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新潟地方裁判所 平成11年(ワ)71号 判決 2002年7月18日

主文

1  被告は,原告Aに対し金165万円,原告B及び原告Cに対しそれぞれ金82万5000円並びにこれらの各金員に対する平成11年2月13日から支払済みに至るまで年5分の割合による金員を支払え。

2  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用はこれを10分し,その9を原告らの負担とし,その余は被告の負担とする。

4  この判決は第1項に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

1  被告は,原告Aに対し金4187万9454円,原告B及び原告Cに対しそれぞれ金2093万9727円並びにこれらの各金員に対する平成6年1月30日から支払済みに至るまで年5分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  第1項につき仮執行宣言

第2事案の概要

本件は,D(昭和27年8月24日生まれ。以下「D」という。)が脳腫瘍が原因で死亡したのは,被告が設置経営するE病院(以下「被告病院」という。)の医師がCT撮影像の診断を誤ったためであるなどと主張して,Dの相続人である原告らが,被告に対し,診療契約の債務不履行責任に基づき,Dの慰謝料・逸失利益,葬儀費用及び弁護士費用の合計9475万8908円の一部である8375万8908円の損害賠償を求めた事案である(附帯請求はDが死亡した日の翌日である平成6年1月30日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金)。

1  前提となる事実(以下の事実のうち,証拠を掲記したもの以外は当事者間に争いのない事実である。)

(1)  当事者

原告Aは,Dの夫であり,原告B及び同Cは,いずれもDの子である。

被告は,被告病院を設置経営している地方公共団体である。

(2)  Dの被告病院における受診経過等

ア Dは,平成3年6月12日,被告病院の神経内科を受診し,めまいと吐き気を訴えた。神経内科の医師は,神経学的には異常がないと診断した(乙2)。

イ そこで,Dは,同月14日,被告病院の耳鼻咽喉科を受診し,頭位眼振検査,頭位変換眼振検査,足踏み検査等を受け,ENG検査(電気眼振計による平衡機能検査)を予約した(乙3)。

ウ Dは,同月20日,耳鼻咽喉科において,ENG検査を受け,良性発作性頭位眩暈症と診断された(乙3)。

エ Dは,同年7月4日,同月19日及び同年8月2日にも被告病院の耳鼻咽喉科を受診した。同年8月2日に受診した際には,同月23日に頭部CT検査を受ける予約をした。

オ Dは,同年8月23日,被告病院の放射線科においてCT検査を受け(以下,このCT検査を「本件CT検査」といい,本件CT検査の結果作成されたフィルムを「本件CTフィルム」という。),その後,耳鼻咽喉科を受診した。

本件CTフィルムを読影した放射線科のF医師及び耳鼻咽喉科のG医師は,異常がないと診断した。

カ Dは,平成4年1月に,被告病院の神経内科を受診し,検査の結果,脳腫瘍が発見された。

キ Dは,平成6年1月29日,この脳腫瘍により死亡した。

2  争点及び当事者の主張

原告らは,Dが死亡したのは,被告病院の医師が,本件CTフィルムの読影等を誤って適切な処置を怠ったことによるものであり,死亡との因果関係も認められると主張し,これらは被告の履行補助者の善管注意義務違反に当たり診療契約の債務不履行があると主張するのに対し,被告は,被告病院の医師にはそのような誤りはなく,仮に,そのような誤りがあったとしても,Dの死亡との間に因果関係がないと主張する。したがって,本件の争点は,

(1)  被告病院の医師が本件CTフィルムの読影等を誤って適切な処置を怠ったかどうか(争点1)

(2)  Dの死亡との間に因果関係が認められるかどうか(争点2)であり,争点に関する当事者の主張は以下のとおりである。

(1)争点1(被告病院の医師が本件CTフィルムの読影等を誤って適切な処置を怠ったかどうか)について

(原告らの主張)

ア Dの症状と本件CT検査等

Dには,平成3年7月ころより食欲不振,吐き気や嘔吐,足踏み不可能という脳内の占拠性病変による頭蓋内圧亢進を疑わせる症状が出ていた。また,ロンベルグ検査及びマン検査が陽性であり,平衡機能検査も陽性であり,これらは小脳領域に何らかの病態があることを疑わせる所見である。

このように,平成3年8月ころの時点では,小脳領域に腫瘍等の病変を疑う症状や所見が既に出ていたと判断できる。

平成3年8月23日,耳鼻咽喉科のG医師の依頼により放射線科のF医師により本件CT検査が行われた。このような依頼をする場合は,G医師からF医師に対し,依頼の趣旨や目的を伝えるのが通常であり,依頼用紙に,「小脳中心に」「造影」と記載されており,G医師は小脳領域の腫瘍性病変の有無を検査することをF医師に依頼したことが読みとれる。

したがって,F医師は,Dの自他覚症状や所見を念頭において本件CT検査を実施したというべきであり,そのような情報を念頭に本件CTフィルムを読影しているというべきである。

イ 本件CTフィルムの所見について

単純CTでは,小脳虫部の何かが第四脳室を圧迫し変形させている状況が認められる。また,造影CTでは,小脳虫部に(約3センチメートル)×(約3センチメートル)の腫瘍が存在し,第四脳室を圧迫し変形させていることが認められる。

このように,本件CTフィルムにより,小脳虫部に腫瘍があり,それが第四脳室を圧迫しているため,脳脊髄液の流れが障害されて軽度の水頭症が生じたと判断できる。

ウ F医師の過失

F医師は,放射線科医師としてCT解読の専門家であるが,本件CTフィルムをみて,第四脳室の左後方に縦3センチメートル,横3センチメートル,高さ2センチメートルの造影される腫瘍があるのに,それを見逃し,正常であると診断した過失がある。

仮に,本件CTフィルムから,上記の腫瘍が存在すると解読できなかったとしても,F医師は小脳に何らかの病変があると診断すべきであったのに,それを見逃した過失がある。

百歩譲っても,F医師は,小脳に何らかの病変があると疑い,MRI検査を自ら実施するか,G医師にMRI検査を実施するように助言すべきであったにもかかわらず,それを怠った過失がある。

