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最高裁判所大法廷 昭和32年(オ)227号 判決 1958年5月28日

上告人 (請求者) 藤井正美

被上告人 (拘束者) 宮松秀千代外一名

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

およそ法律上正当な手続によらないで身体の自由を拘束されている者について、人身保護法によつて救済を請求することができるのは、その拘束又は拘束に関する裁判若くは処分が権限なしになされ又は法令の定める方式若くは手続に著しく違反していることが顕著な場合に限られている(人身保護規則四条本文)。即ち人身保護法による救済の請求については、拘束又は拘束に関する裁判等の無権限になされたこと又は方式若くは手続が著しく法令に違反すること及びこれらの事実は顕著でなければならぬことの諸制約が存在している。そしてそれらの制約は、人身保護法の目的とするところが、司法裁判による被拘束者の自由の回復が迅速且つ容易に実現されなければならぬことに存することからして理解できるところである。従つて人身保護法による救済は請求の方式、管轄裁判所、上訴期間、事件の優先処理等手続の面において民事刑事等の他の救済手続とは異つて、簡易迅速なことを特色としている。とくにこの手続において、事実の立証に証明を要せず疎明を以て足るものとしているのは、この特色の最も著しいあらわれと認められるのである。

要するに人身保護の制度は事実及び法律の問題に深く立ち入つて審理するところの、民事又は刑事の裁判とは異つた非常応急的な特別の救済方法である(法一条、規則四条但書、昭和二八年(ク)五五号同二九年四月二六日大法廷決定民事判例集八巻四号八四八頁以下参照)。その請求は訴の提起に代るべきものではなく、又事実問題或は法律問題に関する裁判の誤謬を是正する上訴に準ずべき性質のものでもないのである。

原審が当事者間に争のない事実と認めたところによつて考察すれば、本件の実質は要するに、幼児の養育者であつた請求者と、現にその幼児を監護する拘束者たるその祖父及び祖母との間の幼児引渡の問題即ち幼児に対する監護権の所在の問題に帰着するものである。ところで元来人身保護の制度の趣旨とするところは無権限又は違法な物理的拘束から被拘束者を釈放することにあるから、かかる問題を人身保護事件として取扱うことには全然疑義の余地がないわけではない。しかしながら幼児なるが故にこの制度の保護の範囲外にあるという理由は存しない。又この制度が今日その適用範囲を拡張し、幼児引渡に及ぼされるにいたつていることは、内外の学説判例に徴して明かである。さらにわが人身保護規則(三七条)も法がこれを認めていることを前提とするものと解し得ないことはない。そうして幼児引渡の請求についても規則四条の制約が適用されることは当然である。

進んで論旨の当否を検討するに、本件の場合に自由の拘束が存しないと断じ得ないことは、上告人主張のとおりである。けだし幼児監護の場合においては監護という事柄の性質からしてつねにある程度の拘束が存在するものと認められるからである。しかし、本件の場合においては、拘束者等が祖父祖母或は後見人であることは当事者間に争がなく、また、原判決によれば、「被拘束者が拘束者等によつて現に権限なしにされ、あるいは法令の定める方式若くは手続に著しく違反していることが顕著である拘束を受け、あるいはその自由を実質的に不当に奪われていると認むべき何等の疎明資料もない」というのであつて、その判断は結局において正当と認められるから、本件拘束が冒頭記載の人身保護請求に必要な無権限又は法令違反のものであることの顕著性を否定するに十分である。従つて本件の請求はすでにその点で理由がない。かりに請求者において幼児の引渡を請求する何等かの理由が存するとしても、それは別個の手続において主張さるべきであり、人身保護請求の方途によるべきものではない。

なお原判決が判示するように拘束者等が請求者のもとから被拘束者を連れ去つたことが、穏当を欠くものであつたとしても、この一事を以て現に行われている拘束が法律上正当な手続によらないもの、権限なしにされ、或はそれが著しい法令違反が存することが顕著なものと断定することはできない。

この故に原審が本件請求を理由がないものとして棄却し、被拘束者を拘束者両名に引き渡すこととしたのは結局正当であり、論旨は理由がないことに帰着する。よつて人身保護規則四二条四六条、民訴九五条八九条を適用し、主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官真野毅、同藤田八郎、同小林俊三、同河村大助、同奥野健一の各補足意見及び裁判官下飯坂潤夫の少数意見があるほか、全裁判官一致の意見によるものである。

