等を適宜行い,他の疾患がないか,病気の原因として考えられることは他にないかなどを考慮しながら,総合的に判断するものとされている(<証拠省略>,原審証人Q,当審証人Qの回答書,Q鑑定書)。
記
他の慢性疾患を除外した上で,次に掲げる主症状,副症状及び検査所見のうち①主症状2項目及び副症状4項目が陽性である場合,または,②主症状1項目,副症状6項目及び検査所見2項目が陽性である場合に化学物質過敏症であると診断する(<証拠省略>)。なお,化学物質過敏症は非アレルギー性と考えられる(<証拠省略>)が,アレルギーがあっても化学物質過敏症である場合は存在する(<証拠省略>)。
【主症状】
①持続あるいは反復する頭痛
②筋肉痛あるいは筋肉の不快感
③持続する倦怠感,疲労感
④関節痛
⑤アレルギー性皮膚疾患
【副症状】
①咽頭痛
②微熱
③腹痛,下痢又は便秘
④羞明,目のかすみ,ぼけ,一過性の暗点出現
⑤集中力,思考力の低下,記憶力の低下,物忘れ,健忘
⑥感覚異常,嗅覚・味覚異常,olfactory hallucination
⑦興奮,鬱状態,精神的な不安定,不眠
⑧皮膚の炎症,かゆみ
⑨月経過多などの異常
【検査】
①免疫系検査
②SPECT(single photon emission computed tomography)による大脳皮質の明らかな機能低下
③瞳孔反応異常
④眼球運動異常
⑤高位視覚系障害
⑥神経内分泌異常
⑦化学物質の微量負荷試験の陽性反応
エ シックハウス症候群について
一般に建築物に問題があり,その建築物に人が入ると頭痛や粘膜の刺激,吐き気等様々な症状が出るが,建築物を離れると症状が改善する。ただし,患者によっては次第に問題の建物から離れても症状が改善しない人がいる(<証拠省略>)。厳密な医学的定義を行うことは困難であり,「居住者の健康を維持するという観点から問題のある住宅において見られる健康障害の総称」を意味するとの見解もある(<証拠省略>)。
密閉され,換気が不十分な建物の中で,粘膜の刺激により生じるとされている(<証拠省略>)。シックハウス症侯群には,化学物質以外で起こってくる症状もある(<証拠省略>)。
皮膚や眼,鼻,咽頭,気道などの皮膚・粘膜刺激症状及び全身倦怠感,めまい,頭痛,頭重などの不定愁訴が訴えの多い自覚症状である(<証拠省略>)。
2 控訴人の化学物質過敏症罹患の有無について
(1) 化学物質過敏症については,1に認定したとおり,統一的な定義や診断基準として世界的あるいは日本において認められたものがあるとはいえないが,原因となる化学物質に曝露されることにより反応して症状が現れ,その後微量の化学物質であっても再接触の場合に再び過敏状態として症状が現れるような病態があることはそれほど異論があるわけではなく(<証拠省略>,証人D),ただ,その明確に統一された定義がなく,診断についても明確で統一的な基準がなく,発症機序が解明されておらず,原因物質との因果関係の認定について慎重な態度をとる見解が根強いものの,合意事項や石川基準により具体的な診断基準がもうけられており,一般に医師らはこれらを参考に診療に当たっているもの(証人D,原審証人Q)という状況にある。したがって,化学物質過敏症の存在は肯定され,これについて個別事実関係を踏まえて認定することは可能であり,その条件としては,上記合意事項や石川基準にあてはまる場合,化学物質過敏症に罹患している可能性が相当高いものと考えられ,さらに診断基準該当性以外の検査結果や症状の具体的経過,化学物質曝露の有無程度等をも総合して認定すべきものと考えられる。
(2) そこで,控訴人の化学物質過敏症罹患の有無について検討する。