エ G医師の過失

G医師は,平成3年8月23日までに,Dには食欲不振,足踏み不可能,吐き気,嘔吐,めまい等の脳内占拠性病変による頭蓋内亢進を疑わせる症状,さらにはロンベルク検査及びマン検査等が陽性で足踏み不可能という平衡機能障害等の小脳領域の病変を疑わせる所見があることを念頭に本件CTフィルムを読影したのであるから,小脳腫瘍であること,又は少なくとも小脳に病変があること,百歩譲っても小脳に病変の疑いがあると診断すべきであったにもかかわらず,このような診断しなかった過失がある。

G医師は,F医師から本件CTフィルムに異常がないとの報告を受けたとしても,脳内占拠性病変による頭蓋内亢進を疑わせる症状や平衡機能障害等の小脳領域の病変を疑わせる所見を得ているのであるから,神経内科医等の意見も聴き,Dを神経内科医に受診させたり,さらに詳しい検査や診察を実施すべきであったにもかかわらず,それを怠った過失がある。

オ 平成3年8月23日以降の被告病院の医師らの対応と責任加重事由Dが耳鼻咽喉科の医師に対し,平成3年8月23日以降,自分の病気が耳鼻咽喉科の病気ではないと思われるのでもっと良く検診を行ってほしいと訴えたが,医師は,Dの訴えを無視し,逆に文句を言う扱いにくい患者,特異な患者として対応し,「うつ病」を疑い,神経内科の受診を勧めることなく,さらに詳細な検診も実施しなかった。

Dがどうしても耳鼻咽喉科の病気であるとは思えず,耳鼻咽喉科の医師を無視して被告病院の神経内科を受診したところ,神経内科の医師が本件CTフィルムを見てすぐにMRIの撮影を受けるように指示し,ようやく小脳腫瘍であると診断されたものである。

Dが,耳鼻咽喉科の医師の処置に従っていたならば,その後もずっと医師から正しい診断を受けることができず,誤った診断と誤った治療行為により苦しみ続けていた可能性が高い。

G医師ら耳鼻咽喉科の医師は,Dの訴えに対し,症状に関する説明を十分行わなかっただけでなく,Dの自他覚症状や所見からすると,脳内特に小脳領域の病変を疑わせるものであるから,耳鼻咽喉科以外の病気ではないかと考え,神経内科に受診を勧めるとか,詳しい検査を実施すべきであったにもかかわらずそれを怠り,苦しみを訴えるDを「うつ病」と診断するに至っては,その責任は重大である。

カ その他

また,そもそも,被告病院の医師は,本件CT検査が行われる前の診療の段階でも,Dに対する検査の結果,Dに脳腫瘍があると疑い,十分な検診を行うべきであったにもかかわらずこれを行わなかったものであり,被告病院の医師はDに対する診断を誤って適切な措置を怠ったというべきである。

(被告の主張)

ア 本件CTフィルムの所見について

単純CTでは,X線吸収値は正常の小脳虫部と何ら差はなく,第四脳室の圧迫所見もなかった。また,造影CTでは,小脳虫部に造影剤による軽度の造影効果が認められたが,一般的に小脳虫部は両側の小脳半球よりも濃く造影される傾向があるので,その範囲内であると判断された。

したがって,原告らの主張するように直ちに腫瘍の存在を疑うことのできるような所見ではない。

イ F医師の過失に係る原告主張について

前記アのとおり,本件CTフィルムの所見は直ちに腫瘍の存在を疑うことのできるようなものではないのであるから,本件CTフィルムをみたF医師が小脳腫瘍を疑わず,異常なしと判断したことは相当であり,F医師に過失はない。

なお,F医師は,「小脳中心に」との指示を受けており,当然,小脳の病変の確認が本件CT検査の主目的であることは認識していた。その上で,前記アのような所見から,異常なしとの判断をしているものである。よって,上記の指示の有無はF医師の過失の有無に影響を及ぼすものではない。

ウ G医師の過失に係る原告主張について

(ア) 平成3年6月20日には耳鼻咽喉科のJ医師がDを診察したが,その際,小脳症状指鼻試験は左右ともマイナス,手回内回外試験も左右ともマイナスであって,小脳疾患による症状は認められなかった。また,一連のG医師の診察においても,頭痛や麻痺などの小脳疾患特有の症状はなく,後方への動揺も小脳疾患特有の揺れではなかった。

一般に,Dに認められたようなめまいの原因としては,三半規管の異常,循環障害,血圧異常,その他多くの原因が考えられる。

したがって,G医師としては,前記のような小脳疾患特有の症状が出ていないこともあり,小脳疾患を強く疑っていたわけではない。

(イ) 前記(ア)のとおり,G医師は,小脳疾患を強く疑っていたわけではないが,Dの症状が改善しないため,一応,小脳病変の有無を確定する意味もあって,平成3年8月2日に,CT検査を受けるように指示をした。

同月23日の本件CT検査の結果では,専門のF医師が既に異常なしとの診断をしていたこと,及び前記アのとおり,本件CTフィルムは直ちに異常を疑わせるような所見ではなかったことに加えて,上記のとおり臨床症状にも小脳疾患特有の症状がなかったことから,G医師も小脳疾患が原因ではないと判断した。また,同日の診察では,Dの血圧が低いため,低血圧がめまいの原因であるかもしれないと考え,昇圧剤を処方した。

このようなG医師の判断は,当時の本件CTフィルムの所見及びDの臨床症状からいって相当なものであり,G医師には過失はない。

エ 平成3年8月23日以降の被告病院の医師らの対応について

(ア) 本件CT検査の後,被告病院の耳鼻咽喉科では,J医師がDの診察に当たり,うつ病の可能性もあるかもしれないと考え,精神安定剤を処方し,経過観察を行っていた。また,嘔吐があったため,被告病院の内科でも治療を行っていた。

ところが,Dは,平成3年9月18日に耳鼻咽喉科を受診した以降,予約をしていたにもかかわらず被告病院に来院しなくなり,平成4年1月6日に神経内科を受診するまでの約3か月半の間,被告病院での診察を受けていない。

