旭川地方裁判所 平成14年(ワ)127号 判決 2004年1月20日
主文
1 被告は,原告に対し,金3万円及びこれに対する平成14年6月20日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は,これを10分し,その9を原告の負担とし,その余は被告の負担とする。
4 この判決は,第1項に限り仮に執行することができる。ただし,被告が金3万円の担保を供するときは,同仮執行を免れることができる。
事実及び理由
第1請求
被告は,原告に対し,100万円及びこれに対する平成14年6月20日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,旭川刑務所に在監中の原告が,給食を喫食したことにより,毒素原性大腸菌Ο25(以下「Ο25」という。)による中毒症状を呈するに至ったとして,同刑務所を設置・管理・運営する被告に対し,国家賠償法1条1項に基づき損害の賠償を求めた事案である。
1 前提事実(証拠を摘示した部分を除き,争いがない。)
(1) 当事者等
原告は,平成13年5月1日当時,旭川刑務所に収容され,在監中の者である。
被告は,旭川刑務所を設置・管理・運営しており,同刑務所長(平成13年5月1日当時A,以下「A所長」という。)をして,在監者に対する行刑処遇等の公務に従事させている。
(2) 食中毒事故の発生
平成13年5月1日ころ,旭川刑務所内で集団食中毒事故が発生し(以下「本件食中毒事故」という。),同刑務所の被収容者(273名)の約3割に相当する者(90名)に,腹痛,下痢及び発熱等の症状が出現した。
旭川市保健所は,平成13年5月2日午後5時ころ,旭川刑務所から集団食中毒の発生の疑いがある旨通報を受け,同日午後6時ころから同刑務所炊場内の実地検査等を実施するとともに,提出された発症者の便を検査した。
その結果,炊場施設及び調理器具からの病因物質の検出はなかったものの,多数の発症者(以下,単に「発症者」という。)の便から分離菌株を同じくするΟ25が検出されたため,旭川市保健所は,平成13年5月10日,旭川刑務所に対し,病因物質はΟ25である旨連絡した(甲2,乙3)。
2 原告の主張
(1) 安全な食事を提供する義務の違反について
ア A所長及びその指揮監督下にある旭川刑務所職員(以下,併せて「A所長ら」という。)は,被収容者に対して安全な食事を提供し,その生命・身体に対する安全について配慮すべき義務(憲法25条,食品衛生法3条及び国際連合被拘禁者処遇最低基準規則20条1項,監獄法34条,平成14年法務省令第48号による改正前の同施行規則(以下「施行規則」という。)94条)があるにもかかわらず,これを怠り,給食を調理する際,食材の洗浄若しくは加熱を十分に行わず,そのまま原告ら被収容者に給食を提供し,本件食中毒事故を発生させた。
イ 被告は,A所長らは,食中毒事故の発生防止のため衛生管理を徹底し,食材の洗浄・加熱も十分に実施していた旨主張するが,給食業務日誌及び衛生管理点検票の記載は,いずれも極めて簡易かつ形式的なもので,実際に十分な衛生管理がなされていたのか疑問である。被告主張の点検直後に本件食中毒事故が発生し,現に90名もの被収容者に食中毒症状が出現していることからしても,衛生管理が十分であったとはいえない。
ウ また,被告は,原告の症状は,本件食中毒事故とは因果関係がない旨の主張もするが,原告の腹痛,下痢及び発熱等の症状並びにその出現状況が,他の発症者のそれと一致していること,A所長らも,原告に対し,他の発症者と同様の医療処置を施し,病舎への入病を許可していることからすると,原告の症状は本件食中毒事故によるものというべきである。
なお,原告の便からはΟ25が検出されていないが,原告に対して検便が実施されたのは,本件食中毒事故発生から5日後であり,そのころには原告の症状は快方に向かっていたことからすると,原告の便からΟ25が検出されなかったとしても不自然ではない。現に平成13年5月3日の時点でΟ25の保菌が確認された炊場就業者(給食施設である炊場において刑務作業に従事する者)7名のうち6名については,同月8日の時点でΟ25は確認されていない。