前記認定事実及び証拠(証人D)によると,控訴人は,平成9年2月ころ以降肩こり,同年7月ころには全身倦怠感,咽頭炎があり,平成10年6月ころからひどい下痢や胸部痛も現れ,全身倦怠感,下腹部痛,胸部痛等を訴えていたこと,平成11年にも胃の痛み,肩の痛み,吐気,嘔吐,下痢,肩こりを訴え,咽喉頭炎,慢性胃炎,右肩関節周囲炎と診断されたことがあり,平成12年に入って,同年2月以降,種々の体調不良を訴えて,咽喉頭炎,気管支炎,急性胃腸炎,慢性肝炎等と診断され,熱を伴う下痢を訴えたこともあった上,同年7月に息苦しさと胸のしめつけ感から入院するほどになり,頭痛,全身倦怠感も訴えており,同年8月には,職場で呼吸困難,胸部苦悶感が出現して救急車で搬送され,さらに同月から同年9月にかけて頭痛,のどの痛み,動悸,微熱,物忘れ,いらいら感,全身倦怠感,疲労感,頻脈,胸痛,咳,痰,下痢といった多彩な症状が出て,欠勤しがちになるという経過をたどっていること,平成13年4月l病院のM医師を受診した時及びc病院のD医師初診時には,頭痛,胸痛,しめつけ,のどの痛み,痰が朝に大量に出る,筋肉痛,左足付け根の関節痛,下痢,腹痛,精神不安定,不眠,集中力低下,指先感覚異常,脈が速い,倦怠感,疲労感等の症状が出ており(1(4)コ(ウ),シ(ア)及び証人D),これらは,M基準の主症状前記①,②,③,④及び副症状前記①,③,⑤,⑥,⑦を満たしていることが認められる。
さらに,前記認定事実によると,トルエン,キシレン等の負荷テストにおいて,厚生労働省の指針値よりもかなり低い濃度のトルエン,キシレン等に陽性の反応があり,これは,石川基準の検査⑦に該当し,赤外線瞳孔検査でも瞳孔反応の異常があり,これは石川基準の検査③に該当し,そのほか重心動揺検査でも異常がある。なお,石川基準の検査④に当たる眼電位図検査ないし指標追視検査については,医師の解釈が分かれているが,証拠(<証拠省略>)によっても,鋸歯状ないし階段状波形が出ており,正常とはいえない。
(3) また,控訴人には,職場から離れて以降,症状の改善が見られること(控訴人本人87項ないし120項,証人D)は合意事項の⑤に該当し,前記のとおり,控訴人は,負荷テストで微量のトルエン,キシレン等に陽性であったこと,平成13年の時点で煙草も止めているように,多種類の化学物質に反応していると見られること,これらは,前記合意事項の②,③,④に該当し,控訴人の症状は多彩であり,多器官にまたがっていることは合意事項の⑥に該当し,慢性に経過していることは合意事項の①に該当するので,合意事項の診断基準のすべてを満たしている。
(4) そして,以上のとおり,控訴人は,異なる観点から設定されている化学物質過敏症の2つの診断基準を共に満たしていること,赤外線瞳孔検査,重心動揺検査及び負荷テストも陽性であることに加え,化学物質過敏症の症状は,最初は症状が少なく,次第に多様な症状が出てくる傾向がある(原審証人Q)ところ,前記認定の控訴人の症状経過は平成9年ころから平成13年に至るまでそのような経過をたどっており,後述のとおり,控訴人は,5年半もの期間にわたり有機溶剤にかなりの程度曝露されていたと認められることをも総合すると,控訴人は,化学物質過敏症に罹患していたと認めるのが相当である。
なお,鑑別すべき疾患について,十二指腸潰瘍があったが,ひどい下痢がこれによるとは言い難い(証人D)。シックハウス症候群との関係については,控訴人が自宅を新築し,引渡を受けたのは平成10年8月であるが,控訴人の症状が遅くとも平成9年以降現れていることから,関係は否定できる。また,同居家族には控訴人と同様の症状は現れていない。線維筋痛症とは,圧痛のあるべき箇所ないしその数が異なること及びそれにより説明できない呼吸器症状等があること(証人D),慢性疲労症候群とは,症状の多くが一気に出そろうこと及び下痢などの症状は含まれないことなど(証人D)や微量の化学物質に反応する点で区別できる(<証拠省略>)。