裁判官真野毅の意見は次のとおりである。

原審の確定した事実関係によれば、上告人の主張する拘束は、法律上正当な手続によらないで身体の自由を拘束されているものと認められないから、上告が棄却さるべきことは多数意見と同じ考えである。しかし、多数意見が法律違反の顕著な場合に限つて人身保護請求は許される趣旨の見解を示している点は同意し難い。裁判所は違法な拘束が行われている場合には、その違法が顕著であると否とを問わずその救済を許すべきものである。その詳細については、判例集八巻四号八五二頁および同九巻一〇号一四五七頁に述べたわたくしの意見を引用することとしたい。

裁判官藤田八郎の補足意見は次のとおりである。

原判決は、本件について、諸般の事実関係を認定した上、「以上説示した事実関係のもとにおいては、拘束者秀千代は、被拘束者を教育し、監護する法律上の権利を有し、拘束者等が、被拘束者をその膝下に置くことは、現に後見人の権利を濫用して、法律上正当でない手続により不当に被拘束者の自由を拘束するものといえない」「被拘束者が現在後見人である祖父及び祖母のもとに、その幼い兄秀雄とともに、平穏に、物質的にもさしたる不自由もなく、骨肉の愛情(いささか盲愛の感はあるが)をもつて養育されている状態にある以上、いまただちに被拘束者を祖父母のもとから取り上げることは、非常応急の措置を定めた人身保護法によつてすべき限界を超えるものというべく」と判示したことは原判文上あきらからであつて、右原判決の判断は、すなわち、本件拘束は、人身保護法二条にいう「法律上正当な手続によらないで、身体の自由を拘束されている」ものでないとするのであつて、原判決が本件請求を理由のないものとして棄却したのは正当である。

本件多数意見は、人身保護規則四条にいわゆる「顕著」をもつて、人身保護請求の理由ありや否やに関する要件と解釈し、本件の拘束は「権限なしにされ又は法令の定める方式若しくは手続に著しく違反していることが顕著である場合」に該当しないが故に、本件請求を棄却した原判決は結局において正当であるとしているのであるが、人身保護請求の理由ありや否やの要件は法二条の規定するところにつきるのであつて、規則四条をもつて、さらに、この要件を制約するものと解するごときは人身保護法の本質に反する違法の解釈であるとすることは、自分がさきに昭和三〇年九月二八日、昭和三〇年(オ)第八一号事件大法廷判決(集九巻一〇号一四五三頁)において述べたとおりである。

裁判官小林俊三の補足意見は次のとおりである。

私は、原判決が委しい事実の取調べによつて、本件の救済を許さないとした結論を結局正当と認めるから、このかぎりにおいて多数意見の結論(上告棄却)にも賛同する。しかし多数意見の理由には納得できないところがあるので自分かぎりの意見を補足する。

まず「顕著」の意味についてであるが、人身保護法によつて救済を認められる理由は、法二条の規定につきるのであつて、規則四条にさらに委しい定めをしたのは、二条の請求の性質を明らかにしたにすぎず、なんら二条の規定を妨げるものでないとともに、二条の規定を拡張または制限するものでもない(法二三条参照)。したがつて規則四条にいう「顕著」という用語も、法二条の理由を判断するに当つて、法の基本的な性格である「非常応急」とか「簡易迅速」ということを離れてはならないという見方の基準を示したにほかならないと解すべきである。そしてまたこの用語は基準としては相当であると考える。しかし「顕著」という用語が、直ちに具体的事件の請求の理由を常に必ず主張自体だけで判断すべしという要請を意味するものではなく、いいかえれば「顕著」とあるから、請求の理由を判断するのに、事実上法律上なんらの取調もしないで直ちに不当拘束の事実が明らかな場合でなければならないと解すべき特段のよりどころもない。そのように解することは、人身保護法の適用ある場合を著しく狭くし、この法を装飾的存在とするおそれが多分にあると考える。本件多数意見の行文と前例たる大法廷判例(昭和三〇年(オ)第八一号同年九月二八日判決、集九巻一〇号一四五三頁以下)の多数意見の趣旨とを合せ考えると、本件についても「顕著」の意義をきわめて狭くきわめて形式的に解する趣旨であると認められ賛同できない。この点について私はすでに反対の見解を述べておいたけれども(右大法廷判決の少数意見参照)、ここに改めて多数意見が強調する「顕著」の解釈が法二条の本来の趣旨を狭く変更することとなる点を注意したい。

