広島高等裁判所岡山支部 平成22年(行コ)14号 判決 2013年3月21日
控訴人
甲野花子
同訴訟代理人弁護士
近藤剛
清水善朗
奥津晋
井上雅雄
山崎博幸
藤原精吾
愛須勝也
中森俊久
須田滋
諸富健
同訴訟復代理人弁護士
杉山雄一
藤井嘉子
被控訴人
国
同代表者法務大臣
谷垣禎一
同指定代理人
橋本悠子
外6名
処分行政庁
厚生労働大臣
田村憲久
主文
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする
事実及び理由
第1 控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 厚生労働大臣が控訴人に対し,原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律11条1項に基づき,平成16年1月29日付けでした原爆症認定申請却下処分を取り消す。
3 被控訴人は,控訴人に対し,300万円及びこれに対する平成18年11月25日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
1 本件は,控訴人が,原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(以下「法」という。)1条所定の被爆者である控訴人が,厚生労働大臣に対し,法11条1項所定の認定(以下「原爆症認定」という。)を申請したところ,同大臣がこれを却下する処分(以下「本件却下処分」という。)をしたことから,控訴人が,被控訴人に対し,本件却下処分の取消しを求めるとともに,これが違法であるとして,国家賠償法1条1項に基づき,300万円(慰謝料200万円,弁護士費用100万円)及びこれに対する不法行為の後(訴状送達日の翌日)である平成18年11月25日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
原判決は,控訴人の請求をいずれも棄却したところ,控訴人が本件控訴をした。
2 本件の前提事実,争点及び争点に関する当事者の主張は,次のとおり改め,別紙1のとおり当審における当事者の主張を付加するほか(ただし,必要に応じて原審における主張を敷衍ないし再度掲記した箇所もある。)は,原判決の「事実及び理由」中の「第2事案の概要」の2,3(原判決3頁23行目から同11頁3行目まで)並びに原判決添付別紙「原告の主張」(原判決18枚目から同144枚目まで)及び同別紙「被告の主張」(原判決145枚目から同238枚目まで)に記載のとおりであるから,これを引用する。
(1)原判決4頁24行目の「平成20年」を「昭和20年」と,同頁25行目の「被曝」を「被爆」と,各改める。
(2)原判決6頁22行目から同7頁4行目までを次のとおり改める。
「 そして,この原因確率とは,原爆線量再評価(DosimetrySystem1986。DS86(乙A18参照)。なお,平成15年3月にこれを更新する線量評価システムであるDS02(乙A19の1・2参照)が策定された。)に基づいて作成された初期放射線による被曝線量及び実測値に基づいて算出された誘導放射線による被曝線量及び放射性降下物による被曝線量を加算して得られた被曝線量を前提に,ABCC(原爆傷害調査委員会)とその後身である財団法人放射線影響研究所(以下「放影研」という。)による疫学調査と検討に基づいて算出したリスク推定値(ある疾病を発症した被爆者のうち,放射線により誘発された疾病の割合がどの程度か)を基礎に,申請被爆者の申請疾病,被爆時の年齢,性別,被爆時の爆心からの距離,被爆当時の行動等のデータから,被爆者に発症した疾病のうち放射線に起因すると思われる疾病の割合を算出したものである。そして,審査の方針においては,広島において,爆心地から2.5kmで被爆した場合の初期放射線による被曝線量は0.01グレイとされ,それ以遠の数値の記載はなく,爆心地から700mで被爆した場合の残留放射線(誘導放射線を指す。)による被曝線量は爆発後1─8時間で0.01グレイとされ,それ以遠の数値の記載はなく,放射性降下物による被曝線量は己斐・高須地区に居住・滞在した者のみについて0.006ないし0.02グレイと,各推定し,被爆時0歳の子宮体癌(その他の悪性新生物)についての原因確率は被曝線量0.03グレイの場合4.1%とされた。(乙A1,弁論の全趣旨)
DS86は,初期放射線について,広島・長崎に投下された原爆の物理学的特徴から原爆出力,ソースターム(爆弾から放出される粒子や量子の個数及びそのエネルギーや方向の分布。乙A18)を評価し,さらに放射線の空中伝播や建物や人体を透過した際の影響について核物理学上のモデル理論に基づき,コンピュータを用いて被曝線量を評価するシステムである(乙A7,18,弁論の全趣旨)。
DS02は,熱中性子線に誘導されて生じるユーロピウム152の測定値とDS86の計算値との間に系統的なずれが見出され,さらに多数の試料を収集して検討した結果,DS86の計算値と被爆試料の測定値の間に,計算値が近距離で高く,遠距離では低い系統的なずれが確認されたことから,平成8年には日米の研究者による共同研究が開始され,新しい線量評価システムとして策定されるに至った。DS02では,原爆の出力をDS86の15キロトン±3キロトンから16キロトン±4キロトンに,爆発高度をDS86の580mから600mに,爆発点の座標もDS86のそれから西へ15mに,各修正したほか,コンピュータの処理スピードの向上,新たな知見や測定結果等を踏まえてDS86の計算に細密化や改良を加えたものである。(<証拠略>)」
(3)原判決7頁22行目の末尾に,改行して次のとおり付加する。
「 広島に投下された原爆は,高濃度のウラン235を衝突合体させて爆発させるものであり,そのエネルギーは15キロトン(DS02策定時に16キロトンと訂正された。また,その際,上記のとおり,爆発高度が580mから600mに改められ,爆心地の位置も西に15m移動された。)とされ,うち約50%が爆風,約35%が熱線,約15%が放射線として作用した(<証拠略>)。
広島・長崎における原爆被爆者の放射線被曝は,原爆炸裂後1分以内に放出される初期放射線による被曝と,放射性降下物から放出される放射線及び初期放射線の中性子により誘導放射化された地上付近の物質から放出される放射線からなる残留放射線による被曝に分けて考えることができ,人体への放射線被曝の形態として,身体の外部から放射線を浴びることによる外部被曝と,体内に取り込まれた放射性物質が放出する放射線による内部被曝に大別される。
一般に,放射線による健康影響のうち,被曝した放射線量が多いほど影響の出現する確率が高まるものを確率的影響といい,癌等がこれに当たるとされ,ある一定の線量(閾線量)以上の放射線に被曝すると影響が出るものを確定的影響といい,放射線白内障,放射線による急性症状がこれに当たるとされている。また,発症時期によって,比較的短い期間に相当量の放射線を全身又は身体の広い範囲に受けた場合に被曝後遅くとも2,3か月以内に現れる急性障害と,急性障害に耐えた場合や,比較的低線量の被曝を全身又は局所的に受けた場合に,被曝後長年月の潜伏期を経て現れる晩発障害に分けられる。ただし,これらの区別と概ね一致するが,ややニュアンスの異なる見解を示す医師・専門家もある。(<証拠等略>)。」
(4)原判決8頁4行目の「被曝」を「被爆」と改める。
(5)原判決10頁5行目の「倉敷紀年病院」を「倉敷紀念病院」と改める。
(6)原判決10頁21行目の末尾に,改行して次のとおり付加する。「(5)放射線の種類など
ア 放射線には,X線やガンマ線などの電磁波とアルファ線(ヘリウム原子核),ベータ線(電子),中性子線などの粒子線があり,上記5種類の放射線はいずれも電離放射線である。また,放射線は,ある媒質の中を進む際に,媒質に与える放射線の飛程の単位長さ当たりのエネルギーの量が大きく密に電離を生じさせる高LET線(アルファ線,中性子線など)とエネルギーが小さく疎電離性の低LET線(X線,ベータ線,ガンマ線など)に分けることができる。(<証拠略>)
イ 放射線は,物質を透過する性質を持っているが,線源と被曝者との間の空気中に存在する水蒸気や遮蔽体となる物体の元素と作用し,線量や強さが減衰する。主な放射線の透過力は次のとおりである。また,一般的に線量は点線源からは距離の2乗に反比例して減少する性質がある。(<証拠略>)
(ア)ガンマ線は,透過力が大きく,プラスチックやアルミニウムの薄い板は透過するが,鉛や鉄のような原子番号の高い元素と作用した場合は減弱効果が強く,鉛や鉄の板,コンクリー板などに止められる。
(イ)アルファ線は,粒子が大きく,電荷を持つので物質内の電子と反応するため飛程が短く,生体内で進む距離は80マイクロメートル程度とされており,透過力も非常に小さく,紙等でも止められる。
(ウ)ベータ線
ベータ線の透過力は小さい。小さな粒子であるが,電荷を持つのでプラスチックやアルミニウムの薄い板で止められるし,空気や衣服で吸収される割合も大きい。
(エ)中性子は,原子核に比べると小さく,電荷もないので,透過力は大きいが,水や水蒸気のような原子番号の低い原子やそれで構成される分子で強く減弱される。中性子には,比較的エネルギーの高い速中性子と,運動エネルギーの低い熱中性子とがある。
ウ 被曝による生体への影響は放射線の種類により異なるため,放射線の作用による生物作用の違いを示す値として生物学的効果比(RBE。放射線防護のため人体に対する効果を計算するため,放射線荷重係数として定められている。)が定められており,国際放射線防護委員会(以下「ICRP」という。)の2007年勧告によれば,RBEの最大値はガンマ線及びベータが1,中性子線が5ないし20,アルファ線が20と定められている。さらに,国際原子力機関(以下「IAEA」という。)は,組織や被曝態様に応じたRBEを示しており,2011年の基準によれば,腸を例に取るとガンマ線による外部及び内部被曝が各1,中性子線による外部及び内部被曝が各3,ベータ線による内部被曝が1,アルファ線による内部被曝が0とされている。(<証拠略>)
エ 主な放射線の単位には次のものがある(<証拠略>)。
(ア)ベクレル(Bq)とは,放射能の量の単位である。1ベクレルは,1秒間に1個の原子が放射性崩壊することを意味する。過去にはキュリー(Ci)という単位が使われており,1キュリー=370億ベクレルである。
(イ)グレイ(Gy)とは,吸収線量の単位である。吸収線量とは,電離放射線が照射され,物質に吸収された際,その物質1kg当たりに吸収されたエネルギーの量を指し,1グレイは,物質1kg当たり1ジュールのエネルギー吸収があったことを意味する。
過去にはラド(rad)という単位が使われており,1グレイ=100ラドである。
(ウ)シーベルト(Sv)とは,線量当量(等価線量)の単位であり,被曝形態や放射線の種類が異なる場合であっても,生体に対する影響の程度を表すことができるよう定義された線量である。吸収線量にRBEを乗じて求められ,RBEが1であれば,1グレイ=1シーベルトとなる。
過去にはレム(rem)という単位が使われており,1シーベルト=100レムである。」
(7)原判決10頁24行目の「違法といえるか」の次に「及びこれが肯定された場合の控訴人の被った損害の額」を付加する。
(8)原判決「別紙 原告の主張」126頁4行目の「却下処分が取り消されたことによる精神的な損害」を「却下処分の取消しと控訴人の精神的損害の関係」と改め,同頁16行目の末尾に改行して次のとおり付加し,同頁17行目の「(5)」を「(6)」と改める。
「(5)損害額
上記各事情を考慮すれば,控訴人の被った精神的損害(慰謝料額)は200万円が相当であり,弁護士費用相当額の損害は100万円が相当である。」
第3 当裁判所の判断
当裁判所も控訴人の各請求は理由がなく,これをいずれも棄却するべきであると判断する。その理由は,次のとおり改め,当審における当事者の主張に鑑み,別紙2のとおり理由説示を補充するほかは,原判決の「事実及び理由」中の「第3 当裁判所の判断」の1ないし3(原判決11頁5行目から同17頁5行目まで)に記載のとおりであるから,これを引用する。
1 原判決11頁10行目の「従うのを」を「従い,積極的に認定するとされた事情があれば,格段に反対すべき事由がない限り放射線起因性を肯定するのを」と改める。
2 原判決11頁23行目の「こととなる」の次に「(本件においては,後記のとおり控訴人の被爆状況,被爆前後の行動,被爆後の控訴人の健康状態や病歴,子宮体癌発症の経過及び控訴人の罹患した疾病に関する知見などを総合考慮することとなる。)」を付加する。
3 原判決11頁26行目の「拒否処分」を「却下処分」と改める。
4 原判決12頁9行目の「いうべきである。」を「いうべきであり,このことは法の根底に国家補償的配慮があるとしても,異なるものではない。」と改める。
5 原判決12頁16・17行目の「直曝は受けておらず,」を「一定の遮蔽ないしそれに準じる状況があったといえ,」と改める。
6 原判決12頁24・25行目の「放射線量」を「初期放射線量」と改める。
7 原判決13頁9行目の「誘導放射線物質」から同頁11行目までを「誘導放射化した物質の付着した塵等に接触ないし吸入したり,飲食したりすることにより,控訴人が初期放射線による被曝以外にも外部被曝・内部被曝をした可能性もないではない。」と改める。
8 原判決13頁25行目の「仁保地区」から同14頁1行目までを「仁保町本浦に黒い雨が降ったとは認められず,まして控訴人がこれに打たれ,あるいは,黒いすすなどによる内部被曝,外部被曝により健康に影響を与える有意な被曝をしたとも認められない。」と改める。
9 原判決14頁12行目の「判定している。」の次に「また,上記調査において葉子が虚偽の回答をすべき事情は特にうかがわれず,当時中学1年生であった控訴人においてもこの点について葉子から特に聞いていないというのであるから(控訴人本人),上記調査結果を否定すべき特段の事情はない(太郎は,原爆関係拒否・嫌悪症ともいうべき心理があったと被爆者健康手帳交付申請書の「今まで申請をしなかった理由」の欄に記載しているが(甲B3),これは被爆者として自然な心理に止まるし,葉子が同様の心理状態にあったことをうかがわせる証拠もない。)。」
10 原判決15頁1行目の「生じたことはない」を「生じたとは認められない」と改める。
11 原判決15頁14行目の「子」を削除する。
第4 結論
以上によれば,控訴人の本件各請求には理由がなく,これをいずれも棄却した原判決は相当であるから,本件控訴を棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 片野悟好 裁判官 檜皮高弘 裁判官 濱谷由紀)
別紙1
第1 初期放射線
1 総論
(1)控訴人の主張
控訴人は,控訴人の被曝の中心は内部被曝であると主張するものであり,初期放射線が控訴人の健康被害の最大の要因とは主張しないが,放射性降下物,誘導放射能,内部被曝とともに初期放射線が控訴人の健康被害に寄与した可能性は否定できない。そして,DS86やDS02は,実験結果に基づかないコンピューターによるシミュレーションであり,DS86の推定値は近距離で過大評価,遠距離で過小評価となる顕著な傾向があり,広島型原爆については不明な点も多く,後記のような問題点もあるから,これを無批判に取り入れて,被控訴人の健康被害に初期放射線の影響はなかったと断定することは許されない。
(2)被控訴人の主張
ア DS86,DS02の推定値と実測値に誤差があるのは事実であるが,その誤差は定量的には±30%程度(乙A19の1の45頁)であるから,爆心地から4.16km以遠の地で被爆した控訴人が,初期放射線によって人体の健康被害の観点から有意の被曝をしたとはいえない。
イ 従来,DS86による初期放射線被曝線量の推定には検討の余地があるとされていたが,DS02における各測定値の検証やバックグラウンド(対象とする線源以外から発せられる放射線の計測数量値)の影響を極めて低くした精度の高い測定等により,測定値とDS86による計算値がよく一致していることが判明した。
2 DS86による計算値と測定値の比較
(1)ガンマ線の測定値
ア 控訴人の主張
(ア)平成4年の長友恒人教授(以下「長友教授」という。)による広島の爆心地から2.05kmのガンマ線線量の測定値によると,同地点における測定値の平均は129±23ミリグレイであり,対応するDS86の計算値より2.2倍大きいこととなる。
また,平成7年の長友教授らによる広島の爆心地から1591mと1635mの間でのガンマ線線量の測定によると,ガンマ線カーマは約1.3kmでDS86の計算値を超過し始め,この不一致は距離とともに増加することを示唆しているとする。
(イ)DS86報告書においても,1000mの距離において,28測定例中24例が計算値に対し実測値の方が大きく,1000m以下の距離では14測定例中10例が計算値より小さい旨認めている。
(ウ)長友教授らの測定結果を含む実測値のカイ自乗フィットとDS86による計算値の関係をみると,爆心地から1000m以遠において,DS86のガンマ線推定線量は,実際の線量よりも過小評価されている。
イ 被控訴人の主張
(ア)長友教授らによる測定結果が,爆心地から2.05kmのガンマ線線量の実測値が0.129グレイであり,DS86による計算値である0.0605グレイを上回るとしても,これらの線量は健康への影響の観点からは無視し得る程度に低く,DS02によれば上記測定値には誤差が含まれていることが明らかにされている。そして,放射線量には距離の2乗に反比例して減衰する性質があり,空気中の分子や水蒸気との相互作用もあって,初期放射線量は遠距離では急激に低下するものであり,控訴人は爆心地から4.16km以遠の地で被爆したのであり,DS02によれば被爆距離4.0kmにおける初期放射線量は0.0001グレイであるから,上記の乖離から控訴人の被曝した初期放射線量が健康に影響を及ぼす程度のものであったとの結論は導き得ない。
(イ)放射線被曝による急性症状を発症する閾値は後記第7のとおりであり,長友教授らによっても爆心地から2.05kmのガンマ線線量は0.129グレイであるから,急性症状の存在を理由としてDS86による線量評価が過小評価であるとはいえない。
(2)熱中性子線の測定値
ア 控訴人の主張
(ア)熱中性子により誘導放射化されたコバルト60による広島での測定値に基づき,カイ自乗フィットという方法により熱中性子の近似式を求め,DS86等と比較すると,爆心地からの距離が900mを超えるとDS86の計算する線量が過小評価になっている(甲A60の図7a,乙A11の1添付資料42)。
(イ)熱中性子線により誘導放射化されたユーロピウム152,塩素36の測定値はバックグラウンドの影響のため測定値と計算値の不一致を明確にすることは困難であるが,これらにおいても,遠距離において系統的なずれが生じていることが明白である(乙A11の1添付資料35ないし37,42)。
イ 被控訴人の主張
(ア)中性子線は大気中の水蒸気との相互作用で減弱される性質を有するため,初期放射線の全線量に対する中性子線の割合は,広島の場合1000mで5.8%,1500mで1.7%,2000mで0.5%と非常に低いから,仮に中性子線量につきDS86の計算値と測定値に多少の乖離があったとしても,被爆者の推定被曝線量にほとんど変化は発生しない。
(イ)被爆地の鉄に含まれるコバルト60の比放射能(放射性核種の単位質量当たりの放射能の強さ。単位はBq/mg)を求め,DS86,DS02で推定された熱中性子線量から推計された上記試料のコバルト60の比放射能と比較し,熱中性子に関する計算の正確性を検討したところ,遠距離における実測値と計算値は完全に一致しないが,コバルト60の半減期は短く,爆心から空中距離600m以遠の測定値は不確実性が大きいから,遠距離における熱中性子により放射化したコバルト60について実測値と計算値の乖離を問題とすること自体無意味である。
