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徳島家庭裁判所 平成4年(家)392号 1995年3月31日

主文

一  平成4年(家)第393号事件申立人山村太一、同第397号事件申立人飯田志津子の各寄与分を定める処分申立をいずれも却下する。

二  平成4年(家)第392号事件被相続人山村新太の別紙遺産目録記載の遺産を次のとおり分割する。

1  同事件申立人笹川明代に、別紙遺産目録の1土地に記載の番号3及び4、9ないし15の各土地及び同目録の2建物に記載の番号1の建物を取得させる。

2  同事件相手方山村ハツヨに、同目録の2建物に記載の番号2の建物、同目録の3預貯金に記載の預貯金全部、同目録の4有価証券等に記載の番号1の○○証券株式会社に対する公社債投資信託、同目録の5その他債権に記載の番号1、3ないし9の各債権を取得させる。

3  同事件相手方山村太一に、同目録の1土地に記載の番号1及び2、5ないし8、18ないし43の各土地、同目録の5その他債権に記載の番号2の債権を取得させる。

4  同事件相手方飯田志津子に、同目録の1土地に記載の番号16、17の各土地、同目録の4有価証券等に記載の番号2の有限会社イー・エフ・シーの出資持分権を取得させる。

5  同事件相手方山村太一は、上記3の遺産取得の代償として、同事件申立人笹川明代に対し6,043万6,707円を、同事件相手方山村ハツヨに対し1,883万5,312円を、同飯田志津子に対し1,485万1,269円を支払え。

理由

第一相続人及び法定相続分

被相続人山村新太は昭和63年7月27日死亡して相続が開始した。その相続人及び各法定相続分は、妻である平成4年(家)第392号事件相手方山村ハツヨが2分の1、いずれも子である同山村太一、同飯田志津子、同事件申立人笹川明代がそれぞれ6分の1である。(以下、申立人・相手方の表示は平成4年(家)第392号事件に基づき、当事者は原則として名のみで表示する。)

第二遺産の範囲

本件分割対象遺産は、別紙遺産目録記載のとおりである。

相手方らは、遺産目録の5その他債権(以下、債権目録という。)のうち、番号2の山村整形外科病院に対する仮払金(貸付債権)、番号3の藤村建設株式会社に対する仮払金(貸付債権)は、藤村建設株式会社と被相続人が実質的に一体であることから、また実質上価値のないものであることから遺産に含めることに反対している。藤村建設株式会社と被相続人とは、後記のとおり、経済的には密接な関連があると認められるものの、そのために被相続人の藤村建設株式会社に対する債権が混同によって消滅するような関係ではなく、また山村整形外科病院は当然のこと、藤村建設株式会社も現在経営を持続している会社であるから、それらに対する債権が無価値とはいえない。もっとも、債権は原則として遺産分割の対象ではなく、当事者が合意し、相当と認められる限りで分割対象となるものであり、上記相手方らの対応に照らせば、本件では、相手方らは前記番号2と3の債権を分割対象とすることに合意しないものとみて、これらは分割対象から除外すべきともいえるが、他の同種債権は分割対象としながら、右番号2と3の債権のみを対象から除外するのも不均衡であり、本件の場合、債権の存否や帰属に争いがあるために分割対象とする合意が成立しない場合と異なり、債権の存在は認めた上で、その実質的価値の面での争いであるから、価値があると認められる以上分割対象とするのが相当である。また、相手方らは、債権目録の番号4の藤村建設株式会社に対する未収金債権について、右債権は当初330万円存在していたが、徳島地方裁判所平成元年(ワ)第××号事件の和解において、そのうち55万円がすでに明代に支払われており、また、別紙遺産目録に記載のもの以外に有限会社イー・エフ・シーに対する未収金123万0,385円が遺産として存在していたが、既にハツヨに全額支払われていると主張し、本件資料によれば、右主張事実を認めることができる。右は遺産の一部分割にあたるから、本件分割においては、右4の債権の現存額275万円のみを分割対象とし、明代とハツヨが一部分割を受けた分は、具体的相続分額算定において調整する。

第三山村家家族歴

本件認定に必要な限りで山村家の家族歴の概略を摘示する。

1  被相続人は、大正8年10月16日出生し、昭和22年3月9日ハツヨと婚姻したが、農業の合間に様々な商売を手がけ、やがて○○建設(株)に入社して同社の専務取締役となった。ところが、同社が倒産し、被相続人は、多額の債務を負ってしまったので、藤村建設を創業して、やがて株式会社に組織し、主として建売住宅の建設販売を行って借金の清算をした。

2  その後、藤村建設株式会社(以下、藤村建設という。)の経営は順調に推移していたが、被相続人は、政治向きのことにも関心を持って、昭和46年に県会議員に立候補し、当選はしたものの、多額の選挙資金を使い、また、藤村建設の専務取締役や支店の社員が多額の遣い込みをしていたため、昭和49年頃には藤村建設の経営が苦しくなったので、当時県外の大手の建設会社に勤務していた志津子の夫である申立外飯田民夫に、会社を辞めて徳島に帰り、藤村建設の経営に参画して欲しいと懇願し、民夫と志津子夫婦は、これを受けて帰徳し、藤村建設の役員として同社の経営に参画した。

3  その後、被相続人は、県議2期目に立候補し、当選はしたが、藤村建設の資金を流用して多額の選挙資金を使い、一方、藤村建設も恒常的に経営が苦しかったため、当時病院の勤務医として働いていた長男の太一に病院を開業させて資金援助をしてもらおうと考え、太一に、勤務医を辞めて病院を開業するように頼んだ。太一は、渋々ながらこれに応じて、勤務していた病院を退職し、銀行から総額およそ2億円の借金をして、昭和54年に遺産目録の1土地(以下、土地目録ともいう。)の番号1、2の土地上に山村整形外科病院(以下、山村整形という。)を開院した。

4  次に被相続人は、徳島市の花川地区に土地を購入して、その一部を宅地に造成して販売し、残地に病院付の老人ホームを建設して太一に経営させることを計画し、太一に相談を持ち掛けたところ、現在の藤村建設の経営状態を考えた太一や親族の者は反対したが、結局被相続人は計画を強行し、太一も不承不承ながら病院の建設を承諾した。そして被相続人は、昭和55年、太一の連帯保証のもとに、○○県信用農業協同組合連合会(以下、県信連という。)から、3億5,000万円の借金をして、花川地区に広大な主地(土地目録の番号30ないし36の各土地の他、本件外の徳島市○○町×丁目××番×、同番×△、同市△○○町○××番×、同番××、同×△×番×の各土地を併せた一団の土地である。以下、これらの土地を一括して花川の土地という。)を購入した。一方太一は、病院建築費用2億3,000万円、設備費用5,000万円の借金をして、昭和56年に花川の土地の一つである本件外の徳島市○○町×丁目××番×の土地(以下、花川病院敷地ともいう。)に病院を建設して、花川病院を開院した。

