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最高裁判所第一小法廷 平成10年(行ツ)74号 判決 1998年7月16日

東京都千代田区一番町二三番地二

上告人

共立酒販 株式会社

右代表者代表取締役

古市滝之助

右訴訟代理人弁護士

井浦謙二

井上励

和田元久

埼玉県越谷市赤山町五丁目七番四七号

被上告人

越谷税務署長 飯塚要

右指定代理人

深井剛良

右当事者間の東京高等裁判所平成九年(行コ)第八五号処分取消等請求事件について、同裁判所が平成九年一一月一九日に言い渡した判決に対し、上告人から上告があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人井浦謙二、同井上励、同和田元久の上告理由及び上告人の上告理由第一ないし第五について

酒税法九条一項、一〇条一〇号の規定が憲法二二条一項、一四条に違反するものということができないことは、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和四三年(行ツ)第一二〇号同五〇年四月三〇日判決・民集二九巻四号五七二頁、最高裁昭和五五年(行ツ)第一五号同六〇年三月二七日判決・民集三九巻二号二四七頁)の趣旨に徴して明らかである(最高裁昭和六三年(行ツ)第五六号平成四年一二月一五日第三小法廷判決・民集四六巻九号二八二九頁、最高裁平成六年(行ツ)第七六号同一〇年三月二六日第一小法廷判決・裁判集民事一八七号登載予定及び最高裁平成九年(行ツ)第九七号同一〇年七月一六日第一小法廷判決・裁判集登載予定参照)。この点に関する原審の判断は、これと同旨をいうものとして是認することができる。論旨は採用することができない。

上告人の上告理由第六及び第七について

原審の適法に確定した事実関係の下においては、本件処分に違法はないとした原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は、違憲をいう点を含め、原審の認定に沿わない事実をまじえ、独自の見解に立って原審の右判断における法令の解釈適用の誤りをいうものにすぎず、採用することができない。

よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 遠藤光男 裁判官 小野幹雄 裁判官 井嶋一友 裁判官 藤井正雄 裁判官 大出峻郎)

(平成一〇年(行ツ)第七四号 上告人 共立酒販株式会社)

上告代理人井浦謙二、同井上励、同和田元久の上告理由

原判決には、次のとおり憲法二二条一項の解釈適用に誤りがある。

第一 本件処分当時においては酒販免許制度を存置しておくことの必要性及び合理性はない

一 原判決は、「本件処分当時には、酒類販売業免許制度についてはその歴史的使命を終え、その必要性及び合理性について、政策的・技術的に多面的な検討をすべき時期になっていたと認め」ながらも、

<1>酒販免許制度による規制の対象が、そもそも、致酔性を有する嗜好品である性質上、販売秩序維持等の観点からもその販売について何らかの規制が行われてもやむを得ないと考えられる商品である酒類の販売の自由にとどまる

<2>酒税の賦課徴収に関する仕組みに理論的な合理性がある

<3>既存の制度の改廃の困難

の三点の理由を挙げて酒販免許制度の合憲性を肯定しているが、以下に検討するようにいずれも合憲とする理由になり得ない。

二 「致酔性を有する嗜好品である性質」についての合憲性審査の誤り

1 原判決は、「何らかの規制が行われてもやむを得ない」ことと、「どのような規制が行われてもやむを得ない」ことを混同している。

(一) 職業選択の自由に対する規制措置の憲法二二条一項適合性は、「具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによって制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない(最大判昭和五〇年四月三〇日『いわゆる薬事法違憲判決』)。」

原判決は、「致酔性を有する嗜好品である性質」を「制限される職業の自由の性質」として考慮し、その保障の程度が弱い自由であるかのように取り扱っているが、「規制の目的、必要性」で考慮されるべきである。

確かに、「致酔性を有する」商品の場合、販売の自由を制限する必要性はある。未成年者の飲酒はもちろん、成人であっても多量の飲酒が弊害をもたらすことは公知の事実であるから、社会的な弊害を防止するための制約が必要である。それ故、「何らかの規制が行われてもやむを得ないと考えられる商品」といえることは確かである。

しかし、「何らかの規制が行われてもやむを得ない」ことは、決して「どのような規制が行われてもやむを得ない」ことを許容するものではない。許されるものは、あくまでその商品の性質から必要とされる規制のみである。

なぜなら、「何らかの規制」が必要とされるのは、前述したように規制をしなければ弊害が生じるからである。そうである以上、弊害防止に役立つ規制のみが許容されるのである。

とすれば、致酔性を有する商品であることは、「規制の目的、必要性」において考慮されるべきものであり、「制限される職業の自由の性質」として考慮することは許されない。

(二) 実際、国民の生命及び健康に対する危険を防止するためのいわゆる消極目的規制の対象となっている商品は、いずれも「何らかの規制が行われてもやむを得ないと考えられる商品」であるといえが、その規制の合憲性審査においては、右危険防止は「規制の目的、必要性」で考慮されていたはずである。

たとえば、最大判昭和五〇年四月三〇日は、薬局等の適正配置規制は、不良医薬品の供給の防止等の目的のための手段としては、その必要性と合理性を肯定できないとして薬事法六条二項、四項を違憲と判示している。

医薬品は、国民の生命及び健康の保持に重大な影響を与える商品であり、「何らかの規制が行われてもやむを得ない商品」といえる。しかし、そうであるからといって、その点を原判決のように「制限される職業の自由の性質」として考慮すると、以下のように不当な結論が導かれる。

すなわち、薬局の適正配置規制が、不良医薬品の供給の防止の目的のための手段としてはその必要性と合理性に疑問があると認定されても、

薬局の適正配置規制による規制の対象が、そもそも、国民の生命及び健康の保持に重大な影響を与える性質上、販売秩序維持等の観点からもその販売について何らかの規制が行われてもやむを得ないと考えられる商品である医薬品の販売の自由にとどまることを考慮して、

合憲とできることになるからである。

前述したように消極目的規制の対象となる商品は、いずれも「何らかの規制が行われてもやむを得ないと考えられる商品」であるといえるから、右のような考慮が許されるなら、およそ違憲とする余地がなくなり、合憲性審査基準は有名無実と化してしまう。

(三) 「制限される職業の自由の性質」として規制を肯定する方向の考慮が許されるのは「どのような規制が行われてもやむを得ない場合」である。

「何らかの規制が行われてもやむを得ない」ことと「どのような規制が行われてもやむを得ない」ことは同義ではない。

「何らかの規制が行われてもやむを得ない」として許容されるのは、その自由の性質上、放任されると弊害が生じる場合である。この場合、いかなる規制が許されるのか、あくまでその目的のための手段として必要性と合理性の有無が検討されるべきである。

これに対して、「どのような規制が行われてもやむを得ない」として許容されるのは、その自由の性質上、規制が行われてもそれにより被る損害が少ない場合である。

2 本件において「治酔性を有する」点を考慮するのであれば、あくまで右性質がもたらす社会的弊害防止につながる規制であるか否かの審査が必要である。

右弊害防止が本件酒販免許制度の立法目的であれば、消極目的規制として厳格な合理性の基準が適用される。

すなわち、最大判昭和五〇年四月三〇日によれば、許可制による職業の自由に対する規制の合憲性を肯定するためには、原則として「重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し(以下「Ⅰの要件」という。)」、これが消極目的の規制である場合には、Ⅰの要件に加えて、「より緩やかな規制によって右の目的を充分に達成することができないと認められることを要する(以下「Ⅱの要件」という。)」