また,広島におけるコバルト60の比放射能の測定値とDS86及びDS02に基づく計算値を熱中性子線量に換算すると,いずれによっても,人の健康影響という視点からは無視し得るほどの低い線量の範囲内に止まり,乖離を問題とする意味はない。
(ウ)被爆地の岩石や建造物中に含まれるユーロピウム152の比放射能を求め,DS86,DS02で推定された上記試料のユーロピウム152の比放射能と比較し,熱中性子に関する計算の正確性を検討したところ,実測値と計算値は完全に一致しないが,熱中性子線量に換算すれば,遠距離では放射線の検出はバックグラウンド放射能のレベルを下回る程度のものであり,爆心地から1425m地点のDS02の計算に基づく中性子線量は0.0147グレイであり,爆心地から1424m地点の測定値に基づく中性子線量は0.0285グレイであり,いずれによっても,人の健康影響という視点からは無視し得るほどの低い線量である。(<証拠略>)
(エ)日本,アメリカ,ドイツの各国において,加速器質量分析法(AMS)により塩素36の放射化測定実験を行い,バックグラウンド等の影響による同測定法の測定限界について検討がされた。その結果,広島で採取された試料の塩素36の測定値は,爆心地付近からバックグラウンドとの鑑別が不可能になる距離まで,DS02の計算値と一致すること,ストローメらの平成4年の測定値がDS86,DS02の計算評価値と一致しないのはバックグラウンドの影響によることが明らかとなった。また,爆央から約1300m地点においてDS86の計算評価値と放射化測定値の不一致が指摘されていたところ,同地点におけるDS86の計算評価値と放射化測定値に明確な不一致が認められないこと,爆央から1300m以遠での放射化測定値には大きな誤差を含む可能性があること,あるいは爆心地から1100m以遠の試料については,バックグラウンドの影響のため塩素36の測定が困難であることも確認された。
(3)速中性子線の測定値
ア 控訴人の主張
速中性子により発生したリン32とニッケル63の測定により速中性子の実測値が導かれているが(甲A60の20頁。同図11),これらの測定結果に対しても,1000mを超える辺りから,DS86の計算値が過小評価となっている(乙A11の1添付資料33ないし37)。速中性子はエネルギーを失いながら熱中性子へと変化するから,速中性子の過小評価は熱中性子の過小評価に通じる。
イ 被控訴人の主張
(ア)速中性子により誘導された銅に含まれるニッケル63の原子数から速中性子線線量を求めると,測定値によれば爆心地から1470m地点の線量は0.03グレイであって(乙A19の2の688頁の表7),人への健康の影響の観点からは無視し得る線量である。
バックグラウンドにおける補正に問題のないことは,後記3(3)イで主張するとおりである。
(イ)放射線により硫黄中に発生したリン32を測定することにより,速中性子線を測定することができるところ,DS86においては,爆心地から数百m以内の距離では計算と測定の間に大きな隔たりはなく,それ以上の距離では一致の有無を判断するには測定値の誤差が大きすぎるとされていたところ,DS02では測定値の再評価がされ,爆心地近くではDS86,DS02とも測定値とよく一致しているとの結論に至った。
(4)DS86の中性子線線量における誤差の原因
ア 控訴人の主張
中性子線線量についてのDS86の計算値と測定値の誤差は,次の原因により生じたものと考えられる。
(ア)ソースタームの計算問題
原爆の核分裂により外部に放出された中性子線線量を正確に推定するに必要な情報が明らかにされていないため,DS86の数値に誤りを含む可能性を否定できない。また,原爆においては速中性子が核分裂の連鎖反応の主要な役割を担っているのに,DS86における広島原爆のソースタームは熱中性子を中心に計算しており,速中性子を過小評価しているため,それが中性子線の線量推定の誤差の原因と考えられる。
(イ)湿度の高度変化の問題
DS86は,中性子の伝播に重要な影響を与える湿度につき,広島気象台の湿度80%を用いて計算しているが,この数値が実情を反映していない可能性がある。
(ウ)コンピューター計算における区分設定の問題
DS86が採用するボルツマン輸送方程式においては,ある要因で計算値にずれが生じると,ずれは次第に累積・拡大してしまう。
イ 被控訴人の主張
DS86による初期放射線線量評価の誤差の程度が大きくないことはDS02等の科学的知見により明らかにされているし,控訴人の被爆状況に照らせば,その誤差が控訴人の健康被害に影響を及ぼすとはいえない。
3 DS02の問題点
(1)ガンマ線の測定値
ア 控訴人の主張
DS02においても,爆心地から1500m以遠では,系統的に測定値が計算値を上回っている(乙A11の1添付資料53,11の2)。また,DS02も,遠距離では測定値が計算値よりも高いことを示唆する若干の例があるとしている(乙A19の2の463頁)。
イ 被控訴人の主張
DS02において,現行の熱ルミネセンス法による測定値のうち,爆心地から1.5km以遠の測定値については原爆によるガンマ線量がバックグラウンド線量と同量となり,バックグラウンド線量の誤差が測定線量に影響し,その測定値をもって正確なガンマ線量を評価することが不可能であることが判明した(<証拠略>)。そして,DS86,DS02の各計算値と熱ルミネセンス法による測定値を比較すると,バックグラウンドの線量問題を考慮すれば,全体的な一致度はDS86についても良好であるとの結論に至った。
(2)熱中性子線の測定値
ア 控訴人の主張
(ア)静間清教授(以下「静間教授」という。1998年)ら及び小村和久教授ら(以下「小村教授」という。2001年)が行った熱中性子線により誘導放射化されたコバルト60による熱中性子線線量の測定値は,遠距離においてDS02の計算値を上回っている(乙A11の1添付資料43,11の2)。
(イ)東京大学原子力研究総合センター助教授の小佐古敏荘(以下「小佐古助教授」という。)は,熱中性子線により誘導放射化されたユーロピウム152による熱中性子線線量の測定値はDS02の計算値を上回っていることを認めている(<証拠略>)。また,平成3年の中西孝教授ら及び平成5年の静間教授らは広島において熱中性子により放射化されたユーロピウム152による熱中性子線線量の測定値はDS02による計算値を上回るという系統的なずれがみられたし(<証拠略>),小村教授の測定値によっても,爆心地から離れるに従って系統的に測定値がDS02の計算値を上回る結果となっている。
イ 被控訴人の主張
コバルト60,ユーロピウム152の比放射能の測定に基づく熱中性子線線量とDS02による熱中性子線線量の乖離が問題となるほどのものでないことは,上記2(2)イに主張のとおりである。
(3)速中性子線の測定値
ア 控訴人の主張
(ア)DS02は,速中性子により誘導されたニッケル63につき新たな測定結果を用いているが,小佐古助教授は,この測定について1400m以遠については線量評価として役に立たないと証言している(<証拠略>)。
(イ)誘導放射化された銅に含まれるニッケル63の測定による中性子線量の実測値とDS86,DS02の推定値を比較すると,爆心地から380mでは実測値はDS86の推定値の0.64倍,爆心地から391mでは実測値はDS02の推定値の0.85倍,爆心地から1461mでは実測値はDS86の推定値の1.52倍,爆心地から1470mでは実測はDS02の推定値の1.90倍であり,やはり近距離で過大評価,遠距離で過小評価となっており,遠距離におけるずれはむしろDS02で拡大している。また,液体シンチレーション法でのニッケル63の測定結果によっても,1500mでは実測値が推定値を上回っている。
(ウ)ストローメは,ニッケル63の測定をした際,結果として爆心地から1880mの測定値をバックグラウンドとしていたが,DS02ではその数値を恣意的に変更してバックグランド補正を行って辻褄を合わせている。ストローメは,爆心地から1400m以遠の測定値はバックグラウンドと同程度になると考え,バックグラウンドに採用すべき爆心地から5000m地点の試料の測定を杜撰に行っている。
イ 被控訴人の主張
(ア)ストローメは誘導放射化された銅に含まれるニッケル63の原子数をAMSで測定したが,バックグラウンドを差し引いた後のデータを1945年に対して補正すると,その測定値はDS02とよく一致し,DS86とも一例を除いてよく一致した。また,AMSで得られたバックグラウンドデータを使用して,液体シンチレーション計数法により行ったニッケル63の測定結果も,上記AMSの結果とよく一致した。
(イ)上記2(3)イで主張のとおり,速中性子線線量についてのDS02による計算値と測定値は完全には一致しないが,人への健康の影響の観点からは無視し得る線量である。
第2 残留放射線による被曝
1 誘導放射線
(1)控訴人の主張
ア 初期放射線に含まれる中性子線により,爆心地付近の土壌のほか,建物等の建築資材,空気中の塵埃,人体や遺体などが誘導放射化し,土壌の誘導放射能をさらに増大させ,また,誘導放射化した物質は,原爆の衝撃波や爆風により破壊され,一部は粉塵として舞い上がった。被爆者は,土壌や建物が放出する放射線で被曝するほか,放射性物質が人体や衣服に付着し,あるいはこれを吸入することによって被曝した。
上記被曝態様によれば,土壌から受ける誘導放射線以外の誘導放射線も考慮されなければならないし,地表面から生じる誘導放射線(ガンマ線)だけを,地上1mの高さで計算を行うという審査の方針の線量計算にも合理性はない。
イ 土壌に由来する誘導放射線についても,DS86は,線量指定に関連があると考えられる放射性核種の複数の測定者による(放射能活性化前の元素の)測定土壌濃度の変動が大きく(<証拠略>),計算された放射化が広汎に適用できない可能性があるとしており,また,すべての原子は誘導放射化されるし(甲A302),最も重要なガンマ線放出同位元素とされる珪素31(半減期2.65時間)も考慮していない(<証拠略>)。
ウ 被控訴人の主張する誘導放射線の線量によっては,後記第5,1のように入市被爆者や遠距離被爆者に放射線被曝による急性症状が生じていることが説明できない。このことは,放射性降下物による被曝についても同様である。
(2)被控訴人の主張
ア 初期放射線の中性子線は,爆心地からの距離の2乗に反比例して低下するとの放射線の基本的な減衰の特徴に加え,空気中の分子や水蒸気との相互作用によっても急激に低下し,爆心地から大半が約600mないし約700m,微量のものまで含めると約2kmまで飛来するに止まる。また,すべての元素が誘導放射化されるのではなく,誘導放射化されるのはアルミニウム,ナトリウム,マンガン,鉄などの限られた元素であり,誘導放射化した元素の半減期は,アルミニウム28が2.31分,マンガン56が2.58時間,ナトリウム24が15時間と短く,誘導放射線による被曝を受けた者はごく限られている。
イ 上記のとおりであるから,広島においては爆心地から700m,炸裂から72時間を超えれば誘導放射線による被曝線量はほとんど無視できるところ,控訴人はそうした地域に立ち入っていない。爆心地で誘導放射化した物質が爆風により飛散することを想定しても,放射化された物質自体微量であり,それが広範囲に希釈されること,原爆炸裂のメカニズムによれば,超微少な塵となるのは木材のすす(ほとんど放射化しない炭素からなる。)位しか考えられないこと,爆心地からの爆風の後には強い吹き戻しが生じ,誘導放射化した物質も爆心地に吸い寄せられることなどを考慮すれば,有意な被曝原因にはならない。また,誘導放射化された核種の量自体限られたものであり,線量換算係数を用いて内部被曝線量を特定すれば,粉塵等の吸入によって有意の内部被曝をすることはないことが分かる。
ウ 広島の土壌データによれば,原爆投下直後から無限時間にわたり爆心地に止まり続けたと仮定しても,地上1mの積算線量は約0.50グレイ(約80レントゲン)に止まる。
エ DS86報告書は珪素31を重要でないとしてはいるが,考慮していないわけではない。また,被控訴人の主張は,控訴人が考慮していないとする核種も踏まえたものである(乙A9,乙B127)。
オ 控訴人が放射線被曝による急性症状と主張する症状が放射線による症状に当たらないことは後記第5,2のとおりである。
2 放射性降下物
(1)控訴人の主張
ア 原爆の炸裂による火球の中には,ウラン235の核分裂生成物の原子核が3兆の1兆倍個,核分裂しなかったウラン235の原子核150兆の1兆倍個,中性子を吸収したことにより誘導放射化された原爆容器等の原子核2ないし5兆の1兆倍個存在したと推定され,これらが火球内に止まっていた。
また,ウラン原子核の分裂及びこれに続く放射性核種の逐次崩壊により生成された核分裂生成原子については,従来考えられていた放射線量より遙かに放射線量は多く,実効的半減期も桁違いに長いものとなった。
火球の温度が下がるに従い,放射性微粒子が生成されて水蒸気の凝結核となり,放射能を含む雨となって地面に降下し,あるいは降下中に水分が蒸発し,黒いすすや放射性微粒子として地面に降下した。
爆心地に近いところでは,初期放射線の中性子線により,土地及び地上付近の物質の原子核が誘導放射化されて放射性原子核となり,ガンマ線とベータ線を放出し続け,直爆被爆者や入市被爆者に対し,外部被曝をさせ続けた。さらに,原爆の熱線によって火事嵐が発生し,爆心地付近の誘導放射化された物質等が上空に運ばれ,これらも地面に降下した。
イ 後記第6,1の控訴人の被爆状況を考慮すれば,控訴人は,放射性降下物や誘導放射化した物質,特に太郎や葉子あるいは被救護者などに付着したこれら放射性物質から残留放射線により外部被曝し,水や食物,呼吸等を通じて内部被曝した。さらに,黒い雨(特に断らない限り,雨の色にかかわらず,放射性物質を含む雨を指す。控訴人が黒い雨を浴びたことは後記第3,1のとおりである。)によっても控訴人は被曝した。
ウ 被控訴人の挙げる測定例の正確性に問題があることは既に主張したとおりであり(引用の原判決),大雨や2度の台風,放射性微粒子の風による飛散を考慮すれば,己斐・高須地区以外にも放射性降下物が相当量降下・浮遊していた可能性がある。DS86報告書も放射性降下物についての測定に限界があったことを認めている。理化学研究所の仁科芳雄博士(以下「仁科博士」という。)による昭和20年8月9日の土壌調査結果についても,調査箇所が28箇所と少なく全体を代表させることができないし,セシウム137のみの調査であることから,放射性降下物の有無・量を判断する根拠とはできない。
(2)被控訴人の主張
ア 上空で爆発した原爆による未分裂の核物質や核分裂生成物は,火球とともに上昇し,成層圏に達した後広範囲に拡散したのであり,放射性降下物の影響は限られたものであった。
イ 広島において放射性降下物が多く認められた己斐・高須地区においても,爆発1時間後から現在まで止まり続けたと仮定しても,その積算被曝線量は0.006ないし0.02グレイ(1ないし3レントゲン)に止まる。控訴人が黒い雨を浴びていないことは後記第3,2のとおりである。
ウ 広島に台風が襲来する前である原爆投下から5日ないし8日後に行われた残留放射線の調査において,仁保町本浦付近の試料から,自然放射線より高い放射能は検出されていない(乙A23,24)。また,仁科博士により採取された土壌試料のセシウム137濃度を測定し,換算によりすべての核分裂生成物による放射性降下物の放射線量を測定した結果,己斐・高須地区の無限時間を想定した積算線量は,最大でも4レントゲン(約0.03グレイ)であり,DS86で推定された最大3レントゲンと大差がなかった(乙A22,乙B84の1・2,85)。ほかにも高須地区の建物の壁に付着した黒い雨の試料から累積線量を測定すると,仁科博士による土壌試料の積算線量とほぼ一致するとの研究がある(乙A22)。放射性降下物の土壌に沈着した後に染み込む性質や,荷電により土中に止められる性質を考慮すれば,これが降雨によって流れ去ることがないことも不自然ではない。
3 残留放射線の線量推定方法
(1)控訴人の主張
現在,原爆による残留放射線を科学的に測定することは困難であるが,①急性放射線症状から推定する方法,②経時的なリンパ球数の変化から推定する方法,③物理的手法による体内放射線を推定する方法,④末梢血リンパ球の染色体異常から推定する方法などがある。これによると,被曝線量が0.5ないし3.3シーベルトに達したと考えられる被爆者の存在や遠距離被爆者や入市被爆者にも残留放射線の影響を強く受けている者が存在する(甲B18。広島大学名誉教授鎌田七男らの論文を指摘する。)。
(2)被控訴人の主張
控訴人指摘の鎌田七男らの論文の事例は,控訴人と被曝態様を全く異にするものである。
過去の放射線被曝線量を推定する方法として,歯のエナメル質を用いて電子スピン共鳴(ESR)という方法で線量を推定する方法と,血液中のリンパ球の染色体異常の頻度を調べる方法があるが,控訴人にこうした調査がされたわけでもない。
むしろ,DS86やDS02の線量評価によって5ミリシーベルト未満とされた遠距離被爆者(控訴人は,DS02によれば,0.1ミリシーベルト程度の被曝もしていない者に該当する。)について,染色体異常の増加が認められないとするデータがある。
第3 黒い雨
1 控訴人の主張
(1)控訴人が居住していた仁保町本浦にも黒い雨が降った。
増田善信の研究及びこれと符合する静間教授ら(<証拠略>)や藤原武夫ら(甲A73,157)による残留放射能の調査結果,平成20年の広島市によるアンケート調査(甲A362)及び大瀧慈によるその解析結果(甲A363),放影研の配布した文書(基本調査票(MSQ)等の雨情報。甲B30),第4回広島市原子爆弾被曝実態調査研究会(第2次)はいずれもこれを肯定する。なお,被控訴人主張の点を考慮しても,上記広島市のアンケート調査や第4回広島市原子爆弾被曝実態調査研究会(第2次)の信頼性は否定されない。
(2)原爆投下後核実験を始めるまでの間に建築された家屋の床下の土の分析結果によれば,従来考えられていたより広範囲に放射性降下物が検出されている。また,原爆炸裂時のきのこ雲の高度が,被控訴人の援用する黒い雨専門家会議の推定する約8kmでなく,約16kmであると推定する研究もあり,黒い雨もより広範囲に降った可能性がある。
なお,降雨量と残留放射能の強度は必ずしも関連しない。
2 被控訴人の主張
(1)重要なことは,放射性降下物がどの程度降下したかであり,その積算線量については上記第2,2(2)に主張のとおりである。
(2)控訴人が黒い雨を浴びたことを認めるに足りる証拠はない。
控訴人主張の静間教授の調査が仁保地区に黒い雨が降ったとの事実を裏付けるものではない。
広島市のアンケート調査は,3万1598人に対するアンケートについて,黒い雨を体験したと回答した者のうちの1565人から調査した体験場所・時間について考察したものに過ぎない。そして,上記アンケート結果の考察においては,被爆からの時間経過に鑑み記憶の正確さを慎重に吟味すべきであるし,黒い雨を体験しなかったと回答した者について場所や時間を確認していないことにも問題があり,大瀧慈も,統計解析の理念からは非体験者も含めた無作為抽出による回答に基づくべきであると述べている。なお,上記調査結果については,原爆体験者等健康意識調査報告書等に関する検討会において,上記調査データから黒い雨の降雨地域を確定することは困難であると判断されている。第4回広島市原子爆弾被曝実態調査研究会(第2次)も,上記アンケート結果の二次解析資料であるからその信用性を慎重に考慮すべきである。
MSQ等の雨情報も仁保地区に黒い雨が降ったことを根拠付けるものとはいえない。
