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新潟家庭裁判所柏崎支部 昭和39年(家)875号 審判 1965年4月20日

申立人 村田久男(仮名)

相手方 村田一男(仮名)

事件本人 村田キヌ(仮名)

主文

申立人は事件本人を引取り同居させて扶養しなければならない。

理由

一、申立代理人は、「相手方は事件本人を引取扶養すること」との審判を求めた。

二、当事者の提出した資料および審問の結果によれば、次の事実が認められる。

1  事件本人にとつて、申立人は父母を同じくする兄、相手方は母を異にする兄であり、ほかに、配偶者・直系血族または兄弟姉妹は現存しない。

2  相手方は、○○市に生れ、四才で実母に死別した後、継母(申立人および事件本人の実母)から冷遇されるため、七才の頃から家族と別れ、○○村内の伯父方で養育され、高等小学校卒業後間もなく養家を出て自活するようになり、栃木県下で酒造業手伝、○○市で酒小売店営業、東京市で豆腐屋店員、工員等をして、その間汽罐取扱いの資格を得、昭和一五年から○○銀行管理部管理室に勤務するようになり、昭和三二年七月一七日まで同行に在職した。他方、申立人は、相手方が○○村を離れた後、父母、事件本人および弟二郎(戦時中病死)と共に、同村の本籍地に移住し、農業に従事して今日に至るのであるが、相手方との間には、兄弟の情も薄く、音信も途絶えがちで、相手方の所在を知りえなくなつたことすらあつた。

申立人の父村田佐助は昭和五年八月一三日死亡し、その家督相続人である相手方が佐助所有名義の○○村(当時○○村)地内所在田五反八畝六歩、畑四畝二〇歩、山林一町九反二六歩、宅地七〇坪などを取得して、昭和一〇年六月六日その登記を経由し、申立人は昭和五年八月一八日分家したが、右のように相手方が在村しないため、申立人において右各土地を事実上管理するようになつた。右土地のうち同村大字○○地内の土地のうち一一筆は、佐助が生前第三者から借り受けた四二〇円の債務の担保として提供してあつたが、申立人が債務を弁済して担保の拘束を解き(ただし、そのうち田二筆一畝一四歩は相手方名義から債権者へ所有権を移転してあつたので、弁済により申立人名義に所有権移転登記をした)、同大字地内の山林一筆は、昭和一一年頃二郎の病気治療費捻出のため申立人によつて売却され、同村大字○○○○地内の田一八筆、五反二二歩は、昭和一〇年頃売買名義(その経緯は明らかでない)で第三者に所有権が移転された。申立人は、昭和一八年一〇月応召するに際し、相手方と協議のうえ、佐助の負債の残り全部を引き受け、なお相手方に一〇〇円を支払つて、佐助の遺産中当時相手方の所有名義にあつた田六畝、畑四畝二〇歩、山林一町七反九畝一六歩、宅地七〇坪を全部譲受け、同月一二日その登記をした。

3  事件本人は、父母のもとで申立人らと共に養育されたのであるが、僅かに自己の食事を調理できる程度の精神薄弱者であつて、成長後は、結婚することもなく、時おり申立人方の農事を手伝い、二年間東京で女中をしたほか、大半は、○○村、○○市周辺の農山村で他家に住み込み、子守り、掃除の手伝い等をすることによつて辛うじて生活して来た。しかし、事件本人は、これまで住み込んでいた○○市○○内田良男方を昭和三九年八月に去つて、現在では右のような知能の劣弱に加えて、すでに初老の域に達し、特別の好意をもつて同居させ使用する者があれば格別、今後自力で稼働し、単身で生活することは期待できない状況にあつて、扶養を要する状態にある。

