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最高裁判所大法廷 昭和25年(あ)1089号 判決 1952年3月05日

主文

本件上告を棄却する。

理由

仙台高等検察庁検事長藤原末作の上告趣意について。

刑訴二五六条が、起訴状に記載すべき要件を定めるとともに、その六項に、「起訴状には、裁判官に事件につき予断を生ぜしめる虞のある書類その他の者を添附し、又はその内容を引用してはならない」と定めているのは、裁判官が、あらかじめ事件についてなんらの先入的心証を抱くことなく、白紙の状態において、第一回の公判期日に臨み、その後の審理の進行に従い、証拠によって事案の真相を明らかにし、もって公正な判決に到達するという手続の段階を示したものであって、直接審理主義及び公判中心主義の精神を実現するとともに裁判官の公正を訴訟手続上より確保し、よって公平な裁判所の性格を客観的にも保障しようとする重要な目的をもっているのである。すなわち、公訴犯罪事実について、裁判官に予断を生ぜしめるおそれのある事項は、起訴状に記載することは許されないのであって、かかる事項を起訴状に記載したときは、これによってすでに生じた違法性は、その性質上もはや治癒することができないものと解するを相当とする。

本件起訴状によれば、詐欺罪の公訴事実について、その冒頭に、「被告人は詐欺罪により既に二度処罰を受けたものであるが」と記載しているのであるが、このように詐欺の公訴について、詐欺の前科を記載することは、両者の関係からいって、公訴犯罪事実につき、裁判官に予断を生ぜしめるおそれのある事項にあたると解しなければならない。所論は、本件被告人の前科は、公訴による犯罪に対し、累犯加重の原由たる場合であって、検察官は、裁判官の適正な法令の適用を促す意味において、起訴状の記載要件となっている罰条の摘示をなすと同じ趣旨の下に、これを起訴状に記載したものであると主張するが、前科が、累犯加重の原由たる事実である場合は、量刑に関係のある事項でもあるから、正規の手続に従い(刑訴二九六条参照)、証拠調の段階においてこれを明らかにすれば足りるのであって、特にこれを起訴状に記載しなければ、論旨のいう目的を達することができないという理由はなく、従って、これを罰条の摘示と同じ趣旨と解することはできない。もっとも被告人の前科であっても、それが、公訴犯罪事実の構成要件となっている場合(例えば常習累犯窃盗)又は公訴犯罪事実の内容となっている場合(例えば前科の事実を手段方法として恐喝)等は、公訴犯罪事実を示すのに必要であって、これを一般の前科と同様に解することはできないからこれを記載することはもとより適法である。

以上の理由により論旨はとることを得ない。

よって刑訴四〇八条により主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官沢田竹治郎、同斎藤悠輔、同谷村唯一郎を除く他の裁判官全員一致の意見である。

裁判官斎藤悠輔の反対意見は次のとおりである。

刑訴二五六条二項乃至五項並びに同三一二条の規定によれば、わが刑訴法は、起訴状の記載事項として、一、被告人を特定するに足りる事項、二、公訴事実、三、罪名の三つだけを掲げ、しかも、公訴事実及び罪名記載の方法として必要な訴因及び罰条は、予備的に又は択一的に記載できるものとし、また、罰条記載の誤は、被告人の防御に実質的な不利益を生ずる虞がない限り、公訴提起の効力に影響を及ぼさないものとし、なお、被告人又は弁護人の請求あるときは、被告人に充分な防御の準備をさせるため必要な期間を与えさえすれば、公訴事実の同一性を害しない限度において、訴因並びに罰条の追加、撤回又は変更をも許している。これによって見れば、わが刑訴法においては、公訴提起の要件として起訴状に記載すべき事項は、被告人に充分な防御の機会を与える程度に被告人並びに犯罪事実を特定すれば足りるものといわなければならない。

なるほど、刑訴二五六条六項には、「起訴状には、裁判官に事件につき予断を生ぜしめる虞のある書類その他の物を添附し、又はその内容を引用してはならない。」と規定され、また、同二九六条には、「証拠調のはじめに、検察官は、証拠により証明すべき事実を明らかにしなければならない。但し、裁判所に事件について偏見又は予断を生ぜしめる虞のある事項を述べることはできない。」と規定されている。(なお刑訴規則一九八条二項参照)。しかし、右刑訴二九六条但書にいわゆる「偏見又は予断を生ぜしめる虞のある事項」の陳述は、証拠とすることができず、又は証拠としてその取調を請求する意思のない資料に基いて為すことを禁止されているに過ぎないこと法文上明らかであるから、証拠とすることができ又は証拠としてその取調を請求する意思のある資料に基く事項の陳述は少しも差支ないし、また、右刑訴二五六条六項にいわゆる「その内容を引用し」とあるのは、予断を生ぜしめる虞のある書類その他の物の内容を添附に代えて引用することを指すものであって、右二九六条にいわゆる予断を生ぜしめる虞のある事項を記載してはならないと規定したものでないこと法文上明瞭である。従って、右六項の規定は、いわゆる起訴状一本主義を規定しただけであって、起訴状そのものの記載事項に関する規定ではなく、起訴状以外の添附書類等に関する規定に過ぎないから、この六項の規定だけを根拠として直ちに多数説の説くがごとき結論は絶対に生じないのである。されば、多数説は軽卒にも法文を誤読したか又は極めて行き過ぎた類推解釈であるこというまでもない。なお、多数説は、刑訴二五六条六項の規定は、「裁判官が、あらかじめ事件についてなんらの先入的心証を抱くことなく、白紙の状態において、第一回の公判期日に臨み、その後の審理の進行に従い、証拠によって事案の真相を明らかにし、もって公正な判決に到達するという手続の段階を示したものであって、直接審理主義及び公判中心主義の精神を実現すると共に、裁判官の公正を訴訟手続上より確保し、よって公平な裁判所の性格を客観的にも保障しようとする重要な目的をもっているのである。」と山鳥の尾の長々と、いかにも尤もらしく説明している。しかし、「裁判官が、あらかじめ事件についてなんらの先入的心証を抱くことなく、白紙の状態において第一回の公判期日に臨」むことと、「その後の審理の進行に従い証拠によって事案の真相を明らかに」することとは、全然別個の事柄である。刑訴二五六条六項は、前者に関係のあることを規定したかも知れないが、後者に触れていないことは明白である。そして、前者のごときは、同規定のあるなしにかかわらず、怠慢無責任にも記録を読まず、公判の準備もせず、文字通り白紙の状態において公判に臨みさえすれば、完全に同一目的を達することができるのであって、公正な判決に到達するには、後者こそ必要にして且つ大切なのである。されば、多数説は、重要である後者と重要でない前者とを混同する詭弁であって、同規定のごときは、多数説の主張するような重要目的を持つものでないこと明らかであるといわなければならない。

元来、刑訴二五六条六項、同二九六条等の規定は、法律乃至裁判の素養に乏しく且つ証拠を挙示して事実の認定をするものでない陪審裁判所に対してこそ手続を絶対的に違法ならしめる要件規定と解すべきであるかも知れないが、陪審裁判所と異る普通裁判所は、起訴状の記載や検察官又は被告人等の陳述を鵜呑みにするものでなく、常に適法な証拠に基き、これを示さなければ犯罪事実の認定をすることが許されないのであるから(刑訴三一七条、三三五条)、仮りにこれらの規定に違反したとしても多数説の心配するような影響を判決に及ぼすものでないこと明白なのである。(刑訴三七九条参照)。されば、これらの規定は、単なる訓示的規定と解すべきである。すなわち、せいぜい職権又は被告人若しくは弁護人(刑訴規則一九八条二項の場合は検察官)の遅滞なき異議を待って右のごとき発言を禁止又は撤回させ、右のごとき書類その他の物を返還(刑訴規則二九三条参照)若しくは手続から排除し(同二〇六条、二〇七条参照)又は引用された起訴状の記載内容を訂正若しくは削除させるだけで事足りるものといわなければならない。起訴状記載事項の最も重要な訴因や罰条でさえ初から予備的に又は択一的に記載したり、後になって追加、撤回又は変更することも許されること既に説明したとおりである。まして起訴状に記載することを要しない、しかも、証拠調のはじめには陳述を許される前科の事項(本件では証拠とすることができ又は証拠として取調を請求する意思ある資料に基く事項であるこというまでもない。)のごときものを予め起訴状に書いたからといって、たかだか手続の時期、順序を間違えたというだけの話であって、多数説の力説するがごとくこれを以って、いわば綸言汗のごとき治癒不可能の違法であるなどと見るのは浅見、迂遠も甚だしいといわざるを得ない。現に、この起訴状一本主義は、新刑訴法上必ずしも公訴提起の絶対的な要件ではなく、場合によって却って訴訟経済上不適当であり、従って、訴訟手続上一貫し得ないものであることは、略式命令の請求と同時に提起すべき公訴の場合には略式命令の請求と同時に逆に書類及び証拠物を裁判所に差し出さなければならぬこと(刑訴規則二八九条参照)並びに公判手続の更新の場合には更新前の書類及び証拠物をそのまま起訴状に添附し、従って、更新後の裁判官が予めこれを見る機会のあること(同規則二一三条の二参照)及び破棄差戻後の第一審の訴訟手続も同様であること、その他同一起訴状による共同被告人のある者だけが分離され他の共同被告人の審理又は判決後に審判される場合等を考え合わせると極めて明瞭であって、一点の疑も生じ得ない。されば、多数説は、極めて窮屈な形式論であって、抑も裁判は証拠によるべきものである大原則を忘れ、裁判官自らを殆ど人形乃至奴隷視するものといわざるを得ない。

ことに、本件では、被告人並びに弁護人は、第一審において、本件前科の記載ある起訴状に対し少しも異議を述べることなく、その全事実を肯認し、第一審裁判所もすべて証拠に基いて全事実を確定していること記録上明白であるから、被告人の防御に実質的な不利益もなく、裁判の公正にも客観的に何等の疑念も起らないのである。しかるに、多数説によればこの公正な第一審判決は故なく廃棄されて公訴が棄却され、被告人は、再び訂正された起訴状に基く公訴提起を受け更らに審理判決を繰り返えされる危険に曝されること火を見るよりも明らかである。それは、被告人の利益からいっても裁判の公正、敏速からいっても今更何の足しにもならない、全く無益、無用のことであって、訴訟の促進、第一審の強化を呼号する最高裁判所として断じて看過してはならないのである。従って、弁護人の控訴審の段階における本件起訴状に対する異議は、むしろ被告人の不利益に帰する不適法な控訴趣意であり、これを認容した原判決に対する本件検察官の上告は、結局その理由あるものと考える。

裁判官沢田竹治郎、同谷村唯一郎の意見は、右斎藤裁判官の反対意見と同趣旨である。

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上 登 裁判官 栗山 茂 裁判官 真野 毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介 裁判官 谷村唯一郎 裁判官 小林俊三 裁判官 木村善太郎)

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