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徳島地方裁判所 昭和43年(ワ)269号 判決 1972年3月15日

原告 川岸正史

<ほか一名>

右両名訴訟代理人弁護士 東垣内清

同 林伸豪

被告 徳島県

右代表者知事 武市恭信

<ほか一名>

右両名訴訟代理人弁護士 田中義明

同 田中達也

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一(当事者双方の求める裁判)

一、原告ら

(一)  被告らは原告らそれぞれに対し各自金一〇〇万円およびこれに対する昭和四三年九月八日(但し、被告別役は同年同月一〇日)から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

(二)  訴訟費用は被告らの負担とする。

(三)  仮執行の宣言。

二、被告ら

主文同旨。

第二(原告らの請求原因)

一、(事故の発生)

原告らの二男である川岸建明(当時一五才)は昭和四二年九月六日午前一一時三〇分頃徳島県海部郡日和佐町奥河内字弁財天二三番地の一所在の徳島県立水産高等学校内保健室において急性心臓死により死亡したが、その死に至る経過は次のとおりであった。

(一)  建明は同年四月同校無線料(一学年四〇名)に入学した同校の一年生であり、毎日約三〇キロメートル離れている自宅(原告ら肩書住居地)からバスと国鉄(牟岐、日和佐間)を利用して通学していたものであり、死亡当日も午前六時半頃いつものとおり元気に家を出て同八時には登校し、朝会に参加し、一時限(八時二五分から九時一五分まで)の電気通信術の授業をすませた。

ところが、二時限(九時二五分から一〇時一五分まで)の数学の時間に入り、間もなく、九時三〇分頃突然身体の状態が急変し、脂汗をびっしょり出し、顔面蒼白となって苦しみはじめ、これに気付いた隣席の級友が担当教諭武市文雄に告げ、よって、建明は同教諭の指示により保健委員の級友宮脇新一の肩をかりてようやくのことで校内保健室へたどりついた。

(二)  当時、同校の保健室担当の養護教諭は生田寿満子(当時五四才ぐらい)であったところ、同女は建明を引きとり直ちに備付ベットに寝かせた上、その容態を聞き、体温、脈膊を測った結果、それが三六度三分と七〇で、ほぼ正常であったため、漫然「はっきり判らぬが、遠いところから通学しているので夏休み明けの疲れが出たのであろう」と考え、いわゆる暑気当りであるといった程度の判断をし、加うるに、本人が特に瞬間的な耐え難いほどの苦痛を訴えず「大丈夫だ」といったことに安心して、ただ頭部をタオルで冷すといった極めて非科学的措置をとっただけで、他に特段、備付の血圧計による測定をしたり、校医に報告指示を仰ぐ等の手段を全くとらずに放置した。

しかし、事実はさにあらず、建明は前記のとおり熱もないのに異常発汗をなし、顔面蒼白であり、かつ保健室にたどりつくまえ廊下で嘔吐しようとした事実もあり、このことは、同人が当時便所へ行って吐く元気もないほど弱っていたことを示すものであり、現に、ベッドに横たわってから胃残留物を嘔吐しており、基本的には何ら回復した情況ではなかった。しかして、以上のような容態は生田教諭も明白に感知した客観的に明白な事実であった。

その上、生田教諭は時刻は明確ではないが、間もなく建明を独り放置して、職員室へ赴き、教員の胃がん検査用書類作成に当り、一一時三五分頃になって保健室へ帰り、建明をみたところ、同人の唇は既に紫色に変化し、急性心臓死による死亡後五分を経過していた。従って、その後、生田教諭があわてて他の教諭の助けを求め、校医居和城武に電話連絡し、これに応じて同医師が同一一時四〇分頃到着し直ちに注射をしたり人工呼吸の措置をとったが時既に遅かった。

二、(生田養護教諭の過失と因果関係)

以上のとおり、建明は発病後二時間にもわたる間、保健室に寝かされたまま単にタオルで頭を冷す程度の措置を受けただけで独り放置され死に至ったものであり、かかる結果はほかでもない前記養護教諭生田寿満子の自己の職務の執行についての過失に基くものであること明白である。すなわち、

(一)  生田養護教諭の過失

一般に、学校に学校医を置き、保健室も設けているのは学校教育法一二条、学校保健法一六条、一九条、同法施行規則二三条七項等に基くものであるが、これら法令によると、学校医は校長の求めにより救急処置に従事する義務があり、保健室は救急処置を行うためのものとされている。また、養護教諭は高等学校設置基準(昭和二三年文部省令)により、「生徒の養護をつかさどる」職員として、少くとも一人は兼職を禁止されて専属すべく、乙種看護婦以上の資格を持つものをもって充てることになっている(同令一二条、一四条一、二項)。