Dが神経内科を受診したときの訴えによれば,平成3年12月ころから,以前とは異なり,起床時にもっとも強い後頭部からうなじにかけての拍動性の強い痛みがあり,姿勢を変えたりするときのめまいとは別のめまいがして,まっすぐ歩けないようになったとのことであった。注視方向性の眼振プラス,ロンベルグ検査及びマン検査でも動揺プラスで,躯幹失調が認められた。このように臨床症状の悪化が認められたため,神経内科のK医師は,脳腫瘍の疑いもあると考え,CT検査とEEG検査(脳波検査)を行うことにしたものである。

このとおり,Dは3か月半もの間,被告病院で診察を受けておらず,再度診察を受けたときには症状が相当に悪化していた。Dが定期的に被告病院を受診していれば,医師らが症状の悪化を認め,より早期に適当な処置を取り得ていたことは明らかであり,むしろ,無断で来院しなくなったDに小脳疾患の発見が遅れた責任がある。

(イ) なお,原告らは,「Dが耳鼻咽喉科の医師に対し,自分の病気が耳鼻咽喉科の病気でないと思われるのでもっと良く検診を行ってほしいと訴えた」と主張するが,Dは,比較的おとなしい患者であり,そのようなことを訴えていた事実はない。

また,耳鼻咽喉科の医師がDの訴えを無視し,逆に文句を言う扱いにくい患者,特異な患者として対応した事実もない。

(2)  Dの死亡との間に因果関係が認められるかどうか(争点2)

(原告らの主張)

ア Dの発症から死亡までの期間

Dの発症時期については,原告らが主張する平成3年4月ころか,被告が主張する平成2年6月ころかについては争いがあるが,Dが死亡したのは,平成6年1月29日であり,発症から死亡までの期間は,原告主張によると2年9月であり,被告主張によると3年7月である。

イ Dの年齢

Dは,平成3年8月23日当時は38歳という若さであった。

ウ 予後と生存期間

平成4年2月15日の病理組織診断の結果,Dの脳腫瘍は,核異型の強い細胞が特定の構造を作らずに散在しており,神経膠芽腫(glioblastoma)であると判明しているが,東京女子医科大学教授高倉公朋執筆に係る「脳腫瘍治療法の現状と展望」には,「患者の年齢は予後を左右する大きな因子の一つである。悪性神経膠腫の場合は,若年者ほど予後は良い。神経膠腫全体の5年生存率をみると,15ないし24歳の患者では49.6パーセントであったが,55歳は25.3パーセント,75ないし84歳では20.2パーセント,85歳では12.7パーセントであった。人口の高齢化に伴い高齢者の悪性神経膠腫の患者数が増えており,これが膠芽腫の5年生存率の向上を押さえている傾向があると思われる。」とされている。

エ Dの死亡との因果関係

Dは,満38歳であり,5年生存率も相当高く,平成3年8月23日以前から適切な治療を受けることができれば,これほどまでに苦しむ必要もなかったであろうし,2,3年で死亡することもなかった可能性が高く,死亡との間に因果関係が認められる。

(被告の主張)

ア Dの脳腫瘍の種類と予後

神経膠芽腫は,神経膠腫の中でもっとも悪性度の強い腫瘍であり,WHO分類ではもっとも悪性のGrade4に分類されている。

神経膠芽腫に対する治療方法としては,腫瘍摘出手術,放射線治療及び化学療法が存する。しかし,摘出手術については,腫瘍の全摘出が可能であったものと亜全摘出(本件)又は部分摘出が行われたものとの間で,患者の生存日数に有意な差はみられず,また,化学療法についても,種々の試みにかかわらず,患者の生存日数を有意に延長させるに至っていない。他方,放射線治療の有効性はある程度認められており,放射線治療を加えた患者の生存日数が手術単独治療と比較して生存日数が2倍に伸びたとされているが,これは短期生存率に限ってのことであり,5年生存率をみると照射をした場合としなかった場合とではっきりした効果を認めないとされている。

このように,神経膠芽腫は脳腫瘍のなかでも治療に対してもっとも抵抗性があり,現在の医療技術をもっても神経膠芽腫に対する抜本的な治療法はなく,わずかに腫瘍摘出後の放射線治療による短期間の延命効果が認められているにすぎない。

このため,神経膠芽腫の予後は極めて悪く,医療の進歩にもかかわらず,神経膠芽腫の生存率は全く改善されていない。文献においても,治療法の進歩にかかわらず膠芽腫の生存期間中央値は1年半以内に留まったままであり,5年生存は例外的で治癒は不可能に近いとされている。

イ Dの死亡との因果関係

以上のとおり,Dに生じた神経膠芽腫は治療に対して最も抵抗性のある悪性の脳腫瘍であり,極めて予後は悪く,しかも発生部位は脳幹であって,特に予後が不良であるとの結果が報告されている。

そうすると,Dの死亡は,最も悪性の高い神経膠芽腫の帰結としてやむを得ない結果であり,Dが死亡したのは,本件CT検査で脳腫瘍と診断しなかったからではなく,Dの腫瘍が神経膠芽腫だったからである。ただし,Dの発症を平成3年4月としても,発症から平成6年1月29日の死亡まで約2年10か月間生存しており,神経膠芽腫の患者の2年間生存率が約22パーセントであることからすれば,比較的長期間にわたって生存できたケースである。

したがって,平成3年8月23日にDが脳腫瘍であると診断しなかったこととDの死亡との間には因果関係がない。

第3当裁判所の判断

1  前記第2の1記載の事実に証拠(甲13,乙2ないし8,15の1ないし4,16の1ないし4,18の1ないし8,19の1ないし8,20,証人G,証人F,証人S,原告A本人)及び弁論の全趣旨を総合すると,以下の事実が認められる。

(1)  Dは,平成2年6月ころから,めまいや吐き気を感じるようになった。Dは,平成3年4月ころ,妊娠中であったため,受診していたH医院の医師に相談したが,原因ははっきりせず,胎児への影響を考えると検査のためのレントゲン撮影を行うことはできないので,出産後改めて検査と診察を受けるように指示された。

