新潟地方裁判所 平成12年(ワ)384号 判決 2003年12月26日
主文
1 被告は,原告に対し,金9537万1961円及びこれに対する平成11年2月19日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用はこれを10分し,その1を原告の負担とし,その余は被告の負担とする。
4 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
被告は,原告に対し,金1億0387万4009円及びこれに対する平成11年2月19日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,原告の娘であるA(昭和30年11月26日生,当時43歳,以下「A」という。)が,平成11年2月19日,被告の設置・運営するB病院(以下「被告病院」という。)において肺血栓塞栓症に基づく肺梗塞により死亡したことが,被告病院職員の腹部造影検査後の止血処置の過誤によるものであるとして不法行為(民法715条)に基づく損害賠償として,慰謝料,逸失利益,葬儀費用及び弁護士費用の合計1億0387万4009円並びにこれらの金員に対する不法行為後の平成11年2月19日から支払済みまで民法所定の遅延損害金の支払を求める事案である。
1 前提事実(当事者間に争いのない事実並びに証拠〔甲1,乙1,乙2〕及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実)
(1) 当事者
ア 原告は,被告病院において,平成11年2月19日に死亡したAの母であり,相続人である。
イ 被告は,被告病院を設置・運営する地方公共団体であり,被告病院で医療行為に従事する医師及び看護師の雇用者である。
(2) Aが死亡するに至るまでの経緯
ア A(昭和30年11月26日生)は,平成10年10月2日,他の医療機関において健診を受けた際,腎臓に腫瘍らしきものが発見され,被告病院において精密検査を受けた。精密検査の結果,Aの腎臓は左腎血管筋脂肪腫であると診断され経過観察となったが,同検査の際に膵臓に腫瘍が発見された。
イ CT,MRI等の検査では,膵腫瘍が悪性か良性か不明であるとされ,平成11年1月27日,Aは,被告病院外科のC医師(以下「C医師」という。)から膵体尾部を切除して膵腫瘍を摘出するよう勧められた。
Aは,勧めに従って膵腫瘍摘出手術を受けることとし,同年2月10日に被告病院に入院し,同月15日に手術を受けることとした。
ウ 平成11年2月10日,Aは,被告病院に入院した。
C医師は,膵腫瘍摘出術に先立って,膵臓の血管走行を確認するために腹部血管造影検査をしなければならないとし,同造影検査が同月12日に施行されることとなった。
エ 平成11年2月12日午後1時ころから,被告病院内科のD医師(以下「D医師」という。)が,Aに対して,腹部血管造影検査(カテーテル検査,以下「本件検査」という。)を実施し,同検査は,同日午後1時35分ころ,終了した。
Aの受けた本件検査は,右大腿動脈鼠径部を穿刺してカテーテルを挿入し,造影剤を放出して血管造影をするものであった。検査後,穿刺した右大腿動脈の止血処置がなされ,同日午後2時ころ,穿刺部付近である右大腿部に重さ2kgの砂嚢が置かれ,翌朝まで床上での安静が指示された。
オ 同月13日午前6時40分ころ,Aの穿刺部位に置かれていた砂嚢が除去され(砂嚢による圧迫時間は約16時間40分である。),検査終了後初めての体位交換が行われた。
同日午前10時ころ,C医師により,Aの安静が解除された。
カ 同日午前10時32分,Aが,被告病院内の配膳室前で,呼吸停止に近い状態で倒れているのが発見された。
臨床症状から肺血栓塞栓症が疑われ,同日施行された血管造影検査により左肺動脈に血栓があることが確認され,肺血栓塞栓症と確定診断された。
キ 同日午後,肺動脈内を閉塞している血栓を溶解するために,ウロキナーゼ(血栓溶解剤)合計144万単位が左肺動脈内に選択的に注入され,同血栓はほぼ融解した。
ク しかし,Aは,肺動脈内の血栓溶解前に呼吸停止及び心停止があり,脳浮腫となり,また肺血栓塞栓のために肺梗塞を起こし,同月19日午後2時35分,死亡するにいたった(このAの肺血栓塞栓症を以下「本件肺塞栓症」という。)。
2 争点
(1) 砂嚢による圧迫と本件肺塞栓症との間の因果関係の有無
(2) 被告病院医師・看護師らに止血の処置に関して注意義務違反があったか否か。
(3) 原告の損害(素因減額をするのが妥当か等)
3 争点に関する当事者の主張
(1) 争点(1)(砂嚢による圧迫と肺血栓塞栓症との間の因果関係の有無)について
ア 原告の主張
(ア) 肺血栓塞栓症は,何らかの塞栓子(ほとんどが静脈血栓)が肺循環に侵入し,肺動脈を急激に閉塞することで,呼吸困難やショックといった急性右心不全の病態を呈する疾患である。
静脈血栓発生の要因は,大別すると,①静脈壁の損傷(手術や静脈カテーテルの実施,糖尿病等),②血流うっ帯(長期臥床,静脈の圧迫,エコノミークラス症候群,肥満等),③血液凝固能亢進に分類される。
(イ) Aは本件検査終了後である平成11年2月12日午後2時ころから翌13日午前6時40分ころまでの約17時間,通常の重量の2倍から4倍にあたる2㎏の砂嚢により右大腿部への圧迫が継続され,かつ,この間,一度として体位変換がなされなかったことで静脈内に血栓が発生し,同血栓が塞栓子となったものである(Aの身体のどの部分に塞栓子となった血栓が発生したか自然科学的証明はできないが,因果関係については高度の蓋然性が認められる。)。
すなわち,血栓の中核となる塞栓子の発生源は確率的に下肢の深部静脈か,骨盤腔静脈内血栓の可能性が高く,深部静脈血栓症発生例の半数以上は無症状である。砂嚢2㎏の押し下げる力により大腿静脈の血行は途絶し,下肢に動脈血が流入するので下肢はたちまちむくむが,Aの場合には血流うっ帯の症状はなかったので,臀筋などの小静脈枝の拡張により骨盤内静脈網に静脈の還流が存在したと見られる。しかし,その還流により静脈枝内に血流速度の不均衡が生じると,血小板が活性化して血栓を生じるか,活性化された血小板が流れて下流の静脈内血栓を形成する危険が続き,約17時間体位変換をしなかったことが,その間,同じ部位で血流がうっ帯する機会をつくり,血小板活性化を増幅した可能性があり,砂嚢圧迫部に血栓ができたと思われる。つまり,大腿動脈穿刺後の止血処置としての長過ぎた安静と砂嚢による圧迫が血流のうっ帯を招いて骨盤腔静脈網内に二次血栓を形成してAの安静が解除された後の歩行により血栓の一部が塞栓子となって肺血栓塞栓症を発生したものと推測される。
(ウ) Aには,①血液凝固系に異常がなく,②腫瘍マーカーにも異常がなく,血液造影検査の結果でも悪性腫瘍と断定できる状態ではなく,③長期臥床といえるほどの臥床でもない。
(エ) なお,Aは,本件検査後,午後3時30分に点滴が終了してから輸液が実施されず,体動が制限され立ち上がれなかったため経口飲水量も不十分な状態にあった。Aは,午後7時の時点で800ml□の尿量であったが,翌朝午前8時30分の時点で1000ml□の尿量であり,13時間30分でわずか200ml□の尿量しかなかった(1時間あたりわずか15ml□)。このことから,明らかに循環血液量の減少が推認でき,医療機関である被告病院でエコノミークラス症候群を発生させたということができる。
(オ) さらに,被告病院ではA死亡後1か月も経過しない時点で砂嚢を廃止し,体位変換を積極的に実施している。このことも,被告病院医師,看護師らがAの肺血栓塞栓症が砂嚢による過度の圧迫と体位変換の不実施にあることを自覚しているが故に他ならない。
(カ) 以上によれば,本件肺塞栓症と被告病院医師,看護師らがした砂嚢2㎏を約17時間大腿部に置きその間一度も体位変換しなかった止血措置との間には因果関係がある。
イ 被告の主張
