徳島地方裁判所 平成13年(ワ)454号 判決 2002年8月21日
原告
徳島健康生活協同組合
同理事
甲野太郎
同訴訟代理人弁護士
林伸豪
同
川真田正憲
同
小倉正人
被告
乙山次郎
主文
1 原告の主位的請求を棄却する。
2 被告は,原告に対し,金411万9382円及びこれに対する平成14年5月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 原告のその余の請求を棄却する。
4 訴訟費用は被告の負担とする。
5 この判決は第2項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
1 主位的請求
被告は,原告に対し,金411万9382円及びこれに対する平成13年9月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 予備的請求
被告は,原告に対し,金411万9382円及びこれに対する平成13年9月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要等
1 本件は,原告が被告に対し,主位的には,被告の研修期間中に支出した補給金の返還を約定に基づいて求め,予備的には,被告の労働契約の債務不履行により補給金相当額の損害を被ったとして損害賠償を求めた事案である。
2 前提事実
(1) 原告は,市民の共同出資によってつくられ,病院,診療所などを営み,民主的医療活動に取り組んでいるものである。
(2) 被告は,徳島大学医学部で勉学し,平成8年3月,同医学部を卒業,医師国家試験に合格した。被告は同年1月,原告の奨学金の支給を申し込み,承認を受け,さかのぼって平成7年度の奨学金を支給された(<証拠略>)。平成8年4月,被告は,原告に医師として採用されて勤務を始めた。被告は,徳島健生病院(以下「原告病院」という。)に配置され,研修医として研修を重ね,眼科の専門研修を受けた。
(3) さらに医療技術の習得のため,被告は,原告の医師の専門研修に関する規程(<証拠略>,以下「研修規程」という。)に基づき,平成10年8月1日から同12年12月31日までの2年5ヶ(ママ)月間,奈良市に所在する医療法人H会Y病院(以下「Y病院」という。)で研修を受けた。この研修にあたって,原告はY病院などと被告の眼科研修に関する覚書(<証拠略>)を締結した。また,原告の当時の事務局長であった訴外T(以下「T」という。)が被告に対し,研修規程(<証拠略>)を見せてその内容について説明をし,被告は,覚書(<証拠略>)に署名押印した。覚書の内容は,住居にかかる費用についての負担を定めたものである。そして,研修規程の第11条には,「万一,研修終了後健康生協に勤務しない場合は,研修期間中健康生協より補給された一切の金品を,3か月以内に本人の責任で一括返済しなければならない。」と規定されている。
(4) 被告のY病院での研修の間,被告は原告病院では全く勤務しないが,原告から引っ越し費用,一部給与等を補給される。実際,原告が被告に補給した金員は次のとおり,総額411万9382円となった。
赴任時の引っ越し費用 125,715円
アパート手数料 126,000円
敷金 200,000円
平成10年8月分支給 262,535円
同年9月分から同11年1月まで5か月分 毎月495,070円
平成10年冬期一時金 630,482円
帰任時の引っ越し費用 299,300円
(5) 被告は平成13年1月1日,原告病院に帰任し眼科医としての勤務を開始したが,同年6月15日,退職した。そして,その際,研修にあたっての上記補給金の返還に応じなかった。
原告病院眼科は,眼科部長の訴外Nと被告のみであり,原告病院は,対外的に眼科が2人体制になることを大々的に広報し,相当な費用を投じて対応してきた。また,被告に対する研修の補給金の支給も,前記のとおり,研修後,被告が原告病院に少なくとも相当な期間眼科専門医として勤務し,原告病院の医療活動に貢献することを前提としたものである(証人T)。
3 争点は,<1>原告が,被告に対し支給した補給金の返還を求めることが労働基準法16条の賠償予定の禁止に違反するか否か,<2>被告は原告病院に「勤務しなかった」といえるかどうか(研修規程11条の該当性及び被告の労働契約についての債務不履行にあたるか否か),<3>被告が,原告からの返還請求に対し,労働基準法16条に該当することを理由に返還を拒否することは権利の濫用にあたるか,という点である。
(1) 原告の主張
<1> 研修規程11条は研修後勤務しない場合,原告病院にとってその研修費用の負担は何らの合理性も必要性もないから本人負担となる当然の事理を規定化しているだけであって労働契約の不履行についての損害賠償額を定めたという性格の規定ではない。補給金は,原告病院への労務も伴っておらず,原告への労務の対価というものではない。したがって,賃金ではないから労働基準法16条に該当しない。