Dは,平成3年5月24日,原告Cを出産した。

(2)  Dは,平成3年6月12日,被告病院の神経内科を受診した。Dは,神経内科のI医師に対し,1年前からときどきめまいがし,体の位置を変えると特にめまいが起こりやすく,吐き気や頭がすっきりとしない症状がすると訴えた。

I医師は,眼振の検査,指鼻試験,膝踵試験などの検査を行ったが,異常な所見が見当たらないとして,神経学的には異常がないと診断した。

(3)  Dは,平成3年6月14日,被告病院の耳鼻咽喉科を受診した。Dは,J医師に対し,めまいを訴え,1年前から寝返りを打ったときや立ち上がったときにめまいがおきやすく,時には吐き気や耳鳴りを伴うと訴えた。

J医師は,平衡機能検査を実施したところ,下記アないしエのような異常が見られた。他方,注視眼振検査(坐位で正面,左右上下約30度の方向を裸眼で注視させる検査),頭振り眼振検査(患者の頭を検者が両手で軽く保持し,左右あるいは上下に10秒間10往復振り,その後の眼振をみる検査),ロンベルグ検査(両足を直立し身体動揺を観察する検査),視標追跡運動検査(坐位で指標を左右・上下に連続的に移動して目で追わせ,その動きを観察する検査)では特段の異常が見られなかった。また,X線撮影を行ったが,X線撮影像には異常所見はみられなかった。

J医師は,Dに対し,ATPとカルナクリン(ATPは,脳の代謝を活発化させる薬。カルナクリンは,脳の血管の循環を良くする薬)を処方した。

そして,Dは,同月20日にENG検査を受ける予約をした。

ア 頭位眼振検査(頭の位置(坐位,仰臥位,側臥位,懸垂頭位,腹臥位)により眼振が出るかどうかをみる検査)では,右側臥位で左向きの眼振の異常が認められた。

イ 頭位変換眼振検査(ゆっくりと頭の位置を変えながら眼振の有無をみる検査)では,坐位から懸垂頭位に体位を変換すると回旋性の眼振がみられるという異常が認められ,坐位から懸垂頭位に体位を変換する動作を繰り返すと眼振がだんだん弱くなり,最後には眼振が消失した。頭位変換眼振検査をさらに詳しくみるために,患者をベッドに寝かせた状態で頭位を変えて眼振をみる検査を行ったところ,懸垂頭位で時計回りの回旋性の眼振がみられた。

ウ マン検査(両足を前後に開いて起立し身体動揺を観察する検査)では,閉眼時に体に動揺がみられるという異常が認められた。

エ 足踏検査(閉眼で50歩,同じところで足踏みをし,移動角度,距離,動揺を観察する検査)では,平衡バランスの左右差はみられなかったが,若干後方に足が移動するという所見がみられた。

(3)  Dは,平成3年6月20日に,ENG検査を受けるために被告病院の耳鼻咽喉科を受診した。同日の検査の結果は,下記アないしクのとおりであった。

ア 自発眼振検査の結果は,プラスマイナス(眼振があるかもしれないが,ないとも取れるという意味。以下同じ。)であった。逆算負荷をかけた状態での自発眼振検査(逆向きに数を数えさせることによって意識を外に向けさせて,自発眼振を促す方法)の結果,左向きの眼振が認められた。

イ 頭位眼振検査では,同月14日の検査結果と同様,右側臥位で左向きの眼振の異常が認められた。また,注視眼振検査では,同月14日の検査結果と同様,異常は見られなかった。

ウ 頸部捻転検査(頸部を左右に回すことによって,眼振が誘発されるかどうかをみる検査)では,右向きに首をひねると左向きの眼振が認められた。これに対し,左側に首をひねるときにはプラスマイナスであった。

エ 頸部を圧迫しながら眼振をみる検査では,プラスマイナスであった。

オ 温度眼振検査(外耳道から低温,高温の空気で内耳を刺激して眼振を誘発する検査法。正常では三半規管の刺激による眼振が誘発される。)では,右の内耳に温度刺激を加えると,正常の人と反対に,はじめは右向きに眼振が認められたものが左向きに代わって,二相性に眼振が認められた。

カ 視標追跡運動検査では,水平方向はスムーズで,垂直方向には階段性と衝動性眼振がみられた。

キ 視運動性眼振検査(一方向に徐々にスピードを上げて動く縞模様を数えるように目で追う検査),指鼻試験(被検査者本人に自分の指と鼻の間をほかの手で指し示させるという試験),手回内回外試験(被検査者が手を前に出して,手のひらを回して内向き外向きに運動をさせるという試験)では,いずれも異常所見はなかった。

ク 重心動揺検査(重心動揺計の上に乗り,開眼,閉眼で身体の揺れを記録する検査)では,開眼状態では,重心がずれず,閉眼状態では,重心がほとんどずれなかったがややずれているところもみられた。

J医師は,ENG検査の結果を踏まえ,Dには明らかな末梢・中枢性の所見はみられないとの結論を出し,良性発作性頭位眩暈症と診断した。J医師は,前回と同様,Dに対し,ATPとカルナクリンを処方した。

(4)  Dは,平成3年7月4日,同月19日及び同年8月2日に被告病院の耳鼻咽喉科を受診し,G医師が診察に当たった。それぞれの日のDの訴え,検査で認められた異常所見等,G医師の診断は以下のとおりである。

ア 平成3年7月4日

Dは,寝返りをしたときにふらふらすると訴えた。

マン検査で,閉眼時に動揺がみられ,足踏み検査で後方に移動するという所見がみられた。なお,同年6月14日に認められた頭位眼振検査,頭位変換眼振検査での異常はこの日には認められなかった。また,同月20日の視標追跡運動検査で,垂直方向にみられた衝動性眼振もこの日にはみられなかった。

G医師は,Dに,特に病態自体の変化が認められなかったことから,引き続き経過を観察することとした。G医師は,前回までと同様にDに対し,ATPとカルナクリンを処方した。