(ア) 仮に原告主張のように大腿部の砂嚢による長時間の圧迫と安静が肺血栓塞栓症を招いたものであるとすれば,大腿部の深部静脈血栓症(以下「DVT」ということがある。)に伴う下腿の疼痛,浮腫,紅斑や熱感等の何らかの臨床症状が認められるはずである。本件のように患者の死亡に至るような血栓が砂嚢による圧迫のされた大腿静脈に生じた場合,同部位では側副血行路が発達していないため,当然に下肢に血流うっ帯による臨床症状が出るはずである。他方,腸骨静脈にDVTが生じた場合には,同部位には側副血行路が発達しているため,上記のような臨床症状が出にくい。
(イ) 本件では,以下のとおり,本件検査終了後に帰室してから翌朝の安静解除後までの間(平成11年2月12日午後2時10分から同月13日午前10時5分までの間),頻回にわたって被告病院の看護師やC医師がAの下肢の状態を触診等により確認したが,DVTに特徴的な下腿の疼痛,浮腫,紅斑または熱感等は一切認められなかった。このことは,Aに生じたDVTが大腿静脈ではなく,腸骨静脈に生じたことを示すものである(同月13日午前10時5分には,C医師が亡Aの下腿を触知しているが,両下肢とも左右差なく正常所見であり,かつ,左足背動脈も良好に触知されていた。したがって,本件では,亡Aの大腿部にDVTが生じたとは考えられない。)。
12日午後2時10分ころ E看護師(以下「E看護師」という。)
午後3時30分ころ E看護師
午後4時ころ E看護師
C医師
午後7時ころ F看護師(以下「F看護師」という。)
午後9時ころ F看護師
午後10時30分ころ F看護師
13日午前0時ころ F看護師
午前1時30分ころ G看護師(以下「G看護師」という。)
午前3時ころ G看護師
午前6時40分ころ G看護師
午前8時 G看護師
午前10時5分ころ C医師
(ウ) したがって,原告の大腿部の砂嚢による長時間の圧迫と安静が本件肺塞栓症を招いたものであるとの主張は,何ら根拠のない推測に過ぎず,Aの臨床症状にも合致せず,到底高度の蓋然性を有するものではない。
(エ) 左腸骨静脈は,その位置から動脈の圧迫を受けやすく,したがって血栓が生じやすい部位であり,上記のAの臨床症状に照らせば,砂嚢の圧迫とは直接関係なく,検査後の安静を経た離床が引き金となって同部位に生じたDVTが肺血栓塞栓症を招いたというのが最も蓋然性が高いものと解される。
(2) 争点(2)(被告病院医師・看護師らに止血の処置に関して注意義務違反があったか否か)について
ア 原告の主張
(ア) 本件肺塞栓症発生以前の医学文献(甲3ないし甲5,甲11)を総合すると,血管造影検査後の圧迫止血は6時間程度とすべきであること,砂嚢を使用する場合,その重さは1㎏程度とすべきものであるとされ,過度の圧迫により血栓が生じ肺塞栓症に罹患し得ることが警告されていた。また,本件肺塞栓症発生以前の看護師向け医学文献(甲6,甲10)には,砂嚢は1㎏で3ないし6時間で撤去する旨の記載があった。
(イ) 被告病院内科病棟では,当初砂嚢を2㎏とすることを除き,上記(ア)と同様の内容で砂嚢を撤去していたが,被告病院外科病棟では,明確な取決めはなく,一応2㎏を就寝前,1㎏を安静解除時までとしていたとされている。
(ウ) 本件検査後の管理責任者であるC医師は,過度の圧迫が肺塞栓症の原因となることを知っており,上記外科病棟の砂嚢の重さと圧迫時間は単なる慣習で,同医師自身は,砂嚢は不要でこれを置くことに疑問を持っていた。
本件検査を実施したD医師は,外科が内科より長めに砂嚢を置くこと(被告病院内で統一されていなかった。)を知っていたが,本件では特に砂嚢について指示をせず,「いつものとおり」とした。同医師は,砂嚢は6時間くらいが妥当性があると認識していた。
本件検査後,放射線科看護師から引継ぎを受けたE看護師は,放射線科看護師から「病棟で決められている時間でよい」と引継ぎを受けた。
準夜勤であったF看護師は,砂嚢の除去について確認をせず,砂嚢について失念し,何らの処置もとらず,体位交換をすることもせず深夜勤に何ら申し送りをしなかった。
深夜勤のG看護師は,平成11年2月13日午前3時ころ,Aの大腿に砂嚢が2㎏置かれていることを知ったが同時点ではこれを除去せず,同日午前6時40分ころ,ようやく砂嚢が置かれていることに気付いて砂嚢を除去したが,これをC医師に報告しなかった。
(エ) 結局,Aは本件検査後,2㎏の砂嚢を約17時間置かれたまま,全く体位交換されなかったが,この砂嚢の放置は,被告病院の内科病棟,外科病棟の取決めに反するものであった。
(オ) 鑑定意見書(甲7,甲25)は,いずれも被告病院医師らの怠慢による長期圧迫により血栓を形成してAが死亡するに至ったことを肯認し,鑑定も,本件で被告病院内科病棟の砂嚢についてのマニュアルが使用され実施されていれば,Aの死亡は避けられた可能性があるとし,被告病院の横の情報伝達に不備があったとして,被告病院医師,看護師らの怠慢を指摘する。
(カ) 以上の事実によれば,C医師及びD医師において,本件検査後の止血処置としての砂嚢の圧迫が過度にわたる場合は肺塞栓症を発症し得ることについて予見可能であったもので,注意義務を尽くしていれば本件の結果を回避できたものであり,看護師らも,砂嚢の圧迫により肺塞栓症を発症し得ることについて予見義務があったもので,看護師らも注意義務を尽くしていれば本件の結果を回避できた。
具体的には,①C医師ら被告病院外科医師,看護師らにおいて,適切な砂嚢による圧迫処置に関する取決めをしてこれを実施すべきであるのにこれを怠ったこと,②D医師は,自らが妥当と考えていた内科病棟の取決めに従った指示をすべきところ,外科病棟が内科病棟より過度に圧迫すること認識しながら,漫然と「いつものとおり」と指示をし過度の圧迫となる外科病棟での止血処置を実施させたこと,③F看護師は,砂嚢について失念し,外科病棟の取決めも実施せず,深夜勤に砂嚢の引継ぎをしなかったこと,④G看護師は,午前3時に砂嚢が置かれていることに気付いたのにこれを除去せず放置して外科病棟の取決めさえも逸脱したこと,以上のとおり,①の注意義務が尽くされていれば本件の結果は回避できたし,②の義務が尽くされていれば,本件の結果が回避できた蓋然性が極めて高く,③,④の注意義務が尽くされていれば,本件の結果の発生に至らなかった可能性を否定できない。
イ 被告の主張
(ア) 前記(1)のイで主張したように左腸骨静脈にDVTが生じ肺血栓塞栓症で患者が死亡するような事態を被告病院医師及び看護師が予見することは不可能である。なぜなら,Aには血液凝固能の異常等はなく,肺血栓塞栓症のハイリスク因子である①過去の肺血栓塞栓症の既往,②明らかなDVT,③骨盤骨折,④産婦人科領域の疾患,⑤先天的な酵素欠損症,以上のハイリスク因子は一切認められていなかったから,本件検査前に血栓を生じやすい体質であることを被告病院医師らが知ることはできないところ,肺血栓塞栓症の発症頻度は極めて低く(平成8年の全国調査によれば,100万人当たり年間28人),到底医師及び看護師らにおいてAが本件肺塞栓症を発症するなど思いもよらないからである。
(イ) 原告主張のように大腿部の砂嚢による長時間の圧迫と安静が肺血栓塞栓症を招いたのだとしても,長時間砂嚢を置くことでそのような因果の流れが生じることを被告病院医師及び看護師が予見することは不可能である。すなわち,現在までの間,砂嚢が原因で大腿静脈部に血栓ができるとの症例報告を行っている文献はなく,砂嚢をどの程度の時間置くと血栓が生じやすくなるとの文献もない。他方,動脈の止血が不十分な場合,皮下出血,浮腫,動脈瘤による後遺症が生じる恐れがあり,再出血による出血性のショック等の生命の危険もあり,止血をないがしろにはできない。このため,本件事故当時,止血のための圧迫時間をどうするかについては,共通した明確なガイドラインはなく,各病院の自主的な判断に任されていたのが実情であり,本件事故後4年を経た現在も全く変わっていない。
したがって,本件事故当時,砂嚢を置くことが大腿静脈部に血栓を生ぜしめ,肺血栓塞栓症を招くなどという見解は一般的であったとは言えず,どの程度の時間砂嚢を置くかについては各病院に委ねられていたのである。
(ウ) 被告病院外科では,砂嚢を置く時間について明確な取決めはなく,個々の患者によって異なってはいたものの,原則として就寝まで2㎏,翌朝まで1㎏の砂嚢を置くことにしていた。