(2) 説明・謝罪義務違反について
A所長らは,本件食中毒事故発生後,当該事故の責任者として,条理上,原告ら被収容者に対し,事態を説明し,謝罪すべき義務があるにもかかわらず,本件食中毒事故について十分な説明をせず(原告ら被収容者は,平成13年5月4日付け新聞の回覧で,初めて本件食中毒事故の発生を知った。),謝罪もしない。
(3) 損害について
原告は,本件食中毒事故により,1か月余りの間,体調不良が続き,許される限り横臥するなど寝たきりの生活を余儀なくされたほか,2日間は工場への出役もできなくなるなどし,体重も4キログラム減少した。
A所長らは,原告が食中毒症状を訴えていたのに,当初,風邪薬を支給し,最も症状の重かった平成13年5月3日から同月5日までの間,病舎への入病も許さないなど,十分な医療措置を施さなかったばかりか,上記(2)のとおり,本件食中毒事故について,十分な説明も謝罪もしない。
本件が,被告の重大な違法行為により90名もの発症者を発生させた集団食中毒事案であること,原告が本訴の提起を準備したことで,不当な懲罰を受け,これにより出役できない期間が増大し,仮釈放時期も遅延したことをも勘案すると,本件食中毒事故により,原告が受けた財産的及び精神的損害は100万円とするのが相当である。
よって,原告は,被告に対し,国家賠償法1条1項に基づき100万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日である平成14年6月20日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。
3 被告の主張
(1) 安全な食事を提供する義務の違反について
ア 旭川刑務所においては,監獄法34条及び施行規則94条等に基づき,被収容者に対し,刑務所収容関係(営造物利用関係)という特別権力関係における公権力の行使として給食を提供している。
A所長らは,憲法25条,食品衛生法3条及び国際連合被拘禁者処遇最低基準規則20条1項を直接の根拠として,被収容者に対し,安全な食事を提供する義務を負うものではないが,刑務所長と被収容者が上記のとおり特別権力関係にあることからすると,A所長らには,安全配慮義務の一環として,被収容者に対し,安全な食事を提供する義務があることになる。
そして,A所長らは,食中毒事故等の防止のため,法務省矯正局長通達,厚生省通知等に基づき衛生管理体制を定めるとともに,これを充実強化し,調理過程や調理機器の点検結果を給食業務日誌及び衛生管理点検票に記録するなどしてきたのであるし,実際に,旭川刑務所においては,食材を,種類に応じて流水あるいは次亜塩素酸ナトリウムの希釈液等により十分に時間を掛けて洗浄し,中心温度計等により加熱具合を確認するなどしていたのであるから,A所長らに注意義務の違反はない。
イ いずれにしても,旭川市保健所の調査によっても,冷凍保存していた食材や調理済みの食品,炊場施設等から病因物質は検出されず,本件食中毒事故の原因食品及び感染経路は解明されていないこと,そもそも食材の洗浄・加熱を徹底したとしても,食中毒事故を完全に防止することは不可能であることからすると,A所長らにおいて,本件食中毒事故による損害の発生を予見していたとも,予見可能であったともいえず,また回避可能性があったともいえない。
(2) 原告の症状について