社会的弊害の防止が目的に掲げられていないからといって、ⅡのみならずⅠの要件充足も必要でなく、より規制が許容されては本末転倒である。

もっとも、仮に酒販免許制度の立法目的に、右弊害防止も含まれていたとしたら、財政目的と併有する場合であるから、この場合の合憲性審査基準をいかに解するかは議論のあるところではある。しかし、少なくともどちらか一方の目的がⅠの要件を充足することが必要であることに異論はあるまい。

原判決は、財政目的だけではⅠの要件充足に疑問を呈している。そうであれば、右弊害防止目的がⅠの要件を充足することを肯定しない限り合憲とはできないはずである。右要件充足を審理しないまま合憲とした原判決は誤りであり、破毀されるべきである。

3 原判決は「販売の自由」と「購買の自由」を混同している

原判決がかような誤りを犯した原因はおそらく「販売の自由」と「購買の自由(憲法上の人権として尊重されるものか否かはともかく)」を混同したためと思われる。この点は、「致酔性を有する」ではなくて「致酔性を有する嗜好品」と「嗜好品」であることを加えたことからも伺える。尚、最判平成四年一二月一五日(以下「平成四年最判」という。)にも原判決と同様の判示があるが、その判例解説の中には「そもそも販売について何らかの規制を受けることがやむを得ない性質を持つ嗜好品の販売の自由にとどまる(最高裁判所判例解説、民事編、平成四年度、五八六頁、綿引万里子)。」と「嗜好品」のみから「何らかの規制を受けることがやむを得ない」と導いているものがある。

「嗜好品の販売の自由」は、そもそも「何らかの規制が行われてもやむを得ない」とさえいえない。なぜなら、その自由が放任されても一般的には弊害が生じないからである。

「嗜好品の販売の自由」は、「どのような規制が行われてもやむを得ない」ともいえない。嗜好品であろうと生活必需品であろうと、その販売の自由が制約されると、それにより生計を立てるつもりであれば、規制により被る損害は異ならないからである。

ところが、「嗜好品の購買の自由」であれば「どのような規制が行われてもやむを得ない」といえる。嗜好品は生活に不可欠なものではないから、規制を受けても被る損害が少ないからである。

他方、生活必需品であれば、消費者が必要なときに自由に買えなければ支障を来す。

その反面として「生活必需品の販売の自由」は「何らかの規制が行われてもやむを得ない」。これは、最大判昭和五〇年四月三〇日が「一般に、国民生活上不可欠な労務の提供の中には、当該役務のもつ高度の公共性に鑑み、その適正な提供のために、法令によって、提供すべき役務の内容及び対価などを厳格に規制するとともに、さらに役務の提供自体を提供者に義務づけるなどの強い規制を施す」ことがある、と判示して認めるところである。

また、あらかじめ一定量の購買が期待できる生活必需品よりも、広告等の売り方の工夫により購買量に差異が生じ、それだけに商人の才覚によって成果の増大を期待できる嗜好品の販売の方が、職業選択も個人の自己実現の一手段であることを考えれば、その自由を制約された場合被る損害が大きいともいえるのである。上告人はかって、アルカリ清酒や米からビールを作るなど、酒の製造販売に斬新なアイデアを持ち込んだことで有名であるが、これらは同人の多彩な自己実現、自己表現活動とみなせるから、本件処分は、同人の経済的自由のみならず精神的自由をも侵害したともいえるのである。

原判決の「嗜好品の販売の自由」は「嗜好品の購買の自由」に、「何らかの規制が行われてもやむを得ない」は「どのような規制が行われてもやむを得ない」に置き換えると、それ自体は正しいものになる。

もちろん、本件酒販免許制度の合憲性を根拠づけるものになり得ないことはいうまでもない。

4 原判決は「趣味的な物を販売」することと「趣味的に物を販売」することを混同している

販売の自由が規制を受けても、それにより被る損害が少ない場合があるとしたら、生計の手段としてではなく趣味的に販売している場合である。すなわち、「規制を受けてもやむを得ない性質を有する」といえるのは、「趣味的な物を販売」している場合ではなくて、「趣味的に物を販売」している場合なのである。本件の場合、生計の手段としての職業選択の自由を問題にしているのだから、当てはまらないことはいうまでもない。

二 酒税の賦課徴収に関する仕組みに実際的な必要性も合理性もない

1 原判決は、本件処分日の属する平成四年度において、酒税収入の額が約一兆九〇〇〇億円台であること、酒税の国税収入に占める順位が五番目であること、酒税が酒類の販売代金に占める割合が高率であることをもって酒税の賦課徴収に関する仕組みは、理論的な合理性を失うに至っているとはいえないと認めている。

しかし、右理由は合理性というよりも必要性を根拠づけるものであろう。右理由では必要性も肯定できないことはあまりに明らかであるから、あえて合理性としたのであろうか。

原判決は、<1>酒税収入の国税収入に占める割合・順位、<2>酒税負担率、<3>酒税の滞納率、<4>酒類製成数量、<5>酒類の輸入数量、<6>酒類小売販売業の免許場数、<7>酒類の価格制度、<8>免許制度を疑問視する報告の八点につき、酒販免許制度採用当初から本件処分日間での変遷を検討して、

<1><2>の点から「酒税の賦課徴収に関する仕組みは、理論的な合理性を失っているとはいえない」とするが、

<3>ないし<8>及び

<9>そもそも酒税確保のために納税義務者たる製造者に加えて販売業者をも免許制にすることの合理性に疑問があること

<10>既存業者の権益の保護に利用されかねない要素を持つこと

<11>同じ間接税である消費税等の納税確保手段との均衡、

からは「本件処分当時には、酒類販売業免許制度についてはその歴史的使命を終え、その必要性及び合理性について、政策的・技術的に多面的な検討をすべき時期になっていたと認められる」としたものである。

すなわち、多数の検討項目のうち、圧倒的多数は酒販免許制度の必要性と合理性を否定したものであった。

そうすると、原判決の認定した「理論的な合理性を失っているとはいえない」とは、理論的な合理性(必要性?)があるに過ぎないことを意味するものであり、実際的な必要性も合理性も失っていることを強調するための役割しか果たしていないといえるものである。

2 また、原審が理論的な合理性(必要性?)を根拠づける酒税の国税収入に占める順位の認定自体に問題がある。原判決は、五番目であるというが、単純に税目別にその額を比較することは意味がない。

そもそも、酒税収入額が国税全体で何番目に位置するかが問題とされているのは、酒税の確実な回収とその税負担の消費者への円滑な転嫁を確保するために、納税義務者である酒類製造者と担税者である消費者の間に位置する酒類販売業者を規制する必要性の有無を判定するためである。

換言すれば、直接の納税義務者と担税者が異なる型の税制において、両者の中間に位置するものを規制することによって、徴収の確保、円滑な転嫁ができる税収額はどの程度なのかが問題なのである。

なぜなら、その税収額が国税に占める地位が重要であれば、中間に位置するものの規制が正当化される、というのが被上告人の主張だからであり、その主張自体には合理性があるからである。

ところで、揮発油税の納税者である消費者と製造業者を結ぶ役割を担っているガソリンスタンドは、石油ガス税、石油税、地方道路税等についても同様な役割を負っている。

とすれば、石油三税及び地方道路税もその合計額が問題となるはずである。

ガソンスタンドが、その濫立により経営が悪化して倒産した場合、製造業者は、揮発油税のみならず、石油ガス税や地方道路税も回収できなくなるのは当然であろう。また、地方道路税と揮発油税は、ともに揮発油にかかる消費税なのであるから、揮発油を購入した消費者に、前者は転嫁するが、後者は転嫁しないということがあろうはずがない。

