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新潟地方裁判所 平成14年(ワ)26号 判決 2005年2月25日

原告

A野花子

他4名

原告ら訴訟代理人弁護士

鈴木俊

被告

医療法人 B山会

同代表者理事長

C川松夫

同訴訟代理人弁護士

伴昭彦

三部正歳

主文

一  被告は、原告A野花子に対し金五四五一万二七二四円、原告A野一郎及び原告A野二郎に対しそれぞれ金二七三〇万六三六二円、原告A野竹夫に対し金三八五万円、原告A野梅子に対し金二二〇万円及びこれらの金員に対する平成一三年四月二〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを九分し、その二を原告らの負担とし、その余は被告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

(1)  被告は、原告A野花子に対し金六七六九万九〇一二円、原告A野一郎及び原告A野二郎に対しそれぞれ金三三七九万九五〇六円、原告A野竹夫に対し金八五二万七六〇〇円、原告A野梅子に対し金五五〇万円、並びに、これらの金員に対する平成一三年四月二〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2)  訴訟費用は被告の負担とする。

(3)  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

(1)  原告らの請求をいずれも棄却する。

(2)  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二事案の概要

本件は、頭痛・発熱を訴えて、平成一三年四月一二日に被告が設置・運営するE田病院(以下「被告病院」という。)に入院したが、その後、国立療養所西新潟中央病院(以下「西新潟中央病院」という。)に転送され、同月二〇日に死亡したA野太郎(昭和四〇年二月一五日生、以下「太郎」という。)の配偶者、子、父または母である原告らが、太郎が死亡した原因は、被告病院D原春夫医師(以下「D原医師」という。)またはC川松夫医師(同病院院長、以下「C川医師」という。)が、髄膜脳炎(ヘルペス脳炎を含む。)を鑑別するためのMRI検査・脳波検査等を実施し、また、確定診断を待たずに直ちに抗ウイルス剤(アシクロビル〔ゾビラックス〕)を投与すべき注意義務を怠った過失などにあると主張して、被告に対し、不法行為(民法七一五条)に基づく損害賠償として、逸失利益、慰謝料、葬儀費用及び弁護士費用の合計一億四九三二万五六二四円並びに平成一三年四月二〇日(太郎が死亡した日)から支払済みまでの民法所定の遅延損害金の支払を求める事案である。

一  前提事実(末尾に証拠等の引用がない事実は、当事者間に争いがない。)

(1)  当事者

ア 原告等

太郎(昭和四〇年二月一五日生)は、平成一三年四月一二日から被告病院に入院していたが、同月一九日に西新潟中央病院に転送され、同月二〇日、同病院において、死亡した(死亡当時三六歳)。

原告A野花子(以下「原告花子」という。)は太郎の妻、同A野一郎(以下「原告一郎」という。)及びA野二郎(以下「原告二郎」という。)は太郎の子、同A野竹夫(以下「原告竹夫」という。)及びA野梅子(以下「原告梅子」という。)は太郎の父または母である。

イ 被告

被告は、被告病院を設置・運営する医療法人であり、同病院において稼働していたD原医師の使用者である。

C川医師は、被告の代表者であり、被告病院の院長である。

(2)  被告病院における診療経過

ア 平成一三年四月一〇日

太郎は、頭痛・発熱を主訴として、被告病院を受診した。

診察にあたったD原医師は、風邪と診断した。

イ 同年四月一一日

太郎は、頭痛・発熱が継続したため、被告病院を受診した。太郎は、血液検査のための採血を受けた。

ウ 同年四月一二日

太郎は、頭痛・発熱が持続したため、被告病院を受診したところ、髄膜炎を疑われ、被告病院に入院した。

入院時の体温は三九・二度であり、血液検査では白血球(WBC)が一〇(千/ul)以上に上昇し、CRPは〇・二五以下(正常値)であった。頭部CT検査では、正常または脳浮腫(±)という所見であった。

髄液検査のためにルンバール(腰椎穿刺による髄液採取)が実施され、その結果は下記のとおりであったが、髄液圧は初圧が二八〇mmH2Oであり、髄液圧が上昇していた。

(ア) 細胞数 二四八

(イ) 蛋白(TP) 一三六mg/dl

(ウ) 糖(BS) 五六mg/dl

(エ) 髄液中に赤血球の存在を認める(報告がなされたのは同年四月一三日)。

(オ) 髄液中に細菌を認めない(報告がなされたのは同年四月一四日)。

エ 同年四月一三日

太郎は、発熱(三九度以上)があり、頭痛が持続していた。

D原医師は、頭痛・発熱に対してボルタレン(鎮痛・解熱薬)を投与し(以後、発熱に対してはボルタレンを投与するよう指示した。)、抗生物質を投与した。

オ 同年四月一四日

太郎は、発熱(三九度弱)・頭痛が継続していた。

D原医師は、太郎を無菌性髄膜炎と診断した。

カ 同年四月一五日

太郎は、発熱(四〇度弱)、頭痛が持続していた。また、排尿困難となったため、尿カテーテルを挿入された。

キ 同年四月一六日

太郎は、発熱(四〇度弱)・頭痛が持続していた。

血液検査の結果、白血球が五・三(千/ul)に低下していた。

ク 同年四月一七日

太郎は、発熱(三九度以上)・頭痛が持続していた。

ケ 同年四月一八日

太郎は、発熱(三八度以上)・頭痛が持続していた。

D原医師がルンバールを実施しようとしたが、筋硬直のため実施できなかった。

D原医師及び被告病院看護師は、太郎の意識障害(意識朦朧)を確認したが、これを治療のために投与した抗生物質によるものと考え、抗生物質を変更した。

コ 同年四月一九日

太郎は、発熱(三八度以上)・頭痛が持続していた。

太郎は、午前七時三〇分ころ、血圧が上昇し、意識が混濁して対光反射がない状態であった。血液検査の結果、白血球は一四・〇(千/ul)に上昇していた。

太郎は、午後〇時三〇分ころ、西新潟中央病院に転送された。

(3)  西新潟中央病院における診療経過

太郎は、同年四月一九日、西新潟中央病院で髄液検査を受けたが、その結果は、細胞数が六四〇(正常値五以下)、蛋白定量(TP)は一九六mg/dl(正常値は一五ないし三〇以下)、糖定量(BS)が四一mg/dl(正常値血糖値の〇・五ないし〇・八倍)、キサントクロミーが+であった。

同病院の菊川公紀医師(以下「菊川医師」という。)は、無菌性髄膜脳炎を疑って、アシクロビル等を投与したが、太郎は痙攣等が続いて無呼吸となり、同年四月二〇日午前八時二九分に死亡した。

死因は髄膜脳炎であったが、病理解剖が実施されなかったため、髄膜脳炎の原因は不明であると診断された。

二  争点

(1)  D原及びC川医師の過失の存否

髄膜脳炎を鑑別するためのMRI検査・脳波検査等を実施し、確定診断を待たずに直ちに抗ウイルス剤(アシクロビル)を投与すべき注意義務、または、太郎を髄膜脳炎(ヘルペス脳炎を含む)に対する検査・治療が可能な医療機関に転送すべき注意義務を怠った過失が認められるか否か。

(2)  D原医師及びC川医師の過失と損害との因果関係

ア 太郎の死因が単純ヘルペス脳炎であると認められるか否か。

イ 原告らが主張する検査・治療等により、損害の発生を回避することができたと認められるか否か。

(3)  損害額

三  争点に関する当事者の主張

(1)  争点(1)(過失の有無)について

ア 原告らの主張

(ア) 排尿障害が確認された時点(平成一三年四月一五日)において、検査・治療等を怠った過失

a 看護記録上、同年四月一四日午前六時には、「オシッコ出ない」という記載があり、太郎は、このころから尿が出ないと訴えていた。

同月一五日午前四時三〇分には、排尿障害のため導尿がなされ、同日午前一一時一五分にも導尿がなされた後、同日午後二時五〇分ころ、フォーレが残置された。

b 太郎が少なくとも髄膜炎に罹患していたことは明らかであるが、これに合併して生じた排尿障害は、脳局在症候の一つである。

排尿障害は、無菌性髄膜炎によって起きる症状ではないから、これを確認したD原医師としては、排尿障害が脳局在症候の一つではないかと疑うべきものであって、排尿障害の原因が他に存在するか鑑別する必要があったところ、同医師は、排尿障害の原因について全く考慮せず、これが脳局在症候の一つであることに気づかなかった。髄膜炎と髄膜脳炎との鑑別は極めて重要であり、少しでも脳実質病変を疑わせる脳局在症候があれば、髄膜脳炎(単純ヘルペス脳炎)として、アシクロビルを投与すべきものとされているから、太郎に脳炎を少しでも疑わせる症状が存在するか否かを厳重に観察・鑑別していくことが殊更に重要であり、これを怠り、上記のような症状を見落としたことについて、D原医師に過失があることは明らかである。

c 太郎は、髄液検査の結果、髄膜炎とされていたが、同所見は、髄膜脳炎とも重なる所見である。したがって、これを根拠に、脳炎ではないとか、脳炎に進展する可能性がないなどと断定する根拠はどこにもなく、その後の症状の進行等を厳重に監視することが強く要求されるのである。

感染性疾患の場合、頭部CT、頭部MRI及び脳波検査は入院時の必須検査とはされていないものの、可能な限り早急に行うべき検査とされているが、これは、脳炎(単純ヘルペス脳炎を含む。)を見落とさないようにするためであるということができる(単純ヘルペス脳炎であれば、アシクロビルを投与することによって劇的に予後を改善することができる。)。

そうすると、髄膜炎であると考えられた場合でも、脳波検査・頭部MRI検査を必要としているのであるから、脳局在症候の一つである排尿障害が認められ、かつ、髄液検査で出血を否定できない赤血球が確認された同年四月一五日の段階において(髄液中の赤血球は、その後の経過から、脳内の出血ではないとして説明可能であるとされているが、少なくとも同日の時点においては、脳内出血を否定する客観的根拠は何も存在しない。)、脳炎ではないかと疑い、直ちにアシクロビルの投与を開始するとともに、鑑別診断のために頭部MRI検査及び脳波検査を当然に実施しなければならないものであった。

d この点について、鑑定では、被告病院が市井の一般医の水準であることを前提として、排尿障害を脳局在症候と考えることは一般の医師としてはレベルが高すぎるとか、排尿障害が初発で単純ヘルペス脳炎を疑うことは普通でないなどとして、D原医師の過失を問うことは酷であるかのような記載が見られるが、鑑定人自身の総説論文である甲二三等の当時の医療水準に従えば、少しでも脳局在症候が出現すれば、髄膜脳炎を疑うべきであったことは明らかである。排尿障害と単純ヘルペス脳炎を直ちに結び付けることが困難であるとしても、髄膜脳炎を疑うべきであったことは明らかであり、新潟市内の総合病院の内科に勤務し、当時、A田大学医学部付属病院から派遣されていたD原医師にその程度の知見を期待することは、少しも酷ではない。

また、鑑定によれば、排尿障害を初発とする疾患としてADEM(急性散在性脳脊髄炎)があるとされているが、同疾患も、排尿障害の原因について鑑別が必要であると考えれば、専門医でなくても文献により容易に辿り着ける疾患であることは、甲二三からも明らかである。

なお、被告は、単純ヘルペス脳炎という特定の疾患に全て結びつけて、同疾患を予見することはできなかったとか、単純ヘルペス脳炎に特異な症状はなかったと弁解するようであるが、問題は、髄膜炎か髄膜脳炎かの鑑別であり、少しでも脳炎の疑いがあれば、確定診断されなくても、直ちにアシクロビルが投与され、その後確定診断されていくものなのであるから、単純ヘルペス脳炎のみを取り上げて過失の有無を論じるのは失当である。

e 髄膜炎との繋がりでいくと、排尿障害は神経障害の可能性も視野に入れながら検査・治療を考えるべきものであって、D原医師が、排尿障害を確認しながら、同症状の原因がわからなかったのであれば、神経内科の医師や泌尿器科の医師に相談すべきであった(被告病院には泌尿器科も開設されており、同科の医師に相談することは容易であった。)。

また、これが被告病院内でできなかったのであれば、転送義務があったものである。

f 本件当時の医療水準に照らせば、ウイルス性髄膜炎として経過観察中に、脳実質病変を疑わせる徴候が少しでも出現すれば、直ちに髄膜脳炎と考えて、アシクロビルの投与を開始し、鑑別診断のための脳波検査及び頭部MRI検査等を速やかに実施すべきところ、本件では、排尿障害という脳実質病変を疑わせる徴候が存したのに、D原医師は、このような治療・検査を怠ったのであるから、医療水準を逸脱した過失が存在するのである。

(イ) 痙攣が確認された時点(平成一三年四月一七日)において、検査・治療等を怠った過失

a 太郎は、同年四月一九日に西新潟中央病院に転送されて診察を受けた際に、入院時から、意識障害と眼球、顔面及び上肢を主体として、痙攣が認められていた。

鑑定によれば、太郎の死因は急性髄膜脳炎とそれによるてんかん重積状態であるとされ、てんかん重積状態がコントロール不能であるときは、それ自体も直接の死因となるとされている。

このような鑑定からすると、抗ウイルス薬の投与に加えて、抗痙攣薬投与による痙攣のコントロールも救命のために極めて重要な措置であったことは明らかである。また、痙攣は髄膜脳炎の徴候であるから、これが認められただけでも、抗ウイルス薬の投与が必要である。

b 上記のとおり、太郎には、同年四月一九日の時点で痙攣が認められていたが、以下のとおり、被告病院に入院していた同年四月一七日においても、痙攣様の症状が持続的に発生していた。

すなわち、甲四の九頁(西新潟中央病院の医師記録)には「眼球を上転させ、顔面筋をピクピクさせる発作が頻発。妻の話では、一昨日から出現しているらしい。(中略)痙攣と関連している可能性が高い」と記載され、乙二の五六頁の同年四月一七日午後三時四〇分の欄には、振戦があったとの記載があり、さらに、原告花子の供述では、同年四月一八日の朝になると、太郎はずっと寝ており、瞼をピクピクさせていたとされる。乙二の五八頁の同年四月一九日午前三時の欄には瞼に震えありとの記載があり、乙二の五九頁の同日午前五時三〇分の欄には眼球やや挙上気味という記載がある。

c D原医師の過失

髄膜炎として経過観察中に、意識障害、脳局在症候及び痙攣などの症状・所見があれば、髄膜脳炎と考えて、直ちに抗ウイルス剤を投与すべきとされていることは、既に縷々指摘しているとおりである。

排尿障害の他に、同年四月一七日ころから痙攣様の症状が発症していた本件においては、抗ウイルス薬に加えて、痙攣コントロールのために抗痙攣薬が投与されるべきであったところ、D原医師は、太郎に生じていた脳炎の徴候を厳重に観察することを怠り、漫然と髄膜炎であるとして、これらの薬剤の投与を怠ったのであるから、その過失は明らかである。

d C川医師の過失

同年四月一六日から一七日にかけて、被告病院院長であり内科医であるC川医師も加わって、太郎に対する治療方針を検討したとされているが、そうであれば、排尿障害それ自体が既に出現していることから、C川医師においても、髄膜脳炎を疑ってそれまでの治療方針を変更して、直ちにアシクロビルの投与を開始し、鑑別のための脳波検査・頭部MRI検査を実施すべきであったところ、同医師も、本件当時の医療水準を逸脱して、これを放置したものであるから、同医師の過失も免れない。

さらに、C川医師は、太郎や原告花子に病状等を説明した同年四月一七日の時点においては、厳重な観察を実施していれば気づき得た痙攣徴候を見落としていたのであるから、その過失も免れない。

C川医師は、熱と頭痛が治らないことから、内科医全部で協議して抗生剤の変更を決めたとか、排尿障害も神経因性膀胱であろうと判断した旨証言しているが、そのような協議をした形跡は、本件医療記録上、一切存在しない。また、細菌性髄膜炎の徴候がない本件において、二次的な予防薬でしかない抗生物質を変更しても、症状改善に何の関係もないことは医学上明らかである。さらに、神経因性膀胱の原因としては、泌尿器科的原因の他に、脳病変や脊髄病変もあることは医学的常識であるから、鑑別診断することなく、髄膜脳炎ではないと断定することなどできるはずもない状態であった。

(ウ) 平成一三年四月一八日に意識障害が確認された後も、検査・治療等を怠った過失

a 鑑定のとおり、同年四月一八日の午後から意識障害が存在したことは明らかである(看護記録上、「反応ややにぶい」という記載があり、D原医師の原告花子に対する説明に関するやりとりの中で、意識障害の記載があることからD原医師も、これを認識していた。)。

したがって、遅くとも、意識障害が確認されたこの時点から、直ちに、抗ウイルス薬であるアシクロビルを投与すべきところ、D原医師はこれを怠ったのであるから、その過失は明らかである。

また、同日の頭部CTでは、脳浮腫が認められており、これに対する抗脳浮腫薬の投与が必要であるところ、これを実施しなかったことについても過失がある。

さらに、同年四月一七日ころからは、痙攣様の症状があったが、D原医師において、看護記録を確認するなど注意深く観察していれば、痙攣が生じていることに気づき得たものであり、これに対する抗痙攣薬の投与を怠ったことについても過失がある。

b 特に、同年四月一九日朝の段階では、眼球やや挙上気味となり、痙攣様症状や意識障害が誰の目にも明らかになっていたのであるから、これに対し、医師として、アシクロビルや抗痙攣薬を投与する等の処置を行うべき義務があるところ、被告病院医師らは、誰一人として、何らの措置もとらなかった。

看護記録には、転送が決定された旨の記載があるのみで、髄膜脳炎患者に対してなされるべき治療は一切行われていないし、D原医師が記載すべきカルテ欄には、同年四月一九日の記載が一切なく、診断、検査及び治療が完全に放棄されていたと評価する以外にない。

イ 被告の主張

(ア) ヘルペス脳炎を疑うべき時期について

a 本件においては、平成一三年四月一八日午後の意識障害出現より前の時点においては、太郎にヘルペス脳炎を疑わせるような所見は認められなかった。

(a) 髄液検査の結果

① 同年四月一二日の髄液検査では、髄液圧の上昇、細胞数の増多、蛋白定量の軽度増加が認められたが、これは髄膜炎にも共通する所見であって、これをもって脳炎を疑うべきことにはならない。

同年四月一九日の西新潟中央病院での髄膜検査の結果では、キサントクロミーが+となっているが、本件のように、蛋白定量が上昇している場合に、髄液が黄色みを帯びることはよくあることであって、これをもって脳内出血の証拠であるとすることはできない。

② また、髄液内に赤血球が少量認められているものの、鑑定においては、髄液が肉眼的に無色透明であること、同日に撮影された頭部CT上出血の所見がないこと等に照らせば、髄液に赤血球が混在していたことに診断的な意味はなく、一般に腰椎穿刺を行ったときに見られるものと考えて差し支えないとされている。

西新潟中央病院における同年四月一九日の髄液検査でも、髄液中に赤血球は認められていない。仮に、同月一二日の髄液検査で認められた赤血球がヘルペス脳炎を原因とする脳内出血によるものであったとすれば、症状がより重くなった同月一九日に採取された髄液中に赤血球が存在しないとは考えられない。腰椎穿刺の際に注射針内に入った血液が髄液標本に混じることは時々あることであり、本件においても、これをもってヘルペス脳炎と断定することはできない。

したがって、同年四月一二日の髄液検査において、髄液中に赤血球が認められるというヘルペス脳炎に特徴的な所見が存在したとする原告らの主張は明確に否定できる。

(b) 頭部CT所見

同年四月一二日の頭部CT所見は、脳室を含む髄液腔が「ややtightな印象」であったが、CT診断報告書には「normal or brain swelling(±)」とあるとおり、正常または脳浮腫があるかないか不明という程度の所見に過ぎず、これは脳炎を疑わせる所見とはいえない。

また、鑑定においては、上記CT画像について、むくみは±であり、脳炎を疑わせる所見はないと明確に答えられており、西新潟中央病院の医師も、上記頭部CTは必ずしも異常とはいえないと述べている。

したがって、上記頭部CT所見は、若干のむくみはあるものの、正常範囲内にあるといえ、直ちにヘルペス脳炎を疑わせるようなものではない(なお、ヘルペス脳炎以外の脳炎でも、頭部CT上の異常は認められるから、仮に頭部CT上異常があったとしても、ヘルペス脳炎と断定できるわけではない。)。

(c) 排尿障害

同年四月一五日の排尿困難が神経障害によるものであるか否かは不明である。神経因性膀胱等の神経障害を原因としない排尿障害の可能性も十分に存する。

鑑定においても、排尿障害の原因は脳炎に限られたものではないこと、特にヘルペス脳炎の場合は通常は大脳半球に脳炎を起こすので初期症状として排尿障害が生じることは普通はないこと(むしろ、脳が広範囲にやられて意識障害が起きた後に排尿障害が生じてくると考えられる。)等から、初発症状が排尿障害の場合には、ヘルペス脳炎を疑うことは普通はないとされている。

したがって、同年四月一五日の排尿障害がヘルペス脳炎を示唆する所見であるという原告らの主張は明確に否定できる。

(d) 臨床症状について

太郎は、平成一三年四月一二日の入院後、頭痛を訴えてはいたが、項部硬直は見られず、食事は自力で摂取していた。同年四月一八日の午後に意識障害の兆候が現れるまでは、意識障害を疑わせるような症状は認められなかった。

髄膜炎であっても、臨床症状として発熱や頭痛が起こりうるし、成人では強度の頭痛を訴えることも多いとされているから、発熱や頭痛が髄膜炎によるものであると考える余地は十分にあり、これをもってヘルペス脳炎を疑わせる所見とすることはできない。

鑑定においても、これらの症状をヘルペス脳炎を疑わせる所見としてはとらえていない。

b 鑑定において、同年四月一二日や同月一五日の時点でヘルペス脳炎を疑うことはできず、同月一八日午後の意識障害出現の時点でヘルペス脳炎を疑うことになるとされているとおり、本件においては、一般の内科医が、同年四月一八日午後の意識障害出現より前の時点でヘルペス脳炎を疑うことは困難であり、これを疑わなかったD原医師及びC川医師に注意義務違反などないことは明らかである。

なお、鑑定においては、排尿障害について、泌尿器科医や神経内科医に意見を聞くことが選択肢として挙げられているが、他方で、排尿障害以外の症状が出ていないことも考えてその経過を見るのも一つの判断かと思う、意見を聞かなかったのは他の症状や重篤感がなかったからだと思う等と述べられており、他の臨床症状に照らすと、泌尿器科医や神経内科医の意見を聞かなかったこともやむを得ないという面があり、これが直ちにD原医師の注意義務違反となるものではない。

(イ) 脳波検査及びMRI検査の必要性について

原告らは、太郎の症状及び検査結果から脳炎を否定することはできないので、鑑別のために脳波検査及び頭部MRI検査を行うべきであったと主張する。

確かに、同年四月一二日の頭部CT所見や髄液検査の結果からはヘルペス脳炎を疑うことはできないものの、これを完全に否定しきれないことは事実である。

しかし、だからといって、意識障害や痙攣などのヘルペス脳炎を疑うべき所見がなく、脳波検査や頭部MRI検査を行うべき必要性が乏しい本件のような場合にまで、これらの検査を施行しなかった医師の注意義務違反を問うことはできない。鑑定においても、同年四月一二日の時点においては脳炎を疑わせる症状はなく、同月一五日の時点でも排尿障害のほかは大脳半球病変を示唆する症状が出現していないことなどから、これらの時点において、脳波検査及びMRI検査を行うべきであるとするのは困難であり、これを実施しなかったことが医師の過失であるとまではいえないことが明確に認められている。

(ウ) アシクロビルを投与すべき時期について

a 原告らは、ヘルペス脳炎が否定できない以上、確定診断に至る前でもアシクロビルを早期から投与すべきであったと主張する。

被告も、ヘルペス脳炎の疑いがある場合には、確定診断が下される前であっても、アシクロビルを投与すべきであることを争うものではない。しかし、前記(ア)のとおり、本件においては、同年四月一八日午後の意識障害出現より前の時点においては、ヘルペス脳炎を疑わせる所見は存在しなかったのであるから、原告らが主張するような時点においてアシクロビルを投与する必要性など認められなかったものであり、これを投与しなかったことが医師の過失となることはない。

原告ら提出に係る文献(甲五、甲六、甲九、甲一〇)においても、ヘルペス脳炎が疑われる場合には、アシクロビル等の抗ヘルペスウイルス剤を投与すべきであるとされており、ヘルペス脳炎が疑われる所見のない時点において、早期にアシクロビルを投与すべきであるとしているわけではない。

さらに、鑑定においても、同年四月一八日の意識障害出現時においてはアシクロビルを投与すべきであるが、それより前の時点において投与すべきか否かは専門の神経内科医でも意見が分かれるところであるとされているのであるから、一般の内科医において、アシクロビルを投与しなかったとしても、注意義務違反としてその責任を問うことができないのは明らかである。

b なお、本件においては、同年四月一八日午後の意識障害出現時に、直ちにアシクロビルが投与されていたわけではない。

しかし、翌日である同月一九日には直ちに西新潟中央病院に転院させているが、この措置については、鑑定においても、神経症状が悪化し、神経内科医のいる西新潟中央病院に転院したという主治医の判断は適切なものであると評価されている。

D原医師が、専門の神経内科医ではないこと、翌日には神経内科医のいる病院に適切に転院させていることからして、同月一八日にアシクロビルを投与していなかったからといって、そのことが直ちにD原医師の注意義務違反となることはない。

(エ) 甲二三について

a 原告らは、鑑定の結果と鑑定人自身が本件当時の医療水準を記載した文献である甲二三とが矛盾するかのような主張をする。

しかし、本件においては、太郎には入院当初から発熱や著明な頭痛があったが、意識・精神状態は正常であり、全身状態も良好であった。また、白血球は、同年四月一二日には増加していたが、同月一六日には正常値に戻っており、髄液所見においてもリンパ球が散見されて細胞増多があり糖は正常であったから、甲二三の四〇二頁の記載(ウイルス性髄膜炎では、急性発症、発熱、髄液刺激症状があり、著明な頭痛を訴えることが多い。意識・精神状態は正常で、全身状態は良好、白血球増多もなく、髄液所見がリンパ球優位の細胞増多を示し、糖が正常である時は本疾患を考える。頭痛に対する対症療法のみで、抗ウイルス薬は投与せず、経過観察でよいとされている。)に照らすと、ウイルス性髄膜炎を疑って経過観察を行うということになる。

また、その後の経過観察中、同年四月一八日午後より前の時点においては、甲二三の四〇四頁で抗ウイルス剤を投与すべきとされている所見(ウイルス性髄膜炎として経過観察中に、脳実質病変による症状〔意識障害、精神症状、痙攣、運動麻痺、知覚障害を含む脳局在症候、錐体外路症状など〕がわずかでも出現すれば、髄膜脳炎として、直ちに抗ウイルス剤を投与すべきであるとされている。)は現れていない。

このように、鑑定と甲二三の記載とは何ら予盾しておらず、むしろ、鑑定は、甲二三の記載を本件に具体的にあてはめて、本件のような排尿障害は、同文献にいう脳実質病変にはあたらないことを明らかにしたものと評価できる。

b なお、そもそも、一般論を述べている医学文献と、当該事例を具体的に検討した上で述べた鑑定とでは、鑑定の方が当該事案にとって適合性を有していることは明らかであり、仮に、文献と鑑定との間に一見齟齬と思われるような記載があったとしても、鑑定が優先されるべきである。

(オ) 以上より、本件においては、被告病院医師らには、診断の誤りや検査・治療の遅れといった過失は一切存在しない。

(2)  争点(2)(因果関係)について

ア 原告らの主張

(ア) 太郎の死因について

a ヘルペス脳炎は、ウイルス性脳炎の一種で、単純ヘルペスウイルス一型により、側頭葉・前頭葉を中心とする中枢神経系のみに感染が生じる壊死性・出血性脳炎の形をとることの多い疾患である。

成人ヘルペス脳炎の臨床像及び診断は、以下のとおりである。

(a) 発熱、頭痛、項部硬直などの髄膜刺激症状

(b) 意識障害、痙攣発作等の神経障害

(c) 髄液所見では、圧上昇、細胞増多、蛋白増加、糖正常または若干の低下、髄液内の赤血球の存在、キサントクロミー

(d) 側頭葉を中心とする脳波異常

(e) 頭部CT、頭部MRIでの異常所見

(f) 髄液内ウイルスDNA検出(PCR法)

b 本件では、解剖は実施されていないが、以下の事実からすると、太郎はヘルペス脳炎であったと判断される。

太郎の臨床症状、頭部CT所見、髄液検査等の結果は、全てヘルペス脳炎に合致するものであり、臨床医学の判断としてはヘルペス脳炎以外には考えられず、ヘルペス脳炎以外にこれらを合理的に説明できる疾患は存在しない。

(a) 平成一三年四月一〇日から死亡日(同年四月二〇日)まで、頭痛・発熱が持続していること

(b) 同年四月一二日の髄液所見(細胞数の増多、蛋白の増加、糖正常)

(c) 同年四月一二日の髄液の圧が高く、また、髄液中に赤血球が認められたこと(脳内の出血を疑わせるもので、ヘルペス脳炎による脳出血を示唆する。)

(d) 同年四月一五日に排尿障害となり、神経障害の兆候が出現していること

(e) 同年四月一六日に白血球が低下し、同年四月一九日にはこれが上昇していること(ヘルペス脳炎は白血球が低下するが、重症例では増多する。)

(f) 同年四月一二日の頭部CTでは脳浮腫が疑われ、同年四月一九日の頭部CTでは脳浮腫があること

(g) 転送先の西新潟中央病院での髄液検査でも細胞数の増多、蛋白の増加、糖正常であり、髄液がキサントクロミー(髄液が黄色を呈すること、脳実質またはくも膜下腔に出血があった証拠であり、ヘルペス脳炎による脳出血である。)を呈していたこと

(h) 意識障害が出て、痙攣発作が出ていること

(i) 転送先の西新潟中央病院においてアシクロビルが投与されていること

c また、鑑定によれば、太郎の脳炎は、急性髄膜脳炎(ウイルス性の疑い)であり、単純ヘルペス脳炎という確定診断はできないものの、散発性に起こる重症のウイルス性脳炎のうち原因が判明したものとしてはヘルペス脳炎が最も多いとされていることから、単純ヘルペス脳炎であった可能性は充分に考えられるとされている(なお、細菌性はほぼ否定されることから、ウイルス性の急性髄膜脳炎であることは、ほぼ明らかである。)

後医である西新潟中央病院の菊川医師も、単純ヘルペス脳炎との断定はできないが、臨床的には単純ヘルペス脳炎が上位に挙げられるとしており、甲一三(足立憲昭医師の意見書)においても、単純ヘルペス脳炎の可能性が最も考えられるとされている。

d 訴訟における証明は科学的証明を求めるものではない。

本件において最も疑われる疾患は単純ヘルペス脳炎であるが、これが髄膜脳炎の原因であると医学的・科学的に断定できないのは、被告病院において、必要な検査を実施していなかったためである。

このような場合、訴訟上の判断、すなわち、法的評価としては、最も疑われる疾患はヘルペス脳炎であるとすることに何ら問題はなく、むしろ、被告において、単純ヘルペス脳炎ではないという特段の証明がない限り、単純ヘルペス脳炎であるという法的判断をなすべきである。

