最高裁判所第一小法廷 平成23年(受)2455号 判決 2014年10月09日
主文
1 原判決中次の部分を破棄する。
(1) 上告人X1,同X2,同X3,同X4,同X5,同X6及び同X7を除くその余の上告人らに関する部分
(2) 上告人X7の請求のうち固有の損害の賠償請求に関する部分を除く部分
2 前項の破棄部分につき,本件を大阪高等裁判所に差し戻す。
3 上告人X1,同X2,同X3,同X4,同X5及び同X6の各上告並びに上告人X7の固有の損害の賠償請求に関する部分の上告をいずれも棄却する。
4 前項に関する上告費用は,同項記載の上告人らの負担とする。
理由
第1事案の概要
1 上告人らは,大阪府泉南地域に存在した石綿(アスベスト)製品の製造,加工等を行う工場又は作業場(以下「石綿工場」と総称する。)において,石綿製品の製造作業等に従事したことにより,石綿肺,肺がん,中皮腫等の石綿関連疾患にり患したと主張する者(原判決別紙「請求額等一覧表」の被害者(死亡者)欄記載の者〔ただし,本人と記載されている者はこれに対応する第1審原告ら欄記載の者〕のうち,X7及び亡Aを除く24名。以下「本件元従業員ら」という。)又はその承継人である。本件は,上告人らが,被上告人に対し,被上告人が石綿関連疾患の発生又はその増悪を防止するために労働基準法(昭和47年法律第57号による改正前のもの。以下「旧労基法」という。)及び労働安全衛生法(以下「安衛法」という。)に基づく規制権限を行使しなかったことが違法であるなどと主張して,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償を求める事案である。
2 原審の確定した事実関係等及び関係法令の概要は,次のとおりである。
(1) 石綿の概要等
石綿は,ほぐすと綿のようになる一群の繊維状鉱物の総称であり,クリソタイル,アモサイト,クロシドライト等に分類される。石綿は,紡織性,抗張力,耐熱性などにその特長を有しており,古くから紡織品,建築材料等に広く使用されてきた。
我が国では,高度経済成長に伴って石綿の消費量が大きく伸び始め,昭和40年代半ばから昭和60年代にかけて大量消費が続いたが,平成2年頃から急激に消費量が減少し,平成18年9月には,石綿含有製品の製造,使用等がほぼ全面的に禁止されるに至り,石綿の消費はほとんどなくなった。泉南地域は,長きにわたり我が国における石綿紡織品の主産地であり,同地域の石綿製品の製造等の工程では,相当量の石綿の粉じんが発生した。
(2) 石綿関連疾患の概要
石綿関連疾患には,石綿肺,肺がん,中皮腫等がある。これらのうち石綿肺は,石綿の粉じんを大量に吸入することにより発生するじん肺であり,肺線維症の一種である。自覚症状としては,労作時の息切れ,せき及びたんの症状があり,進展とともに続発性気管支炎等の合併症を併発し,急性心不全等により死に至ることもある。また,石綿の粉じんのばく露がなくなった後でも病変は進行する。
(3) 石綿関連疾患に関する医学的知見の進展等
ア 我が国において,昭和の初め頃までは,粉じんの吸入によって生ずる職業病として,金属鉱山におけるけい肺が大きな問題となっており,けい肺以外のじん肺については特に問題視されることがなく,石綿肺に関する系統的な調査研究は行われなかった。その後,昭和12年から昭和15年にかけて,保険院社会保険局健康保険相談所大阪支所長らにより,初めて本格的な石綿肺の調査が行われた。同調査では,泉南地域等に所在する石綿工場の労働者を対象として石綿肺の発生状況等が調査され,相当数の労働者に異常所見が認められるとともに,勤続年数が長期になるほど石綿肺の発症率が高くなる旨の結果が得られた。
イ 戦後,重大な職業病として認識されていたけい肺の予防及び健康管理等に対する施策が強く求められるようになり,労働省は,昭和23年以降,全国けい肺巡回検診を実施した。その結果,検査対象とされた約4万6000人の労働者の中に多数のけい肺患者が存在することが明らかとなっただけでなく,石綿肺を含むその他のじん肺を発症している労働者も約600人存在していることが判明した。また,昭和27年頃以降,研究者らによる石綿の粉じん被害の実態調査が行われ,石綿取扱いの作業に従事する期間が長くなるほど石綿肺の所見を有する人数が増加するという関係が明らかとなった。