そうすると、平成四年度の酒税収入は、石油三税(揮発油税、石油ガス税、石油税)及び地方道路税(揮発油税と同様に揮発油に対してかかる税金である)の合計額よりは下回っているので、「酒税確実な回収とその税負担の消費者への円滑な転嫁の確保の必要性」という見地から見ると五番目ではなく六番目である。

四 既存の制度の改廃の困難は合憲の理由になり得ない

日本国憲法の採用する違憲審査制は、具体的な法律関係につき紛争の存在する場合においてのみ裁判所にその判断を求めることができる付随的違憲審査制であるとされている(最大判昭和二七年一〇月八日いわゆる警察予備隊違憲訴訟)から、既存の制度は当然の前提であり、その改廃の困難は常に生ずる問題である。そうであるにもかかわらず、その改廃の困難を、違憲とできない理由に挙げることができるならばおよそ違憲とする余地はなくなり憲法八一条は有名無実と化してしまう。

また、違憲判決の効力については、当該事件に限って適用が排除されるとする個別的効力説が妥当と解されているのであるから、そもそも改廃の困難を理由とする必要はないのである。

以上、既存の制度の改廃の困難は、違憲審査制度の性質面のみならず違憲判決の効力面からも、およそ理由になり得ないものである。

五 以上のとおり、原判決の判示する<1>ないし<3>の理由はいずれも合憲とする理由になり得ないから、本件処分当時においてなお酒販免許制度を存置すべきものとしていた立法府の判断は、立法府の政策的、技術的な裁量の範囲を逸脱するもので、著しく不合理なものであり同免許制度は憲法二二条一項に違反して無効である。

第二 原判決の採用する合憲性審査基準の誤り

前述したように、原判決の採用する合憲性審査基準を用いても、本件酒販免許制度は違憲無効であるが、のみならず右合憲性審査基準自体に問題がある。

一 原判決は、酒販免許制度の合憲性審査基準として「その必要性と合理性についての立法府の判断が、右の政策的、技術的な裁量の範囲を逸脱するもので、著しく不合理なものでない限り、これを憲法二二条一項の規定に違反するものということはできない」とする基準を採用している。

右基準は、平成四年最判が判示したものである。

平成四年最判は、酒販免許制度の立法目的が二分論のいう積極的政策目的と消極的警察目的のいずれに区分されるかといった観点から規制の必要性と合理性に関する立法裁量の適否についての司法審査基準を導くのではなく、審査の対象となっている立法作用の性質上、その立法裁量の幅をどのように見るべきか、換言すれば、右立法作用については立法作用を広く尊重すべきであるのか否かといった観点から、司法審査基準についての検討を行い、最大判昭和六〇年三月二七日(いわゆるサラリーマン税金訴訟判決)の趣旨を引用して右のような合憲性審査基準を導き出したものと解されている(最高裁判所判例解説、民事編、平成四年度、五八三頁、綿引万里子)。

しかし、同じく租税法の合憲性が問題になっているとしても、本件と最大判昭和六〇年三月二七日とは、事案を異にし、右最大判の趣旨を引用することはできない。

二 本件規制措置は、租税を適正かつ確実に徴収するための手段に過ぎない場合である。

1 いかなる租税を課すか、すなわち租税負担割合や、租税条件をいかに定めるかとの点については立法府の広範な裁量を認めるべきであるにしても、租税確保のためにどのような措置を取るかは、処分決定後の目的達成のための手段方法の選択の問題であるから、立法府に広い裁量を認める必要はない。

このような手段方法選択の問題については、裁判所も充分に判断する資料・能力を有しているのであるから、裁判所が判断することが可能だからである。

最大判昭和六〇年三月二七日は、正に租税負担割合や租税条件の合憲性が争われた事案である。従って酒税保全のための手段である酒販免許制度の合憲性が争われている本件とは、本質的に事案を異にするので、本件に右判例の趣旨を引用するのは妥当ではない。

2 確かに「租税法の定立という立法作用は、国家が一定の金額の租税収入を確保できるのであれば、その納税者や担税者のいかんについては関心が払われなくてもよいといったたぐいのものではなく、その租税が、どのような方法ないし仕組みによって誰の負担に帰することになるのかといった点にも重大な関心を払いながら遂行されるべき性質を持った作用」であることは首肯できる。

しかし「課税標準、税率、納税者のいかんについては広い立法裁量を認めながら、担税者に税負担を転嫁するための仕組みについての立法裁量を限定的に解したのでは、基本的租税政策の実現が阻害されることにもなりかねないもの」とまでいえるであろうか。

「担税者に税負担を転嫁するための仕組み」が当然必要であることは確かであるが、それは担税者がいつ、どのような形態で負担するか、そして納税者がいつ、どのような形態で回収するかを定めればよいはずである。

それ以上に右転嫁を確実にするために国民の自由を制限するならば、その制限の合憲性審査権は裁判所が充分に判断できることにしなければ、国民の自由は際限なく制限されることになりかねない。

すなわち、「担税者に税負担を転嫁するための仕組みについての立法裁量」まで広範囲に認めてしまっては、職業選択の自由の制限を裁判所は違憲とする余地がなくなてしまうのである。

消費税の納税義務者は全小売商であり、担税者は消費者である。立法府が消費税の確実な賦課徴収のために全小売商に免許制度を導入する立法を制定した場合、消費税の国税収入に占める順位は、所得税、法人税に次ぐ三番目であり保全の必要性は高いことを考慮すると、原判決の審査基準に従う限り、右立法を違憲とできない。

上告人は、平成四年最判の控訴審において、「国民の経済活動の殆ど全ての領域が徴税対象とされている現代社会においては、国民が従事する殆ど全ての職業を国家の許可制のもとにおくことも憲法上許容されることとなる。すなわち、国民の職業選択の自由は、国家の『租税政策』次第でどのようにも左右され、その結果、憲法二二条一項の基本権の保障は全く空文化されてしまう」危険性を指摘したことがある。

この危険性の対処法について、右控訴審は何ら答えなかったが、平成四年最判の基準日と異なり、現在では消費税が導入されたことから、右危険性は現実身を帯びることになった。

右立法の制定は理論的には十分可能なのである。理論的に十分可能な事態に対処できる審査基準を用意することが最高裁には求められている。実際にはそのような立法の制定はあり得ないという願望にかけて、それを怠ることがあってはならないはずである。

第三 適用違憲・運用違憲

原審は、「昭和六〇年二月六日に開催された全国小売酒販組合四国ブロック会議において、酒類販売業免許の運用につき責任ある立場にあると推察される高松国税局関税部長が、『酒類販売業の免許申請につき、通達基準によれば一万一〇〇〇件の許可をしなければならないところ、運用の実態としては、できる限り抑え、年間二〇件ほどしか許可していない。そのために一線の統括が苦労している。スーパーマーケットは安売りをする危険性がある。』旨の発言をしている」事実を適法に確定している。さらに原審は「右発言は、酒類販売業免許の運用実態として本来の立法趣旨に添わない処理が行われていることを窺わせるものである。」と認定していながら、「しかし、このような運用実態のあることは、直ちに同免許制度に関する規定の全体を違憲と判断すべきものとするには足りない」と判示する。

しかしながら、右のような運用実態があれば、明らかに酒税法の立法趣旨に反する運用が行われていることになるのであるから、本件免許制度は違憲とされるべきである。この点について、原審は憲法二二条一項の解釈適用を誤ったといわざるを得ない。

あるいは原審は、右運用実態は、四国ブロックの特殊事情であると判断したのかも知れないが、右事実は昭和六〇年二月二一日発行の酒販ニュースに記載されて公になったものであるにもかかわらず、国税局が右事実を問題にした気配はない。そうすると、右運用実態は四国の特殊事情でないことの推定働くのであって、それに対する反証がなされていない以上、全国的なものであるとみなされるべきである。 以上