5  ところが、昭和56年頃になると、政治がらみの事情から、藤村建設に対する公共工事の受注が全くなくなったため、藤村建設の経営はさらに苦しくなり、加えて花川の土地については開発許可が取れず、転売も不可能となって、被相続人は、自ら数億に及ぶ多額の負債を抱えて身動きがとれなくなってしまい、負債の整理のために種々の対策を講じたが、いずれも充分な効を奏さなかったので、昭和58年に、花川の土地のうち花川病院敷地を1億6,000万円で太一に買い取ってもらって、売買代金を借金の返済に充てたり、藤村建設へ資金提供して梃入れを計ったが追いつかず、昭和58年末には、花川の土地のうち、本件外の徳島市○○町×丁目××番×△、同市△○○町○××番×、同番××、同×△×番×の各土地(以下、花川の宅地部分ともいう。)が県信連により差押えられて、翌59年には競売申立がなされる事態となった。そこで太一は、借金をして、4億2,000万円を被相続人に代わって県信連に弁済し競売を免れた。

ところで、太一が県信連に弁済した4億2,000万円については、被相続人に対する貸付金として処理することも可能であったが、会計士の助言もあり、競売を免れた花川の宅地部分を太一に譲渡することとし、売買の形をとって、4億2,000万円のうち3億1,000万円を売買代金とし、残りの1億1,000万円は被相続人に対する貸付金として処理することにした。そして、後になって、この1億1,000万円は、被相続人の藤村建設に対する貸付金を譲り受けて処理した。

6  一方藤村建設の方は、昭和58年頃から、民夫に経理が任され、民夫は自身の父母の退職金を藤村建設のために用立ててもらったりしながら藤村建設の経営を維持していたが、昭和63年7月27日被相続人が死亡した。

その後、民夫は藤村建設の代表取締役に就任し、同社の株式の9割近くを民夫と志津子の夫婦が保有して現在に至っている。また、被相続人の妻であるハツヨは藤村建設から役員報酬を受けている。

7  太一は、被相続人とハツヨの長男として生まれ、医学部を卒業後、○○大学の整形外科に入局、その後各地の病院で勤務医として働いていたが、その途中、前記のとおり、被相続人の依頼を受けて山村整形を開院し、さらに花川病院を開院して現在に至っているものである。山村整形の経営は順調ではあったが、花川病院は、同病院が山の中腹に位置しているため、地理的に条件が悪く、しばらくは赤字経営であったことや、山村整形の建設・開院、花川病院の建設・開院のために多額の借金をしていたこともあって、太一の生活は経済的にも精神的にも苦労が多かった。太一は、現在も借金の弁済を続けてはいるが、昭和61年頃から花川病院の経営状態も好転し、被相続人が死亡した昭和63年には医療法人化し、理事長には太一が、理事に民夫が、監事にハツヨが就任し、相続報酬を得ている。また、山村整形も同様に法人化し、同病院は遺産土地上に建っているため、当初は支払われていなかった地代として、現在は、民夫が設立した有限会社イー・エフ・シーを通じて年600万円をハツヨに支払っている。

8  志津子は、被相続人とハツヨの長女として出生し、大学を卒業後飯田民夫と結婚して愛知県で居住していた。民夫と志津子夫婦は、前記のとおりの経緯で昭和49年末頃に帰徳して藤村建設の経営に参画したものであるが、入社当初から藤村建設の経営は芳しくなく、当初は支払われていた役員報酬の支払を受けることができない時期もあった。しかしながら、前記のとおり、現在民夫は藤村建設の代表取締役に就任し、志津子とあわせて同社の株式の約9割を保有し、志津子も役員報酬を得ている。また民夫は、有限会社イー・エフ・シーの代表取締役にも就任し、前記のとおり、花川病院の理事にも就任して、それぞれ報酬を得ている。

9  明代は、被相続人とハツヨの次女として出生し、昭和50年に大学に入学して東京で生活し、卒業後は帰徳して山村整形の事務手伝いをしていたが、昭和55年に申立外笹川信之と結婚した。夫の信之は勤務医師であったが、花川病院の経営が苦しかった頃は、勤務の傍ら同病院の当直を手伝ったり、またその後は週2日位は同病院で勤務し、やがて同病院の副院長となったが、昭和62年には同病院を辞めて、現在は他の病院を開院している。

第四特別受益

一  明代は、ハツヨが生命保険1,347万7,847円を受領しているから、これをハツヨの特別受益とすべきであると主張している。証拠によれば、明代が主張する1,347万7,847円のうち132万円は被相続人の入院に対する給付金であるから、生命保険金ではなく、ハツヨが生命保険金として受領しているのは1,215万7,847円であると認められる。ところで、遺産に含まれない生命保険金は、原則として、これを特別受益として持ち戻し処理するのが妥当である。しかしながら、生命保険金を特別受益として持ち戻す処理をするのは、遺産分割における公平の観点からであるところ、例えば、被相続人の子である相続人の一部が生命保険金を受領している場合は、相続に関し同一順位にある他の子である相続人との公平の観点から、これを持ち戻させるのが相当であるが、ハツヨは被相続人の妻であり事情を異にする。しかも、受領した保険金額は前記のとおり1,215万円余に過ぎず、本件遺産総額に照らせば、これを持ち戻させなくとも著しく公平を欠くとは言いがたい。また、被相続人が、妻のハツヨを受取人として生命保険契約を締結していたのは、それまでのハツヨの妻としての働きに報いる趣旨であると推認するのが相当である。以上の事情を考慮して、本件においては、前記生命保険金については、被相続人の持ち戻し免除の意思を推認して、これを持ち戻させないこととする。

二  相手方らは、申立人明代に嫁入費用として少なくとも1,700万円を下らない特別受益があると主張している。本件証拠によれば、確かに明代の婚姻の際には、その主張する額に近い費用が支出されていると認められるが、一方太一や志津子も、婚姻の際にはそれなりの費用を支出しているものと推認されるところ、明代の分のみを特別受益として考慮することは不公平であり、費用の多寡はあっても、太一も志津子も、当時の被相続人の社会的地位やそれぞれの地位に相応しい婚姻をしていると推認されるから、太一、志津子について婚姻費用の特別受益を考慮しないかわりに、明代についても特別受益を考慮しないこととする。

三  また、明代は、太一と志津子に次の特別受益があると主張している。

1  太一

太一は昭和55年に花川の土地のうち花川病院敷地を被相続人から代金1億6,000万円で買い受け、さらに同59年に、被相続人に対して4億2,000万円の資金を貸付けた代わりに花川の宅地部分を代金3億1,000万円と評価して譲り受け、残りの1億1,000万円は被相続人が藤村建設に対して有していた貸金債権を譲り受けて処理している。ところが、右各土地の当時の時価は総額10億円を超えるものであり、太一は花川病院敷地の代金1億6,000万円、花川の宅地部分の代金として処理した3億1,000万円、貸付金として処理した1億1,000万円の合計5億8,000万円と時価の差額である5億余を特別受益として受けている。