また適用があるとしても,本件では16条に規定する「違約金」を定めたり,「損害賠償額を予定」などはしていない。
<2> 研修制度の趣旨から言って少なくとも社会通念上2年ないし4年は勤務しなければ勤務したとはいえない。したがって,研修規程11条の「勤務しなかった」に該当するし,原告との労働契約の債務不履行にも該当する。
<3> 補給金の返還を求めることが,仮に形式上労働基準法16条に該当するとしても,被告は研修を重ねただけであり,本来の専門科目に属し,専門医としての診療,治療活動に従事していない。専門研修は,結局被告の医師としての経験,技術を習得するためのものとなっているのに対し,原告は被告の勝手な退職のため多大な損害を被っているだけである。労働基準法16条の規定が本来想定し,防止しようとした関係とはおよそ異なる。したがって,労働基準法16条を盾に返還を拒否することは権利の濫用に該当する。
(2) 被告の主張
<1> 返還を求められている金員は,被告の平成10年8月から同11年1月までの労働の対価として支払われたものである。原告によって研修先が決定され,辞令という業務命令の形で実施されており,原告病院において働いているか否かは関係ない。研修規程11条の定めによってその返還額を容易に算出することができるので,「違約金」の定めがあると解釈できる。
<2> 研修規程11条には「勤務しない場合」としか記載されておらず,その期間は明示していないから,期間は一切問わないと解釈するのが自然である。
<3> 返還を拒否することは権利の濫用に該当しない。
第3当裁判所の判断
1 争点<1>について
上記研修規程11条に規定する,研修期間中健康生協より補給された一切の金品を3か月以内に本人の責任で一括返済しなければならないとの定めに基づいて,原告は被告に対し,金員の返還を求めることができるかが問題となっている。そして問題は,本件の専門研修が原告と被告との労働契約といえるか否かである。
(1) 原告と被告との基本となる契約は労働契約である(規程2条は「組合に勤務する医師」と規定する。)。
ア 本件研修の目的は,原告病院において眼科専門医として本格的な医療活動を行うことができるように(証人T),技術の習得に努めるというものである。しかも原告病院の眼科は平成10年4月に新設されたばかりであるところ,被告が加わることで医師が2人体制になることで,部屋や器具等の設備の充実,視能訓練士などのスタッフの充実等,相当な費用を投じて対応してきた(証人T)というのである。したがって,研修結果は,基本となる契約に直接結びつくものであり,その関連性は大きいし,原告にとって眼科専門医としての医療活動を行う者が複数いることはその業務にあたって利益が大きい。
イ 研修先がY病院に決まった経緯は,原告病院との関連があり,しかも定員に余剰があるところというところで,医師委員会で決まったもので,原(ママ)告の全くの自由な意思にゆだねられているものではない(証人T,被告本人)。
ウ 研修の内容は,Y病院で眼科の常勤医師として(<証拠略>),外来患者を診察し,手術に関与し,月に7,8回は夜勤もこなしていた(被告本人)。
エ 原告は直接原告病院で働いていたのではなく,Y病院で働いていたのであって,原告病院への労務が存在しないから,原告の支払った金員は労務に対する対価ではなく,研修代にすぎないと主張する。
しかし,原告が被告に金員を支払ったのは(証拠略)の覚書に基づくものであるところ,そこでは確かに原告の被告に対する支払いは,Y病院に代わる立替金たる性質を有するものと解される余地があるも,(証拠略)の覚書の作成には被告は全く関与していない。かえって,被告が見せられたという研修規程(<証拠略>)には,以下のように規定されている。すなわち,7条に「賃金」に関する規定,10条「年次有給休暇,退職金及び昇給」という項目であって,その内容は,賃金は研修先の基準に従うが,「健康生協の基準内賃金(基本給,家族手当,住宅手当,研修手当)に達しない場合,その差額を支給する。」(規程7条1項),年次有給休暇,退職金及び昇給も研修期間中を通算する(規程10条)など原告勤務中と同じ待遇になるように規定されている。これらの規定からすると,被告の受け取った金員は労働の対価であって,ただその支出が本来Y病院となるはずであるところ,覚書(<証拠略>)によって,原告が支出していたにすぎないと考えるべきである。
(2) これらの点からすると,Y病院にて研修を受けた間に被告が受領した「賃金」は,実質的には労働契約の対価としての金員である。そして,規程11条は「研修期間中健康生協より補給された一切の金品」と規定しており,その文言中では具体的な金額の定めはないものの,容易にその金員は算定できるから,補給金の返還は「違約金」に該当すると考えられる。