本件では,翌朝まで2㎏の砂嚢のままであったが,このことを過失と捉えることは妥当ではない。なぜなら,上記(イ)のとおり砂嚢を長く置くことによって大腿静脈部に血栓が生じて肺血栓塞栓症を招くなどという見解はなく,砂嚢の扱いについては各病院の裁量に委ねられていたのであるから,2㎏の砂嚢を翌朝まで置くことによってAが肺血栓塞栓症に罹患するなどということを被告病院医師及び看護師が予見することは不可能であったからである。
(エ) よって,原告主張のとおり因果関係があったとしても,被告病院医師や看護師に過失がないことが明らかである。
なお,被告病院では本件事故後,砂嚢を使用しない方針をとることにした。これは,本件事故を踏まえて,問題となり得る要因をできる限り取り除くことによって事故を未然に防ぎたいとの意図に基づくものであって,決して原告の主張する因果関係を認めた趣旨ではない。
(3) 争点(3)(原告の損害)について
ア 原告の主張
(ア) 慰謝料 2300万円
Aは死亡当時43歳の女性であり,前記のとおり被告病院は本件事故後直ちに砂嚢を廃止し,体位変換を積極的に実施しているが,この処置を本件事故前に実施していれば本件事故は防止できたものであり,このような事実を考慮すれば慰謝料としては2300万円は最低限のものである。
(イ) 葬儀費用 120万円
葬儀費用として相当な額である。
(ウ) 逸失利益 7067万4009円
Aは死亡当時43歳であり,死亡前年の平成10年には853万6127円の収入があった。よって,逸失利益は,次のとおり,7067万4009円である。
853万6127円×0.6(生活費控除)×13.799(ライプニッツ係数)=7067万4009円(小数点以下切捨)
(エ) 弁護士費用 900万円
原告は,上記(ア)ないし(ウ)の合計9487万4009円の約1割にあたる900万円を弁護士報酬として支払う旨約した。
(オ) 損害額合計 1億0387万4009円
原告の損害は,上記(ア)ないし(エ)の合計1億0387万4009円である。
(カ) よって,原告は,被告に対し,不法行為(民法715条)に基づき,損害賠償として1億0387万4009円及び不法行為の後である平成11年2月19日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。
イ 被告の主張
原告の損害は,いずれも不知。
前記のとおり,肺血栓塞栓症の発症頻度は極めて低く(平成8年の全国調査によれば,100万人当たり年間28人),血管造影検査をした患者の内でも特定の要因を持った患者にのみ生じていることが明らかであり,具体的にどのような要因を持った患者において発症しやすいか不明であるため,抜本的な予防ができない。そのため,Aに生じた全損害を医療側である被告が負担するというのは公平でなく,医療側に過重な負担を強いることになる。
したがって,被告病院に責任があるとしても,公平の観点から,いわゆる素因減額を行い,賠償額の減額を行うことが妥当である。
第3当裁判所の判断
1 医学的知見
(1) 腹部血管造影検査と検査後の措置
証拠(甲3ないし甲6,甲8ないし甲11,甲26)によれば,本件検査当時(平成11年)における腹部血管造影検査と検査後の措置に関する医学的知見は以下のとおりである。
ア 検査の目的
血管造影検査は,①血管の狭窄・閉塞や腫瘤性病変が臓器のどの部分に存在するか(病変の局在診断),②血流の遅速・量,新生血管の有無,動静脈短絡など病変の血行動態から見てどのような疾患か(病変の機能的・質的診断),③病変部と正常部の血管支配はどこに起源しているか(血管解剖の描出)などを知る目的で行われ,この③は外科手術において極めて重要な情報となる。検査の所要時間は1ないし2時間である。
イ 検査の内容
(ア) 総論
血管造影検査は,血管内にカテーテルを挿入し,目的臓器の近くの血管へそれを誘導し,ヨード造影剤を注入して連続撮影を行う。穿刺血管は,通常は大腿動脈である。以前は腹部大動脈など目的血管に直接針を穿刺する方法も行われていたが,現在は経皮的血管内カテーテル挿入法(セルジンガー法)にてカテーテルを用いる方法が大勢を占めている。
カテーテルの太さは,目的とする臓器や注入する造影剤の流量により変わり,また目的とする血管のカーブや分岐角度・方向に合わせてその先端には様々な形がある。
造影剤は,一般には注入に伴う疼痛や灼熱感が低減された非イオン性水溶性ヨード造影剤が使用され,連続撮影等の撮影方法を行う。
なお,検査前に検査の内容とこれによって得られるメリットや副障害や合併症が起こりうることを説明し,検査をすることについて患者の同意を得る。
(イ) 検査の手技
血管造影検査の手技は以下の順序で行われる。すなわち,①血管の穿刺,②カテーテル挿入,③目的血管への選択的カテーテル誘導,④造影剤注入と撮影,⑤カテーテル抜去である(上記①ないし③の詳細は,以下のとおりである。まず,ⅰ血管を穿刺し〔貫通させる。〕,ⅱ内套針を抜き,外套針から血液の噴出があるまで徐々に引き戻し,ⅲガイドワイヤーを外套針内に挿入し,ⅳ穿刺部指で圧迫し,外套針を抜き,ⅴシース又はカテーテルをガイドワイヤーにかぶせて血管内に進め,ⅵガイドワイヤーを抜き去り,シース又はカテーテルのみ血管に挿入された状態となり,以後,シースを通して任意の形のカテーテルを導入する。)。
(ウ) 検査中の管理
使用する薬剤,施行する血管造影手技から,以下の副障害(合併症)が発症する可能性がある。すなわち,造影剤によるアレルギー反応,血管損傷,血栓・塞栓,皮下血腫,感染,カテーテル損傷,片麻痺,意識障害等である。
これらの合併症対応のために,検査の際は酸素,気道確保用器具,昇圧剤等を用意しておく。
ウ 検査後の管理
(ア) カテーテル抜去とその後の止血
穿刺部のやや上方で大腿動脈の拍動を触れながらカテーテルを抜去し,抜去と同時に強く3本の指で圧迫する。5分ほど経った時点でやや力を弱め,多少血流を感じる程度に押さえる。さらに5分ほど経ったら,人差し指だけで軽く数分押さえる。その後,ゆっくり指をはずし,出血のないのを確認し,消毒液で消毒の上,無菌テープあるいは滅菌ガーゼを貼り,適当な大きさの枕子を当てて圧迫包帯する(15ないし20分圧迫した後,手をゆっくり離し,血腫や出血がないかどうかを1,2分観察した後,消毒,圧迫帯の措置をとる。)
(イ) 穿刺部の圧迫方法・圧迫時間及び砂嚢の重さ等に関する文献等
a 圧迫包帯は強すぎないようにする。3ないし6時間,0.5ないし1㎏程度の砂嚢を載せ,ベッド上安静は12ないし24時間とし,抗生物質を投与する。安静解除の際に,まれに強すぎる圧迫により静脈に形成された血栓が肺塞栓を起こす可能性もあるので注意する。(以上,甲5〔平成5年6月発行〕)
b 血管造影検査後には早期離床を心がけるべきである。肺血栓塞栓症の具体的予防策として,血管造影検査・治療を上腕穿刺法で行ったり,カテーテルサイズを細くし圧迫止血時間の短縮(5ないし6時間)を計ることが有用である。また,ハイリスク群には,禁忌でない限り少量ヘパリン(200単位/時間)の持続点滴で成果を上げているとの報告もある。(以上,甲3〔平成5年7月発行〕)
c 長時間穿刺部の圧迫が行われ,翌朝患者がトイレに立った時に圧迫部の大腿静脈内に形成されていた血栓が剥離し肺塞栓症が起こることがある。したがって,穿刺部の圧迫は原則として6時間を超えないこととし,翌朝まで持ち越さないように注意すべきである。(以上,甲4〔平成9年発行〕)
d 検査後は,翌日の朝までベッド上安静で,経時的に観察を行い,バイタルサインを測定する。検査終了後3時間は仰臥位の安静とする。穿刺部位には砂嚢1㎏を3時間載せる。(以上,甲6〔平成4年10月発行〕)
e 大きな圧迫帯は出血の有無を分かりにくくしたり,血腫の増大を発見するのを遅らせる可能性があり,大きな圧迫帯や砂嚢は必ずしも必要ではない。カテーテル及びシースのサイズに応じて穿刺後は6ないし8時間の床上安静が必要である。細いカテーテル(5F〔フレンチサイズ〕)使用の場合は,より短時間(4時間未満)の安静でもよい。また,安静時に患者に与えられる指示は以下のものである。すなわち,①頭を低くしておくこと,②咳嗽時鼠径部を押さえること,③穿刺した足は伸ばしておくこと,④ベッド上にいること,⑤水分を取ること,⑥出血や胸痛があるときは看護師を呼ぶことである。(以上,甲8〔平成8年2月発行〕)