また、太一は、山村整形や花川病院を開院、運営していくについて、被相続入の不動産に担保を設定して資金を調達しており、さらに土地目録の番号1、2の各土地を無償で山村整形の敷地として利用していたから、これらも太一の特別受益とすべきである。

2  相手方志津子

志津子は、夫の民夫とともに藤村建設の実質的経営者であり、被相続人から藤村建設に対する資金援助を受けながら経営を維持してきており、これらは志津子の特別受益である。また、被相続人は、○○町○○字○○の土地438.16坪を藤村建設に転売させて同社に約8,000万円もの利益を得させているから、これらも志津子の特別受益である。

明代が、太一と志津子の特別受益と主張している上記の点に関しては、後記のとおり、一方で太一と志津子から寄与として評価されるべきであると主張されているところであるから、後に寄与分と一括して判断する。

第五寄与分

一  寄与分主張の概要

1  背景事情

被相続人は、藤村建設を経営していたが、同社の経営状態は芳しくなく、ことに昭和58、9年当時、被相続人が資産として有していた不動産の価値は5億3,000万円程度であり、これに対して、当時の被相続人の負債は、約7億円であった。しかも、当時、被相続人は借入金の金利すら払えない状況にあり、諸税の支払いもできず、たび重なる支払い督促を受け、昭和59年には、県信連から花川の宅地部分を差し押さえられ競売申立てがなされた。要するに、被相続人は当時破産状態にあり、このまま推移しておれば遺産などはまったく残っていなかったことが明らかである。

そのような状況の中で、太一や志津子は、被相続人と藤村建設に対し多額の資金援助をしてきたのであるが、藤村建設は、被相続人が創業・経営してきた会社であって、同社の債務については被相続人が連帯保証しているから、同社が倒産すれば被相続人が自らの資産でその債務を返済しなければならない関係にあり、同社に対する資金援助によって被相続人の資産の維持が計られた。そうすると、被相続人に対する直接の援助はもとより、藤村建設に対する援助も被相続人に対する援助と同視すべきであって寄与と評価すべきである。

2  太一の寄与

(一) 太一は、被相続人及び藤村建設に対し、恒常的に資金援助をしており、その援助額は、被相続人死亡当時の昭和63年には2億を超えるものであった。

(二) 被相続人は、昭和55年に花川の土地を購入する資金として総額3億5,000万円を県信連から借り入れたが、借り入れに際しては太一が連帯保証した。当時の被相続人の財政状況は芳しいものではなかったから、太一の連帯保証があったからこそ被相続人は土地購入資金等を借り入れ花川の土地を購入することができたのであり、花川の土地の資産形成には太一の寄与があった。

(三) 被相続人は、昭和58年頃から、前記のとおり資金難の状況にあったが、太一は、被相続人に頼まれて、資金援助をする趣旨で、昭和58年、花川病院敷地を代金1億6,000万円で買い受けた。被相続人は、太一が交付した土地代金のうち5,000万円を個人の借入先に返済し、残りの1億1,000万円を藤村建設に資金援助として貸し付けた。

(四) さらに、被相続人が花川の宅地部分を差し押さえられて、昭和59に競売申立てがなされた際、太一は、被相続人にかわり、4億2000万円を返済して差押えを解除した。上記援助した4億2,000万円については、太一の被相続人に対する債権として処理することもできたが、太一が花川の宅地部分を譲り受けることとし、売買代金を3億1,000万円と評価し、残りの1億1,000万円は、一旦被相続人に対する貸付金とし、その後、昭和60年頃に、被相続人が藤村建設に対して有する1億1,000万円の貸付金債権を太一が譲り受けることとして処理した。当時、被相続人は、破産状態であり、太一の4億2,000万円の援助がなければ、当然に花川の宅地部分が競売によって失われたばかりでなく、その他の資産も連鎖的に失われたものである。

(五) 太一は、上記の資金援助のかわりに、花川の花川病院敷地と宅地部分の土地を取得しているが、そのことをもって寄与を否定すべきではない。すなわち、花川地区は、付近一帯が景勝地であり、風致地区に指定されて、開発行為について厳しい規制があり、病院等の特殊な建築物以外の一般の建物は建築が不可能であるため、土地の市場価格は低額である。また、太一は、右土地上に花川病院を所有しているが、二階建ての建物しか建築できない上、病院が花川登山口から登った不便なところにあるため、外来患者の来院を望めない状況であり、立地条件が悪く、太一はそのような土地を借金までして購入する必要はなかったが、被相続人に資金援助するために敢えて購入したのであるから、上記土地購入は、単なる取引行為ではなく、太一の被相続人に対する援助の趣旨を含むものである。

対価性を考慮するとしても、花川の花川病院敷地や宅地部分の昭和59年当時の時価は約2億9,000万円であり、売買代金とした1億6,000万円と3億1,000万円の合計4億7,000万円と右時価との差額の1億8,000万円余りが太一の寄与である。

また、前記花川の宅地部分の価格とした3億1,000万円と太一が提供した4億2,000万円との差額の1億1,000万円については、前記のとおり、最終的には昭和60年頃、被相続人が藤村建設に対して有するとして計上されている債権を太一が譲り受ける形がとられ、右処理によって太一は藤村建設に対して1億1,000万円の債権を有する形となったが、藤村建設は実質赤字会社であって、右債権は単なる名目のものにすぎないから、右1億1,000万円も寄与とみるべきである。

3  志津子の寄与

(一) 志津子と民夫は、そもそも被相続人の懇願を入れて藤村建設を助けるために帰徳して同社で働き、同社が資金難であったために、給与の未払いを甘んじて辛抱してきた。志津子の給料は月6万5,000円であったが、昭和59年から同63年4月まで未払いであり、現在未払い給料が350万円残っている。民夫の給料は月30万円であったが、昭和58年から同63年4月まで未払いであり、現在1,360万円が残っている。また、志津子の夫民夫は、太一と同様藤村建設に対して昭和54年から同63年までの間に合計約940万円程貸し付けて資金援助をし、現在その残額は元利合計約1,300万円である。

以上の民夫・志津子の援助の総額は3,000万円を超える。

(二) また、民夫の両親も藤村建設に対して資金援助をしている。民夫の父は、藤村建設に対し、昭和63年7月までに2,300万円を、母は昭和57年から平成元年7月までに2,000万円をいずれも無利息で貸付けた。右貸付が利息付であったとすると、元利を併せて約6,300万円となり、実質は無利子であったから、利息分の差額約2,000万円の援助をしていることとなる。

(三) 民夫は本件相続人ではないが、志津子の夫でもあることから、被相続人に懇願されて藤村建設で働くことにしたのであり、民夫の寄与は志津子の寄与と評価すべきである。また、民夫の両親が藤村建設を援助したのも志津子の存在故であるから、これも志津子の寄与と評価すべきである。