ウ 労働省は,昭和31年以降,労働衛生試験研究として,石綿肺等のじん肺に関する研究を専門家に委託し,同年から昭和32年にかけて行われた石綿肺の実態調査では,石綿工場の労働者のうち10%を超える者に石綿肺の所見が認められた。そして,昭和32年3月31日及び昭和33年3月31日の上記の委託研究の報告では,石綿肺についての一応の診断基準が示されるとともに,石綿肺は,けい肺と同様,重大な疾病であることが指摘された。
エ 労働大臣は,昭和33年6月,けい肺審議会に対して,「けい肺及び外傷性せき髄障害に関する特別保護法」の改正について諮問し,昭和34年9月,同審議会の医学部会において,石綿肺を含むあらゆる種類の粉じんに対する被害の予防と健康管理の必要性が表明され,上記医学部会の意見に基づくけい肺審議会の答申を受けて,昭和35年3月,じん肺法が制定された。
オ また,石綿とがんとの関連性についても,我が国及び諸外国において調査研究が進められ,昭和47年には,石綿にがん原性があることについての国際的な医学的知見が確立するに至った。
(4) 関係法令の概要
ア 昭和22年に公布された旧労基法(同年施行)は,労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものとして労働条件を確保することを目的とするものであり(1条),使用者は,粉じん等による危害防止等のために必要な措置を講じなければならないものとされ(42条等),労働者は,危害防止のために必要な事項を遵守しなければならないものとされている(44条)。また,旧労基法では,使用者は,労働者を雇い入れた場合にその労働者に安全衛生教育を実施しなければならないものとされている(50条)。そして,上記の各規定に違反した者には罰則が科される(119条1号,120条1号)。旧労基法42条から44条までの規定により使用者が講ずべき措置及び労働者が遵守すべき事項は,命令に委任されており(45条),労働安全衛生規則(昭和22年労働省令第9号。以下「旧安衛則」という。)及び特定化学物質等障害予防規則(昭和46年労働省令第11号。以下「旧特化則」という。)が,上記の措置及び事項の具体的内容を定めている(旧安衛則は昭和22年11月1日,旧特化則は一部を除き昭和46年5月1日に各施行)。なお,上記両規則が競合する部分については,旧特化則が優先する。
イ 昭和35年3月31日に公布されたじん肺法(同年4月1日施行)は,石綿肺をも含むようにじん肺を定義し,事業者(昭和52年法律第76号による改正前のじん肺法にあっては「使用者」)に対し,じん肺の予防のための措置を講ずるように努める義務を課すほか(5条),じん肺に関する予防及び健康管理のために労働者に必要な教育を実施する義務を課しており(6条),同法6条の規定に違反した者には罰則が科される(45条1号)。
ウ 昭和47年6月8日,安衛法が公布され(一部を除き昭和47年10月1日施行),これに伴い,旧労基法42条以下に定められていた安全及び衛生に関する規定が改正され,労働者の安全及び衛生に関しては,安衛法の定めるところによるものとされた。安衛法は,職場における労働者の安全と健康の確保等を目的とするものであり(1条),事業者は,労働者の健康障害の防止等のために必要な措置を講じなければならないものとされ(22条等),労働者は,事業者が講ずる措置に応じて必要な事項を守らなければならないものとされている(26条)。また,安衛法では,事業者は,労働者を雇い入れたとき及び労働者の作業内容を変更したときにその労働者に安全衛生教育を実施しなければならないものとされている(59条1項及び2項)。そして,上記の各規定に違反した者には罰則が科される(119条1号,120条1号。ただし,作業内容変更時の安全衛生教育については平成17年法律第108号による改正後の120条1号)。安衛法22条,26条等の規定により事業者が講ずべき措置及び労働者が守らなければならない事項は,労働省令に委任されており(27条),労働安全衛生規則(昭和47年労働省令第32号。以下「安衛則」という。)及び特定化学物質等障害予防規則(昭和47年労働省令第39号。以下「特化則」という。)が,上記の措置及び事項の具体的内容を定めている(上記両規則はいずれも一部を除き昭和47年10月1日施行)。なお,上記両規則が競合する部分については,特化則が優先する。上記両規則の制定に伴って,旧安衛則及び旧特化則は廃止された。