A所長らに注意義務違反があるとしても,原告が,腹痛,下痢及び吐き気等の症状を訴えたのは,平成13年5月4日午前中のことであり,多数の被収容者が中毒症状を呈していた同月2日時点では,何らの申告もなかったこと,下痢症状が出現している限り,検便において病因物質が検出されるはずであるのに,原告の検便検体からはΟ25が検出されていないこと,Ο25による主な臨床症状は,腹痛及び水様性下痢で,発熱はほとんど出現しないとされているのに,原告は発熱の出現を主張していること,下痢症状の持続時間も概ね30時間以内とされているのに(中毒症状は排菌により自然に治癒する。),下痢症状の消失まで約10日間を要し,腹痛等の症状の消失まで約1か月間余りを要したとして,その発症経過は,他の発症者のそれと著しく異なっていることからすると,原告主張の症状は,当時旭川刑務所内で流行していた風邪によるものと考えられ,Ο25によるものではない(原告に対する投薬等の医療措置は,下痢等の症状を緩和させるための一般的なものであり,特にΟ25の治療を目的とするものではない。)。仮に,原告の症状がΟ25によるものとしても,本件食中毒事故と因果関係があるのは発症日(平成13年5月3日ないし4日)から3日間程度に限られる。
(3) 説明・謝罪義務違反について
原告主張の説明義務の法的根拠自体明らかとはいえず,A所長らが,被収容者に対し,本件食中毒事故について説明すべき職務上の義務があるかは疑問である。
仮にそうであるとしても,A所長らは,平成13年5月2日午後5時ころ,旭川市保健所に対し,集団食中毒の発生の疑いがある旨通報するとともに,被収容者の心情の安定を図るため,同月3日午後3時40分ころ,同月1日から下痢,腹痛及び発熱などの症状を訴え,投薬を受ける案件が発生したが,現在は落ち着いていること,新たに同様の症状が出たり,具合が悪くなった場合は職員に申し出ること,原因については,関係機関に調査を依頼していること,今後,衛生管理に十分注意して万全を尽くしていくことなどを,同月10日午後5時30分ころ,関係機関における調査の結果,本件食中毒事故の病因物質がΟ25であることが判明したが,原因食品は不明であること,今後,更に衛生管理に万全を尽くして食中毒の防止に努めることなどを,さらに,同年11月ころには,旭川市保健所の指示により実施した炊場改修工事の進捗状況を,それぞれ放送告知して,本件食中毒事故の被害状況及び旭川刑務所が講じた対処方策を十分に説明しているのであるから,いずれにしても説明義務の違反はない。
また,A所長らにおいて,本件食中毒事故の責任を認め,謝罪すべき法的義務はない。原告の主張は失当である。
(4) 損害について
ア 原告が,平成13年5月7日に8時間の刑務作業のうち7時間20分従事した後,同月9日まで,病舎における休養処遇に付され,実質2日間,工場出役が不能となったことは認める。
しかしながら,原告の体調不良が,1か月余りの間続いた事実はないし,原告が寝たきり生活を余儀なくされた事実もない。
原告は,上記休養処遇の期間中,絶食の指示も受けていないし(原告において給食を拒否したこともない。),点滴治療の必要もなく,原告は,休養処遇に付された2日間以外,通常のとおり工場に出役し,刑務作業に従事していたのであって,原告の症状は,他の発症者と比較しても軽症というべきである。
そして,上記のとおり,原告の症状ないし損害は比較的軽微で,刑務所内で容易に回復するものである一方,仮にA所長らに注意義務の違反があるとしても,その具体的内容も不明で,違法性及び過失の程度は極めて小さいこと,食材の衛生管理等を徹底しても,食中毒を完全に防止することは不可能であること,本件食中毒事故発生後,原告ら被収容者に医療措置を施すなど適切に対応し,上記(3)のとおりの説明等を行い,平成14年7月10日には「昨年は,Ο25による食中毒事案が発生し,皆さんには大変心配を掛けましたことをお詫びする」等の放送告知も実施していることからすると,原告が被った精神的苦痛は,金銭をもって賠償されるべき程度のものとはいえない。
イ なお,原告は,財産的損害についても主張しているが,そもそも原告は受刑者であり,本件食中毒事故に係る治療費等の金銭的負担もないのであるし,作業賞与金は労働に対する対価ではなく,国家が恩恵的に支給する賞与で,しかも,休養処遇に付されたことにより支給が受けられなかった作業賞与金は,わずか113円にすぎないことからすると,原告に財産的損害が発生したとはいえない。