以上の点並びに社会通念に照らすと、およそ養護教諭たる者は本件のような救急看護にあたっては有資格者として、最善を尽すと同時に自己の執務の限界を超えてはならない職責を有していることが明らかである。これを具体的に言うと、明らかに医師の手当を要しない場合を除き、直ちに学校医等専門医師に連絡し、医師の診断処置のうけさせるか、少なくとも医師の指導をうけるべきであり、また、単なる打撲傷等のようにその症状が一見して急変のおそれがないことが明白な場合を除いては、殊に本件のように内科的症状を呈する場合には、症状が完全に回復するまではいつ症状が急変悪化するかもわからぬおそれがあるから、常時患者の症状変化に注意し、医師に通報、学校長に報告、保護者に連絡する等の措置をなすべき義務がある。

なお、被告らの主張によれば、養護教諭には乙種看護婦の規定が準用される位であるから注意義務の程度は甲種看護婦ほど高度な臨床判断を求められていないというのであるが、同規定の準用があるのは名称、業務内容、権限を除いた手続的事項に関するものに過ぎない。

生田教諭の場合は旧制看護婦養成所を修了し、旧看護婦規則により看護婦の資格を得ていたもので、その後、昭和二二年政令一二〇号保健婦、助産婦、看護婦令施行後も同政令二八四条の経過規程により「看護婦」の名称を用いて甲種看護婦の業務を行うことができたし、その後昭和二三年に制定された保健婦、助産婦、看護婦法においても同法五二条により「看護婦」の名称を用いて看護婦(准看護婦と区別された)の業務を行う資格を有していたのであって、准看護婦より高度で専門的な知識と経験を有していることは明らかである。のみならず、養護教諭の業務は一般の看護婦のように単に診療の補助をするだけでなく、独立して多数の生徒を託され、その健康管理については保護者と同様の慎重さと、加えて科学的知識による正確な判断を要求される点で看護婦とは比較にならない重要な責務を負っている。

以上のような生田教諭の職責に照らして、同女が本件においてとった措置をみると、同女は、前記のような建明の完全に回復していない容態を現認しながら、軽卒にも「暑気当り」と速断し、有資格者としては初歩的な常識ともいうべき血圧測定すらせず、従って、継続的に時間をおいて脈、体温、血圧さえはかればそれが単に一過性の暑気当りか、恒久性の死に至る内分泌系異常であるか判ったはずであるのにこれもせず、また、仮りにその判断がつかなければ少くとも、校医に報告し、指示を仰ぐべきをこれもせず、漫然長時間放置していたのであって、以上の点は明らかに養護教諭としての義務を怠ったものである。僅か一五才の当人が「大丈夫だ」と言ったからといって右義務が消去されるものではない。まして、回復していない病人を独り置いて外出した点は責められるべきである。

(二)  生田教諭の過失と建明の死亡との間の因果関係

まず、建明の死因にいう急性心臓死というのは実は正確な病名ではない。建明の場合は午前九時三〇分頃副交感神経のショック症状が生じ、持続的に緊張状態にあり、間もなく自律神経のうち交感神経と副交感神経のバランスが乱れ心臓の鼓動が止ったものであり、この間二時間も経過しており、救いようのない、急激に死に至るいわゆるポックリ病とは違う(この場合は自覚症状など一切ない)。

しかして、このような場合は、交感神経の緊張剤であるアドレナリン系薬品を投与して心臓の鼓動を強め血圧を上昇させ、また人工呼吸、心臓マッサージ、酸素吸入などの措置をとれば、その場を切りぬけることができ、そうすれば直ちに死亡することはない。元来、心臓麻痺による完全な呼吸停止の場合でも五分以内に発見すれば確実に蘇生するというのが常識である。従って、本件の場合は、生田教諭さえ前記のような適切な措置をとっていれば十分命をとりとめえたのであり、同女がかかる措置をとらなかったことと、建明の死亡との間には因果関係がある。

三、(被告らの帰責原因)

被告徳島県は前記不法行為者生田寿満子を徳島県立水産高等学校の養護教諭として使用するものであり(民法七一五条一項)、被告別役洋は本件事故当時同校の校長として被告県に代って生田教諭を監督していた者であり(同法同条二項)、いずれも建明の死亡事故によってその両親である原告らの蒙った精神的損害を賠償する義務がある(同法七一一条)。

四、(損害)