(5) 局所排気装置に関する技術的知見の進展,規制の経過等
ア 局所排気装置は,主として,発散源から飛散する有害物を捕集するためのフード,有害物を含んだ空気を清浄化するための除じん装置,これらをつなぐダクト,有害物を捕集する気流を人工的に発生させるためのファン,清浄化された空気を屋外に排出するための排出口等によって構成されるものである。
イ 米国では,1930年代には局所排気装置の研究が行われており,石綿工場における局所排気装置の設置例が現れていたが,戦前又は戦後の間もない時期において上記の局所排気装置に関する技術的情報の詳細が我が国に伝えられることはなかった。もっとも,昭和28年7月には,労働省労働基準局労働衛生課長の監修により,米国の研究者が局所排気装置の仕組み等を説明した書籍が翻訳されて出版された。そして,労働省は,昭和30年度から労働衛生試験研究として,局所排気装置に関する研究を専門家に委託し,同研究の成果は,昭和32年9月,「労働環境の改善とその技術-局所排気装置による-」と題する書籍(労働省労働基準局労働衛生課監修。以下「昭和32年資料」という。)として発行された。昭和32年資料は,我が国における最初の局所排気に関するまとまった技術書であり,局所排気装置を設計するに当たって必要となる基本的な事項が記載されている。また,昭和32年資料には,石綿工場における局所排気装置の実例は紹介されていないものの,研磨作業,粉砕作業等の粉じんが発生する作業に応じた局所排気装置の実例が紹介されており,これらの中には,既製品として輸入されたもののほか,我が国で製作されたものも含まれている。そして,昭和32年資料の末尾の資料編には,昭和32年資料の発行者である日本保安用品協会が推奨することができる局所排気装置の設計施工者として9社が紹介されている。
ウ 労働省労働基準局長は,昭和33年5月26日付けで,都道府県労働基準局長宛ての「職業病予防のための労働環境の改善等の促進について」と題する通達(同日基発第338号。以下「昭和33年通達」という。)を発出し,粉じん作業等につき労働環境の改善等予防対策のよるべき一般的措置の種類をその別紙「労働環境における職業病予防に関する技術指針」(以下「別紙技術指針」という。)に定めたとしてその実施の促進を指示した。別紙技術指針は,作業の種類,発散有害物,その抑制目標限度,準拠すべき測定法,労働環境に対する措置等を定め,石綿に関する作業の労働環境に対する措置として,石綿等の破砕,ふるい分け,ときほぐし等については,局所排気装置を設けることを,石綿等の積込み及び運搬については,でき得る限り局所排気装置を設けることを定めるとともに,局所排気装置の技術方法については昭和32年資料を参照することとした。
エ 昭和35年にじん肺法が公布施行され,昭和39年,同法に基づくじん肺審議会の下に粉じん抑制技術を開発するための専門部会が設置された。そして,上記専門部会において,局所排気装置の設計等について具体的かつ平易に説明した標準的技術書を作成すべく検討が進められ,その検討結果は,昭和41年1月,「局所排気装置の標準設計と保守管理(基本編)」と題する書籍(労働省労働基準局安全衛生部編。以下「昭和41年資料」という。)として発行された。労働省労働基準局長は,昭和41年,都道府県労働基準局長宛ての通達を発出し,昭和41年資料を局所排気装置の施工業者等に対する指導書として活用し局所排気装置の知識及び技術の普及を図るよう指示した。また,労働省労働基準局長は,昭和43年及び昭和46年,都道府県労働基準局長宛ての通達を発出し,石綿工場に局所排気装置を設置するよう指導することなどを指示した。
オ 労働大臣は,昭和46年4月28日,旧特化則を制定した。旧特化則は,石綿等を規制対象として,粉じん等が発散する屋内作業場については当該発散源に局所排気装置を設けなければならないものとし(4条),局所排気装置の要件として,フード,ダクト,ファン及び排出口の設置位置等について定めた上(6条1項),フードの外側における粉じん等の濃度(以下「抑制濃度」という。)が労働大臣が定める値を超えないものとする能力を有するものでなければならないとした(同条2項)。その後,安衛法の制定に伴い,旧特化則は廃止され,特化則が制定されたが,局所排気装置に関する規制内容は,旧特化則とほぼ同じであった。