(平成一〇年(行ツ)第七四号 上告人 共立酒販株式会社)

上告人の上告理由

第一、はじめに。

原審は一回の弁論で結審した。ということは事実上審議せず、憲法適否を争う裁判を終結したのである。それは非常に危険な訴訟指揮であり、上告人には初めての経験であるが、このことだけで既に異常という外はない。

原判決は自ら裁判自身を冒涜した結果、当然のように暗澹たる論理の欠如に蝕まれている。これで、二十万字に及ぶ上告人の陳述と七〇余点の証拠書類を検証したといえるのだろうか。いや原判決を読む限り、原審が記録も証拠も読んだ気配は全くない。もっとも、読みもしないで万人を納得させる名判決が書けるくらいなら裁判官として国宝級である。

ただ、一つだけ原判決を評価できるとすれば、最近東京高裁で流行している一審判決文のテニオハ修正に堕していない点である。

しかし、残念乍ら誰が見てもこの判決は「始めに合憲ありき」の典型である。

それも一回の審議もなく「合憲」と決める毅然たる裁判長の信念での判決なら、東京高裁の国宝級裁判官として認められる事由が、或いは百分の一くらいあるかもしれないが、裁判長はしきりに被控訴人(当時)の方を気にし乍ら、

「確かに、無資力要件(酒税法一〇条一〇号)が今日では不合理なことは、私にも充分わかっていますから」と云ったあと

「この事件が去年か今年に出された(免許申請を)ものなら違憲を出して上げてもいいが、本件は平成四年の事件だから、それはちょうど最高裁判決の時だから、違憲は出して上げずらいんだよね」と向き直って、さも上告人に理解のある態度を示して、何故か盛んに物わかりのいいリップサービスをしてみせるのである。その後、両陪席裁判官をちらりと見て、

「余り厳しく書き立てないで欲しいな」と、哀願とも愚痴ともとれる独り言を呟いてから、「これにて結審いたします」と、その間僅か七分で終わった。

これが偽らざる原審の裁判風景である。

しかし乍ら、裁判長のこの考え方は途方もなく危険である。勘違いだけなら救われるが、原判決を読む限り本気でそう思っているらしく、これは明らかに正常ではない。そこにあるものは裁判長の予断と偏見だけで、理論も正義もインテリジェンスの片鱗さえも見出すことはできない。

この光景を見て心ある一般傍聴人は唖然としてしまった。これが日本の名立たる東京高裁の裁判かと、不信に陥った複数の傍聴人から深い溜息が洩れた。これでは「保守反動の東京高裁」というレッテルはウソでなかったと、大勢の傍聴人が肩を落として帰って行った。

「違憲を出して上げてもいい」という感覚は、権威ある東京高裁の裁判官として失格である。まして本件は窃盗事件や交通違反事件ではない。憲法の適否を争っている裁判で、まるで、自分のポケットから私物の宝石でも出すように「違憲」を出す方も出す方だが、出された方も有難迷惑である。

この期に及んで上告人は裁判官の情けに縋って、違憲判決を頂戴する気持ち等さらさらない。ただ、上告人にはどうしても理解できない酒販免許制維持の真の理由を大きな声で聞かせて欲しいと思うだけである。

その上、この裁判長は大変な勘違いをしている。何故なら、平成四年一二月一五日に出された最高裁判所第三小法廷判決(以下・単に最高裁判決という)は、「昭和五一年当時(同判決時より十六年前、今から二一年前)においては酒販免許制を存置すべきものとした立法府の判断が、前記のような政策的、技術的な裁量の範囲を逸脱するもので著しく不合理であるとまでは断定し難い」と判示しているからである。違憲論の坂上裁判長はむろんのこと、補足意見の園部裁判官も条件はつけながらも「将来に亘って酒販免許制を積極的に支持したものではない」と云い、加えて合憲論の他の三人の裁判官でさえ、

「思うに、およそ判決は処分時によって判断すべき」とわざわざ断った上で、「処分当時(昭和五一年・酒税のシエア六・三%)としては・・・著しく不合理とまではいえない」と、遠慮がちに判示しているのである。

そうであるならば、理論上、最高裁判決も本件のように平成四年の事件なら五人全員が違憲論に与していることになる。

さらに、平成五年一一月一〇日、東京高裁第一刑事部判決(以下・東京高裁判決という)は次のように判示した。すなわち

「本件犯行時である昭和五六、五七年度においては酒税の国税全体に占める割合は五・六%ないし五・七%と一段と低下しているが、この間の社会状態に大きな変動はなく・・・最高裁判決の多数意見の結論はなお支持するに足りるというべきである」と云った後で

「また、許認可事務を通じての行政庁による過度の規制を緩和し、経済活動の自由化を求める世論の高まりの中で、酒販免許制の合理性が失われる日が早晩訪れるであろうことは否定すべくもないが」と判示しているのである。

ここで重要なことは東京高裁判決もまた時期の取り方次第で、ということは最高裁判決時(昭和五一年は六・三%)より数年しか経過していない昭和五六年の事件で(シエアも五・六%、五七年で五・七%)あったから、最高裁判決を覆せないと弁明しながら判示している点である。

しからば、本件申請時の平成三年はシエアが三・一%であったから、それは昭和五一年当時の二分の一以下であり、先の最高裁判決も東京高裁判決も、今度こそ間違いなく自己矛盾の合憲判決は出せなかったと思う。

それを原審の裁判官は、処分時と判決時を取り違いてしまったようである。

何故ならば、原審裁判長が「今なら違憲なのだよね」と云ったその「今」がまさに本件事件の処分時だからである。

ここに本件裁判の経緯にも結果にも決定的な欠陥がある。いやしくも憲法判断を要する裁判である。これまでの上告人の膨大な憲法論議を一顧だにせず、何ひとつ審議した様子がない。このような歪んだ裁判は非常に希有なケースであり、まさに暗黒の裁判という外はない。そして通常では考えられない異常な訴訟指揮下の原判決は、当然のように中身をみれば、従来の各地の合憲判決の焼き直しでしかない。残念ながら新しい論理は遂に一つも発見できなかった。

異常な一回きり、七分間の弁論の元では望むべくもないのであろう。

それでは酒類販売業免許制(以下・酒販免許制という)の違憲性について、原判決に反論し併せて新しい違憲理論を次に展開させていただく。

第二、審理不尽・理由不備。

原判決は二十万字を七分で読むという離れ業をやったのであるから、合憲も違憲も考える暇がない。それ故に結果として鶏を裂くに牛刀を以てしたのは、やむを得ないのであろう。

一、酒販免許制によって酒販業への新規参入の障壁は極めて高く、潜在的免許取得希望者の権利が著しく圧迫されているのは勿論のこと、

二、酒販に自由競争の原理が導入さていないため、酒の価格が世界に類例を見ないほど割高になっていること、

三、品質の悪い酒が巧妙に酒税法の数値主義のウラをかいて、大手を振って罷り通っていること、

等々、消費者である国民大衆の利益が大幅に制限されている事実は、これまでに再三述べてきたとおりである。このような利益の侵害を今も尚甘受しなければならないほど、酒販免許制が合理的制度なのか、どうか、ここはどうしても最高裁判所に判断して頂かなくてはならない。