第3当裁判所の判断
1 本件食中毒事故の経緯等
上記第2,1の前提事実に証拠(以下の括弧内に引用したもの)及び弁論の全趣旨を併せると,本件食中毒事故の経緯等について,以下の事実が認められる。
(1) 本件食中毒事故の発生(甲3,4,8,10,14,15,乙3,19,20,27,28)
ア 平成13年5月1日夜半から翌2日朝までの間,旭川刑務所において,複数の被収容者から腹痛(胃痛),下痢及び発熱等の訴えがあった。
旭川刑務所看守部長は,これを風邪によるものと考え,平成13年5月2日の朝礼において,腹痛及び下痢を伴う風邪が流行しているので注意するよう告知したが,発症者の状況が,通常の風邪とは異なっていたことから,あらためて被収容者の状態を確認し,医師(旭川刑務所医務課長)の指示を受けて,炊場就業者等から採取した便の検査を第一臨床検査センターに依頼するなどした。
イ 発症者は,その後も増加を続け,A所長らは,投薬等による対症療法を実施するとともに,症状の重い者を休養処遇に付するなどして対応していたが,平成13年5月2日午後5時時点で,被収容者273名中47名に腹痛,下痢及び発熱等の症状が出現し,しかも,発症者がすべての収容区に散在していることから,そのころ,旭川市保健所に対し,集団食中毒の発生の疑いがある旨通報した。
ウ 上記イの通報を受けた旭川市保健所は,平成13年5月2日午後6時10分ころから,実地検査を行い,炊場施設及び調理器具から検体を採取するとともに,同月1日までの2週間分の冷凍保存食及び原材料を持ち帰り,検査を実施した。
これらの検体からは,本件食中毒事故の病因物質を検出することはできなかったが,平成13年5月3日から同月8日にかけて提出を受けた発症者及び炊場就業者の便の多くから,分離菌株を同じくするΟ25が検出されたため,旭川市保健所は,同月10日午後5時ころ,旭川刑務所に対し,病因物質はΟ25であること,ただし原因食品は不明であることなどを連絡した。
エ なお,Ο25は,易熱性及び耐熱性の腸管毒素(エンテロトキシン)のいずれか一方あるいは両方を産生して下痢を引き起こす病原菌であり,大腸菌の一種であるΟ25自体は,熱(摂氏55度で1時間程度,摂氏60度で15分間程度で死滅する。)や消毒剤に対し,比較的弱いとされているが,耐熱性エンテロトキシンは熱に強く摂氏100度30分間の加熱にも耐えるとされている(易熱性エンテロトキシンは摂氏60度10分間で失活する。なお,本件食中毒事故の病因物質であるΟ25が産生する腸管毒素は,耐熱性エンテロトキシンである。)。
また,Ο25等の毒素原性大腸菌による食中毒の主な症状は,腹痛(痙攣)及び水様性下痢で,通常3日間程度で回復するとされているが,実例は多くないものの,発熱及び嘔吐等の症状が出現することもあり,患者の体調や病因物質の菌量によっては,下痢等の症状が1か月間程度持続することもあり得るとされる。
(2) 原告の症状(甲6,16,乙7の1,2,乙8,31,32,平成14年10月21日付け及び同年12月2日付け調査嘱託の結果)
ア 原告は,平成13年5月1日夕刻,他の被収容者と同様,旭川刑務所において提供された給食を喫食したところ,軽度の腹痛(胃痛),吐き気及び微熱等の症状が出現し,翌2日には,下痢症状も出現し始めたことから,同月3日,旭川刑務所職員に「風邪だと思うのですが,具合が悪くてしんどいので風邪薬をもらえませんでしょうか」と申告して,風邪薬の投与を受け,同月4日には,医師の診断を経て,抗生剤,鎮痙剤,胃薬の処方を受けた(当日の体温は原告の平熱よりやや高い36.2度である。)。そして,原告は,その後,下痢及び吐き気は緩和したものの,平成13年5月7日になっても,なお腹痛(胃痛)が続いたことから,同日午後,病舎に入病することとなった。
イ 原告は,平成13年5月9日午後,症状が緩和したとして(当日の体温は,35.5度である。),退病を申し出て,同日午後4時ころ病舎を退舎し,翌10日から出役を始めた。
