最高裁判所大法廷 昭和26年(れ)2495号 判決 1952年6月25日
主文
本件上告を棄却する。
理由
弁護人鍛冶利一の上告趣意第一点について。
原判決は、被告人が別府恭二に対し塩酸ヂアセチルモルヒネ七十五瓦を代金二千円で販売した事実を認定する証拠として、被告人の原審公判廷における同旨の供述を挙げているが、記録上右供述の存することが明らかに認められる。(尤も原審公判廷における被告人の供述中には所論引用の趣旨の部分も存するけれども、その供述部分は原判決が証拠として採用しなかったところである。)されば原判決は証拠によらないで犯罪事実を認定したという所論の違法はないから論旨は採用に値しない。
同第二点について。
原判決は被告人の原審公判廷における供述のみによって犯罪事実を認定したものであることは判文上明らかである。
而して判決裁判所の公判廷における被告人の自白は、憲法三八条三項にいわゆる「本人の自白」に含まれないと解すべきことは、屡々当裁判所の判示するところであって、右判例と見解を異にする所論は採用できない。(昭和二三年(れ)第一六八号、同年七月二九日言渡、判例集二巻九号一〇一二頁以下、昭和二三年(れ)第四五四号、同二四年四月六日言渡、判例集三巻四号四四五頁以下、昭和二六年(れ)第一一八五号、同年一二月一九日言渡、判例集五巻一三号二五三五頁以下。)なお右判例の見解が所論の新刑訴三一九条の規定と矛盾するものでないことについても既に当裁判所判決(昭和二三年(れ)第二〇六三号、同二四年一二月二一日言渡、判例集三巻一二号二〇四八頁以下)の明らかに判示したところである。
第三点について。
被告人が仮に所論の如く本件塩酸ヂアセチルモルヒネ販売の所為について、昭和二〇年厚生省令第四四号塩酸ヂアセチルモルヒネ及び其の他の製剤の所有等の禁止及び没収に関する件により取締処罰の対象となることを知らなかったとしても、それは法律の不知に過ぎないのであって犯罪構成に必要な事実の認識に欠くるところがないから犯意がないとはいえない(昭和二三年(れ)第二〇二号、同年七月一四日大法廷判決、判例集二巻八号八八九頁以下参照)。されば本件犯行につき、犯意がなく処罰の不当であることを主張する論旨は理由がない。従てまたこの主張に基く違憲の論旨はその前提を欠き採用に値しない。
よって旧刑訴四四六条に従い主文のとおり判決する。
この判決は、上告趣意第二点につき裁判官沢田竹治郎、同井上登、同栗山茂、同小谷勝重(以上判例集二巻九号一〇一二頁以下)、同谷村唯一郎(判例集五巻一三号二五三五頁以下)、同小林俊三、同本村善太郎(以上後記)の少数意見を除き、裁判官全員一致の意見によるものである。
論旨第二点に関する裁判官小林俊三の意見は次のとおりである。
憲法三八条三項の「本人の自白」には、その判決をした裁判所の公判廷における自白を含まないという大法廷の判例に対する少数意見は、思想的、沿革的又は実証的に、多くの角度から、各裁判官によってそれぞれ委しく述べつくされているので、ここに少数意見に参加するにあたり、同調する部分をくりかえすことを避け、次のように、主として法条の面からの私見を加える(昭和二三年(れ)第一六八号、同年七月二九日大法廷判決、集二巻九号一〇一二頁以下、昭和二三年(れ)第一五四四号、同二四年四月二〇日大法廷判決、集三巻五号五八一頁以下参照)。
(一)新刑訴法三一九条二項の規定から逆に考えて見たい。同項が「被告人は公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には有罪とされない」と定めているのは、別の大法廷の判決の理由によれば、「憲法三八条三項の趣旨を一歩前進せしめ、公判廷外の自白の外に、公判廷の自白についても補強証拠を要する旨を規定したものであって、その間何等抵触するところはない」というのである(昭和二三年(れ)第一六九六号、同二四年六月二九日判決、集三巻七号一一五〇頁参照)。