原告らが建明の将来の成長を期待していたことは多言を要しないところであり、本件事故によって、最愛の子を一瞬に失った原告らの精神的打撃は深刻である。もともと、建明は大柄頑健な身体の持主で、高校入学後の二回にわたる健康診断でも異常はなく、夏の遠泳も完泳しており、本件事故死までは授業中身体の不調を訴えるようなことはなかった(なお、被告らは、建明が異常体質であったかのように主張するがそのような事実はない。中学三年当時一度漿液性髄膜炎になったことはあるが、これは風邪の一種に過ぎない)。それがこのような不慮の死を遂げたのに、事故後の学校当局のとった態度は不親切極まりないものであり、家庭に連絡があったのは死後一時間も経過してからであったし、事故の説明もあいまいで前後矛盾している部分もあり、故意に真実をかくそうとしている形跡もある。その他諸般の事情を綜合すると、原告らの慰藉料はそれぞれ三〇〇万円を下らない。

五、(結論)

よって、原告らは被告ら各自に対し右慰藉料各三〇〇万円の内、右金一〇〇万円およびこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和四三年九月八日(被告別役は同年同月一〇日)から支払いずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

第三(被告らの答弁)

一、(認否)

原告ら主張の請求原因第一項は以下の主張に反する事実については争う、第二、第四項も争う、第三項は認める。

二、(事故の状況)

建明死亡前後の状況は次のとおりである。

原告らの子建明は昭和四二年四月水産高校に入学、無線通信科一年生として同校に在学中、昭和四二年九月六日、第二時限目の数学の授業中気分が悪くなり汗を出していたので隣席の丸龍孝康がその様子に気付き、担当の武市文雄教諭に知らせたので同教諭が保健委員宮脇新一に命じ建明を保健室へ連れて行かせた。それが当日午前九時三五分頃である。保健室に居た養護教諭生田寿満子は、宮脇新一からの知らせで室外に出てみると建明が立っていたので保健室へ連れて入り、ベッドに寝かせたところ、少量の嘔吐をした。しかし、その時は体温は三六度二分、脈も正常で、顔色や物の言い方も普通であり呼吸も乱れていなかった。容態を本人に問うたところ、「暑いのをこらえて授業をしよったら胸が悪うなった。」と言い、今まで病気になったことはないかとの問に対しても別にないと答えた。そこで、汗をかいていたので保健室備付の下着に着替えさせようとすると、自分で上半身を起して汗でぬれたシャツを脱ぎ上半身裸になって大きいタオルを胸にかけそのまま横になった。暫くたって「先生、頭冷して下さい。少し頭が痛い。」というのでぬれタオルを頭においてやり時折かえてやった。そして、三時限が始って暫くしたころからは気持よさそうに眠りに入って全く異常はみられなかった。生田教諭はその後午前一一時過になって教職員の胃検診の申込準備をするため職員室へ行き二〇分余りして保健室へ戻ったところ建明は全く同じ姿でベッドの中央に動いた形跡もなく安らかな表情をしていたが、驚くべきことに、唇は紫色になりまぶたの下も紫色になっていた。生田教諭はびっくりして校医の居和城武医師に電話し即時来校を求め、職員室へかけ込んで居合わせた教諭に知らせ応援を求め、人工呼吸の努力をし、前記医師により注射がうたれたが、建明は回生せず、右医師の診断では急性心臓麻痺による死亡と推定された。学校側では原告らに解剖による死因解明をすすめたが同意を得られなかった。以上のような経過であった。

なお建明は昭和四二年四月に一斉に行なった生徒健康診断においても、特段既往症の届けはなく、身長一七一糎余、体重六五キロ三、胸囲九〇、疾病のない健康体であったし、同年七月に水泳訓練を行う前、クラス担任の教諭から生徒全員に既往症を届出させたさいにも何の申出もなく六キロメートルの遠泳を完泳しており、今回の突然の死亡は全く誰もが予想だも出来ない事柄であった。後に原告らの話で判明したのであるが、建明は中学三年生の折に突然発汗し医師を迎えて大さわぎをしたことがあるとのことであり、特異な体質の持主であったとも考えられ、夏休みの後の疲労が重なっていたことと、連日暑い日が続いたことも重なって突然の心臓麻痺を起したものとしか考えられない。

三、(生田教諭の過失の存否について)

(一)(生田教諭の養護教諭としての資格)

同女は昭和四年三月美馬高等女学校を卒業、その後洋裁学校へ入学したが、結核性肋膜にかかり退学の後長期療養生活を経、昭和一三年四月から昭和一五年三月までの戦時中の二ヶ年間、名古屋大学医学部付属看護婦養成所に学んで、同所卒業後五ヶ年間同医学部付属病院に看護婦として勤務、昭和二〇年三月から昭和二四年一月まで徳島県三好郡佐馬地村における開業医生田医院で看護婦をなし昭和二四年二月から三月にかけて二ヶ月間徳島県養護教員養成講習会を受講して、爾来養護教諭としての職にあったもので、同女の資格は、