カ 昭和47年,フードの設計について作業ごとに整理するなどした「局所排気装置フード 設計資料集成-応用編-」(労働省安全衛生部労働衛生課編)が発行された。また,昭和53年2月には,石綿に関する作業の特殊性に対応した局所排気装置のフードの実例やその効果等について記載した「局所排気装置フード 設計資料集成-粉じん(石綿)編-」(労働省安全衛生部労働衛生課編)が発行された。
キ 昭和33年頃の石綿工場における現実的で有効な石綿の粉じん防止策としては,局所排気装置の設置があり,労働省労働基準局長は,昭和33年通達を発出するなどして局所排気装置の普及を進めたが,それほど普及は進まなかった。そこで,前記のとおり,労働省労働基準局長は,昭和41年に通達を発出して昭和41年資料を活用して局所排気装置の知識及び技術の普及を図るよう指示したほか,昭和43年及び昭和46年にも通達を発出して石綿工場に局所排気装置を設置するよう指導することなどを指示した。しかし,昭和33年通達が発せられてから約9年後の昭和42年に大阪労働基準局が行った調査では,局所排気装置が設置された石綿工場の割合は4割程度にとどまっていた。また,昭和46年に同局が行った調査では,上記の割合は8割を超えたものの,これらは1台でも局所排気装置が設置された石綿工場の割合にすぎず,石綿工場における粉じんの発散源のうち局所排気装置が設置されたものの割合ではない上,設置された局所排気装置に設計上の不備等もあって,現実の労働環境は依然として改善されていない状況であり,昭和46年当時においても石綿工場における局所排気装置による粉じん対策は進んでいなかった。
(6) 粉じん濃度に関する規制内容等
ア 我が国及び諸外国においては,粉じんによる健康障害を予防する観点から法令等による規制値又は専門家による勧告値として一定の粉じん濃度が示されてきた。我が国では,昭和40年,日本産業衛生協会(昭和47年に日本産業衛生学会に名称が変更された。以下,この名称変更の前後を通じて「日本産業衛生学会」という。)が,石綿の粉じんの許容濃度(労働者が粉じんにばく露した場合に健康障害を発症しないものと考えられる限度である濃度。以下同じ。)として,1㎥当たり2㎎(石綿の繊維数に換算すると,1㎤当たり33本。以下,石綿の粉じんの濃度における本数は石綿の繊維数である。)を勧告した。上記の勧告値は,米国産業衛生専門家会議(American Conference of Governmental Industrial Hygienists。いわゆるACGIH)が作業場における空気中の有害物のばく露濃度の限界値として当時設定していた数値を参考にしたものであった。
昭和47年,石綿にがん原性があることが国際的な医学的知見として確立したことを受け,米国では,石綿の粉じんのばく露濃度を1㎤当たり5本とする規制がされた。また,我が国においても,日本産業衛生学会は,昭和49年,石綿の粉じんの許容濃度を5㎛(マイクロメートル)以上の石綿繊維が1㎤当たり2本とする旨の勧告を行った(この点につき,原判決中,「昭和48年(1973年)」とあるのは「昭和49年(1974年)」の,「1㎥あたり5本」とあるのは「1㎤あたり2本」のそれぞれ誤記と認める。)。
イ 前記のとおり,旧特化則及び特化則は,抑制濃度が労働大臣が定める値を超えないものとする能力を有することを局所排気装置の性能要件とし,労働大臣は,昭和46年労働省告示第27号(以下「昭和46年告示」という。)により,石綿の抑制濃度の規制値を1㎥当たり2㎎(1㎤当たり33本)と定めた。