本件においては、単純ヘルペス脳炎以外の疾患を強く示す所見等はなく、積極的に単純ヘルペス脳炎を否定する所見等はないから、経験的・統計的な判断として、単純ヘルペス脳炎である可能性が高く、また、鑑定人や後医等の専門医においても単純ヘルペス脳炎である可能性が高いとされ、これにかわりうる疾患は積極的に疑診されていない。医学的・科学的に疾患名を断定できない理由は、被告病院においてなすべき検査を実施していなかったことに起因しており、被告の責めに帰すべき事由によって原因解明が妨げられているのに、その不利益を原告らに帰することは条理に反する。

(イ) 結果回避可能性について

a 単純ヘルペス脳炎は、アシクロビルが早期に投与されればされるほど効果が顕著であると報告されている疾患であるところ(甲五では、アシクロビルを投与した場合の致死率は一九%にすぎず、五六%は六か月後に日常生活に復帰しているとの報告がなされており、甲六では、傾眠の状態で投与を開始すれば後遺症は〇%、半昏睡の状態では後遺症は四一%という報告がなされている。)、本件においては、平成一三年四月一五日当時では、傾眠傾向も明らかな意識障害もなかったことからすると、同時点でアシクロビルが投与されていれば、太郎が後遺症を残すことなく救命されていた蓋然性が極めて高かったものである。

また、その後の痙攣様の症状が発生していた同年四月一七日ころからの投与であっても、未だ半昏睡状態にまでは至っていなかったのであるから、同様に救命されていた蓋然性が極めて高い。

さらに、意識障害が明確となった同年四月一八日からの投与であっても、上記の甲五及び甲六での報告成績からすれば、救命されなかった蓋然性が高いとはいえず、救命されていた、すなわち、結果回避可能性があったというべきである(鑑定においても、完治する確率はないとはいえないとされている。)。法的因果関係の判断にあたって、結果回避可能性が全くない場合は因果関係が否定されることになろうが、本件のように、アシクロビルという特効薬があり、これによって完治する可能性がないとはいえない事案においては、法的評価としては、過失と結果との間に因果関係を認めるべきである。

b 加えて、鑑定によれば、痙攣重積発作も死因の一つとされているところ、この痙攣発作は同年四月一七日ころから認められていたのに、同月一九日に西新潟中央病院に転院するまでの間、一度として、抗痙攣薬の投与が実施されなかったため、痙攣発作が悪化していったものと合理的に推認される。

したがって、抗痙攣剤を投与しなかったことと、太郎の死亡との間にも因果関係が認められるというべきである。

(ウ) 以上のとおり、C川医師及びD原医師の過失と太郎の死亡との間には優に因果関係があるということができる。

イ 被告の主張

(ア) 太郎の死因について

原告らは、太郎がヘルペス脳炎に罹患して死亡したと主張する。

しかし、原告らが主張する根拠は、前記(1)イ(ア)のとおり、いずれも決め手とはならず、太郎がヘルペス脳炎に罹患していたか否かは不明である。西新潟中央病院でも、太郎の直接の死因は髄膜脳炎としながら、その原因は不明であるとしている。

(イ) 結果回避可能性について

a ヘルペス脳炎は、致命率が一〇ないし三〇パーセント、生存しても重篤な後遺症やハンディキャップを負うことが多い疾患とされているから、原告らの主張するような措置がとられ、太郎にアシクロビルが投与されていたとしても、太郎が死亡することなく、また、後遺症もなく社会復帰できた蓋然性が極めて高いとはいえない。

b また、同年四月一八日の時点からのアシクロビルの投与に関しては、鑑定においても述べられているとおり、一般にアシクロビルの投与により劇的に症状が改善するわけではないこと、特に、本件では、発症後の経過が急激であり、てんかん重積状態が生じて痙攣がコントロールできなかったことからすれば、仮にこの時点でアシクロビルを投与していたとしても、太郎が死亡しなかった蓋然性が高いとは到底いえない。

(ウ) したがって、原告らが主張する過失と損害との間には因果関係など認められない。

(3)  争点(3)(損害額)について

ア 原告らの主張

(ア) 太郎の損害

a 逸失利益 一億〇三一九万八〇二四円

(a) 太郎は、航空自衛隊の操縦士(三等空佐)であり、平成一二年の給与所得は九四五万四六一一円であった。太郎は、昭和四〇年二月一五日生まれで死亡当時三六歳であったから、六七歳まで稼働できるものとして、生活費控除率を三〇パーセントとして計算すると、その逸失利益は以下のとおり、一億〇三一九万八〇二四円となる。

九四五万四六一一円×(一-〇・三)×一五・五九三(ライプニッツ係数)=一億〇三一九万八〇二四円

(b) また、仮に自衛官としての定年を考慮したとしても、太郎の逸失利益は九三三五万四二三五円となる。

太郎は、航空学生(幹部候補生コース)を卒業後、パイロットとなった幹部自衛官に該当するから、一佐まで昇進するのが通例である(現に、太郎は三六歳で既に三佐であった。)。一佐の定年は五六歳であるところ、定年後である五七歳以降六七歳までの逸失利益を、平成一二年男子労働者年収平均である五六〇万六〇〇〇円を基礎として算定すると、以下のとおりとなる。

① 三六歳から五六歳までの二〇年間の逸失利益 九四五万四六一一円×(一-〇・三)×一二・四六二(ライプニッツ係数)=八二四七万六三五三円

② 五七歳から六七歳までの逸失利益 五六〇万六〇〇〇円×(一-〇・三)×(一五・五九三-一二・四六二〔ライプニッツ係数〕)=一〇八七万七八八二円

③ 合計 九三三五万四二三五円

b 慰謝料 二〇〇〇万円

太郎は、一家の支柱であったから、その死亡慰謝料としては、二〇〇〇万円を下ることはない。

c 相続

上記a及びbの太郎の損害は、合計一億二三一九万八〇二四円となるが、太郎の死亡により、原告花子は二分の一、原告一郎及び二郎はそれぞれ四分の一の割合で、これを相続した。

(イ) 原告竹夫及び梅子の損害

a 固有の慰謝料

原告竹夫及び梅子は、太郎の父または母であり、民法七一一条により太郎の死亡について固有の慰謝料請求権を有するが、その慰謝料額としてはそれぞれ五〇〇万円が相当である。

b 葬儀費用

原告竹夫は、太郎の葬儀費用として二七五万七六〇〇円を支出した。これはD原医師の過失と相当因果関係のある損害と評価される。

(ウ) 弁護士費用

原告らは、本件訴訟提起にあたり、原告ら訴訟代理人に対し、それぞれ損害額の約一割にあたる弁護士費用(原告花子は六一〇万円、同一郎及び二郎はそれぞれ三〇〇万円、同竹夫は七七万円、同梅子は五〇万円)を支払う旨約した。

(エ) 原告らの損害額

以上より、原告らの損害額は、原告花子が六七六九万九〇一二円、同一郎及び二郎がそれぞれ三三七九万九五〇六円、同竹夫が八五二万七六〇〇円、同梅子が五五〇万円となり、合計一億四九三二万五六二四円となる。

イ 被告の主張

原告らの損害については、全て不知。

第三当裁判所の判断

一  医学的知見

(1)  原因不明の髄膜炎及び脳炎患者の治療方針

《証拠省略》によれば、本件当時における原因不明の髄膜炎及び脳炎患者の治療方針に関する医学的知見は、以下のとおりである。

ア 治療・診断の重要性

髄膜炎及び脳炎を含む中枢神経系感染症の診断及び治療の重要性は、①早期に適切な治療を開始すれば、予後良好な疾患が少なくないこと、②しかし、治療が遅れると、重篤な後遺症を残す率や死亡率が高くなることの二点にある。

適切な治療を行うためには、髄膜炎または脳炎の病原体を知ることが必要となる。しかし、髄膜炎・脳炎の起炎菌ないし起炎ウイルスの同定は、培養やウイルス抗体価の変動によることが多く、結果が出るまでに、一ないし二日、結核菌では培養に四週間、ウイルス抗体価の有意上昇が判明するまでには二ないし三週間かかる。これらの結果を待ってから適切な治療を開始しても、手遅れになる可能性が強く、実際には病原体不明のまま治療薬を投与することになる。その場合、次のイの手順に従って、迅速に診察・検査を行い、治療方針を決定しなければならない。

イ 治療方針決定までの手順

(ア) 正確な病歴の聴取

発病時期、初発症状、症状の進行度、発熱・意識障害・精神症状・痙攣の有無、受診前に治療を受けているときは治療薬の内容などを聴取する。

(イ) 全身的・神経学的診察

特に、心・肺所見、リンパ節腫大の有無、意識及び精神状態、眼底、髄膜刺激症状・局所症状・病的反射の有無などに注意する。

(ウ) ルーチン検査

血算、血液像、血沈、CRP、血液生化学、尿、胸部・頭部X線、心電図などの検査を行う。

(エ) 血液・尿の培養、必要な場合には喀痰・咽頭培養

血液培養は、動脈血と静脈血とでは培養の陽性度にほとんど差がないため、静脈血培養でよい。敗血症の疑わしい時は、一五分間隔で、好気性及び嫌気性培養を三回行う。

(オ) 髄液検査

最も重要な検査である。

初圧、混濁の有無、細胞数、蛋白、糖、Cl(クロール)、γグロブリン、または、IgG(免疫グロブリン)、細菌・結核菌の塗抹及び培養、墨汁染色、細菌抗原の検出、ウイルス抗体価、必要に応じて細胞診、CEA(癌胎児性抗原)、クリプトコッカス抗原検査などを行う。髄液糖濃度減少の有無は、髄膜炎の鑑別診断上重要であるため、同時血糖は必ず検査する。髄液の糖濃度は、通常、血糖の二分の一から三分の二であり、血糖の四〇%以下の値は異常である。

腰椎穿刺の前には必ず眼底を検査し、うっ血乳頭の有無を確かめる。

正常な髄膜所見とウイルス性髄膜炎に見られる髄液変化は、下記のとおりである。

a 正常

(a) 外観 水様透明

(b) 髄圧(臥位) 一〇〇~一五〇mmH2O

(c) 細胞数 一五以下

(d) 蛋白 一五~四〇mg/dl

(e) 糖 五〇~七五mg/dl

(f) その他 Cl(クロール)は血清値よりやや高く一二五mEq/l前後

b ウイルス性髄膜炎

(a) 外観 水様

(b) 髄圧(臥位) 一〇〇~五〇〇mmH2O

(c) 細胞数 一〇~一〇〇〇(リンパ球優位)