してみれば新刑訴法施行後において、下級裁判所が、被告人のその法廷の自白のみによって有罪の判決をしても、単に刑訴三一九条二項に違反するに過ぎないのであるから、いわゆる法令違反たるに止まり、上告を提起する場合、この理由は、四〇五条に定める適法な上告理由にあたらないわけである。従って上告審では、その理由の論旨があっても、四一一条によって破棄されない限り、この刑訴違反は、是正されることは望めないのである。このように被告人の有罪か無罪かが分れる証拠の問題が、単に刑訴三一九条二項の違反たるに止まって、適法な上告理由とならないという結論に至ることは、憲法三八条三項の「本人の自白」に関する解釈が、狭きに過ぎることから生ずるものと考える。すなわち、(イ)憲法の原則の意義から見ると、前記昭和二四年六月二九日の判例が、刑訴三一九条二項は、憲法三八条三項の趣旨を前進拡張せしめたものであるという意味は、刑訴の規定は、憲法の原則に基いて成立しているのではあるが、特にこの原則に入らない別個の事項を、さらに附け加えたのであると解するのであろう。しかし憲法三八条三項の、「本人の自白」を唯一の証拠として有罪とすることはできないとする趣旨は、人間の長い体験から出来上った所産であって、沿革的にも思想的にも一体として不可分な意義をもっていると見るのが相当である。従って憲法の意義を可分的に考え、刑訴に加えられた部分を積木のように見ることは、本来同じく唯一の証拠である自白の中に、ことさらに性質上の差別を設けたという感じを受けざるを得ない。またこの区別を軽重の点から見ても、「その公判廷の自白」は、価値のきわめて大きいことは認められるが、事実として、これを唯一の証拠として有罪の判決をした刑訴法違反が、上告理由とされる価値がないほど差があり且つ軽いものとは考えられない。(ロ)これを文理的に見ても刑訴三一九条一項は、憲法三八条一項の趣旨をそのまま現わしたもので、刑訴の規定が「その他任意にされたものでない疑のある自白は」と附加しているけれども、これを憲法の趣旨を拡張して別個の事項を加えたものとは解されない。しかるに同条二項については、「公判廷における自白であると否とを問わず」と定めて同一立言中の字句を、公判廷外の自白のみが憲法三八条三項の趣旨を示したもので、その違反は、憲法違反として上告理由となり、公判廷における自白の部分のみが単なる法令違反として上告理由とならないというのは、いかにも素直でない解釈であると考える。(ハ)さらに刑訴四一一条との関連において考えて見ると、前述のように刑訴三一九条二項の違反があっても、単に法令違反に止まり適法な上告理由にならないとすれば、この理由があった場合、原判決が四一一条によって必ず破棄されるかどうかが問題である。判例の趣旨からいえば、結局被告人の自白といっても、事案によって事実が各々違い価値を異にするから、破棄されるや否やは、その事案における裁判所の自由な判断によって定まるということとなるであろう。(破棄の事例はきわめて少いことは統計の示すところである。)しかるに、前に引用した昭和二四年六月二九日の大法廷の判決の理由の中に、「新刑訴の適用される事件において公判廷の自白だけで有罪とした判決があればそれは新刑訴の規定に違反するものとして当然破毀さるべきである」と明白に言い切っている。しかしこれは右判決理由中に触れた附加的な部分であるから、将来このように、この刑訴違反の理由に基く上告事件は、すべて破棄されると断定することはできないであろう。もし右判決理由にあるように、新刑訴の事件において、この刑訴違反の理由があるときは、必ず破棄されるものとすれば、この理由は結局適法な上告理由となったと同じこととなり、刑訴三一九条二項は、とりもなおさず憲法三八条三項の趣旨をそのまま刑訴に現わしたと見る方が自然だということとなる。これらの理由から見ると刑訴三一九条二項は、憲法三八条三項の趣旨をそのまま現わしたものと解するを相当と考える。