f 日本ではほとんどの施設でガーゼ等を堅く丸めて米俵を作り(最近ではこのような製品が売られている。)動脈穿刺部の直上に置いて弾性テープや圧迫帯で固定している。しかし,必要性の根拠は乏しく,米国の血管造影教科書には術後措置で圧迫固定の記載がない。また,米国では,1977年に圧迫固定は意味がないとの論文が出ており,むしろ圧迫固定は穿刺部の観察を困難にし出血の発見が遅れる弊害があると指摘している。もっとも,冠動脈狭窄病変に対するカテーテルによる再開通治療では圧迫固定は最近でもいまだに行われている。腹部血管造影検査において,筆者は,現在,5Fで出血傾向がなければ,3時間はフラットで絶対安静,これを過ぎたらある程度の頭側挙上(30°位)と介助付きのローリング許可,トータル8時間のベッド上安静を指示している。(以上,甲9〔平成11年10月発行〕)
g 大腿動脈穿刺部に束ねたガーゼを置き,その上を圧迫帯が交差するように覆う。圧迫帯は腸骨稜が支点となるようにする。圧迫が強すぎると動脈及び併走する大腿静脈の狭窄や血栓を招く。圧迫持続時間は,用いたカテーテルの太さ,血液凝固系の異常の有無,術中ヘパリン使用量などにより一定していない。しかし,最近は細くとも十分な流量が得られるカテーテルを使用するため血管損傷が少なく,そのため圧迫時間,安静時間が少なくてすむようになった。6F以上のカテーテルを使用した場合は6時間の圧迫と12時間位の安静臥床が必要である。しかし,5F以下のカテーテルでは必ずしも圧迫は必要ではなく,6時間程度の安静でよい。強固な圧迫は血管の狭窄と血栓形成をもたらす。その結果,①下肢末梢循環の障害,②圧迫除去時に静脈内血栓の遊離による肺塞栓を生ずる可能性がある。病棟に帰室後,以下の点,すなわち,穿刺部皮下血腫,穿刺部末梢の血行,足背動脈・後脛骨動脈の脈拍触知,皮膚冷感・色調・疼痛,血圧,脈拍,呼吸,体温,嘔気等の局所的,全身的チェック項目について1時間毎に3回,以後4時間毎に5回観察する。(以上,甲11〔平成8年7月発行〕)
(2) 肺血栓塞栓症と大腿部の深部静脈血栓症(DVT)
証拠(甲3,甲12ないし甲22,甲26,甲27,乙4ないし乙7,乙9ないし乙12)によれば,本件検査当時における肺血栓塞栓症と大腿部の深部静脈血栓症(DVT)に関する医学的知見は以下のとおりである。
ア 肺血栓塞栓症の病態と発生頻度
(ア) 肺血栓塞栓症の病態
肺血栓塞栓症(急性肺血栓塞栓症,PTE,PE)とは,深部静脈に形成された血栓等何らかの塞栓子が肺循環に侵入し,肺動脈を急激に閉塞することで,呼吸困難やショック等の急性右心不全の病態を呈する重篤な疾患である。その重要な発生要因は,後記の深部静脈血栓症(DVT)である(DVTが臨床上有意な肺血栓塞栓症の90%以上といわれている。)
肺動脈の閉塞の程度により,ほとんど無症状又は一過性の呼吸困難程度の症状しか見られない軽症例から,両側の主肺動脈や肺動脈主幹部が完全に閉塞することにより,失神やショックさらには死に至る重症例まで,種々の程度の症例が存在することが知られている。
発症早期の死亡率が高く(発症後1時間以内に約10%が,発症後24時間以内に32%が死亡したという報告がある。),病院内突然死のうちでも,最も見逃されやすい疾患の一つである。死後に初めて本症と診断されることも多く,早期診断,早期治療が難しい疾患である。
外科・整形外科・産婦人科手術後や血管造影検査後にベッドから起きあがった直後あるいはトイレなどに移動したときに胸痛,呼吸困難などを訴え,ショック状態になる(このようなときには,常に肺血栓塞栓症を念頭に置いて診断する必要がある。)。
(イ) 肺血栓塞栓症の発生頻度
米国では,急性肺血栓塞栓症の発生数は年間50万ないし60万人といわれ,再発例を含むとそのうち10万ないし15万人が死亡するといわれている。日本での発生頻度は米国の約50分の1ではないかと推測する報告があり,また,米国では人口100万人あたり約3000人の発生頻度であり,日本では人口100万人あたり28人の発生頻度であるとの報告(1996年の全国調査)がある。しかし,日本においても,1965年に比較すると1986年では3倍強まで増加したとの報告もあり,肺血栓塞栓症の発症が食事・栄養状態・環境などに左右されることを意味している。
イ 肺血栓塞栓症の診断
(ア) 臨床症状
臨床症状としては,呼吸困難,胸痛・胸膜痛が高い率で認められ,咳鳴,咳嗽,痰,血痰,動悸,失神・意識レベルの低下,冷汗,胸内苦悶,不安感,下肢疼痛などが認められる症例も多い。
(イ) 臨床所見
頻脈,ショック・低血圧,多呼吸(頻呼吸),右心不全,頸静脈怒張などが高い率で認められる。
(ウ) 背景因子
背景因子としては,225例中,心疾患97例,長期臥床45例,術後39例,血栓性静脈炎35例,悪性腫瘍32例,血管造影検査後19例,慢性肺疾患17例,ステロイド剤投与中14例,下肢骨折12例,その他,肥満,腎疾患及び血液疾患などが知られている。
(エ) 診断の際の注意点
性差なくあらゆる年齢で発症し得る疾病であるので,その診断は,まず本症を想起することから始まる。
上記のような背景因子を有する患者が,突然,呼吸困難や胸痛を訴えたり,失神したりした場合には,頻脈,多呼吸,ショック及び頸静脈怒張の有無を確認し,動脈血で低二酸化炭素かつ低酸素血症が確認されれば,本症である可能性が高くなる。さらに,心電図でV1~3のT波陰転,ST上昇と洞頻脈が,心エコー図で右室,右房拡大,三尖弁閉鎖不全が認められれば,ほぼ本症であると診断できる。胸部X線写真では,肺血管影の減弱,肺動脈主幹部及び右下行枝の拡大,右室及び右房の拡大が参考となる。
確定診断には,肺血流シンチが多用され,肺野の血流欠損をもって,本症と診断できる。肺動脈造影で,肺動脈途絶及び血栓像の状態並びに肺動脈圧の上昇を確認できる。また,胸部のCT造影は,肺動脈本幹,左右主肺静脈内の血栓を描出できるのみならず,合併症の有無を確認するためにも有用である。
ウ 肺血栓塞栓症の治療
(ア) 内科的治療法
塞栓が広範囲であるほど予後が悪いので,可及的早期に治療を開始する必要がある。治療は,塞栓の原因となった血栓に対する抗凝固,血栓溶解療法と急性右心室負荷,呼吸循環管理が中心となる。
抗凝固剤としては,ヘパリンが,血栓溶解薬としては,ウロキナーゼや組織プラスミノーゲンアクチベータ(t-PA)が用いられる。低酸素血症の是正には,酸素吸入を行うが,効果が不十分な場合には,気管内挿管,調節呼吸を行う必要がある。ショックに対しては,カテコラミン製剤で対処する。
(イ) 外科的治療法
内科的治療によっても症状の改善が得られない場合には,肺動脈血栓摘除術を考慮する必要がある。
エ 深部静脈血栓症(DVT)
(ア) はじめに
肺血栓塞栓症の主要原因の一つであるDVTは,わが国では発生頻度が低く,これに併発する肺血栓塞栓症も極めて少ないとされてきた。しかし最近では,静脈系における血栓症の診断症例数は増加する傾向にある。
なお,有症状の約50%が肺血栓塞栓症であり,逆に有症状の肺血栓塞栓症の約70%に有症状の静脈血栓が指摘されている。臨床上有意な肺血栓塞栓症の95%以上が,下肢のDVTが原因であるといわれているが,DVTの検出率は臨床的にも病理解剖的にも必ずしも高くない。致死性急性肺血栓塞栓症14例について調べた結果,臨床的にDVTが検出された頻度は29%〔4例〕であり,病理解剖を行っても50%〔7例〕の検出頻度であったとの報告がある。また,婦人科悪性腫瘍の手術症例382例を対象に,術後DVTの自然発生率を予測的に検討した結果,63例(16%)にDVTを認めたが,このうち他覚的所見を有した症例は15例(上記DVTの約24%)に過ぎず,肺血栓塞栓症を発症した5例のうち,4例は,DVTを認めないか,下腿に限定したDVTと診断されたとの報告もある(これは本件検査後の平成13年4月刊行の文献である。)。