その後,労働省労働基準局長は,昭和48年7月11日付けで,都道府県労働基準局長宛ての通達を発出し,石綿が肺がん,中皮腫等を発生させることが明らかになったなどとして,当面,石綿の抑制濃度を5㎛以上の石綿繊維が1㎤当たり5本とするよう指導することを指示した。そして,労働大臣は,昭和50年9月,当時特に大きな関心事となっていた職業がん等職業性疾病の発生状況等に鑑みて,特化則を改正し,これに合わせて,昭和50年労働省告示第75号(以下「昭和50年告示」という。)により,昭和46年告示を改正して石綿の抑制濃度の規制を強化し,その規制値を5㎛以上の石綿繊維が1㎤当たり5本と定めた。さらに,労働省労働基準局長は,昭和51年,都道府県労働基準局長宛ての通達により,石綿の粉じんにばく露した労働者から肺がん又は中皮腫が多発することが明らかとされ,その対策の強化が要請されているなどとして,当面,石綿の抑制濃度を5㎛以上の石綿繊維が1㎤当たり2本(クロシドライトについては,0.2本)以下を目途とするよう指導することなどを指示した。
ウ その後,粉じん濃度の規制基準として,抑制濃度の規制とは別に,管理濃度(有害物質に関する作業場の空気環境の良否を判断するための指標)による規制が導入され,昭和63年9月1日,安衛法に基づいて定められた作業環境評価基準(昭和63年労働省告示第79号)において,石綿の管理濃度は5㎛以上の石綿繊維が1㎤当たり2本(クロシドライトについては,0.2本)とされた。
(7) 呼吸用保護具に関する規制内容
昭和22年10月31日に制定された旧安衛則は,使用者に対し,粉じんを発散する衛生上有害な場所での業務において作業に従事する労働者に使用させるために呼吸用保護具を備える等の義務を課すとともに(181条等),労働者に対し,就業中の呼吸用保護具の使用義務を課しており(185条),昭和46年4月28日に制定された旧特化則は,使用者に対し,石綿等を取り扱う作業場に呼吸用保護具を備える等の義務を課した上(32条等),特定化学物質等作業主任者を選任して保護具の使用状況を監視させる義務を課している(28条1項3号)。そして,上記各義務に違反した場合には罰則が科される(旧労基法119条1号,120条1号)。また,昭和47年9月30日には,安衛法に基づいて安衛則及び特化則が制定されたが,呼吸用保護具に関する規制内容は,従前とほぼ同様のものであった。もっとも,上記の各省令には,使用者又は事業者に対して労働者に呼吸用保護具を使用させるよう義務付ける規定はなく,これを義務付けた規定は,平成7年1月26日の特化則の改正により設けられた。
3 原審は,前記の事実関係等の下において,次のとおり判断して,上告人らの請求を棄却した。
(1) 旧特化則が制定された昭和46年4月28日まで,様々な設置例や経験的技術の集積に基づき石綿工場の実情に応じて有効に機能する局所排気装置を設置し得るだけの実用的な工学的知見が確立していなかったから,省令により石綿工場に局所排気装置を設置することを義務付けることはできなかった。したがって,旧特化則の制定まで労働大臣が省令制定権限を行使して石綿工場に局所排気装置を設置することを義務付けなかったことが国家賠償法1条1項の適用上違法であるということはできない。
(2) 抑制濃度の規制強化の経過に照らせば,労働大臣による石綿の抑制濃度の規制措置が,著しく合理性を欠くものとはいえず,国家賠償法1条1項の適用上違法であるということはできない。
(3) 旧安衛則等が,使用者又は事業者に対して労働者に使用させるために呼吸用保護具を備えることを義務付け,労働者に対して呼吸用保護具を使用することを義務付けていることからすると,使用者又は事業者には,旧安衛則等により,労働者が呼吸用保護具である防じんマスクを適切に使用するように指導する義務が課されていることは明らかである。したがって,使用者又は事業者に上記の義務が課されていないことを前提に,使用者又は事業者に対し労働者に防じんマスクを使用させること及び防じんマスクに関する教育を実施することを義務付けなかったことが国家賠償法1条1項の適用上違法であるとする上告人らの主張は,その前提を欠くというべきである。
第2上告代理人芝原明夫ほかの上告受理申立て理由第6章の第2及び第3の1について
1 論旨は,原審の前記第1の3(1)の判断には,国家賠償法1条1項の解釈適用を誤った違法があるというものである。そこで,この点につき検討する。
2 国又は公共団体の公務員による規制権限の不行使は,その権限を定めた法令の趣旨,目的や,その権限の性質等に照らし,具体的事情の下において,その不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるときは,その不行使により被害を受けた者との関係において,国家賠償法1条1項の適用上違法となるものと解するのが相当である(最高裁平成13年(受)第1760号同16年4月27日第三小法廷判決・民集58巻4号1032頁,最高裁平成13年(オ)第1194号,第1196号,同年(受)第1172号,第1174号同16年10月15日第二小法廷判決・民集58巻7号1802頁参照)。