(二)次に憲法三八条三項の原則の根拠は、有罪の判決に客観的基礎を求めること(実体的真実発見による誤判の防止)と、自白偏重のために強要(強制等を一括していう)が行われる弊害を除去しようとすること(沿革的体験的な理由)の二つを含むものであるが、昭和二三年七月二日の判例の理由に従えば、後者については、その法廷における被告人の供述には、強要は考えられない。すなわち任意性において欠けるところはないということを主たる理由としている。しかし前者、すなわち多分に刑事手続上の理想を含む根拠に対しては、自由心証主義と証拠価値による説明があるが、なお未だ充分な保障となる理由がつくされているとは思えない。(イ)被告人の公判廷における自白が唯一の証拠であっても、有罪とすることができるということは、いかにも裁判官の良智によるあらゆる角度から尋問検討があっても、全能でない人間の仕事であるから時に過誤のあるのを免れないし、またこのような解釈をとると、刑訴の規定があっても、かような被告人の自白によって有罪の判決をしたこととなる事例を生ずるおそれが充分に考えられる。そしてこのことは、それによって有罪か無罪かの分れる問題であるから、重要の度において他の事項と同じように見ることはできない。(ロ)またその公判廷における被告人の自白は全く任意であると言い切るのは、きわめて外形的表見的に過ぎ、経験と現実の面からいえば、たやすく肯くことはできない(この点については、昭和二三年(れ)第一六八号同二三年七月二九日大法廷判判集二巻九号一〇二〇頁以下塚崎裁判官意見、一〇二四頁以下井上裁判官意見参照)。さらに刑訴二二七条には、証人についてではあるが、検察官等の「取調に際して任意の供述をした者が、公判期日においては圧迫を受け前にした供述と異る供述をする虞があり」という前提の下に、第一回公判期日前における例外的証人尋問の場合を定めている。この前提は、証人が被告人又は被告人の縁故者等を憚って、その供述が必しも任意でなくなることを予想しているのであるが、このことは、被告人についても、関係者を異にするのみで、同じ事情がないと断言することは困難である。従ってその公判廷の自白といっても、外形のみによって、被告人の内心の問題を簡単に片ずけることは危険であると考える。多数意見には有力な根拠があることは否定できないが、より以上に重要な理由の存することを考え、少数意見に参加する。
論旨第二点に関する裁判官本村善太郎の少数意見は次のとおりである。
憲法三八条一項には、何人も自己に不利益な供述を強要されないとあり、その二項、三項において、自白に関する証拠能力について規定し、更に刑訴三一九条一、二、三項に亘り、自白の証拠能力、証明力について説明があるのは、憲法一一条(基本的人権の享有)と相俟って、国民の享有する基本的人権を尊重し、保障し、その侵害を防ぐため、換言すれば、場合の如何を問わず、自白の強要を防止する意味で、不法不当の圧迫を排し、被告人から、任意で真実性ある自白を得ようとする趣旨に外ならないと信ずる。
然るに多数説は憲法三八条三項にいわゆる「本人の自白」には、当該公判廷における被告人の自白を包含しないものと解釈するのであるが、この場合、自白なる文言について、「公判廷の自白」とか「公判廷外の自白」とか、なぜ差別を付けるのであろうか、同法同条同項は、単に「本人の自白」というのみであるから、条文通り素直に、公判廷の内外を問わず、凡そ、刑事事件においては、捜査以来公判に至るまで、すべての段階を通じ、被告人からなされたる一切の自白を指すものと見るのが穏当ではあるまいか、のみならず刑訴三一九条二項には、明かに「被告人は公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が、自己に不利益な唯一の証拠である場合には有罪とされない」と規定してあるところから見れば、この規定は、憲法三八条三項を釈明したものであり、手続の面においては、法の運用を指示したのであり、理論的には、憲法の保障に一歩を進めたものとさえ思われるから、被告人の自白とは、当該公判廷の自白を勿論含んでいるとの意味を、直さい簡明に表示したものと解すべきであろう。