イ 平成3年7月19日

Dは,目の疲れ,肩こりがあること,歩いているときにふらふらすることを訴えた。また,薬を飲み始めてから食欲不振になったと訴えた。

マン検査で,閉眼時に動揺がみられた。足踏み検査は,閉眼で50歩の足踏みをさせることが困難であったため,検査を行うことができなかった。

G医師は,マン検査で閉眼時に動揺がみられたこと,足踏み検査が不可能であったことから自律神経症状が強く出ている眩暈症であると診断した。G医師は,前回までと同様にATPとカルナクリンを処方するとともに,Dが薬を飲み始めてから食欲不振になったと訴えたことに対して,sm散(消化剤)を処方した。

ウ 平成3年8月2日

Dは,目の疲れがさらに強くなったこと,視野が広くなるとふらふらが強くなること,ご飯のような固形物が食べられないことを訴えた。

前回までの検査で異常が見られなかったロンベルグ検査(閉眼時)に,後方への動揺がみられた。マン検査では,開眼時にも動揺がみられるようになり,閉眼でのマン検査を実施すると転倒する危険があったため,閉眼での検査は行われなかった。

G医師は,この日までの検査において中枢性の疾患であることを完全には否定し切れていないことから,Dに,CT検査を実施することとし,CT検査の予約をした。

(5)  Dは,平成3年8月23日に,被告病院において本件CT検査を受けた。本件CT検査は,G医師の依頼により,被告病院の放射線科のF医師が実施した。

ア CT検査の依頼の際には,放射線科に対し,「CTスキャン検査診断票(カルテ)」と題する書面が送付され,実際に検査を実施する際には,当該患者のカルテ全体が送付される仕組みになっていた。

Dの本件CT検査に係る「CTスキャン検査診断票(カルテ)」と題する書面には,検査部位について,「頭部」,「脳」にそれぞれ丸印がつけられ,さらに,「小脳中心に」とのG医師の指示が記載されていた。

検査の際にF医師に送付されたカルテには,前記(2)ないし(4)の被告病院における診療の経過が記載されていた。

イ F医師は,Dのカルテを検討した上で本件CT検査を実施し,G医師の依頼にしたがって,小脳部分を5ミリ間隔のスライスで,それ以外の部分を10ミリ間隔のスライスで撮影した。

F医師は,本件CTフィルムを検討した結果,異常がないと判断し,「CTスキャン検査診断票(カルテ)」の「診断」の欄に,「脳CT;異常認めません。」と記載し,本件CTフィルムとともにG医師に送付した。

ウ G医師は,平成3年8月23日,本件CT検査の実施後にDを診察し,本件CTフィルムを検討し,異常がないとのF医師の所見と総合し,本件CTフィルムには異常所見が認められないと診断した。

この時の診察では,Dは,吐き気や嘔吐があってつらいこと,血圧が下がっていて,朝,自分で測定すると80mmHgくらいであると訴えた。診察の際に,G医師がDの血圧を測定したところ,臥位で101/68mmHg,座位で107/70mmHgであった。

G医師は,前記のとおり本件CTフィルム上小脳の病気であることを否定したので,Dの症状の原因について,吐き気や嘔吐があること,血圧が低いことから,自律神経失調の状態が強いと判断し,経過を観察することとした。そして,前回までの処方に加え,カルニゲン(血圧を上げる薬)を処方した。

(6)  Dは,その後も吐き気と嘔吐とが強く,食欲がないため,平成3年9月2日,耳鼻咽喉科を受診する前に,内科を受診したが,内科では,耳鼻咽喉科で相談してもらうほかないということで特に詳しい検査等は行われなかった。

Dは,同日,耳鼻咽喉科を受診し,診察に当たったJ医師に対し,嘔吐が1日に4回から5回あること,体を動かすだけで気持ちが悪いこと,嘔吐が原因で薬が飲めないこと,体重が減少していることを訴えた。

J医師は,うつ病を疑い,ドグマチール(抗うつ剤)を処方した。

Dは,同月6日には,吐き気,食欲不振で被告病院の救急救命センター外来を受診し,翌7日に耳鼻咽喉科を受診し,診察に当たったJ医師に対し,食事が取れないこと,嘔吐が強いことを訴えたため,J医師は,Dに内科へ行くように指示した。

内科では,同日,L医師が診察に当たり,同月9日には,内視鏡検査を施行し,その結果,表在性の胃炎が発見された。L医師は,この内視鏡検査の結果を同月14日にDに説明するとともに,H2ブロッカー(胃潰瘍治療薬)を処方した。

その後,Dは,同月18日に,耳鼻咽喉科に薬を取りに来たのみで,被告病院を受診しなくなった。

(7)  被告病院を受診しなくなった後,Dは,平成3年11月ころから,めまいと吐き気の症状が強くなり,家事を行うこともできない状態になった。そして,同月末ころからは,頭痛のために夜眠れない状態になり,夫である原告Aが首の付け根をマッサージするなどし,同年12月後半ころには,毎晩のようにマッサージを行うようになった。そこで,Dは,もう一度神経内科を受診することとした。

Dは,平成4年1月6日,自らの判断で,被告病院の神経内科を受診し,診察に当たったK医師に,平成3年12月ころより,以前と異なり,起床時に最も強い後頭部からうなじにかけての拍動性の強い痛みがあること,その他,以前から姿勢を変えたりするときめまいがあったが,それとは別にめまいがしてまっすぐ歩けないようになったこと,ふらつきは左右一定していないことを訴えた。K医師は,Dに注視方向性眼振がみられること,躯幹失調がみられること,頭痛(朝方の頭痛)がみられることをなどから,Dに対し,CT検査及び脳波検査を受けるように指示した。

同月8日,Dに対して,CT検査及び脳波検査が行われた。CT検査を施行し,CTフィルムの読影を行った放射線科のM医師は,小脳中枢部に30ミリメートル大の造影効果のある占拠病巣が疑われ,第四脳室が前方左側へと圧排されていることなどから,脳腫瘍の疑いがあり,早急にMRI検査を実施する必要があると診断した。

