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旭川地方裁判所 平成24年(行ウ)2号 判決 2013年9月17日

原告

同訴訟代理人弁護士

佐藤真吾

被告

豊富町

同代表者兼処分行政庁

豊富町長 A

同訴訟代理人弁護士

佐々木泉顕

下矢洋貴

福田友洋

山田敬之

主文

一  豊富町長が原告に対して平成二四年六月八日付けでした退職承認処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一請求の趣旨

主文同旨

第二事案の概要

本件は、被告が設置するa病院(以下「被告病院」という。)の臨床検査主任技師として勤務する原告が、豊富町長(以下「被告町長」という。)が原告からの退職の意思表示を前提に原告に対して平成二四年六月八日付けでした退職承認処分(以下「本件処分」という。)について、退職の意思表示の不存在又はその撤回を主張して本件処分の取消しを求めた事案である。

一  前提事実(証拠を摘示した事実を除き、当事者間に争いのない事実又は弁論の全趣旨により容易に認められる事実である。)

(1)  当事者

ア 被告は、被告病院を設置する普通地方公共団体である。

イ 原告は、平成二〇年一一月一日、被告が設置する被告病院の技術職員として任用され、被告病院において臨床検査主任技師として勤務していた。

(2)  本件処分の経過等

ア 原告は、平成二四年三月二二日及び同月二三日に被告の設置する職員宿舎において、他人の居室である同宿舎一号室の玄関ドアに設置された被告病院院長B(以下「B院長」という。)管理に係るドアスコープカメラのレンズ等を紙やすりで擦るなどして損壊した(以下「本件器物損壊行為」という。)として、同年四月一二日に器物損壊罪により逮捕され、同月二〇日まで勾留された上、同日、略式起訴され罰金一〇万円の刑に処せられた。

イ 原告は、同年四月二〇日、被告病院に来院し、B院長らと面談した上、年次有給休暇の残日数をすべて取得することとし、同年六月七日まで年次有給休暇を取得する旨の年次有給休暇取得願を提出した(なお、上記面談の内容については争いがある。)。

ウ 被告町長は、同年四月二〇日、原告に対し、本件器物損壊行為を理由に、同年五月一日から同年七月三一日までの三か月間給料の一〇分の一を減給する旨の懲戒処分をした(以下「本件懲戒処分」という。)。

エ 原告は、同年五月八日、被告病院に来院し、上記イで取得した有給休暇を同月一四日までとし、同月一五日から職場に復帰したいとの意思表示をした。

オ 被告町長は、同年六月八日、原告に対し、同年四月二〇日に原告から口頭での退職の意思表示があったことを前提にして、退職承認処分(本件処分)を行い、原告は、同日までに本件処分があったことを知った。

(3)  本件処分に係る訴訟の経過等

ア 原告は、平成二四年五月二九日、被告に対し、当裁判所に本件処分の差止めを求める訴えを提起したが、上記のとおり、本件処分がされたことから、同年六月九日、当裁判所に対し、同訴えを本件処分の取消しを求める訴えに変更する旨の訴えの変更申立書を提出した。

原告は、上記訴えの変更をするとともに、本件処分の執行停止を求める申立てをし、当裁判所は、同年八月二〇日、本案判決の確定まで本件処分の効力を停止する旨の認容決定をした。被告は、同月二七日、これを不服として即時抗告したものの、札幌高等裁判所は、同年一二月六日、本案事件の第一審判決の言渡し後三〇日が経過するまで本件処分の効力を停止し、原告のその余の申立てを却下する旨の決定をし、同決定は確定した。(当裁判所に顕著な事実)

イ 原告は、地方公務員法四九条の二第一項に基づき、本件処分につき、豊富町公平委員会に対し、同年七月二五日付けで不服申立て(審査請求)をし、同年八月二四日に同申立てが受理されたが、現在まで同委員会による裁決はない。

二  本件の争点

(1)  審査請求前置違反の有無

(2)  本件処分の適法性

ア 退職の意思表示の有無

イ 退職の意思表示の撤回の有効性

三  争点に関する当事者の主張

(1)  審査請求前置違反の有無(争点(1))について

(原告の主張)