アレルギーに関しては,控訴人の症状はアレルギーだけではない部分もある(原審証人Q)上,微量の物質にも敏感であること(<証拠省略>)から区別できる。自律神経失調症との関係については,症状がかなり重なるものの,化学物質の関与が強く疑われること(証人D)で区別でき,赤外線瞳孔検査に陽性であることなどから,化学物質過敏症の結果として自律神経失調が検出されたものと考えられる(<証拠省略>)。心因反応との関係については,再現テスト及び赤外線瞳孔検査等の検査結果の陽性がある点で区別できる(<証拠省略>)。痰や咳については,喘息の症状とも考えられるが,化学物質過敏症の症状とも考えられる(証人D)。このように,他の疾患の存在は否定されるか,仮に心因反応と化学物質過敏症が併存することがあっても,心因反応によってすべて説明できるものでなければ,これにより化学物質過敏症の存在が否定されることはないものと考えられる。
(5)ア Q鑑定人は,次のとおり鑑定している。
化学物質過敏症の診断に関しては,その経過を長期に観察する必要があり,Q鑑定人の2度の診察(平成19年7月4日と同年8月1日)からは,検査結果からダニ及びハウスダストによるアレルギーの可能性はあるものの,明らかな化学物質曝露との関連は見い出せず控訴人が化学物質過敏症に罹患しているとの確定診断をすることはできないこと,前医が処方した対処薬は呼吸器系・精神神経系の薬であるが,これらの内服で症状の軽快を認めたことからすると,当時の控訴人の症状は呼吸器系の疾患によるものと推察されること,また,診察時,控訴人の最も顕著な症状は咳嗽であったが,問診票を記入するために選択肢を考えている間にほとんど咳嗽を認めなかったことや,各種検査において所見は見られなかったことから,心理的な影響によると推定できること,有機溶剤曝露による主症状は,神経系への影響であるが,曝露から離れれば消失することから,現在の症状は業務に起因しないと考えられること,トルエン,キシレンの高濃度曝露により呼吸器への刺激が起きることがあるが,この刺激は一時的であり,曝露の消失により症状も消失すること,控訴人は,トルエン,キシレンから離れても症状があるので,もし化学物質過敏症を発症したとしても,業務と関係のないこれまでの生活環境から受けた影響による結果であり,最終職歴の業務に起因するとはいえないこと,以上のとおりの鑑定がされ,さらに上記結論に及んだ理由として,煙草の点や有機溶剤の高濃度曝露又は大量曝露が認められない点も挙げられている(Q鑑定書,原審証人Q)。
イ そこで,上記Q鑑定書及びこれに関連して他の証拠等で指摘される点について,以下,検討を加えることとする。
(ア) 化学物質過敏症の診断基準との関係について
証拠(原審証人Q)によると,Q鑑定人は,控訴人の症状について,石川基準にいう主症状のうち,①持続あるいは反復する頭痛,②筋肉痛あるいは筋肉の不快感,③持続する倦怠感,疲労感はあったと述べ,副症状である①咽頭痛,③腹痛,下痢,⑤物忘れ,健忘,⑥両指先のしびれ,⑦うつ状態,精神的不安定,不眠があったので,主症状2項目,副症状4項目が陽性で石川基準に該当すると述べている(原審証人Q)。
(イ) Q鑑定書では,トルエン,キシレンから離れても症状がある点を,化学物質過敏症であることを否定する根拠とする。
しかし,この点は,前述のとおり,控訴人は訴外会社の職場を離れて以降,症状に一定の改善傾向が見られるのであり,また,化学物質過敏症の病態及び合意事項の診断基準から見ても,原因物質から離れると直ちに症状が止むというものではなく,軽減するに止まる場合も含まれ,慢性疾患として症状が継続するものであり(<証拠省略>),Q鑑定人自身,追加質問事項に対する回答において,化学物質過敏症について,原因空気環境と異なった条件においても症状が現れる状態であると記載し,原審証人Q(<証拠省略>)は,別の事例では,原因物質から離れても症状があったが,化学物質過敏症と診断していることを認めているから,Q鑑定人の上記根拠は薄弱である。
