新潟地方裁判所 平成8年(ワ)160号 判決 2002年9月13日
平成8年(ワ)第160号 損害賠償請求事件(甲事件)
平成9年(ワ)第634号 損害賠償請求事件(乙事件)
主文
1 甲事件被告及び乙事件被告は,原告に対し,連帯して金3866万5016円及びこれに対する平成8年4月2日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用はこれを3分し,その1を原告の負担とし,その余を被告らの負担とする。
4 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。ただし,甲事件被告は,金3000万円の担保を供するときは,上記執行を免れることができる。
事実及び理由
第1請求
1 甲事件
甲事件被告国(以下「被告国」という。)は,原告に対し,金5205万1063円及びこれに対する平成8年4月2日から支払い済みまで年5分の割合による金員を支払え。(遅延損害金の起算日は,甲事件訴状送達の日の翌日である。)
2 乙事件
乙事件被告新潟県(以下「被告県」という。)は,原告に対し,金5205万1063円及びこれに対する平成8年4月2日から支払い済みまで年5分の割合による金員を支払え。(遅延損害金の起算日は,甲事件被告への同事件訴状送達の日の翌日である。)
第2事案の概要
本件は,被告国が設置する病院で不妊治療を受けていた患者の夫である原告が,患者の死亡が不妊治療の担当医師らの説明義務違反,治療の副作用である卵巣過剰刺激症候群の発症防止義務違反及び発症後の処置義務違反によるものであるとして甲事件被告に対して債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償を求めると共に,患者が卵巣過剰刺激症候群発症後に入院した病院の医師らが過剰な輸液等をした処置義務違反があるとして病院を設置する被告県に対して債務不履行又は不法行為(甲事件被告との共同不法行為)に基づく損害賠償を求めた事案である。
1 前提事実(当事者間に争いのない事実並びに証拠〔略〕及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実)
(1) 当事者等
ア 原告は,A(昭和39年4月22日生,平成7年11月8日死亡)の夫であり,相続人である。
イ 被告国は,B病院を設置し,これを運営している。
ウ 被告県は,C病院を設置し,これを運営している。
(2) Aの死亡に至る事実経過
ア Aは,排卵異常による不妊症であったため,平成6年2月22日から,千葉県木更津市所在のD病院産婦人科において不妊治療を受けるようになった。D病院では排卵誘発剤であるクロミッドの投与を受けたが,排卵がなく,妊娠することがなかった。
イ D病院のd医師は,平成6年7月ころ,Aに対して,妊娠を希望するのであれば,HMG製剤(卵巣〔未熟卵胞〕刺激剤)による治療が必要であるが,Aの卵巣には異常があり,HMG製剤による治療は命の危険を伴うこともあるので,仮に同治療をするのであれば入院して受けるべきである旨を説明した。Aは,原告に,医師の説明を伝え,治療を受けるか否か相談した結果,HMG治療を受けることを断念した。
ウ Aは,平成7年3月,不妊治療のためにE総合病院に通院するようになったが,原告の新潟県への転勤に伴い,同病院の紹介を受けて,同年5月2日から,B病院産婦人科に通院するようになった。Aは当時,新潟県西頸城郡w町に居住しており,B病院への通院は,高速バスで片道2時間以上を要していた。
エ B病院の医師らは,基礎的な検査をした後,平成7年7月11日から,2周期にわたり,Aにクロミッドを投薬したが,排卵はなかった。検査において,Aが,多嚢胞性卵巣型(以下「PCOタイプ」という。)であることが確認されていた。
オ 平成7年9月14日,B病院のf医師は,Aに対し,排卵を得るために次回の月経後にホルモン注射(HMG製剤の投与)をする旨告げ,実際の注射は,新潟県上越市所在のC病院に通院して受けるよう指示した。
Aは,f医師の指示に従い,同年10月1日から同月5日までの5日間,HMG製剤のひとつであるフェルティノームP(セローノ・ジャパン社)各150IU(国際単位)の筋肉内注射を受けた。
カ Aは,同年10月6日,B病院を受診した。その際,g医師は,糸魚川市所在のH医院のh医師に架電し,Aに対するフェルティノームPの投与を依頼したが,H医院には,同薬剤の在庫がなく,日研化学社製のHMG製剤(以下「HMG日研」という。)しかなかったため,その旨h医師が答えたところ,g医師は,HMG日研でもよい旨返答した。
Aは,g医師の指示に従い,同年10月7日から同月10日までの4日間,HMG日研各150IUの投与を受けた。g医師は,Aに投与されるHMG製剤がフェルティノームPからHMG日研に変更された旨をカルテに記載しなかった。
キ Aは,同月11日,B病院を受診した。i医師は,AにHCG製剤(ヒト絨毛性ゴナドトロピン)を投与し,同月22日に受診するよう告げた。
同月12日ころから,Aに下腹痛,吐気がみられるようになり,同月13日,B病院を受診した際も,下腹部の痛み等を訴えた。m医師は,この時点で,Aが卵巣過剰刺激症候群(以下「OHSS」ともいう。)になりかけているとの診断をした。
Aの腹痛は増悪し,同月14日,H医院において診察を受けた結果,卵巣が大きく腫大していることを指摘され,同月15日,B病院で診察を受けた。B病院のn医師及びo医師は,Aに対し,卵巣が腫大していること,脱水状態に陥っていることを告げ,できるだけ水分を摂取するよう指示をしたものの,入院処置をとることはなく,2,3日後に通院するよう指示した。この時点で,n医師らは,Aに腹水が生じており,OHSSに罹患しているとの診断をしていた。
ク Aの腹痛はさらに激しくなり,同月16日朝方,C病院に入院した。C病院のp医師は,原告に対して,AがOHSSに罹患していることを告げた。
f医師は,C病院医師に依頼状を送付した。同依頼状には,Aの症状につき,10月13日に卵巣が腫脹していたこと,腹水のあったこと,重症のOHSSであること等の記載があった。
ケ Aの容態は,その後悪化し,同月21日には,肺水腫となって一時的に心臓が停止し,同月22日にも一時的に心臓が停止した結果,意識不明に陥り,Aは同年11月8日,死亡した。
(3) Aに対する不妊治療
ア B病院等でAに対して行われた本件の治療(以下「HMG-HCG治療」という。)は,閉経後の女性の尿から得られるゴナドトロピンというホルモン(HMG製剤)を患者に投与して卵胞を成長させ,卵胞成熟が得られた後,ヒト絨毛性ゴナドトロピン(HCG製剤)を投与し,排卵を引き起こすものである。
イ HMG-HCG治療は,HCG製剤投与後に,副作用としてOHSSを引き起こすことが指摘されている。OHSSは,卵巣腫大,下腹部痛,腹水・胸水をともなうメーグス様症候群等を惹起する副作用である。
ウ PCOタイプの患者は,OHSSを引き起こしやすいことが指摘されており,HMG-HCG治療を実施するとしても,HMG製剤中に黄体化ホルモン(LH)が除去されないまま残っているものが多いことから,LHがより少ないフェルティノームPを使用することとされており,その他の製薬会社のHMG製剤の使用は添付文書の注意事項において禁忌又は原則禁忌とされていた。
2 争点
(1) 甲事件(被告国の賠償責任の有無)
ア 注意義務違反の有無
(ア) 説明義務違反の有無
(イ) OHSSの発症防止義務違反の有無
(ウ) OHSS発症後の処置義務違反の有無
イ 注意義務違反と死亡の結果との因果関係
ウ 損害額
(2) 乙事件(被告県の賠償責任の有無)
ア 注意義務違反の有無
イ 注意義務違反と死亡の結果との因果関係
ウ 損害額
3 争点に関する当事者の主張
(1) 争点(1)ア(ア)(説明義務違反の有無)について
ア 原告の主張
(ア) Aは,平成6年2月22日から受診したD病院のd医師より,HMGという薬剤の名称を使用した説明を受けており,自分自身がHMG-HCG治療を受けた場合には死亡の危険もあるとの認識を持ち,同治療を断念していた。その後,AはE総合病院に通院し,さらにB病院に通院しているが,HMG製剤を使用しない治療による出産を希望していた。Aや原告は,不妊治療に関する専門家ではなく,不妊治療としていかなるものがあるか,HMG-HCG治療以外に治療法がないこと等について知識を有していなかった。
(イ) B病院医師らは,Aが多嚢胞性卵巣症候群(以下「PCOS」ともいう。)の患者であり,HMG-HCG治療を実施した場合,OHSSを惹起する確率が相当程度高い患者であることを当初より認識していた。また,同治療は,治療をしなかった場合に患者が死亡するに至ったり,日常生活が困難になるという疾患に対する治療ではなく,危険を伴う人為的操作により子供をもうける治療であるから,患者自身が,その治療の危険性を十分認識した上で自己決定をなすべき治療類型である。不妊治療を受けようとする患者は,人為的操作によって自分にどのような障害や合併症が起きるものかについて具体的な知識を有していないから,専門家である医師において,患者に対して,治療の意義,限界,危険性等について,十分な説明をしなければならない。
したがって,B病院医師らは,OHSSが起きる確率,病態,危険性等について,Aに十分に説明するべき注意義務があった。
(ウ) しかるに,f医師は,HMG-HCG治療を開始するにあたって,同用語を使用して正確な説明をすることがなく,またこれによって生じる可能性のあるOHSSや多胎妊娠について説明しなかった。また,i医師は,HCG製剤投与時点の卵巣の腫大や,卵胞の径,個数等からすると,中等ないしは重症のOHSSが発症することが予見可能であったにもかかわらず,HCG製剤投与前において,OHSSや多胎妊娠について説明せず,OHSS発症の危険性をAが十分理解した上で,同危険性があってもなおHCG製剤投与を受けるとの選択(自己決定)をさせることのないまま,HCG製剤を投与した。B病院医師らに,説明義務違反があったことは明らかである。
イ 被告国の主張
(ア) f医師は,平成7年9月14日,Aに対し,クロミッドによっては排卵がないこと,クロミッドで効果がない場合にHMG-HCG治療が考えられること,HMG-HCG治療を行うとOHSS(卵巣過剰刺激症候群)という副作用があること,OHSSは,腹水,胸水が貯まることもあり,場合によっては入院も必要であること,治療すれば回復することを説明した上で,もう少しクロミッドを続けるか,HMG-HCG治療を行うかを尋ねた。それに対し,AがHMG-HCG治療を選択したため,f医師は,HMG-HCG治療の具体的な手順等を説明した。これらによれば,f医師は十分な説明を行っており,何ら説明義務違反の過失はない。
原告は死亡の危険性があることについても説明を行う注意義務が存在すると主張する。しかし,OHSSの予後は一般に良好であり,死亡例は40万周期から50万周期に1件程度しかないといわれており,そもそも重症化することも稀な疾患である。そのような極めて稀なケースについてまで説明を行えば,ただ患者の不安感を無用に煽り,有害無益であって,このような説明をなすべき注意義務は存在しない。
(イ) i医師は,Aに対し,HCG製剤投与をすればOHSS発症の可能性があること,HCG製剤投与を行わなければ,OHSS発症は回避できるが排卵も起こらないこと,腹痛等の症状が現れた場合には連絡するよう説明した上で,HCG製剤投与を行った。
(2) 争点(1)ア(イ)(OHSSの発症防止義務違反の有無)について
ア 原告の主張
(ア) OHSSは,本件当時において発症機序が解明されておらず,根本治療は不可能とされていたものであるから,HMG-HCG治療を施行する医師は,できうる限り治療法に工夫を加え,その発症を防止する注意義務(発症そのものは予見できるから,ここでは結果回避義務)がある。