更に、刑訴三一九条三項には「前二項の自白には起訴された犯罪について有罪であることを自認する場合を含む」とあって、所謂アレインメントの制度をも排斥する趣旨の規定さえある。それかくの如く、刑訴三一九条二項に明文をもって「公判廷自白」を含むとしてあるのに、何故に、法文を縮小解釈し「公判廷自白」は含まないとするのであろうか、しかも問題は国民の享有する基本的人権に関する重要事項であるのに。
惟うに、多数説の見方は、公判廷外の自白は、ややもすれば有形無形の不当な干渉や、威圧を受け、心身の平安を欠き、恐怖と不安の下になさるる恐れのある供述であるから、任意性、真実性が少ない。そこで、この場合の自白は、これを裏書する補強証拠を必要とするけれども、公判廷の自白は右の憂いがなく、自由任意に出たものであるから証拠価値も充分だし、これを裏書する補強証拠も必要としない。唯一の証拠としても差支えないとするのであろう。
なるほど、公判廷では、有形無形の不当な干渉とか、威圧とか、供述の強要とかは、公判廷外のそれと比較すれば比較的少ないかも知れない。さりながら被告人が受ける心理的圧迫感と、胸中に潜在する煩悩とは、苟も事件係属中は雲散霧消しないし、多くの被告人は法廷のふんいきだけで、ある種の威圧を受けるのではないだろうか、かつての供述を変更すれば警察検察庁へ対し後の祟りが恐ろしいとか、他人への波及を恐れるとかの悩みもあろう。また、罪の軽減や、執行猶予を懇請する目的で裁判官への迎合答弁もあろうし、心神困憊して闘志と自主性を失い、只終結を急ぐ気分から、出鱈目の供述をなす場合のあることも想像にかたくない。
要するにそれぞれの場合に自らの罪を招くとは知りながら虚偽の自白を敢えてするのである。特に追及尋問に当ってその場限りの心にもない自白をすることは珍らしくない。
右のような場合に、これは法廷内の自白だから任意性あり、真実性あり、自由な供述であり、そして補強証拠も必要でない、証拠価値も充分だとして、裁判するとしたら、被告人並びに関係者は裁判当局に対して、どんな考えを持つだろうか。
要するに「公判廷」とか「公判廷外」とか差別すべきものでない。自白が証拠能力を有するのは、それが全く任意、自由、真実性のあるものに限る。自白に伴う補強証拠は、公判廷の内外、いずれの場合でも必要とすべきである。多数説の言う公判廷の自白は含まないとの意見は、正に、往昔の糺問主義への逆行であり、裁判の実情に即しない経験則違反である。
公判廷自白のみを証拠として、断罪することを容認するならば、良知良能でない人間の裁判であるから、もしかしたら、自白追及の簡易裁判となり、自白偏重の結果、他の証拠調をなす煩雑をさける傾向に陥り、自白を強要する恐るべき悪へきを助長しないとも限らない。そうだとすれば、審理は自白尊重のみに集中され、事件の真相を把握することを怠り、従って誤判が多くなり、裁判官の職権行使に対する司法権への信頼が薄くなり、窮局は、国民の基本的人権の保障と尊重が犯されるという危険が招来される。刑政終局の目的は、取りもなおさず、百人の罪人を逸するとも、一人の無辜を罰するなと言う点にある。だからこの線に沿うには、裁判官は証拠の完ぺきを期すると同時に、人権を擁護する意味において、本人の自白に補強証拠を付けるべきであり、自白偏重を排すべきである。そして「法廷内」「法廷外」と区別する鉄のカーテンは破るべきであろう。かくして憲法三八条並びにこの法条の趣旨を敷衍している刑訴三一九条各項の法文の趣旨に従い、憲法一一条の規定を尊重せねばならないと信ずる。
(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上 登 裁判官 栗山 茂 裁判官 真野 毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 斉藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介 裁判官 谷村唯一郎 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎)