最高裁判所第一小法廷 平成5年(行ツ)202号 判決 1995年7月06日
上告人
与那嶺均
同
河鰭定男
右両名訴訟代理人弁護士
新美隆
小野正典
鈴木宏一
鈴木淳二
被上告人
陸上自衛隊第三二普通科連隊長福山隆
同
陸上自衛隊第二特科群長
竹村洋介
右両名指定代理人
吉岡聖剛
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。
理由
一 上告代理人新美隆、同小野正典、同鈴木宏一、同鈴木淳二の上告理由第二について
被上告人らが各上告人に対してした懲戒免職の処分(以下「本件各処分」という。)は、上告人らが所論の「賭命義務」なるものに違反したことを理由とするものではないから、論旨は採用することができない。
二 同第三について
原審の適法に確定した事実関係の下においては、上告人らが昭和四七年四月二七日に防衛庁正門付近において行った行為は、単なる対外的な宣伝行為にほかならないものというべきである。これと同旨の原審の認定判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。右違法のあることを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は採用することができない。
三 同第四について
自衛隊法(以下「法」という。)四六条の規定は、法第五章第四節の隊員の服務に関する規定を前提として解釈すべきものであることが明らかであるところ、同節の各規定が定める隊員の義務の内容自体は不明確であるとはいえず、社会通念に照らせば、通常の判断能力を有する隊員の理解において、具体的場合に当該行為が同条二号にいう「隊員たるにふさわしくない行為」に当たるか否かはおのずから明らかとなるものということができる。同号の規定が広汎かつ不明確であることを前提とする所論憲法三一条違反の主張は、その前提を欠く。
そして、原審の適法に確定した事実関係によれば、上告人らが昭和四七年四月二七日に防衛庁正門付近において行った行為及び同月二八日に芝公園で開催された「四・二八沖縄返還協定粉砕、自衛隊沖縄派兵阻止、日帝の釣魚台略奪阻止、入管二法粉砕中央総決起集会」において行った行為は、後記四の2に説示するとおりのものであって、隊員としての信用を傷つけ、又は自衛隊の威信を損するものであることは明らかである。これが法四六条二号の定める懲戒事由に当たるとした原審の判断は正当として是認することができる。
論旨は、これと異なる見解に立って原判決を論難するものであって、採用することができない。
四 同第五について
1 憲法二一条の保障する表現の自由は、民主主義社会における重要な基本的人権の一つとして特に尊重されなければならないものであり、これをみだりに制限することは許されないが、表現の自由といえども国民全体の共同の利益を擁護するため必要かつ合理的な制限を受けることは、憲法の許容するところであるというべきである。そして、行政の中立かつ適正な運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、国民全体の共同の利益にほかならないものというべきところ、自衛隊の任務(法三条)及び組織の特性にかんがみると、隊員相互の信頼関係を保持し、厳正な規律の維持を図ることは、自衛隊の任務を適正に遂行するために必要不可欠であり、それによって、国民全体の共同の利益が確保されることになるというべきである。したがって、このような国民全体の利益を守るために、隊員の表現の自由に対して必要かつ合理的な制限を加えることは、憲法二一条の許容するところであるということができる。以上は、当審大法廷判決(最高裁昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁、最高裁昭和六一年(行ツ)第一一号平成四年七月一日大法廷判決・民集四六巻五号四三七頁)の趣旨に徴して明らかである。
2 原審の適法に確定した事実関係によれば、上告人らが昭和四七年四月二七日に防衛庁正門付近において行った行為及び同月二八日に芝公園で開催された「四・二八沖縄返還協定粉砕、自衛隊沖縄派兵阻止、日帝の釣魚台略奪阻止、入管二法粉砕中央総決起集会」において行った行為は、自衛官の制服や官職を利用し、それによる宣伝効果を狙ったものであるとの評価を免れない上、上告人らが不特定多数の者に対して読み上げた要求書及び声明の内容並びにその演説における上告人らの主張は、議会制民主主義の政治過程を経て決定された国の政策につき、「いままさに日本帝国主義が、再びアジア人民への圧迫と殺りくに乗り出さんとしている」「われわれは、もはやこの帝国主義支配者どもの横暴と圧政に、絶対に耐えることはできない」「帝国主義佐藤政府は、われらを侵略と人民弾圧のせん兵とせんがために、四次防と沖縄派兵を必死になって強行しようとしている」などの一方的かつ過激な表現をもって公然と批判するとともに、右政策決定を前提とする上司の命令に服しようとしない態度を明らかにし、あるいは、「自衛隊兵士は、兵営監獄の中で抑圧され、差別され、あらゆる屈従を強いられてきた」などとして自衛隊をひぼう中傷するものであるということができる。自衛官が、その制服や官職を利用し、それによる宣伝効果を狙って、国の政策を公然と批判し、これに従わない態度を明らかにするようなことは、本来政治的中立を保ちつつ一体となって国民全体に奉仕すべき責務を負う自衛隊の内部に深刻な政治的対立を醸成し、そのため職務の能率的で安定した運営が阻害され、ひいては議会制民主主義の政治過程を経て決定された国の政策の遂行にも重大な支障を来すおそれがあるものというべきである。しかも、前記のような表現をもって隊員が自衛隊を公然とひぼう中傷することは、隊員相互の信頼関係を破壊し、自衛隊の規律を乱すものといわざるを得ない。右の弊害を防止するためにこれを懲戒処分の対象とするときは、上告人らの表現の自由が一定の制約を受けることにはなるが、それは、隊員の身分を保有する限りにおいて、その職務を適正に遂行するために課せられた制約にすぎず、右の弊害の重大さと比較すれば、利益の均衡を失するものとはいえない。
そうすると、上告人らの右各行為を懲戒処分の対象として、その表現の自由を制約することは、前記のような国民全体の利益を守るために必要かつ合理的な措置であるということができ、右制約が憲法二一条に違反するものといえないことは、前記各大法廷判決の趣旨に徴して明らかである。これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、論旨は採用することができない。
五 同第六について
原審の適法に確定した事実関係の下においては、被上告人らが自衛隊法施行規則八五条二項に基づいて上告人らの供述の聴取等を行うことなく本件各処分を行ったことに違法の点はないとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。所論は違憲をも主張するが、その実質は単なる法令違背の主張にすぎず、採用することができない。