原告は,平成13年5月11日及び同月14日にも,下腹痛,腹鳴,胃痛,軟便及び水様性下痢の再発等を訴えていたが,同日以降は,食中毒症状について申告するなどはしていない。
ウ なお,原告について,平成13年5月6日に検便が実施されているが,採取された検体からΟ25は検出されなかった。
また,原告の体重は,平成13年2月5日時点では58キログラムであり,同年8月30日時点では54キログラムである。
(3) 旭川刑務所における対応(甲2,7,乙2,6,10,11ないし18,29,33)
ア 旭川刑務所においては,昭和39年6月18日付け矯正甲第587号法務省矯正局長通達「給食の衛生管理について」に基づき,炊場の衛生管理を行っているところ,平成4年8月3日以降は,旭川刑務所長の指示(同年7月27日付け所長指示第19号「給食業務日誌の作成について」)により,調理過程,調理用機器等の点検を実施し,その結果を給食業務日誌に記録することとしたほか,①平成9年3月31日付け厚生省通知「大量調理施設衛生管理マニュアル」による食材の受入れ・下処理の管理,加熱及び温度管理の徹底,②衛生管理点検票による月1回(6月から8月までの間は月2回)の点検(平成9年6月10日付け総務部長・処遇部長指示第1号「給食業務に関する衛生管理の点検を実施することについて」),③旭川刑務所長の指示(平成12年6月14日付け所長指示第16号「食中毒の発生防止について」)による食中毒事故発生防止のための衛生管理の徹底,④衛生管理体制の充実強化を図り,給食に起因する衛生上の危害防止等に万全を期することを目的とする給食衛生管理規準の制定(平成13年4月1日付け達示第57号「給食衛生管理規準の制定について」)などを行い,給食業務の衛生管理に努めていた。
また,食材は,流水あるいは次亜塩素酸ナトリウムの希釈液等による洗浄をし,加熱具合も中心温度計等により確認することとしていたほか,被収容者に給与する給食について,旭川刑務所職員による検食も実施されていた。
イ なお,本件食中毒事故発生後,旭川刑務所においては,旭川市保健所の指示に基づき,平成13年5月3日早朝から炊場施設,調理器具及び炊場床面等の熱湯あるいは噴霧剤による消毒を実施し,一定期間の献立の見直しを行ったほか,炊場就業者及び職員に対する指導教育(同月7日付け所長指示第10号「食中毒の発生防止について」)や炊場改修工事も実施している。
2 安全な食事を提供する義務の違反等について
(1) 安全な食事を提供する義務
ア 旭川刑務所内で本件食中毒事故が発生したこと,刑務所は,監獄法34条及び施行規則94条等に基づいて被収容者に対する給食を実施しているところ,A所長らが,被収容者に対し,安全な食事を提供して,その生命・身体の安全に配慮すべき義務を負っていることは争いがないので,その注意義務違反の有無について,まず検討する。
イ この点,被告は,A所長らは,食中毒の発生防止のための管理体制を定め,その指導等を徹底していたのであるし,実際に食材を調理する際も,十分に洗浄・加熱していたのであるから,注意義務の違反の事実はない旨主張する。
確かに,旭川刑務所において,従前から,通達等に基づき,食中毒事故防止を目的として衛生管理体制を整備し,調理過程や点検結果等も給食業務日誌や衛生管理点検票に記録するなどしていたこと,また,食材については流水ないし薬剤により洗浄し,加熱具合についても中心温度計等により確認していたことは,上記1(3)のとおりであり,A所長らは,日常から,衛生管理に配意し,食中毒事故の防止に努めていたということはできる。
しかしながら,給食は,多数の者に一時に食事を提供し,しかも,直接体内に摂取されるもので,給食に汚染等があれば,直ちに多数の者の生命・身体に深刻な影響を与える可能性があること,A所長らと原告ら被収容者は,刑務所収容関係(営造物利用関係)という特殊な関係にあり,原告ら被収容者に献立についての選択の余地はなく,調理等についてもA所長らに全面的に委ねるほかない上,提供された給食を喫食しない自由も事実上ないことからすると,刑務所で提供される給食については,より高度の安全性が求められるというべきである。