二  寄与分主張に対する反論の概要

1  背景事情について

太一は、昭和58、9年当時の被相続人の負債は7億円であったというが、昭和59年当時、弁済を迫られていた負債は約5億8,000万円である。また、当時、被相続人が有していた資産についての太一の評価は低額に過ぎ、被相続人が有していた資産は、花川の土地だけでも10億円を超えるものである。それ故、被相続人は破産状態にあったのではなく、仮に被相続人が県信連に対する支払いをしなかったとしても、それによって失われるのは花川の土地のうち花川病院敷地程度であって、被相続人のその余の不動産が失われることはなかった。花川の土地が失われれば、連鎖的に被相続人の個人資産も失われたとの主張は単なる憶測にすぎない。

2  太一の寄与について

(一) 被相続人が花川の土地を購入する資金を借り入れるについて太一が連帯保証していたとしても、そのことが直ちに寄与となるものではない。

(二) 次に、太一が花川病院敷地を購入したり、花川の宅地部分の担保を抜くために4億2,000万円を弁済したのは、同土地上に太一の経営する花川病院が存在していたからであり、土地の購入や担保を抜くについては太一に利益があったものである。

また、太一は、対価として花川の花川病院敷地や宅地部分を被相続人から譲り受けており、当時の右各土地の価格は太一が買い受けた価格よりも高額であり、その差額は、前記のとおり、太一の特別受益と評価すべきである。被相続人が花川の土地を適正価格で売却しておれば、当時弁済を迫られていた負債は容易に支払えたはずであって、太一の上記各土地の購入は却って遺産を減少させる結果となったものである。

上記のとおり、太一が花川病院敷地を買い受けたり、被相続人に資金を提供して花川の宅地部分の担保を抜かせたのは、なによりも自らの利益になることであり、また、その対価として花川の花川病院敷地と宅地部分を取得してもいるから寄与と評価すべき事情はない。また、太一が被相続人に援助したという1億1,000万円は貸付金であり、太一は被相続人に対して対価として同額の債権を有することとなり、その後、太一も自認しているように、藤村建設に対する被相続人の債権を譲り受ける等してすでに全額弁済を受けているから、なんら被相続人に対する援助ではなく寄与と評価されるべき点はない。

(三) そもそも本件の場合、太一の被相続人に対する資金援助は、すでに全額清算されており、寄与と評価されるものはない。また、藤村建設は被相続人とは別人格であるから、藤村建設への援助が被相続人に対する寄与と評価されるべき根拠がないのであるが、仮にそれが被相続人に対する援助と同視されるとしても、太一は対価として藤村建設に対して債権を有するに到っている。

2  志津子の寄与について

志津子・民夫夫婦は、藤村建設の実質的経営者であり、藤村建設の有形無形の利益は総て志津子・民夫に帰属しており、被相続人に帰属することはなかったものであるから、同人らが藤村建設を援助し、給料の不払を甘んじて受けていたのは当然であり、藤村建設が維持されることにより実質的利益を得たのは、志津子・民夫夫婦であって被相続人ではない。民夫の両親の藤村建設に対する寄与については寄与として評価されるべき根拠がない。

第六特別受益及び寄与分についての当裁判所の判断

一  前提事情

前記家族歴に認定のとおり、被相続人は、当時経営不振であった藤村建設を立て直して、その経営基盤を強固なものにする目的を持って、民夫・志津子夫婦を徳島へ呼び戻して藤村建設の経営に参画させ、また同様の目的を持って、太一に病院を開業させたものであり、太一と民夫・志津子夫婦とは、これに応じて、以後、被相続人の事業に様々な形で関与してきたものである。ところで、本件では、その関与の評価を巡って、相手方である太一と志津子からは寄与の主張がなされ、申立人である明代からは特別受益の主張がなされているものである。以下、順次検討するが、検討に際しては、各当事者の審問の結果の他、本件記録中の各証拠、中でも江尻会計士作成の調査報告書(以下、江尻報告書という。)を中心とする。江尻報告書については、その信用性について明代側から疑義が述べられており、江尻報告書の調査は、被相続人や藤村建設の資産状況等の確定申告書を基になされている点から、報告書が当時の藤村建設の経営実体を正確に反映しているものか否か疑問の点もある。しかし、江尻報告書は、総勘定元帳や預貯金証書をも検討しているし、他にその信用性を疑うべき資料もないので、江尻報告書を前提として検討する。

1  主張されている寄与或いは特別受益は、直接被相続人に対するものと、直接は藤村建設に対するものだが、被相続人に対する寄与あるいは被相続人からの特別受益と評価すべきとされているものに分けられ、直接藤村建設に対するものは、そもそも寄与或いは特別受益を考慮する前提を欠くのではないかという問題がある。そこで、先ず、被相続人と藤村建設との関係について検討する。

藤村建設は、株式会社であるから、法律上は被相続人とは別人格として存在している。しかしながら、法律上は別人格であるとしても、会社の企業形態が実質上被相続人の個人企業であるとか、会社の債務について被相続人が連帯保証をしている等のために、会社が倒産する事態になれば、被相続人の個人資産にも直接的な影響があるという事情がある場合には、遺産分割の公平という観点から認められる寄与分制度の趣旨に照らして、会社に対する援助が被相続人に対する寄与となりうる場合があると解される。また、逆に、会社から受けた利益や被相続人が会社に与えた利益が特別受益とみるべき場合もあると解される。以下では、主として寄与を中心に検討し、特別受益についての判断は適宜示すことにする。

本件の場合、藤村建設は被相続人が創業した会社であるが、必ずしもその実質が個人企業であるとは言いがたい。しかしながら、被相続人は、藤村建設を生活の糧としており、自己の個人資産のほとんどを藤村建設の事業資金借入の担保に供し、また、被相続人から恒常的に藤村建設に資金援助がなされ(藤村建設の仮受として処理されている。)たり、藤村建設の資金が被相続人に流用(藤村建設の仮払として処理されている。)されたりしている。上記事情に照らせば、藤村建設は、創業者である被相続人の個人企業に近い面もあり、また、その経営基盤の主要な部分を被相続人の個人資産に負っていたといえ、被相続人がその個人資産を失ってしまえば、藤村建設の経営も危機に瀕するであろうし、一方、藤村建設が倒産すれば、被相続人は生活手段を失うばかりでなく、担保に供している個人資産が失われる関係にあり、藤村建設と被相続人とは、経済的に極めて密着した関係にあったものである。そうすると、藤村建設と被相続人とが法律上は別人格であるという一事をもって、藤村建設に対する援助等がなんら被相続人と関係がないとまでいうことはできない。しかし、藤村建設に対する援助等が被相続人の資産にいかなる影響を及ぼしたかについては、単に、被相続人と藤村建設とが経済的に密接な関係があったことのみでは足りず、藤村建設に対する援助等がなされた当時の藤村建設の経営状態、被相続人の資産状況、援助等の種類、程度等に照らして、藤村建設への援助等と被相続人の資産の確保との間に明確な関連性が認められる必要があると解される。