B病院は,新潟県内における指導的病院であって,同産婦人科教室内には,専門的な不妊治療グループが存在しており,全国的にも不妊治療等で実績を上げていたとされる病院であるから,不妊治療における医療水準は,他の大学病院と同等であるべきもので,本件当時,他の医療機関等で実施されていた治療,検査法等も実施でき,かつこれに関する知見を有するべき医療機関であった。したがって,注意義務の基準となる医療水準は,本件当時における実践医療における先端の医療水準(国内における最高の医療水準)となる。
(イ) PCOSであったAは,OHSSを発症しやすいハイリスクタイプであったが,このような患者に対して,HMG-HCG治療を施行する場合,OHSSの発症の危険が具体的に予見できるから,医師らは,より一層の慎重さでOHSSの発症を防止するための処置をとるべきであった。したがって,同治療を実施するにあたっては,OHSS発症防止のために,①HMG製剤として,フェルティノームPを選択した上で,同添付文書記載の指示事項を遵守し,②本件当時,OHSS発症防止のために必要とされていた卵巣,卵胞の厳重な観察を徹底し,さらにエストロゲン値検査を実施して,OHSS発症の危険が高く,OHSSが重篤になりうると予見しえた場合には,HCG製剤を打つことなく,同治療を中止すべき義務があった。B病院においては,治療にあたっての統一的な指針等が存在していたが,同指針やマニュアルはHMG-HCG治療に関しては詳細さを欠いており,本件治療にあたったB病院医師らは,マニュアルにさえも従っていなかった。
a 医薬品の添付文書の記載事項は,当該医薬品の危険性(副作用等)につき最も高度な情報を有している製造業者又は輸入販売業者が,投与を受ける患者の安全を確保するために,これを使用する医師等に対して必要な情報を提供する目的で記載するものであるから,医師が医薬品を使用するに当たって添付文書に記載された使用上の注意事項に従わず,それによって医療事故が発生した場合には,これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り,当該医師の過失が推定される。PCOS患者にはフェルティノームPをHMG製剤として選択し,同添付文書の使用上の注意事項を遵守することが必要であり,他のHMG製剤は原則禁忌又は禁忌であった。B病院医師らも,AにHMG-HCG治療を施行するにあたって,フェルティノームPを第一選択としていた。平成7年10月7日からH医院でAに投与されたHMG日研の添付文書には,投与によりOHSSを発症しやすいため,多嚢胞性卵巣のある患者(PCOSの患者)には原則禁忌である(投与しないことを原則とするが,特に必要とする場合には,慎重に投与するべき)との記載があった。
PCOSであったAは,当初,フェルティノームPの投与を受けており,その後もこれを継続することに特段の問題はなかったが,g医師は,必要もなく添付文書の注意事項に反してHMG日研を使用したのであり,注意義務違反がある。
b フェルティノームP及びHMG日研の添付文書には,同薬剤による治療においては,卵巣過剰刺激による副作用をさけるため,投与前及び治療期間中は毎日内診を行い,特に自覚症状(特に下腹部痛)の有無及び卵巣腫大の有無に留意し,異常が認められた場合は直ちに投与を中止するべきことが記載されていた。
当初のフェルティノームPはC病院医師が,HMG日研はh医師がそれぞれB病院医師らの依頼によってAに投与したが,本治療の施行について責任を有するのはB病院医師らであるから,同医師らは,添付文書にしたがって問診し内診するよう依頼する義務があるのに,C病院医師やh医師に対して,この内診等を依頼しなかった注意義務違反がある。仮にC病院医師,h医師が医師として独自に添付文書に従う義務があるとしても,同医師らはB病院医師らの依頼にしたがって薬剤を投与するという意味において履行補助者であるから,B病院医師らは履行補助者が義務を怠ったことについてその責任を免れない。
c Aは,平成7年10月7日にH医院でHMG日研の注射を受けてから左側とへその辺りに下腹部痛があり,HMG日研の投与は添付文書にしたがって中止すべきものであった。同月11日に診察したB病院のi医師及び履行補助者たるh医師が添付文書の注意事項を遵守して,自覚症状の有無を注意深く問診して,下腹部の痛みを捉えていれば,HCG製剤投与はされることはなかった。更にAは,同月12日,13日に,歩いたり振動で左側の辺りが前より痛むようになった。同月12日はHCG製剤投与を受けた翌日であるが,同月7日以降,下腹部の痛みが継続していたことが窺われる。同月11日に診察したi医師が,添付文書を遵守した問診をしていれば,下腹部痛が生じていたことは容易に把握できた。
また,本件当時,超音波検査法が発達しており,同検査によって,卵巣腫大の有無の確認や,卵胞の発達状態を容易に把握することができたし,OHSS発症はエストロゲン値が深く関与していることから,血中又は尿中の値を検査し,卵巣の腫大や卵胞の状態も併せ考慮して,OHSS発症の危険性が高いことが予見できた場合,HCG製剤投与を中止すべきとするのが医療水準であった。本件当時の医学文献によれば,確かに確立した一定の値や個数があるとまではいえないものの,エストラジオール値が高い場合,卵巣が腫大している場合,未成熟の卵胞が多数と認められる場合には,OHSS発症の危険が高まることは一致していた。
そして,10月11日時点でAの卵巣が5センチメートル以上に腫大し,卵胞も極めて多数であったことからすると,極めて高率にOHSSが発症すること,しかも,中等症や重症になる可能性が高いことを予見することができた。また,本件治療は直ちに妊娠を意図したものではなく,単にAの排卵の有無を確認する目的での治療だったから,OHSS発症の危険が予見できれば,当然にHCG製剤の投与は中止すべきであった。
しかるに,i医師は,尿中エストロゲンの測定,卵胞の個数,径等の計測を厳重かつ慎重にしないままHCG製剤を投与したもので,注意義務違反がある。
イ 被告国の主張
(ア) 原告は,HMG-HCG治療においては,フェルティノームP等の添付文書(能書)記載のとおり,毎日内診し,超音波により卵巣腫大の有無を確認する等の診療を行う義務があったにもかかわらず,B病院医師らはこれを怠った旨主張する。
しかし,1996年(平成8年)4月改訂のフェルティノームPの添付文書においては,改訂前の「投与前及び治療期間中は毎日内診を行い」との記載が削除されており,原告の主張の前提は医学的に誤りである。さらに,OHSSは,HMG製剤投与後に行われるHCG製剤投与を契機に発生する疾患であり,HCG製剤投与前の段階では,このような厳重な経過観察は不要である。HMG製剤投与後HCG製剤投与前の段階で腹痛ないし腹部膨満等の症状が出現することはあるが,これはHMG製剤投与により卵巣が腫大することから不可避的に起こるものであり,OHSSを発症したものではない。
したがって,C病院医師及びh医師に経過観察を要請すべきとの原告の主張もそもそも根拠を欠くものである。さらに,原告は,経過観察義務について,HMG製剤の添付文書の内容を根拠にするが,AにHMG製剤投与を行った医療機関は,いずれもHMG製剤を常備しており,その添付文書も備えているのであるから,その内容についてわざわざ通知,要請する必要性はなく,そのような義務も存在しない。
(イ) 多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)について一般的に,重篤なOHSS発症の危険因子として,ネックレス・サイン(卵巣における多数の小卵胞の配列)が挙げられており,このネックレス・サインは,PCOSの典型的な所見である。Aの症状は,黄体化ホルモン(LH)が卵胞刺激ホルモン(FSH)に比して多かったものの,日本産科婦人科学会の生殖・内分泌委員会報告によるPCOSの診断基準案からは,卵巣所見で多数の卵胞の嚢胞状変化(具体的には片側の卵巣に卵胞が10個以上,両側を合わせて20個以上)は認められず,典型的なPCOSには当たらないものであった。特に,Aの卵巣に見られる小卵胞の数は数個のみであって,典型的なネックレス・サインは呈しておらず,重篤なOHSSの発症を予測させるものではなかった。そのため,Aは,典型的なPCOSではなく,PCOタイプと診断された。
ア フェルティノームPとHMG日研は,ヒトの尿から精製され,多種あるHMG製剤の中で,従来からのHMG製剤と区別して「純化FSH製剤」に分類される。フェルティノームPもHMG日研も,主成分であるFSH成分の他に微量のLH成分を含んでいるものの,従来からのHMG製剤に比べて格段にLH成分の割合が低く,成分が極めて近似しているため,臨床的には両者は同等の薬理効果を持つと考えられて使用されている。フェルティノームPとHMG日研の間には,OHSSの発生率に有意差はない。また,LH成分が純化FSH製剤に比して桁違いに多い従来からのHMG製剤も,PCOSの患者に使用されている。さらに,高純度FSH製剤SJ-1001と従来からのHMG製剤を比較した研究において,OHSSの発症率には有意差があったが,重症OHSSの発生頻度には差がなかったことが報告されている。
したがって,本件で問題となっている重症OHSSの発症は,どの種類のHMG製剤(ないしは純化FSH製剤)を使用すれば防げるものではなく,また,発生頻度にも無関係なのである。
イ HMG日研の添付文書には,多嚢胞性卵巣のある患者は原則禁忌との記載があるが,「禁忌」と「原則禁忌」の意義は異なり,Aの場合には,典型的なPCOSではなく,いわゆるネックレス・サインも認められなかったうえ,クロミッド投与による治療が奏功せずHMG製剤投与を行う必要性が高かったのであるから,HMG日研投与を行うことが禁止される場合には当たらない。さらに,フェルティノームPは,多嚢胞性卵巣に対する適応申請がなされているため,添付文書に原則禁忌の記載はないものの,副作用としてOHSSの記載があるとおり,フェルティノームPのみ投与していればOHSSの発症や重症化を防ぐことができるものではない。
さらに,担当医(g医師)は,HMG製剤投与が数日間連続して行われるものであり,Aが近医での投与を希望したことに配慮して,臨床的にはフェルティノームPと差異のないHMG日研投与を決定したものである。
ウ したがって,Aに対してHMG日研を投与したことは,医師の裁量の合理的範囲内である。
(ウ) 次のとおり,HCG製剤投与の適否判定のために必要な注意義務は尽くされており,原告の主張はいずれも理由のないものである。
a 血中エストラジオール値
実際に血中エストラジオール値がいくつ以上であればHCG製剤投与を中止すべきであるかについては,様々な報告がなされており,統一されていない状況であり,臨床医療において,HCG製剤投与の適否を決定するために血中エストラジオール値を測定することは一般的ではない。また,血中エストラジオール値検査は,ラジオイムノアッセイという放射性試薬を用いた方法で行うために外注検査となり,その日のうちに結果を入手して診療に反映させることは困難であり,これらの理由から,本件当時,HMG-HCG治療において,血中エストラジオール検査は通常行われていなかった。
したがって,担当医において,HCG製剤投与に際して血中エストラジオール値検査を施行する義務は存在しない。
b 尿中エストロゲン
尿中エストロゲン検査は,リアルタイムにできるのは定性検査(陰性,弱陽性,陽性等の結果が出るもの)のみであり,具体的な数値の分かる定量検査をリアルタイムに行うことはできない。よって,定性検査による尿中エストロゲン検査は,卵胞の成熟状態を見極めてHCG製剤投与のタイミングを判断する上では有用であるが,通常の場合とOHSS発症の場合を比較しても検査結果に明確な差異が現れず,具体的にどのような数値であればHCG製剤投与を中止すべきかという明確な基準は存在せず,OHSS発症の危険性,発症した場合の重症度等を判断する上での指標となりうるものではない。よって,OHSS発症との関係が問題となっている本件において,尿中エストロゲン検査を行わなかったことについて何ら過失はない。