にもかかわらず,原因食品や感染経路の特定には至っていないものの,現に,平成13年5月1日の給食を喫食した多数の被収容者に食中毒症状が出現していること,旭川刑務所は,本件食中毒事故発生後,上記1(3)イのとおり,旭川市保健所の指示を受け,さらに衛生管理を徹底し,炊場改修工事まで実施していることからすると,A所長らの衛生管理には,なお不十分な点があったものと推認せざるを得ない。
ウ なお,被告は,食材等を十分に洗浄・加熱しても完全に食中毒事故を防止することはできないとして,A所長らには予見可能性も回避可能性もなかった旨主張する。
しかしながら,本件においてΟ25が産生した腸管毒素が耐熱性エンテロトキシンであったとしても,上記1(1)エのとおり,Ο25自体は,熱に弱く,消毒剤に対しても比較的弱いのであるから,食材や調理器具がΟ25に汚染されても,洗浄・加熱等を適切に行うことにより,本件食中毒事故を防止することは十分可能なのであって,被告の主張には理由がない。
(2) 原告の症状
被告は,仮にA所長らに注意義務の違反があるとしても,原告の症状は風邪によるもので,本件食中毒事故とは因果関係がない旨主張する。
確かに,原告は,本件食中毒事故発生以前にも,頻繁に頭痛や鼻閉を訴えて医師の診断を受け,平成13年5月1日にも,早朝,意識が消失した旨申告するなど体調不良を訴えていたのであるし(乙8),原告の検便検体からΟ25は検出されなかったこと,原告主張の症状は,発熱の出現や症状の持続期間等の点で,Ο25による食中毒の典型的な臨床症状とは異なっていることは,上記1(1)エ,(2)のとおりである。
しかしながら,原告に対して検便が実施されたのは症状の初発から3日程度後であったこと,北海道立衛生研究所微生物部食品微生物科長B(以下「B科長」という。)も,被告からの照会に対し,下痢症状を呈している状態で検便を実施した場合,検体から病因物質(菌)が検出される確率は高いが,毒素原性大腸菌のみを分離する培地が開発されていないため,他の細菌叢が多数培養されることにより,毒素原性大腸菌が検出されない場合もあり得る旨回答していること(乙27,28)からすると,原告の検便検体からΟ25が検出されていないからといって,直ちに原告の症状と本件食中毒事故との因果関係が否定されるものではない。
また,B科長が,上記照会に対し,まれではあるが,Ο25の罹患により発熱が出現する可能性はあり,下痢症状等は,1週間以内に自然治癒するものの,体調と菌量によっては1か月程度持続することもあり得ないとはいえない旨回答していること,本件食中毒事故の際,他の発症者も発熱の出現を訴えていたこと(甲16,弁論の全趣旨),原告主張の発熱はさほど深刻ではないこと(平成13年5月4日時点で36.2度程度である。),原告は,平成13年5月14日以降,特に食中毒症状を訴えていないことからすると,原告の症状が,Ο25による食中毒の臨床症状と矛盾するとまではいえない。
そして,本件は,旭川刑務所において提供された給食を喫食した被収容者の約3割に相当する者に中毒症状が出現した集団食中毒事故であるところ,原告も,他の発症者と同様,平成13年5月1日に提供された給食を喫食し,時期をほぼ同じくして,腹痛や下痢等の食中毒特有の症状を呈するに至っていることからすると,当時,旭川刑務所において特に風邪が流行していたと認めるに足りる証拠もない本件においては,原告の症状は,本件食中毒事故によるものと推認するのが相当である。
3 説明・謝罪義務違反等について
本件食中毒事故は,刑務所という特殊な環境において発生し,原告ら被収容者は,当該事故の発生を知った後も,旭川刑務所から提供される給食を喫食する以外ないにもかかわらず,当該事故の状況及び経過について,自ら積極的に情報を収集し,これを把握することはできないのであるから,職務上の法的義務というか否かはともかく,A所長らにおいて,原告ら被収容者の不安や動揺を解消し,心情を安定させるため,行刑処遇等の目的に反しない限度で,当該事故の状況や原因,講じた対策等を周知することは望ましいといえる。