(ウ) 煙草について
控訴人が,煙草を20歳ころから平成12年11月ころまではほぼ毎日3ないし5本/日,平成12年7月ころには10本/日吸っていたことは前記認定のとおりであり,Q鑑定書及び原審Q証言には,化学物質過敏症が発症している患者が煙草の煙を容認できるとは考えにくいとの部分がある。
しかし,前記認定及び証拠(証人D)によると,化学物質過敏症は,当初は特定の化学物質への曝露により反応し,これと同一ないし同系統の化学物質と再接触すると症状が再現するものと考えられるのであり,控訴人の場合,訴外会社の作業場における塗装作業による有機溶剤への曝露が発症の原因であるとすれば,その主成分であるトルエン,キシレン等への反応が当初は特に問題になるものと考えられ,証拠(<証拠省略>)によっても,煙草及びその流煙の成分にはトルエン,キシレンは含まれず,同系統の化学物質としては,ベンゼンは含まれている場合があるが,多いともいえないことに照らせば,控訴人の場合,その症状が進展するまでは,煙草を吸うことができ,その進展に伴い,これに耐え難くなり,平成13年4月ころ以降に至って吸うのを止めたものと考えられる。原審証人Qも,そのような解釈は可能である旨供述している(同証人85項)。また,化学物質過敏症患者にも,煙草禁煙による離脱症状がつらく,そのために喫煙を継続する者もいる(<証拠省略>)。
したがって,控訴人が症状発現後も喫煙を続けていたことは,化学物質過敏症を否定するものとまではいえない。
(エ) 咳嗽について
Q鑑定書とQ証言によれば,Q鑑定人の診察時,控訴人の最も顕著な症状は咳嗽であったというのであり,この咳嗽は石川基準の主症状,副症状にも記載されていない症状である。Q鑑定人は,咳嗽が多いこと自体,他のアレルギー体質等他の要因が疑われる旨述べる(原審証人Q)。
しかし,咳嗽が化学物質過敏症の診断基準となる症状とはいえないとしても,前記認定及び証拠(証人D)によると,化学物質過敏症による症状としても呼吸器系の咳などの症状も多いとの報告もなされているところであり,それがあることをもって,化学物質過敏症を否定する根拠とは言い難い。仮に,これが他の疾患を窺わせるものとしても,その他の症状で診断基準を満たしておれば,やはり否定根拠とはいえないものである。Q鑑定人は,問診票を記載している時に咳が止まっていたことから,心因性の症状と推測したというのである。しかし,一時咳が止まっていたことをもって,咳自体,あるいは控訴人の症状全体が心因性のものあるいは心理的影響と見る十分な根拠となるものとは考え難い。
証拠(<証拠省略>)には,また,控訴人が化学物質過敏症に罹患し,その原因が業務上のトルエン,キシレンの曝露によるとすると,初発症状として,頭痛,めまい,しびれ,ふらつき,思考力の低下など何らかの神経症状がみられると推定されるのに(<証拠省略>),前記認定の控訴人の医療機関への受診状況等によると,控訴人の主訴には,かかる神経症状が甚だ少ないのであって,この事実も果たして控訴人が化学物質過敏症に罹患しているものか疑いを残す旨の記載がある。しかし,証拠(<証拠省略>)によると,ベンゼンと同族であるトルエン,キシレンによる症状として,頭痛,めまい,焦燥感,不眠,もの忘れ,不安感,しびれ感,倦怠感,心悸亢進,悪心,嘔吐,胃痛,腹痛,鼻炎等の上気道の炎症,健忘,意欲減退等の多彩な症状が現れうることが認められるところ,前記認定のとおり,控訴人には,平成9,10年ころに,咳,痰のみならず,頭痛,めまい,下痢,全身倦怠感,下腹部痛,胸痛等の症状が現れているのであり,初発症状に限っても,(証拠略)の記載は事実を正しく捉えていないというほかない。