c 卵胞の大きさ,数
卵胞の数が20個から30個に達した場合にはHCG製剤投与の中止を検討することもあるが,本件の超音波検査によれば卵胞は14個程度である上,卵巣の実質は保たれており,特にHCG製剤投与を中止すべき所見は認められない。また,OHSSは,HMG-HCG治療においては発症率がかなり高く,発症を回避することは困難であり,むしろHMG-HCG治療においてはOHSS発症が前提となっているともいえること,OHSSは重症化することは極めて稀であることからすれば,卵巣がやや腫大していたこと等の事情をもってHCG製剤投与を回避することは通常は行われていない。
(3) 争点(1)ア(ウ)(OHSS発症後の処置義務違反の有無)について
ア 原告の主張
(ア) Aは,HCG製剤投与の翌日である10月12日から,歩行や振動による左側腹部の痛みが同月7日に比較して激しくなり,朝から吐き気もあった。翌13日も同様であり,痛みが激しい状態であった。同日のB病院での診察において,m医師は,卵巣の状態を見て,さらに下腹部の痛みと吐き気を確認した上で,OHSSになりかけていると診断したものの,次回の診察は次回月経時との指示を出したのみであった。当日の,Aのヘマトクリット値(血液中の血球の比率)は33.4%であった。
腹部の痛み等はその後も悪化するばかりであったことから,Aは,同月14日,HMG製剤投与を受けたH医院を受診した。AのOHSSは急激に進行していた。当日採血され,同月16日に報告された血液検査の報告では,白血球数は1万2500,ヘマトクリット値は40.9%で,前日に比較して7%上昇しており,急速な血液濃縮傾向が見られた。
Aは,入院する必要があると思い,同月15日,原告ともども,B病院を受診した。診察にあたったn医師は,入院不要と診断した。
(イ) 本件当時におけるOHSSの治療に関する医療水準によれば,PCO等,OHSSの危険因子を有する症例や,HCG製剤に切り替えた後,2ないし3日で中等症のOHSSとなった場合では,急激に重症化することがあるので,中等症の段階で入院加療する必要があるとされていた。また,患者が遠方に居住するために厳重な外来管理が不可能な場合も入院が必要とされていた。
Aが若年でPCOSであることからそもそもOHSS発症のリスクが高く,HMG製剤投与中であった10月7日ころからすでに腹部痛を感じていたこと,HCG製剤投与後に上記の自覚症状,臨床症状を呈していたことからすれば,Aは,少なくとも10月15日時点において,重症のOHSS又は重症化が予想される中等症のOHSS(PCOSというハイリスク患者でHCG製剤投与後早期にOHSSが中等症となった状態)にあったのであり,これをB病院医師らは認識することが可能であった。本件当時のAの居住地がB病院に通院するためには片道約3時間程度を必要とする青海町で,通院管理とすることはほぼ不可能であったことを併せ考慮すれば,B病院医師らは,10月15日にAをB病院に入院させた上で,厳重に経過観察し,必要な検査(血算,血清総蛋白,超音波検査等)を実施して,これ以上OHSSが重篤化することのないよう適切な治療処置をすべき義務があったもので,これを怠ったB病院医師らには注意義務違反があったことは明らかである。
(ウ) 以上のとおり,B病院医師らには,説明義務違反,発症防止義務違反及び発症後の処置義務違反の過失があり,後述のとおり,Aの死亡はこれらの過失に起因するから,同医師らの雇用者である被告国は債務不履行(民法415条)又は使用者責任(民法715条)に基づく損害賠償義務を負う。また,本件においては,大学病院特有のチーム医療であることによる各医師間の診療経験や能力差等に鑑みて,本来は統一した治療方針,検査方針等があるべきであった上,各治療行為者相互間の情報はカルテの記載以外にはなく,その記載内容が充実しかつ正確性を保つ必要性が極めて高かったにもかかわらず,統一した緻密かつ適切な治療方針もなく,カルテの記載も杜撰かつ不正確であったことがAの死亡という結果を生じた要因となっているから,個々の医師の注意義務違反に留まらず,そのような診療体制であったこと自体による構造的過失が認められる(組織体としての過失,民法709条の直接適用)。
イ 被告国の主張
OHSSは,重症化すること自体稀な疾病であり,予後も良好である。また,HCG製剤投与を契機として発症するものの,その影響は,妊娠が成立しない限り1週間程度で消失し,快復するのが通常である。よって,中等症(ヘマトクリット値45%未満)の段階で入院治療を必要とするか否かは医師の裁量の範囲内といえ,事実,重症を入院の適応としている文献も多数存在する。
OHSSについて最も懸念すべき事態は,循環血液量の減少,血液濃縮等による血栓症の発症であることからすれば,OHSSの重症度の判断において最も重要な指標はヘマトクリット値であって,ヘマトクリット値を中心に総合的に判断すべきであるところ,13日及び15日いずれの時点においても,AのOHSSは中等症というべき状況であった。また,Aの自宅近くにOHSS治療が可能な医療機関が全くないのであれば別であるが,本件の場合には,実際にC病院に入院して治療を受けているものであり,地理的条件のみで入院させなければならない法的義務が発生するものではない。
したがって,B病院医師らにおいて,Aを入院させなければならない注意義務は存在しなかったものである。
(4) 争点(1)イ(注意義務違反と死亡の結果との因果関係)
ア 原告の主張
(ア) 説明義務違反との因果関係
Aは,B病院医師らよりHMGという用語を使用したHMG-HCG治療の説明を受け,B病院での治療がHMG-HCG治療であると理解したのであれば,同治療は受けていなかった。B病院医師らの説明義務違反は,Aの自己決定権を奪い,それ自体人格権を侵害するものであったが,これにとどまらず,Aの死亡との間に相当因果関係があり,同医師らの雇用者である被告国は,人格権の侵害にともなう慰謝料だけではなく,死亡によって生じた全損害について賠償義務を有する。
(イ) 発症防止義務及び処置義務違反との因果関係
Aの死亡は,後医であるC病院医師らの注意義務違反と直接的因果関係を有するが,OHSSの発症,重篤化は,B病院医師らの注意義務違反に基づくものである。B病院において外来管理として放置した結果,Aの症状をさらに悪化させ,そのまま放置すれば死亡にいたる状態であったところ,その後,治療にあたったC病院医師らにおいて適切な治療を施行していれば高度の蓋然性をもって救命できたのであるから,B病院医師らの注意義務違反とC病院医師らの注意義務違反とのいずれもが,Aの死亡という不可分の一個の結果を招来したのであり,その結果について相当因果関係を有する。
(ウ) よって,民法719条の共同不法行為として,被告らは,Aが被った損害の全額について連帯して責任を負う。
イ 被告国の主張
(ア) HMG-HCG治療においては,軽症例も含めるとOHSSは頻発するものであり,不妊治療において目指す妊娠の成立とOHSSの発症は同方向にあり,妊娠の成立を日指す以上,OHSSの発症を避けることは不可能である。また,OHSS発症例の中で,死亡例は数十万件に1件と,極めて稀なケースである。
(イ) 原告は,HMG日研ではなくフェルティノームPのみを投与していればOHSS発症を防げたとの主張をする。しかし,HMG日研とフェルティノームPとの間にOHSS発症率について有意差はないし,フェルティノームPによっても,OHSSは発症するのであり,フェルティノームPではなくHMG日研を投与したこととOHSS発症との間に因果関係がない。
(ウ) 原告の主張は,入院させ,厳重な経過観察を行っていれば,どのような症状,検査結果が判明し,それによりHMG-HCG治療を打ち切る事態になったのかについて何ら具体性がない。よって,OHSS発症による死亡を防げたとの原告の主張は,そもそも前提を欠くものである。
(エ) Aは,入院せずに輸液等の治療を行わなかったため,OHSSの主症状である循環血液量の減少,血液濃縮を招き,血栓症によって死亡したものではなく,むしろ,C病院における水分出納を無視した過剰輸液により肺水腫を発症し,さらにその肺水腫について適切な治療が行われなかったことにより死亡したものである。よって,Aが死亡したことは,AのOHSSが重症化傾向にあったことを示すものではなく,無関係である。本件HMG-HCG治療を行った当時,B病院の医師らにおいて,このようなC病院の不十分な治療によりAが死亡することを予見することは不可能であり,Aの死亡とB病院における治療とは相当因果関係がない。
a Aのヘマトクリット値は,10月15日に42.3%,同月16日(入院日)に41.3%,同月17日に41.5%であり,いずれも正常値である35%から45%の範囲内であるばかりでなく,上昇傾向にもない。さらに,10月15日のB病院受診時より,C病院入院時には,数値が改善している。また,同月16日午前6時の入院時には下腹部痛は軽減しており,エコー等の検査は日中する予定となっているし,トイレ歩行もできている。バイタルサイン(血圧,脈拍,体温)も普通であるし,呼吸困難等の症状もない。また,入院後である10月17日の胸部レントゲン写真には,肺浮腫,肺水腫の所見はない。したがって,C病院入院時において,Aの病状は,悪化傾向にはなかったのであり,もちろん死亡の危険のあるような状況ではなかった。
b Aの死亡原因は,OHSSにおいて危惧される循環血液量の低下に伴うショックやこれに関連した血栓症ではなく,肺水腫を発症したことによる低酸素血症から呼吸不全,心不全,多臓器不全を生じたものである。その死亡原因の根本的な原因となった肺水腫は,血栓症等とは異なり,むしろ体内水分の過剰に起因する病態である。
(a) C病院においては,10月16日から同月19日まで,連日,生理食塩水3000mlもの水分出納を無視した多量輸液を行っている。すなわち,10月16日の水分出納は,体内に摂取された水分が輸液3000ml及び飲み水290mlで合計3290mlであるのに対し,排出された水分が尿510mlのみであり,2780mlの超過になっている。同月17日は,摂取された水分が輸液3000mlと飲み水980mlで合計3980mlであるのに対し,排出された水分が尿490mlと腹水穿刺1000mlで合計1490mlのみであり,2490mlの超過となっている。これは,不感蒸泄(汗等で体から失われる水分)を考慮しても,連日,1日当たり2000ml以上の水分が体内に蓄積されたことになり,事実,47キログラムであったAの体重が,過剰輸液によって10月16日には52キログラムになっている。さらに,同月18日には,尿量が520mlであるのに対し,4000mlの多量輸液が行われている。これらにより,Aには心不全のおそれのあるナトリウムの過剰投与が行われたことになる。
OHSSにおいては,メカニズムが不明の点はあるが,卵胞ホルモンの作用により血管透過性が増して血管内の水分が血管外に漏出すること,血液凝固系が亢進する状態になることは判明している。したがって,OHSSで血管透過性が亢進している状態において,蛋白等の補充をせずに,安易に水分の輸液のみを行っても,水分は直ちに血管外に漏出し,ヘマトクリット値は低下することはないばかりか,むしろ漏出した水分が腹水,胸水となって肺水腫を招くのである。Aの入院時のヘマトクリット値41.3%は,正常値の範囲内であって,そもそも輸液をする必要性はなく,仮に輸液を行うとしても,尿量を検討した上で適切量を輸液すべき状態であった。C病院は,血管透過性が亢進状態であるにもかかわらず,過剰輸液を行い,肺水腫,心不全を惹起せしめたのである。