同月16日,Dは,被告病院の神経内科を受診し,同月8日に実施したCT検査の結果の説明を受け,脳外科を受診するように指示されるとともに,MRI検査を申し込んだ。

同月20日,Dは,被告病院の脳外科を受診し,診察に当たったN医師は,同月8日に撮影したCTフィルムに小脳虫部に強い造影効果のある塊があり,脳室がやや大きいこと,平成3年8月23日に撮影した本件CTフィルムでも小脳虫部に腫瘍がみられることから,脳腫瘍の疑いが強いと判断し,その旨,D及び原告Aに説明した。

同月21日,Dは,MRI検査を受け,その結果,第四脳室の屋上から小脳虫部に(4センチメートル)×(4センチメートル)×(3センチメートル)の腫瘍が発見され,Dは,同年2月4日,被告病院脳外科に入院した。

(8)  平成4年2月15日には,Dに対し,脳腫瘍を切除する開頭手術が施行され,腫瘍は亜全摘出された。そして,腫瘍は,組織診断の結果,神経膠芽腫と診断された。

その後,Dに対しては,放射線治療,化学療法が開始され,Dは,同年4月20日に退院し,以後被告病院の脳外科に通院して化学療法を受けた。

Dは,同年11月ころから目の焦点が合わない,構語障害が生ずるといった脳腫瘍の再発を疑わせるような症状がみられるようになり,同月16日に髄液の検査を行ったところ,悪性の腫瘍細胞が発見された。その後,次第に症状が悪化し,平成5年6月8日にDは被告病院に再入院し,放射線療法などが行われたが,平成6年1月29日に死亡した。

2  争点1(被告病院の医師が本件CTフィルムの読影等を誤って適切な処置を怠ったかどうか)について

(1)  証拠(乙15の1ないし4,鑑定人O,同P,同Q,同Rの各鑑定の結果)によると,本件CTフィルムには,小脳虫部から第四脳室にかけて占拠性病変が存在すること,それにより第四脳室は圧排されて変形(平坦化)していること,組織診断等を行わないで本件CTフィルムのみから上記病変が何であるかを確定診断することは不可能であるが,血管芽腫,星細胞腫,上衣腫,髄芽腫,脈絡叢乳頭腫,悪性グリオーマ等の脳腫瘍であることが疑われること,腫瘍の大きさは2センチメートルから3センチメートル程度であり,相当程度進行した腫瘍であったことが認められる。

したがって,本件CTフィルムには異常所見が認められるというべきである。

(2)  この点について,被告は,本件CTフィルムの単純写真では,X線吸収値は正常の小脳虫部と何ら差はなく,第四脳室の圧迫所見もなかったこと,造影後のものでは,小脳虫部に造影剤による軽度の造影効果が認められたが,一般的に小脳虫部は両側の小脳半球よりも濃く造影される傾向があるので,その範囲内であると判断されたと主張し,本件CTフィルムには異常所見がみられないと主張する。

しかし,①鑑定人Pは「本件CTフィルムのうち単純CTフィルムの2段目右及び3段目左の像では,第四脳室が圧排され変形していることがうかがわれる。また,後頭蓋窩のくも膜下腔がはっきりとは認められず,後頭蓋窩の圧が上昇していることがうかがわれる。造影CTフィルムでは,小脳虫部に一部嚢腫を伴うか,あるいは第四脳室の一部がトラップされているかは断定できないが,比較的均一に造影される腫瘤が2段目右から3段目中央にかけて認められる。」旨の鑑定結果を呈示し,②鑑定人Qも「本件CTフィルムのうち,スライス番号07,08,12,13の単純CTフィルムで,小脳虫部に正常脳実質に比してややX線吸収値の高い腫瘤様の構造物がみられ,スライス番号24,25,29,30の造影CTフィルムでこの部位が正常小脳にはない増強効果を示している。また,両方のCTフィルムの画像で上記の病変と考えられる部位の周囲の両側小脳半球に病変に反応性に生じた浮腫を思わせる低吸収域がみられる。さらに,第四脳室の圧排変形や小脳天幕襄(大脳の存在する部分)の脳室系の軽度の拡大傾向(水頭症)がみられる。

これらの所見から,小脳虫部あるいは第四脳室を中心に発育した腫瘍性病変が強く疑われる。」旨の鑑定結果を呈示し,③さらに,鑑定人Rも「本件CTフィルムのスライス番号7,8,13,24,25,26,30で異常が認められる。単純CTフィルムでは,第四脳室後方,小脳虫部領域に脳実質と同等吸収域からやや高吸収域を呈する直径(約2センチメートル)×(約3センチメートル)の病変が疑われる。一般に後頭蓋窩の病変を単純CTフィルムにて診断する場合には,CT特有の骨構造のアーチファクトがあるため判断に迷う場合が少なくないが,本件CTフィルムでは第四脳室の変形・圧排所見からもこれに隣接する病変の存在が十分推定される。造影CTフィルム(スライス番号24ないし26)にも単純CTフィルムで疑われた病変部に一致してほぼ均一な増強効果が認められる。スライス番号8及び25では,病変の右後方に脳脊髄液とほぼ同等の低吸収域を呈する直径約8ミリメートルの病変がみられ,造影CTフィルムではこの部分に増強効果が認められない。この所見は,嚢胞性病変の混在によるものと考えられ,本疾患の診断を特徴づけるものである。スライス番号8及び25,13及び30では,両側の側脳室が軽度の拡大を示しているが,これは年齢から考えても病的所見であり,小脳の病変によって第四脳室が圧迫されて閉塞性水頭症を来した結果と考えられる。」旨の鑑定結果を呈示していることに照らして,被告が主張するように本件CTフィルムには異常所見がみられないなどということはできない。

(3)  そこで,進んで,F医師ないしG医師に本件CTフィルムの異常所見を見落としたことにつき注意義務違反が認められるかどうかを検討する。この点,被告は,一般の放射線科医師の水準に照らして,F医師の判断に注意義務違反はないと主張する。

本件CTフィルムから疑われる疾病を一般的医療水準を有する放射線科医であれば診断できるかどうかという鑑定事項に対し,鑑定人Qは「臨床症状とあわせれば十分可能と考えます。」との鑑定結果を,鑑定人Rは「当時とはいえ放射線科専門医の水準ならば,単純CTと造影CT画像から小脳腫瘍を疑い,閉塞性水頭症を考えて,血管造影などの次のステップへ画像診断を進めていくことを考えたり,脳神経外科の受診を進めることを考えます。」との鑑定結果を呈示し,一般的な放射線科医であっても疾病の診断は可能であるとするのに対し,鑑定人Oは「診断治療の専門領域によって異なる。専門神経放射線医の場合には診断可能と思われる。」との鑑定結果を呈示し,鑑定人Pは「第四脳室の圧排変形,小脳虫部の造影所見など判断できると思います。がしかし,疾病の診断にまでの到達は困難と思われます。」との鑑定結果を呈示している。

しかし,①鑑定人のうち,一般的な放射線科医であっても疾病の診断は可能であるとの鑑定結果を呈示している鑑定人Q及び同Rはいずれも放射線科医であり,鑑定人O及び同Pは,脳神経外科医であることからすると,放射線科医の目から見て,本件CTフィルムに異常所見があるとの診断が可能であるとしている鑑定人Q及び同Rの鑑定の結果を,脳外科医の目から一般的な放射線科医の診断可能性を判断した鑑定の結果よりも尊重すべきであること,②鑑定人Pも診断の可能性を全く否定しているわけではなく,造影所見などについては判断できるとしており,最終的な判断に至らなければ,専門の医師等に相談することも可能であること,③前記1(2)ないし(5)のとおり,Dにはめまい感と体動揺が継続しており,頭位変換眼振検査やマン検査などで異常が見られるなど,中枢性の平衡機能障害を示唆する臨床症状がみられたこと,特に,平成3年7月19日の診察では,閉眼で50歩の足踏みをさせることが困難であり,足踏み検査を実施できず,同年8月2日の診察でも,それまでみられなかったロンベルグ検査(閉眼時)に後方への動揺がみられ,マン検査では,開眼時にも動揺がみられるようになり,閉眼でのマン検査を実施すると転倒する危険があったため,閉眼での検査は実施できなかったなど,Dの平衡機能障害が悪化していたこと,Dに係るカルテの送付を受けることによりF医師も,上記の臨床症状を十分認識した上で本件CTフィルムの読影に当たっていることに照らすと,明らかな異常所見が認められる本件CTフィルムを異常なしと診断したF医師には注意義務違反があることは明らかというべきである。

したがって,被告に本件CTフィルムの読影を誤り,その結果,適切な処置を怠った過失があるというべきである。

(4)  なお,原告は,本件CT検査以前において,Dの診療に当たったG医師らにおいてDに脳腫瘍があるかを疑い適切な処置をすべき義務に違反する行為があったかの主張をする。しかし,上記のような,平成3年6月12日以降のDの症状及び検査結果,G医師が同年8月2日の診察により中枢性の疾患の有無を調べるため本件CT検査を予約するに至ったことに照らせば,上記義務違反があったと認めることはできない。

また,被告は,Dが平成4年1月6日まで3か月半来院しなかったことが治療の遅れの原因であるというが,Dは,適切な診断を受けられず,症状が改善しないため,治療を中断させたものであり,この点でDを非難することはできない。

3  争点2(Dの死亡との間に因果関係が認められるかどうか)

(1)  前記1(8)のとおり,Dの脳腫瘍は,組織診断の結果,神経膠芽腫であると診断されているが,神経膠芽腫については,証拠(甲5,乙13,14,25)及び弁論の全趣旨によると,以下の事実が認められる。

ア 神経膠芽腫とは,神経膠腫の中でもっとも悪性度の高い腫瘍であり,WHO分類ではもっとも悪性のGrade4に分類されている。

イ 神経膠芽腫に対する治療方法は,腫瘍摘出手術,放射線治療及び化学療法が存在する。

神経膠芽腫は,増殖力が旺盛で,手術による摘出効果が生存率にまで反映されないとされているが,摘出手術により全摘出した場合には5年生存率が有意に良くなるとの報告も存在する(摘出しなかった場合の5年生存率が5.4パーセントであるのに対し,75パーセント摘出,95パーセント摘出,全摘出の5年生存率はそれぞれ9.0パーセント,11.9パーセント,23.0パーセントであったとの報告がされている。)。もっとも,神経膠芽腫は,脳実質性の浸潤性腫瘍であるため,最新の診断及び手術機器の導入をもってしても摘出率を向上させるのは難しく,全摘出・亜全摘出(95パーセント以上摘出)が可能であったのは,摘出手術を実施したうちの27パーセントにすぎなかったとの報告がされている。

化学療法については,ACNUの導入により,1年生存率が治療群58.4パーセント,無治療群40.9パーセント,2年生存率が治療群24.1パーセント,無治療群16.1パーセントとわずかながら上昇が認められている。

放射線治療の有効性は,短期生存率の向上については,ある程度認められるが,5年生存率にははっきりとした効果が認められないとされている(1,2年の生存率は,放射線照射をしなかった場合がそれぞれ31.2パーセント,16.8パーセントであるのに対し,放射線照射をした場合の生存率はそれぞれ50.9パーセント,24.1パーセントであり短期生存率には差異が認められるが,5年生存率では,放射線照射をしなかった場合の生存率が8.2パーセント,放射線照射をした場合の生存率が9.8パーセントであり,はっきりした効果が認められなかったとの報告がある。)。

ウ このように,神経膠芽腫は治療に対して抵抗性が強く,神経膠芽腫に対する抜本的な治療法を施すことは困難であるため,神経膠芽腫の予後は悪い。

神経膠芽腫の生存期間の中央値は1年半以内にとどまり,5年生存率は,8パーセント前後から10パーセント未満とされており,治癒は不可能に近いとされている。

摘出手術を行い,放射線治療及び化学療法を行ったとしても,結局,生存期間は6か月から12か月前後で,2年生存率は16パーセントから30パーセントであるとされている。

(2)  以上のとおり,Dが罹患した神経膠芽腫は,治癒が非常に困難で,予後も悪く,生存率も著しく低いのであって,F医師が本件CTフィルムに現れた異常所見を適切に判断し,本件CT検査が実施された平成3年8月23日の直後からDの神経膠芽腫に対する治療を開始していたとしても,Dを救命し得たであろう高度の蓋然性は認めることはできない。