六 同第七について
隊員につき、法に定められた懲戒事由がある場合に、懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶかは、懲戒権者の裁量にゆだねられているものと解されるところ(昭和四七年(行ツ)第五二号同五二年一二月二〇日第三小法廷判決・民集三一巻七号一一〇一頁参照)、原審が適法に確定した前記四の2記載の事実関係の下においては、被上告人らが各上告人に対してした本件各処分が社会通念上著しく妥当を欠き、裁量権を濫用したものと認めることはできない。これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、論旨は採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官小野幹雄 裁判官大堀誠一 裁判官三好達 裁判官高橋久子 裁判官遠藤光男)
上告代理人新美隆、同小野正典、同鈴木宏一、同鈴木淳二の上告理由
第一、序
日本は、アジア各地に計り知れないほどの被害や苦痛を与えたのみか、数百万の、国民の生命や人生を犠牲にしたうえで「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」して、憲法を確定した。敗戦の結果、日本帝国軍隊は解体させられただけではなく、二度と再び軍隊を保持しないと誓ったのである。この憲法九条に込められた決意は、単なる国内向けのものではなく、日本軍によって悪虐の限りを尽くされたアジア各地の人々にとってみれば、日本の再出立にあたっての最低条件と見なされたものであった。ところが、日本はこの歴史の教訓を我がものとせず、朝鮮戦争の勃発によるマッカーサー指令(一九五〇・七・八)に基づく警察予備隊の設置以降、なし崩しの再軍備を明らかに憲法を無視して押し進めたのである。そして、昨一九九二年には、「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO法)」を成立させ、カンボジアに自衛隊の部隊を派遣するまでに至っている。もはや、軍隊問題は机上の論争ではなく現実の問題として、行き着くところまで来てしまった、と言いうる。
言うまでもなく、軍隊は、物的側面と人的側面があり、兵器・装備・施設等は前者の構成要素であり、軍人(歴史的かつ国際法上、将校、下士官および兵の区別がなされる。)は後者の、それも不可欠の構成要素である。戦後の日本における九条論争は、もっぱら物的側面のみを取り上げ論争がなされてきた嫌いがある。これは、自衛隊をひとつの『もの』と見る視点であって、その構成員を人権主体として見ようとしない思想的欠陥の産物というしかない。もとより、軍の強大な実力の源泉は、軍人の行為によって発現されるのであって、憲法九条が、『陸海空軍』の保持を禁じた意味は、軍人の法的存在を禁じたことに他ならないのである。そして、この軍人の意義は単なる名称の問題ではなくその実質にそくして客観的かつ普遍的に明らかにしうるのである。
上告人らが、第一審の最終準備書面において詳細に論じたように、軍人という法的地位のメルクマールとしては、軍隊規律の存否が最も明確である。すなわち、武器の保有を許されるものには、軍隊と警察があるが、この両者を截然と分けるものは、軍隊規律の有無である。
軍隊規律の特徴的要素はいくつかあり得るが、その確信は賭命義務である。すなわち、軍隊規律とは、人間の根源的な生きる自由、権利を否定することを中心的な要素として成り立つもので、人間が作りだした規律制度のなかで最も野蛮で最悪なものであり、個の尊厳を核とする近代的人権の本来的な敵対物である。軍隊を保有する、ということは、単に軍事物資を保有することに止まらず、人権保障の上で例外的な存在を認めることに他ならない。各国が、軍隊や軍人について憲法事項としているのは、軍制度の維持に伴う基本権の制約の根拠を憲法上明らかにする必要があるからである。
このことは、明治憲法も同様であって、同憲法三二条は、軍人については、憲法の規定よりも軍の法令または紀律が優先することを明示していたのである。
ところが、現憲法は、人権の主体に関し、明治憲法の如き例外規定を置いていないのであるから、なし崩し的な再軍備過程はその人的構成員の基本的人権の問題が提起されるや解決不能の事態に逢着せざるを得なくなるのである。
自衛官の服務規律が一体いかなるものか、自衛官がどのような法的状態に置かれているか、についてこれまで真正面から判断した判決例は存在していない。
新潟地裁昭和五六年三月二七日のいわゆる反戦自衛官事件差戻後第一審判決が、「隊員は、自衛隊法によりいわゆる労働三権が全て否定され、刑罰をもって団体の結成、争議行為等が禁止されているのみならず、個々の服務規律違反に対しても刑罰による制裁が種々規定されており、一般の公務員とは隔絶した法的地位に置かれているところ、これらの諸規定の合憲性についてはさておくとしても」(判例時報一〇〇二号七一頁)と述べて、自衛官の服務規律についての懐疑的関心を表明しているのが、わずかな先例に過ぎない。
政府は、かって、戦車を「特車」と言い換えたのをはじめ、軍隊的色彩を隠蔽するために用語方法に工夫をこらして来たが、こと人権問題については最早や言い逃れやゴマカシは通じないことを知るべきである。本件で問われているものは二〇年前の出来事ではなく、現在ますます現実味を帯びてきた、自衛隊の根本に係わる問題であるばかりか、将来の日本のあり方にも係わる問題である。本来ならば、その憲法上の問題を明確に提示し、主権者の判断を仰ぐのが政府の責務である。にもかかわらず姑息な政府の対応を許して来たことについては、司法もその責任がある。軍事的事項についての無関心、政府に対する追従的態度は、本件第一審判決および原判決にも見られるとおりであり、最終審たる最高裁判所が果たすべき責務は重大である。
第二、原判決の、自衛隊法五二条についての上告人らの主張に対する判断は、憲法九条、一三条、三一条に違反する。
一、原判決の自衛隊法五二条の服務の本旨についての判断