(b) また,C病院は,10月19日,突然950ml(19本)という常用量をはるかに逸脱した量の25%アルブミンを投与している。アルブミン1グラムは18mlの血漿を引きつけるので,950mlの25%アルブミンに含まれる237.5グラムのアルブミンで4275mlの血漿(成人女性の全血漿量に匹敵する。)が一度に増えることになる。
Aは妊娠していなかったため,妊娠によるHCGの産生がなく,HCG製剤投与から1週間以上経過していたため,OHSSが改善に向かっており,亢進していた血管透過性も低下していた状態であったものと推測される。このように通常の状態に戻りつつあったところに極めて大量のアルブミンが急激に投与され,それまでの過剰輸液により10月19日の時点で約8000mlの超過状態となって貯留した腹水等から,4275mlの血漿が供給されることとなり,血管内に還流することになる(そのため,10月19日から同月20日の1日の間にヘマトクリット値が20.8%も異常に低下した。)。これにより,循環血漿量が突如2倍となったため,血管内の容量が過剰となり,肺水腫,心不全を招いたのである。アルブミン製剤の添付文書にも,急速に注射すると,心過負荷等の循環障害及び肺浮腫を起こすことがある旨の記載がある。
(c) HCG製剤投与によりOHSSの症状が現れるのは,本件のように妊娠が成立しておらず,妊娠によるHCGの産生がない場合には,1週間程度であるのが通常である。Aに対し,HCG製剤投与が行われたのは,10月11日のみであるから,本件でHCG製剤投与後10日程度経過してから肺水腫が発生したのは,C病院における過剰輸液の結果というべきである。
(d) さらに,心停止につながった呼吸不全の原因は,肺水腫により,慢性的に低酸素血症が持続したためであり,事実,10月22日の心停止,呼吸停止直前の血中酸素分圧は,31.4mmHgであり,高度の低酸素血症である。肺水腫に対しては,血液ガス分析等を行って呼吸状態を監視しながら,利尿剤の投与等の治療行為を行えば,通常,死亡に至るような事態にはならない。
しかし,C病院の医師らは,肺水腫であることすら認識せず,血液ガス分析,利尿剤投与等の重症肺水腫に対する治療をほとんど行っていない。前記の血中酸素分圧の数値は,10月22日の呼吸停止,心停止直前に測定されたものであり,このような重篤な事態に至るまで,血液ガス分析,経皮酸素分圧測定等が行われた形跡は全くない。さらに,10月19日から同月20日の20.8%ものヘマトクリット値の低下に対しても,担当医が反応した形跡はない。
また,10月19日の胸部レントゲンによれば,肺水腫が発生していることが認められるが,C病院の医師らは,この後も漫然と酸素投与,気管支拡張剤の投与を行ったばかりか,急激な大量のアルブミンの投与,輸液速度の上昇という肺水腫を増悪させる危険のある行為を行っている。
このように,当然行われるべき肺水腫に対する治療が全く行われなかったことが,肺水腫による呼吸停止,心停止を招いたのである。
(e) これらの事情からすれば,入院後の過剰輸液が血管外に漏出して腹水,胸水として貯留していたが,OHSSが改善に向かっていたところへ急激な大量のアルブミン投与が行われたことによって,腹水等が血管内に戻って血管内の容量が過剰になり,肺水腫,呼吸停止,心不全となったものと判断できる。
(5) 争点(1)ウ(損害額)
ア 原告の主張
(ア) 慰謝料2500万円
Aは死亡当時31歳の主婦であり,まだ前途のある身であった。本件治療は,Aが必要な説明を受けて同意したものではない。B病院が必要な説明をしていれば,Aが死亡することはなかったものであり,B病院医師の責任は重大である。よって,慰謝料が2500万円を下回ることはない。
(イ) 葬儀費用120万円
葬儀費用としては同金額が相当である。
(ウ) 逸失利益4478万1595円
Aは死亡当時31歳の主婦であり,平成5年の賃金センサスの平均賃金は315万5300円であった。生活費控除は3割が相当である。
よって,その逸失利益は,315万5300×0.7×20.275=4478万1595円となる。
(エ) よって,損害は7098万1595円となるところ,Aの相続人は,原告及びAの尊属であるから,夫である原告は,その3分の2を相続した。したがって,原告の損害は4732万1063円となる。
(オ) 弁護士費用
原告は,原告訴訟代理人に対して損害額の約1割にあたる473万円の弁護士費用を支払う旨約した。
(カ) 以上(ア)ないし(オ)の損害は合計5205万1063円となる。よって原告は被告国に対して請求欄記載のとおり(年5分の割合による金員は遅延損害金)の支払いを求める。
イ 被告国の主張
原告の損害は不知である。
(6) 争点(2)ア(注意義務違反の有無)
ア 原告の主張
平成7年10月22日午前0時50分,Aに呼吸停止,心停止が起きたのは,OHSSそれ自体による胸水,肺水腫に加え,C病院医師らによる10月19日以降の輸液,アルブミン投与が不適切であったことにもまた起因している。
(ア) C病院医師らは,10月19日午前11時ころから,低蛋白血症を改善する目的でアルブミン25%の投与を開始し,翌20日早朝ころまでの間に合計950mlを投与した。qは,アルブミン投与開始直後である12時30分ころに胸水が貯留していることを確認している。アルブミン投与開始直後ころのAの総蛋白は3.6g/dlと明らかに低蛋白血症であったから,膠質浸透圧を維持して血管外に出た水分を引くために,アルブミンを投与すること自体は遅すぎたとはいえ必要な処置であった(当時の医療水準からすると,Aは10月16日時点においてすでに総蛋白が4.6g/dlと極めて低値であり,これを改善するために,同日ころから適正量を投与すべきであった。)。
アルブミンを大量にかつ急速に投与することが,循環血液量の急増につながることは,容易に予見できるから,OHSSの治療においては,同投与量を適正に保った上で,Aの循環動態を厳重に監視して,利尿がつき始めたことが確認できた以降は,心臓に過大な負担をかけ,肺水腫をさらに悪化させることとなる過剰な輸液をすみやかに制限すべき注意義務があった。しかるに,C病院医師らは,20日早朝ころまでにAに対してアルブミンを950ml投与し,これによって心臓に対して過剰な負荷をかけ(それ自体によって心不全となりうる。),肺水腫をさらに悪化させ,著明な呼吸困難を引き起こした。すなわち,50mlのアルブミン25%投与は,約250mlの循環血漿量と同等であり,単純計算すれば,950mlの投与は,約4750mlの循環血漿量の増加に相当する。加えて,10月19日には,生理食塩水3000mlが点滴静注されており,アルブミン投与を加えると合計約7750mlの輸液がされたのと同様の結果となった。
(イ) 10月20日以降は利尿があり,ヘマトクリットも低下しているから,循環血液量は十分である。したがって,10月20日以降は,OHSSそれ自体とアルブミン,輸液過剰投与によってもたらされた肺水腫,鬱血性心不全による呼吸不全・心不全を防止するために最善の処置をすべき注意義務があった。
しかるに,C病院医師らは,Aが呼吸停止,心停止となる直前まで血液ガス等の検査をしないまま,同人の客観的状態の評価を怠り,また,胸水穿刺,腹水穿刺,呼吸管理(人工呼吸等)等の呼吸不全,心不全を防止するための処置を怠ったもので,ここにおいても,同医師らには注意義務違反がある。
イ 被告県の主張
(ア) 10月16日から10月18日までの治療について
a 原告は,10月16日のAの総蛋白が4.8g/dlであったことから,その時点でアルブミンの投与をすべきとする。
しかし,当時の医療水準としては,具体的にOHSSの症状の進行過程において,どの程度の低蛋白血症となった場合にどの程度の投与をすべきかは必ずしも明確ではなかった。むしろ,本件当時の文献によれば,OHSSの水分代謝につき,OHSSの病気を乏尿期,腹水増大期,腹水平衡期,利尿期の4期に分け,第3期の腹水平衡期においてはじめて低蛋白血症是正のためアルブミン製剤を投与することとされていた。従って,10月16日の時点は第1期の乏尿期であって,上記文献からすれば,直ちにアルブミンの投与に至るものとはされていないのであるから,10月18日にアルブミン50m1を投与するまではアルブミンを投与しなかったことが当時の医療水準に照らして直ちにC病院医師らの注意義務違反となるものではない。
b ところで,被告国は,10月16日から10月18日までの間においてもC病院での輸液が過剰であるとする。
しかし,本件当時(平成7年当時)も,OHSSの治療において水分制限をする考えと,上記文献のように水分を補給をする考えの2通りがあり,水分制限をする治療法はまだ多くは行われていなかった。本件当時の医療水準としては,水分を補給する方法であったといえ,文献によっては1日の輸液の投与量を3リットル以上とするものもある状況であった。
以上からすれば,C病院の医師らが行った10月16日からの1日3リットル前後の生食は必ずしも当時のOHSSの治療に関する医療水準に照らして,注意義務に違反したとはいえない。
(イ) 10月19日以降の輸液とアルブミン投与について
原告は,10月19日以降の輸液とアルブミン950mlの投与が過剰であって不適切であったと主張する。
しかし,前記のとおり10月18日にも25%アルブミン50mlを1本を投与(アルブミン量12.5g)したが,通常の量のアルブミン投与では病態の改善が全く見られない(ヘマトクリット値も18日の48.9%が翌19日も48.2%の高値)ほどの重症例で,それまでに患者の苦痛緩和のために腹水穿刺を2回(計2000ml)行わざるをえない状態であって,これらの悪循環に陥っていた病態を改善するためには一刻も早く強力な処置や治療が必要とされ,そのために10月19日にアルブミンを投与した。アルブミンの投与量であるが,被告県は当初10月18日に50ml,10月19日に950mlと主張したが,10月19日(翌20日午前8時まで)の実際の投与量は600mlとするのが正しいと考えるに至り,当初の主張を撤回する。
結局,10月19日の25%アルブミンの投与量は12本600ml(アルブミン量150g)である。そうとすると,計算上10月19日の必要アルブミン量は150.7gであるから,実際に投与したアルブミン量150グラムはほぼ必要量であって過剰とはいえない。
また,10月19日の生食3000mlもようやく当日は2350mlの利尿がついてきたのであって,その後の水分出納の収支はマイナスとなって管理されてきたのであるから,直ちにC病院の治療に注意義務違反があったとはいえない。
(7) 争点(2)イ(注意義務違反と死亡の結果との因果関係)
ア 原告の主張
C病院医師らのアルブミン投与や輸液により,血管外のサードスペースから水が引かれ急速にヘマトクリットの値が下がり,かつ尿量も増加したものの,循環血液量の増大があまりにも過大であったために心臓に過大な負担がかかり,10月20日午前4時30分ころには肺水腫が進行して,従前の呼吸困難感に比較して著明な呼吸困難が認められるようになり,心不全を来たし,呼吸不全,心不全を防止する処置がなされないまま,11月8日,Aは多臓器不全により死亡するに至った。
イ 被告県の主張
Aの死亡原因については,水分収支のみでは説明が困難であり,遷延した重篤な高浸透圧状態,循環血液量,循環血漿量の著しい減少の状態が,微少な血栓形成,更にはOHSSによる全身臓器の血管透過性の亢進などが,二次的な心筋障害,心不全を惹起し,遅延型発症の形で利尿期に入ったにもかかわらず,この時期に急性心不全を起こした可能性が強く疑われる。一般に若年女性では心肺予備力は極めて高いものであり,分娩前後の循環血液量の激しい変動によく耐えうるのであって,10月21日の突然の心不全状態の発症については,単なる循環血漿量だけの問題ではなく,新たな心合併症の発生を考えざるをえない。しかもそれは,重篤なOHSSに強く関わるものである。
従って,Aの死亡はC病院の輸液やアルブミンの投与が原因とはいえない。
(8) 争点(2)ウ(損害額)
ア 原告の主張