(3) また,実際に原告が支出した補給金についてみると,Y病院に勤務した期間の給与はもちろん,赴帰任時の引っ越し費用やアパート手数料,敷金といったものも,Y病院で勤務するという業務遂行に必要な費用であり,本来,原告が負担すべき費用である。
(4) すると,結局規程11条は労働基準法16条に反するものとして無効であると解される。
2 争点<3>について
労働基準法16条を根拠に返還を拒否することが権利の濫用になると原告が主張している根拠は,被告は奨学金を支給されたり,研修を受けたりするなど恩恵を受けながら,反対給付に該当する原告病院における眼科専門医としての診療,治療活動に従事していないばかりか,従事しない理由が単に給与が安いというだけで自分勝手な理由であるという点にあると解される。
しかし,権利の濫用になるとして,規定により返還請求することができるとすれば,それはまさに労働基準法16条が防止しようとした,契約期間途中の退職等に違約金を課すという方法で労働者の人身を拘束して退職の自由を制約することになりかねず,このような事態を防止すべきことは,労働者が専門職であって高い給与を支給される場合であっても変わりがない。また,研修という名目であってもその実体は前記のとおり,労務提供であるから,研修であるからということも,権利濫用になるか否かという点における認定に変わりはない。
3 主位的請求原因に対する結論
以上検討したところからすると,結局,規程11条は労働基準法16条に反して無効であるから,この規定に基づいて原告が被告に対し,金員の返還を求めることはできない。
4 予備的請求原因について(争点<2>について)
労働基準法16条は,実際に発生した労働者の契約違反あるいは不法行為による損害賠償それ自体を許さないものではない。したがって,原告の被告に対する労働契約の債務不履行の有無について検討する。
(1) 被告が受けた専門研修は,研修規程2条「組合に勤務する医師が,医療構想にもとず(ママ)く診療活動の充実,専門分野の拡充,あらたな診療部門の設置などの必要上から,国内の先進医療施設に留学し技術の修得に努めることをいう。」とされ,これは要するに,医師としての勤務をしながら専門医として高い技術と経験を修得し,研修後は原告病院において眼科専門医として本格的な医療活動を期待しての研修とされ,原告病院の医療活動に役立たせるためのもので,個人的な医師としての技能を高めるというものにとどまるものではない(証人T)。
したがって,原告が支出した費用等に見合うだけの勤務を当該医師に対して期待しているものと解される。
(2) 証人Tによると,前記のとおり,原告病院の眼科は平成10年4月に新設されたばかりであるところ,被告が加わることによって医師が2人体制になるため,原告は,部屋や器具等の設備の充実,視能訓練士などのスタッフの充実等,9000万円ほどの費用を投じて対応してきた事実が認められ,このうちには被告が加わらなくても,眼科開設というだけでかかる費用もあると思われるが(これは被告の指摘するとおりである。),被告が加わることを見越して投資した金員もかなりあったと推測される(もっとも,その割合等についてははっきりしない。)。また,このような事情がなくとも,被告が原告病院に勤務して診療にあたることにより,原告が患者に対して,提供することができるようになる高度の医療サービスという価値も大きい。
(3) そして,被告は,専門研修にあたり,Tから(証拠略)を見せられて研修の説明を受けており(証人T),専門研修後は原告病院で働くということも十分に理解していたと推認できる。しかし実際は,被告はわずか5か月半しか原告病院に勤務しなかったのであり,これだけの期間では到底それまでに原告が被告が原告病院に勤務することを見越して支出した多額の金員に見合うだけの対価を被告が払ったとはいえない。
(4) したがって,被告は原告がそれまでに被告のある程度の期間の勤務を見込んで支出した費用等に見合うだけの勤務を行ったとは認められず,結局,被告が,原告病院にわずか5か月半しか勤務せずに退職してしまったことは,原告との労働契約の債務不履行と評価できるものである。
(5) すると,原告の被った損害額が問題となるところ,前記のとおり,原告は被告のある程度の期間の勤務を見込んで数千万の投資をしており,その一環として,原告は被告に対し,名目はともかく,金411万9382円をも支出している。したがって,少なくとも,原告は結果的に,支払った賃金相当額の損害を被ったと認定できる。
ただ,労働契約の債務不履行に基づく損害賠償は,期限の定めがない債務であって,履行の請求があったときから遅滞に陥るところ,本件では原告が被告に対し,労働契約の債務不履行に基づく損害賠償としてその履行を請求したのは平成14年5月15日であるから(当裁判所に顕著な事実),その翌日から遅滞に陥る(民法412条3項)。
(6) よって,予備的請求である債務不履行に基づく損害賠償という限りで,しかも遅延損害金の起算日を平成14年5月16日とする限りにおいて,原告の請求には理由がある。
(裁判官 建石直子)