(1)  旧看護婦規則(大正四年内務省令第九号)第二条二号によって前記看護婦養成所を卒業したことにより同規則にいう看護婦の資格が与えられ(保健婦助産婦看護婦法第五三条二項によって後に乙種看護婦に関する規定が準用される)、

(2)  昭和二二年八月二五日文部省告示第百三十七号の一号によって中等学校を卒業した者で看護婦免許状を有し、都道府県主催の養護教諭養成講習会の課程を終了した者に当分の間養護教諭仮免許状が与えられることとなったが、同女は右告示による講習会(前記二ヶ月間の講習)を受講して右仮免許を得、

(3)  学校教育法施行規則(昭和二二年文部省令第一一号)百三条四号及び教育職員免許法施行法(昭和二四年法律第百四十八号)第二条掲記の一覧表番号二十一のロによって養護教諭の二級普通免許状を得、

(4)  結局昭和二五年八月三〇日徳島県看護婦第一七四二号として旧看護婦の、同年同月同日徳島県教育委員会、養教二普昭和二五第一号として養護教諭の各資格を有していたものである。

(二)(養護教諭の素養)

ところで、生徒の養護をつかさどる職員は、乙種看護婦以上の資格をもつ者でなければならなかったことは原告ら主張のとおりであり、現に生田教諭は乙種看護婦資格者であったのであるが、現行の保健婦助産婦看護婦法(昭和二三年七月三〇日法二〇三号)には甲種乙種の区別がなく、看護婦と準看護婦の別がなされており甲種乙種の別は同法が昭和二六年に改正される以前の旧制度であったと思われるところ旧保健婦助産婦看護婦令(昭和二二年七月三日政令第百二十四号)では、甲種看護婦が「傷病者もしくはじょく婦に対する療養上の世話又は診療の補助をなすを業とする」のに対し、乙種看護婦は「医師、歯科医師又は甲種看護婦の指示を受けて傷病者若しくはじょく婦に対する療養上の世話又は補助(急性且つ重症の傷病者又はじょく婦に対する療養上の世話を除く)をなすを業とする」旨定められており(同令五条、六条)その資格を得るための受験資格においても甲種と乙種とでは相当のひらきがある(同令二三条、二四条)。とりわけ生田教諭の場合、旧看護婦規則による看護婦養成所を戦時中に卒業して旧看護婦資格を得ていたものが法改正によって乙種看護婦に関する規定の準用をうける結果となったもので、実質的には二ヵ年間の看護婦養成所における勉学のみによって資格が与えられているものである。このような乙種看護婦、換言すれば本件の生田教諭に近代医学の知識や高度の臨床判断を求めることは不能である。

(三)(生田教諭の過失の存否)

以上の点を前提にして本件生田教諭の具体的所為について検討すると次のとおりである。

居和城武医師が推定するところでは、建明は急性心臓死(心臓麻痺)であるところ、一般に、自律神経には、交感神経と副交感神経(迷走神経)があって、前者が心臓の拍動を増加し血圧を上昇させる作用をもつのに対して後者は心臓の拍動を抑制し血圧を下げる作用をなすが両者がバランスを失なって副交感神経の緊張が高くなりなかんづく副腎の機能不全、胸線といった内分泌系統の異常が内在する場合に急性の心臓死がおこりやすく、同じく交感神経と副交感神経がバランスを失なう事例ではあるが暑気の場合は暑さという一つの条件をとり除いて涼しい所で休ませればバランスをとり戻すという一過性のものであるのに対して、内分泌系統に異常があるようなときは恒久的な症状となりやすい。しかして、一過性のものであるか恒久性のものであるかは同じような症状を呈するので一時期を見るだけでは医師といえどもその区別を判断し難く、経過を見守り症状の変化を継続的に観察することによってその区別についての判断が可能になるというのである。

以上のような次第で、当該急性心臓死が一過性か、恒久性かについての医学的な知識と臨床判断を一介の養護教諭に求めることが無理であることは論ずるまでもない。この点について過失を問うこと自体問題にならない。