本件訴訟に係る訴えは、豊富町公平委員会に対する審査請求(地方公務員法四九条の二第一項)についての裁決を経ずに提起されたものであるが、以下のとおり、審査請求前置主義(同法五一条の二)に反するものではなく、適法である。

ア 地方公務員法四九条の二第一項は、被処分者の意に反する処分であることを任命権者において認める場合に限り適用されるところ、本件において、被告は、本件処分が原告の意に反するものと認めていないのであるから、同項の適用はなく、審査請求前置による提訴制限はない。

イ 仮に審査請求前置の適用があるとしても、以下のとおり、原告が、公平委員会に対する審査請求についての裁決を経ずに本件処分の取消しの訴えを提起することは適法である。

(ア) 本件処分により、原告は収入を失い生活が困窮する上、被告の職員としての資格を失うことで、現在原告が居住している職員宿舎を明け渡さなければならず、b共済組合の組合員たる資格も失うことになる。加えて、本件処分により、原告は働けないことになるのであって、それ自体が人格的価値を毀損するものである。このような事情からすれば、処分により生ずる「著しい損害を避けるため緊急の必要」(行政事件訴訟法八条二項二号)がある。

(イ) 被告は、地方公営企業法二条三項に基づいて、条例で定めるところにより、その経営する企業に地方公営企業法の全部を適用する旨を定めることができるところ、同法の趣旨は、地方公共団体が設置する病院の職員については、できる限り民間の労働関係に近い取扱いを可能とすることにある。このような同法の趣旨に鑑みれば、被告病院の職員について、民事保全法における雇用契約上の地位保全の仮処分に代替する手続として執行停止の申立てを保障する必要があり、そのためにも執行停止の申立ての前提となる取消訴訟の提起も併せて認める必要がある。したがって、「その他裁決を経ないことにつき正当な理由」(行政事件訴訟法八条二項三号)がある。

(ウ) 原告は、本件処分につき、豊富町公平委員会に対し、平成二四年七月二五日付けで不服申立て(審査請求)をしたところ、未だ裁決がされておらず、同不服申立てがあった日から既に三か月が経過している。このような場合、「審査請求があった日から三箇月を経過しても裁決がないとき」(同項一号)に該当する。

(被告の主張)

ア 本件訴訟に係る訴えは、豊富町公平委員会に対する審査請求(地方公務員法四九条の二第一項)についての裁決を経ずに提起されたものであるから、審査請求前置主義(同法五一条の二)に反し、不適法である。

イ 以下のとおり、本件において、行政事件訴訟法八条二項二号及び三号に該当する事情はない。

(ア) 原告には、十分な預金がある上、被告から七四万二三二〇円の退職手当が支給される予定であるから、当面の生活費等に困ることはないこと、原告は、有資格者であり他の医療機関で臨時に就職することが可能であることに加え、原告の主張する損害は金銭賠償により回復可能な損害であるから、本件処分により、原告に重大な損害が生ずるとは考えられないし、これを避けるための緊急の必要性も全くない。

(イ) 地方公営企業法の趣旨は、地方公共団体が設置する企業の職員について民間の労働関係に近い取扱いを可能とすることにあるものではないから、これに関する原告の主張は失当である上、地方公務員法が審査請求前置主義を採用した趣旨及び行政事件訴訟法八条二項一号が設けられている趣旨に鑑みれば、本件では審査請求を経ずに訴訟提起する正当な理由はない。

(2)  退職の意思表示の有無(争点(2)ア)について

(被告の主張)

原告は、平成二四年四月二〇日に被告病院に来院した際、面談したB院長に対し、退職の意思表示を行った。

(原告の主張)

否認する。

原告は、退職の意思表示をしていない。

(3)  退職の意思表示の撤回の有効性(争点(2)イ)について

(被告の主張)

原告は、平成二四年五月八日、退職の意思表示を撤回したものと解されるところ、本件における以下の事情の下では、同撤回は信義則に反し許されない。

ア 任命権者の裁量、北海道の懲戒指針及び被告職員の懲戒処分の基準等に関する規程に鑑みれば、本件器物損壊行為に、原告の過去の道路交通法違反や勤務態度等を併せ考慮し、原告に対して懲戒免職処分を行うことも十分あり得たところ、被告は、原告の退職の意思表示を受け、減給処分三か月という軽い処分(本件懲戒処分)を行った。