次に右「顕著」の解釈に関連して、多数意見は、現在の適法な状態とこれを形成した暴力手段との関係を法律上いかに解するかについて判断をしていない。法は、その救済しようとする不当拘束をもつぱら「手続」の面から立言していることは二条によつて明らかである。ところで本件における請求の理由は、要するに、「請求者のもとから被拘束者を実力をもつて奪い去つた」(原判示)ということであつて、この事実は、主張自体からいつても一応法の目的とする審理の対象となる理由であると認めなければならない。けだし拘束に現在正当な権限が認められさえすれば、いかに拘束に至るまでの手段に暴力が用いられても、常に法の救済を受ける顕著な理由とならないと解すべき根拠は全くないからである。本件のような「実力をもつて奪い去つた」といういわば暴力的手続を法律上いかに解すべきかについて、当裁判所小法廷判例は、手続の違法を認めつつ、それとの比照において、現在の拘束が正当の権限に基くことと、かつ被拘束者のためにむしろ幸福であるということの二つの理由によつて、救済の請求を退けていると認められる(昭和二四年一月一八日第二小法廷判決、集三巻一号一〇頁)。本件の多数意見は、この点について右判例の程度についてすら判示するところがなく、単に「……この一事を以て現に行われている拘束が法律上正当な手続によらないもの、権限なしにされ或はそれに著しい法令違反が存することが顕著なものと断定することはできない」と排斥し去つている。この考え方をすすめてゆくと、法律上正当な権限ある状態を形成してしまえば、手段の暴力は暴力とはならないという非論理な結果になりかねず、かくては現在権限ある拘束状態は常に手段の暴力を法の保護を受ける適格から除外し閉め出すという結果に至ることをおそれざるを得ない。多数意見は本件の機会に、この両者の関係の限界を明らかにすべきであつたので、法律上きわめて重大な事項の判示を回避したとの非難を免れないと考える。

さらに多数意見は、請求の理由たる主要事実が、当事者間に争いがないのに、疎明がないとして請求を排斥した原判決をそのまま是認している。すなわち原判決の「拘束者等が、前説示のように請求者のもとから被拘束者を実力をもつて奪い去つたことは……」云々という判示事実(「当裁判所の判断」の項第二段)は、これを原判決の他の各記載(事実摘示の項の第一請求者の主張、理由の三、第二拘束者の主張理由の一の(三)、判決理由当事者間に争のない事実(四))と合せて見ると、当事者間に争いのない事実と認められる。そして右摘示部分は、記録を検討してみると、請求者は、結局この手段に基く拘束をもつて救済を求める理由としていること明らかである。しかるに多数意見がその説示に原判決の「……何等の疎明資料もない」という部分のみをとくに引用し正当としているところを見ると、結局多数意見は、請求者が本来請求の理由とする当事者間に争いのない前記手段に基く拘束について争いがあるものとしたか、あるいはそれについて判断を与えず、請求の理由の一部分にすぎない現在の拘束状態のみに即して「何等の疎明資料もない」という判断をしたか、のいずれかであつて、判断の趣旨が全く明らかでない。もちろん原判決も「実力をもつて奪い去つた」ことを是認している訳ではなく、現状との比較考量において判断をしており、多数意見もいわゆる「この一事をもつて……」云々の説示をしているのであるが、手段を主要部分とする本件請求の理由は、前示のように法の許す理由として一応審査の対象となる適格があるのであるから、当事者間に争いのない以上、この点に関するかぎり疎明の有無は問題とならない理である。しかるに多数意見が前示のような判断をしたのは、顧みて他をいうのそしりを免れないであろう。請求者は、手段と切り離した現在の状態のみについて、本来の請求の理由を主張するものではないから、この部分だけについてとくに疎明方法を講じないでも必しも不当とはいえない。したがつて多数意見は、請求者の本来の請求の理由たる事実を争いのない事実として肯定した上、現在の状態と手段の暴力との法律上の関係について明らかな判示をすべきであつたと考える。