次に、本件の場合、生田教諭にとって、直ちに医師の診断をうけるか、もしくは片時も傍を離れずに見守っておらねばならない義務があったか否か。この点については、死亡という結果の重大性は除外し、過失を求めんとする時点にかえってその当時の症状から判断されなければならない。すなわち、当時建明の症状は、体温、脈膊正常であって、特別な既往症や身体的欠陥もなく、単に暑いのをがまんして授業を受けていたら気分が悪くなり吐きそうになったもので、発汗と顔色のすぐれない程度の症状であったから、これを単なる疲労か、一時的な暑気であると思うのはむしろ当然であって、そこに死に至るような重大な疾患が内在しているとは誰も想像することさえ出来なかったはずである。本件の場合に生田教諭に過失ありとするのなら、おそらくは、人間の殆んどすべての死亡は医師もしくは看護者の過失によることとなってしまって、神のみがなしうる不可能事を人間に強いる結果となる。

以上、いずれにしても、生田には過失はない。

四、(因果関係)

生田教諭の所為と建明の死亡との間に因果関係を求めることは更に不可能な事柄に属する。建明の死因は、心臓麻痺と推定されているが、この疾患が、しばしば突然、急激に訪れて、医師の手当の仕様もなく、或は手当が出来てもその甲斐なく瞬時のうちに死に至ってしまうものであることは吾人の今日の常識である。本件の場合、建明の症状は前述のとおり単なる疲労もしくは暑気と判断される程度のものであったのに、突然の発作で死に至ったものであり、その死後の様子もベッドの上に手足を動かせた形跡もなく苦しんだ様子も全くなく、従前と寸分違わぬ状態でそのまま死に至っていることを思うと、苦しむ余裕もなく突然の発作で心臓の機能を停止してしまったものと思われ、それ以外の何ものでもない。すなわち、もし生田教諭が医師のところへ建明を強引に連れて行ったとしても、医師はやはり単なる暑気と判断してさしたる手当をしなかったかも知れない、何らかの手当をしたとしてもやはり心臓発作から免れ得なかったかも知れない、或いは逆に一命をとりとめ得ていたかも知れない。すべては後になっての看護についての反省と悔恨とであって、これを因果関係と混同してはならない。

五、(結論)

以上の次第で本件死亡事故は残念な事柄ではあるが、さりとて被告らに民事上の法律的な責任があるとは到底考えることが出来ない。

第四≪証拠関係省略≫

理由

一、徳島県立水産高等学校無線通信科一年生であった原告らの二男川岸建明(昭和二六年一〇月四日生)が昭和四二年九月六日午前一一時三〇分頃同校の保健室において正確な病名かどうかは暫らくおき、急性心臓死により急死したことは当事者間に争いがない。

二、原告らは、右建明の不慮の死は同校の養護教諭生田寿満子(当時五四才ぐらい)の養護上の過失に因る旨主張するから、まず右死亡事故発生前後の経緯について検討する。

事故発生情況に関し当事者間に争いない点と≪証拠省略≫を綜合すると次の事実が認められる。すなわち、

(一)  建明は前日母原告久子にテープレコーダを買ってもらい喜んでいたが、夜一〇時頃にはいつものとおり二階に上り、就寝し、事故当日(火曜日)の朝は平常どおり午前六時頃に起床、朝食をすませ、午前六時半頃元気に家を出発し、バスと国鉄を利用し登校、朝八時の朝会をすませ、第一時限(午前八時二五分から九時一五分までの五〇分間。電気通信術)の授業も支障なくこれを受けたが、第二時限目(一〇分間の休憩をおいて九時二五分から一〇時一五分までの五〇分間。数学)の授業が始まって間もなく、九時三〇分頃になって、顔面蒼白となり、多量の汗を出して苦しがり始めた。そこで、隣席の級友丸龍孝康がこれを発見し担当教諭武市文雄に知らせた結果、同教諭の指示により、建明はすぐクラスの保健委員をしていた級友宮脇新一に伴われ、保健室へ歩いて行った(建明が授業を受けていた教室から保健室まではコの字型に廊下を約九〇米歩く。なおその途中、保健室の手前約三〇米のところには職員室がある)。途中、職員室前付近で「吐き気がする。」と言ってかがみ込んだが、結局、その場では吐かず、そのまま保健室へ入った。当日は残暑きびしく、日中は三三度から三四度ぐらいの気温であった。

(二)  保健室にいた生田養護教諭は建明が保健室へ入ってくるのをみて、すぐ容態を聞いたところ、同人は「暑いのをこらえていたら胸が悪くなって吐きそうになった。」と答えたので、生田も一寸気分が悪いのであろうと考え、背中をさすってやり「吐いたら楽になるよ。」と言って促したが、その時は吐けず、備付けのベッドに静かに横になった。付添ってきた宮脇は間もなく教室へ帰ったが、その後建明は少量(直径一〇糎ぐらいの灰皿一杯ぐらい)の米飯とハムをあらかじめ生田教諭が用意した洗面器に嘔吐し、少し楽になったような風を示した(九時三五分か四〇分頃)。