イ 本件器物損壊行為の重大性や、原告が退職の意思表示後に退職の挨拶回りを行ったこと等から、被告にとって、原告が退職の意思表示を撤回することは予期できなかった。

ウ 被告病院には、業務上、臨床検査技師が必要であったところ、本件退職の意思表示を信頼して平成二四年四月二四日には原告の後任者である臨床検査技師の任用期間を延長し、同年一〇月一日付けで同後任者を正職員として任用している。

(原告の主張)

仮に、原告が退職の意思表示をしていたとしても、原告は、平成二四年五月八日、退職の意思表示を撤回しており、以下のとおり、同撤回は何ら信義則に反するところはない。

ア 原告は、平成二四年四月二〇日、B院長から、懲戒免職処分もあり得ることを示唆した退職勧奨を受けた結果、退職の意思表示をするに至ったが、現実には、豊富町長は原告に対して懲戒免職処分を行い得なかった。

イ 原告の退職の意思表示は、原告が本件器物損壊行為に係る身柄拘束から解放された当日に行われたものであり、また、口頭又は黙示の意思表示にすぎないのであって、このような考慮する時間がほとんどない状況下でなされた退職の意思表示については、被告において撤回の可能性を十分に予想することができるものであった。

ウ 原告による退職の意思表示の撤回は、退職の意思表示から一八日(土休日を除けば九日)足らずでされている。

第三当裁判所の判断

一  審査請求前置違反の有無(争点(1))について

(1)  地方公務員法五一条の二は、任命権者が職員に対して行う懲戒その他その意に反すると認める不利益な処分のうち、人事委員会又は公平委員会に対して審査請求又は異議申立てをすることができるものについては、それに対する人事委員会又は公平委員会の裁決又は決定を経た後でなければ、当該不利益処分の取消しの訴えを提起することができないとしている。本件においては、前提事実(3)イのとおり、原告は、本件処分についての審査請求に対する豊富町公平委員会の裁決を経る前に本件訴えを提起しているのであるから、審査請求前置の要件(行政事件訴訟法八条一項ただし書)を充足していない。

(2)  この点、原告は、本件処分が地方公務員法四九条一項にいう「懲戒その他その意に反すると認める不利益な処分」に当たらず、審査請求前置による提訴制限はないと主張する。しかしながら、原告は、本件処分について、その前提となる退職の意思表示の不存在又は撤回を主張しているのであるから、本件処分が同項にいう不利益な処分に当たると解するのが相当であり、原告の主張は採用できない。

(3)  もっとも、審査請求に対する裁決を経た後でなければ処分の取消しの訴えを提起することができない場合においても、処分、処分の執行又は手続の続行により生ずる著しい損害を避けるため緊急の必要があるときは、裁決を経ないで、処分の取消しの訴えを提起することができる(行政事件訴訟法八条二項二号)。

(4)  これを本件についてみると、証拠<省略>によれば、原告は被告から退職手当を受け取ることを拒絶する旨の意思を明確にしていること、原告には九州に居住している妻子がおり、原告は、被告に在職中、妻に対し、給与の中から月二万一〇〇〇円の仕送りをしていたこと、原告の保有する資産は預金のみであり、その預金残高は、平成二四年七月二四日現在、九一万二五九九円であることが認められる。本件処分の結果、原告が無職となり給与所得を失うことになれば、原告及び原告の仕送りを生活費の一部に充てているその家族の生活が困窮することは明らかであるといえる。また、後述のとおり、原告は、退職の意思表示を撤回し、その撤回は有効であると解されるにもかかわらず、本件処分をされ、その意思に反して被告病院を退職させられ、就業を継続することができなくなったというのであるから、本件処分により原告に生ずる非財産的損害についても、軽微なものとはいえず、その性質上、金銭賠償によっては回復し難い著しい損害があるということができる。