これを本件についてみると,旧労基法は,労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものとして労働条件を確保することを目的として(1条),使用者は粉じん等による危害防止等のために必要な措置を講じなければならないものとし(42条等),安衛法は,職場における労働者の安全と健康の確保等を目的として(1条),事業者は労働者の健康障害の防止等のために必要な措置を講じなければならないものとしているのであって(22条等),使用者又は事業者が講ずべき具体的措置を命令又は労働省令に委任している(旧労基法45条,安衛法27条)。このように,旧労基法及び安衛法が,上記の具体的措置を命令又は労働省令に包括的に委任した趣旨は,使用者又は事業者が講ずべき措置の内容が,多岐にわたる専門的,技術的事項であること,また,その内容を,できる限り速やかに,技術の進歩や最新の医学的知見等に適合したものに改正していくためには,これを主務大臣に委ねるのが適当であるとされたことによるものである。
以上の上記各法律の目的及び上記各規定の趣旨に鑑みると,上記各法律の主務大臣であった労働大臣の上記各法律に基づく規制権限は,粉じん作業等に従事する労働者の労働環境を整備し,その生命,身体に対する危害を防止し,その健康を確保することをその主要な目的として,できる限り速やかに,技術の進歩や最新の医学的知見等に適合したものに改正すべく,適時にかつ適切に行使されるべきものである(前掲最高裁平成16年4月27日第三小法廷判決参照)。
3(1) 前記の事実関係等によれば,石綿肺の被害及びその対策の状況等につき,次のようにいうことができる。①労働省の委託研究において昭和31年から昭和32年にかけて行われた石綿肺の実態調査では,石綿工場の労働者のうち10%を超える者に石綿肺の所見が認められるなど,昭和33年頃には石綿工場の労働者の石綿肺り患の実情が相当深刻なものであることが明らかとなっていた。②石綿肺についての医学的知見に関しては,昭和32年3月31日及び昭和33年3月31日の上記の委託研究の報告において,石綿肺についての一応の診断基準が示されるとともに,石綿肺は,けい肺と同様,重大な疾病であることが指摘された。③昭和33年頃,局所排気装置の設置は,石綿工場における有効な粉じん防止策であり,その設置により石綿工場の労働者が石綿の粉じんにばく露することを相当程度防ぐことができたと認められる。④労働省労働基準局長は,昭和30年代から昭和40年代にかけて,通達を発出するなどして局所排気装置の普及を進めていたものの,昭和42年の大阪労働基準局の調査では,1台でも局所排気装置が設置された石綿工場の割合が4割程度にすぎず,昭和46年の同局の調査でも,石綿工場に設置された局所排気装置に設計上の不備等があり現実の労働環境は依然として改善されていないなど,昭和46年当時においても石綿工場における局所排気装置による粉じん対策は進んでいなかった。
(2) また,上記のような昭和33年当時の石綿肺の被害状況等に加え,前記の事実関係等によれば,局所排気装置の設置に関する技術的知見につき,次のようにいうことができる。①昭和28年7月,米国の研究者が局所排気装置の仕組み等を説明した書籍が翻訳されて出版され,昭和30年度からの委託研究の成果がまとめられた昭和32年資料において我が国で製作された局所排気装置の実例が紹介されるなど,この当時までには,我が国においても局所排気装置の設置等に関する実用的な知識及び技術の普及が進み,局所排気装置の製作等を行う業者及び局所排気装置を設置する工場等も一定数存在していた。②このような状況の下で,昭和32年9月,労働省の委託研究の成果として,局所排気に関するまとまった技術書である昭和32年資料が発行され,労働省労働基準局長は,昭和33年通達を発出し,別紙技術指針において,石綿に関する作業につき局所排気装置の設置の促進を一般的な形で指示した上,その際には昭和32年資料を参照することとした。