以上のとおりであるが、本件の結論について記録を詳細に検討してみると、本件請求者(上告人)と被拘束者との関係が、世間でいう情義の観点からは肯ける理由が必しもないとはいえないが、基本的な関係について法律上正当とすべき理由がいかにも不足であるのに対し、被上告人らは祖父祖母であり後見人であるという強力な法律的地位に立ち、かつ被拘束者の現状が、原判決の委しく認定するごとくでありとすれば、結局原審の到達した結論を相当と認めるのほかなく、多数意見の主文に同調する。

裁判官河村大助の補足意見は次のとおりである。

わたくしは本件上告を棄却する多数意見に賛同するが、その理由とくに人身保護規則第四条の解釈適用については藤田裁判官の意見に同調し、次の意見を附加する。

人身保護規則第四条本文の「法第二条の請求は拘束又は拘束に関する裁判若しくは処分がその権限なしにされ又は法令の定める方式若しくは手続に著しく違反していることが顕著である場合に限り、これをすることができる」との規定は、人身保護法第二条の規定を制限するものであり、その制限する限りにおいては規則制定権の範囲を超えて制定されたもので無効であるとの説もあつて、解釈上疑義はあるけれども、同条は請求の要件を定めたもので、すなわち請求自体において無権限又は法令違反が「顕著」であることを要するとしただけのものであつて、法第二条を制限する趣旨でないと解する藤田裁判官の意見を正当と考える。

思うに同条は請求の要件として「顕著」である場合に限るとしているがこの場合の「顕著」とは「明白」と同意義に解すべきであつて、すなわち、その請求に無権限若しくは法令違反の事由が明白に表示されることを手続上の形式的要件とされたものと解するを相当とする。従つて請求に無権限若しくは法令違反の理由が明白にされない場合は、請求の要件を欠くものであつて(法第七条参照)不適法の請求ということになろう。これに反しその請求において不法不当に拘束されている理由が明白にされていれば形式的要件は具備されたことになるから、裁判所は進んで法第二条の「法律上正当の手続によらないで身体の自由が拘束されている」かどうかの実体的判断を行うべきであつて、此場合に規則第四条の「顕著性」を本案判断の要件となすべきではない。

多数意見は人身保護法の目的とするところが司法裁判による被拘束者の自由の回復が迅速且つ容易に実現さなれければならないことから無権限又は法令違反の存在に顕著性を必要とすることが理解出来るとの趣旨を説示されているが、現に不当に奪われている人身の自由を迅速且つ容易に回復せしむるためにこそ事件の迅速、優先処理が要求され(法第六条規則第一一条)その手続において事実の立証に証明を要せず疎明を以て足るものとしているのであつて、如何に迅速裁判が要請されるとはいえ顕著性がない場合には、現に不法不当に拘束されているかどうかの実体的審査を要しないで請求を排斥できるとすることは、真に人身の自由を不当に奪われた者でも遂に救済されない不当の結果を生ずる場合が多くなることであろう。かくの如きは人身の自由を保障する日本国憲法及び法第一条の精神にも反するのではなかろうか。

ところで法第二条の「法律上正当の手続によらない」拘束とは、救済を求めるときの状態において現に人身の自由が不当に奪われている場合をいうのであつて、とくに幼児の監護をめぐる人身保護事件においては、幼児の幸福を主眼として判断しなければならないと解するから、たとえ現在監護権者の下にある幼児であつても精神的肉体的な危険にさらされ、その自由が不当に奪われている場合は、その環境から幼児を救済することも人身保護法の使命であると解せられる。反対に正当な手続によらないで後見人等が幼児を実力で奪い去つた本件のような場合においても、その実力奪取の結果が現在なお子供の生活に影響している場合は格別、現在幼児が幸福な生活環境におかれていると認められる場合は、法第二条の救済を与うべきものではないかと解するを相当とする。