上告人らは、第一審最終準備書面第四「憲法の人権保障と自衛隊員の地位」の項で、軍隊規律の違憲性を詳細に論じ、被上告人らが、上告人らの本件行為を目して「隊員たるにふさわしくない行為」とする理由として主張する自衛隊法第五章第四節の諸規定が、ほかならぬ軍隊規律を定めたものか、あるいは、これを支え維持するための不可分一体の規定であり、違憲無効であって、本件処分の法的根拠とはなしえないことを主張した。これに対して、第一審判決は、上告人らの法的主張すら無視し、「本件では……『隊員たるにふさわしくない行為のあった場合』に当たるかどうかが問題となっているのであって、原告ら主張のような賭命義務や刑罰の制裁が問題となっている訳ではないし、いわんや、賭命義務や刑罰の制裁を定めた部分の合憲性が肯定されない限りは『隊員たるにふさわしくない行為のあった場合』の意義を解明することが不可能であるともいえないから」として上告人らの主張はその前提において失当とした。これは、明らかに判断逸脱の違法を犯したものであり、原判決は、この上告人らの主張に答えざるを得なくなったものである。このように、上告人らの主張は、憲法九条の『軍』の歴史的普遍性を有するメルクマールとして軍隊規律の存在を導き出した上で、この軍隊規律が自衛隊法五二条に集約的に表現されていると主張しているのであるから論理上当然に、原審裁判所としては、まず主体的に憲法九条によって禁じられている軍隊規律の定義、内容について自己の判断を示すべきなのである。そうでなければ、原判決が、「自衛隊がその任務からみて、隊員の職務の遂行に当たって生命、身体の危険が伴うことが多いことに鑑み、基本的な服務規律としてこれが法律に定められたものと解するのが相当であって、この定めをもって軍隊規律であり、自衛隊が軍隊組織であることを表すものであるとの控訴人らの主張は、当裁判所の採るところでない。」と述べたところで、上告人らの主張に対しては、何ら判断をした態にもなっていないのである。事物についての客観的知見を示さないまま、「そのように解さない」というのみでは、裁判の判決理由にはならないのである。軍隊規律の主張に関しては、原判決は、実質的に判断をい脱したものといわざるを得ない。
原判決は、右引用した如く、自衛隊法五二条の服務の本旨についての文言に対し、裁判所にはあるまじき程、無警戒、無頓着の姿勢を露にしている。一九五六年のドイツ兵士法(Soldaten-gesetz)七条が、兵士の義務として「ドイツ連邦共和国に忠実に仕え、ドイツ人の権利と自由を勇敢に防衛する(tapfer zu verteidigen)」と規定し、自己の身体的な危険への恐れがある場合にも、義務の遂行を免れることができないと解釈されて、他の公務員には見られない兵士特有の義務とされている例をとっても右五二条の文言の特異性は十分窺うことが出来るのである。
また、右条文の立法経過からもその意義は推し量ることが可能である。現在の防衛二法の成立は、歴史的事実として、一九五三年九月の吉田・重光会談の覚書に由来し、自由党・改進党および日本自由党の三党折衝の結果、保安庁内局との間で法案作りが進められ法案に至ったのであるが、特に自衛軍創設を主張する改進党の影響が大きかったことが明らかである。改進党は自衛軍基本要綱に掲げた「自衛軍の精神」を「自衛隊の精神」と直して「自衛隊法案要綱」に盛り込んだが、これが最終的に「服務の本旨」と変更されたのである。そして、当初の案文には無かったものは「人格を尊重し」の部分と、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め」の二ケ所である。前者の「人格を尊重し」は、旧日本軍隊で行われた私的制裁を禁止する趣旨のものであったのである(国防一九七八年八月、宮崎弘毅 防衛法シリーズ(17))後者は、法案審議の最終段階で挿入されたものであるが、その意義を直接明らかにするものは未見であるが、法案審議の過程で、自衛隊が戦場において防衛任務を遂行するためには部隊の強固な団結と峻厳な規律の維持が必要であり、自衛隊の隊員に特別な服務義務を課しこれを裏付けるため義務違反に対し重い刑罰を設けるべきであるという強い主張があり、第一次案における敵前においては一〇年以下の刑罰もまだ不十分ではないかとの説も出て、生命の危険のない一般の公務員との均衡を配慮する第一幕僚長等の反対で落ちついた経過(前掲宮崎シリーズ(18))に照らせば罰則強化の論議の反映と見るのが自然であろう。右第一幕僚監部は、法案審議の過程で、部隊の指揮監督に「統率」なる旧軍の用語を用い、一般の行政事務の指揮監督と本質を異にすることを明らかにすべきだと主張して、「部隊の組織法律案要綱」の提案までしている。この「要綱説明」では、「……部隊は組織的団体としての防衛という行動及び出動時における国内法規外の権限行使又は部隊に属する自衛官の服務に対する刑罰の強化等、他の行政機関とは著しい差があるばかりでなく、上官の命令によって部下を死にさらし、部隊は生命の危険を予期して行動するのであって、この場合の指揮命令は、国の行政作用の一部であるが、一般の行政事務の指揮監督とはその本質を異にする」(前掲宮崎シリーズ(6))と述べられる如く、自衛官の賭命義務は当然の前提とされ部隊の特性が主張されているのである。自衛隊法関係解説書が、異口同音に述べるように、自衛隊法五二条の規定は、公務員法の規定とは全く内容が異なるのであり、このような他と際立った規定の必要は「隊員は、その行動において必然的に生命の危険をともなう。」(西修、口語防衛法二八一頁)点に求めざるを得ないのである。旧軍の私的制裁をわざわざ挿入して民主化しようとした服務規律とは正しく軍隊規律以外の何者でもないのである。「当裁判所の採るところでない。」などと無関心を装うことがいかに無責任な姿勢であることか。原判決は、痛苦な歴史の反省に立って放棄した軍隊の服務規律として独自の制度たる軍隊規律の意義を解さず、憲法九条の解釈を誤ったものである。
二、原判決の賭命義務についての判断
原判決は、判決書一〇丁裏において、何か読み手の方が倒錯するかのような、誠に特異な論述を展開している。ここには、個の尊厳を基本的人権とし、わけても人間の生命の尊貴さを何にも優る至上価値とする裁判所としての当然の人権感覚が見いだせない。
1 原判決は、「法律関係を形成することを職務とする職員とは異なり、主として事実行為を職務とする職員の場合、その職務の遂行が場合によっては生命、身体の危険を伴うこともあり得るのであって、そのような場合に生命、身体の危険があるかもしれないからといって職務遂行義務がなくなるというのでは、その任務と矛盾することになるから、『事に臨んでは危険を顧みず』職務を行うべき旨の基本的な服務規律が定められること自体を違憲、違法視するのは相当でない。」と断言する。しかし、ここで問われているのは、職務遂行のためには生命すら投げ出せと法的に義務付けることの当否であって、精神訓話の類のことではない筈である。一般の法常識に照らせば、軍人以外の職務において生命、身体の危険が差し迫ったものとなれば職務遂行義務がなくなると解するのが普通である。車両の運転を職務とする職員は、デスクワークの職員に比べれば、車の運転という職務遂行中、ある意味では不断に危険に晒されている、と言ってよい。車の運転行為をもって危険と考えてしまえば職務は遂行できなくなるから、車の運転という職務についてはそれだけのことで職務遂行義務がなくなることはない。しかし、具体的な状況下で生命、身体の危険が予測され十分な安全確保の措置が講ぜられなければ、にもかかわらず職務としての運転行為を法的に義務付けられることは決してないのである。もし、生命、身体の犠牲を甘受せよとの法的な義務付けがなされるのであれば、その法的な効力は憲法一三条、三一条に照らしても到底認められないのである。
就業に伴う危険性と労務指揮権について、いわゆる千代田丸事件についての最高裁判決(昭和四三年一二月四日民集二二巻一三号三〇五〇頁)は、「李ライン」内海域の海底線故障地点への、布設船千代田丸の出航に伴って生ずべき危険と労務指揮の関係について次のとおり判示した。