生田はその頃「腹は痛まないか。」とか、「食あたりはないか。」等の二、三の質問をしたが、心当りになるような返事もなく、ただ「前夜は遅くまで起きていた。」と言うのであった。また、体温を測ると三六度三分、脈膊も七〇ぐらいで正常と思えた。そこで、生田は取り敢えず、建明の頭をタオルで冷し、着ていた開襟シャツをとり、汗でぬれた下着(クレープシャツ)を脱がせ、上からタオルを着せかけて暫らく様子をみることにした。

(三)  その後、建明は静かに横になって休みはじめ、さして苦しそうな様子も見せなかったので、生田は、一応の病状判断として、建明は朝早く家を出ているし、夏休み明けの疲れでも出たのであろう、すなわち、一過性のいわゆる暑気当りであると判断し、二時限と三時限の間の休憩時間(一〇時一五分から二五分の間)に職員室へ行って、担任教諭美馬清秀に対し「川岸が気分悪くなり吐いた。食当りだろう」といったていどの報告をしただけで、その後は特段校医に連絡する等の措置はとらず、横にいて、頭を冷やすタオルを取り替えてやるていどの看護をしていた。

(四)  ところが、その後も建明は静かに眠りに入り、苦しそうな様子もなかったので、三時限目(一〇時二五分から一一時一五分まで)に入って後、生田教諭は教職員の胃がん検査申込書を作成するため、建明の居る保健室を空けて職員室に赴き、右事務を終え、やがて、四時限目(一一時二五分から)に入った直後の一一時四〇分頃、かつての例では保健室で休養する生徒は、気分がよくなると勝手に出て自分のクラスに帰つたこともあり、建明の場合もそうかも知れないぐらいに考え、保健室に帰って見ると、ベッドに寝ている建明は、特に苦しんだ様子もないのに唇が紫色に変色しており、驚き、養護教員の心得上、突さに、これは秒を争う状態であると判断し、事務室へ走って、近くの校医居和城武に電話連絡するとともに、職員室に大声で危急を知らせた。これを聞いた体育担当の武市幹夫教諭ほか五、六名の教員は直ちに保健室へ走り、見ると、建明の脈膊は既になく、呼吸も止っている状態であったので、建明をベッドから床におろし、人工呼吸の準備をし、果してそれがよいかどうか判断しかねているところへ、居和城医師が駈けつけ(四五分頃)、診ると、既に脈膊停止、瞳孔散大、肛門拡大の死の確徴があり、死後一〇分は経過したと推定できる状態で、治療の甲斐もないことがわかったが、生田らの懇請もあったので、即刻強心剤の注射をするとともに、人工呼吸を施すことを指示したが、時既に遅く、再び蘇生することがなかった(生田証人は、自分が建明を独り置いて保健室を空けた時間について「一〇分ぐらい。」と言ったり、「も少しながかった。」と言ったりしてあいまいであるが、被告らの主張自体、「一一時頃に出た。」と言うのであり、その他弁論の全趣旨に生田の帰室時刻一一時四〇分頃とを彼此検討すると、生田の外出時間は本人がいうほど短かいものではなく、少くとも半時間には及んだと認めるべきである)。

(五)  亡建明は生前は野菜は嫌うが肉類を好む仲々の元気者で、(母親原告久子が一二時二〇分頃被告別役校長から電話で「事件があるからすぐ来てくれ」と連絡を受けたさいも、何か素行不良の事件を起こしたのではないかと心配し、弁償金も持って学校へ行ったと言う)体位も人並以上であり、夏の遠泳訓練も六キロメートルを完泳しており、一年半ほど前の昭和四一年正月に一度漿液性髄膜炎の疑(風邪の一種であると言う)で三回医師の往診を受けたことはあるが、他にこれと言った既往症はなかった。

(六)  ところで、建明の死因は、母原告久子が悲しみに沈み、解剖を拒否したこともあって(父原告正史は四日市のしゅんせつ工事に出稼ぎ中)、専門的には断定できないものであるが、いわゆる急性心臓死(脳死に対する概念で、脳死の場合は死に至るまでの時間がもっとながい)であることには間違いない。

