新潟地方裁判所 昭和46年(わ)131号 判決 1971年10月13日
被告人 堀内三郎
昭七・七・二五生 タクシー運転手
主文
被告人は無罪
理由
一、本件公訴事実は、
被告人は自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四五年六月一八日午後一一時四五分ごろ普通乗用自動車(タクシー)新五い一二〇八を運転して、新潟市太平町三丁目二七一番地の六附近の道路を松浜方面から山の下方面に向つて時速約六〇粁で進行中、進路右側を同じ方向に向かい歩行中の南三男(当時四一歳)を前方約三四・八米の地点に認めたのであるから、その動静を十分に注視し、警音器を鳴らして警告を与えるとともに、同人が横断を開始した場合には、その衝突を避けられるように減速して進行しなければならない業務上の注意義務があるのにこれを怠たり、警音器を嗚らし、時速約五〇粁に減速しただけで、漫然進行した過失により、同人が進路右側から左側へ横断を開始したのを約二五米に接近して始めて認め、ただちに急制動したが及ばず、自車右前部を同人に衝突転倒させ、同年七月三〇日午前四時新潟市古川町六番四号所在の桑名病院で、同人を脳挫傷により死亡するに至らせた
というのである。しかし右事実はこれを証明するに足る証拠がないから、被告人は無罪である。
二、そこで、右の理由をなお詳しく述べると、まず、被告人が自動車運転の業務に従事していたこと、昭和四五年六月一八日午後一一時四五分ごろ普通乗用自動車を運転し、新潟市太平町三丁目二七一番地附近の道路を松浜方面から山の下方面に向つて時速約六〇粁で進行していたこと、右番地先で道路右側から左側へ横断中の南三男と被告人の車両の右前部が衝突し、南が路上に転倒したこと、同人が同年七月三〇日桑名病院で脳挫傷によつて死亡したことは、当事者間に争いがなく、証拠により十分認められる。
三、ところで、事故現場の実況見分調書の記載によれば、司法警察員の実況見分の際に、被告人は進路の右斜前方三四・八米の地点の道路右側端を、被告人の車両と同じ方向へ歩いて行く被害者の姿を認めたと指示説明しており、検察官はこの指示説明を真実に合致すると判断したものの如く、これを前提として、かような場合に、(1)歩行者の動静を十分に注視する義務、(2)警音器を鳴らして警告を与える義務、(3)歩行者が横断を開始した場合に衝突が避けられるように減速して進行する義務があり、被告人はこの義務に違反したと主張する。
(1) まず、歩行者の動静を十分に注視すべき義務であるが、自動車の運転者にかような義務があることはいうまでもない。しかしながら、被告人は、被害者の姿を発見したあと、約二五米に接近したとき、被害者が横断を始め、途中で立止つて〇・七五米後ずさりし、再び斜めに小走りで横断を始めたと供述しており、この供述が虚偽であるとも断定できない限りこの供述を真実に合致するものと認めざるをえない。そしてこの事実に基づけば、被告人が被害者の動静を十分に注視する義務を果したと考えられる。もつとも被告人の司法警察員に対する供述調書によると、被害者が横断を始めたあと、あとずさりして立ち止まつたので、相手が自車を発見したものと判断し、「気を許し、一瞬その人から目を離し」、進行したところ、被害者は小走りで横断を始めたと、被告人は述べている。そこで一瞬眼を離したことが、歩行者の動静を注視する義務に違反したといえるかという点が問題となろう。しかし、実況見分調書によると、一瞬眼を離した間に被告人の車両の進行した距離はいくばくもないように思われ、従つてそのいわゆる「一瞬」は極めて短時間ではなかつたかと推認される。また自動車の運転者は、ほかにも注意を向けなければならない点も多々ある。結局、たとえ被告人が一瞬被害者から眼を離したとしても、それと衝突の結果との間の因果関係が明らかでない。
(2) 次に、警音器を鳴らして警告を与える義務であるが、この点は、検察官自ら、被告人が警音器を鳴らしたことを主張しているのであるから、問題にならない。