「かような危険は、労使の双方がいかに万全の配慮をしたとしても、なお避け難い軍事上のものであって、海底線布設船たる千代田丸乗組員の本来予想すべき海上作業に伴う危険の類いではなく、また、その危険の度合いが必ずしも大でないとしても、なお、労働契約の当事者たる千代田丸乗組員において、その意に反して義務の強制を余儀なくされるものとは断じ難いところである。」
右判例解説(昭和四三年度(下)一四六四頁)の執筆者は、「判文全体から滲み出る人権尊重の感覚」と評しているが、この評は「危険」についての法的評価に向けられたものであって、労使間の努力では回避出来ない危険が存在する場合には労働契約上の職務遂行義務がなくなるとの法的構成には異論はないのである。生命、身体の危険についてそれを回避すべき労働者側の善管注意義務や使用者の予防措置が論ぜられこそすれ、『事に臨んでは危険を顧みず』などという義務が現代の人権法秩序のもとで論じなければならないとすれば事態はまことに異常といわざるを得ないのである。右最高裁判例は、民間労働関係と公務員関係に共通するものであって、原判決の本件判示はこの判例に反するばかりか、その法的感覚すら疑うべきものといわざるを得ない。
原判決のいう、「生命、身体の危険があるかもしれないからといって職務遂行義務がなくなるというのでは、その任務と矛盾することになる」任務があるとすれば、それこそが軍人の任務というべきものであって、軍人にあってのみ「賭命義務」と「職務遂行義務」が併存するのである。原判決は、歴史的にも比較法的にも明らかな軍人に特有な義務を驚いたことに、「ひとり公務員に限らず、民間の職員にもあり得ることであり、こうした服務規律が有用なものであることは否定できない」、「一般にこうした基本的な服務規律が有用かつ必要な準則であることはごく常識的に考えて理解できるところである。」などとまで言い放っている。『事に臨んでは危険を顧みず』なる服務規律が社会一般において有用とか必要などと言うに至っては、上告人らの主張すら理解していない判断と言わざるを得ず、主張に対する合理的な理由を示していない、というべきである。
原判決は、あるいは警察官や消防職員の職務遂行のイメージを念頭においたのかもしれない。念のために、この点についてもふれるならば、いずれについても自衛隊法五二条の如き、賭命義務を表現するような服務規律は存在せず、また『事に臨んでは危険を顧みず』職務を行うべき服務規律は認められるべくもないのである。たとえば、消防団員であっても、消火作業中に自己の生命の危険が生じるような場合には、他人の財産を破壊してでも生命を守ることが許されるのである(団藤重光 刑法綱要一七六頁)。
2 原判決は、上告人らの主張する賭命義務を個人の人権にかかわるような重大事とは見ずに、単なる心の保ち方の如くに考えているのかもしれない。このような信念で、例えば自衛隊法五二条を見れば、その内容は、それ自体としては日常生活のなかで評価されてきた伝統的美徳のら列に過ぎないように見えるかもしれない。このような感覚は、かつての軍紀の根本を定めたとされる軍人勅論を旧軍の実態と切り離して、それ自体は立派な徳目として現代にも適用されるべきだと主張する一部の人々に通じるものがある。しかし、武装した集団においてこの美徳が語られるとき、そしてそれが賭命義務を中心にして規律として定められると、戦争の破壊的組織の道具になり、人間を邪悪な権威組織に結び付ける特性になることについて我々は知らない振りをしてはならない。五二条の如き服務規律の規定がなぜ必要なのかを探り、その意味をあきらかにするのが司法の役割であって、バラバラのままの言葉として聞き流すような態度では、なんら法規を解釈したことにすらならないのである。原判決は、被上告人らのためにする主張に影響されてか、「本件で問題とされているのは、控訴人らが『事に臨んで』規律に違反したということではないのであるから、控訴人らの主張する点についてこれ以上に判断する必要はなく」などと述べている。規律は、自衛隊に固有な独自のものであり、これをバラバラにわけて論じうるなどとは自衛隊関係者は夢にも考えておらず、これを常識的で分かりやすい徳目の羅列と解するのは、訴訟対策上の主張にすぎないのである。原判決のような素朴さで言えば、ならば『事に臨んだ』場合にのみ自衛官は集まればよいことになってしまう。制度化された武装組織はいずれの場合にも、日常『事に臨んだ』場合を常に想定して規律の維持を図っているのであり、市民社会のような有事、平時の区別は軍の規律にはないのである。原判決は、一つの目的や機能を有する実体としての服務規律――賭命義務を中心とした――の存在すら見誤っている、と言わざるを得ない。
第三、請願権の行使についての原判決の判断は、憲法一六条に違反する。
原判決は、第一審判決の理由中、「真面目に政策の変更や新たな施策の実施を求めるものとはいえない」とした点を、「冷静に政策の変更や新たな施策の実施を求めてする意見の表明とはいえない」と変更したほかは、すべて第一審の判決を肯認した。
しかしながら、上告人らの要求書や声明の内容は、後に述べるように自衛隊に対する誹謗中傷ではないし、自衛官の組織や職務と相容れないものでない。また、冷静に政策の変更や新たな施策の実施を求める意見の表明であることを否定する何の根拠もない。
上告人らが報道関係者を含む不特定多数の者を前にしていようとも、また制服を着用して要求書を読み上げ、要求書と声明を手交しようとも、そのこと自体、なんら請願法に定める手続に反するものではない。
上告人らは物理的な暴力に及んだこともなく、平穏に請願行為を行なっているのであり、政務次官は防衛庁内にいたにもかかわらず、上告人らとの面会を拒否したがために、正門前での読み上げ、手交に至ったものである。
上告人らの行為が、制服及び官職を利用した対外的な宣伝行為ないし演出(一審判決五四頁)であるとする根拠は何も示されていないし、また仮に、結果的に上告人らの行為が宣伝と評価されたとしても、請願をするにあたって、報道関係者等にその事実を告知し、請願の事実を広く社会に知らしめることは、なんら非難されるべきものではなく、むしろ当然のこととさえいえるのであって、それが故に請願行為であることを否定されるいわれはない。
したがって、上告人らの行為が請願権の行使であることを否定し、かかる行為を懲戒免職処分の理由としたことを容認した原判決は、請願をしたことによる差別待遇を禁止した憲法一六条に違反している。
第四、原判決の自衛隊法四六条二号についての判断は、憲法三一条に違反する。
一、原判決の判断
本件懲戒処分は、上告人らの行為が自衛隊法四六条二号の「隊員たるにふさわしくない行為」に該当するものとしてなされたが、上告人らは、第一審以来、「隊員たるにふさわしくない行為」の定義・範囲を明らかにするよう被上告人らに繰返し求めたが、被上告人らは、結局のところそれを明らかにすることはできず、「これらの行為の内容、範囲等については結局、具体的事例の集積によるほかない」と言わざるを得なかった。