本件につき原審が被拘束者が現に不当に自由を奪われているかどうかの実体判断をした上、その請求を理由なしとして棄却したのは結局正当であると思料する。

裁判官奥野健一の補足意見は次のとおりである。

多数意見は「……本件拘束が冒頭記載の人身保護請求に必要な無権限又は法令違反のものであることの顕著性を否定するに十分である。従つて本件の請求はすでにその点で理由がない。……」といい、結局本件請求は人身保護規則四条の所謂顕著性がないという点で排斥さるべきものであるとの趣旨であることが明白である。右の顕著性のないという意味が、拘束が無権限又は法令違反によつてなされていることが一見明瞭とはいえないこと、すなわち、右規則四条の顕著である場合とは、事実上法律上、請求の理由あることが自明の場合をいい、更に換言すれば、事実を取り調べたり、又は法律上多少でも疑義があつて研究しなければ、直ちにその請求の理由があるかどうか判らない場合は右顕著性ありとはいいえないという趣旨であるならば、遽に多数意見に賛同し難い。けだし、若し、そうだとすれば右規則四条が顕著性を要件とすることにより、人身保護法二条の要件を制約、変更するものであり、同法二三条により規則に委任された必要な範囲を逸脱した違法な規則といわねばならぬからである。私見によれば、規則四条の「顕著」とは普通の用語例の如く、何ら証拠を要せずして一見して明白という意味ではなく、証明を要しないで疎明の程度で明瞭になる場合という意味と解すべきものと考える。

さて、本件において原審は、当事者間の争のない事実と挙示の疎明方法によつて拘束者等は被拘束者の祖父母であり、拘束者秀千代は被拘束者の後見人として教育監護する法律上の権利を有するものであること、および、拘束者等が請求者のもとから被拘束者を実力をもつて奪い去つたものであるが、被拘束者は現在拘束者のもとに、被拘束者の兄と共に平穏に物質的にもさしたる不自由なく骨肉の愛情をもつて養育されている状態にあることを認定し、よつて本件請求の理由のない旨判示したものであつて、単に前記顕著性なしとの一事によつて、これを排斥したものでないことが明らかである。そして、幼児に関する人身保護請求の当否の判定が、現在の状況、特に子の幸福の観点によつてなさるべきものであつて、この趣旨から見れば、原審の判断は洵に正当であつて、論旨は採用に値しないものである。

裁判官下飯坂潤夫の少数意見は次のとおりである。

本件において、当事者間に争ない事実、及び原判決が挙示の疎明資料によつて認定した事実は次のとおりである。

(一) アメリカ合衆国の国籍を有する上告人(本件請求者)は昭和二七年秋、当時芸妓であつた被上告人ら(本件拘束者ら)の二女宮松節子と事実上の夫婦となり、爾来同人が昭和三一年七月一〇日死亡するまで同棲していたこと。

(二) 被拘束者は右節子と家島義雄との間に昭和二六年一月一日嫡出でない子として出生し、右家島によつて認知され、節子が上告人と同棲するに及び、節子の連れ子として伴われ、爾来上告人と同居し、上告人を実父のように慕い上告人の十分な経済力と愛情の下に精神的にも物質的にも不自由なく、ここ四年の間養育されていたものであること。

(三) 右の如く節子の実父母であり、被拘束者にとつて実の祖父母である被上告人らは節子が上告人と同棲を始めた当初は、節子と右家島との間に被拘束者の兄として生まれ、被拘束者と同様家島によつて認知された宮松秀雄とともに、上告人方に身を寄せていたが、間もなく秀雄を連れて別居し、爾来上告人から疎まれ、両者の交際が円満を欠くに及び、被拘束者を繞つて確執を生じ、被上告人らは昭和三一年中上告人を拘束者として、東京地方裁判所に人身保護命令を請求し(この請求は後に取下げられた)次いで、被上告人秀千代は横浜家庭裁判所において、被拘束者の後見人に選任されるや、被上告人らは上告人を相手方として東京家庭裁判所に被拘束者の引渡を求める調停の申立をなし(該調停は不調となつた)、更に東京地方裁判所に被拘束者の引渡を求める幼児引渡の訴を提起し、右訴は現に同庁に係属中であること。

(四) しかるに、被上告人らは昭和三二年一月一七日正午頃、東京都目黒区内柿の木坂において、折柄幼稚園から帰宅の途中であつた被拘束者を待受け、これを自動車に乗せて連れ去り(以下これを本件事件と仮称する)、爾来同人を自己の肩書住居において同居させ、後記原審における最終口頭弁論終結に至るまで、同人を上告人に引渡していないこと。

以上が、原審において確定された事実であり、なお記録によれば、本件請求は被拘束者が被上告人らによつて連行された日の翌日である昭和三二年一月一八日に提起され、その日から原審が同年二月一二日弁論を終結するまでに僅々二〇日余りしか経過していないことを認めることができる。

原判決は叙上の事実関係の下においては被拘束者の釈放、引渡を求める本件請求は容認し難いものとしているのであるが、私は是認すべきものと考えるのである。左にその理由を記述する。