争点(1)ウについての原告の主張と同じ。
イ 被告県の主張
Aの年齢やAが婚姻していたこと,原告が夫(相続人)であることは認めるが,その余の主張は全て争う。
第3争点に対する判断
1 認定事実等
(1) 診療経過等
ア 証拠(略)及び弁論の全趣旨に前提事実を総合すると,次の事実が認められる。
(ア) Aの診療経過は,前提事実の他,概ね別紙「時系列」(以下,単に「時系列」という。)のとおりである。また,AがC病院に入院した後の輸液等の内訳(アルブミン投与を含む。)の詳細は,別紙「A臨床経過表(1995年)」(以下,単に「経過表」という。)のとおりである。なお,上記各別紙中,暦年の特定のないものはいずれも平成7年における日付である。
(イ) Aが受診していた当時のB病院産科婦人科の外来診療では,不妊治療の患者は数日おきに受診するため,1人の医師が特定の患者を毎回担当することができず,受診ごとに別の医師が診察することになりうる診療体制となっていた。また,B病院では,血中エストラジオール値の測定は外注に出しており,即日結果が判明するものではなかったため,HCG製剤投与日に測定することは行われておらず,尿中エストロゲン値も,HCG製剤の投与に当たり測定されていなかった。
(ウ) 一般に,人体の循環血液量は,体重の13分の1程度とされ,Aの場合,体重を46kgとすると,通常,約3.3リットル程度の循環血液量となる。
イ 上記ア(ア)の認定に対し,被告県は,C病院における平成7年10月19日午前8時から同月20日午前7時までのAに対する25%アルブミン投与量を当初950mlと主張していたのを本件口頭弁論終結直前に撤回し,600mlであると主張するに至った。原告は,被告県の当初の主張を前提にアルブミン投与量が過剰であったことを注意義務違反の内容として主張しており,被告県の主張の変更は自白の撤回に該当する。
そこで,被告県の自白の撤回が認められるか検討するに,丙5(C病院のカルテ)における看護記録,温度板,注射処方箋,注射返品伝票等に記載された数字を統一的,合理的に説明するのは困難であり,被告県による600mlとの変更後の主張も憶測の域を出ない。そうすると,本件記録から現実に上記期間にAに投与された25%アルブミンの量を正確に認定することは困難であり,被告県が,950mlという数量が真実に反することの立証に成功したということはできず,裁判所としては,結局,自白の成立した被告県の当初の主張(アルブミン投与量950ml)を前提として判断せざるを得ない。
ウ 原告は,Aには,平成7年10月7日(H医院でHMG日研の投与を受けた日)以降,下腹部痛があった旨主張し,甲24(Aが作成したメモ)には「PS 10/7 H医院で注射をしてから左側とおへその辺りが痛む」との記載がある。
しかし,上記メモの記載は,同月11日のB病院での受診の際に記載された部分の下側に「PS」として記載されたものであるから,Aが後日記載したものであることが明らかであるし,いつから痛みが生じたかについては日付が特定されていない以上,同月7日からAに下腹部痛があったとまでは認定できない。かえって,甲14(H医院でのカルテ)には,同日から同月10日までの間,Aが腹痛を訴えていなかったことが認められるのであり,原告の上記主張は採用することができない。
(2) 証拠(略)によれば,OHSS及びPCOS(多嚢胞性卵巣症候群)等に関する医学的知見は次のとおりであると認められる。時期を特に明示しないものは,B病院でAに対する治療が行われた当時の医学文献に掲載されていたものである。
ア OHSS(卵巣過剰刺激症候群)について
(ア) OHSSの病態及び発生機序
a OHSSは,HMG-HCG治療(いわゆるFSH製剤を用いる場合を含む。)における排卵誘発剤(HCG製剤)投与の副作用であり,①多数の存続卵胞や黄体嚢胞の存在による卵巣腫大,②腹水あるいは胸水の貯留,③血液濃縮及び循環血液量減少を三大症状とする症候群であり,他に下腹部痛,体重増加,食欲不振,血清電解質異常及び乏尿(尿量が1日500ミリリットルに満たないこと)を伴い,重症例では肝障害,血液凝固能亢進,脳などの血栓症,腎不全,呼吸不全などを合併して,神経障害の後遺症を残したり,多臓器不全により死に至ることもあるとされている。ただし,死亡率は40万ないし50万周期に1件の頻度であり,非常に稀であるとの報告がある。また,排卵障害治療時の発生頻度は0.25ないし1.8%程度といわれていたが,体外受精,胚移植の普及に伴い近年急激に頻度が上昇している。平成8年9月の文献では,平成7年の全国における治療周期数に対する入院を要するほどのOHSSの発生頻度は,HMG-HCG治療で1.74%との調査結果がある。
b OHSSの発生機序は,未だ不明の部分もあるが,毛細血管の細胞膜透過性の増加により蛋白を多く含んだ血管内液(血漿成分)が腹腔内に漏出し,その結果腹水が生じ,腹水により腹腔内圧が上昇し,時には大量の胸水,心嚢水が発生し,循環血液量の減少及び濃縮が起こる。循環血液量の減少及び下大静脈の圧迫により静脈還流が減少し,心拍出量の低下が起き,このため腎不全及び心不全が出現する。
呼吸では,胸水貯留及び横隔膜挙上に加えて,肺水腫(肺間質及び実質の過剰な水分の貯留)により,酸素の拡散障害を来して呼吸不全が起きることもある。更に,卵巣で産出されるエストロゲン,プロゲステロンの増加,心不全及び血管透過性亢進の関与により肝障害も起こることがある。
重症のOHSSでは,血液の濃縮,エストロゲン及びゲスターゲン増加による血液凝固能の上昇及び凝固因子の異常により血液凝固能が亢進して動脈及び静脈に血栓を形成する。更に,腎機能に関しては,循環血液量の減少による腎血流量の減少は乏尿を発生させて,腎機能障害(尿素及びクレアチニンの増加)を招く。
c OHSSにおける悪循環の発生
OHSSの発症には,血管内からの血漿成分の滲出に対応する生体のホメオスターシス(生体常恒性)が関係し,毛細血管透過性の増加は腹水,胸水,心嚢液を貯留させ,このため循環血液量が減少して,血圧,中心静脈圧が低下するとともに腎血流量も減少する。循環血液量の減少は,抗利尿ホルモンを分泌させ,腎臓では水分の再吸収が起こり尿細管内の尿中ナトリウムが再吸収される。その結果として体内に水分が蓄積して,低ナトリウム血症,腎排泄の減少(乏尿),腎機能の低下による高カリウム血症(心筋に作用し,心室細動から心停止に至る。)及びアシドーシスを起こす。
通常では,水分及びナトリウムの再吸収という腎臓のホメオスターシス機構により循環血液量は増加することとなるが,OHSSでは体内に貯留されようとした水分及びナトリウムは再び血管透過性の亢進により腹水あるいは胸水となり,悪循環が成立する。
(イ) OHSSの治療
OHSSは発生機序の詳細が不明であることから,根本的治療は困難であり,保存的治療に頼らざるを得ない。軽症例では十分な水分摂取と病態予測を患者に説明し,外来にて経過観察を行う。中等症では,頻回の経過観察を行い,循環血液量減少の程度,低蛋白血症,電解質バランス,腎機能,腹水量,卵巣腫大の程度を把握し,必要に応じて電解質補液(原則としてカリウムを含まない生理食塩水)を行う。臨床症状の悪化に加えて循環血液量の減少を最もよく反映するヘマトクリット値が45%以上と血液濃縮が強く,卵巣腫大,腹水著明となれば集中治療の適応となる。WBC(正常値は3000ないし8000程度)の増加も血液濃縮のよい指標となり,1万5000以上で重症である。重症OHSSの治療は原則として循環血液量を確保し,十分な尿量維持と血液濃縮の防止(ヘマトクリット値45%以下)を図ることである。すなわち,十分な補液(代用血漿を含む。),蛋白補充,腹水穿刺,ドーパミンやヘパリンの投与が基本とされる。
a 輸液
OHSSの治療においては,ヘマトクリット値を45%以下に保つように輸液をする。具体的には,バイタルサインと尿量(1時間30ml超)を指標にして,生理食塩水を1日に2000ないし3000ml投与するが,過剰な輸液はサードスペースへの水分移行を促進するので留意する。OHSSの治療に限らない輸液一般については,輸液のみで維持する場合の水分収支としては,代謝水(収入)が200ml,不感蒸泄(支出)が900mlとして,予想尿量に700mlを加えたものが1日の適量とされる。生理食塩水(0.9%)1000ml中には,ナトリウムが成人の1日の必要量のほぼ2倍(154mEq)含まれる。ナトリウムの過負荷によって心不全を発生させることがある。
b アルブミン製剤
低蛋白血症(1dl当たり4g未満)を併発している場合,強い浸透圧調節作用のあるアルブミン製剤が有効である。アルブミン製剤を投与することにより血管内の膠質浸透圧が高まり水分のサードスペース(間質)への移動を減少させ,循環血漿量,尿量はともに確保される。アルブミン1gで間質から18gの水分を血管内に引き戻す浸透圧があり,25%アルブミン100mlの静脈投与は正常血漿500mlに相当する。通常,アルブミン量としては5ないし12.5gを1日に2ないし4回投与する。
アルブミン製剤の添付文書の使用上の注意には,循環血液量が正常ないし過多の患者に急速に注射すると心過負荷等の循環障害及び肺浮腫を起こすことがあるので,慎重な投与が必要である旨の記載がある。
c 腹腔穿刺による腹水吸引等
OHSS重症例では,脱水により患者が呼吸困難を伴う苦痛を訴える場合には穿刺排液の適応となるが,1回の排液量は1000ないし1500ml(4000mlとするものも。)に止めるべきである。穿刺直後から速やかに間質への水分移動が起こり,循環血液量減少や低蛋白血症の助長につながることも十分考慮する必要がある。吸引除去した腹水を濾過精製し,再び患者の静脈内に戻す方法を推奨する考え方もある。
d 本件後に発行された文献(年月の記載は発行日である。)
(a) 甲32(平成8年7月)
電解質液のみで水分バランスをコントロールできない場合には低蛋白血症を改善して膠質浸透圧を維持する必要がある。このためヒトアルブミンを早めに追加点滴する。重症例では直ちに投与する必要がある。
(b) 甲29及び丙1(平成8年9月)
ヘマトクリット値,尿量,経口水分摂取量,血清及び尿中の電解質の値を参考にして輸液の内容と投与量(1.5ないし3リットル/日)を決め,ヘマトクリット値を45%以下に保つべきであるが,過剰のナトリウム補充は,血管透過性の亢進により腹水を増大させることがある。電解質液のみで水分バランスをコントロールできないときは,低蛋白血症(Alb3グラム/dl未満)を改善して膠質浸透圧を維持する必要があるので,アルブミン等の蛋白製剤を追加点滴する(重症例では直ちに投与する。)。アルブミン量として5ないし12.5グラムを1日に2ないし4回投与が適当である。腹水の穿刺吸引は,血液濃縮及び循環血液減少を起こすことがあるので注意が必要である。
(c) 甲20(平成8年11月)
輸液量は通常1000ないし1500mlでよいが,ヘマトクリット値(45%以下に保つ),尿量,水分摂取量,電解質の値により決定する。腹腔・胸腔穿刺による排液の1回量は1000ないし1500mlとし,同程度の補液をする。
輸液のみでコントロールできない場合は,低蛋白血症を改善し,膠質浸透圧を上げるようアルブミン製剤(25%アルブミン100ml/日又は新鮮凍結血漿5単位/日)を投与する。
(d) 乙19(平成8年11月)及び甲35(平成10年4月)
極力輸液を控えて水分摂取制限をし,腹水除去を行わないようにした方がよい。低蛋白血症(血清総蛋白値6.0g/dl以下)は,重症の最も重要な指標の一つである。
(ウ) 重症度の判定及び入院の要否
a 重症度の分類
OHSSの重症度分類に統一的な見解はないが,臨床所見及び超音波所見に基づく3段階分類(軽症,中等症,重症又は1度,2度,3度)が比較的よく用いられる(本件後の平成8年11月に発行された文献〔甲20〕では,ヘマトクリット値55%超で高度乏尿等がみられるものを最重症とする4段階分類とされている。)。
重症度の判定に用いられる臨床所見としては,腹部膨満,嘔気,嘔吐,下痢,呼吸障害,腹・胸水,卵巣腫大・嚢胞化,血液濃縮(ヘマトクリット値45%未満が中等症,45%以上が重症。成人女性の正常値は,35ないし45%〔平均40%〕である。),乏尿(1時間当たり30ml以下が重症),肝機能障害,腎機能障害,全身浮腫がある。
尿中エストロゲン量150ng/日以上,尿中プレグナンジオール10mg/日以上及び卵巣径5cm以上をOHSS発症とし,それに臨床症状の程度によって重症度を1ないし3度に分類する基準(Lundefeldらの分類)もある。軽症と中等症,中等症と重症を分ける基準となる卵巣径の大きさとしては,6cmと12cm,8cmと12cmという基準もある。
b 入院管理の要否
どの程度の重症度で入院管理が必要かについては統一的な見解はなく,中等症以上は入院管理が必要であるとするもの(乙20),中等症は頻回の経過観察が必要とするもの(乙5),卵巣径が8×8cm以上で腹水が大量の場合,臨床症状が強い場合は入院管理が必要であるとするもの(乙6)がある。
c 本件後に発行された文献
重症OHSSの最も重要な指標として,上腹部に及ぶ著明な腹部膨満,ヘマトクリット値45%以上の血液濃縮,血清総蛋白6.0g/dl以下の低蛋白血症を挙げるものがある(乙19)。
入院管理の要否については,重症の場合と,軽症,中等症でも重症化が予測される場合は入院管理とするもの,軽症の場合には頻回の外来通院でも可能であるが,中等症以上には必ず入院させて検査を行う必要があるとするもの,重症(強度の腹部膨満,乏尿,ヘマトクリット値45%以上)の場合,胸水による呼吸困難が認められる場合,腫大した卵巣の茎捻転の疑いがある場合には入院管理が必要であり,過去に重症のOHSSの既往がある場合,PCOS,若年等のOHSSの危険因子がある(発症が強く予想される)場合,HCG製剤投与後早期(2ないし3日)にOHSSが発症した場合は早めの入院が必要なことが多く,社会的適応として厳重な経過観察ができないような遠方に患者が居住する場合も入院管理することもあるとするものがある(甲29,丙1)。
(エ) OHSSの危険因子及び発生防止法
a 35歳未満の若年の患者,多嚢胞性卵巣(PCO,ネックレス・サイン)の患者,やせ型,高エストロゲン血症(4000pg/ml超),多数の発育卵胞(主として中・小卵胞),妊娠(多胎妊娠),黄体期のHCG製剤投与等が,OHSSの発症や重症化の危険因子である。その中でも,卵巣辺縁の小嚢胞の配列(ネックレス・サイン)が最も注意すべき所見である。危険因子となる発育卵胞の数については,35個超とする意見がある。
b 発症回避のための投与法
PCO患者に対しピュアFSH製剤でないLH成分を多く含むHMG製剤を使用した場合にはOHSS発症の危険性はより高いとされる。PCO患者に重症OHSSが発症しやすいのは,持続的高LH血症がベースにあることに要因があり,LH成分を極力含まないピュアFSH製剤を投与することにより,OHSS発症を予防する試みがなされている。
OHSSの発生を未然に防止もしくは軽症に止めるためには治療中の卵胞の発育程度のモニタリングによる至適なHCG製剤投与時期の決定が重要である。OHSS発症と血中エストラジオールの異常高値との関連が確認されているため,血中エストラジオール値を低値に押さえるためにHMG,FSHの投与量を削減したり,主卵胞の3方向平均径が16mmの時点(もしくは18ないし20mm前後)にHCG製剤を投与することで成熟卵胞数を制限してOHSSの発症を予防するのが一般的である。
血中エストラジオール値によるHCG製剤投与中止の目安は,800ないし4000pg/mlと報告者によって大きな幅がある。尿中エストロゲン濃度200pg/ml以上でOHSS発生率が上昇するとの意見もある。
また,多数の卵胞を認める場合(外国文献で「血中エストラジオール値が1日で2倍以上に上昇し,5cm以上に腫大した卵巣に多数の小卵胞が認められる場合」とするもの,「エストロゲンレベルが正常範囲であっても9mm以上の未熟卵胞が11個以上認められる場合」とするものがある。)には,OHSSの発症の可能性が高いため,HCG製剤の投与を中止するべきである。
c 本件後の文献
「PCO患者の場合,卵胞の過剰発育が見られたり,3ないし4個以上の良好な発育卵胞(卵胞経18mm以上)と中,小卵胞が多数存在し,卵巣径が5ないし6cm以上に腫大している場合で血清エストラジオール値が1000pg/mlを超えるときには,OHSS発症の可能性が高いので,卵胞計測を丹念に実施し,危険性が予知できたならHCG製剤投与を中止するべき。尿中エストロゲンが300ng/mlを超えた場合はHCG製剤投与を中止する。」とするもの,「血中エストラジオール値が3000pg/ml以上で,20個以上の大卵胞(卵胞直径12mm以上のもの。)の発育があるときにはHCG製剤の投与を中止する必要がある。」とするもの,「HCG投与時期は,最大卵胞経が18mm以上に達した時」とするもの,「HCG投与日の血中エストラジオール値は1000ないし1500pg/mlが望ましく,2000pg/mlを超えるとOHSSの発症の可能性が高くなる。9ないし16mmの卵胞が多いときに中等度,9mm以下の小卵胞が多数の時に重症例のOHSSが発症する。」とするものがある。
イ PCOSについて
(ア) 多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)は,月経異常,不妊,多毛,肥満等の臨床症状,卵巣の多嚢胞性変化,内分泌異常(血中LH/FSH比の高値,血中男性ホルモンの過剰)を主徴とする疾患である。
(イ) 日本産科婦人科学会生殖・内分泌委員会は,我が国の臨床におけるPCOS診断に混乱が生じていたため,平成5年11月,日本産科婦人科学会雑誌において診断基準案を報告した。その内容は,臨床症状,内分泌検査所見,卵巣所見の3項目につきそれぞれ4つずつ小項目を設け,臨床症状では月経異常を,内分泌検査所見ではLHの基礎分泌値高値(FSHは正常範囲),卵巣所見では超音波断層検査における多数の卵胞の嚢胞状変化をそれぞれ必須項目と設定し,必須項目を3つとも充たすものをPCOSとし,必須項目以外の参考項目を全て充たすものを典型例とするというものであった。ただし,診断基準案は嚢胞状変化をした卵胞が何個以上であれば「多数」であるか具体的な数値を示すものではなかった。
(ウ) PCOS患者のOHSS発生頻度は,通常のHMG製剤を用いたHMG-HCG治療で71.6%(重症度を3段階に分けた最も重症のものの発生頻度は約30%),純化FSH製剤を用いたHMG-HCG治療で64.1%(最も重症のものは約32%)であったとの報告(平成5年11月)がある。
ウ HMG製剤
(ア) ヒト閉経期婦人尿から抽出・精製されるHMG製剤には,LH含有量の違いにより,LHを等量あるいは相当量含む製剤(パーゴナル,ヒュメゴン)からLHをほとんど含まないHMG日研やプュアFSH(フェルティノームP)まである。HMG製剤の違いによってOHSS発症頻度に差があるのかについては意見が分かれているものの,日本における多施設共同研究の成績では,ピュアFSH製剤を用いた場合,従来のHMG製剤に比べてOHSSの発生や多胎妊娠の頻度が少ないという結果が得られている。
(イ) フェルティノームP
フェルティノームPの添付文書には,使用上の注意として,本剤の投与に引き続き,HCG製剤を用いた場合,卵巣腫大,腹水・胸水を伴うOHSSが重大な副作用として現われることがあるので,患者の自覚症状(下腹部痛,下腹部緊迫感,悪心,腰痛等)の有無,急激な体重増加の有無,卵巣腫大の有無(内診,超音波検査等の実施)に留意し,異常が認められた場合には直ちに投与を中止することが記載されていた。また,薬効薬理として,本剤がPCOS例に投与可能である旨の記載がある。フェルティノームPのLH/FSH比は1:0.0003以下である(1:0.00001とする文献がある。)。
(ウ) HMG日研
HMG日研の添付文書には,使用上の注意として,前記フェルティノームPのものと同様の記載があるほか,多嚢胞性卵巣のある患者は,OHSSを起こしやすいため,本剤が原則的に禁忌である旨の記載がある。HMG日研のLH/FSH比は1:0.05である。この比率は,フェルティノームPと比べるとLHの割合が高いが,ヒュメゴン,パーゴナルといったHMG製剤のLH/FSH比が1:1であるのと比較するとFSHの割合が高い。HMG日研をピュアFSH製剤と呼ぶかどうかにについて意見が分かれるが,平成8年11月発行の文献では,HMG日研も臨床的に使用する上ではほぼ純粋なFSH製剤と考えて差し支えないとするものがある。
(エ) OHSSの発生頻度(発生周期数/投与周期数)
HMG製剤ごとのOHSS発生頻度については,次のような報告がある。
a 平成元年3月(甲22,26)
PCOの症例につき,治療周期数に対するOHSS発症周期数の割合が,HMG製剤を用いた場合は35.9%(14/39),FSH製剤を用いた場合は25.9%(14/54)とFSH製剤の方が低いが,重症型OHSSの発生頻度には有意差がなかった。
b 平成元年8月(乙11)
PCOSにおいてはLHが卵巣腫大などゴナドトロピン療法の副作用の出現に重要な因子となっているため,PCOSにおける高純度FSH製剤の薬理的意義が実証された。
c 平成4年7月(乙8)
PCOタイプではフェルティノームP投与群でOHSSの発生頻度が低下する傾向が見られた。
全体 PCOタイプ
ヒュメゴン 7/14(50%) 4/8(50%)
パーゴナル 7/12(58.3%) 4/6(66.7%)
フェルティノームP 8/15(53.3%) 3/8(37.5%)
HMG日研 8/14(57.1%) 3/6(50%)
(3) 本件に関する医学的な意見
ア 証人j
平成7年10月11日の時点でAの卵巣径は7ないし8cmに腫大しており,画像中に排卵しそうな卵胞が少なくとも7個ある。OHSSの発症の危険が大きく,HCG製剤を投与すべきでなかった。
同月20日,21日でもAの蛋白濃度が5.8しかないから,C病院でのAに対するアルブミン投与は過剰ではない。
イ 証人k及び乙32(同証人による意見書)
(ア) 証人k
平成7年10月11日の時点での卵巣の画像から判断すると,HCG製剤を投与した場合,軽症OHSSは必発,中等症もまず発症する状態であった。一つの断面だけを見ても14個程度の卵胞が見られるから,左右で20ないし30個程度はあると思われる。ただし,卵胞数は,実際に診察した医師の見たものが最も正確である。
(イ) 乙32(意見書)
一般的に,ピュアFSH製剤を用いることによってOHSSの発症を抑制することは困難であり,OHSSの危険因子を有する患者にピュアFSH製剤を用いる必要があるとの結果になっていない。本件でもHMG日研を用いたことがOHSSの発症に結びついたとの結論を導くのは困難である。
卵胞の大きさから判断すると本件のHCG製剤投与時期は適切である。
Aの肺水腫の原因は,入院後平成7年10月20日までの間の過剰な輸液である。
本件のアルブミン投与は過剰である。平成7年10月20日から同月22日のヘマトクリット値の急激な低下は,循環血液量の急激な増大(40%の増大)を意味し,心負荷の増大から心停止を誘発した可能性がある。
過剰輸液による肺水腫と腹水の増大(横隔膜の挙上)が呼吸困難を招き,急激な循環血液量の増大が心負荷を増長し,心停止に至ったものと推定される。
ウ 丙6(k意見書に対するC病院院長lの意見書)
平成7年10月13日から同月15日のヘマトクリット値の変化は,循環血液量の28.5%が血管外に漏出したことになるから,15日の時点で重症化が予想され,入院させるべきであった。むしろ,15日の時点で重症であった。
肺水腫の原因は,遷延する血液濃縮,低蛋白血症,末梢循環抵抗の増大,OHSSによる腹水,腹部膨満による横隔膜挙上や胸水による呼吸面積の抑制,右心抵抗の増加等,多くの要因が関与しており,過剰輸液のみを原因ということはできない。
通常の量のアルブミン製剤投与では改善が全く見られなかった本件のような重症例で,病態が悪循環に陥りつつある場合には,それを断つための強力な処置が必要であり,950ml(アルブミンにして237.5g)の投与量は過剰ではない。20日以降は水分収支マイナスの状態で管理したにもかかわらず,浮腫,呼吸困難の改善が乏しかったのは,微少な血栓形成,OHSSによる全身臓器の血管透過性の亢進が二次的な心筋障害,心不全を惹起し,利尿期にいたって遅発型で急性心不全を起こした可能性が強く疑われる。
OHSSをすでに発症していた13日のヘマトクリット値が33.4%であったことを考慮すれば,Aの健常時はさらに低値であった可能性がある。一般に,若年女性の心肺予備力は極めて高く,分娩前後の循環血液量の激しい変動にも耐える。21日の突然の心不全は,単なる循環血液量だけでなく,重篤なOHSSに強くかかわる新たな心合併症の発生を考えざるを得ない。
2 争点(1)ア(被告国の注意義務違反の有無)について
(1) 以上の認定事実等をもとに,被告国の注意義務違反の有無を検討する。
ア HMG日研の投与について
医薬品の添付文書の記載事項は,当該医薬品の危険性(副作用等)につき最も高度な情報を有している製造業者又は輸入販売業者が,投与を受ける患者の安全を確保するために,これを使用する医師等に対して必要な情報を提供する目的で記載するものであるから,医師が医薬品を使用するに当たって添付文書に記載された使用上の注意事項に従わず,それによって医療事故が発生した場合には,これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り,当該医師の過失が推定される(最高裁判所第3小法廷平成8年1月23日判決・民集50巻1号1頁)。
(ア) これを本件についてみるに,前記認定事実のとおり,B病院のg医師の指示に基づいてH医院においてAに投与されたHMG日研の添付文書には,使用上の注意として,多嚢胞性卵巣のある患者は,OHSSを起こしやすいため,本剤が原則的に禁忌である旨の記載があった。そして,Aは,PCOタイプの患者であったのであるから,Aに対してはHMG日研の投与は,原則的に禁忌であったということができ,HMG日研を投与したことにつき特段の合理的な理由がない限り,g医師の過失が推定されるというべきである。
(イ) これに対し,被告国は,Aの症状は,日本産科婦人科学会の生殖・内分泌委員会報告によるPCOSの診断基準案からは,卵巣所見で多数の卵胞の嚢胞状変化(具体的には片側の卵巣に卵胞が10個以上,両側を合わせて20個以上)は認められず,ネックレス・サインのみられる典型的なPCOSには当たらないものであった旨主張する。
しかし,上記診断基準案自体には卵胞の嚢胞状変化が何個以上みられた場合に基準を満たすのかは具体的な数字はなく,したがって,Aがこれを満たすかどうかが一義的に明確とはいえないし,また,HMG日研の添付文書も,「多嚢胞性卵巣のある患者」とするだけで,典型的なネックレス・サインの所見がある患者やPCOSの診断基準を満たす患者といった限定はしていないから,被告国の上記主張事実が認められるとしても,HMG日研がAに対しては原則的に禁忌であったことを左右するものではない。
(ウ) 被告国は,フェルティノームPもHMG日研も,成分が極めて近似しているため,臨床的には両者は同等の薬理効果を持つと考えられて使用されていることや,フェルティノームPとHMG日研の間には,OHSSの発生率に有意差はないことなどを主張する。
確かに,HMG日研も臨床的に使用する上ではほぼ純粋なFSH製剤と考えて差し支えないとする意見や,HMG日研をピュアFSH製剤に分類する考え方もあるようである。しかし,前記認定事実等によれば,平成元年以降の3つの報告において,多嚢胞性卵巣のある患者に対しては,LHの含有量の少ないFSH製剤を用いた方がOHSSの発症が有意的に少なくなるとされており,フェルティノームPとHMG日研とを比較すると,HMG日研のLH含有量は,フェルティノームPの5000倍程度である。
そうすると,少なくともPCOタイプであるAに対しては,HMG日研ではなくフェルティノームPを投与するのがより適切な治療であったというべきであり,添付文書の記載に反してまでHMG日研をAに投与する特段の合理的な理由があったとは認められない。
(エ) したがって,HMG日研の投与を指示したg医師の処置には,注意義務違反があるといわざるを得ない。
イ HCG製剤投与について
原告は,Aの卵巣が腫大し,卵胞が多数の状態で,i医師が血中エストラジオール値や尿中エストロゲン値を測定せず,また,Aが重症OHSSの発症の確率が相当程度高い患者であることを説明しないままAにHCG製剤を投与したことが注意義務違反である旨主張する。
(ア) 前記認定事実等によれば,HCG製剤投与については,本件当時も,血中エストラジオール値,尿中エストロゲン値,卵胞の数,大きさ等から卵胞の発育程度をモニタリングし,一定の値を超えた場合や卵胞数が多い場合にはOHSSの発症を予防するためにHCG製剤の投与を控えるべきものとされていたが,i医師は,超音波断層法で卵胞の状態を診察し,主席(最大)卵胞径が22×15mm(平均18.5mm)であることを確認して適当な時期と判断し,AにHCG製剤を投与した。
(イ) 被告国は,i医師は,卵胞の大きさや数をもとに,HCG製剤投与の時期として適当と判断したと主張し,乙32(荒木意見書)も,卵胞の大きさから判断すると本件のHCG製剤投与時期は適切であったとの意見を述べている。
他方,証人kは,平成7年10月11日の時点でのAの卵巣の画像(超音波断層法)を見た上で,HCG製剤を投与した場合,軽症OHSSは必発,中等症もまず発症する状態であったこと,一つの断面だけを見ても14個程度の卵胞が見られるから,左右で少なくとも20個程度はあると思われる旨を供述しており,同時点でAにHCG製剤を投与した場合,かなり高い確率で中等症以上のOHSSを発症する卵胞の状態であったと推認される。
(ウ) これらによれば,i医師がAにHCG製剤を投与した時点は,HCG製剤によって排卵を生じさせるという不妊治療の目的からすれば適切であったが,同時に,その時点で,副作用であるOHSSの発症,しかも中等症以上発症の危険性もかなり高くなっていたということができる。そうすると,このような中等症以上のOHSSがかなり高い確率で発症することが見込まれる状況でHCG製剤を投与することが注意義務違反を構成するかどうかは,結局,Aがそれに基づいて危険を冒してでも排卵を求めるかどうかを選択することができる程度の説明を担当医師から受けたかどうかによるといわざるを得ない。
そして,前記認定(時系列 H07.10.11の欄)のとおり,i医師は,AにHCG製剤投与により,OHSSという副作用で卵巣腫大や腹水が生じることを説明した。これをもってAの上記選択について十分な説明があったといえるかが問題となるが,AがPCOタイプで31歳と若年で,LHがFSHより高値であるといったOHSSの危険因子を持つ患者であったこと,現実に平成7年10月11日時点でのAの卵巣の状態が,かなり高い確率で中等症以上のOHSSを発症する危険があったことからすると,一般的な患者に対する説明では足りず,OHSS発症の危険が一般の場合に比べて高いことまで説明をすべき義務があったというべきである。
そして,i医師による前記認定(時系列 H07.10.11の欄)の説明では,AがあえてOHSS発症の危険を冒してでも排卵を求めるかどうかを選択することができる程度の説明であったということはできず,i医師には説明義務違反があるというべきである。
ウ 10月15日に入院させなかったことについて
原告は,Aが重症のOHSS又は重症化が予想される中等症のOHSSであったから,B病院医師らは,遅くとも10月15日にAをB病院に入院させた上で,厳重に経過観察し,必要な検査(血算,血清総蛋白,超音波検査等)を実施して,これ以上OHSSが重篤化することのないよう適切な治療処置をすべき義務があったのにこれを怠った旨主張する。
(ア) 時系列における認定事実によれば,Aは,遅くともHCG製剤を投与された翌日である平成7年10月12日に下腹部痛及び吐き気にみまわれ,同月13日にはB病院を受診して,m医師に対してそれらの症状と食事の摂取ができない状態である旨を訴え,m医師も超音波断層法でAの卵巣が82×41mmと65×51mmとなっており,卵巣周囲に腹水があることを認めている。また,Aは,腹痛,嘔吐があったため,同月14日には,自宅に比較的近いH医院を受診したが,h医師は,輸液や腹水の処置等,OHSSに対する治療が十分にできないと判断し,B病院に電話をかけ,Aの症状(腹痛,嘔吐,腹部緊張)を伝えて翌15日の診察を予約した。そして,Aは,同月15日,B病院を受診し,その際の排尿がそれ程よくなく,卵巣も60×90mm,70×50mmに腫大しており,中等量の腹水が子宮後面に認められ,ヘマトクリット値が42.3%,WB病院C1万7000という所見であったが,n医師は,入院の必要がないと判断し,水分摂取と2,3日後の通院を指示した。帰宅後,Aの容態は悪化し,同月16日午前3時から4時ころには,トイレで嘔吐して動けなくなった。
Aにこのような臨床症状や所見がみられたこと,平成7年10月14日にAを診察したh医師が輸液や腹水の処置を考慮していたことからすると,AのOHSSは,本件当時比較的よく用いられていた前記認定のOHSSの重症度分類によれば,遅くとも同月15日の時点では,少なくとも中等症以上の重症度のものであったということができる。
(イ) また,当時の医療水準としては,入院の要否について必ずしも統一的な見解はなかったということができるものの,前記認定のとおり,少なくとも中等症以上であれば頻回の経過観察が必要であるとされており,中には中等症以上で入院が必要であるとするもの,臨床症状が強い場合は入院管理が必要とするものもあった。
そして,本件の後に発行された文献には,PCOS,若年等のOHSSの危険因子があるHCG製剤投与後早期(2,3日)にOHSSが発症した場合は早めの入院が必要なことが多く,社会的適応として厳重な経過観察ができないような遠方に患者が居住する場合も入院管理することもあるというものがある。入院管理の要否が,個別の患者の具体的な状況に応じてなされる判断であることからすると,これらは,本件当時には文献中に述べられていなかったとしても,いわば医師としては当然考慮する必要がある重要な事情であるということができる。
(ウ) 以上のようなAの症状(特に,ヘマトクリット値と共に,血液濃縮の重要な指標とされるWBCが1万7000であり,重症の指標とされる1万5000を超えていた。)や,AがHCG製剤投与の2日後にはOHSSを発症していること,AにはPCOタイプで31歳と若年であること,LHがFSHより高値であるというOHSSの危険因子があったこと,B病院の遠方に居住していたこと等を,入院管理の要否についての医学的な知見に照らせば,平成7年10月15日にAを診察したB病院医師は,当日はAの痛みが少し落ち着いていたということを考慮しても,AのOHSSの重症化を避けるために,入院管理による治療をするべき注意義務があったというべきである。
そうすると,単にAの卵巣が腫大しており,脱水状態に陥っていることを告げるだけでAを帰宅させたn医師には,注意義務違反があるというべきである。
3 争点(2)ア,イ(被告県の注意義務違反の有無及び死亡の結果との因果関係)について
(1) 時系列及び経過表の事実によれば,Aは,平成7年10月16日,C病院に入院し,同日から同月18日までの各日の総蛋白が4.8g/dl(以下,単位は省略する。),4.4,4.1と推移し,同月18日午前8時30分,入院後に初めて25%アルブミン(50ml)の投与を受けた。そして,その後,同月19日午前8時から翌20日午前7時までの間,25%アルブミンが950ml投与された。また,同月16日から同月19日までの間,生理食塩水の輸液は,1日当たり2500mlないし3000mlが行われた。
ア 本件当時の文献では,OHSSの治療は,循環血液量を維持するための生理食塩水の輸液や低蛋白血症のある場合のアルブミン製剤の投与が基本とされていたことからすると,C病院医師らが,Aに対して生理食塩水の輸液を行ったこと自体が不適切な治療であったということはできない。ただし,生理食塩水輸液の目的は,血液濃縮を避ける(ヘマトクリット値を45%以下に保つ)ことにあるのであるところ,16日,17日のヘマトクリット値が41.3,41.5であったことからすると,1日に3000mlという量が適正であったかについてははなはだ疑問が残るということができる。
イ さらに,本件当時の文献では,アルブミン製剤の投与については,総蛋白が4未満の低蛋白血症を併発しているときに有効であるとするものがあったことを考慮すれば,18日までアルブミン製剤の投与を行わなかったこと自体をとらえて注意義務違反とまではいうことはできない。
(2)ア アルブミン1gの投与によって間質から18gの水分を血管内に引き戻す浸透圧があり,アルブミン製剤の適正な投与量については,本件当時から,アルブミンの量にして1日当たりの最大量で12.5g×4回の50g(25%アルブミンにして200g)とされ,アルブミン製剤は,循環血液量が正常ないし過多の患者に急速に注射すると心過負荷等循環障害及び肺浮腫を起こすことがあるとされていた。そうすると,C病院医師がAに投与した950mlという25%アルブミンの量は,適正な最大量の4倍以上である。また,仮に被告県が主張するように,投与量が600mlであったとしても,適正な最大量の3倍が投与されたことになる。
そして,前述のとおり,Aには入院後,連日2500mlないし3000mlの生理食塩水が輸液されており,平常時よりも多量の水分が体内に貯留していたということができる(経過表によると,19日午前8時までの水分収支は,6220mlのプラスである。)。
そうすると,C病院医師による19日午前8時から20日午前7時までの間に行われたアルブミン製剤の投与は,著しく過剰で,Aに心過負荷等の循環障害や肺浮腫を起こさせる危険のあるものであって,そのような投与を行ったC病院医師には注意義務違反があるというべきである。
イ 被告県は,通常のアルブミン量の投与では病態の改善が見られなかった重症例で,悪循環に陥っていた病態を改善させるためには必要な処置だったし,ほぼ必要量のアルブミンであった旨を主張し,丙6にも同旨の記載がある。
確かに,一般的にはOHSSの治療においては,血栓症を予防するために血液濃縮を避けるべく循環血液量を回復させることが治療の最大の目的ということができる。
しかし,その目的を達するために,前述したような心過負荷による循環障害や肺浮腫を引き起こすおそれの大きい処置をすることが直ちに正当化されるということはできない。また,丙6では,10月19日には150.7gのアルブミン量が必要であったとの意見が述べられているが,その根拠となる計算過程の意味するところが必ずしも明らかではないし,実際にもC病院医師がこのような計算をもとにアルブミンの投与量を決定していたという事情もない。また,証人qは,950ml投与の翌日の総蛋白が5.8と低いことを根拠に過剰ではなかった旨供述するが,アルブミンによって循環血液量が極端に増大すれば血中のアルブミンの総量が増大しても総蛋白の数値がそれ程変化しないのは当然であり,これをもって過剰な投与でなかったということはできない。
(3)ア アルブミン950mlが投与された後のAのヘマトクリット値が前日の48.2から27.4に急激に低下し,WBCも半減していることからすると,このアルブミン投与によって,Aの循環血液量が急増したということができる。これを具体的にみると,単純計算で950mlの25%アルブミンによって950ml×0.25×18g=4275mlの水分が血管内に引き戻されることになる(600mlとしても2700ml)。前記認定のとおり,Aの平常時の循環血液量は約3300mlと考えられるから,950mlのアルブミン製剤の投与があったとすれば,Aの循環血液量が,1日で2倍以上,投与量が600mlであったとしても1日で2倍近くに急激に増大したということができる(乙32は,急激に循環血漿量が40%増大し,心負荷の増大から心停止を誘発したと推定されるとしている。)。
これらの事実関係によれば,10月22日の呼吸停止及び心停止は,アルブミンの過剰投与によってもたらされた肺水腫及び循環血液量の急激な増大による心過負荷とみるのが相当である。そして,Aの直接の死因と見られる多臓器不全の原因は,肺水腫であるから,結局,Aの死亡は,アルブミンの過剰投与によるものということができる。したがって,C病院医師の注意義務違反とAの死亡の間には,因果関係が認められる。
よって,C病院医師らの使用者である被告県は,民法715条に基づき,Aの損害を賠償する義務がある。
イ これに対し,被告県は,微少な血栓形成,OHSSによる全身臓器の血管透過性の亢進が二次的な心筋障害,心不全を惹起した可能性が高いこと等を主張し,丙6には同旨の記載がある。
しかし,いずれも本件における事実関係や一般的な医学的知見を踏まえた主張・意見ということはできず,被告の主張は採用することができない。
4 争点(1)イ(被告国の注意義務違反と死亡の結果との因果関係)について
被告国は,Aの死亡がC病院での不適切な治療の結果であるから,B病院での治療とAの死亡との間には因果関係がない旨主張する。
(1) HMG日研の投与との因果関係
前記認定の医学的知見によれば,HMG-HCG治療においては,用いられるHMG製剤のLHの含有量によってOHSS(特に多嚢胞性卵巣を有する患者の場合)の発症率に有意差があることが認められ,だからこそ製剤の添付文書においてもLH含有量の少ないフェルティノームPのみが多嚢胞性卵巣を有する患者に対して禁忌もしくは原則禁忌とされていなかったということができる。
もっとも,本件でAに投与されたHMG日研も,ヒュメゴン,パーゴナルといった他のHMG製剤と比較すればLH含有量は大幅に少ないものであるし,また,重症のOHSSの発生頻度についてはLH含有量による有意差が認められないとの報告もある。
以上によると,AにHMG日研ではなくフェルティノームPが投与されていたとしたら,本件のようなOHSSが発症しなかった可能性が認められるものの,OHSSを発症しなかった高度の蓋然性までを認めるのは困難といわざるを得ない。
よって,多嚢胞性卵巣を有する患者に対して原則禁忌とされていたHMG日研をAに投与した注意義務違反と,AのOHSSの発症ひいては死亡との間に因果関係を認めることはできない。
(2) HCG製剤投与前の説明義務違反との因果関係
Aが,平成6年7月ころ,生命の危険があることを理由にHMG-HCG治療を断念した経緯に照らすと,平成7年10月11日の時点においても,i医師がAに対して中等症以上のOHSSが発症する確率が相当程度高いことやその場合の危険性について説明し,AにあえてHCG製剤投与による排卵を希望するかの選択をさせる判断材料を与えていれば,AがHCG製剤投与に同意しなかった蓋然性が高いということができる。また,OHSSは,HCG製剤投与を契機として発症するとされている。
そうすると,i医師の説明義務違反は,少なくともAのOHSS発症との間に因果関係があるということができる。
(3) 10月15日の時点で入院させなかったこととの因果関係
前記認定・判断のとおり,Aの死亡について直接的な因果関係を有するのは,C病院におけるアルブミンの過剰投与という注意義務違反であるということができる。
しかし,B病院医師には,原則禁忌とされていたHMG製剤をAに投与し,OHSS発症の確率が通常より高いことを説明しないままHCG製剤をAに投与し,入院管理を要するOHSSを発症し,B病院を受診していたAを10月15日にB病院に入院させなかった注意義務違反があり,これらのうち,少なくとも最後の2つの注意義務違反がなければAがOHSSを発症してC病院でアルブミンの過剰投与を受けることもなかったのであるから,B病院医師の上記注意義務違反とAの死亡の間には,いわゆる事実的因果関係があるといわなければならない。
そして,AがC病院へ入院した経緯が,10月16日になってOHSSの症状が悪化し,入院管理を要する状態であったAが,自宅から遠方のB病院まで行くことが困難であったため,B病院のf医師がC病院のp医師にC病院での治療を依頼したというものであったのであるから,前述のB病院による注意義務違反(特に同月15日の時点でB病院に入院させなかった注意義務違反)とAの死亡の間には,相当因果関係も認められるというべきである。
したがって,被告国は,B病院医師らの使用者として,民法715条に基づき,Aの損害を賠償する義務がある。
5 被告らの責任について
以上の事実関係によれば,B病院医師の注意義務違反とC病院医師の注意義務違反のいずれもが,Aの死亡という不可分の1個の結果を招来し,この結果について相当因果関係を有する関係にあるから,被告国と被告県の不法行為は,民法719条所定の共同不法行為に当たるというべきであり,被告らはいずれも被害者であるAの被った損害の全額について連帯して責任を負うべきである。
6 争点(1)ウ及び(2)ウ(損害額)について
(1) 慰謝料
Aの年齢がまだ31歳と若年であること,発症から意識消失,呼吸停止,心停止等及びその後の死亡に至る経過,本件に関わった医師らの注意義務違反の態様等,本件記録に顕れた一切の事情を考慮すると,Aの精神的苦痛を慰謝するには,1500万円が相当である。
(2) 葬儀費用
被告らが負担すべき葬儀費用は,120万円が相当である。
(3) 逸失利益
Aは,死亡当時31歳の女子で,いわゆる専業主婦であったから,その逸失利益算定の基礎とすべき年収は,少なくとも平成5年賃金センサスによる女子労働者平均賃金の年額315万5300円によるのが相当であり,就労可能年数を36年間(少なくとも67歳まで稼働可能とするのが相当),生活費控除を30%とし,年5分の割合による中間利息をライプニッツ方式で控除(係数16.547)するのが相当である。そうすると,Aの逸失利益の額は,次のとおり,3654万7524円(小数点以下切捨)となる。
315万5300×0.7×16.547=3654万7524円
(4) 上記(1)ないし(3)の合計金額5274万7524円に,原告の相続分3分の2を乗じると,3516万5016円となる。
(5) 弁護士費用
原告が本訴の提起,追行を弁護士である原告訴訟代理人に委任したことは,本件記録上明らかであるところ,本件事案の難度,認容額等の事情を考慮すると,損害額の約1割である350万円の弁護士費用を本件の不法行為と相当因果関係のあるものとして被告らに負担させるのが相当である。
(6) 上記(4)及び(5)の合計金額は,3866万5016円である。そして,前述のとおり,これらの損害は,被告らの共同不法行為によるものであるから,被告らは,連帯して3866万5016円の賠償金及びこれに対する不法行為後である平成8年4月2日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払義務がある。
7 結論
以上の次第であるから,原告の本訴請求は,被告らに対して連帯して3866万5016円及びこれに対する平成8年4月2日から支払済みまで年5分の割合による金員の支払を求める限度で理由があるからその部分を認容し,その余は理由がないからいずれも棄却することとする。
よって,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 片野悟好 裁判官 飯塚圭一 裁判官 和田健)
(別紙省略)