第一審判決は、法四六条二号の規定について、「人間たるにふさわしくない行為のあった場合」とか「紳士たるにふさわしくない行為のあった場合」などという漠然としたものでなく、「隊員たるにふさわしくない行為のあった場合」だから、法の規定、服務の本旨、義務の内容を見ればその意義、内容が明らかになるとして、法五二条、五八条一項の規定を掲げ、上告人らの行為は、自衛官の服務の本旨に背いており、同号に該当することは通常の判断能力を有する一般人の立場からも容易に理解することができると判示し(第一審判決五四ないし五八頁)、原判決は、これをそのまま肯認した。
しかしながら、右判示は、自衛隊法の右規定が、他の公務員法制に比しても、あまりにも漠然とし、広範囲な規定となっていることをあえて無視したものである。
二、広汎で漠然とした規定
1 第一審裁判所は、第六回口頭弁論における釈明命令において「自衛隊法第四六条二号に言う『隊員たるにふさわしくない行為』の定義・範囲は本件訴訟を今後追行するための重要な事項となると考えられるところ、右行為は極めて抽象的な価値概念(国公法八二条、地公法二九条、裁判官弾劾法二条、弁護士法五六条ではいずれも『行為』ではなく『非行』と規定されている)である。」と指摘した。
にもかかわらず、第一審判決及び原判決は、自ら指摘した右のような問題の所在から目をそむけ、「人間たるにふさわしくない行為」であるとか「紳士たるにふさわしくない行為」などと、およそ非法律的な概念を対置することによって、あたかもその不明確性が払拭されるかのように判示した。
しかしながら、右の如き対比は、かえって、自衛隊法四六条二号の規定が、他の公務員法制に比して、より広汎で漠然としていることを浮き彫りにするに至ったといえるのであり、「隊員たるにふさわしくない行為」なる概念も「人間たるにふさわしくない行為」や「紳士たるにふさわしくない行為」も基本的には、その概念が広汎で不明確であることにおいて変りないと言わざるを得ない。
2 国家公務員法八二条三号は「国民全体の奉仕者たるにふさわしくない非行のあった場合」を、地方公務員法二九条一項三号は「全体の奉仕者たるにふさわしくない非行のあった場合」を、それぞれ懲戒理由として定めており、決して「全体の奉仕者たるにふさわしくない行為」とされているわけではない。
これらの規定は、その文言自体から、おのずと、その範囲、内容が明らかとされているが、自衛隊法四六条二号の規定は、その文言自体からは、明らかでなく、はなはだ漠然不明確な規定なのである。
これに対して、自衛隊法四六条一号、三号の規定は、いずれも具体的な義務違反、義務懈怠、法律違反、および命令違反であってその概念は明確であると言えよう。
3 原判決は、自衛隊法五二条、五六条、五八条一項の定めに反する行為で、法四六条一号に該当する行為を除く行為が法四六条二号に当るとするかの如くである。
しかしながら、法五二条、五六条、五八条一項に該当する行為は、法四六条一号あるいは三号に該当する行為というべきであって、結局のところ、法四六条二号に該当する行為がいかなるものであるかは、何も明らかとされていないのであり、およそ、隊員の勤務内外のすべての行為が適用対象とされ、その運用が極めて恣意的になされることを許容した規定というほかはないのである。
隊員の服務の内容について、自衛隊法のみならず、自衛隊法施行規則五七条や、隊員の分限、服務等に関する訓令(防衛庁訓令昭和三〇年第五九号)一〇条、および陸上自衛隊服務規則等の定めがありながら、それらの規定が「隊員たるにふさわしくない行為」概念の明確化に何ら資するところもなく、第一審における被上告人らの主張においても、法四六条二号の規定は、右の諸規定の内容より遥かに拡大された概念として述べられている。
第一審における被上告人の主張は、国家公務員法の規定との関連について、「『隊員たるにふさわしくない行為』は国公法八二条三号の『国民全体の奉仕者たるにふさわしくない非行』を含み、さらにそれより広い概念であるということができる。
すなわち、自衛隊員は任務の特殊性から、一般職の国家公務員に比し、より厳正な服務規律が要求され、その反面として、いわゆる『非行』の観念に該当しない行為であっても、服務の本旨からみてなお『隊員たるにふさわしくない行為』と判断される場合があり得るのである。」というものであった(第一審被告第三準備書面七〜八頁)。
また被上告人は、「『隊員たるにふさわしくない行為』の内容を具体的に説明することは困難である」とみずから認めつつ「『隊員たるにふさわしくない行為』を、さらに別の角度から説明するならば、『隊員たるにふさわしくない行為』の主たるものは、自衛隊法五四条ないし六四条に違反する行為のうち『職務上の義務に違反し、又は職務を怠った場合』に該当するものを除いたものであるということができる。
したがって、『隊員たるにふさわしくない行為』は、職務に関連する行為だけでなく、職務外の行為をも含むものである(例えば自衛隊法五八条一項違反の行為)。そして、自衛隊法五四条ないし六四条は服務に関する規定であるから、それらの規定に違反する行為は当然に自衛隊の秩序を乱す行為であるということができる。
次に、自衛隊法五四条ないし六四条の服務に関する個別的な義務規定に違反するとまではいえない行為であっても、なお同法五二条の服務の本旨からみて『隊員たるにふさわしくない行為』と判断されるものがあり得る。
例えば、自衛隊の使命を自覚しない行為、隊員の一致団結、厳正な規律を損なう行為などが考えられるが、これらの行為の内容、範囲等については、結局、具体的事例の集積によるほかない」としたのである(第一審被告第三準備書面八〜一〇頁)。
このような被上告人の主張からも、おのずと明らかなように、法四六条二号の規定は、自衛隊の服務の特殊性、厳格性を貫くために、およそすべての行為に網をかけることを目的としたものであり、その運用を自衛隊に委ねることによって、軍隊としての規律を維持せんとしたのであって、だからこそ、国家公務員法等の如くに「非行」としての限定がないのである。
したがって、かかる法規は、漠然、不明確であり、広汎な行為を恣意的に規制するものであるが故に、憲法三一条に違反するものであることは明らかである。
三、最高裁判例に違反する原判決の判断
最高裁判所は、関税定率法二一条一項三号の「公安又は風俗を害すべき書籍、図画」という文言について限定解釈をして、その合憲性を肯定したが、そのなかで「表現の自由は、前述のとおり、憲法の保障する基本的人権の中でも特に重要視されるべきものであって、法律をもって表現の自由を規制するについては、基準の広汎、不明確の故に当該規制が本来憲法上許容されるべき表現にまで及ぼされて表現の自由が不当に制限されるという結果を招くことがないように配慮する必要があり、事前規制的なものについては特に然りというべきである。法律の解釈、特にその規定の文言を限定して解釈する場合においても、その要請は異なるところがない。したがって表現の自由を規制する法律の規定について限定解釈をすることが許されるのは、その解釈により、規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制し得るもののみが規制の対象となることが明らかにされる場合でなければならず、また、一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるものでなければならない(最高裁昭和四八年(あ)第九一〇号同五〇年九月一〇日大法廷判決・刑集二九巻八号四八九頁参照)。けだし、かかる制約を付さないとすれば、規制の基準が不明確であるかあるいは広汎に失するため、表現の自由が不当に制限されることとなるばかりでなく、国民がその規定の適用を恐れて本来自由に行い得る表現行為までも差し控えるという効果を生むこととなるからである。」と判示した(最大判昭和五九年一二月一二日民集三八巻一二号一三〇八頁)。
被上告人らの本件行為が、表現の自由に関わるものであることは、原判決も認めるところであり、法四六条二号が表現の自由を規制するものとして適用されていることは明らかである。
そして、右の最高裁判示にしたがっても、自衛隊法四六条二号の規定からは、自衛官がいかなる行為が制限され、いかなる行為が制限されないかを、読み取ることができないのであり、およそありとあらゆる自衛官の表現行為が対象とされていると言わざるを得ず、かかる規定については、これを限定解釈する余地のないものであって、その合憲性を肯定した原判決は、最高裁の判例に違反するものである。
四、自衛隊法四六条二号の限定解釈
仮に、法四六条二号の規定を右最高裁判例のように限定解釈することによって合憲たりうるとしても、被上告人に対する右規定の適用は違憲とならざるを得ない。
本規定の基準を明確にするためには、他の公務員法制と同様に「隊員たるにふさわしくない非行のあった場合」と限定解釈するほかはなく、かかる場合にのみ適用されるとして初めて、本規定が憲法に適合するといえるのである。
そうだとすると、被上告人らの本件行為が、いずれも「非行」とされるべきものでないことは、本件においては争いのない事実である。
したがって、被上告人らの行為は、法四六条二号に該当しないというほかはなく、結局のところ、同号を適用した本件懲戒処分は、取消を免れないのである。
第五、原判決の表現の自由についての判断は、憲法二一条に違反する。
一、原判決の判断
1 原判決は、第一審判決の理由をほぼ肯認したうえで、「自衛隊の沖縄配備や立川基地移駐が決定されるに至った経緯に照らし、控訴人らの要求書や声明の表現には事実を歪曲しまたは誇張する部分が含まれているものとされても止むを得ないものであって、誠実かつ冷静な意見の表明とは認め難い。また、差別廃止等の要求が控訴人らの切実な願いであるとしても、要求書全体の文言および要求の手段方法からみて、これまた、真摯でかつ誠実な要求とは認め難い。しかも、意見表明や要求自体の正当性とは別に、その手段方法の相当性が問題とされるのも止むを得ないところである。」と判示する(原判決八丁)。
すくなくとも、原判決は第一審判決とは異なり、上告人らの要求書や声明の表現が、「著しく歪曲しまたは誇張した事実を前提にし」たものとは決めつけていないのであって、上告人らの主張には一定の根拠のあることを認めたと評することができる。
すなわち原判決は、「事実を歪曲し又は誇張する部分が含まれているものとされても止むを得ない」として、事実の歪曲や誇張があるか否かは別として、そのような部分を含まれていると、他から見られても仕方のない表現であったと認定しているのであり、それゆえに、かかる表現は「誠実かつ冷静な意見の表明とは認め難い」というのである。
さらに原判決は、一方で、差別廃止等の要求が、要求書の文言や手段方法からみて、真摯でかつ誠実な要求とは認め難いと判示しながら、他方、これらの要求が「控訴人らの切実な願いであるとしても」とも判示して、ここでも、上告人らの要求にもそれなりに根拠のあることを認めていると言えるのである。
原判決は、要するに、上告人らの表現は、「単なる意見の表明というには過激にすぎる」「節度を欠く」「根拠に不足する断言」「上司の命に服しようとしない態度は明白」であり、「止むにやまれぬ心中を吐露したというにはあまりにも乱暴なもの言いで」であり(原判決一一丁裏、一二丁表)、「無理難題を持ちかけるものと見られても止むを得ない」として(同一二丁裏)、上告人らの表現の仕方や、表現の手段方法を主要に問題にしている。
2 しかしながら、もともと、表現行為は、他人に訴えかけ、アピールする意思を含むものであるから、程度の差はあれ、他人の心情を動かそうと働きかける文言が使用されることは、ごくあたりまえのことである。
原判決の判示は、上告人らの表現行為が「誠実かつ冷静な意見の表明」ではないというが、表現が「冷静」でなければ許さないなどということはなく、例えば公務員労働組合の種々の集会等における発言者の発言が「冷静」でない場合は多々あろうし、「冷静」でないからといって、その公務員の発言が許容されないなどということはあり得ない。
そして、後に述べるように、上告人らの表現内容は、いずれも歴史的、実態的な背景を踏まえた極めて誠実なものであって、意見の表明として激しいものが含まれているとしても、そのことによってその意見の表明が許されなくなるものでもない。
同様に、節度を欠くとか、止むにやまれぬ心中を吐露したというにはあまりにも乱暴なもの言い、との判示も、それ自体、主観的、感情的な評価にすぎない。たとえば、止むにやまれぬ心中を吐露したものであれば、その表現が勢い乱暴になりがちなことは往々にして見られることであって、乱暴な物言いだから、止むにやまれぬ心中を吐露したものでないとは言えない。
つまるところ、原判決の判示は、一つの主観的な感覚を示したにすぎないのであって、どうにでも言い得ることを、一方的な感覚で裁断しているにすぎず、いやしくも裁判所が表現の自由を論ずるときに示すべき態度ではない。
また、原判決は、上告人らの要求が「切実な願い」であるとしても、「真摯でかつ誠実な要求とは認め難い」というが、右判示は、それ自体、矛盾しているというべきであって、上告人らの願いが切実なものであるならば、その要求は「真摯でかつ誠実」なものであることは明らかである。
二、上告人らの表現の正当性
1 上告人らの要求や意見が、事実の歪曲や誇張があるとされても止むを得ないとか、根拠に不足する断言であるとする原判決の判断は、歴史的事実や、自衛隊の置かれている状況、自衛官の生活実態、被上告人らの認識からして、それ自体事実を誤認したものと言わざるを得ない。
上告人らの表現内容は、自衛隊の立川移駐、沖縄配備の歴史的事実に照らして、まことに正当なものである。
2 政府・防衛庁の自衛隊立川基地移駐決定の強行は、地元住民の強い反発を招き、七一年八月に行われた立川市長選では、基地撤去と自衛隊使用反対をかかげて立った阿部行蔵氏が自民党候補を大差で破って当選し、市議会も一〇月一三日、自民党議員も含めて満場一致で、自衛隊移駐に反対の意見書を採択(甲九号証一五頁)、立川市に続いて昭島、武蔵野、小平、日野、国立などの十一市の議会が移駐反対の決議をしている。
自衛隊立川移駐は、市民、自治体あげての反対にさらされていたのであり、さらに一旦は話し合いによる解決を約束した当時の江崎防衛庁長官がこれを反古にして、一九七二年三月七日夜、抜き打ち強行移駐を行った。
この強行移駐に対しては、文字どおり国民各層からこぞって激しい抗議行動がなされた。
新聞の論調も市民の声を無視した移駐であったことを報道する姿勢を明確に示し(甲一七号証の一〜一〇)、国会においても、衆議院予算委員会で、立川強行移駐が国民を無視したものと、厳しく追及がなされている(甲一八号証)。
上告人らの行動は、こうした激しく大きな動きの中で行われたことに注意する必要がある。上告人らの行為の正当性は、市民、労働者のみならず、地方自治体、国会議員に至る幅広い反対運動によって明白に裏付けられているのである。
その後も、市民団体、職員組合などの反対運動が展開され、立川市議会は一九七二年一二月一三日「自衛隊移駐断念、立川基地を全面返還」との意見書を決議し、さらに本隊が移駐した直後である同月二七日には「立川市議会は、市民の意見を無視した強行移駐に対し断固抗議いたします。防衛庁は自衛隊を即時撤退させ、立川基地を全面返還されるよう、茲に強く要求するものであります。」との意見書を採択している(甲一五号証)。
右の如き事実経過をみれば、上告人らの行為が「事実を歪曲しまたは誇張する部分が含まれているものとされても止むを得ないもの」と評価することはできないのである。
3 このことは自衛隊の沖縄配備についても同様である。
沖縄戦においては、多数の沖縄住民が日本軍によって集団自決に追い込まれたり、スパイと称して虐殺され、日本軍は日本本土を守るために沖縄住民を盾代わりとしたのである。
沖縄住民は、このような歴史的体験をふまえて、沖縄には、軍隊はいらない、自衛隊は軍隊であるとして、琉球政府主席を初めとして、多くの市町村が自衛隊の沖縄配備に反対し、自衛隊員の募集にも反対していた。
沖縄の代表的新聞である沖縄タイムスは一九七一年七月四日の社説の中で「自衛隊の沖縄配備に反対するのは、革新だけの専売特許であってよいかということであろう。日米共同声明いらい、着々と進められてきた本土政府のいわゆる専守防衛論は、第四次防衛計画とあわせて国民注視のマトとなっている。六月二九日合意をみた日米安保協議委におけるとりきめ、すなわち『日本国による沖縄局地防衛の引き受け……』は、沖縄にとっては重大関心事に値する。自衛隊の配備を警戒し、これに反対する住民の気持ちは純粋であり、かつ自然の成り行きだといえる。くりかえすようだが革新・保守の区別を問わず、この重大事態に全住民が最大の関心をはらうことは当然で、これを異とするところに沖縄への無理解、あるいは歪曲がある。」と述べている。
そして、アメリカ軍が、ベトナムでの戦闘行動を継続しながら撤退しつつあった状況のなかで、自衛隊が沖縄に派兵されることは、アジア地域におけるアメリカの軍事戦略のなかで、アメリカの役割を肩代りせんとするものであり、第二次大戦において日本軍がアジアで、圧迫と殺戮を行なったことを再現するものと指摘することは、自衛隊を誹謗するものでも、事実を歪曲し、誇張するものでもないのである。
4 自衛官の置かれた状況をみても、下級自衛官は、自由な外出を禁じられ、起床から就寝に至るまで生活のすべてを管理下に置かれて、預金通帳や印鑑までも強制的に保管され、所持品、手紙、本などの点検、思想調査、思想教育のなかでがんじがらめの生活を余儀なくされ、およそ人間的な生活が否定されているのである。
憲法に保障されている集会、結社、言論、出版の自由、居住移転の自由、検閲禁止、団結権などすべての人権を奪われ、選挙権の行使もままならない状況を、上告人らはそのまま率直に表現したにすぎないのである。
自衛官の人権状況は、まさしく人間であることを否定され、物を考えない一つの歯車となることを処罰、体罰をもって強制するものである。
かかる状況のなかで上告人らが求めた「要求」は、例えば、命令拒否権の確立であり、差別の廃止であり、勤務時間外のあらゆる拘束の廃止であって、いずれも人間としての根源的な要求に過ぎない。
命令拒否権の確立は、軍隊にあっても容認されるものであり、上官の違法な命令に服従しても、その自衛官が免責されるものでないことは、明らかであり、違法・不当な命令を拒否する権利、その手続きを確定することは、軍隊規律の中においても認められるべきものなのである。
また差別の廃止も、営内居住その他の条件等に関して下級自衛官に将校団と理由のない差別をつけることのないよう求めることは、むしろ当然のことである。
勤務時間外のいわれのない拘束を廃止することも、一般市民として享受すべき当然の要求である。
市民社会においてごくあたりまえのかかる要求すらもが、自衛隊の組織を否定し、自衛官の職務と相容れないことが明らかなものであるとすれば、かかる組織の存在こそが厳憲法と相容れないものなのである。
したがって、上告人らの表現行為が、自衛官としての行為として非難されるべきものということは、そもそもできないのである。
三、表現の自由の侵害
1 原判決は、公務員の地位にある者の発言は無制約ではなく、「公務員である以上、正確な事実に基づき、客観的かつ冷静に意見を表明すべきことは当然であり、公務の内外を問わず、公務及び公務員に対する国民の信頼を損なう発言を慎むべきことは法令の定めをまつまでもなく自明のこと」であるとし、公務員の表現の自由に制約が伴うことは、「止むを得ない制約、すなわち必要かつ合理的な制約というべきである」と判示する(原判決一三丁)。
しかし、原判決のいう「公務及び公務員に対する国民の信頼を損なう」か否かは、それ自体、一定の基準があるわけではなく、かかる基準によっていかなる発言が制約され得るとするのか、はなはだ漠然としており、また、国民各層によって様々な価値観があり、一義的に決めることはできない。
原判決は、「難しい法律論をするまでもなく、ごく常識的に見て、多くの国民にとって容易に理解し得るところであるというべきであろう」というが、原判決が、公務員の表現の自由の制約根拠として示したものは、原判決も自認するように、「法律論」ではない。
原判決のように、ただ「国民の信頼」というだけでは、公務員の表現の自由が、いかなる場合に、どの程度の表現が、どのように制約されてもよいのか、何も言っていないのと同じである。
かつて、基本権制限の根拠として「公共の福祉」という概念が用いられていたが、原判決の判断は、つまるところ、歴史的遺物である「公共の福祉」による一般的・包括的制約を許容する考え方にほかならない。
かかる判示は、それこそ、「難しい法律論をするまでもなく」否定されるべきなのである。
2 最高裁判所が、原判決の如き判断基準を有していないことは、いまさら言うまでもない。