一般に、このように、冷汗をかき、吐気をもようし、顔面蒼白となる症状は、人体中の自律神経である交感神経(心臓の拍動を高め、血圧を上昇させる機能を司る。幼児ほど強く、成人するほど弱くなる)と副交感神経(反対に、心臓の拍動を抑制し血圧を下げる機能を司る)とのうち、後者が何かのショックで緊張し、両者のバランスを崩した時に呈する症状で、これが究極心臓停止を招くわけであり、以上のような神経失調は大別して一過性のものと、恒久性のものがあり、前者は俗に暑気当りと言われる場合も含まれ、安静にし、暑気等の負荷を取り除くと間もなく回復するのに対し、後者は内因性のものであって、副腎機能不全、胸線内分泌系異常等いわゆるホルモン分泌の異常があった場合に副交感神経の緊張をもたらし、死に至るわけで、一過性のものと、恒久性のものとが存すること自体は一般に看護婦殊に、その資格を有する養護教諭としては承知しているのが通常で、生田の場合もこれを知っていたが、ただ、そのいずれであるかの区別判断は医師でないと無理であり、それも暫らく時間をかけて、血圧、体温、脈数等を継続的に観察しなければ判定できない(すなわち、時間的に、点の時点では判別できないが、線の状態でみるとわかる)。

恒久性、内因性の症状の場合における医師の対症療法としては、一般にアドレナリン系の交感神経緊張剤を投与して心臓の鼓動を強め、血圧を上昇させて、副交感神経とのバランスを回復させるほか、人工呼吸、酸素吸入、心臓マッサージ(但し、これは仮死状態に陥って四、五分までの間にやらねば間にあわぬ)等の手段が用いられるが、医学上、異常状態の説明はできても病気の真因、その根治療法はなおわからぬのが現状で、二十代、三十代の成人に多い、就寝中、突然心臓死する、いわゆるポックリ病もこの一種と思われるがなお解明不十分の点がある。

建明の場合も、内因性、恒久性のものであって、おそらくは、成長期でもあり、副腎胸線の発育不全か、内分泌系の異常が原因で急性心臓死に至ったと思われる。

しかし、前記居和城医師の立場としては、本件の場合、もし、生田教諭が側におり、急変を知って直ちに医師に連絡し、医師がすぐさま適切な措置をとったとしたら、一命をとりとめたかも知れないが、他方、そのような措置がなかったから死亡したとも断言できない、解剖してないので論点不十分である、と言うのである。

以上の事実関係が認められ、右認定事実を左右する証拠はない。生田証人は、建明との会話としては、以上認定のほか((二)参照)、生田「医者呼ぼか。」建明「かまわん。吐いて気分がよくなった。」等の会話をしたことを挙げるが、もともと生田は本件において微妙な立場にあり、他に第三者もおらず、会話の詳細をしかく正確に認定することは困難であり、またかりに、右のような会話があったとしても、それによって、いま問責されている生田の過失責任の帰すうが決定的に左右されるものではないと考える。

三、そこで、以上の事実関係に基いて生田養護教諭の過失の有無について検討する。

まず、≪証拠省略≫と証明を要しない関係法規を綜合すると、(1)養護教諭生田寿満子の経歴は被告ら主張のとおりであって、当時看護婦の資格を有する高等学校養護教諭である。(2)また、その職務の法律上の根拠は、原告ら主張のとおりであり、一般に養護教諭は学校に専属し、「児童生徒の養護を掌る」教育職員であり(学校教育法二八条五項、五一条)、その執務内容の中には一般的な生徒の保健管理のほか、「生徒の救急看護に従事する」ことも当然含まれると解されていること、以上の事実が認められる。