また、前提事実(3)アのとおり、本件処分に係る執行停止申立て事件において、札幌高等裁判所は、本件処分の効力の停止を認める旨の決定をしており、同決定は、本件処分につき、「処分……により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要がある」(行政事件訴訟法二五条二項)との要件を充たすことを認めている。

(5)  以上によれば、本件において、原告は、豊富町公平委員会に対する審査請求手続を前置せずに本件処分の取消しの訴えを提起できるといえ、審査請求前置違反に関するその余の主張について判断するまでもなく、本件訴えは適法である。

二  本件処分の適法性(争点(2))について

(1)  認定事実

前記前提事実、証拠<省略>によれば、以下の事実が認められる。

ア 本件器物損壊行為の経緯

原告は、平成二一年ころから、被告病院の同僚であるC(以下「C」という。)との間で人間関係上のトラブルを起こしており、同トラブルが高じた結果、平成二四年三月二二日及び同月二三日、被告の設置する職員宿舎において、Cの居室である同宿舎一号室の玄関ドアに設置されたドアスコープカメラのレンズ等を紙やすりで擦るなどして損壊した(本件器物損壊行為。)。

イ 退職勧奨及び本件処分に至る経過等

(ア) B院長は、原告が勾留されていた平成二四年四月一九日、原告の妻及び母に対し、原告の本件器物損壊行為等を伝えた上で、原告の依願退職を勧めた。

(イ) 原告は、釈放された当日である同月二〇日、被告病院において、被告病院のB院長、当時の事務長であったD(以下「D事務長」という。)らと面談した。その際、B院長は、原告に対し、本件器物損壊行為、速度超過で罰金を受けた件及びその他の過去の非違行為を併せると、懲戒免職もありうることなどを述べ、退職勤奨を行った。他方、原告は、本件器物損壊行為について謝罪する一方で、家族を呼びつけて退職を強要したやり方に怒りを覚えるなどと述べていた。

(ウ) 原告は、同日、被告病院のD事務長に対し、原告が有している年次有給休暇の残日数すべてを取得したい旨伝え、被告病院の当時の事務次長であったE(以下「E事務次長」という。)から残日数が二四日間であることを聞いた上で、同人に対し、同年六月七日まで年次有給休暇を取得する旨の年次有給休暇取得願を提出した。なお、この後、本件処分が行われるまでに、原告から、退職願等の退職の意思表示を記載した書面は提出されなかった。

(エ) 原告は、同年四月二〇日、E事務次長から、原告の後任について、原告の前任の臨床検査技師で、かつ、原告が勾留中の同月一六日から臨時任用され勤務していたF(以下「F」という。)に依頼している旨伝えられたところ、「その方であれば私も推薦します。」などと発言した。

(オ) 原告は、同月二〇日、Fに対し挨拶し、「仕事の方よろしくお願いします。」などと発言した。

(カ) 原告は、同月二三日及び二四日、被告病院の職員に対し、謝罪の言葉とともに「お世話になりました。」などと挨拶をした。

また、原告は、同日ころ、職場の私物を持ち帰るとともに、D事務長との間で粗大ゴミの処分に関するやり取りをした。

(キ) 原告は、同月二四日、被告病院に対して、本件器物損壊行為に関して損害賠償を行った。

ウ 原告の後任者の任用等

被告は、平成二四年四月一六日、臨床検査技師としてFを臨時任用し、同月二四日には、Fの任用期間を同年九月三〇日まで延長することとした。その後、被告は、同年一〇月一日付けでFを正職員として任用した。(乙六ないし九、一三、証人E〔六、一二〕)

上記認定に関し、原告は、乙七ないし九について、作成日付がE事務次長の発言と矛盾しており、それらが後から書き加えられたなどと主張するが、各作成日付について、E事務次長の発言と矛盾する内容とまでは認められず、原告の主張は採用できない。

エ 被告における懲戒処分の基準等

(ア) 豊富町職員の懲戒処分の基準等に関する規程によれば、被告職員に対する懲戒処分の量定基準について、公務外非行の器物損壊の場合は減給又は戒告であり、交通法規違反の著しい速度超過等の悪質違反の場合は停職、減給又は戒告であると定められている(第六条二項、別表三(5)、四(3)ア)。また、同規程上、懲戒処分については、事実関係の原因及び結果等を総合的に判断して決定すること、二以上の行為がそれぞれ懲戒事項に該当する場合は、併合して処分することが定められている(第六条一項、五項)。