したがって,DVTが検出されないからといって安心できない。
(イ) 発生原因
一般外科,整形外科あるいは婦人科領域での手術後などで長期臥床している患者に特に多く,また脳血管障害や血液疾患患者などに比較的多く合併することが指摘されている。いずれもVirchow3徴のうちのいずれか,あるいはその複合によって発生するものと解釈するのが妥当である。
a 血流障害
血栓症の発生原因の一つとして血流の変化が挙げられ,うっ血性心不全や長期臥床など全身性の静脈還流異常によるものと,外傷や腫瘍による圧迫又は妊娠時などの局所的な静脈還流異常によるものがある。左総腸骨静脈は,その下大静脈流入角度が鈍角で,右腸骨動脈と交差する部位で解剖学的に外圧を受けて狭窄することからDVTの好発部位である。
b 血管壁障害
外傷や炎症により生ずる静脈内膜の変化は血栓形成の原因となる。膠原病やBehcet病などの血管炎に見られるDVTは多発し難治性であることが多い。最近では医療技術の進歩により,静脈内留置カテーテルに関連した医原性DVTも増加している。
c 血液凝固線溶系異常
脱水やショックなどに見られる血液濃縮は血栓形成の要因となり得る。
また,手術侵襲による凝固系の亢進及び線溶系の低下は,長時間の術後安静臥床と相まってDVTの要因となる。肺血栓塞栓症も含めて術後DVTに遭遇する機会が増加している。血液凝固線溶系異常を伴うDVTはしばしば広範囲で多発し,肺血栓塞栓症や重篤な血栓後遺症を呈することがあるので,詳細な血液検査などを施行して原因を同定するなどの必要がある。
(ウ) 発生部位
最も頻度が高く,急性肺血栓塞栓症の危険が高いのは,腸骨・大腿静脈であり,広範になるほど重篤となる。下腿静脈血栓(静脈血栓の90%はこれである。)は,ヒラメ筋の静脈に始まり,無症状で経過することも多いが,時に中枢側へ進展し肺血栓塞栓症の原因となることもある。
一般に急性肺血栓塞栓症と静脈系血栓症との関係では,局所に血栓性静脈炎を起こさないサイレントなものほど急性肺血栓塞栓症を起こしやすいこと(血栓が飛びやすいこと)が知られている。
(エ) 診断
DVTの臨床症状は,その急性期には患肢の腫脹・浮腫あるいは運動時疼痛,皮膚色調の変化などであり,高度の腫脹から動脈血行障害を併発するものは重症である。
しかし,静脈血栓症はほとんどの症例で炎症が見られない(血栓性静脈炎とはいいにくい。)。臨床的にはヒラメ筋内の小さな血栓は,たとえ大きな血栓が腸骨・大腿静脈にあっても通常無症状である。肺血栓塞栓症を起こして初めてDVTが分かることがある。DVT発症例の半数以上が無症状であるとの臨床結果も,本件検査後である平成12年発行の文献で報告されている。
オ エコノミークラス症候群
エコノミークラス症候群とは,飛行機の座席から立ち上がって歩き始めたとたんに胸が苦しくなって倒れてしまう病気で,エコノミークラス以外の座席に座っていても,その他の列車やバスでも同様な病気が起きるので旅行者血栓症とも呼ばれる。
エコノミークラス症候群は,太股の付け根や膝の裏側の血流が抑えられて,足の静脈にできた血栓(DVT)が,立ち上がって歩き始めたときに血流に乗って肺に流れ着き,そこで血管を詰まらせてしまい呼吸ができなくなって死に至る病気である。
この原因は,砂漠のように湿度20%以下で1時間に80ml□,12時間で約1ml□の水分が失われる機内環境にあり,身体の水分が失われて血液の粘り気が増し,血栓ができやすくなり,しかも狭い座席に同じ姿勢で座り続けているためである。心臓は比較的広いのでこの血栓が詰まることはないが,これが肺まで流れて肺血管を詰まらせる。
この予防には,こまめに水分(できればイオン飲料)を補給すること及び足の運動を1時間毎に3ないし5分程度続けると効果があると言われている。
2 Aが肺血栓塞栓症に基づく肺梗塞で死亡するまでの経緯等前提事実及び証拠(略)並びに弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
(1) Aの被告病院入院の経緯
A(昭和30年11月26日生,当時42歳)は,平成10年10月2日,Hの健診(人間ドック)を受けた際,腎臓に腫瘍らしきものが発見され,同年10月23日,被告病院内科を受診し,同年11月6日,被告病院内科において精密検査を受けた。精密検査の結果,Aの腎臓は左腎血管筋脂肪腫であると診断され経過観察となったが,同検査の際に膵臓に腫瘍が発見された。
同年12月1日から平成11年1月18日にかけて行われたCT,MRI,ERCP(内視鏡的逆行性胆道膵管造影)等の検査では,膵腫瘍が悪性か良性か不明であるとされ,同月26日,AはD医師から被告病院外科を紹介された。
同年1月27日,Aは,被告病院外科のC医師の診察を受けた。その腫瘍マーカー検査では正常値(ガンの疑いがないことを意味しない。)であったが,C医師から膵体尾部を切除して膵腫瘍を摘出するよう勧められ,膵腫瘍摘出術に先立って,膵臓の血管走行を確認し,腫瘍周辺に血管浸潤がないかどうかを調べるために腹部血管造影検査をすることも説明された。このとき,Aの血液凝固系の検査もしたが,正常と診断された(出血しやすいとか血栓ができやすい等はない。)。
Aは,勧めに従って同年2月10日に被告病院に入院し,膵腫瘍摘出手術を受けることとした。
平成11年2月10日,Aは,被告病院外科病棟に入院した。
同月11日,C医師は,膵腫瘍摘出術に先立って,腹部血管造影検査をしなければならないことを再度説明し,同造影検査は同月12日に施行されることとなった。
(2) 本件検査の施行
ア 平成11年2月12日午後1時ころから,被告病院内科のD医師が,Aに対して,腹部血管造影検査(本件検査)を実施し,本件検査は,同日午後1時35分ころ,終了した(被告病院では,血管造影検査は内科が担当することになっていた。なお,検査後の看護は外科が担当する。)。
Aの受けた本件検査は,右大腿動脈鼠径部を穿刺してカテーテル(5Fのシースを使用した。)を挿入し,造影剤を放出して血管造影をするものであり,左腎動脈,上腸間膜動脈,腹腔動脈,脾臓動脈の造影検査をした。本件検査後,穿刺した右大腿動脈の止血処置がなされた。D医師が止血点を確認後,助手のI医師が人差し指と中指の2本で約15分圧迫止血を行い,同日午後2時ころ,止血が確認され,消毒後,直径約3㎝,幅5㎝の止血綿を置き,弾力テープ3本3方向に強く貼った後,その上(右大腿部の穿刺部付近)に重さ1kgの砂嚢(10㎝×15㎝で高さ約2㎝のもの)2つ合計2㎏を重ねて置き,翌朝まで床上での安静が指示された。砂嚢は,Aの意識をその部分に集中させ,安静にさせる目的で置かれるものであり(砂嚢自体は固定されない。),その置かれている間,右足の股関節はもとより膝関節も全く動かせない。
イ 被告病院内科病棟では,平成5年ころから,5Fのシースを使用するようになり,砂嚢を置く時間等について,当初砂嚢2㎏を3時間,その後1㎏を3時間,合計6時間置き,これを撤去する取扱いであった。
他方,被告病院外科病棟では,明確な取決めはなく,一応2㎏を就寝前(消灯の午後9時)まで,1㎏を安静解除時(翌朝回診時)までとする取扱い例であった。
本件検査を実施した内科医であるD医師は,上記のとおり砂嚢の重さやこれを置く時間が被告病院内で統一されていなかったことや外科が内科より長めに砂嚢を置くことを知っており,しかも,同医師自身は,砂嚢を置く時間は6時間くらいが妥当性があると認識していたが,Aが外科病棟に入院していたため,本件検査後,特に砂嚢を置く時間等について放射線科の看護師に指示をせず,「いつものとおり」とした。
なお,本件検査実施の指示をし,本件検査の管理責任者であるというべきC医師は,当時,上記外科病棟の砂嚢の重さと圧迫時間は単なる慣習で,同医師自身は,止血のためには圧迫テープだけで十分であり,穿刺部以外も圧迫する砂嚢を置くことは不要であると考えており,この方法に疑問を持っていた。
(3) 本件検査後帰室後の経過
ア 平成11年2月12日午後2時10分,Aは,外科病棟に帰室した。
本件検査後に放射線科看護師から引継ぎを受けた外科病棟のE看護師は,放射線科看護師から「病棟で決められている時間でよい」と砂嚢について引継ぎを受け,Aの気分が不快でないことを確認し,また砂嚢を持ち上げ,圧迫テープの上から穿刺部を見て,両足背動脈を触知し良好なのを確認したが,両下肢末梢にやや冷感があった(チアノーゼはなし)。
なお,E看護師は,同日,日勤(午前8時30分から午後5時15分まで勤務)であった。
イ 同日午後3時30分ころ,E看護師は,Aの気分が不快でないことを確認し,また,砂嚢を持ち上げ,圧迫テープの上から穿刺部を見て,両足背動脈を触知し良好なのを確認した。Aの両下肢末梢の冷感は軽減していた(チアノーゼはなし)。同時刻ころ,Aの点滴が終了し,点滴針が抜かれ,その後はAに輸液はなされていない。
Aが尿意を訴えたので,便器を挿入したが排尿はなく,腹部膨満が顕著であった。
ウ 同日午後4時ころ,E看護師は,Aの排尿が見られず腹部が膨満していたため,フォーリーカテーテルを挿入した結果,尿700ml□流出した。
同日午後4時過ぎころ,C医師は,原告及びAに対して本件検査上,問題がないことや2月15日に予定されている手術の内容及び入院期間は3週間程度,予想される退院時期の健康状態は,「退院後,今まで通りの生活ができると考えられる」旨の説明をし,Aは手術の同意をし,同月15日に膵体尾部切除手術を受けることになった。そして,その後,C医師は,Aの下腿の診察をし,疼痛や浮腫,紅斑,熱感がなく,足背動脈も良好に触知左右差もないことを確認した。
E看護師は,その勤務中,Aの体位を変換しなかった。E看護師は,準夜勤(午後4時30分から翌朝午前1時15分まで勤務)の外科病棟看護師であるF看護師に対し,Aが予定どおり本件検査を終えて帰室したこと,フォーレを挿入して排尿させたことなどを申し送ったが,砂嚢については何の申し送りもしなかった。
エ F看護師は,E看護師から上記のとおり砂嚢について特段申し送りを受けなかったが,砂嚢の除去の時間等について,E看護師に確認せず,またカルテも確認せず,C医師にも確認しなかった。
同日午後5時30分ころ,F看護師は,Aの気分が不快でないことを確認したが,穿刺部を見たり,足背動脈を触知することはしなかった。
同日午後7時ころ,Aから「穿刺部のズキズキする痛みがあるが,まだ痛み止めはいらない。下肢のしびれはない。」と聞き,砂嚢を少しずらして穿刺部を見て異常がないことを確認し,また,足背動脈を触知できることを確認した。尿総量は800ml□であった。
同日午後8時ころ,Aにボルタレン座薬(痛み止め)50㎎が挿入された。F看護師は,このときAの下肢の状態は見なかった。
オ 同日午後9時ころ及び同月13日午前0時ころ,F看護師は,Aが入眠中であることを確認した。なお,F看護師は,Aの砂嚢の除去について気が回らず,これについて何らの処置もとらず,Aの体位交換を一度もしなかった。
F看護師は,深夜勤(午前0時30分から午前9時15分までの勤務)のG看護師に対し,Aについて,本件検査を受けたこと,日勤帯でフォーレを挿入されたこと,腰の痛みがあって座薬を挿入されたことを申し送ったが,砂嚢について何らの申し送りもしなかった。
カ G看護師は,同日午前1時30分の巡回時にAの足背動脈を触知し良好であることを確認した。
G看護師は,同日午前3時の巡回時にAの穿刺部を見て,また,足背動脈を触知し良好であることを確認した。G看護師は,このとき砂嚢に気付いたが,特段の措置は取らなかった。
同日午前6時40分ころ,G看護師は,Aから「腰が痛くてあまり眠れなかった」と聞き,外科での砂嚢の存置時間を知らなかったが,1年ほど前(平成9年末)までいた被告病院小児科では消灯時に砂嚢を除去していたため,このまま砂嚢を置いておくのは長いし,Aを楽にしてやりたいと思い,砂嚢を除去し,Aの体の向きを変えた。
したがって,Aの右大腿部に重さ2㎏の砂嚢が,前日の午後2時ころから約16時間40分間置かれていたことになり,この間,Aは一度も体位変換をされなかったことになる。
このとき,G看護師は,Aの足背動脈を触知が良好なことと冷感がないことを確認したが,砂嚢をこの時点で除去したことをC医師に報告しなかった。
G看護師は,同日午前8時ころ,Aの下肢の状態等を確認したが,異常はなかった。その後,G看護師は,日勤の看護師に対し,Aについて,本件検査を受けたこと,フォーレを挿入されたこと,準夜勤帯で腰の痛みがあって座薬を挿入されたこと,午前6時40分に砂嚢を除去したことを申し送りした。
キ 同日午前8時30分ころ,日勤の看護師は,Aから「朝食は後で食べる」と聞き,腰痛があるが,足のしびれはないこと,足背動脈の触知ができることを確認した。尿総量は,1000ml□であった。
ク 同日午前10時5分ころ,C医師は,朝の回診でAの病室を訪れ,圧迫テープを剥がし,止血綿を除去し,穿刺部を消毒し,出血や血腫のないことを確認した。また,C医師は,Aの下腿を診察し,疼痛や浮腫,紅斑,熱感がなく,足背動脈も良好に触知左右差もないことを確認した上,Aの安静の解除を指示した(血管造影検査後の止血のための圧迫テープを外すのは,通常,翌朝の回診時とされていた。)。その後,Aは,フォーレを抜去され,しばらく座位でいることを指示される等検査終了後約20時間振りに初めて起きることを許された。
(4) Aの意識喪失から死亡に至る経緯
同月13日午前10時30分ころ,Aは,トイレに行く途中,被告病院内の配膳室前で意識を失い倒れ,同日午前10時32分,Aが呼吸反応なく,瞳孔散大,各反射がなく,チアノーゼ状態で倒れているところを発見された。直ちに気管内挿管をし,同日午前10時50分には心臓停止となったため,心マッサージ,カウンターショック,強心剤投与の措置が施された。
C医師は,安静臥床後の心肺停止症状から肺血栓塞栓症を疑い,同日,施行された心エコー検査では血栓は見つからなかったが,右室の負荷(拡大)が認められ,施行された血管造影検査により左肺動脈の根幹から抹消にかけて血栓があることが確認され,肺血栓塞栓症と確定診断された。
同日午後2時30分から午後4時15分にかけて,肺動脈内を閉塞している血栓を溶解するために,ウロキナーゼ(血栓溶解剤)合計144万単位が左肺動脈内に選択的に注入され,同血栓はほぼ融解し,同日午後9時45分ころ,ショック状態は一応改善された。
同日午後6時ころ,C医師は,原告らAの家族に対し,現在までの結果,血栓は,血管造影後,安静臥床したために形成したと考えられること,及び,血管造影後の圧迫により血栓が形成されたと考えられるが,動脈塞栓と違い,術前の予測は不能である旨を話した。
しかし,Aは,肺動脈内の血栓溶解前に呼吸停止及び心停止があり,意識が回復することもなく,脳浮腫となり,また肺血栓塞栓のために肺梗塞を起こし,血圧も徐々に低下し,同月19日午後2時35分,死亡するにいたった。
(5) A死亡後の被告病院の砂嚢存置時間等の変更
被告病院では,A死亡後1か月も経過しない平成11年3月中旬ころから,出血傾向のある患者を除いて砂嚢自体を原則廃止し,血管造影検査後の患者の体位変換を積極的に実施している。
3 争点(1)(砂嚢による圧迫と本件肺塞栓症との間の因果関係の有無)について