(3) 歩行者が横断を始めた場合に、衝突が避けられるように減速する義務であるが、検察官は、被告人が現場まで時速約六〇粁で進行してきて、被害者の姿を見て、時速五〇粁に減速したが、それ以下には減速しなかつた、この点が注意義務に違反していると、主張している。被告人が現場まで時速約六〇粁で進行したことは、この道路につき公安委員会の定める制限時速五〇粁に違反するものであるが、その点はさておき被告人は被害者の姿を見て、指定制限時速五〇粁にまで減速したと主張するのである。
この点で、当裁判所は、被告人がこの場合時速五〇粁よりももつと遅く、例えば時速二〇粁あるいは三〇粁にまで速度を落す義務はなかつたと考えるのである。
なぜなら、本件現場は、新潟市と村上市を結ぶ主要地方道新潟村上線で、舗装された直線道路であり、歩道と車道の区別はないが、幅員は一一米もあり、当時夜遅かつたが、車両の交通も少くはなかつた、また本件現場は横断歩道もなく、むしろ、現場から約二七米前方に歩行者用の押しボタン式の信号機のある横断歩道があり、当時信号機は作動していて、被告人の進行方向については進めの青色を表示していた。かような場合に、道路右側端を同じ方向に進む歩行者の姿を発見したからといつて、道路左側を進行する自動車の運転者がその歩行者がいつなんどき横断を始めるかも知れないと予想して、速度を時速二〇粁とか三〇粁とかまで減速する義務があるとは到底考えられない。なぜなら、かような場合に、歩行者が突飛な行動に出て、道路の横断を始めるとは予想できないところであり、また道路右側に歩行者の姿を見るたびにその都度減速するとすれば、交通機関としての役を果すことができないからである。
もつとも、歩行者が保護者の手を離れた幼児であるような場合は、多少別かも知れないが、本件はそのような場合ではない。また、本件被害者が被告人と同じ方向に歩いているのを見た段階で、被告人が被害者を、酒に酔つているように感じたとの点は、検察官が主張しないところである(もつとも酒に酔つていると感じたとしても、その段階で、検察官主張のように減速しなければならないか否かは、疑問である。)。
四、結局、検察官主張の注意義務違反は、あるいは被告人が注意義務を十分に遵守しており、あるいは注意義務そのものが存在しないから、検察官主張の公訴事実は犯罪の証明がないことに帰着し、刑事訴訟法三三六条により、無罪の言渡をする。
五、なお被告人は自分の立場を有利にするために、客観的事実に合致しないでたらめを述べる癖があるように見受けられ、ことに咄下検事に対する供述調書では、被害者の姿を見て、時速三〇粁にまで減速したなどと、現場に残つた三三・二米というスリツプ痕の長さからみて到底考えられないような嘘をつき、後に飯田検事から供述の矛盾を追及されて、その取調方法に不満を述べることとなつた。そこで被告人の供述のうち重要な諸点につき嘘かどうかを若干吟味しておく必要があると思われる。
(1) まず、被告人が被害者を発見したのは、約三四・八米に接近してからであるという供述であるが、当裁判所は、被告人の車の速度とスリツプ痕の開始地点からみて、被告人はもつと遠方で被害者の姿を発見したものと推認する、(前照灯を下向きにしていても、もつと遠距離で歩行者を発見することは不可能ではない。)。しかし、検察官主張の距離よりもつと遠方で被害者の姿を発見したとしても、被告人の守るべき注意義務の内容が変つてくるわけではないから、本件の結論には影響がない。
(2) 被告人が被害者の姿を見て、時速五〇粁に減速して走つていたとの供述は真実かという点は、現場に残された三三・二米というスリツプ痕の長さから見て、かなり疑いが残る。しかし当時雨が降つていて、アスフアルト舗装路面が湿潤していたことを考慮すると、スリツプ痕の長さから逆算して、被告人が例えば時速七〇粁も出していたと、被告人に不利益な推定をするのも、ちゆうちよされる。時速六〇粁程度は出していたのかも知れないが、そうだとしても、検察官主張の五〇粁の場合とさして結論に変りはあるまい。
(3) 横断を始めた被害者が一旦後ずさりしたあと、小走りにかけ出したという供述の真実性については、被告人は事故直後から一貫してそう述べているほか、被害者を現場で降ろしたタクシー運転手三原健一の供述による、被害者の酩酊の度合からみて、被害者がかような突飛な行動をとる可能性は十分あつたものと考える。
以上若干蛇足を加えたが、本件無罪の結論に変るところはない。