そこで、次に、藤村建設の一般的な経営状態と、本件で特に問題となった昭和58、9年当時の経営状態を検討する。

2  藤村建設の経営状態

昭和45年3月から同63年3月までの藤村建設の経営状態を見ると、江尻報告書によれば、完成工事受注高から工事原価を引いた工事利益は、数期を除いては、ほぼ黒字であるが、工事利益から役員報酬や給与、利息支払等を差し引いた当期利益は、昭和49年3月に赤字に転落し、以後ほぼ毎年赤字を計上している。繰越損失は、すでに昭和47年3月以降、常時赤字状態であり、当期利益が赤字に転落した昭和49年には、赤字が1億円を超え、以後2億、3億と累積させている。

以上の状況を見るかぎり、藤村建設は自転車操業状態の会社であって、赤字会社であるといえ、赤字額も億単位で推移しているから経営状態は慢性的に悪い。

本件で特に問題となった昭和58、9年当時は、前記家族歴に記載のとおり、政治がらみの事情から、それまで数億を計上していた完成工事受注高が3,700万円余に極端に落ち込んだ。そこで、藤村建設は、土地を売却して営業外利益を上げ、当期利益を黒字とし、前年度に3億8,000万円余あった繰越損失を2億9,000万円余まで減少させたが、結局、これは急場しのぎの措置にすぎず、昭和59年3月になると再び当期利益に赤字を計上して、繰越損失も再び3億を超え、以後、繰越損失は3億を下ることなく、被相続人が死亡した昭和63年に至っている。

次に、被相続人の資産状況を検討する。

3  被相続人の資産状況

被相続人は、本件遺産にも見られるとおり、多数の不動産を所有していたが、前記のとおり、その殆どが藤村建設や被相続人個人の債務の担保に供されている。問題となる昭和58、9年当時は、その負債総額は数億に上り、また税金についても数度にわたる督促を受け、県信連や個人の債権者からも支払の督促を受けていたことが認められ、ついには県信連から花川の宅地部分の差押えを受けた。そして、後記のとおり、太一からの資金援助により不動産の競売を免れたのであるから、この時期の被相続人は、少なくとも自ら資金を捻出して競売を免れるだけの力はなかったものである。もっとも、当時の被相続人の資産状況の全容は明確ではないから、競売によって差押土地のみを失うに止まったのか、連鎖的に他の資産も失うべき状態であったのかは断定できない。

以上のような藤村建設の経営状態と被相続人の資産状況の下でなされた太一及び志津子の関与の態様は次のとおりである。

二  太一の援助の態様

1  前記家族歴に記載のとおり、そもそも被相続人は、太一の病院経営による利益から藤村建設や自己に対する資金援助を期待して太一に開業医になってもらったものであり、事実、後記のとおり、太一は、藤村建設や被相続人に資金提供をしているが、また、人的側面においては、被相続人は、金融を得るに際して、太一の連帯保証を得たりして、その社会的信用を利用しているものと認められ、藤村建設や被相続人自身の信用性が、太一の開業医としての社会的・経済的信用によって支えられてきた面があることも否定できない。

2  江尻報告書を前提とすれば、太一は、藤村建設に対し、昭和55年頃から同61年頃まで恒常的に資金を貸し付け(藤村建設の仮受)、その貸付総額は1億5,500万円余(江尻報告書の太一からの仮受金の各年の残額とその前年の残額との差額のうちプラスとなる分を合計した。)であり、昭和63年3月現在、1億5,000万円余の貸付金が残っている。各期の貸付金は約1,000万円前後ずつ増加しているが、昭和61年3月には極端に1億1,500万円増加している。右の増加は、花川の土地が県信連によって差し押さえられ、競売開始決定がなされた際、太一が、4億2,000万円の資金を提供して競売を免れさせ、その代わりに花川の宅地部分を3億1,000万円と評価して被相続人から取得し、残りの1億1,000万円を被相続人に対する貸付として残し、その後、被相続人の藤村建設に対する貸付金1億1,500万円を譲り受けて(1億1,000万円と金額的に合わないのは、太一の被相続人に対するその他の貸付金を含めて処理したからであると考えられる。)清算したものであると認められる。

3  次に、太一の、被相続人に対する直接的な資金援助は、江尻報告書によれば、山村整形の帳簿上に被相続人に対する仮払(貸付)として記載されているものと認められる。それによれば、太一は、被相続人に対し、昭和57年から同63年まで貸付をしているが、その総額は2億9,600万円余である。そのうち、1億6,000万円は太一が取得した花川病院敷地の売買代金として相殺され、1億1,500万円が被相続人の藤村建設に対する貸付金として振り替えられ、後の貸付金は全てマイナス処理(返済されたものと見られる。)されて、昭和63年には貸付残額は0となって、結局、太一の被相続人に対する貸付は全て清算されている。

三  志津子の援助の態様

1  前記家族歴のとおり、志津子と民夫夫婦は、被相続人から懇願され、それまで勤めていた会社を辞めて藤村建設の経営に参画することになり、以後、夫婦で藤村建設の役員として働いてきた。志津子が寄与として主張する事実は、その間の藤村建設からの給与の未払い分と藤村建設への資金援助とである。民夫は相続人ではないが、その働きは妻の志津子の働きと一体のものとして評価すべきと主張されているところ、例えば、相続人でない妻が、相続人である夫と共に家業に従事してきた場合は、妻の働きを夫と一体のものとして評価することができるが、この考え方は、妻を夫の履行補助者として考えるものである。ところが、本件の場合、藤村建設で主として働いたのは志津子ではなく夫の民夫であって、相続人である志津子がむしろその履行補助者であったとみれば、上記のような考えで民夫の働きを志津子と一体のものとして考えることができるか疑問がある。しかし、民夫が藤村建設の経営に参画するようになった前記の事情、藤村建設では志津子は影になっているとはいえ、夫婦が一体となってその経営に腐心してきたと認められること等から、公平の観点から、民夫の働きを志津子の働きと一体のものとして評価することが可能であると考える。

2  江尻報告書によれば、民夫は、昭和49年4月から同50年3月まで(以下、ある年の4月から翌年の3月までを年度という。)の間に年80万円の役員報酬を受けたのを始めとして、同62年度までに総額4,000万円余の報酬を、志津子は、昭和56年度から報酬を受け始め、同62年度までに総額400万円余の報酬を藤村建設から受けている。その間、報酬が計上されていないのは昭和57年度のみである。また、民夫は、藤村建設に対し、昭和56年3月から貸付(藤村建設の仮受として計上)をなしているが、その総額は3,000万円余であり、昭和63年現在では49万円余が貸付残となっている。