しかして、本件における生田教諭の所為をみるに、前記のとおり、同女は、建明が授業中、冷汗をかき、顔色を青くして、気分が悪いと訴えて、級友に連れられながら保健室へ来た上、少量の嘔吐をしたのに対し、二、三の質問と体温、脈の測定をしただけで、それに特段の異常が認められなかったことに安心し、かかる場合、一過性の暑気当り、食当りのものもあるが、危険な恒久性のものもあることを職業上の知識として承知しながら((六)参照)、簡単に前者の場合と判断して全く怪しむことなく、ただ備付けベッドに寝かせて、頭をタオルで冷すていどの措置にとどめ、安静にしておれば、やがて回復すると考えたことは、例え、当人がその後特段苦しみを訴えず、静かに寝入ったとしても、十分非難に値いし、殊に、前記のような状態で入って来た建明を保健室に独り置いて外出し、目をはなし、少くとも半時間も空室にしていたことは(なお、建明が入室休養し、ベッドに横たわったままになってから、生田が外出するまでほぼ一時間半も経過しており、建明はかかる長時間かけてもなお回復していない計算になる点も参照)、養護教諭としては日頃の油断、軽卒のそしりを免れないものである。一過性の暑気当りがよくあることや、本件高等学校においては、よく授業をずる休みする目的で仮病を使って保健室へ休みに来る生徒があるというような事情(生田証言)は、本件事実関係の場合、何ら生田の責任を免れしめるものではなく、弁解に過ぎない。およそ人の健康に携る者は漫然日常性の中に埋没して、おのれの義務を放てきすることは許されない。日日あらたな心構えを求めることはあながち無理とは考えられない。殊に、高等学校の生徒と言えば、一応は自分の身体状況についての判断能力を有するとは言え、なお未成年であり、世の父兄としては、「学校は安全で心配のないところである」と考え、子弟を預けているのが実情である点に思いをいたすと、生徒の救急看護に当ることを職務とする養護教諭としては、単に、かすり傷に赤チンをつける、といった場合は格別、かかる場合は、やはり体温、脈の測定、簡単な問診はもとより、その後も細心の注意を払い急変に備え、少くとも半時間も病人の側を離れるようなことなく、必要とみれば、臨機の措置、すなわち、医師(校医)への連絡、担任教師、家庭への連絡等をする心構えでおり、無事気分回復を見届けるのが当然である(なお、これより以上に、当初の段階で、直ちに医師への連絡を義務づけることは、本件の場合、社会通念上やや酷ではないかと思われる)。もし、かかる義務もないと言うのであれば、保健室など無い方がましである。けだし、建明のような病状が生じた場合、保健室がなければ、近くの校医へ直行したであろうことは容易に想像されうることであると考えられるからである。また、見方にもよるが、学校の養護教諭たる者は、その職務の特殊性の故に、(保健、救急上の研修も受けていることは生田も自認するところである)個々の生徒について、場合によっては、その保護者(両親)以上の予見能力をもってその病状推移について注意を払うべき義務が存すると解すべきである。

以上のとおりであるから、本件の場合、養護教諭生田寿満子が建明の病状を漫然一過性の暑気当りと考え、場合によっては死に至る内因性症状であることもある点を知りながらこれに思いをいたさず、(但し、その判断までも求めるのは無理)、半時間もそのそばを離れ、よってその病状急変にさいし、臨機の措置をとらなかった点は不法行為法上の過失と言わねばならない。

四、しかし、次に、すすんで、生田の右過失行為(正確には、不在のため臨機の措置をとらなかった不真正不作為の行為)と建明死亡との相当因果関係、すなわち、もし、生田教諭が建明のそばにおり、病状変化に気付き、直ちに医師を呼び、相応の手当を施したとすれば、その結果、果して建明は一命をとりとめえたか、または、多少とも死に至る時間をながらえることができたか、否かの点については前記のとおり、本件の場合は、解剖所見が得られないことや、現在の医学知識水準に照らし(但し、解剖を拒否した母原告久子の心情は誠に無理からぬものがあり、右拒否がために、因果関係の関門を狭くすることは、必らずしも当裁判所の本意ではないが)、これを肯認することが極めて困難であり、原告らの援用する証拠を精査しても、なおこれを裏付けるに足る確証なし、と言わざるをえない。すなわち、建明の死亡直後に臨場した医師居和城武も(本件では、証拠上、同証人の証言以外に専門医学上の証言ないし鑑定証言は他にない)、前記認定(六)のとおり、要するに、本件の場合急変後医師が直ぐに駆けつけても、助かったか、助からなかったかはわからない、と言っているのが実情で、特に、建明の急変状態があったのか、あったとして、それがいつの段階で外部からみて覚知しえたものか、と言った時間関係も不明であり、その他、恒久性症状と言っても、具体的には色々な場合があるのでないか(いわゆるポックリ病の定義、位置づけ―原告らは本件はポックリ病でない、という―)、死に至る蓋然性、確率、等々の点においてなお不明の要素も存し、当裁判所としては、いま前記医師の証言または鑑定証言を超えて、一般経験則に依拠して右因果関係の存在を肯定することについてなおちゅうちょを覚える次第である。殊に、本件生田の場合は不作為をもって過失(行為)と目されているのであり、この場合の因果関係の解明は、建明の死に至る自然の因果の流れに対し、生田がいついかなる作為をなせばその流れを喰い止め得たか、または流れの方向を変えることができたか、と言う視点から検討しなければならないのであって、一定の作為行為(例えば、注射、投薬行為)と死の結果との相当因果関係を判定する場合とは、その過失行為と結果との関係構造を異にしており、問題を一層困難にしていると思われる。

以上のとおりであるから、本件は相当因果関係を否定せざるをえない。

五、よって、原告らの請求は爾余の判断をするまでもなく失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 畑郁夫 裁判官 葛原忠知 岩谷憲一)

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