4  相手方は、前記申立人の応召に際し、事件本人が同一戸籍にあることが○○銀行の勤務上不利益となるとの理由で、申立人の戸籍に事件本人を入籍させたが、当時事件本人は、他家に住み込んで働いていたので現実に扶養の必要はなかつたけれども、将来その必要を生ずる場合に備え、申立人と相手方との間において、右入籍により相手方が扶養の義務を全面的に免れるものではなく、特に、応召する申立人が生還できないときは、相手方において事件本人を扶養するとの趣旨を約し、申立人らの本家にあたる村田邦男を保証人として、事件本人を今後とも同等の責任をもつて扶養する旨の申立人宛念証を相手方が作成した。事件本人は、昭和三三、四年頃から、前記内田方にその好意によつて住み込んでいたが、昭和三七年一〇月頃、同人から事件本人を引き取るよう要求された申立人と相手方は、互いに他方にその責を負わせようと図つてその協議が成立しないため、再び内田に懇請してなお暫く同人方に同居させてもらうこととした。その頃、申立人と相手方との間では、事件本人を住まわせる小屋を申立人の住居の敷地内に建てることを相談し、相手方は、当時定職もあつたことから、その建築費用として三〇万円を提供することを申し出たが、申立人は、八畳二室の二階建で階下を申立人が使用できる家屋を設計し、過去将来とも申立人が事件本人を世話するのであり、土地をも提供するのであるからとして、その建築費用見積額七一万円を負担するよう相手方に要求したため、相手方がこれを拒否して、この計画は実現されなかつた。しかし、申立人は、昭和三九年春頃、再び内田から事件本人の引取りを求められ、相手方にそのことの協議を求めて拒絶されたため、本件審判申立後の同年八月、事件本人を連れ帰つて、仮りに自己の住居に同居させているが、前記のように、現在事件本人は扶養を要する状態にある。

5  申立人と相手方の現時の生活状態等についてみるに、申立人は、敷地七〇坪、建坪約四二坪、畳敷二室(一四畳)の自己所有住宅に妻および長男辰男(昭和一五年六月一五日生)とともに居住し、前記ような農地および山林(雑木林)を有し、これに小作地を加えて約四反の田を、主として妻と辰男の手によつて耕作して年に米三〇俵位の収穫を得、ほかに申立人の炭焼き、辰男の冬期間の出稼ぎによる収入をあわせて、これによつて生活している。申立人の二男、三男および長女は県外で自活し、四男は高校在学中で○○市内に下宿し、その学資に一ヵ月約七、〇〇〇円を費やしている。

相手方は、その妻と居住する建坪約一五坪の家屋を所有するが、その敷地は借地であつて、他に格別の資産を有しない。前記日時に○○銀行を退職し、その退職金一〇五万円を得、暫くビルの管理人をし、次いで○○省印刷局内の食堂に経理係として雇われたが、右食堂営業が間もなく倒産して、以後は定職をもたず、知人の伝手で随時経理事務の手伝い等をして生活している。養子(二五才)が○○銀行に勤務し、妻子とともに高知に在住する。

三、以上の事実が認められるので、これに基づき、事件本人を扶養すべき者について判断する。

相手方は、事件本人の兄であるとはいつても、母を異にするうえ幼時からこれまで事件本人と同居しあるいは生計を共にしたこともなかつたこと、そのほか、上記のような事件本人および申立人らとの間の従来の経緯、事件本人の経歴・年齢・知能等から推測される環境への適応能力等をあわせて考えれば、東京都内に居住する相手方に、事件本人を同居させ扶養監護するよう求めるのは酷に失し、また事件本人に安住の地を与えることにもならないであろう。そうかといつて、相手方が、すでに老齢で、定収も格別の資産もない現状においては、金銭をもつて扶養の責を分担する能力があるものとも認め難いところである。他方、申立人の前記のような生活形態に則して考えれば、申立人が、事件本人を引き取り、自己の住居に同居させるか、またはその敷地内もしくは居村内で申立人の監護の及ぶ範囲内に居住させて、これを扶養することは、容易とはいえないにしても、著しく困難なことともいえないと考える。もつとも、申立人のいうように、事件本人を申立人方に同居させることは、長男辰男の婚姻に支障を来たすおそれがあることも、肯けるけれども、その点はまた別に打開の途を講ずることもできるのであつて、その支障を理由に、自活能力のない事件本人を放置することは許されないところである。

もとより、事件本人のような者の扶養は、公的扶養によるべきことが特に望ましく、現状においても、公的施設に収容されるよう、申立人および相手方ら関係者がなお尽力することが期待されるのであるが、これを即時に実現することが困難であるならば、その実現までの間、まず申立人の責任において、事件本人の生存を維持するよう求めることが、右認定事情のもとでは、可能でもあり、相当な方法と考える。

そこで、申立人に対し、事件本人の扶養を命ずることとして、主文のとおり審判する。

(家事審判官 野田宏)

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