(イ) 原告は、平成二二年一二月ころ、自動車を運転中、四四キロメートルの速度超過の道路交通法違反により、罰金八万円の刑事罰を受けたが、その件に関しては被告から処分を受けていない。

(2)  退職の意思表示の有無(争点(2)ア)について

原告は、平成二四年四月二〇日、B院長に対し、退職の意思表示をしていないと主張する。

しかしながら、前記(1)イ(エ)のとおり、原告は、E事務次長に対し、原告の後任についてFを推薦するなどと述べていることが認められるところ、原告の主張するとおり原告に退職する意思がなければ、後任者を推薦するなどということはおよそ考え難い。また、前記(1)イ(ウ)、(オ)及び(カ)によれば、原告は、同日、原告の有する年次有給休暇のすべてを取得し、その後、F及び被告病院の職員に対して、退職を前提にしたかのような挨拶回りをしたり、私物を持ち帰るなどしていることが認められ、こうした原告の行動も退職の意思表示をしたことを推認させるものといえる。更に、前記(1)イ(イ)のとおり、原告は、B院長から原告に対する処分として懲戒免職もあり得ることを示唆されており、原告が自主退職を選択したとしても何ら不自然とはいえない。

他方で、原告が、同日、B院長に対して退職の意思表示を行ったことについては、その場に同席していたB病院長及びD事務長の各陳述書及び口頭での退職の意思表示を前提として、退職願(書面)については、原告から後日提出される予定となっていたとするE事務次長の証言があるところ、上記認定した原告の言動に加えて、被告病院において、同年四月二四日、Fの任用期間を同年九月三〇日まで延長するといった原告の退職の意思表示を前提とする手続を進めていることが認められ、こうした事後の経過は、これらの供述内容を裏付けるものといえ、上記供述及び証言は信用できる。

以上によれば、原告がB院長に対し、平成二四年四月二〇日、退職の意思表示をしたこと(以下「本件退職の意思表示」という。)、書面としての退職願は、原告が後日提出する予定であったことが認められ、原告の主張は、採用することができない。

(3)  退職の意思表示の撤回の有効性(争点(3))について

ア 前提事実(2)イ及びエのとおり、原告は、平成二四年五月八日、被告に対し、同年六月七日まで取得していた年次有給休暇を同年五月一四日までとし、同月一五日から職場に復帰する旨の意思表示をしており、同意思表示により、本件退職の意思表示を撤回したものと認めることができる。

そもそも、退職の意思表示の撤回は、退職承認処分の効力発生前においては原則として自由であるといわなければならない。ただし、退職承認処分の効力発生前であっても、無制限に撤回の自由が認められるとすれば、場合により、信義に反する退職の意思表示の撤回によって、退職の意思表示を前提として進められたその後の手続がすべて無駄となり、個人の恣意により行政秩序が犠牲に供される結果となるので、退職承認処分の効力発生前においても、退職の意思表示を撤回することが信義に反すると認められる特段の事情がある場合には、その撤回は許されないと解するのが相当である(最高裁昭和三三年(オ)第五三八号同三四年六月二六日第二小法廷判決・民集一三巻六号八四六頁参照)。

イ そこで、本件退職の意思表示の撤回の有効性の判断に当たり、上記特段の事情の有無について検討する。

(ア) 退職の意思表示は、公務員の身分を喪失させることにつながる重要な意思表示であることからすると、退職願等の書面を提出させ、その意思が真意に基づくものであるか否かを任命権者において慎重に確認した上で退職承認処分がされるのが通例であり、被告においても同様の運用であったところ、本件では、原告は、口頭で本件退職の意思表示をし、後日、退職願を提出する予定となっていたけれども、退職願を提出する前に翻意して本件退職の意思表示を撤回したというものであること、本件退職の意思表示の撤回は、本件退職の意思表示から一八日(土休日を除けば九日)足らずでされており、その間、原告は弁護士に相談するなどしていたことの事情も考慮すれば、原告が本件退職の意思表示の撤回をしたことについて、原告に責められるべき事情があるとは認められない。