(3) 以上の諸点に照らすと,労働大臣は,昭和33年頃以降,石綿工場に局所排気装置を設置することの義務付けが可能となった段階で,できる限り速やかに,旧労基法に基づく省令制定権限を適切に行使し,罰則をもって上記の義務付けを行って局所排気装置の普及を図るべきであったということができる。そして,昭和33年には,局所排気装置の設置等に関する実用的な知識及び技術が相当程度普及して石綿工場において有効に機能する局所排気装置を設置することが可能となり,石綿工場に局所排気装置を設置することを義務付けるために必要な実用性のある技術的知見が存在するに至っていたものと解するのが相当である。
そうすると,昭和33年当時,労働大臣が,旧労基法に基づく省令制定権限を行使して石綿工場に局所排気装置を設置することを義務付けることが可能であったと解する余地があり,そうであるとすれば,同年以降,労働大臣が上記省令制定権限を行使しなかったことが,国家賠償法1条1項の適用上違法となる余地があることになる。
4 以上と異なる原審の前記第1の3(1)の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由がある。
第3上告代理人芝原明夫ほかの上告受理申立て理由第6章の第3の2(2)について
1 論旨は,原審の前記第1の3(2)の判断には,国家賠償法1条1項の解釈適用を誤った違法があるというものである。そこで,この点につき,前記第2の2の観点から検討する。
2 前記の事実関係等によれば,①労働大臣が昭和46年告示により石綿の抑制濃度の規制値として定めた1㎥当たり2㎎(1㎤当たり33本)は,昭和40年に日本産業衛生学会が米国産業衛生専門家会議の設定したばく露濃度の限界値を参考に石綿の粉じんの許容濃度として勧告した数値に等しいものであり,専門的知見に基づくものといえること,②その後,日本産業衛生学会は,昭和49年に従来の勧告値を見直して5㎛以上の石綿繊維が1㎤当たり2本を石綿の粉じんの許容濃度の勧告値としたのに対し,労働大臣は,その約1年半後である昭和50年9月には,昭和50年告示により,昭和46年告示を改正して石綿の抑制濃度の規制を強化し,その規制値を5㎛以上の石綿繊維が1㎤当たり5本と定めたこと,③この規制値は,昭和47年に石綿のがん原性の医学的知見が確立したことを受けて米国において定められた石綿の粉じんのばく露濃度の規制値と同等のものであり,専門的知見に基づくものといえることが明らかである。
そして,抑制濃度は,粉じんの発散源付近に設置されるフードの外側の濃度であり,一般に作業場の中で最も粉じん濃度が高い場所の濃度であるといえるから,その規制により間接的に作業場全体の粉じん濃度を規制することが可能となるものであり,抑制濃度による粉じん濃度の規制自体が著しく合理性を欠くものということはできない。また,このような抑制濃度の内容からすると,抑制濃度の規制値として,粉じんのばく露限界を示す許容濃度等の値を用いる場合には,許容濃度等による規制を行う場合に比べて,より厳しい規制を行うことになるということができる。そうすると,抑制濃度の規制値が,粉じんのばく露限界を示す許容濃度等の値よりも緩やかなものであるとしても,そのことから直ちに当該抑制濃度の規制値が著しく合理性を欠くものということはできない。
以上の諸点に照らすと,労働大臣による石綿の抑制濃度の規制措置が,旧労基法及び安衛法の趣旨,目的や,その権限の性質等に照らし,著しく合理性を欠くとまでは認められず,国家賠償法1条1項の適用上違法であるということはできない。
3 原審の前記第1の3(2)の判断は,以上と同旨をいうものとして是認することができる。論旨は採用することができない。
第4上告代理人芝原明夫ほかの上告受理申立て理由第6章の第3の3について
1 論旨は,原審の前記第1の3(3)の判断には,旧安衛則等の解釈適用を誤った違法があるというものである。
2 旧安衛則等には,使用者又は事業者に対して労働者が呼吸用保護具を適切に使用するよう指導することを義務付ける旨の明示の規定はなく,上記の義務と旧安衛則等に規定のある使用者又は事業者の呼吸用保護具を備える義務及び労働者が呼吸用保護具を使用する義務とは,義務の内容及び態様を異にするものである。そうすると,後者の各義務の存在をもって前者の義務が法令上定められていると解することはできないというべきであり,これと異なる原審の前記第1の3(3)の判断には,法令の解釈を誤った違法があるというべきである。