しかしながら,神経膠芽腫に対して行われている摘出手術,化学療法及び放射線療法は全く効果がないというわけではなく,前記(1)イのとおり,放射線治療の有効性が短期生存率の向上についてある程度認められ,化学療法についても,わずかではあるが,生存率の向上の効果が認められていること,また,摘出手術についても,生存率の向上がみられたとの報告がされていることに照らすと,少なくとも,本件CT検査を行った平成3年8月23日の直後からこのような適切な治療が実施されていれば,神経膠芽腫の進行や転移を遅らせることができたと推認すべきである。そうすると,Dを救命し得たとまではいえないにしても,Dが死亡した平成6年1月29日時点でDが生存していた相当程度の可能性があったというべきである。

この点について,鑑定人Oは,1975年(昭和50年)から1994年(平成6年)までに報告のあった小脳悪性神経膠腫71例と著者経験例7例の総計78例について臨床像及び治療成績を解析したDjalilian HR, Hall WAの論文を前提に,「本症例が平成3年8月23日に脳腫瘍が発見され,すぐに当時の医療水準から標準的かつ適切な治療が行われた場合,実際に死亡した平成6年1月29日以降も生存していた可能性がどの程度あるかについては断定できない。すなわち,4か月前に診断されて治療された場合,腫瘍がより小さくて手術による腫瘍摘出度がより高くなり,生存率が向上することが予想されるが,論文には腫瘍の大きさに関する言及がない。また,4か月前に診断されて治療された場合,4か月間有症状期間が短縮したことになるが,有症状期間は生存期間への影響が少なく,統計学的な有意差を認めていない。腫瘍の大きさ,摘出度,及び有症状期間が生存期間に関連していないと仮定した場合に,平成3年8月23日に脳腫瘍と診断されて死亡した平成6年1月29日までの29か月後の悪性度Ⅳの生存率は,22パーセントと推定される。延命期間の予測はこの論文からは困難である。」との鑑定結果を呈示しており,Dが生存していた可能性の程度については断定できないとするものの,本件CT検査の直後に腫瘍摘出手術が行われていれば腫瘍摘出度が高くなることにより生存率が高くなることが予想されることを指摘し,また,平成6年1月29日までの29か月後の生存率が22パーセントであることを指摘する(つまり,その時点での生存可能性が否定されるわけではなく,統計的に22パーセントは生存していることを指摘している。)のであって,上記の結論と矛盾するものではない。

これに対し,証人Sは,早期に治療を開始していたとしてもDが平成6年1月29日よりも長く生存できた可能性はないと証言しているが,その前提となる治療の有効性について同証人は,「神経膠芽腫に関しても何らかの治療をすれば長生きできるという関係はあるのですか」との問いに対して「あんまりないと思います。」と証言しており,前記(1)に認定した治療の有効性(神経膠芽腫の治癒は困難であるとしても治療により短期的には生存率を向上させることができる。)と異なった認識を前提にしており,また,同証人がDに対する治療当時被告病院の脳神経科副部長の地位にあった者であることに照らすと,この証言を採用することはできない。

(3)  このように,患者の治療に当たった医師が過失により適切な治療行為を行わなかった場合において,適切な治療を行ったとしても,疾病を治癒することが困難であって,したがって,患者を救命することができた高度の蓋然性が認められないという意味での当該不作為と患者の死亡の因果関係が認められないとしても,適切な治療行為が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性がある場合には,医師等は,患者に対し,診療契約の債務不履行による損害を賠償する責任を負うものと解すべきである。なぜなら,生命を維持することは人にとってもっとも基本的な利益であって,その可能性は法によって保護される利益であり,医師が過失により適切な治療を行わないことによって患者の法益が侵害されたものということができるからである。

したがって,被告は,原告らに対し,診療契約の債務不履行による損害を賠償する責任を負うというべきである(最高裁判所平成12年9月22日第二小法廷判決・民集54巻7号2574頁)。

(4)  損害額

損害額については,前記(1),(2)のとおり,神経膠芽腫の予後が悪く,生存期間は6か月から12か月前後で,2年生存率は16パーセントから30パーセントであるとされていて,本件CT検査の行われた平成3年8月23日から平成6年1月29日まで既に約29か月間生存しているのであるから,さらに相当長期間生存するとまでは認め難いが,本件CT検査から脳腫瘍が判明するまでの間に適切な治療を受けられなかったことによるDの精神的肉体的苦痛は相当なものであったと推認され,その他本件に表れた一切の事情を考慮すると,慰謝料としては300万円が相当と認められる。

また,この債務不履行に基づく原告らの弁護士費用としては,30万円が相当である。

したがって,上記損害を法定の割合で相続し,原告Aは165万円,同B,同Cはそれぞれ82万5000円の損害賠償請求権を取得したことになる。

4  遅延損害金について

原告らは,附帯請求として,Dが死亡した翌日である平成6年1月30日から支払済みまでの遅延損害金を請求している。

原告らは,診療契約の債務不履行に基づく損害賠償請求権に基づく請求をしているところ,債務不履行に基づく損害賠償債務は期限の定めのない債務であり,民法412条3項によりその債務者は債権者からの履行の請求を受けたときに初めて遅滞に陥るものというべきである。

本件では,訴状が平成11年2月12日に被告に送達されている事実は当裁判所に顕著であるが,これ以前に原告らが被告に対して損害賠償請求をしたとの証拠はなく,損害賠償債務は,同日限り遅滞に陥ったものというべきである。

したがって,原告らは,その翌日である平成11年2月13日から支払済みまでの民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を請求することができるものというべきである。

第4結論

以上のとおり,原告らの請求は,原告Aについて165万円,同B及び同Cについて各82万5000円並びにこれらの各金員に対する平成11年2月13日から支払済みまで年5分の割合による金員の支払を求める限度で理由があり,その余は,理由がないから棄却し,訴訟費用の負担について,民事訴訟法61条,64条本文,65条1項本文を,仮執行の宣言につき同法259条1項を適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 犬飼眞二 裁判官 大野和明 裁判官 加藤聡)

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