第4 内部被曝ないし低線量被曝
1 内部被曝
(1)控訴人の主張
ア 黒い雨,黒いすす,放射性微粒子は,呼吸や飲食により,あるいは傷口等から体内に摂取され,肺胞や血管・リンパ管を通じて到達した組織や器官に沈着して内部被曝を引き起こした。内部被曝は,次のとおり外部被曝と異なった特徴を有し,人体に与える影響も,物理的な吸収線量を計るだけでは到底把握することのできない複雑な機序を有するのであり,その人体影響も未解明な部分が多い。したがって,原爆被爆者について,内部被曝による健康被害を重視しなくてよいとすることや,その人体影響を線量という指標だけで一括りにすることは相当でない。
イ 体内にある放射性核種から放出された放射線は,すべてが身体に及ぶため,外部被曝の場合に比べて被曝線量が大きくなる。また,ヨウ素131の半減期は8日,1000分の1に減るまで80日かかり,セシウム137の半減期は30年,1000分の1に減るまで300年かかるので,その間土壌に止まり植物やそれを食べた動物を汚染して生体濃縮が起こる。
ウ ガンマ線
ガンマ線の線量は線源からの距離に反比例する。したがって,線源が体内の至近距離にある内部被曝は,外部被曝に比べて被曝線量が格段に大きくなる。
エ アルファ線及びベータ線
アルファ線及びベータ線は飛程距離が短く,これらを放出する核種が体内に入ると,その放射線のエネルギーはほとんどすべて吸収され,被曝が非常に大きくなる。また,電離密度が大きいため,DNAの二重らせんの両方が切断され,誤って修復される可能性が増大する。内部被曝によりDNAを修復する遺伝子が傷つけられると,その後長期間を経て第2段階の変異が起こりすぐに癌になる。また,放射線がDNAを切断することによって癌が発症する。DNAの切断は細胞分裂の際に生じやすく,幼い子供など成長期の細胞に対して危険性が大きい。
オ 人工放射線核種には生体内で特異的に決まった組織や器官に濃縮されるものが多く,これらが特定の体内部に止まり放射線を放出し続けることにより,深刻な被害が生じる。放射性微粒子が身体の特定の場所に定住するとホットスポットという集中被曝の場所を作る。後記のバイスタンダー効果を考慮すると,DNAに変性を繰り返させ,癌に成長する危険を与える。
カ 体内に取り込まれた放射性核種は,体外に排泄されるか減衰しきるまで継続的に被曝を与えることになる。また,ある細胞がアルファ線に被曝した場合,その近傍の細胞にも放射線による影響が生じる(バイスタンダー効果)。
キ 内部被曝の場合,体内から長時間かけて放射線を浴びるので,急性症状が後れて発生する可能性がある。
ク 昭和3年以来,造影剤として用いられてきたトロトラスト(二酸化トリウム)は,体内に沈着してアルファ線を放出し,なかなか体外に排出されないため,長期間にわたり放射線被曝の原因となる。昭和22年にはトロトラストを投与された患者の発癌が報告され,昭和25年には使用禁止措置がとられたが,潜伏期間が長いため現在でも症例の報告が続いている。
ケ 岡島らによる長崎西山地区住民調査による内部被曝線量の算出は,セシウム137のみを算出していること,半減期の短い放射性物質が短期間で大きな放射線影響を人体に与えていることを考慮していないこと,セシウム137の生物学的半減期100日を前提とすれば,昭和44年及び昭和56年の調査では原爆による被爆時の線量を調査したといえないことが問題であるし,現存する放射性降下物についてのデータで西山地区の数値が高いとしても,同地区の住民に対する調査だけで,個別の被爆者の内部被曝線量が無視できる程度のものと推定することはできない。
(2)被控訴人の主張
ア 内部被曝も外部被曝も,その放射線が生体に与える影響の機序は同じであり,内部被曝でも外部被曝でも,被曝による健康影響を判断するのに重要なのは被曝線量である。むしろ,体内に取り込むことのできる放射性物質には量的限界があるから,内部被曝の場合は,一度に大量の被曝をさせる態様にはなりにくい。
イ 原爆被爆者に対する内部被曝の影響は無視し得るというのが確立した科学的知見である。
放射性物質中には特異的に集積する臓器が決まったものもあるが(放射性ヨウ素は甲状腺,ストロンチウム90は骨),それらの放射線核種により遠距離被爆者・入市被爆者に内部被曝があり,疾病が生じたとすれば,甲状腺癌や骨癌など特定部位に生じる癌が顕著に見られるはずであるが,遠距離被爆者・入市被爆者に見られる癌と非被爆者に見られる癌の間に差はなく,上記核種による内部被曝の影響があったとは考え難い。
ウ 控訴人の主張によっても,控訴人は爆心地4.16kmの地点で粉塵を吸い,付近の食物を食したに過ぎないところ,爆心地から2.5km地点の土壌から受ける誘導放射線でも0.00000000121グレイであるから,控訴人に想定される内部被曝が健康に影響を及ぼすものとはいえない。
エ トロトラストは,肝臓等に長期間(生物学的半減期は400年)滞留し,大量のアルファ線を含む放射線を放出する物質であり,肝臓を例に取ると1年間で400ミリグレイ(8000ミリシーベルト)もの被曝をさせる。他方,原爆により生成する放射性物質のうち人体に影響を与える代表的な物質であるセシウム137やヨウ素131についてみれば,生物学的半減期は前者が約110日,後者が約40ないし80日であるし,ともにベータ線とガンマ線を放出するところ,トロトラストが主に放出するアルファ線の生物学的効果比はベータ線及びガンマ線の20倍である。したがって,トロトラストによる内部被曝によって癌が発症したのは,大量の放射線(アルファ線)を持続的に受け続けた結果であって,内部被曝が特に危険であることの根拠にはならない。
2 低線量被曝
(1)控訴人の主張
ア 控訴人の内部被曝が低線量であったとしても,低線量被曝の人体影響は現在においても未解明の部分が多く,次のような低線量被曝の危険性を示す研究もあるから,低線量被曝であれば人体影響は無視できる程度のものであるとはいえない。
イ 単位時間当たりの放射線量を線量率という。逆線量率効果とは,同じ被曝線量であれば,長期にわたって被曝した場合のリスクが上昇することであり,高LET放射線,とりわけ核分裂中性子については,低線量率の方が高線量率照射よりも影響が大きい場合が報告されている。
ウ バイスタンダー効果とは,被曝した細胞から周辺の被曝しなかった細胞へ遠隔的に被曝の情報が伝えられ,被曝しなかった細胞にも遺伝的影響が及ぶ現象であり,低線量放射線のリスク評価のために解決すべき重要な課題とされている。
エ ゲノム不安定性とは,放射線被曝によって生じた初期の損傷を乗り越え生き残った細胞集団に,遺伝的不安定性が誘導され,長期間にわたり,遺伝的変化が非照射時の数倍ないし数十倍の頻度で生じ続ける現象であり,放射線による間接的な突然変異機構として近年注目を集めている。
オ(ア)世界保健機構(WHO)の国際ガン研究所(IARC)の15か国の原子力発電所等の労働者40万人を対象とした共同研究によると,この集団の平均線量は19ミリシーベルトであり,集団での癌死のリスクが線量とともに増加することは統計的に有意であり,癌死の過剰相対リスクは1シーベルト当たり0.97で,過剰絶対リスクに換算すると10人1シーベルト当たり0.81人の癌死のリスクとなった。
(イ)低線量被曝による健康影響を伝える研究結果は相次いでおり,放射線被曝の人体に対するリスクは低線量に至るまで直線的に存在し,しきい値はない(直線,しきい値なしモデル(LNTモデルないしLNT仮説))との見解を示すものも多く,米国科学アカデミー(BEIR)の電離放射線の生物学的影響に関する委員会やLSS(寿命調査)14報もLTNモデルを支持しており,ICRPも線量反応関係にしきい値を生じることはありそうにないと述べている。また,同じ線量を照射されるのであれば,一度に照射されるよりも分割して照射される方が安全であるとの命題には裏付けがないとの指摘もある。
(ウ)上記1(1)エのとおり,子供ほど放射線被曝の影響を受けやすく,0歳の子供は被曝する人数によらず,合計被曝線量が66レムであれば1人が癌で死ぬとの見解(甲B24)や大人と子供の放射線の影響の比率を1対4とする見解が存在し(ICRP,BEIR),当時1歳に満たなかった控訴人にとって低線量被曝が安全とはいえない。
(2)被控訴人の主張
ア 同じ線量を照射されるのであれば,一度に照射されるよりも分割して照射される方が健康への被害が少ないから,同じ線量であれば,初期放射線による被曝の方が,時間をかけて被曝する残留放射線による内部被曝より健康被害が大きいと考えられる。
イ 逆線量率効果に関する控訴人の主張は争う。体内に摂取された放射性物質から中性子が放出されることはないというのが科学的知見である。
ウ バイスタンダー効果及びゲノム不安定性に関する控訴人の主張は争う。バイスタンダー効果もゲノム不安定性も,細胞レベルでの現象を説明した一つの仮説に過ぎず,低線量の被曝であれば,内部被曝であっても癌が発症するリスクはほとんどないという確立した知見を否定しようとするものではない。
エ 控訴人主張のIARCによる共同研究は,15か国のうちカナダの研究結果について調査の誤りが発表され,最初の論文の信憑性はなくなったとされており,控訴人主張の低線量被曝リスクが生じることの根拠とはなり得ない。
オ BEIRがLNT仮説を支持する報告書を出しているとしても,フランス医学アカデミーは反対の声明を出しており,LNT仮説は未だ仮説に過ぎない。LSS14報もLNT仮説が科学的に確立した知見であると断定しているものではない。
第5 放射線被曝による急性症状
1 控訴人の主張
(1)遠距離被爆者に生じた症状は,主として誘導放射化された大量の粉塵や放射性降下物が放出する放射線により外部被曝及び内部被曝したことによる急性症状であり,入市被爆者に生じた症状は,誘導放射線及び放射性降下物による外部被曝及び内部被曝の影響である。
(2)原爆投下後の調査結果による症状は,爆心地からの距離に応じて系統的に症状が発生しているし,他の大規模被災において脱毛等の症状は発生しておらず,ストレス,栄養不足,感染症等が原因とも考え難く,原爆放射線による急性症状とみなければ説明できない。なお,急性放射線症に関する統一的な知見があるとはいえないこと,原爆による被曝態様は極めて複雑であるから,放射線事故における急性放射線症の概念をそのまま原爆被爆者に当てはめることが相当でないことは,既に主張したとおりである(引用の原判決)。
2 被控訴人の主張
(1)ア 被曝による急性症状は,特有の発症時期,発症経過を示し,しきい線量(被曝した集団の1ないし5%の者に異常が認められる線量)のあることが確立した医学的知見となっている。
イ 最低1グレイ以上全身に被曝すると,数時間以内に食欲低下,嘔吐,発熱(2グレイ以上の被曝)といった前駆症状が出現し,被曝線量が高いと出現が早まることはあるが,出現が遅くなることはない。前駆期を過ぎると潜伏期に入るが,やはり,被曝線量が高いと潜伏期が短くなることはあるが,長くなることはない。なお,約5グレイ以上被曝した場合は,遅くとも被曝の3ないし8時間後に前駆症状としての下痢が現れる。
ウ 潜伏期後には,次のような主症状が出現する。
(ア)出血傾向(歯茎からの出血,紫斑を含む)は,約2グレイ以上被曝した場合に骨髄が障害され,血小板が一時的に減少することによって生じる。回復可能な障害の場合,皮下出血(紫斑)は被曝後3週間経過したころから出現し,血小板数の回復に沿って消失するもので,前駆期や潜伏期に該当する時期に発症することはなく,長期間継続することもない。
(イ)脱毛(皮膚障害)は,約3グレイ以上被曝した場合に毛母細胞が障害されて生じる。被曝後8ないし10日後から出現し,ほとんどの毛髪が脱落するまで2,3週間続き,3グレイ程度の全身被曝をすれば,頭髪の一部だけが抜けたり,少量ずつ抜けることもない。3グレイ程度の被曝であれば,8ないし12週間後には発毛が見られるが,7グレイ以上被曝すれば永久脱毛となる。また,頭部の毛根に集積する放射性物質はないから,内部被曝により脱毛は生じない。
(ウ)下痢は,約8グレイ以上被曝した場合,潜伏期を経て,腸管細胞が障害することによって発症期の下痢が現れる。この場合,大量の消化管出血となるが,それは腸管細胞が死滅し再起不能となることに起因するもので,予後は非常に悪い。なお,発症期の下痢が生じる場合は,通常前駆期の下痢も伴う。
(2)原爆による被曝であっても,放射線被曝であることはほかの被曝と同じであるから,原爆放射線に起因する急性症状にのみ特別の発症過程があるわけではない。また,急性症状は組織の恒常性が維持できないほどの線量を一度に被曝しなければ発症しないから,低線量で持続的な被曝となる内部被曝は急性症状を起こしにくい傾向がある。
(3)被曝による急性症状については,上記のとおり前駆期,潜伏期,発症期に上記のような経過をたどり,死の転帰をたどらず回復期に入った場合,急性症状が再発したり,年単位で継続することはない。したがって,倦怠感・体調不良が長期間継続したとしても,これを被曝による急性症状と見ることはできない。
(4)以上の点に照らせば,原爆投下後の下痢,脱毛,紫斑などの症状について,上記知見による特徴を備えているか否かを検討せずに,直ちに放射線による急性症状であるとすることはできない。また,原爆投下後の調査結果によっても,爆心地からの距離に応じて系統的に症状が発生しているともいえない。したがって,上記症状をもって被爆者の被曝線量を計算したり,内部被曝の健康影響の根拠とすることは相当ではない。
第6 控訴人の被爆状況
1 控訴人の主張
(1)昭和20年8月6日,原爆炸裂直後から,爆心地から避難してきた多くの被爆者が臨時救護所となった仁保国民学校に集まった。被爆者は全身に灰を被っていた。母葉子は,看護婦の資格を持ち,控訴人を背負って被爆者らの救護に当たった。
父太郎は,被爆当日から,師範学校で負傷者の手当,仁保国民学校への見舞い,重傷者の搬送,死体の火葬・埋葬などに従事したほか,昭和20年8月16日には爆心地付近で勤労動員されていた学生の捜索も行った。
(2)控訴人は,被爆時1歳に満たない乳児であったところ,被爆後,汚染された井戸水を飲み,畑で収穫された野菜を食べるなどした。
控訴人は,被爆者らの救護に当たった葉子に背負われて過ごし,夕方に帰宅した太郎とも一緒に過ごしていた。
控訴人の自宅は,原爆の炸裂により天井が押し上げられて屋根瓦が剥ぎ取られるなど半壊状態となった。
(3)このため,控訴人は,初期放射線や残留放射線による外部被曝のほか,避難してきた被爆者や葉子,太郎らに付着した放射性物質により内部被曝・外部被曝をし,さらに,家族ともども,黒い雨や放射性降下物により外部被曝し,あるいは呼吸や飲食を通じて内部被曝をした。
2 被控訴人の主張
(1)DS86,DS02の線量評価と誤差の程度,実際の調査結果によれば,控訴人の被曝線量がその健康に影響を及ぼすほどのものでなかったことは,既に主張したとおりである(引用の原判決を含む。)。また,被控訴人の被爆状況からして,初期放射線及び残留放射線による被曝の程度が,控訴人の健康に影響を与えるほどのものでなかったことも既に主張したとおりである(引用の原判決)。
(2)仁保町本浦に黒い雨が降ったと認められないことは上記第3,2のとおりである。また,控訴人が黒い雨を浴びたことを認めるに足りる証拠もない。
第7 控訴人の放射線による急性症状
1 控訴人の主張
(1)ア 控訴人には,被爆後,下痢,嘔吐,脱毛の急性症状が存在した。
イ ABCC調査記録には,医療従事者でない者の限られた人員による調査であり,治療を目的とする調査ではなかったため,入市被爆者や遠距離被爆者の人体影響が軽視されたことや,被爆者らにおいても,調査が屈辱的なものであったため調査に協力的ではなく,また,差別等を恐れて被爆の事実や症状を過少申告することが多かったという問題点があり,葉子は女児である控訴人の将来を案じて,控訴人の急性症状の存在を過少申告したものと考えられる。また,控訴人の被爆者健康手帳交付申請書についても,急性症状の有無が参考事項に過ぎなかったことから,「下痢を起こしていた」と最小限の記載をしたものである。他方,控訴人は,急性症状の存在が放射線起因性認定の指標となることを知ったことなどから,葉子から聴取りをしたうえで,原爆症認定の申請書には急性症状について正確に記載している。したがって,上記記録などに脱毛や嘔吐の記載のないことは,控訴人の供述の信用性を減殺しない。
ウ 控訴人の下痢は血性のものであった可能性が高い。
また,原爆症の腸障害はその程度に応じて単なる下痢から出血性下痢・粘液性下痢まで様々な症状を呈するものであり,控訴人を含めて家族全員が被爆後の昭和20年8月下旬ころから中等度の下痢を発症し,6か月間継続しているから,控訴人の下痢が非血性であったとしても,放射線被曝によるものである。
仁保地区の食糧事情は良好であったし(「原爆と仁保」「広島原爆戦災誌」。甲B8,18),感染症が蔓延したとの記録もない。控訴人や家族が栄養失調に罹患していた証拠はなく,母乳で栄養を摂っていた控訴人が栄養失調状態にあったとは考えられない。また,栄養失調に起因する下痢はその増悪期に発症するから,被爆時に乳児であった控訴人に栄養失調を原因とする下痢は発生しない(甲B13)。
エ 低線量で持続的な被曝では急性症状が生じにくいとの被控訴人の主張は大人を前提としたものであり,被爆当時1歳に満たなかった控訴人にはそのまま当てはまらない。
(2)控訴人は,呼吸や飲食を通じて内部被曝したと考えられ,脱毛・紫斑・下痢の発症率に関する調査結果や広島県在住の被爆者と非被爆者との悪性新生物の死亡比などから,0.85ないし0.97グレイの被曝をしたものであり,初期放射線量でいえば1400mないし1200mの距離における被曝に対応する。
2 被控訴人の主張
(1)ア 控訴人に脱毛及び嘔吐の症状がなかったこと,仮に控訴人の主張に係る症状が認められたとしても,それが放射線被曝による急性症状の特徴を備えていないこと,控訴人や家族に発生した症状には放射線被曝以外の原因が考えられることは既に主張したとおりである(引用の原判決)。
イ 控訴人の被爆者健康手帳交付申請やABCC調査において,あえて事実と異なる申告等が行われたと認めるに足りる合理的な根拠はない。また,控訴人は,原爆症認定の申請に当たり,急性症状について葉子から聴取りを行い,正確に記載したと主張するが,控訴人は,原審においてそのような供述をしておらず,本人尋問においては原爆症認定申請書を作成するに当たって,特に葉子から話を聞いたことはないと述べている。
(2)控訴人の被曝線量に関する主張(甲B14)には,放射線による急性症状といえないものを急性症状と断定している点,移植皮膚頭髪の5%が抜ける線量を集団の5%が脱毛を経験する線量と同視している点,線量評価のための換算式が恣意的である点に問題がある。
第8 控訴人の骨粗鬆症その他の体調不良
1 控訴人の主張
(1)控訴人は高等学校入学後,膝,足首,両肘等の関節痛に悩まされ,昭和43年ころには腰痛,平成2年には変形性関節症,平成17年には骨粗鬆症の診断を受けている。これらの症状や疾病は,控訴人が残留放射線により内部被曝したことにより,血行障害及び骨細胞障害が引き起こされて骨量が減少し,骨の発達に異常を来したために生じた可能性も十分ある。
また,控訴人は,中学3年生のころから生理が始まったが,生理は後れがちで,生理痛もひどく,高校在学中には子宮発育不全と診断された。この子宮発育不全は,放射線被曝による甲状腺や脳下垂体の機能低下のため発生したと考えられる。
したがって,控訴人の被曝量は,審査の方針により算定されるほどの低線量ではなく,骨の発達障害や甲状腺機能低下を生じさせるほどの線量であったというべきである。
(2)骨については,放射線被曝により,血行障害,骨細胞障害,成長阻害などが認められるとの知見がある。また,上野陽里医師は,控訴人の子宮発育不全は被曝による甲状腺や脳下垂体の機能低下により発生したと考えている(甲B13)。