3 しかしながら,前記第2の2の観点から防じんマスク等の呼吸用保護具に関する労働大臣の規制措置が国家賠償法1条1項の適用上違法であるかについて検討すると,石綿工場における粉じん対策としては,局所排気装置等による粉じんの発散防止措置が第一次的な方策であり,防じんマスクは補助的な手段にすぎないものである。そして,防じんマスク等の呼吸用保護具については,法令上,使用者又は事業者及び労働者に対し前記第1の2(7)のとおりの義務が課されており,これに違反した場合には罰則が科されることになる。また,労働者に対する安全衛生教育については,使用者又は事業者に対し,旧労基法及び安衛法において労働者を雇い入れたときの安全衛生教育の実施義務が課されているほか,安衛法では労働者の作業内容を変更したときの安全衛生教育の実施義務も課されており,さらに,じん肺法においてじん肺に関する予防及び健康管理のために必要な教育を実施する義務が課されているのであって,これらに違反した場合には罰則が科されることになる(ただし,作業内容変更時の安全衛生教育については平成17年法律第108号による安衛法の改正後である。)。そうすると,上記の各義務を通じて,労働者の防じんマスクの使用は相当程度確保されるということができる。
以上の諸点に照らすと,石綿工場における粉じん対策としては補助的手段にすぎない防じんマスクの使用に関し,上記の各義務に加えて,使用者又は事業者に対し労働者に防じんマスクを使用させる義務及び防じんマスクに関する教育を実施する義務を負わせなければ著しく合理性を欠くとまでいうことはできない。
4 したがって,労働大臣が,石綿工場での作業に関し,使用者又は事業者に対し労働者に防じんマスクを使用させること及び防じんマスクに関する教育を実施することを義務付けなかったことが,旧労基法及び安衛法の趣旨,目的や,その権限の性質等に照らし,著しく合理性を欠くとまでは認められず,国家賠償法1条1項の適用上違法であるということはできない。上記の点につき被上告人の国家賠償法1条1項に基づく損害賠償責任を否定した原審の判断は,結論において是認することができる。論旨は,結局,採用することができない。
第5上告人X1,同X2,同X3,同X4,同X5及び同X6(以下「上告人X1ら」という。)の上告について
以上説示したところによれば,局所排気装置の設置の義務付けに関する規制権限の不行使については,国家賠償法1条1項の適用上違法とされる余地はあるが,その余の規制権限の不行使については,同項の適用上違法であるということはできない。もっとも,局所排気装置の設置の義務付けに関する規制権限の不行使が同項の適用上違法とされる期間は,その設置を義務付ける旧特化則が制定された昭和46年4月28日までである。ところで,上告人X1らは,本件元従業員らのうち亡B又は亡Cの承継人であり,本件において,亡B及び亡Cが,昭和46年4月28日以前に石綿工場で石綿の粉じんにばく露したことの主張立証はない。したがって,上告人X1らについては,局所排気装置の設置の義務付けに関する規制権限の不行使が同項の適用上違法とされても,その請求には理由がないことになる。したがって,原判決のうち,上告人X1らの請求を棄却した部分は,結論において是認することができる。
第6結論
以上のとおりであるから,原判決中,上告人X1ら及び同X7以外のその余の上告人らに関する部分並びに同X7の請求のうち固有の損害の賠償請求に関する部分を除く部分は破棄を免れず,上記破棄部分については,更に審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すべきであるが,上告人X1らの上告は棄却すべきである。
なお,上告人X7の固有の損害の賠償請求に関する上告については,上告受理申立て理由が上告受理の決定において排除されたので,棄却することとする。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 白木勇 裁判官 櫻井龍子 裁判官 金築誠志 裁判官 横田尤孝 裁判官 山浦善樹)