広島高等裁判所松江支部 平成13年(う)50号 判決 2002年3月18日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役6年に処する。
原審における未決勾留日数中130日をその刑に算入する。
理由
1 本件控訴の趣意は,弁護人吾郷計宜作成の控訴趣意書記載のとおりであるから,これを引用する。
2 事実誤認の主張について
論旨は,原判決は,弁護人の正当防衛の主張に対し,本件においては,「急迫不正の侵害」が存在しないものとしてこれを排斥し,また,被告人は積極的加害意思のもとでその意図どおりの行動をしたのであるから,防衛の意思を欠いており誤想防衛も成立しないとしたが,この判断は明らかに事実誤認であり,破棄を免れないとするものである。すなわち,被告人は,被害者との喧嘩は覚悟したかもしれないが,当初から被害者を殺害しよう等とは考えておらず,被害者が一升瓶を割った際,A又は自分が刺されるのではないかと危険を感じて包丁を手にしたが,これは自分が包丁を持てば被害者が割れた一升瓶で攻撃を仕掛けるのを止めるのではないか,あるいはひるむのではないかと考えたからであって,被害者を殺害しようと考えたからではなかったところ,被害者はひるむことなく被告人に近付いてきたものであり,しかも,被害者が近付いてくるのを観察しておれば,被告人には逃げるとか被害者の右手を叩くとかの方法をとることもあり得たのかもしれないが,被告人は被害者の動静に気付かず,気付いたときには,自分の至近距離に,今にも割れた一升瓶の口元を手に持って自分を刺そうとしている被害者がいたもので,このままでは刺されると思ってとっさに所携の包丁を突き出した,というのが本件の実態であり,本件は,優に正当防衛の成立が認定されるべき事案であり,仮に,それが否定されるとしても,誤想防衛が認められるべきであるというものである。
そこで,記録を調査し,当審における事実取調べの結果を併せて検討するに,原判決がその【弁護人の主張に対する判断】欄において認定した事実は,本件各証拠により認定し得るところであり,認定事実に基づき,本件においては急迫不正の侵害は存在せず正当防衛は成立しないこと,また,被告人の行為は積極的加害意思によるもので,防衛の意思によるものではないから誤想防衛も成立しないとした判断は正当であり,原判決に事実誤認はなく,論旨は理由がない。
所論に鑑み,付言するに,原審公判廷における証人Aの証言は,飲酒のため部分的にあいまいな点はあるものの,同証人には虚偽の事実を述べなければならない事情は全く窺えないうえ,その記憶しているとして述べている点は具体的,詳細であって,その信用性は高いと認められる。
そして,A証言及び関係証拠によれば,①被害者とAが漁業取締船「X」の船内部員食堂において飲酒中に口論となり,激高した被害者が立ち上がって一升瓶をテーブルに叩きつけて割り,その口元部分(長さ約18cm)を持ってAに対したことから,Aは被害者をテーブルに押さえつけてこれを制止したこと,②被害者はAの制止に対し,怒鳴ったり,暴れる等の目立った抵抗はしなかったこと,③Aが被害者を制止している間に,両名とともに飲酒していた被告人は部員食堂の隣の厨房に赴き包丁置場から出刃包丁(刃体の長さ約17.4cm)を取り出したこと,④被害者を押さえつけていたAは,被告人が出刃包丁を持って部員食堂の厨房側出入口付近に立っているのを見て,これを制止するために被告人のもとに赴き,被告人を厨房の奥の方へ押し込むとともに,「包丁だけはやめぇ。」と言ったこと,⑤Aは,1人では被告人と被害者を制止することはできないと思い,厨房から部員食堂を通って他の者を呼びに行こうとしたこと,⑥その途中で,Aは,被害者が割れた一升瓶の口元部分を持ったまま,部員食堂の厨房側出入口付近に出刃包丁を持って立っている被告人の方に向かって歩いていくのに気付き,これを制止するために被害者の方に行き,被害者の後方からその手を引っ張ったが,既に被害者は左胸部を刺されていたこと,⑦この間,被告人と被害者との間で特段のやり取りはなかったこと,⑧被害者の傷は,その左胸部であり,出刃包丁がほぼ水平に突き刺さったもので,肋骨を貫通して心臓等を損傷し,その深さは約13cmに及んでいること,が認められる。
前記事実によれば,被告人は,割れた一升瓶の口元部分を持って近づいてきた被害者に対し,瞬時にその機先を制して正面から身体の枢要部をめがけて力を込めて出刃包丁を突き刺したものであって,優に殺意が認められ,また,被害者は割れた一升瓶の口元部分を持ったまま被告人に近付いてきたものではあるが,未だ被害者が被告人に対し攻撃を加えようとした状況はなかったものであって,急迫不正の侵害は生じておらず,正当防衛は成立しない。また,被告人は,Aから制止された後,被害者が被告人に近付いてきている状況を認識していたものと認められるのであって,急迫不正の侵害を誤信したものともいえないから,誤想防衛も成立しない。