この点、被告は、本件器物損壊行為の重大性や、原告が本件退職の意思表示後に退職の挨拶回りを行ったこと等から、被告にとって、原告が本件退職の意思表示を撤回することは予期できなかったなどと主張する。しかしながら、上記事実に加え、本件退職の意思表示が釈放直後に口頭でされたものであり、後日、原告から退職願が提出される予定となっていたにもかかわらず、被告はこれを待たずに手続を進めたという経緯を踏まえれば、被告が原告の本件退職の意思表示の撤回を予期できなかったのは、被告において手続の慎重さを欠いた結果によるものといえ、この点を重視することはできない。

(イ) 他方、上記(1)イ(イ)のとおり、B院長は、原告に対し、懲戒免職もあり得ることを示唆して退職勧奨をしたことが認められるが、同退職勧奨については、社会通念上相当性を欠くものというべきである。すなわち、前提事実(2)ア、上記(1)イ(キ)、エ(ア)のとおり、本件懲戒処分の処分理由は、本件器物損壊行為のみであるところ、被告職員に対する懲戒処分の量定基準としては、器物損壊の場合は減給又は戒告であること、本件器物損壊行為について、原告に言い渡された刑は罰金一〇万円にすぎず、同種前科等があるなどの事情もうかがわれないこと、原告は、釈放後、速やかに被害弁償の申出をし、被告病院の損害についてはてん補されていることからすれば、本件器物損壊行為が被告の設置する職員宿舎内で行われたことを考慮しても、原告が本件器物損壊行為をしたことについて、懲戒免職に相当する行為であるとまでは認めることができない。

この点、被告は、本件器物損壊行為に、原告の過去の道路交通法違反や勤務態度等を併せ考慮すれば、原告に対して懲戒免職処分を行うことも十分あり得たにもかかわらず、原告の退職の意思表示を受けたことから、減給処分三か月という軽い処分(本件懲戒処分)を行ったなどと主張するが、原告が道路交通法違反に係る刑事罰を受けた時期は、本件懲戒処分から一年以上も前のことであり、本件器物損壊行為とは、その性質が全く異なることからすれば、同道路交通法違反の非違行為及び被告主張のその他の過去の非違行為を加味して総合的に考慮しても、原告について、平成二四年四月二〇日当時、懲戒免職に相当する事由があったとは認めることができない。

それにもかかわらず、B院長が原告に対し、非違行為と均衡を欠く処分である懲戒免職もあり得ることを示唆した上で退職勧奨を行ったことは、社会通念上相当性を欠いた退職勧奨であったといわざるを得ない。

(ウ) また、被告は、被告病院には、業務上、臨床検査技師が必要であったところ、本件退職の意思表示を信頼して平成二四年四月二四日には原告の後任者であるFの任用期間を延長し、同年一〇月一日付けで同人を正職員として任用しているのであるから本件退職の意思表示の撤回は信義則に反するなどと主張する。

しかしながら、こうした結果は、被告において、原告の退職願の提出を待たずに手続を進めたことや、本件処分の効力を停止する旨の裁判所の決定の存在を無視したことにより生じたものといえるのであって、原告の責めに帰すべき事情として転嫁すべきではないというべきである。

(エ) 以上の諸事情を考慮すれば、原告がした本件退職の意思表示の撤回について、信義に反するような特段の事情があるとは認められず、本件退職の意思表示の撤回は、有効にされたものと認められる。

(4)  まとめ

以上によれば、原告は、平成二四年四月二〇日に本件退職の意思表示をしたものの、同年五月八日には本件退職の意思表示を撤回したこと、同撤回は、信義則に反するとはいえず有効なものであることが認められるのであるから、本件処分は、退職の意思表示がないにもかかわらず、退職の意思表示を前提としてされた点で取り消されるべき違法があるというべきである。

三  結論

よって、原告の請求は理由があるから、これを認容することとし、訴訟費用の負担につき、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 田口治美 裁判官 真鍋浩之 檀上信介)

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