2 被控訴人の主張
(1)控訴人の主張は争う。
(2)診療録を見ても控訴人主張事実を裏付ける記載はないし,骨粗鬆症の原爆放射線の起因性は明確に否定されているというのが現在の科学的知見の到達点である。控訴人の挙げる知見は被控訴人の被爆状況と一致しないし,北川一郎医師(以下「北川医師」もしくは「証人北川」という。)も,控訴人に骨粗鬆症があるとしても,放射線に起因するものでないと明言している。
(3)上野陽里医師指摘の子宮発育障害の内容は不明であり,これが子宮発育不全の意味だとしても,2児を正常に出産している控訴人に子宮発育不全は考え難い。また,控訴人に甲状腺疾患は認められないし,子宮発育不全が甲状腺疾患によるとする根拠も不明である。
第9 子宮体癌のリスク
1 控訴人の主張
(1)子宮体癌のリスク要因としては,閉経年齢が遅い,出産例がない,肥満,エストロゲン産生などがリスク要因とされているが,控訴人は2子を出産しており,ほかに格別のリスク要因もない。
(2)LSS第13報において,子宮癌の過剰相対リスク(相対リスク(被曝群の死亡率もしくは発病率と対照群とのそれ)から1を引いたもので,調査対象となるリスク要因によって増加した割合を示す。)の90%信頼区間の中央値がプラスに位置していることは既に主張したとおりであるが(引用の原判決),LSS第14報(乙B107)では,90%信頼区間の中央値がさらにプラス方向に移動している。
(3)プレストン論文(甲A306,347,乙A186)が,小児期での被曝が子宮体癌のリスクを増加させるかもしれないという証拠が今回のデータから示唆されたと報告していることは既に主張したとおりである(引用の原判決。ただし,新プレストン論文と表記。)。
(4)上記の点に,控訴人の被爆状況や上記第4,2(1)で主張したところに照らせば,控訴人の子宮体癌が放射線に起因することは明らかである。
2 被控訴人の主張
(1)控訴人には,好発年齢のほかにも閉経後という子宮体癌の具体的リスク要因が認められる。また,控訴人には現在に至るまで子宮体癌の再発転移が認められないのであるから,予後が悪いわけでもなく,控訴人の子宮体癌は,非被爆者の子宮体癌と変わるところはない。
(2)プレストン論文が,控訴人の子宮体癌に放射線起因性のあること,小児期被曝の場合子宮体癌のリスクが増加することを示しているわけではないことは,既に主張したとおりである(引用の原判決)。
第10 多重癌の可能性
1 控訴人の主張
(1)多重癌と放射線起因性
控訴人の膵粘液性嚢胞腫瘍及びスリガラス状小結節陰影は,癌に進行する可能性が高く,これらに対する放射線被曝の影響は否定できない。
控訴人は,ほぼ多重癌に近い状態にある。そして,多重癌については,放射線の影響を指摘する文献,研究結果が存在する(甲A307)。したがって,上記膵粘液性嚢胞腫瘍やスリガラス状小結節陰影は,控訴人の子宮体癌の放射線起因性を推認させる事情に当たる。
(2)膵粘液性嚢胞腫瘍(腺腫)
ア 膵粘液性嚢胞腫瘍は,癌の前段階と理解するのが医師の常識となっており,また,全身の多臓器癌の1つとして発生する傾向がある。控訴人の膵粘液性嚢胞腫瘍につき経過観察とせず,手術が行われたのは癌化の可能性が高いからである。また,膵粘液性嚢胞腫瘍は,検査時期によっては良性とも悪性とも判断される場合があるので,膵粘液性嚢胞腫瘍だから良性とはいえない。控訴人が慢性膵炎に罹患していたことはない。
イ プレストン論文,LSS第13報及び広島における原爆被害者の膵癌死亡率の分析(甲A349,350)が膵癌と放射線の関連性を示していることは既に主張したとおりである(引用の原判決)。また,LSS14報では膵癌の過剰相対リスクの95%信頼区間は症例数が増加するに従い狭くなっており,統計的に有意になる可能性が高い。
(3)スリガラス陰影
控訴人は,平成18年12月,水島協同病院における胸部CT検査で3右肺の下葉にスリガラス状小結節陰影(GGO。GOOとあるは誤記と認める。)が認められ,画像診断により腺腫様過形成(AH)~異形腺腫様過形成(AAH)~腺癌と診断がされた。AHからAAHを経て腺癌の経過をたどることは,病理学検査でも普通に受け入れられており,径5mmないし6mmで経過観察により消退傾向を示さない控訴人のGGOは,肺癌の可能性が考えられる。北川医師も同様の意見であり,現在治療を行っていないのは,低線量CTによる肺癌検診の肺結節の判定基準と経過観察ガイドライン第2版に従って,経過観察を行っているからである。
2 被控訴人の主張
(1)控訴人は多重癌に罹患したとの主張は争う。
(2)膵粘液性嚢胞腺腫
膵粘液性嚢胞腺腫は良性腫瘍であり,膵癌とは異なること,プレストン論文も膵粘液性嚢胞腺腫の放射線起因性を根拠付けないこと,控訴人がアルコール過飲傾向にあり,慢性膵炎に罹患していたことは既に主張したとおりである(引用の原判決)。
(3)スリガラス陰影
控訴人が肺癌に罹患していないこと,控訴人のGGOが癌になる可能性は非常に低いこと,肺癌を前提とする対応が何ら取られなかったことは既に主張したとおりである(引用の原判決)。
別紙2
第1 初期放射線
1 爆心地から4.0kmの地点で被爆すれば,DS86の計算による被曝線量は遮蔽の有無に関係なく0グレイに等しく,DS02の計算によれば約0.0001グレイである(乙A1,弁論の全趣旨)。
2 ガンマ線
長友教授らによれば,爆心地から2.05kmのガンマ線線量の平均測定値は129±23ミリグレイであり,対応するDS86の計算値は0.0605グレイであり,実測値が計算値の約2.2倍となるとされ,また,ガンマ線カーマが爆心地から約1.3kmでDS86の計算値を超過し始め,この不一致は距離とともに増加することが示唆されている。さらに,DS86報告書(乙A18の185頁)においても,爆心地から1000mの距離において,計算値に対し実測値の方が大きくなる傾向が示され,DS02報告書にも,遠距離では測定値が計算値よりも高いことを示唆する若干の例があるとの記載がある。(<証拠略>)
しかし,上記のように初期放射線についてのDS86の計算による広島におけるガンマ線の被曝線量については,遠距離において測定値を系統的に下回るとされ(<証拠略>),DS02においてもこれが完全に解決したとはいえないとしても,その絶対値は僅かなものといえ(控訴人の援用する澤田教授の意見書(甲A14)のグラフでも,長崎原爆についてではあるが,爆心地から2.5kmのガンマ線線量につき,DS86の計算値の3倍ないし4倍の線量を推定するに止まっている(ただし,その後作成された意見書(甲A60)においては,長崎原爆のガンマ線についてDS86の線量評価は比較的実測値とよく一致しているとも述べる。)。)こと,澤田教授の研究(甲B14,20,21,33の1ないし3)においても,DS02が爆心地から2.25kmないし2.75kmにおけるガンマ線の線量を0.0302グレイないし0.0053グレイであることを前提としていること,上記のようなバックグラウンド線量の誤差の問題もあることを考慮すれば,上記の測定値と計算値の相違を重大視することはできない。
3 中性子線
熱中性子線については,中性子から誘導されたコバルト60やユーロピウム152の比放射能測定とDS02において推定された熱中性子線量から推計した被放射能との比較,塩素36の放射化測定実験結果によれば,近距離ではDS02の計算値と比較的よく一致し,遠距離では実測値が計算値を上回る傾向のあるものもあったが,誤差が大きいとされた。ユーロピウム152についての小村教授の測定結果に基づき計算すれば,上記爆心地から1424m地点の中性子線量は0.0285グレイであり,DS02の計算によれば爆心地から1425m地点の中性子線量は0.0147グレイとなる。
速中性子線については,中性子により誘導されたニッケル63,リン32の測定の測定がされた。ニッケル63については,爆心地から900mないし1500mにおける試料について,よく一致するとされたが,バックグラウンドの評価の問題等から,なお,DS02の測定値に対する過小評価を問題とする見解もある。リン32については,爆心地近くではDS86,DS02とも計算値が測定値とよく一致しているとされたが,遠距離では計算値が測定値に比べて過小評価となっているとの指摘もあるが,いずれにせよ,測定値の誤差が大きいとされた。(<証拠略>)
以上によれば,中性子線についてもDS86,DS02と測定値の不一致の問題が完全に解決したとはいえないとしても,やはり,その絶対値は僅かなものといえ,中性子線は大気中の水蒸気との相互作用で減弱される性質を有するため(甲A17,乙A3,9),初期放射線の全線量に対する中性子線の割合は,1000mで5.8%,1500mで1.7%,2000mで0.5%と非常に低いこと(乙A9,10),澤田教授の研究(甲B14,21)においても,爆心地から2.25kmないし2.75kmでは中性子線量はほとんど無視できるとしていることを考慮すれば,上記の測定値と計算値の相違を重大視することはできない。
4 以上に認定・説示した事情を考慮すれば,爆心地から4160ないし4200mにおいて被爆した控訴人が,初期放射線により人体の健康に有意の影響を与えるに足りる被曝をしたとは認めるに足りない。
なお,澤田教授の意見書(甲A60)には,コバルト60の測定値に基づき理論式を求め,理論値と測定値との差のカイ2乗が統計学的に予想される値より小さくなるような処理をして熱中性子線量を推定した結果,爆心地から900mを超えるとDS86の計算による線量は過小評価となり,急速に不一致が拡大する旨記載されている。しかし,不一致の程度を示すグラフ(同号証の図7a)は距離2500mまでの数値を示すに止まり(上記手法は実測値が存在しない領域まで物理的にもっともらしい推定をすることを可能とするとも記載されているが,実際どの程度の距離まで有効なのかは明らかでない。),澤田教授自身も控訴人が被爆した仁保町地域には初期放射線は到達していないとしていること(甲B14)に鑑みれば,上記意見書の記載は,控訴人の被曝線量についての上記判断を左右するに足りない。
控訴人は,乙A11の1添付の資料35,42,60を援用して塩素36やユーロピウム152の測定値がDS86やDS02による計算値との間に系統的なずれがあると主張するが,既に説示した事情や上記澤田教授の見解に照らせば,上記判断を左右するに足りない。また,控訴人が指摘する小佐古助教授のDS02策定時のニッケル63に関する1400m以遠の試料の測定データに関する別事件における証言(乙A11の2)は,誤差や測定感度を問題にするものに過ぎず,上記判断を左右しない。
第2 残留放射線,内部被曝ないし低線量被曝及び急性症状
1 原爆投下後の天候
(1)原爆炸裂当日の広島は,地域によって異なるが,炸裂の約20分後から降雨があり,4時間以上降雨が続いた地域もあった。また,己斐・高須地区は爆心からの風下に当たり,炸裂約20分後から1時間後から激しい降雨があった(甲A69,70,乙A4,18)。
(2)原爆炸裂後の広島市の降雨量は,昭和20年8月18日が0.4mm,同月25日が16.5mm,同月26日が1.8mm,同月27日が30.6mm,同月30日が44.7mm,同月31日が37.9mmであり,同年9月1ないし4日に十数mmずつ,同月9日,11日も同様であり,同月14日が31.9mmであって,原爆後約2週間はほとんど乾燥状態が続いた。広島市及び長崎市は,ともに昭和20年9月17日の台風に遭い,さらに広島市は同年10月9日に2度目の台風に遭っており,前者の台風の際には広島市では219mmの降雨量が計測され,市内の橋梁の大半が流失した。なお,上記台風のほか,原爆炸裂後3か月間で,広島市には900mm,長崎市には1200mmの降雨があったとされている(甲A64,乙A18)。
2 誘導放射線
(1)証拠(<証拠略>)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。
ア 広島・長崎においては,複数の学者により誘導放射能の計算が行われており,その間に土壌中の誘導放射化に関連する元素の放射能活性化前の元素の濃度も測定されている。
イ グリッツナーらは,爆心からの距離ごとに中性子スペクトルを計算し,土壌中の元素の種類,含有率及び放射化断面積(核種ごとの核反応の生じる確率)をもとに生成された放射能を計算し,誘導放射化された物質から放出されたガンマ線が地上1mに達するまでのガンマ線の透過を計算し,線量率(レントゲン/時間)を求めた。
橋詰雅らは,土壌や建材などの試料を集めてその化学的成分を測定した上,土壌からの炸裂直後から無限時間までのガンマ線量を推定し,さらに瓦等の建築材料の比放射能や瓦のガンマ線照射率から,瓦による累積線量は土壌からの線量に比べて相当低くなると評価した。ただし,土壌からの線量評価自体(広島約80ラド,長崎30ラド)は,中性子フルエンス(単位面積当たりの中性子量。乙A20)の数値が正確でなかったとして,DS86報告書において採用されていない。
ウ 上記研究等を総括した岡島俊三らは,DS86報告書において,誘導放射線による被曝につき,炸裂直後から爆心地に無限時間止まった場合の累積被曝線量は広島で0.5グレイ(約80レントゲン),長崎で0.18ないし0.24グレイ(30ないし40レントゲン)とされた。その場合,積算線量の約80%を1日目が占めており,2日目から5日目までが約10%,6日目以降が約10%となる。また,広島においては爆心地から500mの累積被曝線量は0.009グレイ,1000mで0.0017グレイ,1500mで0.000048グレイとされた。
グリッツナーらは,珪素を含む16種類の核種を対象として,輸送計算を用いて土壌中に生成する放射能量を求め,爆心地での無限積算外部被曝量として,広島で1.4グレイ,長崎で0.7グレイという値を報告している。
エ 京都大学原子炉実験所の今中哲二は,グリッツナーらの計算結果をDS02に応用することにより,誘導放射線による地上1mでの被曝線量を求めた。その結果は,爆心地での炸裂直後から無限時間までの積算線量は,広島が爆心地で1.2グレイ,爆心から1キロで0.0039グレイ,1.5キロで0.0001グレイであり,長崎が爆心地で0.57グレイ,爆心から1キロで0.0014グレイ,1.5キロで0.00005グレイである。また,爆心地での1日後から無限時間までの積算線量は広島で0.19グレイ,長崎で0.055グレイ,1週間後から無限時間までの積算線量は広島で0.0094グレイ,長崎で0.014グレイとなった。また,誘導放射化された塵埃の吸入による被曝について,ナトリウム24とスカンジウム46を吸入の対象とし,DS02の検証計算で得られた地上1mによる中性子束を用いて,爆心地から1km以内の平均値を計算したところ,炸裂当日に広島で8時間の片付け作業に従事した場合の内部被曝を評価すると,0.06マイクロシーベルトとなった。
オ 田中憲一らは,ベータ線及びガンマ線由来の皮膚線量を,放射化した地面からの被曝(高さ1m)及び皮膚に付着した土壌からの被曝の両方につき評価した結果,爆心地における炸裂から7日目までの線量の合計は0.84グレイであったが(皮膚付着土壌の寄与は1%程度。),高さ2.5cmでは線量が約15%高くなった。
(2)上記調査に対する評価ないし知見等
ア 中性子は大気中を伝播する過程において大気中の水蒸気との相互作用により急速にエネルギーを低下させ熱中性子に変化する。熱中性子の吸収による反応(捕獲反応)を起こす元素は土壌中に極めて微量しか存在せず,被曝にほとんど寄与しない。速中性子と反応(荷重粒子放出反応)し,被曝に寄与する可能性のある元素はアルミニウム28,マンガン56,ナトリウム24,鉄56と限られており,半減期も極めて短い。そのため,広島では爆心地から700mを超えると,炸裂から8時間留まり続けても0.01グレイに満たず,健康に有意の影響を与えないとの知見がある。(<証拠略>)
イ 土壌中の放射能活性化前の元素の濃度については,DS86報告書(乙A18の221頁)や橋詰雅らの論文の6頁(乙A144の添付資料)によっても各測定結果間の変動性は大きく,DS86報告書にも,計算された放射化が広汎に適用されないかも知れないとの評価が記載されている(現実の被曝線量がどの程度変わるのかは不明である。)。当時の広島は建物が密集していたから,土壌と異なる元素構成を持つ建材もあるとの指摘もある。また,人体も誘導放射化するとの知見もあり(ただし,これによる被曝の程度は明らかでない。),看護や死体の埋葬に関わった者が被曝したことが想定できるとの見解がある。(<証拠略>)
他方,JCO臨界事故において高線量の被曝をした人体が健康影響に有意な放射線を放出することはなかったとの知見があり,人の体重の60%以上は水であり,人体には誘導放射化される元素が微量しか存在しないから,人体は有意な放射線源とはなり得ず,上記(1)イの橋詰雅の研究から,土壌からの誘導放射線のみを考慮すれば十分であるとの見解もある(<証拠略>)。
なお,控訴人は,澤田教授の意見書(甲A302の15頁)を援用して,すべての原子が放射化すると主張するが,澤田教授は,誘導放射化に特別な条件は必要ないと述べているに留まり,同教授の研究(甲A17の73頁以下)によれば,むしろ,健康影響との関係で有意に放射化する元素は限定されていると思われる。また,齋藤紀医師や郷地秀夫医師はそこに分子と原子があればすべて放射化するとも述べているが(甲A118の4,甲B32),その趣旨及び根拠は明確でなく,上記判断を左右しない。
ウ 被爆者は核分裂生成物等の放射能埃を身体や衣服に付着させており,これらの者を救護した者や付き添っていた者は,放射能埃を吸引し,これを身体に付着させることにより被曝することが考えられ,地上1mの高さでのガンマ線量を評価するだけでは十分でないとの評価がある(甲A339,甲B18,42)。
他方,地上1mは,被曝者の重要な臓器・組織の位置を考慮したものであり,ベータ線の透過力やガンマ線も面線源からの照射とみることができるし,皮膚付着物から相当量の被曝があれば発生した筈の急性皮膚障害の報告もないから,合理的な被曝線量算定方法であるとの評価がある(<証拠略>)。
エ 原爆炸裂による爆風による誘導放射化物質の飛散について,爆風は最初の爆心地から周囲に向けて強烈な風が吹くが,1秒程度で風向きは爆心地方向へと変わり,やや遅い速度で長時間吹き続け,土砂や埃の移動は差引き0になる。しかし,広島や長崎のように山に挟まれた吹出口や全壊・半壊した建物が存在すると,吹き戻しの風はそれほど強くならず,誘導放射化された物質は遠方に運ばれたまま残されるとの知見もある。ただし,これについては,爆風を考慮しても,遠方での被曝線量は爆心地における累積被曝線量以下に止まるとの指摘もある。(<証拠略>)
3 放射性降下物による外部被曝
(1)放射性降下物に関する調査等
証拠(<証拠略>)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。
ア 仁科博士らは,昭和20年8月9日,広島の爆心地から5km以内の28箇所から土壌試料(以下「仁科土壌」という。)を採取した。
イ 大阪帝国大学の浅田常三郎教授らは,昭和20年8月10日,11日に広島市内数箇所から砂を採取して放射能(ベータ線)を測定したところ,爆心地に近い西練兵場や護国神社及び己斐駅周辺において比較的放射能が高いことが確認されたが,己斐駅付近の試料中にも自然計数よりも稍少とされたものもあった。
ウ 京都帝国大学の荒勝文策教授らは,昭和20年8月13,14日,広島市内外約100箇所から数百種の試料を採取して放射能(ベータ線)を測定したところ,己斐駅付近の旭橋東詰において比較的放射能が高かったが,己斐駅西南法約三百米や同駅付近の己斐橋東詰の試料について自然計数程度とされたものもあった。
