広島高等裁判所岡山支部 昭和32年(う)66号 判決
弁護人の論旨第一点 原判決には判決に影響を及ぼすことの明かな事実の誤認があるというにあつて、その要旨とするところは、原判決は被告人が笠岡市五二一四番地に開設していた診療所を昭和二十七年に同市二四九七番地に移転した事実を新な診療所の開設と断じ、新に診療所を開設したのに所定の期間内に所定の届出をしなかつたものとしたのであるが、医療法第八条に謂う診療所の開設とは管轄保健所内で、新に診療所を設けて医療を始めることを意味し、既に管轄保健所に対し診療所開設の届出をしている場合に、ただ単にその場所が変つたというだけでは新規開設の場合と同一視して、罰則を以つて届出を強制する必要あるとは思われない。しかもその後である昭和二十八年九月制定された政令第二八三号医療法施行令第四条の二に「診療所を開設した医師―――は医療法第八条の規定により届出た事項に変更を生じたときは、十月以内に―――都道府県知事に届出なければならない」と規定し、更に同法施行規則第四条には診療所開設の届出事項として「診療所の名称、開設の場所、診療を行おうとする科目等々」の事項であることを定めておるので、之等の規定から見ると、診療所開設場所の移転は前記施行令第四条の二に規定する「届出事項の変更」に該当し、新規開設の場合の如く罰則を以つて強制する必要のないものであるというのである。
そこで此の点について検討を加えると、医療法第八条には医師―――が診療所を開設した場合の十日以内の届出義務を規定し、この場合の届出事項は医療法施行規則第四条において規定されており、更に昭和二十八年九月制定された所論医療法施行令第四条の二の第三項において、右の届出事項に変更を生じた場合の届出義務を規定しておるので、所論の如く診療所の開設場所を変更することは、或は前記施行令第四条の二の第三項に規定する「届出事項の変更」に該るのではないかとの疑を抱くものもあるかも知れない。(もつとも本件の場合においては、当時にはいまだ右施行令の規定は制定されていなかつた)然しながら医療法第八条同法施行令第四条及び第四条の二の第三項の規定、同法施行規則第一条の規定の趣旨、殊に最後の医療法施行規則第一条第一項の各号において、開設場所、敷地の面積、敷地の周囲の見取図、建物の構造、平面図の概要、病院について施設の状況、構造、設備の概要、病室の患者の収容の定員などを届出事項として規定し、これを怠るものに対しては罰則を発動するものとしておる趣旨から考察すると、前記の如き事項は一般公衆の保健衛生上重大な関係があるから、これらを届出事項として、罰則を設けて取締ることとしたものと解する。
これら医療法、同法施行令及び同法施行規則の諸規定の趣旨から観察すると、診療所というのは敷地(土地、環境を含めて)、建物、諸々の設備、管理者などを包括した綜合的なものであるから、その開設場所を変更した場合においては、これを前に屈出た当時の状態、換言すれば前に届出を通して監督に服した当時の状態において、そのまま移転するということは考えられない。
即ち診療所の開設場所が変れば、従前のものが移転するとか、変更されるとかいうような観念を容れる余地は少く、寧ろその性質上従前のものとは殆ど全く別個なものとなるわけであつて、此の点から見ると、全く新規に診療所を開設した場合と何等異るところがない。これについて所論の如く法令の適用について区別するにおいては両者その均衡を失する。(即ち一方は罰則があり、他方はそれがない)
従つて此の場合も等しく医療法第八条の規定に従つて届出をなすべきものと解する。
所論は診療所の移転なる観念を誤解したものであり、その結果は医療法第八条の規定の趣旨に反し、その精神を没却するものといわざるを得ない。
論旨は採用し難い。
前同論旨第二点及び被告人本人の論旨各事実誤認の主張について
弁護人の論旨を要約すれば、被告人が本件の届出を遅滞したのは、所轄保健所長の指示を仰いだ結果、黙認されたので届出を怠る意思がなかつたものであるといい、被告人本人の所論の要旨は被告人は事前に監督官庁である笠岡保健所の指示を仰いだ結果、届出を猶予されたものであるから、被告人は届出を怠つたことについて犯意がないというのであるから、一括して判断する。
そこで原審で取調べた証拠及び当審の事実取調べの結果を綜合すると、被告人が笠岡市笠岡五千二百十四番地に開設していた診療所を同市笠岡二千四百九十七番地に移転するに当り、先ず昭和二十七年七月外来患者の診療場所が出来上つたので、此処で診察に従事し、次いで翌年二月に至り入院室が完成したので、此の時全部の移転を完了し、同時に届出を終えたものであることを知ることができる。
医療法第一条第二項によると、「診療所とは医師が公衆又は特定多数人のため医業をなす場所であつて、患者の収容施設を有しないもの、又は患者十九人以下の収容施設を有するものをいう」と規定しておるので、被告人が昭和二十七年七月設けた診察場所が、単に外来患者を診察するに止るとしても、医師が医業を行う場所というに妨げないから、医療法にいわゆる診療所を開設したこととなることについては争う余地がない。
すると被告人が前記診療所を設けた昭和二十七年七月当時において医療法第八条同法施行規則第四条第一条第一項の規定に従つて十日以内に知事に届出をなすべきであつたのに拘らず、被告人は之を怠り、翌年二月中旬に至つて之が届出をしたものであることも亦明かである。
被告人は右の届出が遅滞した理由として、当時診療室は出来たが入院室の工事ができなかつたため分割移転の必要があつたので、昭和二十七年七月七日頃笠岡保健所に鈴木章所長を訪ねて指示を仰いだところ、同人から全部の移転を完了した上で旧診療所については廃止届、移転先の診療所については新規の開設届を出せばよい」との趣旨の指示を受けたので、翌二十八年二月全部の移転を完了した際、右指示に従つて届出を完了したというのである。
そこでこの点について検討を加えると、証人鈴木章は被告人から右の如き相談を受けたことを否定しながらも、原審において弁護人の間に対しては「昭和二十七年七月頃移転に伴う設備について相談はあつたが、届出とか許可とかいうことについて相談のあつたことはない」と供述し乍ら、裁判官の問に対しては「西井から診療所を移すことについて相談はあつたと思う、しかし診療所だけ移すと管理者の問題もあり、又設備も不完全ではいけない、といつたおぼえがあります、管理者については県の意向を聞いて見るといつて、県の意向を尋ねたところ、距離がかなり遠いのでそんなことはいけないといつて来たことがあつたように思います」との趣旨の供述をしておること、同年七月下旬頃同証人が所長である笠岡保健所主催の助産婦の講習会を実施した際、その会場として被告人が新に設けた診療所を使用し、数名の同保健所員が出席しておること、(鈴木所長は証人として、当初は列席の事実を否定し、後には出席したかも知れんという)鈴木証人は当時散歩の序でに被告人の新な診療所に立寄つたこともあると供述しておること、その他笠岡市の市街地と被告人の診療所の所在場所の状況(田舎の小市街地にある診療所であるから、保健所にも直に知れ渡る状況下にあるものと察知できる)などに照らすときは、監督官庁たる笠岡保健所においては鈴木所長以下所員の多くのものは被告人が新な場所において無届で診療に従事しておることを知悉しておりながら、届出については他に何等の指示も注意をも与えておらない、換言すれば監督権の発動については何等の見るべきもののない事実から考えると、被告人が弁疎する如く診療所の分割移転について指示を仰ぐため鈴木所長を訪ね、その諒解を得たものと認めざるを得ない。
次いで、右の如き事情が被告人の犯意を阻却するや否やの点について検討すると、本件の届出事情の発生した昭和二十七年七月当時においては、昭和二十三年八月六日岡山県訓令第三〇号(昭和十三年七月前同訓令第八三号を改正)保健所長専決処分規程、同上訓令第三一号岡山県立保健所処務規程第二条に「国民医療法の施行に関する事項」と事務分掌事項を規定しておるので、保健所長は診療所に関しては知事に代つて監督するの職務権限を有したことが明かであり、又その後改正された保健所法第三条の規定にもとずく昭和三十一年五月二十九日岡山県規則第三一八号岡山県事務委任規則第七条第六号に「医療法第八条の規定による診療所及び助産所開設の届出の受理」と規定しておる。此の届出の受理の権限は前後の規定の関係上届書の受理に当つて単に届出書類の形式的審査のみに止らず、更に実質的審査の権限、換言すれば前記届出書類の受理を通じて診療所等に対する監督権を行使せしめんとの法意なることが認められる。(若し然からずとすれば単に保健所を経由して届出ずべき旨を規定すれば足りるわけである)更に進んで昭和三十一年六月五日岡山県訓令第二十二号岡山県事務決裁規程第九十五条においても保健所が診療所などに対し監督権を有することを規定しておる。
以上の経過に鑑みるときは保健所は一貫して診療所などに対する監督権について法的根拠を有するのみでなく、被告人も亦当時保健所にその権限あるものと信じ、届出について指示を仰ぎ、その結果分割移転の諒解を得たので、移転完了の上届出をなすとも法律上差支えないものと信じたというにあるから、被告人がかく信じたことについて何等の過失の責むべきものもなく、又かく信ずることについて正当の理由がある場合に該当するから被告人には違法の認識なく、犯意を阻却するものである。
従つて被告人の本件届出懈怠は罪を犯す意なき行為であるから、刑法第三十八条第一項前段に従つて罰すべからざるものというべきである。
原判決は此の点を誤認したものであり、此の結果は判決に影響を及ぼすことが明かであるから、破棄を免れない。
(裁判長判事 有地平三 判事 宮本誉志男 判事 浅野猛人)