日清・日露の戦争(明治二七年と明治三八年)は当時の酒税(予算に占める割合約二五%)だけで、中国・ロシアという超大国に勝つことができた。今なら差し詰め二一兆五〇〇〇億円(実際は二兆円足らず)である。原判決は同じ酒税でも、天と地ほどの差がある昔と今を識別できず、昔の酒税上位論の錯覚を今なお脱却できないでいる。現憲法下では裁判官を含めて私たち国民は「よい酒を安く飲む権利」を有している。にも拘わらず、なぜ私たちは六十年前の明治憲法下の、それも戦費を調達する為の統制経済下に採用になった酒販免許制によって、この重要な国民の権利が制限されなければならないのか。

「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と孔子は云った。

上告人もまた不条理な酒販免許制のため、親会社である東菱酒造(株)を被上告人による累次の違法な差押え(無免許販売の容疑)によって、遂には倒産させられ、大勢の従業員を路頭に迷わせ、塗炭の苦しみを味わってきた。

それ故にどうしても酒販免許制維持の真の理由が知りたい。それを知ることができれば、憚りながら夕べに死んでもいいと思っている。酒販免許制誕生から既に六十年を過ぎて、今になお不可解な酒販免許制が合理的だという、真の理由の発見は世界に誇る我が国の最高裁判所を措いて外にない。それは、一、二審を通じて重ね重ね訴え続けてきたが、被上告人の差別の行政もさることながら、違憲か合憲かの微妙な基準を考えるのに、原判決はまるで茫洋として論理が首尾一貫していない。それもその筈で、憲法適否の大問題を、ろくに審議もせずに七分間の審理不尽ならば、当然のように充分な理由が付加される筈もなく、非常に残念なことだが原判決は自ら本裁判を冒涜してしまった。

その原審の汚名を濯ぐためにも、ここは充分な慎重審議の上、本当に維持しなければならない理由があるのかないのか。あるとすれば酒税確保なのか、新規参入者のボイコットなのか。真理は二つに一つしかない。ここを本上告審でどうしても知らせて欲しい。それが上告人のたった一つの願いである。

改めて本上告に及んだ理由もそこにある。

第三、間違いだらけの原判決。

原判決を一言で総評すれば、「言語丁寧・間違いばかり」ということになる。それでは原判決の記号に従ってその間違いにつき逐一次に反論する。

第一は、前後六回に亘って使用している「賦課徴収」(五頁九行目、六頁一〇行目、七頁九行目、八頁八行目、九頁三行目、一七頁八行目、二〇頁一行目)という文言の意味をはき違いている。何も回数が多いから(それも大部分は判例の引用ではあるが)云うのではないが、酒販免許制が仮に酒税の「徴収」には若干寄与することはあるとしても、およそ「賦課」には無関係である。酒販免許者の通常の仕事とは酒造メーカーから納税済みの棚に飾ってある完成品を顧客に手渡す単純な作業である。そこに

「財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的判断を必要とし、さらに課税要件を定めるについては、極めて専門技術的判断を必要とする」

(六頁三行目以下)というがそれは「賦課」の部分であって、少なくとも「徴収」という事後処理は全く該当しないから、国政全般からの総合的判断も、課税要件の専門技術も全然必要ない。この「賦課」と「徴収」をごちゃ混ぜした原判決はそのことだけで誤っているというべきである。

第二は、これも数字を用いて恐縮だが、原判決が採用した証拠は甲号証が一八点に対して乙号証は三点である。非常にモノ分かりのいい処を見せ上告人に懇切丁寧に教示しようとした点は大変有難く評価できる。

しかし、「昭和一一年頃は酒税シエアが一七・六%だったが、平成三年には三・一%である」から始まって、「酒税の滞納率は現在とほぼ同じ昭和一二年は〇・一%であり、酒類の販売量は九四万KLから平成四年には九二〇万KL(十倍)へ、小売免許場数は三四万場から一六万場へ半減している」と悉く甲号証を駆使して、最後には「その歴史的使命は終えた」(一九頁一〇行目)と迄言及して、酒販免許制の矛盾を指摘しているが、但し、一二頁七行目で「その後の滞納率は明らかでない」というので、後記・C表によれば、免許制定立後の昭和二三年には六・九%、同二六年には戦前戦後を通じて前代未聞の一〇・三%と桁違いのワーストを記録しているのであるから、酒販免許制は酒税の滞納防止に少しも役立っていないことを実証したのに、原判決はいつの間にか何の理由もなく「免許制は必要」と結果だけを逆転させてしまった。ここにも始めに合憲ありきで、理由なき予断と偏見ばかりが目立つ。

第三は、原判決の憲法判断の骨子となる第三、1憲法二二条一項違反について(三)の(1)~(8)から(四)まで、(九頁六行目~二二頁四行目まで)の全趣旨は総て上告人に理解ある態度に終始し、殆どが違憲論に与した文章として読むことができる。

ところが何を血迷ったか、その直後の二二頁七行目にきて突然、

「酒税法九条の規定が立法府の裁量の範囲を逸脱するもので、著しく不合理であるということはできず」

と、前後に何の脈拍もなく、逆転させてしまう。これは歴史的使命を終えたと断言した同じ人の口から出る文言としては、甚だしく矛盾しているばかりでなく、ここでも裁判それ自身を冒涜しているといわねばならない。

第四は、それでは無秩序に無関係に何故逆転させたかを考える時、裁判官の頭の中に「警察政策上ないし国民保健上の見地からの規制の余地は十分ある」(二〇頁五行目)が反射的に働いたと思われる。この致酔性と嗜好品という点が裁判官の思考を迷わせたとすれば理解できない訳でもないが、それなら警察庁ないしは厚生省に属するもので被上告人の国税庁とは全く関係なく、本件に適用させるたは当初から誤りである。

第五は、昭和三九年の第一次臨調、同五九年の公取委、平成二年の日米構造協議、同六年の経済同友会、平成七年の行革・規制緩和小委、同八年の中央酒類審議会と前後六回も羅列して現行制度の非難を取り上げ、「製造数量が格段に増加しているのに小売免許場数は、ほぼ半数となっている」

(一八頁一行目)として、その使命は既に終ったと看破しながら、いつの間にか、「酒税の賦課徴収の仕組みの理論的な合理性に加え」とここでも「賦課」が大きな役割をしている。

この錯覚の為に原審は途方もない過ちを犯してしまったことになる。

二、争点2については争わないが、一言だけ念のため付言すると、平成四年三月二三日、六ヶ月ぶりに始めて調査に来た堀込昇に対して「もう、免許は要らないから、相手に迷惑がかかるといけないから相手を調査しないでくれ」と断ったのに、それを一方的に破って堀込は嫌がらせの為にだけ上告人の関係者を調査をした。このため上告人は甚大な被害を蒙った。

第四、憲法二二条一項違反。

原判決に対する反論は以上で一応終わり、今度は上告人の方から憲法第二二条一項の職業選択の自由に関する規定の解釈適用を誤った違法を原判決の中に見出したので次に再度検証する。

一、原判決は酒税法第九条と同一〇条一〇号による酒類の販売業者についての酒販免許制が設けられた目的を、

「免許の申請者が破産者で復権を得ていない場合、その他経営の基礎が薄弱と認められ場合に酒販免許を与えないことができる」(二一頁八行目~一〇行目)と云ったあと、

「右基準は酒販免許制を採用した前記の立法目的からして合理的なものということができる」(二二頁一行目~三行目)と述べて酒販免許制がなければ酒類代金の回収が困難となり、強いては酒造業者の経営に不安定を招き、その結果の滞納を回避して酒税収入の保全を図ることにあると云いたいようである。原判決は一審判決を支持して「堅実な経営」を上げ、それが酒税の保全につながるというが、酒販業者が債務超過に陥ったり支払停止の状態になったりしない限り(いわゆる倒産の状態にならない限り)、酒税の納付は行われ酒税収入の保全に支障はないわけであるから、結局のところ、原判決の前記認定は酒販免許制が酒販業者の倒産防止に役立つている処に酒販免許制の根拠を求めていると思われる。