エ 理化学研究所の山崎文男らは,昭和20年9月3,4日,広島市内外のガンマ線の強度を測定したところ,高須付近の古江東部にバックグラウンドのおよそ2倍程度(1時間当たり約0.12マイクログレイ)の線量が確認された。
日米合同調査団は,昭和20年10月3日から7日まで,広島の100箇所,長崎の900箇所において放射能測定を行い,両爆心地と広島市の高須地区,長崎市の西山地区の放射能が高いとの結果を得た。
オ マンハッタン技術部隊は,昭和20年10月3日から7日まで,NavalMedicalResearchInstitute(NMRI)は,同年11月1・2日,広島市で調査を行った。広島の己斐・高須地区の原爆炸裂後1時間目から無限時間を想定した地上1m地点での放射性降下物による積算線量につき,Tyboutは,マンハッタン技術部隊の調査結果に基づき,1・2レントゲンと報告し,Paceらは,NMRIの調査結果に基づき,0.6ないし1.6レントゲンと報告した。
カ 藤原武夫らは,昭和20年9月13日から24日の間と昭和23年1月ないし6月に,広島の放射線量の測定を行ったところ,己斐・高須地区や爆心地付近の放射能が強く,ほかにも自然の1.5ないし2倍程度の強さの放射能を測定した箇所があった。藤原は上記結果に基づき,己斐・高須地区の積算線量を1レントゲンと報告した。昭和23年2月の測定結果のうちには9レントゲンを示すものもあったが,DS86報告書においては,早期の測定よりも重みが少ないとしている。また,宮崎らは,昭和21年1月27日から2月7日まで調査を行い,これに基づき己斐・高須地区の積算線量を3レントゲンと報告した。
キ 上記研究等を総括した岡島俊三らは,DS86報告書において,炸裂1時間後から無限時間に至るまで己斐・高須地区に留まり続けた場合の放射性降下物による被曝線量を0.006ないし0.02グレイ(1ないし3レントゲン)と結論づけた。
ただし,DS86報告書においても,測定が風雨の影響がある以前に速やかに行われなかったこと,風雨の影響を十分に考慮できていないこと,測定場所の数が少なく,標本の偏りのある可能性などを留保している。
ク 静間教授らは,平成8年,仁科土壌のうち22の試料のセシウム137を測定し,すべての核生成物による累積線量に積算した結果,己斐に近い西大橋付近の試料が4レントゲン(約0.03グレイ)であり,これを除いた10試料(検出限界以上のセシウムを検出したもの)の平均値が0.12±0.02レントゲン(約0.001グレイ)となった。
静間教授は,平成15年,高須地区の家屋の黒い雨の跡が残る内壁のセシウム137の測定データから,己斐・高須地区の積算線量を3.7レントゲンと推定した。
ケ なお,米国ネバダ州における核実験から得たデータにより,セシウム137の測定データを利用して,全核分裂生成物の被曝線量に換算することができる。
コ マンハッタン技術部隊は,昭和20年9月21日から10月4日にかけて,NMRIは,同年10月15日から27日にかけて,それぞれ長崎市で調査を行っているところ,長崎の西山地区の積算線量につき,Tyboutは,マンハッタン技術部隊の調査結果に基づき,29レントゲン又は24ないし43レントゲンと報告し,Paceらは,NMRIの調査結果に基づき,最大42レントゲンと報告した。
また,Millerは,昭和31年に採取された試料のセシウム137の測定データに基づき,西山地区の積算線量を40レントゲンと報告した。
DS86報告書は,炸裂1時間後から無限時間に至るまで西山地区に留まり続けた場合の放射性降下物による被曝線量を0.12ないし0.24グレイ(20ないし40レントゲン)と結論づけた。
(2)上記調査に対する評価ないし知見等
ア 原爆の炸裂により火球が生成され,核分裂生成物,未分裂核物質,誘導放射化した原爆機材等が火球の内部にあって急上昇し,冷却して放射性原子核は放射性微粒子となり,水蒸気が吸着されて原子雲が形成される。原子雲は圏界面に達しても上昇を続け,雨滴は氷塊となり,黒い雨となって広い範囲に降下し,原子雲の大部分は圏界面に沿って四方に広がり,下降気流によって下降し,水分が蒸発して黒いすすになって,黒い雨の降雨域よりさらに広い範囲に降下したとの見解がある。(<証拠略>)
他方,大気圏内での核兵器の炸裂により発生した核分裂生成物の大部分は,炸裂時の超高熱により発生した上昇気流により対流圏に運ばれ,長時間かけて放射性降下物として全地球上に徐々に降下しており,広島や長崎に人体に影響を及ぼすほどのまとまった線量の核分裂生成物や未分裂の放射性核種は降下していないとの知見がある(<証拠略>)。
イ 広島では,被曝当日の大雨や昭和20年9月17日及び同年10月10日の台風により,放射性降下物はほとんどすべて流失している。また,黒いすす等の放射性微粒子は,風によって運び去られている。さらには,空気中を浮遊する放射性降下物の微粒子は測定できていないし,その他の試料も,放射性降下物の全容をとらえたものとはいえないとの見解がある。したがって,DS86報告書等の測定結果が放射性降下物による被曝線量のすべてを評価しているとはいえない。また,仁科土壌は台風前に採取されたものであるが,わずかな箇所の調査であるから全体の放射性降下物の降下状況を代表するものとはいえないとの指摘があり,さらに,福島第一原子力発電所の事故において,周辺地域の放射線量が不均一であり,局地的に放射線量の高い箇所が存在するとの知見がある。(<証拠略>)
他方,放射性降下物は,一部雨で流されるものもあるが,被爆後ある程度の時間が経っていれば,台風等の後であっても測定は可能であるとの知見もあり,上記(1)アの仁科土壌からの累積線量積算結果について,静間教授は,西大橋付近の試料(4レントゲン)を除いた測定結果は,早期の外部放射線測定による評価とよい一致をしたとしている。なお,同教授は,(1)ケの研究においても3.7レントゲンの値を得ている。(<証拠略>)
4 内部被曝ないし低線量被曝
(1)内部被曝
ア 調査等
(ア)岡島らは,昭和44年,原爆による放射性降下物が顕著に認められた長崎の西山地区の住民及び対照群について,ホールボディカウンターによるセシウム137の内部付加を測定し,さらに,昭和56年,比較的高い数値を示した者について2回目の測定を行った。その結果,実測結果をもとにした内部被曝の被曝線量算定結果によれば,昭和20年から昭和60年の40年間で男性が10ミリレム,女性が8ミリレムである(甲67文献12・13,乙A2ないし4,18,20)。
(イ)今中哲治の計算によれば,吸入の対象をナトリウム24とスカンジウム46として,DS02検証計算に基づく地上1m中性子束を用いて,誘導放射化された塵埃の吸入による内部被曝線量について,爆心地から1km以内の平均値を計算したところ,炸裂当日に広島で8時間の片付け作業に従事した場合の評価は0.06マイクロシーベルトとなった(<証拠略>)。
(ウ)石榑信人は,西山地区へのセシウム137の降下量の最高推定値は1平方センチメートル当たり3.3ベクレルであるとして,これを基礎に,浦上川の水を1リットル飲んだことによる内部被曝線量(50年間の実効線量)を計算し,セシウム137につき0.0000046(4.6×10のマイナス6乗)シーベルト,ストロンチウム90につき0.00000092(9.2×10のマイナス7乗)シーベルトとなるとの結果を得た(乙A105,弁論の全趣旨)。
イ 控訴人は,控訴人の子宮体癌の放射線起因性を判断するに当たり,内部被曝の危険性について外部被曝と異なる評価をすべきであると主張し,被控訴人は,内部被曝の影響は無視し得る程度のものであり,外部被曝と区別して重視すべき理由もないと主張する。これらの主張の基礎となる知見は,細かなニュアンスの差を除けば,概ね次のとおりである。
(ア)同一の放射性核種の点線源を考えた場合,放射線の線量は線源からの距離に反比例するから,線源が体内に存在する場合,体外に存在する場合より被曝線量が大きくなるとの知見がある(甲A129)。
(イ)内部被曝では,放射性物質が体内に存在する限り被曝が続くとの点では,控訴人の援用する知見と被控訴人の援用する知見は見解の一致をみている。
(ウ)放射性微粒子が体内に存在する限り被曝が続くため,崩壊系列中のすべての放射線が被曝に関与するため,継続的に大きな被曝を受けることになるとの見解がある。呼吸により吸入されるおそれのある1ミクロンの大きさの微粒子中にも100億個の放射性原子を含むこともあり得るから,こうした放射性微粒子が,呼吸を通じて肺胞に入り,体内全体に行き渡り,あるいは特定の器官に沈着・蓄積することにより,その器官・組織はその放出する放射線により継続的・集中的に被曝するとの見解がある。ベータ崩壊は半減期が短いので,多量のベータ線が短時間に放出されるとの見解がある。また,分割照射が安全とはいえないとの見解がある。(<証拠略>)。
他方,内部被曝は線量率が低く,ガンマ線等では線量率が低い方が,照射中に細胞の修復機能が働くので,健康への影響は小さいとの見解があり,ヒトやマウス,鶏卵を用いた実験の結果もこれを裏付けるとの知見がある。微粒子状の放射性核種では,微粒子内での自己吸収のため線量自体が低くなるし,微粒子が沈着した組織の細胞は集中的に高線量を被曝して細胞死するため癌化は起こらないとの見解もある。また,放射性物質は,生体の代謝によって体外に排出されるから,実効半減期を考慮すべきであるし,内部被曝により大量の被曝をするには,原爆炸裂直後の土壌を大量に摂取する必要があり,そのような事態は想定し難いとの指摘がある。そして,結論的に,外部被曝でも内部被曝でも,全身や組織,臓器が受ける放射線の量が同じであれば,人体影響に差はなく,内部被曝であるというのみで危険が高まるものではないとする。(<証拠略>)。
(エ)内部被曝の場合は,飛程や透過力の小さいアルファ線やベータ線による被曝も問題となるが,これらの放射線は短い飛程球殻内において高密度で電離を起こすため,微粒子に接する球殻内(ないしホットスポット)の細胞はほとんど細胞死し,その外側の球殻内の細胞も誤った生体修復を起こす可能性が高くなり,晩発障害の原因となるとの見解がある。
また,ICRPの採用する線量・線量率効果係数が2(高線量・高線量率の被曝によるリスクに2分の1を乗じる。)であることに十分な根拠は示されていないとの指摘や,内部被曝の場合は被曝線量を算出すること自体が非常に困難であること,チェルノブイリ原子力発電所事故では被曝線量の推定が極めて困難であったとの指摘もある。
被控訴人指摘のチャールズらの実験(乙A106の1・2)は,一定方向から一様の放射線ビームを照射する実験に基づくものであり,放射性微粒子による放射状の被曝を再現したものとはいえないとして,内部被曝に係るホットパーティクル理論は否定されていないとの見解がある。(<証拠略>)
他方,分子を電離する機構はベータ線もガンマ線も同じであるから,ガンマ線による外部被曝とベータ線による内部被曝は,線量が同じなら効果も同じであるが,アルファ線は電離の密度が極めて高いので,RBE20で補正した等価線量を用いてリスク評価をしているとの知見がある。また,ベータ線放出核種(ヨウ素131,セシウム137)による内部被曝については,動物実験やヒトへの投与例,医療被曝の疫学研究やチェルノブイリ事故による内部被曝の線量推定結果などから,アルファ線放出核種についても,REBを20,線量・線量率効果係数を2として計算すれば,動物実験やヒトに対するトロストラト投与による内部被曝の検討結果から,いずれも内部被曝の危険性は外部被曝と同等以下となるとの知見がある。
上記のとおり,微粒子状の放射性核種では癌化は起こらないし,飛程の短いアルファ線による細胞死はわずかであるから,生存した細胞で代償されて臓器や器官機能低下は起こらず,確定的影響に係る障害も起こらない。結局,ホットパーティクル理論(ホットパーティクル(放射性微粒子)が,その沈着した細胞のごく近傍の細胞に高いエネルギー(線量)を与え,これにより重大な健康被害を引き起こす可能性があるとの考え方。)は放射線障害を説明できないとの見解もある。
チャールズらは,ホットパーティクル理論の評価のため,皮膚に対する放射線の均一照射,不均一照射及びその中間形態の照射を行ってその発癌効果を比較したところ,均一照射の場合が最も発癌性が高いとの結論を得た(乙A106の1・2)。(<証拠略>)
(オ)内部被曝の影響は極めて深刻になる可能性があり,こうした事態が発症率は低いにせよ,原爆被爆者に急性症状を引き起こしたと考えられる。内部被曝により発症した下痢の場合,腸の組織等に近接した放射性微粒子からの透過力の弱い放射線が,高密度の電離により腸壁の膜に深刻な障害を与えて下痢を引き起こす。内部被曝は継続的な被曝を与えるため,一般的に急性症状が後れて発症したり,症状が慢性となる場合もあることが理解でき,また,内部被曝による急性症状については,外部被曝のように線量や急性症状の閾値を評価することは困難であるとの見解がある。また,内部被曝によって急性症状を発症した被爆者は,大量の放射性微粒子を体内に取り込んだと考えられるとの見解もある。(<証拠略>)。
他方,放射線による急性症状が起こるためには,組織の恒常性を阻害するに足りる線量を被曝することが必要であるから,線量率の低い内部被曝では急性症状は起こらない筈であり,ヒトの疫学でも動物実験でも0.8グレイの被曝で放射線消化管障害が発生するとの報告はない。また,アルファ線は透過力が弱いため,消化管粘膜の下にある組織幹細胞まで届かないので,大腸組織に対するRBEは0とされているとの知見がある。(<証拠略>)
(カ)被爆後24年を経過して行われた長崎西山地区住民に対するホールボディカウンターによる測定結果は,測定の直前1年間に地域の作物から摂取したセシウム137のうち,体内に残されたものを測定したものに止まる。被爆当時摂取したセシウム137は100日間の生物学的半減期で体外に排出されているから,被爆当時の内部被曝線量を推定したことにはならないし,短寿命の放射性降下物の影響やアルファ線やベータ線の影響を知ることはできないとの指摘がある。(<証拠略>)
他方,内部被曝の線量評価の際には,線量換算係数を用いるなどして,アルファ線やベータ線からの被曝線量も考慮しているし,物理的半減期の短い核種が体内に摂取される機会は極めて小さく,ウランやプルトニウムの核分裂収率及び生成された放射性核種の性状から考えて,短寿命核種による内部被曝線量は,セシウム137による被曝を超えることはない。また,内部被曝の線量評価は,放射性物質の体内量からモデルを用いて摂取量を求め,摂取時からの預託線量を評価するものであり,西山地区に居住を続けている期間の摂取量を元に評価するのであるから,線量評価に問題ないとの見解がある。(<証拠略>)
(キ)広がった原子雲の下では,放射性降下物が降下し,被爆者は,放射性微粒子を呼吸,飲食などにより摂取し,内部被曝をしたほか,救護所等では被爆者に付着した放射性降下物の埃が充満し,介護者や付添人は,これを吸入するなどして内部被曝したとの見解がある(<証拠略>)。
他方,原爆炸裂後の降雨が誘導放射性核種を取り除いたし,誘導放射化された土壌や建物から舞い上がった衝撃塵は,大き過ぎて呼吸による内部被曝の原因となり得ないし,比較的小さい火災塵には誘導放射化が問題になる元素はほとんど含まれていない。水は中性子の吸収体であるから,水や水分を含む食料も誘導放射化しないとの見解がある(乙A2,3,20)。
ウ 控訴人は,さらに,控訴人の子宮体癌の放射線起因性を判断するに当たり,低線量被曝による人体影響についても十分考慮すべきであると主張し,被控訴人は,内部被曝であっても低線量被曝であれば癌発症のリスクはほとんどないと主張する。これらの主張の基礎となる知見は,細かなニュアンスの差を除けば,概ね次のとおりである。
(ア)通常の低LET放射線では,線量率が低くなると生物効果は低減するとされているが,高LET放射線,とりわけ核分裂中性子線においては,低線量率の方が高線量率照射よりも影響が大きい場合が報告され(逆線量率効果),培養細胞についての試験管内癌化を指標とした研究において,明らかな逆線量率効果がみられるとの報告がある。また,低LET放射線でも逆線量率効果がみられるとの報告がある。
他方,現在のところ,逆線量率効果の機構は不明であるとされ,逆線量率効果がヒトの低線量リスク評価に大きく寄与するとは考えにくいとの評価がある。(以上,甲A149,301)
(イ)アルファ線やX線の照射を受けた細胞に隣接し,自身は照射を受けていない細胞に染色体異常,突然変異,癌化などの遺伝的効果が発生することが指摘され(バイスタンダー効果),低線量や低線量率照射の場合には,被曝しなかった細胞にもDNA損傷が生じることから,高線量や高線量率照射に比べて遺伝子効果リスクが高くなることを示唆するものであり,低線量放射線のリスク評価のため解決すべき重要な課題とされている。しかし,現時点でバイスタンダー効果により放射線被曝による発癌が説明できるとまではされていない(<証拠略>)。
(ウ)近年,放射線による間接的な突然変異誘発機構としてゲノム不安定性の誘導が注目を集めているところ,0.1ないし0.2グレイの低線量域では培養細胞でDNA突然変異より悪性形質転換の頻度が圧倒的に高く,DNAではなく細胞膜の異変から発癌過程が始まるモデルが提唱されている。ゲノム不安定性等の間接的な発癌機構は,低線量リスクにとって重要な意味を持つとされるが,他方,ゲノム不安定性誘導の分子機構が不明であるため,現時点では低線量リスクとの関わりは明確でないとされている。(<証拠略>)
(エ)BEIRに設置された低線量被爆健康リスク評価委員会の総括報告がLNT仮説を支持しているほか,多くの学者もこれを支持している。
IARCが15か国400万人を対象とした被曝労働者についての共同研究では,集団の癌死リスクが線量とともに増加することは統計的に有意であり,100ミリシーベルトの5分の1の値の被曝集団でも癌死と線量は統計的に有意な比例関係を示しているとされた。また。LSS第14報では,寿命調査集団8万6611人のうち昭和25年から平成15年までに死亡した者に対する追跡調査結果につき,全固形癌について過剰相対危険度が有意となる最小推定線量範囲は0─0.2グレイであり,定型的な線量閾値解析で閾値は認められなかったとした。(<証拠略>)
他方,これまで得られた疫学・生物学的知見を総合しても,100ミリシーベルト以下の低線量で癌が誘発されるかどうかは分かっていないとの知見もある。また,上記共同研究については,カナダ原子力委員会から調査の誤りが発表され,その結果,低線量被曝による固形癌死亡の過剰相対リスクに有意の増加は認められなくなったとの報告がある。また,フランス医学アカデミーはLNT仮説に反対の声明を出し,いまだに議論があるとされている。また,LSS第14報の参考資料には,過剰相対リスクについて最も適合するモデル直線は閾値0であるが,リスクが有意となる線量域は0.2グレイ以上であったなどと記載されている。(<証拠略>)
5 放射線被曝による急性症状
(1)被爆者の症状に関する調査等
ア 陸軍軍医学校の報告(昭和20年11月30日。乙A102)
昭和20年8月6日夕刻から11日まで爆心付近で死体発掘等の作業に従事した兵員65名,同月8日から11日夜半まで爆心地付近で清掃作業を行った兵員55名,炸裂後爆心地付近で勤務した兵員1名,同月9日ころから爆心地で整理に従事した兵員10名について,白血球数等の検査を行った結果,1名が8月11日から8日間下痢・食思不良,9月6日同月24日に白血球数が3200であったのを除き,異常を認めなかった。
宇品で被爆した後中心地で行動した市民20名の血液検査の結果,8月10日に広島に帰り,爆心地から500m地点で各種作業を行った1名については白血球数が少なかったものの,すぐに回復し,脱毛等の症状もなかった。
イ 九州大学医学部沢田内科教室(乙A103)