成る程、被上告人らは被拘束者に対し実の祖父母であり、その一人は被拘束者の後見人たるの地位にあり、一時は被拘束者と共に暮したこともあつたのである。しかし、いかに、そのような関係があつたからと云つて、ようやく満六歳になつたばかりの被拘束者を、しかも被拘束者を繞つて本件当事者間に訴訟の係属しているさ中に、これを幼稚園の帰途に待受けて連れ去り、(甲第二一号証の三に徴すれば被上告人らはこのとき被拘束者の附添の女中を欺き、被拘束者を無理やりに自動車に乗せたものの如くである)、前示事情の下に、たとい血縁はなくとも、四年の間慈父の如くに愛育していた上告人から引き離し、引続き自分らの手許に抑留しておくことは、何んとしても法の埒外において実力を行使したものであつて、正に人身保護法一条二条にいわゆる法律上正当な手続によらないで身体の自由を拘束したものであり、現に不当に人身の自由を奪つているものであり、しかもそれが人身保護規則四条にいわゆる顕著な場合に該当するものであること極めて明瞭であると云わざるを得ない。

被上告人らが被拘束者を前記の如く連行したこと自体が不当に人身の自由を奪つたものであることは、原判決もこれを否定するものではないようである。ただ原判決は、その判文で強調しているように「被拘束者は現在後見人である祖父母の下に兄秀雄とともに平穏に物質的にもさしたる不自由なく骨肉の愛情を以つて養育されている状態に在る」ことが認められるが故に現に自由拘束の状態は存在せず、従つて人身保護法を発動するの余地はないものだという考え方のようである。成る程、被拘束者は骨肉の間に帰つたことは疑なく、また衣食にも不自由せず、被上告人らから愛撫もされているであろうことは想像に難くないが、しかし、前示の如く本件事件が発生してから原審が弁論を終結するまで僅々二〇日余りしか経過していないのであり、しかも、被拘束者と云えば、その当時まで四年もの間、豊かな経済力を有する上告人の慈愛の下に、上告人を父と呼んで何不自由なく過してきていたのである。そうした本件において、原判決の強調している事情だけで、被拘束者は実力を以て連れ去られたという拘束から解放されて、安定した自由を回復したものと認め得られるものであろうか。私にはそれが、しかく簡単且容易には首肯できないのである。所見を以つてすれば本件被拘束者は前々から被上告人らの下に帰来することを欲していたというようなたぐいの特段な事情がある場合ならば、格別、そうした事情の認められない限りは、右のような短日月の間には心身ともに自由の天地に解放されて実力を以つて連れ去られたという拘束の心理的打撃を全くぬぐい去られたものとは認め難いものと考えるのである。然るに原判決は右特別事情の点について、何ら考慮を運らした形跡がない。すなわち、私は原判示のままでは、本件事件によつて始められた被拘束者の不当な自由拘束の状態は、原審が弁論を終結するに至るまでの短日月の間は、なお継続していたもの、換言すれば被拘束者は現に自由を奪われているものと認めるを相当とすべきであると考えるのである。

思うに、人身保護法は民事訴訟によつては達し難い人身の自由の回復を迅速且容易に達し得させようとする手段を明定したものであつて、その意味において物の占有回収の訴と類似する。従つて占有の訴が本権の有無に拘りないものであると同様人身保護の請求は被拘束者と拘束者との間の身分関係や或は被拘束者の将来の幸福の可能性の問題などは考慮の外におかるべきものなのである。原判決はそれら問題外の点に思い及ぼした形跡がなかつたであろうか。本件は幼児の自由を現在の保護者の手からもぎ取つたような事案であり、人身保護法を幼児の場合に適用するについては、モデルケース的のものであつた。原審が事件の性質に鑑み極めて迅速に処理したことについてはこれを多とするが、肝腎な点について周到な考慮を欠き、被拘束者の身柄の釈放を得させなかつたことを、私は遺憾とするものである。

以上を要するに、私は原判決には法律を適用しない違法があるか、或はその理由付けにおいて審理不尽の欠点あるものとして論旨は結局理由あるに帰するものと考え、原判決はこれを破棄差戻すを相当と思料するものである。

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 真野毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島保 裁判官 斉藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 河村又介 裁判官 小林俊三 裁判官 入江俊郎 裁判官 垂水克己 裁判官 河村大助 裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 奥野健一)

上告代理人 泉芳政の上告理由(略)

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