四  以上を前提として寄与又は特別受益について判断する。

1  太一の藤村建設との関係における寄与について

前記のとおり、太一の援助は、つまるところ、藤村建設又は被相続人に対する資金提供である。そこで、これらの資金提供が、被相続人の資産の確保との間に明確な関連性があるか否か検討する。

(一) 太一の藤村建設に対する恒常的資金提供について

前記認定の藤村建設の経営状態に照らせば、藤村建設が、3億を超える累積赤字を計上しながら、銀行の取引停止処分等を受けることなく、倒産を免れてきたのは、少なくとも借入利息の支払を続けてきたからであろうし、また被相続人に対する信用がかろうじて確保されていたからであると思われるところ、藤村建設は、その資金的基盤の一部を仮受金(借受金)によっていたものと認められる。要するに、藤村建設は、恒常的に赤字を累積させながらも、当面必要な資金を、金融機関からの新たな借入あるいは太一らからの仮受という形で準備して、経営を回転させていた自転車操業状態の会社である。そして、藤村建設は、昭和47年度から右のような自転車操業状態であり、その状態のまま昭和63年まで12年間経営を維持して現在に至っている。藤村建設程度の規模の宅地造成、建売販売を業とする会社の一般的経営状態は、税務申告書及び決算書で見るかぎり(江尻報告書は税務申告書及び決算書によっている。)右のような自転車操業状態であるのが一般的であるとも考えられ、そうすると、藤村建設が自転車操業状態であることをもって、同社が破産状態の会社であるとまではいうことはできないものの、それらの回転資金の供給がなければ、藤村建設は自転車操業すらできなくなり、経営が頓挫したと推認することは許されるであろう。そうすると、太一の恒常的な資金提供は、藤村建設の自転車操業を支える働きをしたといえる。

しかし、江尻報告書によれば、太一ばかりではなく、被相続人も恒常的に藤村建設へ資金提供しており、被相続人の藤村建設への貸付から1億1,500万円が太一へ振り替えられた昭和61年度までは、被相続人からの貸付の方が太一からの貸付よりもはるかに多く、太一一人が藤村建設の自転車操業状態を可能ならしめていたのではない。むしろ、被相続人による恒常的な資金提供が果たす役割の方がより多かったといえ、太一からの資金提供が途切れれば、その時点で藤村建設の経営が頓挫したと断ずるだけの根拠に乏しい。そうすると、太一が恒常的に藤村建設へ資金提供をして藤村建設の破産を免れさせ、藤村建設の破産により失われるべきであった被相続人の資産を確保したという、太一の藤村建設への援助と被相続人の資産の確保との間の明確な関連を認めるのは困難である。

ところで、太一の藤村建設への資金提供は、昭和61年度には、前年度残3,700万円から1億5,000万円余に跳ね上がっている。これは、前記のとおり、昭和58、9年当時の花川の土地をめぐる前記の事情によるものであるから、次に、昭和58、9年当時の太一の藤村建設への資金提供について検討する。

(二) 太一の昭和58、9年当時の藤村建設に対する資金提供について

前記のとおり、被相続人は、昭和58年6月に花川病院敷地を太一に1億6,000万円で買い取ってもらい、売買代金のうち1億円を藤村建設に資金提供し、藤村建設はそれを59年度の藤村建設の仮受として処理している。58年度は、前年度に4億円余あった完成工事受注高が3,700万円余に極端に減少した年であり、藤村建設が経営危機にあったと評価すべき時であるから、1億円の資金提供は問題とすべき多額の資金提供であることは間違いない。もっとも、前記のとおり、翌年の昭和59年3月には、藤村建設は、繰越損失を再び3億円台に膨らましているから、この1億円がどのように藤村建設の経営改善に役立ったのか帳簿上不明確であるが、極端な完成工事受注高の減少にもかかわらず、繰越損失を3億円程度に抑えて、藤村建設の自転車操業状態を継続せしめる働きをしたと見ることができる。

さらにその後、被相続人は、花川の宅地部分を県信連に差し押さえられて競売開始決定を受けた。そこで太一は、4億2,000万円を県信連に弁済し、その代わりに被相続人から花川の宅地部分を譲り受けて、3億1,000万円を売買代金として処理し、残余の1億1,000万円を被相続人に対する貸付としたが、その後、被相続人の藤村建設に対する前記1億円の貸付を含んだ1億1,500万円を太一の藤村建設に対する貸金に振り替えて被相続人に対する関係を清算した。

結局、太一は、前記花川病院敷地の売買を含めると、被相続人に対し、5億8,000万円(花川病院敷地の売買代金1億6,000万円と県信連に弁済した4億2,000万円)を資金を提供し、うち4億7,000万円を土地代金(花川病院敷地1億6,000万円と宅地部分3億1,000万円)として清算し、残余の1億1,000万円を藤村建設に対する援助資金として貸し付けたことになる。尤も、右の経緯に照らせば、当初、藤村建設へ1億円の資金提供をしたのは被相続人であり、後になって、これが太一の貸付に振り替えられたために太一が藤村建設へ資金提供した形になったにすぎないから、それを太一の援助によって藤村建設が危機を回避できたと評価するのは疑問ではある。しかし、前記認定のとおり、昭和58、9年当時は、被相続人は、自ら多額の援助資金を準備できない経済状態にあったから、太一が土地を買ったことによって、被相続人が1億もの資金を藤村建設に提供できたのであり、被相続人の資金提供は、実質的に太一の資金提供と同視してもよいと考える。

そして、前記認定の、藤村建設のこの時期の経営状態に照らせば、1億円もの資金提供は、藤村建設の危機を乗り切らせるだけの影響力があったものであり、この1億円の資金提供がなければ、藤村建設の経営が頓挫して、藤村建設へ担保提供している被相続人の個人資産が失われる可能性があったといえる。

ところで、右の程度の可能性のみで、1億円の資金提供と被相続人の資産の確保との間に明確な関連性があったといえるか否か疑問であるが、仮に、関連性があるとしても、太一は1億円の資金提供の対価として藤村建設に対する1億円の債権を取得しているという点が問題となる。太一は、藤村建設は赤字会社であって、右貸付債権も回収は不能であるから、実質的に藤村建設への無償の資金提供であると評価すべきと主張する。確かに、藤村建設が仮受金として処理しているのは、太一や被相続人、その他被相続人の親戚等被相続人と特殊な関係にある者からの資金提供であり、これを法的には貸付金(借受金)とみる以外にないとしても、通常の金融機関からの借入金と若干趣旨が異なると認められる。しかしながら、江尻報告書によれば、藤村建設の仮受は、太一以外の者からの分も含めて一方的に増加しているのではなく、マイナス計上されて返済されている年もあり、殊に昭和60年以降は順次マイナス計上されているから、回収不能な債権であるとまでいうことはできない。そうすると、太一は、右1億円の資金提供の対価として、名実共に藤村建設に対する1億円の債権を得ていると言わざるを得ない。また、貸付金の清算は、本来なら民事訴訟によって明確な決着が付けられるべきものであり、これを本件で考慮したとしても、太一の藤村建設に対する債権が法律的に消滅するものでもないから、二重に評価される危険もあり、本件でこれを考慮することは妥当ではない面もある。よって、右1億円の貸付を藤村建設を通した被相続人に対する寄与と評価することは困難である。

2  太一の被相続人に対する援助について

前記認定のとおり、被相続人は、太一の医師としての社会的信用や病院経営からの利益をあてにして、太一に山村整形、花川病院を経営してもらい、太一は、それに応じて、前記のとおり、被相続人が金融機関から融資を受けるについて連帯保証人となったり、被相続人に恒常的に資金援助をしたり、花川病院敷地を買い受けたり、花川の宅地部分に対する差押えを解除するために4億2,000万円を弁済したりしてきたものであり、その結果、現在も多額の債務を負うに至っている。花川地区は、必ずしも病院経営に適した土地ではなかったと認められるから、花川に病院を開院したのは太一が望んだことではなく、その点からすると、太一が昭和58年に花川病院敷地を購入したのは、単なる取引行為ではなく、被相続人に対する資金援助の趣旨が含まれており、また、県信連に対する4億2,000万円の債務を弁済して花川の土地に対する差押えを解除したのも、被相続人に対する援助の趣旨であったと認められる。特に、昭和58年当時の被相続人の経済状態からすると、太一が、県信連に債務を返済しなければ、被相続人は少なくとも花川の土地を失っていたであろうことは明らかである。

そこで、これら太一の働きが特別の寄与に該当するか否か検討する。

被相続人が、金融機関から融資を受けるについて太一に連帯保証人になってもらったことは、確かに、被相続人が、医師としての太一の社会的信用を利用したものであるし、慢性的な赤字会社の経営者であった被相続人が、信用を保持して行けたのも、太一の信用に支えられていた面があるともいえる。また、太一は、前記のとおり、昭和58、9年の花川の土地に係るものを除いても、被相続人に対し、かなりの額の資金提供をしており、被相続人は、提供を受けた資金を、一部は自己の個人的負債の返済に充当したり、藤村建設に対して経営回転資金として提供したりしたものと推認することができ、その結果、被相続人が資産を失うのを防止し、藤村建設が経営を維持する一助となったりしたと推認することができる。しかし、先ず、太一の社会的信用の利用という点については、仮に太一の連帯保証がなければ被相続人が土地購入資金を借り入れることができなかったとしても、太一がその信用の基盤である医師としての地位を得たのは、被相続人に支えられて医学部で学ぶことができたからであるし、単なる連帯保証をしたことのみを捉えて寄与を論ずることはできない。次に、資金提供についてみると、前記のとおり、結局、被相続人に対する資金提供は、返済を受けたり、被相続人の藤村建設に対する債権を譲り受ける形で全て清算されている。また、昭和58、9年当時、太一が資金援助の趣旨で花川病院敷地を買い受けたり、県信連に債務を返済したりしたことについては、太一は、対価として花川病院敷地を取得したり、花川の宅地部分を取得したりしている。これに対し、太一は、売買代金は、花川病院敷地が1億6,000万円、花川の宅地部分が3億1,000万円の合計4億7,000万円であるが、右代金は実際の時価よりもはるかに高額であるから、その差額分は寄与として評価すべきであると主張され、明代側からは、右代金は実際の時価よりもはるかに低額であったから、その差額分は特別受益として評価すべきであると主張されている。

太一側と明代側からそれぞれ提出されている花川の土地の花川病院敷地と宅地部分の鑑定書2通に参与員の意見を総合すると、昭和58年当時の右各土地の時価はm2あたり3万3,000円前後であって、右単価を右各土地(徳島市○○町×丁目××番×・5890.3m2、同番×△・3063.3m2、同市△○○町○××番×・2026.60m2、同番××・3068.64m2、同×△×番×・3959.63m2)の公簿面積合計18008.47m2に乗じると時価は合計5億9,000万円位であったと見られる。そうすると、太一が購入した代金は4億7,000万円であるから、太一は時価よりも1億2,000万円程度安く購入していることになる。結局、売買代金と時価の差額を寄与とみる余地はないといわなければならない。なお、被相続人の藤村建設に対する債権を譲り受けて清算した分については、藤村建設に対する債権が回収不能の債権ではないから対価を得ていることは前記のとおりである。

3  結論

以上のとおり、太一は、先ず藤村建設に対して恒常的に資金提供しているが、これらの藤村建設に対する資金提供が、藤村建設の経営破綻を救い、ひいては被相続人の個人資産が失われるのを防止したという資金提供と被相続人の資産確保との間の明確な関連性を認めることは困難であり、また、昭和58、9年当時の1億円の資金提供については、対価として藤村建設に対する1億円の債権を取得しており、右債権が無価値であるといえないから、寄与の無償性に欠ける。また、太一の被相続人に対する資金提供についても、その一部は土地や債権を譲り受け、残部は返済されて、全て清算されている。一方、江尻報告書によれば、太一は、山村整形開院の際と花川病院開院の際に藤村建設から合計2,200万円余の資金提供(藤村建設の仮払)を受けているうえ、病院の設備等を購入するための開院資金や増設資金を借り入れるについて被相続人の不動産を担保として利用したり、山村整形の敷地である遺産の土地を暫くは無償で利用していたりする利益をも受けている。また、花川の病院敷地部分を太一が取得したのは、病院経営のために必要なことでもあり、花川の土地の宅地部分に対する差押えを解除するについても同様である。これらの事実を総合考慮すると、結局、被相続人と藤村建設と太一とは、いわば持ちつ持たれつの関係にあったものであり、太一の働きを特別の寄与として評価することはできない。

4  特別受益について

明代が、太一の特別受益として主張するところは、要するに、太一と被相続人又は藤村建設との前記のような持ちつ持たれつの関係の一方のみを主張するものであって、寄与を考慮しない以上、特別受益を考慮することもできない。また花川の前記土地の売買については、前記のとおり、太一の売買代金は時価よりも安かったと認められるが、当時、被相続人が、右各土地の時価と売買代金の差額を意識し、それを太一に贈与する趣旨で売買契約を締結したものとは認められず、時価と売買代金との差額を特別受益として評価することもできない。

5  志津子について

志津子の寄与の主張は、夫の民夫と共に藤村建設のために尽力したというものであり、また民夫の両親も藤村建設のために資金援助をしたというものである。前記のとおり、民夫と志津子とは、被相続人の懇願により、藤村建設を助けるために、止むなくその経営に参画するようになったものであって、その藤村建設の経営状態も慢性的な赤字会社であった。しかしながら、藤村建設が、当時、破産状態であって、民夫・志津子の働きによって破産を免れて経営を立て直し、その結果、被相続人の資産も確保されたという明確な関連を認めることができないのは、太一について検討したところに述べたとおりである。