昭和20年8月9日炸裂時に遠隔地にあり,直後から爆心地付近に居住する10名(同月30日検血),同日爆心地以外で被爆後,爆心地付近で居住する7名(同日検血),炸裂3日後から爆心地付近で活動した13名(同年9月7,8日検血)につき,白血球数を検査したところ,被爆後爆心地に居住した7名につき白血球減少傾向がみられたほかは,全く正常であった。
ウ 九州帝国大学医学部放射線治療教室(乙A104,126)
爆心地から1000ないし1500mにあった工場の従業員110名について,昭和20年9月10,11日に白血球数の検査を行った結果,被爆した93名中33名が4000以下であったが,炸裂当日遠隔地にあって,その直後又は数日後から1か月間同工場で救護等に当たった17名については,白血球数4000以下の者はなかった。
エ 東京帝国大学医学部
(ア)梶谷鐶らの報告書(<証拠略>)
東京帝国大学医学部が,昭和20年10月中旬から11月にかけて,爆心地から5kmの範囲の被検者5120名につき診察及び調査をした結果は次のとおりである。
a 3km以内で被爆した4406名中909名に放射能傷(原爆放射線症。脱毛,皮膚溢血斑,壊疽性又は出血性口内炎症のいずれか1症状を示したもの)がみられ,うち脱毛を示した者が707名,皮膚溢血斑を示した者が345名,口内炎症を示した者が516名あり,いずれも症状も爆心地からの距離が遠くなるほど発現率が低くなるが,とりわけ1kmから2kmの間において急に減少している。上記909名中には下痢を示した者もあり(480例),その距離別の発現率は42%ないし2.5%であり,0.6kmから1km以内で被爆した者の発現率(42%)が0.5km以内で被爆した者の発現率(37%)を上回るほかは,爆心地からの距離が遠くなるほど発現率が低くなっている。上記各症状の2.5km以遠の発生率は,脱毛が1.7%(9例),皮膚溢血斑が1.5%(8例),口内炎症が1.9%(10例),下痢が2.5%(13例)である。
b 放射能傷を示さない者を含めると,下痢の発症は爆心地から5kmまでいずれの距離においても認められ(1915例),4.6kmから5kmにおける発現率は25.1%(38例)である。なお,発現率は必ずしも爆心地からの距離に応じて減少していないが,概ね遠距離になるほど発現率が低くなる傾向はある。
c 遮蔽と放射能傷の発症率の関係では,蔭や内での被爆による発症率が外での被爆のそれを上回る例があるが,概ね,遮蔽のある状態での被爆の発症率が低い傾向はある。
(イ)筧弘毅の報告書(甲A67文献5,86,124の9,331)
上記調査において脱毛のみられたとする707名について行った調査の結果は次のとおりである。
a 脱毛出現最大距離は爆心地から2.6kmないし2.8kmであり,1km以内では出現率が70%を超えるが,1.6ないし2.5kmでは約6ないし9%(2km以遠で75例),2.6ないし3kmでは1.8%(9例)に減少した。脱毛開始時期は早いものは被爆後数日で始まっているが,多くは2週間前後に多発している。
b 報告書中には,調査時期との関係で一部の脱毛は既に恢復しており,多数の調査票の中には記載上の誤りも含まれているであろうとの記載がある。
オ 長崎医科大学の調来助らの観察(昭和20年10月から12月。甲A67文献4,90,乙B115)
(ア)被爆距離3km以内の死亡者例において,出血と脱毛を発症した者及び出血を発症したが脱毛は発症しなかった者の数は,いずれも被爆距離が遠くなるほど減少した。
(イ)脱毛の発症の頻度は被爆距離が遠くなるほど減少する傾向にあり,遮蔽状況との関係では,生存者例では屋外開放の頻度が最も多く,次いでコンクリート屋内,壕内が最も少ない。ただし,死亡者例では,距離との関係では1km以内の発症頻度が1.5km以内より低く,遮蔽との関係では屋外開放の発症頻度が屋外陰より低くなっているところ,調来助らは脱毛以前に死亡したためと考えている。
生存者例においては被爆距離2ないし3kmで56例(3.2%),3ないし4kmで19例(1.8%)の脱毛発症例が,死亡者例では2ないし3kmで2例(20%)の脱毛発症例がある。
(ウ)死亡者例における脱毛の出現時期は,被爆距離1km以内で第1週が34.6%,第2週が28.8%,第3週が26.9%,第4週が1.9%であり,同1.5km以内がそれぞれ10.3%,25.6%,35.9%,10.3%であり,同2km以内が第2週が1人,第3週が2人,同3km以内が第2週及び第4週が各1人であった。9月以降に発症した例はない(発症時期不詳の例を除く。)。
(エ)生存者例による下痢の発症頻度は,女子において1kmまでが36.8%,1から1.5kmが44.7%である以外は,概ね爆心地から近距離において発症頻度が高い。2ないし3kmの発症例は523例(30.1%),3ないし4kmの発症例は256例(24%)である。死亡例は3kmまでの調査であるが,必ずしも距離と発症頻度が関連しているとはいえない。
カ 日米合同調査団報告書(昭和26年。甲A6,124の13,332)
広島市において行った調査(調査人数6466名ないし6460名)の結果は次のとおりである。
(ア)脱毛,紫斑及び下痢については,0kmから5km以遠までの距離について,屋外被爆又は日本家屋内で被爆した者,堅固な建物内で被爆した者,防空壕又はトンネル内で被爆した者に分けて調査がされ,いずれの被爆態様においても,概ね被爆地からの距離が遠いほど発症率が低くなる傾向がみられた。また,脱毛,紫斑に比べて下痢の発症率が高く,いずれの被爆態様においても,下痢の平均発症率は40%前後である。
(イ)遮蔽との関係では,1km以内の被爆を除けば,必ずしも遮蔽のある被爆者,もしくは堅固な建物内にいた被爆者の発症率が低いともいえない。
外又は日本家屋内での被爆の場合,2600ないし3000mで脱毛の発症数が16人(2.4%),紫斑の発症数が12人(1.8%),下痢の発症数が251人(37.2%),3100ないし4000でそれぞれ7人(1.3%),7人(1.3%),124人(22.6%),4100ないし5000mで0人,3人(1.5%),50人(24.8%),5000m以遠で紫斑が1人(2.2%),下痢が18人(39.1%)であった。
キ 放影研(昭和27年以降。甲A87)
放影研が昭和47年以降の約10年間に行った被爆後60日以内の脱毛に関する調査の結果,広島5万8500人において中3857人(うち重度1120人。軽度を4分の1未満,中等度を4分の1以上3分の2未満,重度を3分の2以上とする。),長崎において2万8132人中1349人(うち重度287人)に脱毛が認められた。爆心地から2km以内での脱毛の頻度は爆心に近いほど高く,爆心からの距離とともに急速に減少し,2kmから3kmにかけて穏やかに減少し(3%前後),3km以遠でも少しは認められたが(1%),ほとんど距離とは独立であった。
ク 於保源作医師(甲A5,67文献6,117の15,124の8)
於保源作医師が昭和32年1月から同年7月までの間,広島市において行った原爆放射能障碍(熱外傷,外傷,発熱,下痢,皮粘膜出血,咽喉痛,脱毛)に関する調査の結果は次のとおりである。
(ア)原爆直後(原爆直後から3か月以内)中心地(爆心地から1km以内)に入らなかった被爆者(被爆者とは昭和20年8月6日午前8時15分現在広島市にいた人を指す。)については,屋内被爆者(調査人数1878名)及び屋外被爆者(同652名)とも,爆心地からの距離5km以遠の者を除くと,一部遠距離における発症率が若干高くなった例はあるものの,概ね爆心地からの距離が近くなるほど,また,屋内被爆者より屋外被爆者の方が有症者(原爆から3か月以内に原爆放射能障碍及び同熱障碍を受けた者を指すと思われる。)の率は高くなる傾向がみられた。
爆心地から2.5km,3km,3.5km,4km,4.5km,5km以遠の発症率は,下痢につき,屋内被爆者が18.7%,14.8%,8.4%,4%,1.3%,1.7%,屋外被爆者が23%,22.9%,12.6%,7.1%,0%,2%であり,脱毛につき,屋内被爆者が5.4%,2.9%,0.9%,3%,0%,0.8%,屋外被爆者が10.9%,12%,0.1%,2.8%,0%,4%であった。
(イ)原爆直後中心地に出入りした被爆者についても概ね上記(ア)と同様の傾向がみられたが,4km以遠においては,距離が遠くなるほど,あるいは屋内被爆者より屋外被爆者の方が有症者の率が高くなるとは必ずしもいえなかった(調査人数・屋内被爆者1018名,屋外被爆者398名)。
爆心地から2.5km,3km,3.5km,4km,4.5km及び5km以遠の各発症率は,下痢につき,屋内被爆者が30.3%,28.7%,21.5%,11.7%,16.8%,19.7%,屋外被爆者が30%,28%,24.6%,21%,18.7%,14.2%であり,脱毛につき,屋内被爆者が6.8%,8.6%,4%,1.8%,2.5%,5.2%,屋外被爆者が7.5%,12.2%,7.6%,7.6%,9.3%,2.3%であった。
(ウ)有症者の率を平均すると,原爆直後に中心地に出入りした屋外被爆者(51%),原爆直後に中心地に入らなかった屋外被爆者(44%),原爆直後に中心地に出入りした屋内被爆者(36.5%),原爆直後に中心地に入らなかった屋内被爆者(20.2%)の順となる。
(エ)原爆直後入市し中心地に入らなかった非被爆者については,調査人数104名中有症者は全くいなかった。
(オ)原爆直後入市し中心地に出入りした非被爆者については,その入市時期について昭和20年8月6日から10月5日までの者525名について調査しており,8月11日までの入市者の有症者の率が高いとの傾向がみられたが,必ずしも入市時期と有症者の率が対応しているわけではない。また,その中心地滞在時間についてみると,滞在時間が15日までは概ね滞在時間が長いほど有症率が高いという傾向がみられた。
昭和20年8月7,8日に入市した消防団員中には帰還後1ないし5日で発熱,下痢,粘血便,皮膚粘膜の出血等を発症した者が多数あるが,家族には同様の病気にかかった者はいなかった。また,525名中26.4%が発熱し,10.3%は3週間以上続いた高熱患者であり,525名中30.8%に急性下痢を認め,11.6%が赤痢ようの高熱と粘血便を訴え,治療には数日から3,4か月を要した。
ケ 横田賢一らの長崎原爆の急性症状発現における地形遮蔽の効果(甲A67文献15,117の7・8,乙B74。平成16年)
(ア)横田賢一らは,昭和45年1月1日現在長崎市に居住し急性症状の情報が得られた9910人のうち,遮蔽地域(爆心から見て山や丘の陰となる地域)で被爆した1601人と無遮蔽地域で被爆した1715人について急性症状の発現頻度を比較すると,遮蔽地域と無遮蔽地域の各急性症状の発現頻度は,嘔吐につき1.5%と5.1%,下痢が9.5%と22.3%,発熱が3.9%と12%,脱毛が1.9%と5.1%,皮下出血が1.2%と1.8%,鼻出血が0.9%と3.8%,歯肉出血が2.5%と4.3%,口内炎が2.6%と4%と,各症状につき遮蔽地域の方が無遮蔽地域よりも低かった。
上記研究の対象とした遮蔽地域及び無遮蔽地域の中心は爆心から約2.5kmである。
(イ)脱毛は昭和20年9月30日までに発現が見られたものとし,程度分類では頭髪の50%以上のものを重度,50%未満を軽度とした。遮蔽地域では軽度と重度の頻度がそれぞれ1.8%と0.1%であり,無遮蔽地域の4%と1.1%に比べ,重度脱毛の比率が少なかった。
コ 横田賢一らの長崎原爆における被爆距離別の急性症状に関する研究(甲A89,117の7)
(ア)横田賢一らは,長崎市の調査から得られた情報をもとに,長崎における被爆距離3.5km以内の被爆者3000人を無作為抽出し,急性症状の発症頻度を調べたところ,下痢,発熱,脱毛等の症状があったのは全体の36.2%であり,被爆距離1.5km未満で60%の人に症状があり,1.5ないし1.9kmでは40%,2km以遠では30%以下となった。症状内容は下痢26%,発熱18%,脱毛12%,歯肉出血10%,嘔吐10%等であった。
(イ)脱毛の頻度については,被爆距離1km未満では30%を超えるが,1.5km未満で30%弱,2km未満で10%を下回り,2.5km未満で6.1%,3km未満で3.6%であった。発症時期はどの被爆距離でも約60%が8月中に,約30%が9月中に発症している。
脱毛の程度も被爆距離が遠くなるほど重度(調査票の記載が半分及びそれ以上のもの)及び中等度(同3割,中位等)の症例が減り,軽度(同少し,軽い等)が増えている。被爆距離2ないし2.9kmの重・中等度の症例(合計12例)につき,発症時期9月で脱毛の程度を重,3分の2,半分位とする例や,発症時期10月で脱毛の程度を頭全部,半分等とする例も見られた。
サ 横田賢一らの被爆状況別の急性症状に関する研究(甲A88。平成12年)
横田賢一らは,長崎における被爆距離4km未満の被爆者1万2905人に対し,急性症状に関する調査を行ったところ,被爆距離3km未満では,脱毛の頻度は遮蔽なしの場合が遮蔽ありの場合より高く,脱毛の程度も被爆距離が遠くなるほど重度(半分以上と評価できるもの)及び中等度(重度及び軽度以外)の症例が減り,軽度(少し,軽いと評価できるもの)が増えている。脱毛の発症時期については,どの被爆距離でも約60%が8月中に,約30%が9月中に発症している。また,2.5ないし2.9kmにおいて重度13例,中等度15例,軽度67例の脱毛が生じ,3ないし3.9kmの距離においても重度及び中等度各2例,軽度12例の脱毛が生じている。
(2)放射線被爆による急性症状に関する知見等
ア 急性放射線障害には,一般に約1グレイ以上の線量を体幹等主要な部分に被曝すると発症し,前駆期,潜伏期,発症期,回復期(もしくは死亡期)と4つの病期に分かれ,回復した後に下痢等が再度繰り返されることはないし,脱毛等は大部分の毛髪が一時期に脱落するなどの特徴があるとされる。また,前駆症状としての嘔吐は1グレイ以上の被曝により2時間以降に,下痢は4ないし6グレイ以上の被曝により1時間から8時間で現れ,一時的脱毛は2もしくは3グレイ以上の被曝により2,3週間後に,永久脱毛は7グレイ以上の被曝により3週間後に現れ(閾線量は,被曝者のうち1ないし5%の者が発症する線量。),急性症状の発現率も,閾線量の小さい嘔吐,脱毛,下痢の順で高くなるとする。これらの知見は,前駆症状については,昭和61年のチェルノブイリ原子力発電所事故を初めとして平成3年までに世界の5か所で起こった事故における医学的知見を基礎にIAEAがまとめたものであり,脱毛を含む放射線皮膚障害の閾線量については動物実験や健常人による実験などを基礎にICRPがまとめたものである。そして,下痢や脱毛等は非特異的な症状であるから,被曝線量が閾線量に満たない者の症状や上記発症経過に合致しない症状は,放射線以外の原因(下痢であれば細菌やウイルス,寄生虫・原虫・真菌,ストレス等,脱毛であればストレス,内分泌障害,脱毛症等)によるものと考えるべきであるとする。(<証拠略>)
他方,原爆放射線による被曝の場合,中性子線とガンマ線を主体に様々な放射線を様々な態様で浴びたこと,熱線や爆風の被害も受けたこと,栄養状態や衛生状態が劣悪であること,被曝後に十分な医療を受けられなかったことなどの特殊で過酷な事情があるから,動物実験や偶々起こったヒトの被曝から得られた急性放射線障害に関する一般的な知見がそのまま適用されるとはいえず,閾値とされる線量より低線量で急性症状が現れることとなるとの見解がある。そして,症状が持続することや,一旦回復しても再燃することもあるとの見解がある。また,急性症状が現れる場合,上記閾値はともかくとして,相当の被曝をしているとも考えられるとの見解もある。(<証拠略>)
イ チェルノブイリ原子力発電所事故,ビキニ環礁の原水爆実験の際に発生した症状をみれば,放射線熱傷や脱毛に比べて下痢の発症頻度が低く,相当程度の内部被曝をした者にも下痢は発症していないとの知見がある(乙B57)。
ウ LSS集団の調査から得られたデータを解析した結果,被爆後60日以内に脱毛があると報告された者は,同程度の放射線被曝がありながら脱毛を呈さなかった者に比べ,白血病で死亡する可能性が高いとの知見(それ以外の癌に有意差なし。),あるいは,昭和20年9月までに頭髪の半分以上の脱毛があった被爆者とそうでない者を比較すると前者において癌死亡率が高かったとの知見がある(<証拠略>)。
第3 小括
1 第2で認定したところによれば,次にようにいうことができる。
(1)誘導放射線
誘導放射線による被曝線量算定に関する事情は上記認定のとおりであるところ,これらの調査結果や計算方法自体を否定する調査や研究があるとはいえない。また,複数ある土壌中の放射能活性化前の元素の濃度測定結果の間の変動性が大きいことや土壌と異なる元素構成を持つ建材等が誘導放射化された可能性があるとしても,第1において初期放射線に含まれる中性子線について説示したところに照らせば,控訴人が被爆した爆心地から約4kmの地点における土壌その他の物質の誘導放射化により,健康に有意の影響を与える程度の放射線が生じるとは認め難いし,爆風による誘導放射化物質の飛散についても,上記爆心地からの距離と爆心地からの爆風に続いて爆心地へ向かう風が吹くことに照らせば,地形や損壊した建物の存在による歩留まりを考慮しても,上記判断を左右する事情とはいえない(澤田教授も,控訴人の被爆について専ら放射性降下物による被曝を問題としている。甲B14,33の1ないし3)。なお,上記第2,2(2)の知見及び後記の控訴人の被曝態様に照らせば,誘導放射化した人体が控訴人の健康影響にとって有意な放射線源となっていたとまでは認められない。また,被曝線量を地上1mの高さで測定することについても,控訴人に対する外部被曝線量の評価に当たり,問題となるとはいえない。
したがって,少なくとも,誘導放射線による外部被曝により,控訴人が健康影響の点で有意の被曝をしたと認めるまでの事情があるとはいえない。もっとも,誘導放射化された衝撃塵や火災塵が,上昇気流により対流圏に至り,放射性降下物として降下することによる被曝(甲A303,乙A12ないし14)は別途考慮が必要である。
(2)放射性降下物
ア(ア)DS86報告書は,炸裂1時間後から無限時間に至るまで留まり続けた場合の放射性降下物による被曝線量につき,広島の己斐・高須地区が0.006ないし0.02グレイ(1ないし3レントゲン)と,長崎の西山地区が0.12ないし0.24グレイ(20ないし40レントゲン)としている。これらの数値は,マンハッタン技術部隊の調査(広島・昭和20年10月3日から7日,長崎・同年9月21日から10月4日),NMRIの調査(広島・同年11月1,2日,長崎・同年10月15日から27日),藤原武夫らの調査(広島・同年9月13日から24日と昭和23年1,2月),宮崎らの調査(昭和21年1月27日から2月7日)に基づくものであるところ,上記調査については,原爆当日の黒い雨や昭和20年9月17日(広島,長崎),同年10月9日(広島)の台風の際の降雨等により,放射性降下物が一定程度流失したことが疑われる。
(イ)静間教授は,昭和20年8月9日に採取された仁科土壌を分析し,己斐に近い西大橋付近の試料の被曝線量が約0.03グレイ(4レントゲン)であり,これを除いた10試料の被曝線量の平均値が約0.001グレイであると推定し,また,高須地区の家屋内壁の黒い雨の跡の測定データから,己斐・高須地区の積算線量を3.7レントゲンと推定した。仁科土壌は,上記台風以前に採取されたものであるが,黒い雨による流失の可能性は残るし,乾燥した放射性降下物は,その後晴天が続く中で風により飛散するなどし,測定がされなかった可能性もある。(<証拠略>)
