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新潟地方裁判所 平成19年(わ)78号 判決 2007年6月26日

主文

被告人を懲役3年に処する。

未決勾留日数中70日をその刑に算入する。

この裁判が確定した日から5年間その刑の執行を猶予する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は,高等学校卒業後上京して数年間働いた後,古里の新潟県三条市に帰って昭和52年に結婚し,夫との間に3人の子をもうけて同市内で平穏に暮らしていた。

ところが,被告人は,平成8年ころの実父の死去等をきっかけとして,体調不良等のため寝込むことが多くなり,平成10年5月ころにはうつ病と判明し,そのころから平成14年ころまでの間,同市内の病院への入退院を繰り返し,平成16年ころにうつ病で障害者認定を受けた後も,その治療のため定期的に通院し投薬を受けながら生活していた。

他方,被告人の義母A(以下「被害者」ともいう。)は,被告人らの自宅付近で夫と二人で生活し,近所の被告人ら家族の援助をうけながらも健康に格別の問題はなく,円満に良好な関係を継続できていたが,平成15年に夫を亡くしてから認知症のような症状が出はじめ,さらに,脳梗塞を患ってからは,ほぼ寝たきりの状態となって,平成16年には要介護5級(最重度)の認定を受け,一人暮らしができずに日常生活動作の全般にわたって頻度の高い介助が必要な状態となった。けれども,被害者は,同年7月ころに新潟県三条市等で発生した水害のため浸水等した被告人らの自宅が新築されて被害者が引き取られるまで,老人福祉施設への一時入所が許可されたにとどまっていた。

被告人の夫らは,被告人がうつ病に罹患し,家族全員が前記水害で新築した自宅の借金を返済するなどのため働く必要があったことから,被害者の前記施設への継続入所等を何度か行政機関に切望したが,収容定員の問題からこれを断られたため,平成17年8月ころ,新築した自宅でやむなく被害者を引き取って同居し,月約10日のショートステイ,週2回のデイサービス及び週4回のホームヘルパーによる訪問介護サービス時を除き,被告人,被告人の夫及び3人の子の同居家族中唯一仕事のなかった被告人が,ほぼ一人で,おしめの交換や食事の世話等の被害者の介護を行う状態となっていた。

ところが,被告人は,平成18年12月25日の実母の死去を契機としてうつ病を悪化させ,翌19年1月ころから,服薬も不規則になり,被害者を介護する以外の時間はほぼ自宅1階の被告人の寝室の布団の中で横になっていた。被告人は,被害者の介護を次第に重荷に感じるようになっていたが,結局は嫁である自分の務めで放棄することはできないと考え,夫ら同居の家族に対して窮状を強く訴えて義母の介護を免除してもらうことは経済的理由からも無理だろうと思い,言い出せずにいた。

そうした中で,被告人は,同年2月ころには,被害者を殺して介護から解放されたい,被害者を殺して自分も死のうなどといった考えを次第に強めて精神的に追い詰められ,同月5日と翌6日の2回にわたり,被害者を殺そうとして包丁を持ち出したが,いずれも決心が付かず,同日にはその右胸部を衣服の上から数回軽く突いただけで思いとどまった。そして,翌7日朝,被告人は,被害者のおしめの交換の後,自室に戻って布団に横たわっていたが,再び被害者の介護について思いを巡らせ,同人を殺したいとの心情に駆られ,さらに,たまたま近所で車の騒音がしたことに対するいら立ちもあって,我慢できず発作的に被害者の殺害を決意し,同日午前10時30分ころ,1階台所から柳刃包丁を持ち出し,1階にある被害者の寝室へと向かった。

(罪となるべき事実)

被告人は,義母A(当時83歳)を殺害しようと決意し,平成19年2月7日午前10時30分ころ,新潟県三条市大字ab番地c所在の被告人方1階にあるAの寝室において,ベッド上に仰向けに横たわっている同人に対し,殺意をもって,所携の前記柳刃包丁(刃体の長さ約20.7センチメートル,平成19年押第11号の1)でその左胸部を3回突き刺し,よって,そのころ,同所において,同人を左肺損傷により出血死させて殺害したものである。なお,被告人は,本件犯行当時反復性うつ病性障害(中等症)のため心神耗弱の状態にあったものである。

(証拠の標目)

省略

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法199条に該当するところ,所定刑中有期懲役刑を選択し,判示の罪は心神耗弱者の行為であるから同法39条2項,68条3号により法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役3年に処し,同法21条を適用して未決勾留日数中70日をその刑に算入し,情状により同法25条1項を適用してこの裁判が確定した日から5年間その刑の執行を猶予し,訴訟費用は,刑事訴訟法181条1項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は,うつ病の診断による入院歴があり,その後も定期的な通院と服薬を行っていた被告人が,自宅で,寝たきりの義母である被害者を,介護サービス時を除きほとんど一人で介護していたところ,介護に疲れ,反復性うつ病性障害(中等症)の影響による心神耗弱の状態で,殺意をもって,被害者の左胸部を包丁で3回突き刺し,同人を左肺損傷により出血死させた殺人の事案である。