(1) 前記1の(1)で認定したことを総合すると,医学的知見は以下のとおりであると認められる。すなわち,まず,血管造影検査終了後の穿刺部の圧迫方法・圧迫時間及び砂嚢の重さ等については,強すぎる圧迫により静脈に形成された血栓が肺塞栓を起こす可能性もあるので,圧迫包帯は強すぎないようにし,3ないし6時間(穿刺部の圧迫は原則として6時間を超えないし,翌朝まで持ち越さない),1ないし2㎏程度の砂嚢(0.5㎏との文献もある。)を載せ,ベッド上安静は12ないし24時間(翌日の朝までベッド上安静とか,6ないし8時間の床上安静でよいとする文献もある。)とすること,大きな圧迫帯は出血の有無を分かりにくくしたり,血腫の増大を発見するのを遅らせる可能性があるので大きな圧迫帯や砂嚢は必ずしも必要ではないとか,5Fのシースやカテーテル使用の場合は,より短時間(4時間ないし6時間程度)の安静でもよいとか,3時間はフラットで絶対安静でよいとの文献もあること,さらには圧迫自体不要であるとの文献もあること,次に,肺血栓塞栓症(急性肺血栓塞栓症,PTE,PE)は,深部静脈に形成された血栓等が肺循環に進入し,肺動脈を急激に閉塞することで,呼吸困難やショック等の急性右心不全の病態を呈する重篤な疾患であること,発症早期の死亡率が高く,早期診断,早期治療が難しい疾患であり,手術後や血管造影検査後にベッドから起きあがった直後あるいはトイレなどに移動したときに胸痛,呼吸困難などを訴え,ショック状態になり肺血栓塞栓症が判明することもあること,肺血栓塞栓症の重要な発生要因は深部静脈血栓症(DVT)であること,肺血栓塞栓症の日本での発生頻度は米国の約50分の1とか,人口100万人あたり28人の発生頻度であるとかの報告があるが,肺血栓塞栓症の発症が食事・栄養状態・環境などに左右され,1965年に比較すると1986年では3倍強まで増加したと報告されていること,肺血栓塞栓症の背景因子としては,心疾患,長期臥床,術後,血栓性静脈炎,悪性腫瘍,血管造影検査後,慢性肺疾患,ステロイド剤投与中,下肢骨折等が知られているが,性差なくあらゆる年齢で発症し得る疾病であるので,上記のような背景因子を有する患者が,突然,呼吸困難や胸痛を訴えたり,失神したりした場合には,本症である可能性が高いこと,また,肺血栓塞栓症の主要原因の一つであるDVTは,わが国では発生頻度が低いといわれてきたが,最近では,静脈系における血栓症の診断症例数は増加する傾向にあり,有症状のDVT検出率は臨床的にも病理解剖的にも必ずしも高くないこと,DVTの発生原因は,①血流障害(うっ血性心不全や長期臥床など全身性の静脈還流異常によるものと,外傷や腫瘍による圧迫又は妊娠時などの局所的な静脈還流異常によるものがあり,左腸骨静脈は,解剖学的にDVTの好発部位である。),②外傷や炎症により生ずる静脈内膜の血管壁障害,③血液凝固線溶系異常(脱水やショックなどに見られる血液濃縮は血栓形成の要因となり得る。また,手術侵襲による凝固系の亢進及び線溶系の低下は,長時間の術後安静臥床と相まってDVTの要因となる。),DVTの発生部位は,最も頻度が高く,急性肺血栓塞栓症の危険が高いのは,腸骨・大腿静脈であり,下腿静脈血栓(静脈血栓の90%はこれである。)は,無症状で経過することも多いが,時に中枢側へ進展し肺血栓塞栓症の原因となることもあり,一般に急性肺血栓塞栓症と静脈系血栓症との関係では,局所に血栓性静脈炎を起こさないサイレントなものほど急性肺血栓塞栓症を起こしやすいことが知られていること,したがって,DVTの臨床症状は,その急性期には患肢の腫脹・浮腫あるいは運動時疼痛,皮膚色調の変化などであるが,臨床的にはDVT発症例の半数以上が無症状であると報告されていること,以上が認められる。
そして,前記2のAが肺血栓塞栓症に基づく肺梗塞で死亡するまでの経緯等によれば,Aは本件検査終了後である平成11年2月12日午後2時ころから翌13日午前6時40分ころまでの約16時間40分の間,通常の3倍ないし4倍の長時間にわたって2㎏の砂嚢が置かれ,しかも,この長時間にわたる砂嚢の存置は,被告病院の当時の通常の取扱い例に反するものであったこと,すなわち,被告病院内科病棟の当時の取扱いである,当初砂嚢2㎏を3時間,その後1㎏を3時間,合計6時間との取扱いはもとより,被告病院外科病棟での通常の取扱いである,一応2㎏を就寝前(消灯の午後9時)まで,1㎏を安静解除時(翌朝回診時)までとする取扱い例に反する異常に長時間の砂嚢存置であり,置かれた砂嚢の重量も,上記医学的知見からすると,最も重めの2㎏の砂嚢であり,結局,Aの右大腿部に砂嚢2㎏が,数回の看護師による穿刺部の確認の際に一時外すないしずらした以外は,約16時間40分の長時間,継続して存置され,かつ,この間,一度たりとも体位変換がなされずずっとAの右大腿部へ置かれたままであったこと,以上が認められる。
上記認定事実によれば,本件検査後の極めて長時間にわたる砂嚢の存置とこれに基づく長時間にわたる同一体位の保持によりAの静脈内の血流がうっ帯し,静脈内に血栓が発生し(砂嚢の存置とこれに基づく長時間にわたる同一体位の保持によりDVTが発症した。),同血栓が塞栓子となって本件肺塞栓症を発症したものと推認することができる。換言すれば,被告病院における砂嚢による圧迫止血行為と本件肺塞栓症との間には因果関係があると認定すべきである。
(2) ところで,被告は,「大腿部の砂嚢による長時間の圧迫と安静が肺血栓塞栓症を招いたものであるとすれば,大腿部のDVTに伴う下腿の疼痛,浮腫,紅斑や熱感等の何らかの臨床症状が認められるはずであり,本件のように患者の死亡に至るような血栓が砂嚢による圧迫された大腿静脈に生じた場合,同部位では側副血行路が発達していないため,当然に下肢に血流うっ帯による臨床症状が出るはずである。本件では,本件検査終了後に帰室してから翌朝の安静解除後までの間,頻回にわたって被告病院の看護師やC医師がAの下肢の状態を触診等により確認したが,DVTに特徴的な下腿の疼痛,浮腫,紅斑または熱感等は一切認められなかった。このことは,Aに生じたDVTが大腿静脈ではなく,上記のような臨床症状が出にくい腸骨静脈に生じたDVTであることを示すものである。」と主張する。
しかし,上記医学的知見及び鑑定によれば,肺血栓塞栓症の主要原因の一つである深部静脈血栓症(DVT)は,有症状のものは臨床的にも病理解剖的にも必ずしも高くなく,DVTの急性期には患肢の腫脹・浮腫あるいは運動時疼痛,皮膚色調の変化などがあるが,臨床的にはDVT発症例の半数以上が無症状であると報告されていること,それほど頻度は高くないが下腿静脈血栓は,無症状で経過することも多く,時に中枢側へ進展し肺血栓塞栓症の原因となることもあり,一般に急性肺血栓塞栓症と静脈系血栓症との関係では,局所に血栓性静脈炎を起こさないサイレントなものほど急性肺血栓塞栓症を起こしやすいことが知られていることが認められる。
この医学的知見及び鑑定の結果並びにAの上記臨床症状を総合すれば,Aの場合には下肢の血流うっ帯の症状は認められなかったが,Aの右大腿静脈もしくは骨盤腔静脈網内にDVTが発生し,これがAの安静が解除された後の歩行により血栓の一部が塞栓子となって血流によって肺動脈を急激に塞栓したものと認定すべきであり,上記被告の主張は理由がないと言わざるを得ない(鑑定によれば,Aの下肢の細い静脈に血流停滞が起こると,刺激された血小板が下流である骨盤内静脈網・下大動脈・右心房・右心室に流れて,肺動脈に達すると,肺動脈幹がT字型に左右肺動脈に分かれる分岐部に発生する乱流・渦流により再度凝集能が刺激されて急速に巨大血栓を形成する可能性もあることが認められる。)。
上記認定のとおり,Aには①血液凝固系に異常がなく,②腫瘍マーカーにも異常がなく,血液造影検査の結果でも悪性腫瘍と断定できる状態ではなく,③長期臥床といえるほどの臥床でもないことは,上記の認定を補強するものと認められる。
また,上記認定事実によれば,Aは,本件検査後,平成11年2月12日午後3時30分に点滴が終了してから輸液が実施されず,同日午後7時の時点で800ml□の尿総量であったが,翌朝午前8時30分の時点で1000ml□の尿総量であり,13時間30分の間に200ml□の尿量しかなく(1時間あたりわずか15ml□),Aは脱水傾向にあったものと認められ,このことも砂嚢の存置と体位不変換による長時間の下肢の血流うっ帯に加えてDVTを発症させる要因となったものと推認される。
さらに,被告病院ではA死亡後約1か月経過後の時点で砂嚢を原則廃止し,体位変換を積極的に実施しているが,このことも,被告病院では,Aが本件肺塞栓症を発症した原因が砂嚢による過度の圧迫等と体位変換の不実施にあることを認識していることを推測させる事実である。
(3) 以上認定説示したとおり,本件肺塞栓症と被告病院医師,看護師らがした砂嚢2㎏を約17時間大腿部に置きその間一度も体位変換しなかった止血措置との間には因果関係があると認められる。
4 争点(2)(被告病院医師・看護師らに止血の処置に関して注意義務違反があったか否か)について