そして,前記控訴人の症状経過及び証拠(<証拠省略>)に照らすと,控訴人の症状は必ずしも咳嗽が最も顕著であったとはいえず,ほかに多彩な化学物質過敏症の診断基準にあてはまる症状が存したものであって,Q鑑定人の指摘も失当である。
(オ) 対処薬について
控訴人に処方された対処薬についても,Q鑑定書と原審証人Qによれば,呼吸器系・精神神経系の薬であるが,これらの内服で症状の軽快が認められたとされているが,証拠(証人D)によると,これらの処方は,対症療法としてなされたものであり,その時々で目立つ症状が緩和されたとしても,病態全部がこれにより消失したり,あるいは顕著に快方に向かったとは認められないから,心因反応が過敏性の原因になっているとまでは認められず,これをもって,控訴人の化学物質過敏症罹患を疑うことはできない。
(カ) 控訴人の化学物質曝露について
さらに,Q鑑定書と原審証人Qによれば,化学物質過敏症にあっては,化学物質の高濃度曝露又は大量曝露があれば認めやすいとの見方があるものと解されるところ,本件報告書によれば,訴外会社作業場のトルエン等の濃度は,平成13年4月20日及び平成14年4月11日に実施された作業環境測定の結果,管理濃度を下回っていたことが認められたこと,もっとも,この測定結果は,控訴人の就労時の作業状況を忠実に再現したものとはいえず,控訴人就労時には,同測定結果よりもトルエン等の化学物質はより高濃度に存在していたものと推定されるが,これが上記管理濃度を超えるものであったと認めるに足りる証拠はないことは,前記認定,説示したところである。また,控訴人は,平成9年7月17日,フタル酸塗料用シンナーを頭部及び上半身に浴びたと主張するが,前記認定の事実によれば,控訴人は,同日,シンナーが右目に入り,痛みがあるとしてg眼科を受診し,右角膜化学傷と診断されたものの,治療を受けたのはその当日だけであったというのであるから,同日,有機溶剤の高濃度曝露又は大量曝露があったとは認められない。したがって,控訴人が訴外会社にて就労中,特に高濃度のトルエン等に曝露されたと認めることは困難である。
しかし,化学物質過敏症の発症原因である化学物質への曝露は,高濃度曝露又は大量曝露だけでなく,安全性を超えない低濃度の曝露であっても,長期間続けば発症原因たり得るのであり,控訴人が訴外会社に就労中,トルエン,キシレン,酢酸イソブチルを含有する有機溶剤に曝露されており,しかも,曝露期間は平成7年4月以降平成12年12月まで5年半の長期間に及び,この間多量のボンベを2日に1度あるいは毎日約2時間以上は塗装し,自ら塗装しない日には他の作業員が同じ作業場内で塗装しているのであり,加えて小容器については月2回程度,多数本を手動で塗装しており,そのほかにも作業場内に塗装されたボンベが乾燥するまで並べて置かれ,有機溶剤が蒸発する状態で保管されるなどの環境下で作業をしていたものであって,かなりの濃度,量及び時間の有機溶剤曝露が継続していたと推認されるのであるから,化学物質過敏症の発症原因である化学物質への長期間の曝露は十分に満たしている。
これに関して,控訴人とともに稼働していたGらが,控訴人と同様の症状を発症した事実は認められないが,Gには喘息ようの症状があったことが窺える上,化学物質過敏症の発症は,同一環境下にある者らに一様に起こるものではなく,発症しない者がいるからといって,発症した者にとっての当該化学物質曝露の影響を否定することはできない(<証拠省略>)し,前記認定によれば,控訴人の塗装作業の時間は他の従業員らよりも多かったことが窺えるのであって,他の従業員らの状態をもって,控訴人の発症を否定することはできない。