(ウ)そして,上記第2,3認定の各測定結果中には,広島における放射性降下物が必ずしも均一に降下していたわけではないことをうかがわせるものがあり(本件と直接の関係はないが,福島第一原子力発電所事故においても,発電所周囲の放射線量が場所によって不均一であることが認められる。),DS86報告書の留保するところも併せ考慮すれば,上記調査結果が,広島における放射性降下物の実情を網羅的に示すに足りるといいきれるかには疑問が残る。また,上記認定のとおり,遠距離・入市被爆者の中には急性症状がみられるところ(その評価は,後記2(2)のとおりである。),初期放射線について第1で説示したところを前提とすれば,上記症状は,放射性降下物(誘導放射化した物質の降下を含む。)による被曝線量が上記線量評価の範囲に止まらない可能性を示すものと評価できる。
イ 鈴木元教授は,放射性降下物であるセシウムは,一部雨で流されるものもあるが,被爆後ある程度の時間が経っていれば,台風等の後であっても測定は可能であると述べ(乙B110),セシウムが土壌に強く保持されることを示す証拠(乙B86ないし88)もあるが,上記各証拠を総合すれば,降下後早期に一定程度の流失のあることを否定するとまではいえない。
ウ もっとも,上記測定やこれに基づく線量評価に限界があるとしても,その程度は明らかではなく,上記の点をとらえて,控訴人が,放射性降下物によって健康影響の点で有意の被曝をしたと直ちに認めることはできず,測定や線量評価の持つ上記問題点を考慮して,控訴人の子宮体癌の放射線起因性を判断すべきこととなる。
(3)内部被曝・低線量被曝
控訴人の主張する内部被曝や低線量被曝の危険性についても,これを積極的に肯定し得るだけの知見が蓄積されているとまではいい難い。
2(1)しかしながら,上記認定のとおり,内部被曝に伴う低線量被曝のリスク評価等については種々の研究が進行中であり,なお結論が出ているとはいえないし,少なからぬ専門家や医師(<証拠略>)が内部被曝の危険性を指摘しており,これらが全く根拠のないものとして排斥するに足りる知見が確立しているとも認められない。
(2)ア 被爆者の発症した急性症状について認定したところによれば,遠距離被爆者については,被爆者に生じた症状は,概ね爆心地からの距離が遠くなるに従って発症率が低くなり,遮蔽のない状態で被爆した者より遮蔽のある状態で被爆した者の発症率が低くなる傾向がみられるし,原爆後広島市中心部に入った被爆者も,放射線による急性症状と同種の症状を訴えている。その他の調査やアンケート(<証拠略>)もこれを否定するものではない。そして,下痢や脱毛等の放射線による急性症状と類似する症状は特異的なものでないとしても,上記のような傾向を考慮すれば,上記症状のうちのすべてとはいえないとしても,その中には放射線によって発生した症状が相当数含まれる可能性を否定することは困難である。
そして,被爆者に発生した下痢,脱毛,紫斑その他の急性症状は,相当量の放射線に被曝しなければ発症しないと認められるところ(ただし,控訴人の指摘する急性放射線障害における閾線量をそのまま適用できるかは別問題である。),上記急性症状を発した被爆者らの被曝状況からして,初期放射線による被曝(上記第1の認定や乙A1,4の335頁,19の1の195頁により認められる被曝線量)及び第2の2,3の物理的測定結果に基づく残留放射線による被曝線量によっては,上記症状が発症しないと考えられるから,こうした症状を発症した者のうちには,上記物理的測定による数値ないしその近似値に止まらない放射線を被曝した者が相当数いる可能性があることを否定することは困難である。
イ(ア)被控訴人は,於保源作医師の調査につき,脱毛の発現数などを,長崎医科大学の調来助らの調査につき,女性の生存者例における脱毛の発症頻度や男女の死亡例における脱毛の発症頻度及び下痢の発症頻度を,日米合同調査の長崎での屋内又は日本家屋内における紫斑,壊死性歯肉炎,下痢,血性下痢の発症率を,それぞれ問題として,被爆者の急性症状が距離に応じて系統的に発生しているとはいえないと主張する。しかし,被控訴人の指摘するいずれの調査についても,一部遠距離における発症率がより近距離における発症率を上回る例もあるものの,概ね爆心地からの距離が大きくなるほど発症率が低くなっているとの傾向があることは否定できず,不整合の程度もそれほど大きなものとはいえないから,上記の被控訴人の指摘する点は,上記判断を左右しない。
なお,被控訴人は,陸軍軍医学校,九州大学医学部沢田内科教室,九州帝国大学医学部放射線治療教室の各報告(第2,5(1)アイウ)を挙げて,入市被爆者に急性症状はなかったと主張するが,調査の母数が必ずしも大きくないし,少数に軽度ながら白血球減少傾向や下痢・食思不良がみられたのであるから,上記の各報告も上記判断を左右するに足りる事情であるとまではいえない。
(イ)被控訴人は,上記調査等に係る急性症状が,放射線による急性症状に関する知見(閾値や症状の経過)に一致するかどうか不明であるから,これら症状を放射線被曝によるものとはいえないと主張する。被控訴人の指摘する知見等は,IAEAやIRCPが実際の放射線被曝事故や動物実験等に基づいてまとめたものであり,明石真言(<証拠略>)や鈴木元(<証拠略>)はこれに沿って供述等しているところ,明石真言がJOC臨界事故(ガンマ線・中性子線)やパナマ国立癌研究所で起きた事故(X線)の事故対応に従事し,鈴木元がJCO臨界事故の主治医を務めたこと(<証拠略>)などに照らせば,その知見は相当以上に尊重されるべきものではある。そして,調査に係る急性症状の具体的内容や特徴,発症時期や症状経過は明確にされておらず,その症状に医師や専門家による診断・検討が加えられたのか否かも明らかではないし(東京帝国大学医学部の報告は診療及び調査のされたことが判明しているが(甲A124の9等),調来助の調査は聞き取りであり,於保源作医師の調査や横田賢一の研究(甲A88)も被爆後10年以上経過後の聞き取り調査である。),症状に他原因が関与している可能性を示す資料もあるから(<証拠略>),上記調査が一定の問題を有していることも否定できない。しかし,被爆者に発生した個々の症例中に放射線被曝以外の原因によるものがあるとしても,上記説示の発症の傾向等を十分に説明するだけの根拠が示されているとはいえない。また,JOC臨界事故においては,50グレイ以下の被曝では発症しないとされる意識障害がより低線量の被曝で発症し,あるいは,8グレイを超える被曝ではほとんどみられないとされる潜伏期がより高い線量でみられるなど(乙A124),上記急性放射線障害に関する知見も,一定の個人差を許容するものと解され,上記知見が比較的環境の整った施設における被曝に基づくものと思われる(弁論の全趣旨)のに対し,原爆被爆者は,原爆の物理的破壊力によって相当劣悪な環境に置かれた上,放射線の知識もないまま無防備に行動し,身体的損傷やストレス,栄養状態も放射線と相まって発症に関与したとも考えられるから(甲A11の1・2),その症状等に上記知見に沿わないところがあるからといって,直ちに放射線被曝による影響を否定できるとまではいいきれない。そして,原爆放射線の人体への健康影響評価に関する研究の主任研究者であった児玉和紀教授も,爆心地から3km以遠における被爆者に放射線の影響による脱毛等が発生した可能性を否定していない(乙A113ないし115)。閾値の高い下痢が,閾値の低い脱毛よりも発症率が高いとの点も,上記のような個人差や被爆者の実情のほか,盛夏において都市が破壊されたことから発生した他原因による下痢も含まれた結果である可能性もあるから(上記乙A135,乙B115の69頁),調査全体の価値を失わせるものとまではいえない。
(ウ)被爆者の急性症状に関する調査について,その正確性を問題とする研究や知見も存在するが(乙A2,130,163,乙B70,110),上記説示の点に照らせば,やはり調査全体の価値を失わせるものとまではいえない。
ウ もっとも,上記説示の調査に関する問題点や急性症状に含まれる各症状の非特異性,環境や事変が類似の症状を惹起させる可能性もあること(<証拠略>)を考慮すれば,上記調査結果等が厳密な定量的分析に耐えるだけの確度を持ったものとまでは断定できない。
3 上記のような点に加え,民事訴訟における因果関係の立証が一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく,経験則に照らして全証拠を総合検討し,特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性の証明であることを考慮すれば,上記線量評価や測定に基づく各知見と控訴人の被爆した場所及び爆心地からの距離のみから控訴人の子宮体癌の放射線起因性を判断することが必ずしも相当とはいえない。
そこで,当裁判所は,まず,第4において控訴人の被曝した線量に係る主張について判断し,第5以降において,控訴人の被爆状況,被爆前後の行動,被爆後の控訴人の健康状態や病歴,子宮体癌発症の経過及び控訴人の罹患した疾病等に関する知見などを総合して,控訴人の子宮体の放射線起因性について判断することとする。
第4 控訴人の被曝線量についての推定方法
1 郷地医師は,広島大学名誉教授鎌田七男らの論文に基づき,控訴人の残留放射能による被曝線量につき,①急性放射線症状から推定する方法,②経時的なリンパ球数の変化から推定する方法,③物理的手法による体内放射線を推定する方法,④末梢血リンパ球の染色体異常から推定する方法があるなどと述べるが(甲B18),控訴人についてこうした方法による被曝線量の推定は行われていない。
2 澤田教授は,次の研究を基礎として,放射性降下物による控訴人の内部被曝線量(内部被曝の影響を表現する適切な単位がないので,初期放射線による外部被曝と同等の線量として表現している。)は0.85グレイないし0.97グレイであると述べる(甲B14。甲A338,甲B20,21,33の1,乙B54,59の1・2も同旨の研究を示すものと解される。)。
(1)ア(ア)LSS(寿命調査)集団広島に対する爆心地からの距離ごとの脱毛発症率調査(被爆後60日以内に67%以上の脱毛発症)によれば,2.75km以遠で2.1%,3.25kmで1.8%,3.75kmで1%,4.75km及び5.25kmで0.7%,5.75kmで0.6%であり,2kmでの発症率は5%である。
(イ)京泉誠之博士らは,死亡した胎児5人の頭部皮膚組織を重度複合免疫不全型マウス22匹の背部に移植し,毛髪が伸張した移植皮膚組織に様々な線量のX線を照射したところ,5%の脱毛率(単位面積当たりの脱毛の割合)を与える被曝線量は約1.44グレイである(甲A117の4,328,336の1・2,甲B14)。
(ウ)上記被爆距離ごとの発症率及び発症率5%を与える被曝線量に基づき,被曝線量の理論式を設定し,調査発症率の各地点における理論発症度数と調査発症度数の差の平方を理論発症度数で除し,これらを加算したカイ2乗が最も小さくなるようなパラメータを設定することにより,被爆距離ごとの放射性降下物による被曝線量を得ることができる。
イ アと同様に脱毛発症率と線量の関係を用いれば,上記の於保原作医師及び日米合同調査団の調査による,爆心地からの距離ごとの脱毛,紫斑,下痢の発症率に基づいて,被爆距離ごとの被曝線量を求めることもできる。
ウ 爆心地から約4kmの距離で被爆した控訴人の被曝線量は,上記アによれば0.85グレイ,上記イの脱毛,紫斑,下痢の発症率からは0.91グレイ,0.93グレイ,0.97グレイと推定できる。
(2)ア 澤田教授の上記研究に対し,①住民の5%が脱毛を経験することと,頭髪の5%が抜けることの意味は異なる,②放射線による急性症状に関する知見に基づかず,調査の精度も評価せずに調査に現れた症状をすべて放射線被曝によるものとしている,③症状の発生頻度に合わせて特に根拠もなくパラメータを設定し,線量─効果関係グラフを導いているに過ぎない(乙B57,110)との指摘がある。
既に説示したとおり,澤田教授指摘の各調査等に係る急性症状のうち,相当数が原爆放射線に起因する可能性を否定することは困難であるが,上記調査結果等が厳密な定量的分析に耐えるだけの確度を持ったものとまでは断定できず,その分析結果を被曝線量認定の基礎とするには躊躇を覚えざるを得ない。また,移植皮膚の単位面積当たりの脱毛割合と急性症状の発症割合(人数の割合)を同視することはできないとの指摘も,少なくとも上記研究に従って被曝線量を定量的に推定することが可能なのかに疑問を投げかけるに足りるものと思われる。そして,これらの点に関する意見書等(甲B33の2,乙B58,59の1・2)によっても,上記疑問が解消されるには至らないし,京泉誠之博士らが「研究のエンドポイントは異なっていたとはいえるが(脱毛割合が,重度脱毛を伴う被爆者の割合と比較された)特に3グレイまでの範囲において,被爆者の脱毛と類似していることが判明した。」等と述べるのも(甲A336の2),上記のような被曝線量推定を肯定する趣旨とまでは断定できない。
イ 澤田教授は,広島県内の標準化死亡比に対する広島県内の被爆者の爆心地からの距離ごとの悪性新生物の相対死亡比,爆心地からの距離ごとの初期放射線被曝線量及び上記2(1)アの研究に基づく爆心地からの距離ごとの放射性降下物による被曝線量に基づき,縦軸を相対死亡比,横軸を被曝線量とするグラフを作成し,控訴人が被爆した爆心地からの距離4kmにおける被曝線量が0.85グレイであるとも述べる(甲B14。グラフは27頁)。しかし,上記2(1)アの被曝線量をそのまま採用していることに加え,爆心地から2kmないし6kmの相対死亡比1.102が,初期放射線被曝線量が0である爆心地からの距離4kmの被爆者の相対死亡比であるとしてグラフを作成することが相当であることを示す証拠のないことを考慮すれば,上記グラフによる検討を独立の根拠として,その数値をそのまま線量の認定根拠とすることには躊躇を覚える。
ウ 上記の各点を考慮すれば,具体的事実としての控訴人の被曝線量を上記澤田教授の研究等の結果によって直ちに認定することは困難である。澤田教授は,導かれた理論式が現実を説明できていることが重要である旨述べるが(甲B33の2,乙B56,59の1),上記2(2)アの指摘が存在することに照らせば,直ちにこれを首肯するにはやはり躊躇を覚える。
第5 控訴人の被爆状況等
1 被爆状況及びその後の状況
既に認定した事実(引用の原判決),証拠(<証拠略>)によれば,次の事実が認められる。
(1)父太郎は,炸裂の後,広島師範学校(東雲町所在。爆心地から概ね4km)に出勤し,皆実町(爆心地から概ね2ないし3km)から避難してきた予科生に相互に手当をさせたり自ら介抱するなどして,夕方帰宅し,帰宅後は裏山に仮小屋を作って,控訴人や葉子らとともに就寝した。昭和20年8月7日以降は,広島師範学校で負傷者の世話,仁保小学校(被爆した自宅より爆心地から遠い。)で負傷者の見舞い,皆実分校で片付けを行ったほか,重傷者の運搬の指揮,死亡した避難者の遺体の埋葬にも従事し,同月15日から25日までの間は1日に50人程度の負傷者に対する救護を行い,同月16日には,爆心地付近の大手町,加古町等に赴いている。
(2)母葉子は,原爆炸裂後,仁保小学校に行き,負傷者に水の給与や救護を行い,その後は,空襲警報の度に家と防空壕を往復して夕方まで過ごした。翌日以降は,家の片付けや子供の世話などに従事していた。控訴人は,被爆以後は葉子に背負われて暮らしていた。
(3)控訴人は,被爆当時及びその後も,庭の井戸水を飲み,付近の畑で収穫された野菜を食べていた。
(4)控訴人,太郎及び葉子は,被爆後,下痢を発症した。控訴人の下痢は昭和20年8月下旬に発症した非血性で中等度のものである。控訴人の家族においては,控訴人や家族らの栄養状態が相当悪いものであり,下痢の原因であるとの認識を有していた。
(5)太郎は,昭和54年4月,64歳で食道癌で死亡したが,葉子と兄2名,叔母は存命である。また,控訴人とともに被爆した家族に原爆症認定を受けた者はおらず,葉子及び太郎以外の家族の被爆直後の症状の有無は不明である(乙B7によれば,下痢を発症していた可能性がある。)。
2 黒い雨
(1)証拠(<証拠略>)によれば次の事実が認められる。
ア 気象技師宇田道隆らは,昭和53年5月,主として聞取り調査に基づき,広島における原爆炸裂後の驟雨現象のあった区域を報告したが,仁保町本浦はその降雨域に含まれていない。元気象研究所職員増田善信は,広島被爆者の体験記や手記,広島市が昭和48年に行ったアンケート中湯来町の結果,宇田道隆らの調査資料,新たな聞取り調査やアンケート調査等を行い,平成元年2月,広島における原爆炸裂後の降雨区域に関する論文(甲A70)を発表し,降雨域は従来の約4倍の広さになり,仁保町の一部で弱い雨が降ったとされているが,上記論文によっても本浦に雨が降ったかは明らかでない。また,書籍(原爆と仁保。甲B8)によれば,炸裂後普通の雨(黒い色の雨ではない。)が少し降ったとされるに止まっている。
イ 広島市が平成20年度に実施した原爆体験者等健康意識調査結果に基づく広島大学原爆放射線医科学研究所教授の大瀧慈の解析(甲A362ないし364によれば,仁保町は降雨域に含まれており(甲A362ないし364),また,昭和25年当時に広島,長崎に居住していた被爆者等への調査結果である基本調査票(MSQ)のうちには,仁保町本浦で雨に遭ったとの回答も存在する(甲B29,30)。
(2)しかし,平成20年調査結果の解析については,大瀧慈教授自身が上記解析による降雨域の特定に限界があることを自認しており,同人を含む原爆体験者等健康意識調査報告書等に関する検討会のワーキンググループも,今回の調査結果から黒い雨の降雨域を確定することは困難であるとの結論に達していること(乙A190,乙B100),MSQ調査の状況等は必ずしも明確でなく,炸裂の2,3日後から9月ころまでの雨も含まれている可能性があること(甲B29,乙B101)に鑑みれば,上記解析や基本調査票の記載のみからは,仁保町本浦地区に降雨があり,控訴人がこれに遭ったことを認めるには足りない。
(3)上記各事情及び葉子の被爆者健康手帳交付申請書(甲B4)には雨に関する記載はなく,昭和32年7月12日のABCC調査結果には控訴人は黒い雨には遭っていない旨葉子が回答していること(乙B16)を考慮すれば,控訴人が黒い雨に遭ったとは認められない。また,既に認定したとおり(引用の原判決),控訴人がこの雨に打たれたとの事実も認められない。
太郎の昭和53年8月1日付け被爆者健康手帳交付申請書(甲B3)には,「その時(炸裂直後を指すと解される。),原爆の名残とそれが黒雲となって広がり,雨をもたらすのを見かつ体験した」との記載があるが,文言自体,当人が雨を浴びたことを一義的に示すとは必ずしもいい難く,上記ABCC調査がより被爆に近接した時点で行われていることを考慮すれば,上記判断を左右するに足りない。なお,宇田道隆の調査に対し,仁保町東雲町所在の広島市工業指揮所の職員は,市の上空に高い白い積乱雲がモクモクと出来,比治山方面は真暗になって了ったと述べるが,雨について話していない(甲A69)。
第6 控訴人の急性症状
1 上記の被爆状況等や放射性降下物や飛散した誘導放射化された物質,太郎や葉子との接触による外部被曝や内部被曝の可能性を考慮しても,控訴人に脱毛や嘔吐があったとは認められず,また控訴人や家族に発症した下痢が放射線被曝によるものと認められないことは,引用の原判決の説示するとおりである。
2(1)控訴人は,書籍の記載(甲B8,18(意見書に引用))によれば,仁保地区の食糧事情は良好であったと主張し,また,京都大学名誉教授の上野陽里は,栄養失調による下痢は増悪期に現れるものであり,乳児の栄養失調はミルクが長期間与えられなかった場合等に起こるところ,葉子に母乳の不足はなかったから,控訴人の下痢が栄養失調によるものではない旨述べる(甲13)。しかし,上記認定のとおり,控訴人の家族は控訴人や家族らの栄養状態が相当悪いとの認識を有しており,書籍の一般的な記載から,同人らの栄養状態を判断することはできないし,控訴人に対する授乳の状況等も証拠上明らかではなく,被爆当時の控訴人が必ずしも主に授乳によって栄養を摂っていたともいえない(上記認定事実及び乙B89の1・2)ことに照らせば,上記判断を左右するに足りない。また,太郎や葉子も下痢を発症していたとしても,上記栄養状態に関する認識を考慮すれば,上記の書籍の記載や上野陽里の意見は,上記判断を左右するに足りない。