二、次に酒販業者の倒産が防止できれば、それが酒税収入の保全に多少役立つとしても、その効果は全く反射的・間接的にすぎない。更に酒販業者の倒産防止と、酒税収入の保全との間には右の反射的・間接的な関係が何段階にもわたって介在する。ここに酒類が酒税納入義務者である酒造業者から卸売業者を経て小売業者に供給される場合を考えてみると、酒販代金は消費者から小売業者に、小売業者から卸売業者に、卸売業者から酒造業者に、それぞれ納入されることになる。小売業者の乱立や過当競争が防止されて、小売業者の倒産防止により、卸売業者の小売業者に対する酒代金の徴収の保全に役立つと一応考えても、その効果は飽くまで反射的・間接的なものである。けだし、小売業者は卸売業者への代金の支払いを直接の目的として酒類の小売業を営んではいないからである。

次に、卸売業者についてみれば、小売業者からの酒販代金の保全が図られてその倒産がないことにより、酒造業者の卸売業者に対する酒販代金回収の保全に役立つと一応考えることができるとしても、その効果がこれまた反射的・間接的なものであることはいうまでもない。けだし、卸売業者もまた、酒造業者への代金の支払を直接の目的として、酒類の卸売業を営んでいるものではないからである。さらに、酒造業者についてみれば、卸売業者からの酒類販売代金の回収の保全が図られてその倒産がないことにより、酒税納入義務者たる酒造業者からの酒税の徴収の保全が図られたとしても、その効果もまた反射的・間接的なものであることはいう迄もない。

けだし、酒造業者もまた、酒税の納入を直接の目的として酒造業を営んでいるものではないからである。

付言すれば、国民が営む如何なる職業ないし営業であれ、それを税金の徴収に奉仕することを目的とすることは許されない。けだしそれは国民を奴隷化する国家を承認する事に帰するからである。いかに酒税が国の重要な財源であろうとも酒税収入の保全に関わりがある職業ないし営業の直接目的を、酒税収入の保全にあるとみる事は許されないというべきである。

三、酒販免許制の目的につき、「酒類販売業者の堅実な経営、酒類の需給の均衡を通じて、酒税収入の保全を図ることにある」としたことについては、小売業者の経営状況と卸売業者による、代金徴収保全との関係、卸売業者による小売業者からの代金徴収状況と、酒造業者による代金徴収保全との関係及び酒造業者による卸売業者からの代金徴収状況と酒税収入保全との関係がそれぞれ反射的・間接的であって、小売業者の経営状況から酒税の収入保全に至るまでに三段階の反射的・間接的な関係を累積して、はじめて小売業者の経営状況の良さが酒税収入の保全に役立つという説明がつくことになる。これを以て酒販免許制の具体的な必要性・合理性の証明にはなり得ないことはいうまでもない。

四、最高裁判所の判例に於ては(昭和五〇年四月三〇日・大法廷判決)

「一般に許可制は単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないし経済政策上の積極的な目的のための措置」

であることを要するものとされている。右の判決にいう

「社会政策ないしは、経済政策上の積極的な目的のための措置」とは、その措置が直接に社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的を有する場合を指し、その措置の反射的・間接的な効果としてそのような目的が達せられる場合はこれに含まれないものと解すべきである。けだし、そのように解しないと、右最高裁判所判例が原則として職業の許可制を否定する

「自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的・警察的措置」

についてみても、反射的・間接的には、社会政策ないし経済政策上の積極的な目的に役立つことを認め得る場合があるので、判例によって確立された両者の区別が無意味なものとなってしまうからである。しかも、反射的・間接的な効果であっても、かつまた、それが数段階にわたる反射的・間接的効果を累積して漸く認められる場合であっても、これを直接の目的とする場合と同様に取り扱うことになると、すべてはあとから理屈がいくらでも付くことになり、憲法で保障された職業選択の自由は立法府が立法に当たってつける理屈次第で容易に職業の選択を許可制にすることを可能にしてしまう危険がある。このような結果として、憲法の保障する職業選択の自由は画に書いた餅になってしまい、憲法解釈上、到底認められるところではない。

なお、ここで酒税保全ということにつき附言しておきたい。

「酒税保全」とは、酒税をどのように多く賦課するかということでなく、賦課した酒税を如何に取りはぐれのないように徴収するかの問題であることは「保全」という言語に照らしても明らかである。また単なる滞納防止とは最高裁判例のいう「社会政策ないし経済政策上の積極的な目的」その目的が具体的であることを要するものと解すべきであり、そもそも酒税保全の目的が職業の選択につき許可制を採用し得る理由にはなりえない。

元来が憲法二二条一項違反に酒税法九条はなじまないと云わなくてはならない。

第五、憲法一四条違反。

一、原判決の理由を一読して次に気付くのは、原判決の事実誤認と論理が実に古色蒼然としているということである。それはこれまで出された二二件の合憲判決の域を一歩も出ていないからである。またかと使い古された証文を見る思いである。たとえば、原判決は酒販免許制施行の理由を上げるが、五十九年前に比べると現在では酒造業者・酒販業者をめぐる環境も酒税についての考え方も一変している。それだけでなく、酒販免許制が酒税の庫出課税実施に対する見返りとして設けられたもので、酒販免許創設に関する当時の説明が建前上だけのものであったことは、既に歴史的な事実である。時代は大きく変化しているのに、このような疾うの昔に論破された理由を並べたててみても、到底世人を納得させることはできない。酒販免許制が酒税確保のためだ、等という理由づけは「酒類業界内部にしか通用しない」という自省がなされている(醸造新報昭和五六年六月一一日・甲第一七号証)が、実際にこのような議論が通用するのは「酒販業界と原審だけ」ということになるのではないだろうか。

二、原判決理由のもう一つの特徴は、原判決の論理が国税当局のいうところをそのまま鸚鵡返しに繰り返しているだけであって、これを裁判所の立場で吟味し、検証し直した形跡がまったく見られないことである。試みに、「酒販免許制成立の経過」「国税収入中における酒税収入」「酒販免許の運用状況」と、どれを拾ってみても、その項目も書いてあることも、すべて被上告人の原審主張そのままではないか。判決には眼光紙背に徹するとまではいかなくても国家権力側のいうことでも、時には真実と疑わしいものがあるという立場でこれを篩い分けようと努力する位の慎重さは必要であろう。

三、酒販免許制の目的を酒税確保であるとすることに対する疑問の眼目は、酒販免許制を設けることによって、なぜ酒税の確保が図れるのかという点にある。この点についての説明が極めて抽象的である。酒税の納税を「保全する」とは何なのか、酒造業者の「販売代金の回収を容易ならしめる」とは具体的には何を指しているのか、一向に明らかでない。原審だけがひとり勝手に「酒販業者の役割」に理解を示すだけで読む者には何のことなのか、さっぱり理解できないのである。それとも原判決は酒造業者の負担した酒税を消費者に転嫁する立場にあるのだ、ということだけを言うために、このような持って廻った言い方をしているのであろうか。もし、そうだとすると酒販業者の酒税転嫁の役割に関する原審の理解は全くの誤りである。原審の誤りであるゆえんを箇条書風に列挙すると次のとおりである。

(1)当然のことながら酒販業者は酒税転嫁の義務を負うものではない。

酒税は庫出しの段階で酒造業者によって国庫に納付されれば国税としてそれで完結するもので、酒税担当額が酒類の価格に上乗せされることにより卸、小売を経て事実上消費者に転嫁されるにすぎない。酒造業者が酒税分を割り込んで卸売りするのも、それは酒造業者の自由であり、酒販業者においても同様である(酒税額以上の価格を強制するとすれば独禁法違反の問題を生ずる)ことはいう迄もない。