被告人は,上記犯行に至る経緯のとおり,約1年半の間,介護サービス時を除きほとんど一人で寝たきりの被害者を介護してきたところ,うつ病の症状の悪化に伴い,自らの体調もすぐれない上に介護の負担が重なり,家族に対して度々死にたいなどと遠回しに心情を吐露して訴えてみたもののその深刻さに気づいて真剣に取り合ってもらえず,介護がおっくうに感じられたが,家族に対する具体的な相談や介護の放棄もできず,介護から解放されたいなどと考えるうち,たまたま聞こえた車の騒音にいら立ちを抑えきれなくなり,被害者の殺害を決意して本件犯行を敢行したものである。このように,本件の動機において,被告人が罹患していた反復性うつ病性障害(中等症)が多分に影響を及ぼしたことや,公的施設による受入れがかなわず被害者を被告人宅で介護せざるを得なかった上,無職の専業主婦であった被告人において有職の夫や子らに対する相談がはばかられ,これが本件の遠因になったことなどが認められる。とはいえ,被害者が死の結果を甘受すべき理由は全く見当たらず,被害者を殺害することで問題の解決を図ろうとした犯行動機は,余りに身勝手で思慮に乏しい短絡的なものといわざるをえない。

また,本件犯行態様は,寝たきりでほぼ無抵抗の状態にあった老齢の被害者に対し,柳刃包丁で,3回にわたりその左胸部を刺突しており,思い詰めた強固な犯意が認められ,凶器を用いているなど危険かつ悪質なものである。

一方,被害者に落ち度はなく,寝たきりの状態にあったとはいえ,長い人生の幾多の困難を乗り越え,家族に尊敬され感謝しながら天寿を全うするまでおだやかに余生を過ごしたいと念願していたであろうと思われるにもかかわらず,突如としてその信頼や希望をうち砕かれてその貴い生命を絶たれたものであり,生じた結果は重大である。さらに,必ずしも社会福祉制度が十分とはいえず,高齢者や病者の自宅における介護により同居者が相当の肉体的,精神的負担を強いられかねない昨今の社会情勢において,介護に疲弊したとの理由で弱者に対する安易な殺人を許容することは断じて許されず,かかる風潮を助長させない一般予防の必要性も高く,被告人の刑事責任は重いものがあるというべきである。

他方,本件においては,寝たきりの被害者につき,従前入所していた老人福祉施設への継続入所等を何度か行政機関に申し入れたが,収容定員の問題からこれを断られて希望がかなわず自宅に引き取ることを余儀なくされたという経緯があり,高齢化やこれに対応する介護施設等の環境不備の問題が根底に存するとうかがわれること,水害の影響等により自宅の移転新築を余儀なくされ,これにより生じたローン返済等のために被害者を他の施設に入所させる経済的な余裕もなく,また,被告人の夫及び3人の子がいずれも働く必要があり,勤めをやめて被告人の被害者に対する介護を交代したり,被告人のほかに適切な介護者を見つけられなかったこと,そのため被告人が介護を放棄できず,夫ら家族に対する相談がはばかられたこと,これに対し,同人らも被告人の追い詰められた精神状態に気付けずにいたことなど,その動機や経緯において多分に同情すべき不運な事情が重なったことを認めることができる。また,被告人は犯行当時,反復性うつ病性障害(中等症)により心神耗弱状態にあったもので,犯行は発作的,衝動的なものであったとも認められる。被告人は,捜査,公判段階を通じて本件犯行を認め,被害者の冥福を祈っている旨公判廷で供述するなど,被害者に対する謝罪の意思を明らかにして反省の態度を示している。さらに,被害者の遺族のうち,実妹らは被告人の精神状態を酌んだ処分を望み,被害者の唯一の子である被告人の夫が公判廷に出廷し,被告人との間の3人の子と共通する意思として,被告人の処罰を望まず,その早期の社会復帰を求め,被告人を温かく迎え入れその精神状態の改善に協力する意向を明らかにしている。なお,地域住民らから多数の嘆願書が検察庁や裁判所に寄せられたことからして,被告人の今後の更生に向けて地域住民らの援護や種々の配慮が期待できることも被告人に有利な事情と指摘できる。そして,一般予防の観点からは,これらの数多くの嘆願が一人被告人のためのみならず,日々同様の多重苦の困難に直面している家庭や病者に対する深い理解へと発展し,関係各機関の一層の尽力はもとより病院や行政,地域住民らの適切な連携をとおして同様の不幸な事件の再発防止策を具体的に樹立していくよすがになることも必要と痛感されるところである。その他,被告人には前科前歴がないこと,これまで心身ともに万全でない中でまじめに被害者の介護を続けてきたこと,本件により約4か月半の間勾留されたことなど被告人に対して有利に斟酌すべき各事情も認められる。

そこで,被告人については,心神耗弱のため法律上の減軽をした上,上記のとおり認められる被告人に対して有利,不利に斟酌すべき一切の情状を併せ考慮した結果,被告人については主文の刑に処し,今回に限りその刑の執行を猶予して,医療施設等の専門機関による援護をも視野に入れた中で,心身の状態の改善と自力更生の機会を付与することが相当であるものと判断した。

よって,主文のとおり判決する。

(求刑 懲役5年)

(裁判長裁判官 大谷吉史 裁判官 齋藤千恵 裁判官 岩田淳之)

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