(2)控訴人は,被爆を境に少しずつ髪の毛が薄くなって,男の子に間違えられたと母から聞いたと供述するが(甲B5,乙B2を含む。),同供述によっても脱毛の具体的状況は明らかでないし,上記供述内容も放射線による急性症状としての脱毛を一義的に示すものとはいい難いから,上記判断を左右するに足りない。
(3)太郎及び葉子は,被爆後の症状として貧血をも訴えているが(甲B3,4),その程度は証拠上明らかでなく,栄養失調の症状としても貧血がみられることを考慮すれば(甲B13の文献6,乙A137),上記判断を左右するに足りない。
第7 控訴人の骨粗鬆症その他の体調不良
1 子宮発育不全,関節痛等
証拠(甲B5)及び弁論の全趣旨によれば,高校在学中,控訴人が医師から子宮発育不全と言われたことがうかがえるが,その症状や病態の詳細は明らかではなく,控訴人が2人の子を無事出産していることをも考慮すれば,これをもって,控訴人の子宮体癌の放射線起因性を基礎付け得る事情とはいえない。
また,証拠(甲B5,12,控訴人本人)及び弁論の全趣旨によれば,高校入学後,控訴人が膝,足首,両肘等の関節痛を訴えるようになり,昭和43年ころからは腰痛を訴えるようになったことが認められるが,これをもって,控訴人の子宮体癌の放射線起因性を基礎付け得る事情に当たると認めるに足りる証拠はない。
上野陽里教授は,控訴人の子宮発育障害(意見書の用語)や関節痛等が原爆被爆の結果であるとの意見を述べるが(甲B13,31),その趣旨は被曝による可能性を示すものに止まるから,上記判断を左右しない。
2 骨粗鬆症
(1)証拠(<証拠略>)及び弁論の全趣旨によれば次の事実が認められる。
ア 控訴人は,平成13年3月13日(56歳),骨粗鬆症の傷病名で倉敷紀念病院を受診し,骨密度の測定を受け,その後も同年8月24日及び平成14年3月27日に骨密度の測定を受けたところ,同年齢者との平均値と比較して93%ないし95%,平均値の最大骨密度と比較して80%ないし78%に相当すると診断された。
イ 控訴人は,平成17年8月6日(60歳)及び平成19年4月26日(62歳),水島協同病院において左橈骨及び海綿骨の骨密度測定等を受けた。骨密度の測定結果は,同年齢者との平均値と比較して107.1%ないし109.6%,平均値の最大骨密度と比較して89.8%ないし88.8%であり,海綿骨密度は,同年齢者との平均値と比較して122.2%ないし116.1%,平均値の最大骨密度と比較して92.4%ないし84.2%というものであった。同病院の南山二郎医師は,平成17年8月6日,レントゲン検査で明らかな異常はなく,全骨密度は平均値,海綿骨密度は平均値やや強と判断した。
ウ 控訴人は,平成21年1月22日(64歳)以降,倉敷成人病センターにおいて腰椎や大腿骨などの骨密度測定を受けた。その結果は,同日の測定結果では腰椎がYMA(若年成人平均値)の68.5%,右大腿骨が同66.3%,左大腿骨が同72.4%であり,同月30日の測定結果では腰椎が同67.5%,左股関節が同73.1%であり,骨粗鬆症と診断され,投薬治療を受けている。
(2)骨粗鬆症については,次のような知見がある(<証拠略>)。
ア 原発性骨粗鬆症のうち退行性骨粗鬆症は,閉経後骨粗鬆症と老人性骨粗鬆症の2型に分けられ,前者は女性に特有で,50ないし75歳が好発年齢であり,加速度的に骨量が低下し,後者の好初年齢は70歳以後であり,骨量低下速度は非加速度的である。また,骨粗鬆症は女性に多く,50歳代で21%,60歳代で48%,70歳代で67%の率で起こっているとされている。
イ 現在のところ,症例等の検討の結果,骨粗鬆症や骨多孔症と放射線被曝との影響は認められていない。
他方,高線量の放射線被曝により成熟した骨が骨萎縮を起こし,骨芽細胞の減少により骨量減少に至り,2次的合併症として骨折,壊死,肉腫が起こるとする知見や放射線被曝の後に骨吸収の発生や病的で未成熟な骨への置換が観察されたとの報告がある。
また,悪性腫瘍治療のため3000レントゲン前後の骨盤照射を受けた患者の0.87%に骨粗鬆症の所見が認められたこと,広島の爆心地から2km未満で被曝した50歳以上の女性に骨粗鬆症を示すものが多かったが,対象者が少なすぎて各群間の比較はできなかったとの報告もある。
(3)上記認定の事実及び知見によれば,控訴人は平成21年1月ころまでに骨粗鬆症に罹患したことが認められるが,これをもって,控訴人の子宮体癌の放射線起因性を基礎付け得る事情に当たると認めるに足りる証拠はない。
放射線被曝による成熟した骨の骨萎縮に関する知見や骨吸収・未成熟な骨への置換に関する報告はあるが,控訴人の骨粗鬆症が確認されたのは好発年齢に至ったころであり,少なくとも平成17年8月6日のレントゲン像には骨萎縮が認められていないし(乙B30,34の1ないし4,証人北川),被曝後に骨粗鬆症の認められた例も有意のものかどうかに疑問があるし,控訴人の被曝状況とも差のあることに照らせば,これらのみで控訴人の骨粗鬆症が放射線被曝の影響によるものとは認められない。
第8 子宮体癌のリスク要因
1 控訴人は,控訴人には子宮体癌のリスク要因がないと主張する。
しかし,子宮体癌は,40歳代後半から増加し,50歳代から60歳代にピークを迎え,閉経後婦人が患者の75%を占めるところ(乙B8ないし10),控訴人は平成8年ころ閉経し,平成11年から左脇腹痛を訴えて通院していたところ,平成12年7,8月ころ(55,56歳),産婦人科を受診して子宮体癌と診断されたというのであるから(甲B5,乙B17),閉経年齢が遅い,出産例がない,肥満,エストロゲン産生などの子宮体癌のリスク要因(乙B19)がないとしても,上記事情が控訴人の子宮体癌の放射線起因性に疑問を抱かせる事情であるとは直ちにはいえない。
2 LSS第13報(原爆被爆者の死亡率調査・第13報・固形癌および癌以外の疾患による死亡率1950─1997。甲A67文献19,112の19,115の11の1・2)では,子宮癌の放射線起因性について有意差がないとされたが,子宮癌による死亡の1シーベルト当たりの過剰相対リスクは概ね0.17と推定され,90%信頼区間は概ねマイナス0.1から0.52とされた。また,LSS第14報(原爆被爆者の死亡率調査・第14報・1950─2003・癌および非癌疾患の概要。乙B107)には,子宮癌による死亡の1グレイ当たりの過剰相対リスクは0.22と推定され,95%信頼区間はマイナス0.09から0.64とされ,子宮癌では有意なリスク増加はみられなかったとされた。
プレストン論文(甲A306,347,乙A186)によれば,広島・長崎の原爆被爆者からなる寿命調査(LSS)集団における個人線量が推定されている対象者10万5427人についての昭和33年から平成10年までに診断された第1原発癌1万7448例について解析を行った結果として,20歳未満で被曝した者の1グレイ当たりの子宮癌全体に罹患する推定過剰相対リスクが0.37(90%信頼区間0.001から0.86)であるのに,子宮体癌罹患の過剰相対リスクが1.00(90パーセント信頼区間0.14から2.4)とされた。しかし,20歳未満の被爆者は被爆距離3km以内が34例(過剰症例数1.68),3ないし10kmが22例,市内不在者が24例で過剰症例数はいずれも0とされ,極めて少数の過剰症例に基づく所見であるため,小児時期での被曝が子宮体癌のリスクを増加させるかもしれないという証拠が今回のデータから示唆された(要約部分)と述べるに止めている。また,この論文は,DS86に従って被曝線量を推定した結果を用いた上で,被曝線量が0.005グレイ未満の過剰症例を0%として解析を行っている。(<証拠略>)
第9 多重癌の可能性
1 膵粘液性嚢胞腫瘍(腺腫)
(1)証拠(<証拠略>)によれば,次の事実が認められる。
控訴人は,平成12年10月6日,川大病院のCT検査により膵尾部~膵門部に単純嚢胞が指摘されたが,平成13年まで著変なく,平成15年ころから増大傾向となったため,同年5月26日から6月4日まで精査加療目的で入院し,その後平成16年3月8日,膵体尾部切除,脾臓摘出の手術がされた。
膵臓腫瘍切除標本の病理学的検索により,膵腫瘍,粘液性嚢胞腺腫と病理診断された。控訴人の腺腫は良性であり,浸潤癌を併発してはいなかったが,特殊染色の結果,p58(+-)の癌抑制遺伝子に変異がうかがわれ,また,MIB(+,focal)であり,全体として異形成はマイナスだが,異形成の活発な部分も認められた。
(2)膵粘液性嚢胞腫瘍(腺腫)については,次のような知見が示されている(<証拠略>)。
ア 膵粘液性嚢胞腫瘍(腺腫)は,30ないし50歳代の女性の膵尾部に好発し,膵癌とは別に分類されている。膵粘液性嚢胞腫瘍(腺腫)の予後は良好であるが,膵癌は発見時には既に進行癌で切除不能であるか,切除後も極めて予後不良とされている。
イ 膵粘液性嚢胞腫瘍(腺腫)の良悪性や浸潤度の診断は困難であるから完全切除が必要であるとされ,また,粘液性嚢胞腫瘍は前癌病変の要件を満たし,しかも,大部分の患者の余命が長いため癌化の危険性は大きいことから(膵臓の膿疱性病変患者の膵癌罹患率が0.95%/年とする報告や,膵粘液性嚢胞腫瘍(腺腫)の3分の1が浸潤性癌を伴っているとの指摘があるほか,膵粘液性嚢胞腫瘍から浸潤性癌腫の発生頻度につき6%から27%まで種々の研究がある。)も,禁忌のない限り切除適応とされている。
なお,粘液性嚢胞腺腫及び嚢胞性腺癌について,これら粘液性腫瘍の大部分は診断した時点で悪性であり,良性と思えたものでも悪性化する高いポテンシャルを有しているとの知見もあるが(甲A316),粘液性嚢胞腺腫と嚢胞性腺癌の区別の要否や上記の各知見との関係は明らかではない。
ウ LSS第13報(<証拠略>)では,膵癌の放射線起因性について有意差がないとされたが,膵癌による死亡の1シーベルト当たりの過剰相対リスクは概ね0.06と推定され,90%信頼区間は概ねマイナス0.18から0.37とされた。また,LSS第14報(乙B107)では,膵癌による死亡の1グレイ当たりの過剰相対リスクは0.08と推定され,95%信頼区間はマイナス0.18から0.44とされた。
プレストン論文(甲A306,347,乙A186)によれば,膵癌の1グレイ当たりの過剰相対リスク推定値は0.26(90%信頼区間マイナス0.07から0.68)であり,統計的に有意でなかったとする。
2 スリガラス状陰影
(1)証拠(<証拠略>)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。
ア 控訴人は,平成18年12月4日,水島協同病院において単純CT検査を受けた。同日東野三郎医師は,画像所見として,肺の右下葉6区9区境界領域(S6/9)末梢側に径6─7mm程の境界不明瞭な小スリガラス影が見られたが,ほかに著見はなかったと,画像診断名として,右肺葉スリガラス状陰影(GGO。均一なスリガラス陰影(pure GGO。以下単に「GGO」という。)であり,一部軟部組織を含むスリガラス陰影(mixed GGO)ではない。),陳旧性炎症性変化,腺腫様過形成(AH)~異型腺腫様過形成(AAH)~腺癌,等と各記載した。
イ その後の控訴人に対する胸部単純CT検査の所見は次のとおりである。
平成19年12月4日(検査日),同日東野医師は,画像所見として肺:右下葉(6/9)末梢側に径4─5mm程の境界不明瞭な小スリガラス影(+)。ほかに著見なしと,画像診断名として,陳旧性炎症性変化,AH~AAH,等と,各記載した。
平成20年11月26日の検査につき,同年12月2日東野医師は,画像所見として平成19年12月4日の画像所見と同じ記載をし,画像診断名として,AH~AAH,等と記載した。
なお,控訴人の担当医師であった北川医師は,上記スリガラス陰影を自ら計った結果,3回の画像所見のいずれも5mm×6mmで不変であったと述べている。
(2)肺のスリガラス状小結節陰影については,次のような知見が示されている(<証拠略>)。
ア GGOは,細気管支肺胞上皮癌(BAC),AAH,局限性肺炎,局限性線維化巣のいずれかとの鑑別が必要とされ,腫瘍が2倍に拡大するまでの期間は平均166.3日(腺癌については221.6日)であるとの報告や,悪性腫瘍であっても平均813日とする知見がある。また,2年以上経過したGGOについては,19例についての24ないし124か月の観察の結果,11例に増大変化がみられ,うち7例に腺癌やBACを,3例に非癌病変を各認め,不変であった8例中1例にBACを認めたとの報告がある。
イ 日本肺癌学会の肺癌取扱い規約(2003年10月改訂第6版。甲A319)には,AAHを前浸潤性病変と認識しているが,前浸潤性という用語は浸潤癌への進展が生じることを必ずしも意味しないとし,また,AAHの悪性化の可能性は大変低いとのいくつかの報告もあるとされている。なお,この点については,AHやAAHは腺癌(局限性のBACで癌細胞が肺胞上皮を置換するように成長するものや同様の成長パターンで肺胞虚脱に伴う線維病巣部分を伴うもの)の前癌段階であることが判明したとの研究もある。
3 重複癌に関する知見等
重複癌と被曝との関係については,被爆距離が小さいほど重複癌の頻度が高い(甲A67文献27・28,114,115の15,307)との研究がある。
また,東京地方裁判所における原爆症認定集団訴訟の原告団(合計146名)のうち悪性腫瘍罹患の94名中21名につき複数の癌が発生しているとの指摘もある(甲A66)。
こうした知見等を基礎にして,複数の医師が,原爆被爆者には重複癌の発生する可能性が高いとの意見を述べている(甲A66,113の2・3,114)。
4 判断
(1)上記事実及び知見等によれば,控訴人の膵嚢胞性腫瘍(腺腫)やスリガラス状小結節陰影につき,膵癌や肺癌と同視すべきものであるとか,控訴人は多重癌に近い状態にあるとは認めるに足らず,これらを根拠にして控訴人の子宮体癌の放射線起因性を推認することはできない。
(2)これに対し,控訴人が多重癌とみるべきであるとの医師や学者の意見があるが(甲B13,18,甲C1,2,証人北川),これらの意見も上記知見等を超える客観的根拠を有するものではないし,控訴人の実際の状態について必ずしも確定的な意見を述べているとはいえないものもあるから(甲B13,18,証人北川),上記判断を左右しない。
上記知見等によれば,膵粘液性嚢胞腫瘍(腺腫)には癌を併発する可能性が相当程度あるといえるが,膵癌とは異なる分類とされており,長い余命にわたる長期のスパンでの危険性が指摘されるに止まっており,その機序も必ずしも明確ではなく,上記判断を左右するに足りない。この点,p53(癌抑制遺伝子)遺伝子の突然変異は膵粘液性嚢胞腫瘍(腺腫)の遅発性変化を表すとの指摘もあるが,癌発生との関係については研究途上であり(甲A356,357,証人北川),やはり上記判断を左右しない。
スリガラス陰影についても,AHやAAHは腺癌の前癌段階であるとの研究もあるが,その詳細は明らかでなく,そのようには考えない見解や報告も多数存在しており,やはり上記判断を左右しない。
また,LSS第13報や同第14報,プレストン論文等において,過剰相対リスクの推定値に関する90%・95%信頼区間が正負の各領域にまたがっているものについて,その中央値が正の領域にあることや,信頼区間の範囲が正の方向に移動したことをもって,直ちに統計上有意のものと解することはできない。重複癌に関する知見についても,病理学的診断の裏付けのある症例に関する研究であり(甲A113の2・3,307,弁論の全趣旨),控訴人が直ちに重複癌であることを肯定するものとはいえない。
第10 控訴人の子宮体癌の放射線起因性
1 以上によれば,控訴人の子宮体癌の放射線起因性に関連する事情として次のような事情を指摘することができる。
(1)控訴人が初期放射線により人体の健康に有意の影響を与えるに足りる被爆をしたとは認めるに足りない。
(2)控訴人が誘導放射化した物質及び放射性降下物により,人体の健康に有意の影響を与えるに足りる被爆をしたことを直接認めるに足りる証拠はない。また,飛散した誘導放射化した物質や放射性降下物による内部被曝,太郎や葉子との接触による外部被曝及び内部被曝についても,これが人体の健康に有意の影響を与えるに足りる被曝に当たることを認めるに足りる証拠もない。
負傷者の救護等を行った太郎や葉子との接触により,控訴人が誘導放射化した物質や放射性降下物による相当の内部被曝をした可能性は否定できないが,その程度を直接認定するに足りる的確な証拠はない。なお,上記認定のとおり,葉子が控訴人を背負って,日々被爆者の看護に当たっていたとまでは認められない。
したがって,種々の被曝の可能性を念頭に置いて,控訴人について上記の第3(小括)において指摘した事項を個別具体的に考慮し,控訴人の子宮体癌の放射線起因性について高度の蓋然性があると認められるかを判断するほかない。
(3)控訴人は,自宅(木造家屋。甲B3,4)の屋内で被爆している。また,直接の傷害や火傷は負っていないから(引用の原判決),健康に有意の影響を与える程度の傷口等からの内部被曝があったともいえない。
控訴人に放射線被曝による急性症状が発症したことを認めるに足りる証拠はない。控訴人とともに被爆した上,さらに負傷者の救護をし,あるいは爆心地近くに赴いた太郎や葉子についても同様である。
(4)控訴人が高校在学中に医師から指摘された子宮発育不全,控訴人が高校入学後から訴えていた関節痛等,あるいは控訴人の罹患した骨粗鬆症が放射線被曝によるものであって,控訴人の子宮体癌の放射能起因性を基礎付ける事情に当たるとは認められない。
(5)控訴人は,閉経後の55,56歳ころに子宮体癌と診断されたものであるが,子宮体癌は,50歳代から60歳代に発症のピークを迎え,閉経後婦人が患者の75%を占めるのであって,上記事情が控訴人の子宮体癌の放射線起因性に疑問を抱かせる事情であることは否定できない。
(6)LSS第13,14報によっても,統計上有意なデータをもって控訴人の子宮癌の放射線起因性を基礎付けるものであるとまではいえないし(乙A144,155),プレストン論文の述べるところも,小児時期での被曝が子宮体癌のリスクを増加させるかもしれないという証拠が示唆されるデータが存在するというに止まる。
(7)控訴人は多重癌に近い状態にあるとは認めるに足らず,膵粘液性嚢胞腫瘍(腺腫)や肺のスリガラス陰影を根拠にして控訴人の子宮体癌の放射線起因性を推認することはできない。
(8)太郎は,昭和54年4月,食道癌で死亡したが,葉子と兄2名,叔母は存命であるし,控訴人とともに被爆した家族に原爆症認定を受けた者はいない。控訴人自身2児を出産しており,結婚後は体調も安定していた。
2 上記各事情を考慮すれば,放射性降下物による被曝や誘導放射線による被曝についての物理的測定には限界があること,内部被曝や低線量域の被曝の健康影響について未だ解明されていない点が多々あること,その関係も含めて急性放射線障害についての機序・症状経過・閾値に係る知見だけで被爆地に発生した急性症状と一致する症状をすべて説明しきれるかにも疑問が残ること,控訴人が1歳未満で被爆したこと(必ずしも子宮体癌に限らないが,多くの医師・専門家が,若年者の被曝の危険性を指摘している。<証拠略>)などを考慮したとしても,控訴人の子宮体癌の放射線起因性につき,通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るに足りる高度の蓋然性の証明があったとはいえない。