(2)そして右のような事実上の転嫁の上での危険負担は、すべての間接税に共通する事柄であり、また原料の値上がり等のコストアップ、インフレその他の経済情勢の変化等の場合にも、常に存在することで製造業者および上位から末端までの流通業者のすべてに共通するものである。なぜそれらの中で酒税のみ酒販業者のみを特別扱いにするのかということを原審は理解しているのであろうか。問題を間接税に限定してみても、転嫁についてのリスクを負うのは、酒造業者に限らないのに、なぜ、彼等からみれば不特定多数の第三者であるに過ぎない酒販業者を免許制にすることによって拘束を加えるようなことまでして、そのリスクをカバーしなければならないのであろうか。

(3)右に対する国税当局の弁解は酒税の負担率が他に比べて高率・高額であるということにあり、原判決(一審)も、これを鸚鵡返しにくりかえしている。しかし、それならば揮発油税は五五パーセントの高率であるが、これを「転嫁」すべきガソリンスタンドは免許制ではない(因みに被上告人は石油会社は大規模で間接税負担率は小さいというが、酒造業者と酒販業者の関係のように、流通業者との関係で問題を考える場合に、ひっくるめて負担率を議論してみても無意味である)。

また酒税は高額というが、酒税の一兆九六一〇億円に対して石油三税は二兆一五六五億円であって決して低額ではない。

(4)なお、酒税は租税収入の第5位(実は六位)を占める高額というけれども、これも表現の問題であって、第一位、第二位の所得税は、二三兆二三一四億円、法人税一三兆七一三六億円、消費税は五兆二四〇九億円)、相続税は二兆七四六二億円で酒税と隔絶した高額であり、そして揮発油の販売業者が免許制でないことは前述のとおりであり、各種物品税対象物品の販売業者が免許制であり得ないことも、公知の事実である。

(5)そもそも、販売業者の経営状態を健全にさせることによって消費者から吸い上げた酒類代金を確実に酒造業者に支払うようにさせ、それによってこれに含まれる酒税相当分の回収を確実ならしめる、という「酒税転嫁のための酒販免許制」の考え方自身いかにも持って廻ったものであって「風が吹けば桶屋が儲かる」といった類のものでしかない。

いかにも、頭の中で作り上げた理屈であるから、現在ではあちこちで破綻し、既存業者の保護という本音があらわれて取り繕うのに業界も行政(国税)も政界も、甚だしい慌てぶりを示している。

四、そこへ新たに登場したのが消費税の五%への引き上げである。今年度予算は十三兆円を見込んで酒税の六・五倍に達しようとしている。しかも、納税義務者は何の保護もない一般小売店である。メーカーを免許で保護した課税済み酒類の販売業者を免許で二重に保護し、何一つ保障のない商品を販売する納税義務者を野放しにして、それで果たして法の元の平等が保たれるのだろうか。むしろ、理論上免許制にする必要があるのは納税義務者である一般小売店でなければならない道理であるが、それでは全小売業一八〇万店が免許制になって憲法二二条一項が空文化してしまう。

確かに、消費税の滞納率は高いようである。それは同じ間接税なのに国税職員の監視が酒税にばかりウエイトをおき、他の消費税を蔑ろにした結果に外ならず、この点でも法の元の平等に照らして著しく不公平である。

酒税は百円の滞納も許さず、消費税はいくら滞納しても構わないという運用上の現行制度はそれ自身不条理であって許されない。

思うに元来、酒税は徴収し易い税目であるのに、長い間の間税職員と酒販組合の癒着で、新規参入をボイコットすることによって成績を上げたように見せかけてきた。

ここでも法の元の平等を定めた憲法一四条に違反していることは明らかである。

第六、憲法三一条違反。

第一次臨調が始まったのが昭和三八年であり、その答申が出されたのが奇しくも、昭和三九年であった。あれから政府関係の勧告は、実に十八回に及んでいる。この中、原判決では六回引用している。それも、酒の消費量が減少しているのならともかく、後記B図表の如く昭和六一年から平成二年までの年平均の増加量(各三三二KL)は過去最高なのである。それで免許場数の増加率を昭和四〇年代(各一八四九場)を平成三年(一六一場)には十一・五分の一に減らす理由がどこからくるのか。これが原判決のいう透明性のある免許行政なのであろうか。これが世界に向けて果たして通用する論理かどうか、是非試して貰いたいと思う。そこには酒税の保全を隠れ蓑にして、透明性もなければ客観性もなく、遙か上告人たち理解の外で数字を弄んでいるに過ぎない。だから云うわけでもないけれども、少なくとも臨調も、物価安定会議も、公取委も、企画庁も何も云わなかった昭和三〇年代から四〇年代当時の方が、被上告人は酒販免許を大量に許可していたのであるから、被上告人は彼らが勧告を出せば出すほど故意に反逆しているとしか考えられない。

それでは何が面白くて被上告人はこのような行政をするのであろうか。最近の被上告人の住専問題や銀行・証券のスキャンダル等を見るにつけ大蔵省上位の感覚が抜けきらず、管轄業界である「酒と金融」を総て免許で押さえ込めると過信してしまった処に問題があったものと思う。むろん本法廷では立て前上、酒販免許制度の目的を「酒税の保全」等と口にするが、もはや、大蔵省の役人の中で酒販免許制が酒税の保全に役立つ等と、本気で思っている人は一人もいない。これには多数の生きた証人がいる。

このようにして見れば、酒販免許制維持のために酒販業者や国税当局が今まで上げる理由は、悉く破綻してしまった。正当化できる理由は実は一つもないのである。そこで残る酒販免許維持のための隠された本当の理由は、国の力を藉りた新規参入の阻止と、それによる業界の利益の保持ということに帰着する。

まさにそのことの為に、酒販業界は政界と国税当局に対してあらゆる政治力を行使している。酒販政治連盟から故岩動道行代議士(国会酒販問題懇話会会長代理)に対する七五〇〇万円の不正献金隠し等(甲三〇号証)が発覚したのも、その一角にすぎないであろう。

国税当局もまた酒販業界の要求に応えて免許制度を盾に新規参入阻止に全力を尽くしているのが実状であり、国税庁中島富雄酒税課長(当時)が新規の酒販免許申請が

「免許基準には一応パスしているというケースが多く、第一線の担当者は日夜その処理に苦慮しているのが実情である」

と、酒販ニュースという業界新聞(甲一九号証)の中で公然と発言しており、更に向豊高松国税局間税部長(当時)は

「通達基準で出せば一万一千件の免許を出さなければならない処、年間二〇店ぐらいしか出していないだろう。そのために、うちの統括でも必死でやっている。でなければそんな数字にならないだろう」

と(甲八号証)述べているような事をやっていると原判決も認め(二四頁一〇行目から二五頁五行目)ながら、それを

「しかし、このような運用実態のあることが直ちに同免許制全体を違憲と判断するには足りないといわざるをえない」(二五頁九行目)

と、ここでも理由なき逆転をしてしまうのである。それでは何があれば充分といえるのか。上告人等の十件申請十件拒否をみただけで、これ程憲法三一条違反の具体的な証拠は外にないのではないか。これに勝る証明がこの世のあるとは思われない。複数の責任ある地位(国税庁酒税課長と高松間税部長)の者が口を揃えて免許申請の門前払えに第一線で苦労していると告白していることだけで、現在の酒販免許制運用の恣意的実態を余す処なく象徴的に証明しているではないか。このような状況はつとに各方面の注目するところとなり、第一次臨調、第二次臨調で酒販免許廃止の方向が打ち出されたほか、政府の各機関でもその弊害がつよく指摘されている。公正取引委員会も、酒販免許が新規参入阻止の効果しか上げていないことにつき、強い疑念を呈している。