ただ,そうではあるが,証拠(甲7,乙4,5,6の1ないし4,同30)及び弁論の全趣旨によれば,A所長らは,平成13年5月2日午後5時ころ,旭川市保健所に対し,集団食中毒の発生の疑いがある旨通報するとともに,被収容者の心情の安定を図るため,同月3日午後3時40分ころ,同月1日から下痢,腹痛及び発熱などの症状を訴え,投薬を受ける案件が発生したが,現在は落ち着いていること,新たに同様の症状が出たり,具合が悪くなった場合は職員に申し出ること,原因については,関係機関に調査を依頼していること,今後,衛生管理に十分注意して万全を尽くしていくことなどを,同月10日午後5時30分ころ,関係機関による調査の結果,本件食中毒事故の病因物質はΟ25と判明したが,原因食品は不明であること,今後,更に衛生管理に万全を尽くして食中毒の防止に努めることなどを,同年11月ころには,旭川市保健所の指示により実施した炊場改修工事の進捗状況を,それぞれ繰り返し放送告知することで,本件食中毒事故の被害状況及び旭川刑務所が講じた対処方策について説明し,さらに平成14年7月10日には「昨年は,Ο25による食中毒事案が発生し,皆さんには大変心配を掛けましたことをお詫びする」等の放送告知も実施していることが認められるのであって,いずれにしても原告の主張には理由がない。
4 損害について
証拠(甲6,乙8)及び弁論の全趣旨によれば,原告は,本件食中毒事故により,平成13年5月2日ころから腹痛等の中毒症状が出現し始め,これらが同月14日ころまで持続したこと(原告は,本件食中毒事故による症状は,1か月余り持続した旨主張するが,原告は,上記1(2)イのとおり,平成13年5月9日には,体温も平熱に戻り,病舎を退舎して通常の刑務作業に従事していること,同月14日以降は,頭痛やアトピー等の既往症を訴えるのみで,食中毒症状については何ら申告していないこと,もともと,Ο25による食中毒症状は3日以内に回復し,1週間以内には自然治癒する場合が多いとされていること,他の発症者も平成13年5月10日にはほぼ全員快復していたこと(乙1)からすると,原告の症状は,同月14日ころまでには軽快していたものというべきである。),原告は,本件食中毒事故の発生を知っても,なお旭川刑務所から提供される食事を喫食する以外ない状況であったことが認められる。
しかしながら他方で,Ο25による食中毒症状は,一般に3日以内に回復し,1週間以内には自然治癒するとされ,その予後も良好とされていること,現に,原告の症状は,平成13年5月9日ころまでに一旦緩和し,同月14日ころには消失するに至っていること,また,原告は,病舎への入病も2日にすぎず,点滴治療等も必要とされないなど,その症状は,他の発症者と比較しても軽微であることなどを考慮すると,その精神的苦痛に対する慰謝料は3万円をもってするのが相当である。
なお,原告は,財産的損害も負った旨主張するが,原告は,在監中で治療費等の負担もなく,その逸失利益等を想起することは困難である上,実際に工場出役ができなかったのは2日間にすぎず,支給を受けられなかった作業賞与金も113円程度で,しかもこれは労働に対する対価とはいえないことからすると,原告が,本件食中毒事故により財産的損害を被ったと認めるに足りない(原告に対してなされた懲罰が不当なものであると認めるに足りる証拠もない。)。
5 結論
以上によれば,原告の本訴請求は,慰謝料3万円の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し,その余は失当であるから棄却することとして,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 森冨義明 裁判官 桃崎剛 裁判官 島田英一郎)