(d) 蛋白 五〇~一〇〇mg/dl

(e) 糖 五〇~七五mg/dl

(カ) 抗体価測定

ウイルス、マイコプラズマによる感染性疾患は、通常抗体価の変動によって診断するので、初診時及び二ないし三週間後の二回(ペア検体)測定し、抗体価が有意に上昇するか否かを確かめる。

ウイルスは種類が多いため、血液では幅広く検索し、採取量の限られる髄液では種類を限定した方がよい。一般に神経系感染症ないし合併症を起こしやすいウイルスは、単純ヘルペスウイルス、帯状萢疹ウイルス、エプスタイン・バーウイルス、風疹、麻疹、ムンプスなどである。

(キ) その他

頭部CTスキャンまたは頭部MRI及び脳波は、入院時(初診時)の治療方針決定に必ずしも必須な検査ではないが、可能な限り早急に行うべき検査である。

ウ 治療方針・使用薬剤の決定

上記イの所見を踏まえて、治療方針を決定する。

初診時、髄膜炎・脳炎の原因診断の指標としては、①発病の急性度(発症が急性、亜急性ないし慢性であるかにより原因が異なる。)、②髄液所見、③患者の年齢(急性化膿性髄膜炎では、発症年齢により起炎菌が異なる。)の三項目が有用であり、これらにより、以下のいずれの可能性が高いかを考えて投与薬剤を決定する。

(ア) 急性発症

a 急性化膿性髄膜炎

b マイコプラズマによる神経合併症

c ウイルス性髄膜炎

d ウイルス性髄膜脳炎

e 自由生活アメーバ性髄膜脳炎

f エイズによる急性髄膜炎

g その他

(イ) 亜急性発症

a 結核性髄膜炎

b クリプトコッカス髄膜炎

c 腫瘍性髄膜炎

d エイズ脳症

e その他

(ウ) 慢性発症

a 梅毒性神経疾患

b クリプトコッカス髄膜炎の一部

c 遅発性ウイルス感染症

d エイズ脳症

e その他

(2)  ウイルス性髄膜炎

《証拠省略》によれば、本件当時におけるウイルス性髄膜炎に関する医学的知見は、以下のとおりである。

ア 病態及び診断

本疾患は、自然寛解する良性の髄膜炎である。

起炎ウイルスが不明であることが稀ではないが、原因が判明した例では、エンテロウイルス、特にコクサッキー及びエコーウイルスが大部分を占める。

臨床的特徴は、急性発症、発熱、髄膜刺激症状(頭痛、悪心、嘔吐、項部硬直、ケルニッヒ徴候、ブルジンスキー徴候)がある。成人では、特に激しい頭痛を訴えることが多い。全身状態は、通常良好である。

意識・精神状態は正常で、全身状態は良好、白血球増多もなく、髄液所見がリンパ球優位の細胞増多を示し、糖が正常である(低下しない)ときは、本疾患を考える。

診断及び鑑別診断で最も重要なことは、ウイルス性髄膜炎であるかウイルス性髄膜脳炎であるかの鑑別である。

イ 治療

頭痛に対する対症療法のみで、抗ウイルス薬は投与せず経過観察でよい。入院・安静・臥床を基本とし、頭痛などに対する対症療法を行う。また、髄液採取が、診断のみならず症状の改善にも有効であるとする人もいる。

経過観察の際、①ウイルス性髄膜炎の初期には、好中球優位の細胞増多を示すことがあり、その時は、治療薬の投与なしに一二ないし二四時間後に再検するとリンパ球優位に変化しており、診断が裏付けられる、②髄液検査前に抗生物質が投与されているときは、急性化膿性髄膜炎でも細胞増多の内容がリンパ球優位に変わることがあり、ウイルス性か否かの判断が困難であるので、このような時は、化膿性髄膜炎の治療を開始し、培養の結果及び他の検査所見を参考にしながら経過観察を行い、化膿性髄膜炎の可能性が少ないならば、適宜、抗生物質を中止する、③ウイルス性髄膜炎として経過観察中に、脳実質病変による症状(意識障害、神経症状、痙攣、運動麻痺・知覚障害を含む脳局在症候、錐体外路症状など)がわずかでも出現すれば、髄膜脳炎として、直ちに抗ウイルス剤を投与すべきであることに注意を払うべきである。

ウ 予後

通常、後遺症なく治癒する。ムンプス髄膜炎では、水頭症が起こることがある。

(3)  ウイルス性脳炎

《証拠省略》によれば、本件当時におけるウイルス性脳炎に関する医学的知見は、以下のとおりである。

ア 病態及び診断

(ア) 脳炎は、種々のウイルスによって起こる。本邦において見られる主なウイルスとしては、エンテロウイルス(ポリオウイルス、コクサッキーウイルス、エコーウイルス)、トガウイルス(日本脳炎ウイルス、風疹ウイルス)、ヘルペスウイルス(単純ヘルペスウイルス、水痘ウイルス、EBウイルス、サイトメガロウイルス)、ミクソウイルス(インフルエンザウイルス)、パラミクソウイルス(麻疹ウイルス、ムンプスウイルス)、パポバウイルス(JCウイルス)、レトロウイルス(HTLV―I、HTLV―Ⅲ〔HIV〕)などがある。

ウイルス性脳炎は、他の感染症と同じく、脳以外の感染巣からの二次的波及、特に、血行性ないし脳神経・末梢神経経由で起こる。

(イ) ウイルス性髄膜炎の症状に、脳実質病変による症状(意識障害、精神症状、痙攣、運動麻痺・知覚障害を含む脳局在症候、錐体外路症状など)が加わっているときは、本疾患と考え、直ちにアシクロビルの投与を開始する。アデニンアラビノシドでもよいが、アシクロビルの方が有効性が高い。

髄液は、ウイルス性髄膜炎と同様の異常を呈する。一般に糖濃度は低下しないが、出血性・壊死性脳炎(単純ヘルペス脳炎など)のときは、軽度の赤血球やキサントクロミーが見られることがある。

脳波異常は高率に出現するが、一般に成因による特異性は乏しい。

臨床症状、髄液及び脳波所見により診断する。頭部CTにも異常が見られることがある。

(ウ) ウイルス性髄膜脳炎と鑑別困難な疾患として、急性散在性脳脊髄炎(ADEM)がある。ADEMに見られる発熱、意識障害、痙攣、髄膜刺激症状などの臨床症状及び髄液異常は、ウイルス性髄膜脳炎のものとの鑑別が困難である。両側視神経炎ないし球後視神経炎、脊髄障害を示唆する神経症状(病初期より存在する膀胱障害、知覚レベル、対麻痺など)、病巣の多巣性を示す神経症状、単相性の経過などが見られれば、ADEMの可能性が強くなる。しかし、初期にはウイルス性髄膜脳炎と鑑別不可能であることがしばしばあり、この場合は抗ウイルス剤を投与後、副腎皮質ホルモンを使った方が安全であろう。なお、当初よりADEMの可能性が強いときは、両者を併用してもよい。

イ 治療

ヘルペスウイルス、特に、単純ヘルペス脳炎に対しては、アデニンアラビノシド及びアシクロビルの二剤が開発され、早期投与によって、かなりの効果を認めている。

しかし、他のウイルス性脳炎に対する特効薬はなく、対症療法が主である。

ウ 予後

ウイルス性脳炎の広がりや障害度、患者の年齢・免疫状態により予後は異なるが、完全回復から重篤な後遺症ないし死に至るまで様々な経過を示す。

エ 単純ヘルペス脳炎

(ア) 病態及び診断

a 本邦では、散発性ウイルス脳炎として最も頻度が高い。重篤な脳炎を起こし、早期に適切な治療を行わないと死亡することが多い。

単純ヘルペスウイルスは、一型(HSV―1、口唇ヘルペス)と二型(HSV―2、陰部ヘルペス)とに分かれ、初感染後もその個体に潜伏持続感染していることが多く、何らかの誘因により再び活性化し、病変を生ずる。

b 臨床症状・検査所見は、一般のウイルス性脳炎に類似するが、側頭葉症状(人格変化、異常行動、記銘力障害、感覚性失語、幻嗅・幻味、性行動異常)を呈し易く、運動麻痺の少ないことが特徴である。

頭部CTでは、低吸収域が七七%に見られ、側頭葉に強く、前頭葉(直回、眼窩回)や島回にも好発する。出血を示唆する高吸収域(三三%)や線状・みみず状のコントラスト増強効果(一六%)も認められる。しかし、発病数日間はCTで異常がみられないことが多い。

これに対し、脳波では、発症直後から異常を呈することが多く、ほとんど全例に異常がみられ、半数以上が巣性異常(非発作性五六%、発作性四五%)を示すのが特徴である。最も診断的価値が高いとされるPSDの脳波異常は、約三分の一の症例で認めるに過ぎないが、この異常は発病直後から出現することがあるので、脳波検査は初期から頻繁に行う必要がある。

髄液所見は、ア(イ)と同様であり、初期には、細胞増多が目立たないことがあるため、繰り返し検査した方がよい。

c 初診時、急性髄膜脳炎患者を本疾患と診断することはかなり困難である。

経過中、上記の側頭葉症状、CT異常、PSDを呈する脳波異常が認められれば、本疾患の可能性が高くなるが、確定診断は、脳生検組織・髄液中における単純ヘルペスウイルス一型の検出か、血液・髄液中における単純ヘルペスウイルス一型に対する抗体価の上昇による。本邦では、通常、抗体価の上昇の有無により生前診断を付けている。

(イ) 治療

本疾患が、本邦で最も頻度の高い散発性脳炎であり、治療が遅れると、致死性になることが多いため、原因不明の急性脳炎ないし髄膜脳炎をみたとき、または、その可能性を否定できないときは、抗ウイルス剤として、アデニンアラビノシドまたはアシクロビルを直ちに投与した方がよい。

アシクロビルは、ヘルペスウイルスの感染細胞に選択的に働き、非感染細胞にほとんど作用しないので、単純ヘルペス脳炎には、アシクロビルの方が、アデニンアラビノシドより有効性が高く、また、副作用も少ない。そのため、まず、アシクロビルを投与する。

アシクロビルを投与しても、症状の改善が不十分であるときは、①アシクロビルの投与期間を延長する、②アデニンアラビノシドを併用する、③アデニンアラビノシドに切り替える、のうちのいずれかを選択する。これらの薬剤は副作用が比較的少なく、また、あっても一過性であるため、確定診断のために脳生検を行わない主な理由となっている。

なお、抗浮腫剤投与による脳圧のコントロールも重要である。

(ウ) 予後

抗ヘルペスウイルス剤を用いないとき、本疾患による致死率は高く、後遺症も強い(治療されない場合の死亡率は、六〇ないし八〇%であるという報告がある〔甲二八〕。)。失語、記憶障害など重篤な機能欠損を残し、社会生活は困難となることが多い。