医学的知見については,上記1の(1)及び3の(1)で認定説示したとおりであり,被告病院内科病棟では,当初砂嚢を2㎏とすることを除き,当時,一般的になされていたのと同様の内容で砂嚢を撤去していたが,被告病院外科病棟では,明確な取決めはなく,一応2㎏を就寝前(午後9時まで),1㎏を安静解除時(翌朝回診時)までとしていたこと,本件検査を実施した内科医であるD医師は,上記のとおり砂嚢の重さやこれを置く時間が被告病院内で統一されていなかったことや外科が内科より長めに砂嚢を置くことを知っており,しかも,同医師自身は,砂嚢を置く時間は6時間くらいが妥当性があると認識していたが,本件検査後,特に砂嚢を置く時間等について放射線科の看護師に指示をせず,「いつものとおり」としたこと,また,本件検査実施の指示をし,本件検査の管理責任者であるというべきC医師は,当時,上記外科病棟の砂嚢の重さと圧迫時間は単なる慣習で,同医師自身は,止血のためには圧迫テープだけで十分であり,穿刺部以外も圧迫する砂嚢を置くことは不要であると考えており,従前の方法に疑問を持っていたが,平成11年2月12日午後4時過ぎころ,Aの下腿の診察をし,疼痛や浮腫,紅斑,熱感がなく,足背動脈も良好に触知左右差もないことを確認したのみで,看護師に砂嚢の除去時期等について何の指示もしなかったこと,本件検査後,放射線科看護師から引継ぎを受けたE看護師(午前8時30分から午後5時15分までの勤務)は,放射線科看護師から「病棟で決められている時間でよい」と引継ぎを受け,Aの気分や砂嚢を持ち上げて圧迫テープの上から穿刺部を見たり両足背動脈を触知して良好なのを確認したりしたが,その勤務中,Aの体位を一度も変換せず,準夜勤(午後4時30分から翌朝午前1時15分まで勤務)のF看護師に対し,砂嚢については何の申し送りもしなかったこと,また,F看護師は,E看護師から上記のとおり砂嚢について申し送りを受けなかったが,砂嚢の除去についてE看護師に確認せず,カルテも確認せず,砂嚢存置時間等についてC医師にも確認せず,Aの気分や砂嚢を持ち上げて圧迫テープの上から穿刺部を見たり両足背動脈を触知して良好なのを確認したりしたのみで,その勤務中,Aの体位を一度も変換せず,砂嚢を除去することもせず,砂嚢について失念し,深夜勤(午前0時30分から午前9時15分までの勤務)のG看護師に対し,砂嚢について何らの申し送りもしなかったこと,さらに,G看護師は,巡回時にAの足背動脈を触知し良好であることを確認し,同月13日午前3時の巡回時にはAの穿刺部を見た際に砂嚢が存置されていることに気付き,1年ほど前までいた被告病院小児科では消灯時に砂嚢を除去していたことを知っていたのに,足背動脈を触知し良好であることを確認したのみで特段の措置は取らず,同日午前6時40分ころ,Aから腰が痛くてあまり眠れなかったことを聞いて,始めてこのまま砂嚢を置いておくのは長いし,Aを楽にしてやりたいと思い,砂嚢を除去し,Aの体の向きを変え,Aの足背動脈の触知が良好なことと冷感がないことを確認した上で,G看護師は,日勤(午前8時30分から午後5時15分までの勤務)の看護師に対し,午前6時40分にAの砂嚢を除去したことを申し送りしたが,砂嚢をこの時点で除去したことをC医師に報告しなかったこと,同日午前10時5分ころ,C医師は,朝の回診でAの病室を訪れ,圧迫テープを剥がし,止血綿を除去するなどし,穿刺部に出血や血腫のないことを確認し,またAの下腿を診察し,疼痛や浮腫,紅斑,熱感がなく,足背動脈も良好に触知左右差もないことを確認した上でAの安静の解除を指示し,Aにしばらく座位でいることを指示したが,A本人や看護師に対して何時砂嚢が除去されたかを全く確認しなかったこと,以上が認められる。
以上の認定事実と鑑定によれば,本件では被告病院内科もしくは外科病棟の砂嚢についての従前の取扱い例が実施されていれば,本件肺塞栓症の発症を回避でき,Aの死亡は避けられた可能性が高いと認められる。すなわち,C医師及びD医師において,本件検査後の止血処置としての砂嚢の圧迫が過度にわたる場合は肺塞栓症を発症し得ることについて予見可能であったもので,それぞれが医師としての注意義務を十分尽くしていれば本件の結果を回避できたものであり(C医師は,血栓発生の危険性を考慮してヘパリン等の投与をするなどの処置をした上で安静を解除したはずである。),また,看護師らも,砂嚢の圧迫により肺塞栓症を発症し得ることについて予見義務があったもので,看護師らもそれぞれが担当看護師としての注意義務を十分尽くしていれば,Aの死亡は避けられた可能性が高いと認められる。換言すると,本件では被告病院内の横及び縦の情報伝達に不備があったと言わざるを得ず,本件は,被告病院医師及び看護師らの注意義務違反があったため惹起された医療事故であると言わざるを得ない(鑑定によれば,2㎏の砂嚢の圧は,収縮期動脈内圧の10分の1以下であって動脈の血流を低下させる力はないから,足背動脈の拍動は正常に保たれ,下肢の血行が正常であったのは当然と認められ,C医師や看護師らが,Aの足背動脈を触知して左右差がないことなどを確認したからと言って,その注意義務が尽くされたと認定することはできない。)。
この点についての被告病院医師や看護師らに過失がないとの被告主張は,上記認定の医学的知見を総合すると,理由があるとは到底言えない。
5 争点(3)(原告の損害〔素因減額をするのが妥当か等〕)について
(1) 慰謝料 1500万円
Aは死亡当時43歳の女性であり,前記のとおり被告病院医師及び看護師らの過失の態様その他本件に顕れた一切の事情を考慮すれば,慰謝料は1500万円とするのが相当である。
(2) 葬儀費用 120万円
葬儀費用としては,120万円が相当である。
(3) 逸失利益 7067万1961円
Aは死亡当時43歳であり,証拠(甲2)によれば,死亡前年の平成10年度の給与収入は,853万6127円であったことが認められる。労働能力喪失期間を24年間とし,年5分の割合による中間利息をライプニッツ方式(係数は13.7986である。)で控除すると,原告の逸失利益は,次のとおり7067万1961円となる。 853万6127円×0.6(生活費控除)×13.7986=7067万1961円(小数点以下切捨)
(4) 弁護士費用 850万円
原告が,本件訴えの提起,遂行を弁護士である原告訴訟代理人に委任したことは本件記録上明らかであるところ,本件事案の難度,認容額等の事情を考慮すると,上記(1)ないし(3)の合計8687万1961円の約1割である850万円を本件の不法行為と相当因果関係のあるものとして被告に負担させるのが相当である。
(5) そして,これらの損害は,被告病院医師及び看護師らが被告病院の事業の執行について行った不法行為により生じたものであるから,被告は,原告に対し,以上の合計9537万1961円及びこれに対する不法行為後である平成11年2月19日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。
(6) ところで,被告は,「肺血栓塞栓症の発症頻度は極めて低く,血管造影検査をした患者の内でも特定の要因を持った患者にのみ生じていることが明らかであり,具体的にどのような要因を持った患者において発症しやすいか不明であるため,抜本的な予防ができないから,Aに生じた全損害を医療側である被告が負担するというのは公平でなく,被告病院に責任があるとしても,公平の観点から,いわゆる素因減額を行い,賠償額の減額を行うことが妥当である。」と主張する。
しかし,特定の要因を持った患者にのみ肺血栓塞栓症が発症しているとの証拠はなく,また,Aが肺血栓塞栓症に罹患しやすい素質があったとの証拠もないから,被告の上記主張はその前提において失当である。
したがって,本件において,素因減額に準じて賠償額の減額を行うことは相当ではない。
第4結論
以上の次第で,原告の本訴請求は,主文第1項の限度で理由があるから,この範囲で認容し,その余は理由がないからこれを棄却することととし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 片野悟好 裁判官 太田武聖 裁判官 佐藤康憲)
<編注:『□』部分は原文のとおり。>