(キ) Q鑑定書において,重心動揺計検査に著変なしと記載されているが,これは,(証拠略)及び当審証人Qの回答書によれば,異常があるにもかかわらず,それがないかのような記載をしているものであって,誤りである。また,指標追視検査について,鋸歯状波形認めずと記載されているが,これも(証拠略)によると,鋸歯状波形自体は認められるのであり,これが再現可能か,最後にはスムーズに追視できているかという評価が分かれる余地があるとしても,Q鑑定書の上記記載は誤りというべきである。そして,これら検査結果は,前記認定のとおり,控訴人の化学物質過敏症の存在を肯定させる方向の資料とはなっても,これを否定する方向での資料とは考えられないのであり,Q鑑定書中に,「各種検査において所見は見られなかったことから,心理的な影響によると推定できる」とあるのは,根拠を欠くというべきである。なお,Q鑑定人は,本件負荷テストについて何ら触れるところがないが,検討不十分というべきである。
ウ 以上によれば,Q鑑定人の見解は,控訴人の化学物質過敏症罹患を否定する有力な資料と認めることはできず,他にかかる事実認定を左右するに足りる証拠はない。
3 控訴人の化学物質過敏症の発症と,訴外会社の塗装作業等との因果関係
(1) 前記1認定及び2の説示によれば,控訴人は,訴外会社の作業場において,平成7年4月就職以来平成12年12月まで約5年半にわたり,塗装作業等を通じてかなりの濃度,量,時間のトルエン,キシレン等を含有する有機溶剤曝露が継続し,この間平成9年ころ以降化学物質過敏症の症状が出始めて次第に進行かつ多彩な症状が現れるようになり,平成12年8,9月ころには頭痛,のどの痛み,動悸,微熱,物忘れ,いらいら感,全身倦怠感,疲労感,頻脈,胸痛,咳,痰,下痢といった多彩な症状が出そろい,これらは石川基準の主症状①,②,③,副症状①,②,③,⑤,⑦を満たすものであり,症状の程度としても,胸のしめつけ感等から入院したり,呼吸困難等から救急車で搬送されたりするという重い症状に至っており,後に平成13年4月以降に現れた症状で記録されていないものがあるが,これは化学物質過敏症を視野に入れて聴取されていなかったにすぎないものと考えられるから,控訴人の症状は,訴外会社のもとで稼働中には,化学物質過敏症の症状として発現し始めて進行し,全面的かつ高度に現れるに至ったものである。なお,控訴人は,平成10年10月5日には,職場で塗装作業中に胸が痛く息苦しくなってかかりつけの医院を受診し,平成12年8月2日にも職場で塗装作業中に呼吸困難,胸部苦悶感が出現し,救急車により病院に搬送されているのであって,これは職場における有機溶剤曝露と化学物質過敏症の因果関係を強く感じさせるものである。
そして,控訴人の症状は,職場を離れてから多少軽減しており,また,トルエン,キシレン等の負荷テストに陽性である。
(2) そうすると,控訴人の化学物質過敏症罹患の原因は,訴外会社の作業場において,塗装作業等に従事し,有機溶剤であるトルエン,キシレン等に曝露したことにあり,この間には相当因果関係があると認められるから,これは,労働基準法施行規則別表第1の2第4号8に該当する業務上の疾病ということができる。
そうすると,控訴人の休業補償給付及び療養補償給付の請求について,控訴人が発症した疾病と業務との相当因果関係を否定して不支給とした本件処分は違法であり,これを取り消すべきである。
三 結論
よって,控訴人の請求は理由があるからこれを認容すべく,請求を棄却した原判決は不当であるから,これを取り消し,本件処分を取り消すこととして,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 高田泰治 裁判官 檜皮高弘 裁判官 金光秀明)