確かに、民夫と志津子夫婦は、一時は報酬の支払いを受けられない時期もあったことは前記のとおりであり、藤村建設の経営にはかなりの苦労があったものと認められる。しかしながら、そのように藤村建設のために尽力することは、民夫と志津子の利益にも繋がることでもあり、しかも、現在、藤村建設は実質的に民夫・志津子夫婦が承継している。上記の事情に照らせば、志津子の寄与の主張は、関連性及び無償性の点で問題があり、民夫・志津子夫婦が藤村建設のために尽力したことを被相続人に対する寄与として評価することは困難である。また、民夫の両親の資金援助については、あまりに間接的であるから、これを寄与として評価する前提に欠ける。

一方、民夫・志津子夫婦が藤村建設によって生計を維持してきたこと、藤村建設に対し被相続人が資金援助をしてきたこと等を特別受益として評価することもできない。

第七遺産の評価

本件遺産の分割時の価格は別紙遺産目録の各価格欄記載のとおりである。

なお、不動産のうち土地の価格は、当事者双方の合意と宮沢鑑定士の鑑定書の価格並びに参与員の意見に基づいたものである。土地目録が区分されているのは、その範囲の土地が一団の土地であり、合理的な使用を前提とする限り、一体として把握すべきものであって、合理的に分割使用しても評価額にあまり差異はないことから一括評価したものであり、価格欄の数値は一括評価の価格である。また、多数の土地の評価が0とされているが、これは、造成地の道路部分や水路部分であって、課税対象からも外されており、当事者も評価を0とすることに合意し、参与員の意見も0と評価することで相当との意見であった土地である。建物の価格は、当事者の合意を得て相続税申告書の価格を採用し、有価証券等の価格も同申告書の価格を採用した。預貯金及びその他債権はいずれも現存し、当事者が分割対象とすることに合意している。

第八相続分額の算定

ハツヨと志津子は、それぞれ各自の法定相続分のうち4分の3を太一に譲渡している。本件では、法定相続分を修正すべき要素がないから、太一の相続分は、固有の法定相続分6分の1にハツヨと志津子から譲り受けた分を加えたものとなる。そうすると、ハツヨの相続分は8分の1(2分の1×4分の1)、太一の相続分は24分の16(6分の1+8分の3+24分の3)、志津子の相続分は24分の1(6分の1×4分の1)、明代の相続分は6分の1となる。現存遺産である別紙遺産目録の遺産の総合計額は5億4,947万2,478円であるが、前記のとおり、本件では明代とハツヨに対して一部分割がなされているので、上記の現存遺産総額に、明代が一部分割を受けた55万円とハツヨが一部分割を受けた123万0,385円を加えた5億5,125万2,863円を分割時遺産総額とする。右分割時遺産総額に各相続人の上記相続分を乗じ、明代とハツヨの分から一部分割を受けた右額を差し引いたものが各相続人の具体的相続分額となって、その額は次のとおりである。(単位・円、円未満四捨五入)

ハツヨ = 551252863÷24×3 = 68906608-1230385 = 67676223

太一 = 551252863÷24×16 = 367501909

志津子 = 551252863÷24×1 = 22968869

明代 = 551252863÷24×4 = 91875477-550000 = 91325477

第九当裁判所の定める分割方法

一  遺産の不動産についてみると、土地目録の番号1、2の各土地は太一が山村整形の敷地として利用しており、番号30ないし36は花川病院の隣接土地である。番号3及び4の各土地は地上に建物目録の番号1の建物が建っており、被相続人生前の家族の生活の本拠であったが現在はだれも居住していない。建物目録の番号2の建物は、ハツヨ名義の土地上に建っている。各相続人の取得希望は、明代を除いては対立はなく、太一らは、明代には土地目録番号9ないし15の名土地を取得させたいと述べているが、明代は右各土地の取得を強く拒否し、番号2の土地及び3、4の各土地の取得を希望している。

二  先ず、遺産分割の基本である現物分割を基準として検討する。

太一が、山村整形の敷地である土地目録の番号1、2、花川病院の周辺地である番号30ないし36の各土地の取得を希望するのは合理的理由があり、評価が0とされた各土地も今後の管理の上からは太一に取得させるのが相当である。太一らが明代に取得させてもよいとする番号9ないし15の各土地は、不動産鑑定士宮沢浩志の鑑定書によれば、1,700万円余に評価されてはいるが、農業地域にある土地であり、地目も現況も田である。また、公法的にも市街化調整区域であって宅地化される状況になく市場性の少ない土地であると認められる。そうすると、明代が、現物として番号9ないし15の各土地を取得することを強く拒否するのには理由があるといえる。そこで、明代には、番号3、4の各土地及びその地上建物である遺産目録の2建物に記載の番号1の建物を取得させるが、右の取得によっても前記明代の具体的相続分額にはるかに及ばないから、さらに明代には太一らが明代に取得させてもよいと述べている番号9ないし15の各土地を取得させることとする。また志建子には、その希望どおり、土地目録の番号16及び17の各土地を取得させる。さらに、建物目録の番号2の建物はハツヨに取得させる。

三  上記の不動産の取得を基礎として、その余の遺産取得についての当事者の希望及び本件に現れた一切の事情を考慮して、本件遺産を次のとおり分割する。

1  ハツヨには建物目録の番号2の建物のほか、遺産目録の3預貯金の預貯金全部、同4有価証券等(以下、有価証券目録という。)の番号1の○○証券株式会社に対する公社債投資信託、債権目録の番号1、3ないし9の各債権を取得させる。

2  太一には、土地目録の番号1及び2、5ないし8、18ないし43の各土地、債権目録の番号2の債権を取得させる。

3  志津子には、土地目録の番号16、17の各土地、有価証券目録の番号2の有限会社イー・エフ・シーの出資持分権を取得させる。

4  明代には、土地目録の番号3及び4、9ないし15の各土地及び建物目録の番号1の建物を取得させる。

四  上記取得の結果、各相続人の取得分及び各人の具体的相続分額との差額は次のとおりとなる。

1  ハツヨの取得額は4,884万0,911円であり、同人の具体的相続分額6,767万6,223円に1,883万5,312円足らない。

2  太一の取得額は4億6,162万5,197円であり、同人の具体的相続分額3億6,750万1,909円より9,412万3,288円多い。

3  志津子の取得額は811万7,600円であり、同人の具体的相続分額2,296万8,869円に1,485万1,269円足らない。

4  明代の取得額は3,088万8,770円であり、同人の具体的相続分額9,132万5,477円に6,043万6,707円足らない。

そうすると、太一以外の相続人は、いずれも具体的相続分額に足らないから、太一はハツヨに対し1,883万5,312円、志津子に対し1,485万1,269円、明代に対し6,043万6,707円の合計9,412万3,288円の代償金を支払うべきこととなる。

よって、主文のとおり審判する。

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