新規参入の障害が独占禁止法上ボイコットの疑問が提起されている上、上告人に対しては手続上でも長期の故意の不作為(本件は一一ヶ月)を犯している。

公取委にまで疑問の目で見られ、その上憲法三一条にも違反した被上告人の恣意的行政は、既に犯罪の域に達しているという外はない。

第七、おわりに。

以上縷々述べてきたとおり、酒販免許制度は立法当時より立法事由を欠くものであったが、酒税の国税全体に占める割合が相対的に低下している今日に於て、なおさら酒税を特別扱いする必要性は少なくなった。それ故違憲の程度は益々大きくなったといえる。とりわけ、酒販免許制憲法適否事件が各地で合憲判決が出始めてから、被上告人は年間の免許増加数を従来に比べて半減させてしまった。(仮に被上告人の言い分を認めて毎年一〇〇〇件位新規免許を下付したとしても、後記A表のとおり昭和四一年から五〇年までは毎年平均で一八五〇場位を免許しており、それは処分直前の三三二キロリットル(四〇年代は二六六キロリットル)の消費量の増加は昭和四〇年代の二五パーセントの増加率であることを考えると、消費量に対する新規免許付与数は率に於いて二分の一以下になり、その後(平成四年以降)もアルコールの消費量が相対的・全体的に増加していることを考えると、このような運用自体もまた、違憲・違法といわざるを得ない。

したがって、かかる違憲な運用の一環としてなされた、本件不許可処分もまた、違憲であるという外はないのである。

右の事象を踏まえた上で、これまでの酒販免許制を総括すると、

1、酒税法一〇条各号は実は本件事件のように被上告人の恣意によって如何様にも作文できることが判明し、

2、地理的に、人口的に公正性、透明性を増したと自画自賛する新免許取扱要領も、その中身をみれば、これまた恣意と差別の行政そのもであったことも、次々と白日の元に晒され、

3、同じ被上告人の内にあって、銀行・証券の開放的免許行政に比べても、酒販免許制だけが時代に逆行して、最も封建制の色濃い利権の温床に化してしまった

ことも次第に明らかとなった。

しかし、私たちは過去に縋っていたのでは永久に将来への展望が拓けない。

旧来の陋習を断ち切って一歩前へ踏み出してこそ明日への希望がある。それには多少の痛みは皆で分ち合わなければならない。

今、個別的にも全体的にも被上告人の処分を違法としなければ、将来に取り返しのつかない損害を蒙ることにならないと、誰が保証できようか。被上告人の不敵とも思える消費者への挑戦の原因は何だろうかを考えた時、そこに免許制の性悪説を嫌という程思い知らされてしまうのは上告人だけではないだろう。

そこには嫌でも一部の人たちだけで権益を守ろうとする癒着の構造が、陰湿に垣間見えるからである。

利権は癒着を生む。権力は腐敗する。

六十年間という超長期の酒販組合と被上告人との癒着の構造は、遂に一つの強力な利権マシーンを作り上げ、被上告人らの余生の収入に一役買っただけで、一方の消費者の利便をほぼ永久に放棄させてしまった。およそこの世に一つの利権が六十年も温存された試しがない。利権は継続に比例して腐敗していく。

パーキンソンの法則は残念ながらここでも生きていたのである。

日本一の発展地・吉川市は、こと酒販免許に関する限り被上告人によって、日本一不幸な過疎砂漠にされてしまった。それが被上告人のする酒販免許行政の実態なのである。そこには開かれた透明性も、公平性も疾うの昔に雲散霧消してしまった。あるものは消費者の不便と高い酒だけである。

以上の点を総合的に判断すれば、被上告人の酒税法による本件拒否処分は憲法二二条一項に違反するばかりでなく、酒税と消費税との関係において、法の元の平等が破壊されて憲法一四条にも違反する疑念が捨て切れず、更に上告人らの一〇件申請・一〇件拒否という違法な談合による処分の一環として出された本件拒否処分が、憲法三一条にも違反することは誰が目にも明らかとなった。

このような二重三重の罪を犯した被上告人は、潔く消費者に向かって贖罪しなければならないところ、本件反論にもみられる如く未だに恬として恥なく、全国の潜在免許取得希望者に行き渡るのに二〇〇年を要する策謀を、今も押し進めているのである。

免許制定当時の一〇倍の酒類の量を二〇万人も少ない場数で売っている現状を直視する時、この上更に気の遠くなるような歳月を待たされる免許渇望組を被上告人は思いやったことがあるのだろうか。それを百も承知して知らないフリをしている神経は、私たちの遙か理解の外にある。

思うに、「免許を呉れてやる」という被上告人の感覚と、「有り難く免許を頂戴する」とする渇望組との関係がソフトランデングと称して、何時の間にか被上告人のいう透明性となり公平性となってしまったのであろう。

原判決もまた残念ながら盲目的にそれを認めてしまった。

被上告人の頭の中には免許制(酒と金融)にして生殺与奪権を握れば、業界は安泰だという発想しかない。競争を制限しさえすれば、酒税が確保できるという古典的考え方は、テンポの早い今日には通用しない。

北拓銀も三洋・山一証券も免許の上に安穏とした結果の敗北であった。或る意味では皮肉にも免許制でなければ彼らは潰れなかったという逆説も成り立つ。

特に山一証券破綻の決定的な引き金は市場の攻撃であった。一時、山一証券の株価は額面を割り、ムーデイスが投資不適確の烙印を押してしまった。

山一証券は一九六五年に一度日銀特融を受けている。この羮に懲りて大蔵省は証券業界を届出制から免許制にしたものの、今度は三二年後に山一証券への日銀特融が三兆円にも膨れ上がったツケだけを残して、再び金融ビックバンにより免許制から届出制に戻ろうとしている。

いみじくも原判決も判示のとおり、一つの歴史的使命は終ったのである。

昭和四〇年の証券不況に際し、山一証券に対する無制限の日銀特融は、実質二八五億円であった。それを「さすがは田中角榮大蔵大臣(当時)の蛮勇である」と昨日まで三十二年もの長い間、一種の美談として語り継がれてきた。

それが一変してあの時山一証券を整理しておけば、当時の日銀特融より簿外負債だけでも一〇倍(三〇〇〇億)、全債務だと一〇〇倍(三兆円))、関連子会社を含めると二〇〇倍(六兆円)にも膨張することはなかった。

揚げ句の果てに、結局は我々国民にそのツケが廻ってくる事が避けられないとすれば、角榮の美談とされた日銀特融は果たして成功だったのか失敗だったのか、答は自ずから明らかである。

ソ連が共産主義の理論と実践を競争原理を排除する事により七十年に亘って壮大な実験をしてきたが結果は抜きさし難い憎悪だけしか残らなかった。

同様にして山一証券事件を契機として三〇年間、証券業免許制度の実験をしてきたが、結果は一〇倍の隠れ負債と百倍の借金が国民に重くのしかかって、幕を閉じた。

こと程さように、自由市場の競争理念を蔑ろにする免許制というシステムは恐ろしい結果を招くのである。ひとり酒販免許制だけが、その枠外にあることは許されない。市場の論理とはかくも冷徹にして残酷なのである。

今こそ最高裁判所は、自信を以て世界に誇る我が国・憲法の真の存在意義を大きな声で宣言していただきたい。

以上

(添付書類省略)

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