この点については,被告人は,捜査段階において,本件以前の平成12年10月末ころ,飲酒の際に,被害者が被告人やAに対し,「X」の乗組員が辞めたことに関し,その責任が被告人らにあるなどとして絡んだことに腹を立てたが,その気持ちを抑えていたことを背景に,被害者がAに対し大声を出して立ち上がったことから,「喧嘩になる,喧嘩になれば被害者は被告人に向かってくる,前は我慢したが今回はもう我慢できない,被害者と殴り合いの喧嘩をしてやる。」という気持ちになり,席を立ち,被害者が割った一升瓶の口元部分を手にしていたため,被告人は,これに対抗して,喧嘩になれば場合によっては刺してやろうと思い,厨房に行って出入口に近いところにある包丁置場から出刃包丁を取り出した旨,被害者が被告人の方に歩いてきた際,被害者は割れた一升瓶の口元部分を突き出そうとしたり,高く構えたりはしていなかったが,割れた先を被告人の方に向けて歩いてきたため,自分に攻撃をしかけるつもりであると考え,刺される前に刺してやろうと思って,被害者を出刃包丁で突き刺した旨供述しているところであるが,この供述は前記認定の事実に照らし,合理的であり,信用できるものであって,これを否定する被告人の原審及び当審公判廷における供述は採用できない。この被告人の捜査段階における供述によっても,被告人の本件犯行について,正当防衛あるいは誤想防衛の成立が認められないことは明らかである。
3 量刑不当の主張について
論旨は,被告人を懲役8年に処した原判決は,被告人が相当に酩酊しており,正常な判断能力を減退させていたこと及び被害者が本件の原因を作ったと評価してもおかしくないことを過小評価しており,また,本件は計画的,意図的な犯行ではなく,突発的な事案であること,原判決後,被告人は被害者の遺族との合意に基づき,自宅を売却した代金から住宅ローン等を控除した残額400万円を被害者の遺族に支払い,家族は借家暮らしであること,被告人の妻は原判決後の平成13年11月11日,くも膜下出血により死亡したこと,被告人はこの事態に,更に反省,悔悟,苦悩を深くしていることからすると,不当に重く,仮に有罪であるとしても懲役3年程度の量刑が相当であるとするものである。
そこで記録を調査して検討するに,本件犯行は,酔余のうえとはいえ,出刃包丁を取りに行ったうえで,近付いてきた被害者の左胸部をめがけて力を込めて攻撃を加え,その結果被害者を死亡させたものであって,その結果は誠に重大であり,その無念さは言うに及ばず,一家の支柱であった被害者を一瞬にして失った遺族らの精神的,経済的苦痛には計り知れないものがあり,被告人に対し厳罰を求めるのももっともであり,被告人の本件刑事責任は重大であり,本件が偶発的犯行であること,被害者が割れた一升瓶の口元部分を持ったまま被告人の方に向かって行ったことが本件の最終的結果の誘因となっていること,被告人が本件結果について反省していること,自宅を売却して賠償する旨の示談をしたほか一生できる限りのことをしていく旨述べていること,さしたる前科もなくまじめに稼働してきたことなど,被告人のために有利に斟酌すべき諸事情を考慮しても,原判決言渡し時を基準とする限り,被告人を懲役8年に処した原判決の量刑が重きに過ぎて不当であるとまでは認められない。
しかしながら,当審における事実取調べの結果によれば,原判決後,被告人は前記示談に基づき,自宅を売却してその売却代金から必要経費を除いた残額400万円を遺族に支払ったこと,被告人の妻は本件の心労も加わって平成13年11月11日死亡したこと,被告人は原判決後更に反省の情を深めていることも認められるのであって,この点も加えて改めてその量刑を検討すると,現時点でなお原判決の量刑を維持することは酷に過ぎ,明らかに正義に反するものと認められる。
4 よって,刑事訴訟法397条2項により原判決を破棄し,同法400条ただし書により直ちに当裁判所において自判することとし,更に次のとおり判決する。
原判決が適法に認定した事実に原判決挙示の各法令を適用し,その刑期の範囲内で被告人を懲役6年に処し,刑法21条を適用して原審における未決勾留日数中130日をその刑に算入することとし,原審における訴訟費用は刑事訴訟法181条1項ただし書を適用してこれを被告人に負担させないこととして,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 宮本定雄 裁判官 吉波佳希 裁判官 植屋伸一)