抗ヘルペス剤の使用によって予後は著しく改善した。脳生検、血清及び髄液の抗体反応によって診断された単純ヘルペス脳炎について、①死亡率は、アデニンアラビノシドを使用した場合には五〇%、アシクロビルを使用した場合には一九%、六か月後に正常生活に戻った割合は、アデニンアラビノシドを使用した場合には一三%、アシクロビルを使用した場合には五六%であったという報告(一九八四年に発表されたスウェーデンの成績〔甲五〕)、及び、②死亡率は、アデニンアラビノシドを使用した場合には五四%、アシクロビルを使用した場合には二八%、中等度後遺症率は、アデニンアラビノシドを使用した場合には二二%、アシクロビルを使用した場合には九%、後遺症なしは、アデニンアラビノシドを使用した場合には一四%、アシクロビルを使用した場合には三八%であったという報告(一九八六年に発表されたアメリカの報告〔甲二八〕)が、それぞれある。また、傾眠の状態で治療を開始した場合には後遺症は〇%、半昏睡の状態で治療を開始した場合には後遺症は四一%、昏睡に陥った状態から治療を開始した場合には半数の症例が動物としての生命は取りとめても、社会復帰はできない状態に留まるという報告もある(甲六)。

本疾患の予後を左右するのは、抗ウイルス剤投与開始時における意識レベルと患者の年齢である。特に、意識障害が軽いうちに治療を開始することが重要である。年齢に関しては、三〇歳未満の方が三〇歳以降よりも予後がよい。

(4)  排尿障害

《証拠省略》によれば、本件当時における排尿障害に関する医学的知見は、以下のとおりである。

ア 病態

排尿障害とは、尿の排出や貯留に関する機能障害である。

排尿障害は、排尿痛のような強い症状を伴うものと、これを伴わないものとに分けられ、さらに、後者は、尿の排出時の症状を主徴とするものと、尿の貯留時の症状を主徴とするものとがある。

イ 原因疾患

排尿痛などの刺激症状を伴う排尿障害の原因としては、①感染性疾患として、膀胱炎、尿道炎、前立腺炎及び尿路結核が、②非感染性の疾患として、膀胱結石、膀胱異物、膀胱癌及び間質性膀胱炎などがある。また、刺激症状を伴わない排尿障害の原因としては、①尿の排出時の症状を主徴とするものとして、前立腺肥大、尿道狭窄及び膀胱収縮力の低下する神経因性膀胱が、②尿の貯留時の症状を主徴とするものとして、多尿、夜間頻尿、膀胱収縮が抑制できない神経因性膀胱、特発性の膀胱の異常収縮(不安定膀胱)、腹圧性尿失禁及び機能性尿失禁(膀胱、尿道機能以外の機能障害が原因の尿失禁)などがある。

このうち、神経因性膀胱とは、排尿をコントロールしている神経排尿反射回路(脳、脊髄、末梢神経)のいずれかの部位の障害(病変)によって引き起こされる膀胱・尿道の機能的異常をいう。急性ウイルス性脳炎の臨床症状(神経症状)として、排尿障害が現れることもあるが、単純ヘルペス脳炎においては、側頭葉、眼窩部前頭葉を強く障害するため、幻覚、記憶・記銘力障害、失語症などの神経症状が意識障害と前後して発現することが多い。

二  診療経過

前提事実、《証拠省略》によれば、太郎の診療経過について、以下の事実が認められる。

(1)  従前の診療経過

太郎は、平成一三年一月二七日から、心窩部痛を訴えて、被告病院においてD原医師の診察を受け(太郎が受診したのは、同日のほか、同年二月一〇日及び同年三月三一日である。)、急性胃炎等の診断のもと、アシノン(消化性潰瘍治療薬)の投与を受けていた。

(2)  平成一三年四月一〇日

太郎は、頭痛・発熱を主訴として、被告病院内科外来を受診した。

D原医師が診察したところ、体温は三七・三度、血圧は一三〇/八〇mmHg(前の数字が収縮期血圧、後の数字が拡張期血圧)であり、結膜の黄疸及び胸部ラ音はなかった。

D原医師は、感冒と診断し、アシノン及びボルタレン(鎮痛・解熱薬)を投与した。

(3)  同年四月一一日

太郎は、頭痛・発熱が継続したため、被告病院内科外来を受診した。

D原医師が診察にあたったところ、発熱、悪寒及び項部硬直があり腹部が軟らかかったが、胸部清明で打痛はなかった。また、生化学検査が実施されたが、CRPは〇・二五未満、WBCは一四・一(千/ul)であった。

D原医師は、細菌またはウイルスによる感染症を疑い、ロセフィン(抗生剤)、ブルフェン(鎮痛・解熱薬)及びフロモックス(抗生剤)を投与した。

(4)  同年四月一二日

ア 太郎は、頭痛・発熱が持続したため、被告病院内科外来を受診した。

D原医師が診察したところ、発熱、頭痛及び悪寒があり、体温は三八・九度、血圧は一二〇/八〇mmHgで、結膜の黄疸及び胸部ラ音はない状態であった。

太郎は、インフルエンザ、細菌感染または髄膜炎を疑われ、被告病院に入院した。

イ 入院時の検査では、体温は三九・九度、CRPは〇・二五未満(正常値)、WBCは一一・六(千/ul)であり、頭痛を強く訴えていた。

ルンバールが実施され、細胞数が二四八(正常値は一五以下)、蛋白が一三六mg/dl(正常値は一五ないし四〇)、糖が五六mg/dl(正常値は五〇ないし七五)、髄液圧は初圧が二八〇mmH2O、終圧が二五〇mmH2O(正常値は一〇〇ないし一五〇)であった。また、頭部CTが撮影されたが、明らかな脳浮腫は認められなかった。

D原医師は、肺炎または髄膜炎の疑いとし、ロセフィン及びモダシン(抗生剤)を投与した。

(5)  同年四月一三日

太郎は、発熱及び悪寒があり(午前六時ころには三九・四度、午後二時四〇分ころには三九・八度、午後五時ころには三六・六度、午後八時四五分ころには三八・五度、午後一〇時ころには三七・五度であった。)、頭痛が持続していた。

また、同年四月一二日に実施されたルンバールにおいて、髄液中に、赤血球、好中球及びリンパ球が少数であるが散見され、大食細胞様の細胞も少数認められたとの報告がなされた。

D原医師は、急性髄膜炎(細菌性の疑い)を疑い、ボルタレン及びモダシンを投与した。

(6)  同年四月一四日

太郎は、発熱(午前六時ころには三八・八度、午後五時ころには三六度台、午後九時ころには三八・九度であった。)及び頭痛が継続していたが、結膜の黄疸、貧血及び肺ラ音は認められなかった。太郎は、午前六時ころ、「オシッコでない。」、「夜間より出そうで出ない。力むが出ない。」と訴えていた。

また、同年四月一二日に実施されたルンバールにおいて、髄液中には細菌は認められなかったとの報告がなされた。

D原医師は、太郎を無菌性髄膜炎と診断し、ボルタレン及びモダシンを投与し、原告花子に対し、「軽い無菌性髄膜炎疑いです。頭と胸の写真を見ても何ともないので、薬でしばらく様子を見ましょうか。一ないし二週間くらいだと思います。」と説明した。

(7)  同年四月一五日

太郎は、発熱(午前五時ころには三九・八度、午前一一時ころには三九・一度、午後五時五五分ころには三九・八度であった。)及び頭痛が持続していた。

太郎は、午前四時三〇分ころに、「尿意はあるが、途中で止まったり、出なかったりする。」と排尿困難を訴えたため(排尿時痛はなし。)、尿カテーテルを挿入して導尿された。午前一一時一五分にも、排尿困難を訴えたため、尿カテーテルを挿入して導尿された。午後二時五〇分ころには、太郎が残尿感を訴えていたため、尿カテーテルが残置されることとなった。

D原医師は、病状は安定していると判断して、ボルタレン及びモダシンの投与を継続した。

(8)  同年四月一六日

太郎は、発熱(午前一時四五分ころには三九・四度であった。)・頭痛が持続していた。

結膜の黄疸及び貧血は認められなかったが、血液検査の結果、WBCが五・三(千/ul)に低下していた。

D原医師は、無菌性髄膜炎と考えたが、モダシンの投与を中止し、カルベニン(抗生剤)の投与を開始した(ボルタレンの抗与は継続した。)。

(9)  同年四月一七日

ア 太郎は、発熱(午前六時二〇分ころには三九・一度、午後一一時三〇分ころには三八・六度であった。)及び頭痛が持続していたが、結膜の黄疸、貧血及び肺ラ音は認められなかった。

午前八時ころには会話もできないくらいに頭痛が強度となり、その後、大部屋だと物音が響き苦痛であるとの訴えがあったため、個室に移動となった。午後三時四〇分ころには、吐気はなかったが体熱感、顔面紅潮、振戦及び頭痛があった。

イ 太郎が午前中に「記憶喪失になりそうな感じだ。」と訴えていたため、原告花子は、昼ころに、D原医師に対し、これを伝えた上で「このままで大丈夫か。」と聞いたところ、「心配いらない。様子を見ましょう。」と言われた。

原告花子は、この説明に不安を感じ、看護師に相談したところ、看護師の求めに応じて、C川医師が太郎の病室へ来た。C川医師は、原告花子に対して太郎の病状を説明し、点滴を指示して、「その他は主治医に聞く様に。」と言った。

C川医師は、D原医師に対し、ステロイド点滴をしてみてはどうかと相談したが、D原医師は「採血をしてみる。」と答え、ボルタレン及びカルベニンの投与を継続した。

(10)  同年四月一八日

ア 太郎は、発熱(午後二時ころには三七・七度、午後七時三〇分ころには三九・三度であった。)及び頭痛が持続していた。

D原医師は、午後四時ころに、太郎の頭部CT検査を実施した。また、ルンバールを実施しようとしたが、筋硬直のため実施できなかった。この頭部CT検査においては、同年四月一二日の頭部CT検査と比較して、脳溝が僅かに狭小化していた。

イ 太郎は、午後二時ころ、問いに対して反応が鈍く、意識障害が存在する状態であった。

D原医師が、上記検査の後、原告花子に対し、「本日のルンバールはできなかったがCTは変わりなく異常なかった。検査データも全くひっかからない髄膜炎で意識障害の起こる場合もあるため、今の状態はおかしくないです。経過みさせてください。」と説明したところ、原告花子は、「院長先生にもウイルス性の髄膜炎と言われているが、意識障害が出たため恐い。」と答えた。

D原医師は、午後五時ころ、カルベニンにより意識障害が生じているのではないかと考え、抗生剤をカルベニンからマキシビームに変更した。

ウ 太郎は、午後七時三〇分ころ、呼名に対して反応するものの反応が鈍い状態であった。

午後九時ころには、呼名に対して焦点が合うことも多くなり、声も聞き取り易くなった。

(11)  同年四月一九日

ア 被告病院における経過

(ア) 午前三時ころ

太郎は、問いに対してスムーズに返答していたが、頭痛及び悪寒を訴え、眼瞼が震えている状態であった。

血圧は一七〇/一〇〇mmHg、体温は三七・六度であった。

(イ) 午前五時三〇分ころ

太郎は、戦慄及び右側仙骨部に発赤があり、眼球がやや挙上気味で体動などさせると視点が定まる状態であった。体温は三八・三度であった。

血液培養及び採血が実施されたが、血液検査の結果は、CRPが〇・二五未満、WBCが一四・〇(千/ul)であった。

(ウ) 午前七時三〇分ころ

太郎は、声かけに返答するものの、意識混濁及び眼振が認められた。また、瞳孔縮小に左右差はなかったが、対光反射はなかった。

血圧は一七〇/一二〇mmHg、体温は三七・七度であった。

看護師が太郎の状態についてD原医師に上申したところ、アダラート(降圧薬)を舌下投与するよう指示された。

(エ) 午前七時四五分ころ

太郎は、コーヒー様でアップルジュース臭のものを多量に嘔吐した。

(オ) 午前八時ころ

看護師が太郎の状態についてD原医師に上申したところ、アダラートを舌下投与するよう指示された。

血圧は一六〇/九八mmHgであった。

(カ) 午前一一時三〇分ころ

D原医師らは、太郎を西新潟中央病院に転送することを決定した。

イ 西新潟中央病院における経過

太郎は、午後〇時三〇分ころ、ストレッチャーで運ばれて、西新潟中央病院に入院した。

(ア) 入院時の所見

一般身体所見は、体温が三七・三度、血圧が一三四/八二mmHg、脈拍が一〇二/分で、心肺に頻脈の他異常所見はなく、腹部膨満があり、腸音及び腸雑音の低下が認められた。

神経学的所見は、意識状態が大きな声または体を揺さぶることにより開眼するレベル(ジャパン・コーマ・スケールでⅡ―二〇)で、髄膜刺激徴候として項部硬直及びケルニッヒ徴候が認められた。また、易刺激性があり、眼球、顔面及び上肢に全身痙攣様の不随意運動が認められた。瞳孔は円形左右同大で、対光反射運動に異常はなく、眼球運動は十分に動き眼振もなかった。顔面運動は意識障害のためはっきりとしなかったが、顔面は左右対称であった。膝踵試験はうまくできる状態で、筋繊維攣縮、振戦及び筋拘縮は認められなかった。

血液検査の結果は、WBCが一二・五八(千/ul)、CRPが〇・二であった。

髄液検査の結果は、細胞数が六四〇(正常値は一五以下)、糖が四一mg/dl(正常値は五〇ないし七五)、蛋白が一九六mg/dl(正常値は一五ないし四〇)、クロールが一〇六mmEq/l(正常値は一一八ないし一三〇)、初圧は一五五mmH2O、終圧は一二五mmH2Oで、キサントクロミーが+であった。赤血球は認められなかった。

(イ) 臨床経過

菊川医師は、意識障害の存在、眼球、顔面及び上肢を主体とした全身痙攣の存在並びに髄液所見から、無菌性髄膜脳炎を疑って、カルベニン(抗生剤)、アシクロビル(抗ウイルス剤)、アレビアチン(抗てんかん薬)、グリセオール(抗浮腫剤〔利尿剤〕)及びセルシン(ホリゾン〔抗不安薬〕)などを投与した。アレビアチン及びセルシンの投与により、全身痙攣は一時消失した。

午後六時三〇分ころ、悪心及び嘔吐が生じて何回か続いたため、胃チューブを経鼻的に挿入したところ、やや改善した。また、午後七時ころから顔面主体の痙攣が生じたため、セルシンを投与すると、消失した。

午後八時ころからアレビアチンの投与を開始し、午後九時ころにはこれを終了したが、午後九時過ぎころから、全身性の大発作が発生した。午後九時三〇分ころに呼吸が停止し、てんかん発作重積状態となったため、気管内挿管して、ドルミカム(全身性麻酔薬)による全身麻酔を施行し、呼吸器管理とした。

(12)  同年四月二〇日

ア 菊川医師は、午前一時ころ、さらにフェノバール(フェノバルビタール〔睡眠薬〕)を筋注した。

午前四時ころ、再び全身性の大発作が発生して、てんかん発作重積状態となった。当直医がアレビアチン及びセルシンを投与すると、発作は軽快したものの消失はしなかった。菊川医師は、午前五時五〇分ころに来院し、上記措置について説明を受けたが、午前六時の時点においても発作は完全には消失していなかった(ドルミカムの投与は継続されていた。)。血圧の低下が認められたため(午前六時ころには三二/一六mmHgであった。)、イノバン(昇圧剤)を投与したが、血圧は低下したままであった。

午前六時三〇分ころ、心停止したため、ボスミン(昇圧剤)を投与すると、一時洞調律が戻ったが、血圧の上昇はなく、午前七時三〇分に再び心停止となった。ボスミン、メイロン(輸液製剤)及びカルチコール(カルシウム製剤)を投与し、心臓マッサージを開始したが効果はなく、午前八時二九分に死亡が確認された。

イ 太郎の直接の死因は髄膜脳炎であったが、病理解剖が実施されなかったため、髄膜脳炎の原因は不明であると診断された。

(13)  D原医師は、平成一三年五月一〇日から同年六月三〇日まで休暇を取得し、同日、被告病院を解雇された。そして、本件訴訟提起後、自殺した。

三  争点(1)(D原医師またはC川医師の過失の有無)について

(1)  前記医学的知見(前記一(1)ないし(3)を総合すると、①ウイルス性髄膜脳炎は、重篤な後遺症を残したり、死亡したりすることの少なくない重大な疾患であるので、早期に適切な治療を開始することが重要であること、②特に、ウイルス性髄膜炎であるのかウイルス性髄膜脳炎であるのかの鑑別が重要であり、発熱及び髄膜刺激症状(頭痛、悪心、嘔吐、項部硬直、ケルニッヒ徴候、ブルジンスキー徴候)などのウイルス性髄膜炎の症状に加え、脳実質病変による症状(意識障害、神経症状、痙攣、運動麻痺・知覚障害を含む脳局在症候、錐体外路症状など)が見られるときには、ウイルス性髄膜脳炎を疑うべきであること、③ウイルス性髄膜脳炎を疑った際には、直ちに鑑別診断のために必要な検査(頭部CT検査、頭部MRI検査、脳波検査など)を実施するとともに、ウイルス性脳炎として最も頻度が高く、かつ、放置すると重篤な経過を辿ることが多い単純ヘルペス脳炎の可能性を考えて、抗ウイルス剤(アシクロビル)を投与すべきであることが認められる。

本件においては、太郎は、平成一三年四月二〇日にウイルス性髄膜脳炎により死亡しているが(前記二(12)イ)、D原医師は、同年四月一四日以降、太郎を無菌性髄膜炎と診断して診療にあたっていたのであるから(前記二(6)ないし(11))、同日から太郎が西新潟中央病院に転送された同年四月一九日までの間のいつの時点で、脳実質病変を疑わせる症状が生じていたのかが問題となる。

(2)  平成一三年四月一五日の時点における脳実質病変を疑わせる症状の存否

ア 本件においては、太郎が、①同年四月一四日午前六時ころに、排尿が困難である旨を訴えていたこと(前記二(6))、②同年四月一五日午前四時三〇分ころ及び午前一一時一五分ころには、尿意はあるものの排尿ができないと排尿障害(刺激症状は伴わない。)を訴え、それぞれ尿カテーテルによる導尿がなされ、同日午後二時五〇分には尿カテーテルが残置されたこと(前記二(7))が認められる。

前記医学的知見(前記一(2)及び(4))及び《証拠省略》によれば、①急性ウイルス性脳炎による神経症状の初発症状としては非定型的であるが、排尿障害が現れることもあること、②ウイルス性髄膜炎の症状として、排尿障害が現れることは通常はないことが認められるから、太郎に現れていた上記の排尿障害は、その原因を検索することが必要とされる症状であり、特にウイルス性髄膜炎という診断のもとで診療にあたっていたD原医師としては、ウイルス性脳炎に起因する脳実質病変ではないかと疑って、検査・治療を検討する必要がある症状であったというべきである。

イ この点について、鑑定においては、鑑定人の私見としては、排尿障害が確認された同年四月一五日の時点において抗生剤(アシクロビル)の投与を開始するとしながら、ウイルス性脳炎による初発の神経症状として排尿障害が現れることは非定型的であること、太郎には他の脳実質病変を疑わせる症状・所見は存在しなかったことなどから、神経内科を専門としない一般の内科医が、同年四月一五日時点の排尿障害をもって脳実質病変であると疑うことは難しいとされている。

しかし、非定型的であっても、急性ウイルス性脳炎による初発の神経症状として、排尿障害は生じうる症状であるから、無菌性髄膜炎と診断されている患者の診療にあたっては、排尿障害の出現は、ウイルス性髄膜脳炎との鑑別をするために極めて重要な症状であるといえる。すなわち、上記のとおり、本件当時、ウイルス性髄膜炎であるかウイルス髄膜脳炎であるかの鑑別はその後の治療方針を決定するにあたって極めて重要であるところ、その鑑別の基準としては、脳実質病変による症状(意識障害、神経症状、痙攣、運動麻痺・知覚障害を含む脳局在症候、錐体外路症状など)の有無が重要であり、この脳実質病変による神経症状を疑わせる所見の一つとして、排尿障害が挙げられるということは、一般的な医学的知見として確立したものであったと認められる(なお、神経内科の専門医ではあるが、菊川医師も、私見としては、排尿障害が確認された同年四月一五日の時点において抗生剤〔アシクロビル〕の投与を開始すべきであるとしている。)から、神経内科を専門としない一般の内科医であっても、上記の知見を十分に踏まえた上で診療を実施する必要があったというべきである。

したがって、無菌性髄膜炎として経過観察中に排尿障害が生じた場合には、その時点においてウイルス性脳炎を疑うべきであるから、排尿障害が生じた同年四月一五日の時点においては、一般の内科医が脳実質病変の存在を疑うことは困難であったとする鑑定結果は、当時の一般的な医学的知見に反するものであり、直ちには採用し難い。

なお、鑑定においては、意識障害が確認された同年四月一八日の時点で直ちにアシクロビルの投与を開始せず、翌日に、アシクロビルを投与することのないまま神経内科医のいる西新潟中央病院に転送したことについても、適切な判断であったかのようにされているが、意識障害が生じた場合には、確定診断が付く前に直ちに抗ウイルス剤を投与すべきであることは前記のとおりであるとともに、また、鑑定人自身もこれを認めているところでもあり、鑑定人の上記アシクロビル投与前の転送を適切な判断とする意見は、当時の一般的な医学的知見に反することが明らかである。この点からも、鑑定は、一般の内科医に要求される医療水準を過度に低く評価するものであるといわざるをえない。

ウ 以上のとおり、同年四月一五日の時点において、太郎にはウイルス性髄膜脳炎を疑わせるに足りる所見が存在していたというべきであり、D原医師には、同日の時点で、直ちにウイルス性髄膜脳炎の鑑別診断のために必要な検査を実施するとともに、抗ウイルス剤(アシクロビル)を投与するべき注意義務があったというべきである。

それにもかかわらず、D原医師は、これを怠ったのであるから、その余の点について判断するまでもなく、同医師には、医師として必要とされる注意義務を怠った過失が存在するというべきである。

(3)  よって、D原医師が、同年四月一五日の時点において、排尿障害を確認しながら、ウイルス性髄膜脳炎の鑑別診断のために必要な検査を実施せず、また、抗ウイルス剤(アシクロビル)を投与しなかったことについては、不法行為(民法七〇九条)が成立する。

四  争点(2)(因果関係)について

(1)ア  本件においては、前記二のとおり、太郎の臨床経過において、①平成一三年四月一八日から意識障害及び痙攣という脳実質病変によるものであることが明らかな症状が生じていたこと(前記二(10)ないし(12)、②同月一九日の髄液検査では、赤血球は認められなかったものの、明らかな細胞増多(六四〇〔正常値は一五以下〕)及び蛋白定量の増加(一九六mg/dl〔正常値は一五ないし四〇〕)が確認されていること(前記二(11)イ(ア))、③ウイルス性髄膜脳炎を原因として死亡に至るほどの重篤なてんかん重積状態が生じていたこと(前記二(11)イ及び(12))、④同月一八日の頭部CT検査によって、同月一二日の頭部CTと比較して、脳浮腫を疑わせる所見が確認されていること(前記二(4)及び(10)ア)、⑤同月一二日に被告病院に入院して以来、強度の発熱並びに頭痛、悪心及び嘔吐等の髄膜刺激症状が継続していたこと(前記二(1)ないし(12))が認められる。

そして、上記症状と前記医学的知見(前記一(1)ないし(3))を総合すると、発熱及び髄膜刺激症状は髄膜炎に特徴的に見られる臨床症状であり、上記髄液所見も髄膜炎の所見と合致するものであること、これらに加えて生じた上記脳実質病変による症状(意識障害、痙攣など)及び頭部CT所見並びに強度のてんかん重積状態に陥って死亡するに至ったという重篤な臨床症状は、ウイルス性脳炎、その中でも、特に単純ヘルペス脳炎を強く疑わせるものであることが認められる。さらに、単純ヘルペス脳炎は、散発性ウイルス性脳炎として最も頻度が高いものであるから(前記一(3)エ(ア)a及び(イ)、鑑定においては、原因が判明したウイルス性脳炎〔脳炎全体の三〇%程度〕のうち六割から七割程度が単純ヘルペス脳炎であるとされている。)、本件においても、太郎の死因は、単純ヘルペス脳炎であった蓋然性が極めて高いというべきである。

イ 鑑定においては、単純ヘルペス抗体価の測定及び脳生検標本や剖検脳の病理学的検査による単純ヘルペスウイルスの確認などがなされていないため、医学的にヘルペス脳炎と断定することはできないとされている。

しかし、鑑定においても、ヘルペス脳炎の可能性も考えられるとされており、また、上記のような本件の臨床経過を総合して考慮すれば、法的判断としては、太郎は単純ヘルペス脳炎により死亡したものであると十分に評価できる。

(2)  以上のとおり、太郎の死因は単純ヘルペス脳炎である蓋然性が極めて高いというべきであるが、前記医学的知見(前記一(3)エ(ウ))のとおり、単純ヘルペス脳炎は、アシクロビルの早期投与によって、著しく予後が改善される疾患であり、特に、意識障害が軽いうちに治療を開始することが重要であるとされている。また、①脳生検、血清及び髄液の抗体反応によって診断された単純ヘルペス脳炎のうち、アシクロビルを投与した場合の死亡率について、一九%または二八%、後遺症を残さず回復した患者の割合について、三八%または五六%であるという報告や、②傾眠の状態で治療を開始した場合には後遺症は〇%、半昏睡の状態で治療を開始した場合には後遺症は四一%、昏睡に陥った状態から治療を開始した場合には半数の症例が社会復帰はできない状態に留まるという報告がある。

以上の知見を前提として検討すると、本件においては、前記二(1)ないし(7)のとおり、平成一三年四月一五日の時点では、太郎には意識障害を疑わせる症状は何ら生じておらず、前記のとおり、傾眠が認められる状態から治療を開始した場合には後遺症が〇%であったという報告もあることからして、傾眠傾向すら生じていなかった太郎に、排尿障害が生じた同年四月一五日の時点で、D原医師が直ちにウイルス性髄膜脳炎の鑑別診断のために必要な検査を実施するとともに、抗ウイルス剤(アシクロビル)を投与していれば、太郎は後遺症を残すことなく回復していた蓋然性が高かったと認められる(なお、鑑定においては、同日の時点で検査・治療が実施された場合の予後については、仮定の質問であり答えられないとされている。)。太郎は、同年四月一八日に意識障害を生じてから死亡に至るまで症状の進行が急速であったが、このことを考慮しても、上記認定が左右されるものではない。

(3)  したがって、D原医師の過失と原告らに生じた損害との間には相当因果関係があると認められる。

五  争点(3)(損害額)について

(1)  太郎の損害 九九二二万五四四八円

ア 逸失利益 八一二二万五四四八円

太郎は、死亡当時、三六歳であったから、太郎の就労可能期間は六七歳までの三一年間である。

また、太郎は、航空学生(幹部候補生コース)を卒業後、操縦士となった幹部自衛官であり、航空自衛隊の操縦士(三等空佐)として、年間九四五万四六一一円の給与所得を得ていた。幹部自衛官は、一佐まで昇進するのが通例であるが、一佐の定年は五六歳であるから、三六歳から五六歳までの基礎収入額は上記の九四五万四六一一円とし、定年後である五七歳から六七歳までの基礎収入額は平成一二年の男性労働者の全年齢平均年収である五六〇万六〇〇〇円とするのが相当である。

そして、生活費控除率を四〇%とし、ライプニッツ方式により中間利息を控除して太郎の逸失利益を計算すると、以下のとおり、八一二二万五四四八円となる。

(ア) 五六歳までの二〇年間の逸失利益 九四五万四六一一円×(一-〇・四)×一二・四六二(二〇年のライプニッツ係数)=七〇六九万四〇一七円

(イ) 五七歳から六七歳までの一一年間の逸失利益 五六〇万六〇〇〇円×(一-〇・四)×(一五・五九三〔三一年のライプニッツ係数〕-一二・四六二〔二〇年のライプニッツ係数〕)=一〇五三万一四三一円

(ウ) 合計 七〇六九万四〇一七円+一〇五三万一四三一円=八一二二万五四四八円

イ 慰謝料 一八〇〇万円

D原医師の注意義務違反の態様及び太郎が死亡するに至った経過その他本件に顕れた一切の事情を考慮すれば、太郎が受けた精神的苦痛に対する慰謝料の額は一八〇〇万円とするのが相当である。

ウ 相続

以上より、太郎の損害は九九二二万五四四八円となるが、太郎の死亡により、妻である原告花子は二分の一の割合で、子である原告一郎及び二郎はそれぞれ四分の一の割合で、太郎の財産を相続した。

したがって、原告花子は四九六一万二七二四円の、同一郎及び二郎はそれぞれ二四八〇万六三六二円の損害賠償請求権を、太郎から相続した。

(2)  原告らの損害

ア 原告竹夫及び梅子固有の慰謝料 四〇〇万円(各二〇〇万円)

原告竹夫及び梅子が太郎の父または母であること及びD原医師の注意義務違反の態様その他本件に顕れた一切の事情を考慮すれば、原告竹夫及び梅子が太郎の死亡により受けた精神的苦痛に対する慰謝料の額は、それぞれ二〇〇万円とするのが相当である。

イ 葬儀費用 一五〇万円

原告竹夫は、太郎の葬儀費用として二七五万七六〇〇円を支出したが、このうち一五〇万円が、D原医師の過失と相当因果関係のある損害であると認められる。

ウ 弁護士費用 一〇四五万円(原告花子は四九〇万円、同一郎及び二郎はそれぞれ二五〇万円、同竹夫は三五万円、同梅子は二〇万円)

本件事案の難度、認容額(原告花子については四九六一万二七二四円、同一郎及び二郎についてはそれぞれ二四八〇万六三六二円、同竹夫については三五〇万円、同梅子については二〇〇万円である。)等の事情を考慮すると、原告花子については四九〇万円、同一郎及び二郎についてはそれぞれ二五〇万円、同竹夫については三五万円、同梅子については二〇万円を本件不法行為と相当因果関係のある損害として被告に負担させるのが相当である。

(3)  原告らの損害額 一億一五一七万五四四八円

よって、原告らの損害額は、原告花子が五四五一万二七二四円、同一郎及び二郎がそれぞれ二七三〇万六三六二円、同竹夫が三八五万円、同梅子が二二〇万円となり、合計一億一五一七万五四四八円となる。

そして、これらの損害は、D原医師が被告病院の事業の執行について行った不法行為により生じたものであり、被告は使用者として民法七一五条に基づく損害賠償責任を負うべきであるから、被告には、原告らに対し、上記各金員及びこれらに対する遅延損害金を支払う義務がある。

第四結論

以上の次第であるから、原告らの本訴請求は、被告に対して、原告花子について五四五一万二七二四円、同一郎及び二郎についてはそれぞれ二七三〇万六三六二円、同竹夫については三八五万円、同梅子については二二〇万円並びにこれらに対する平成一三年四月二〇日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからその部分を認容し、その余は理由がないからいずれも棄却することとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大工強 裁判官 太田武聖 佐藤康憲)

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