本件における上告人らの行為は、純然たる表現行為であり、かつ、いずれも公共的事項に関する表現行為であることは疑いないところであるが、最高裁判所は、出版の事前差止に関する事案において、「主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、そのなかから自由な意思をもって自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基盤としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法二一条一項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される」と判示し(最高裁判決昭和六一年六日一一日民集四〇巻四号八七二頁)、優越的地位を占める表現の自由の中でも公共的事項に関する表現の自由を特に重視ざれるべきことを明言している。
3 さらに、未決勾留により拘禁されている者の新聞紙、図書等の閲読の自由を制限する措置に関して、最高裁判所は、「これ(未決勾留)により拘禁されるものは、当該拘禁関係に伴う制約の範囲外においては、原則として一般市民としての自由を保障されるべき者であるから、監獄内の規律及び秩序の維持のためにこれら被拘禁者の新聞紙、図書等の閲読の自由を制限する場合においても、それは、右の目的を達するために真に必要と認められる限度にとどめられるべきものである。したがって、右の制限が許されるためには、当該閲読を許されることにより右の規律及び秩序が害される一般的、抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、被拘禁者の性向、行状、監獄内の管理、保安の状況、当該新聞紙、図書等の内容その他の具体的事情のもとにおいて、その閲読を許すことにより監獄内の規律及び秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性のあると認められることが必要であり、かつ、その場合においても、右の制限の程度は、右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきものと解するのが相当である」として、制限が許される場合の基準に言及している(昭和五八年六月二二日民集三七巻五号七九三頁)。
右のように設定された基準自体が、本件における自衛官の表現の自由の制限の基準になり得るか否かは別としても、ここで示された考え方は、少なくとも、表現の自由を制限するにあたっては、具体的な個別事情の下での利益較量をする必要があるのみならず、さらにその制限の程度は他の法益侵害防止のために必要かつ合理的な範囲にとどめるべきであるとしているのである。
原判決は、少なくとも、最高裁判所の判断基準程度には、表現の自由の制約根拠を示すべきだったのであり、公務及び公務員に対する国民の信頼といった抽象的な概念を掲げたのみで、表現の自由の制約を許容した原判決の判断は、憲法二一条に反し、右最高裁判例にも反するものである。
4 原判決は、「自衛隊が武器による実力行使を伴う事実行為を任務とする以上は、隊員相互間の友誼、信頼の維持、醸成は、任務の能率的遂行に不可欠であるし、危険を前にしたときには相互の信頼は極めて重要なことがらである。控訴人らの主張を要求、宣言として原審判示のとおりの態様でもって明らかにすることは、隊員相互の信頼関係を損なう危険も極めて大きい」し、「自衛隊に対する国民の信頼を大きく傷つけるものであることも明らかで」、「本件で問題とされている控訴人らの前記のような発言、主張は、自衛隊員相互の信頼を損なう」と判示する(原判決一二丁裏、一三丁裏)。
原判決は、ここで、自衛官が、武器による実力行使を伴う事実行為を任務とし、その任務に危険が伴うがゆえに、隊員相互間の信頼が不可欠であり、上告人らの表現は、かかる隊員相互の信頼関係を損なうという。
しかし、なにゆえにかかる表現行為が隊員相互の信頼関係を損なうことになるのかは、原判決は何も触れるところがなく、これもまた「ごく常識的に見て、多くの国民にとって容易に理解しうるところ」と言うかの如くである。
原判決が想定している、隊員相互間の友誼、信頼の内容がいかなるものであるか明らかではないが、上告人らがなした表現行為によって損なわれるような信頼関係というのは、とりもなおさず、上告人らが、かかる表現行為に示される信条を抱いているがために損なわれるような信頼関係にほかならない。
しかし、本来、隊員相互の信頼関係を維持、醸成する必要があるとすれば、各隊員が様々な信条を有していることを前提にして、そのうえで成立し得るような信頼関係を形成しなければならないのであって、異なった信条の存在を否定し、一律に画一的なものの考え方を強制し、これに対する批判を許容しない組織の下では、隊員相互の本来的な信頼関係を形成することはできないのである。
原判決の如き考え方は、自衛隊員が、自らの信条を捨て、自律的な考え方をすることなく、上官の指示、命令に唯々諾々と従うのみの機械となることを強いるものにほかならない。
また、原判決は、上告人らの行為が自衛隊に対する国民の信頼を大きく傷つけることが明らかだという(原判決一二丁裏)。
これも原判決の根拠のない決め付けである。そもそも原判決が前提とする「自衛隊に対する国民の信頼」がいかなるものであるか、少なくとも、これまでの我が国において、とりわけ、本件行為のあった一九七二年に、自衛隊に対する国民の信頼の内容について、いかなるコンセンサスがあったというのだろうか。
そして自衛官のいかなる行為が、その「国民の信頼」を損ねるものであるのかについて、国民の間にどのようなコンセンサスがあったというのだろうか。
原判決の姿勢は、はなはだ偏見に満ちた立場から、一方的な「国民の信頼」なる概念を据え、何らの証拠もなしに、何らの根拠も示さずに、主観的に「国民の信頼」の内容を作出し、これを傷つけたというのみであって、およそ裁判所がなすべき法律判断を示したものとはいい難いのである。
結局、原判決が示した判断は、いずれも理由のないものであり、上告人らに対する本件懲戒免職処分を許容する判示は、憲法二一条の保障する表現の自由を侵す違法なものである。
第六、懲戒免職処分について事前手続きを省略した点は、憲法一三条、三一条に違反し、施行規則八五条に違反する。
一、行政手続きの適法性の保障は、その行政手続きを通じて侵害される利益が基本的人権にかかわる場合は特に憲法上の保障としてとらえられなければならない。
憲法一三条、三一条はこの行政手続きの適正を保障していると解されるが、その核心は事前手続きの保障にあるというべきである。なるほど、第一審判決が述べるように、同条項が一般的に告知、聴聞の機会を与えることまでも要求していない、としても類型的かつ構造的に事前手続きの厳格性が要求される場合は、それは単なる法令上の問題ではなく同時に憲法に保障された基本的権利の問題とされなければならない。第一審判決も原判決も、自衛隊法施行規則がその六六条から八六条までにおいて詳細な懲戒処分手続き(その大部分は事前手続きの規定である。)を定めていることと、右憲法保障との関連について全く理解しようとしておらず、両者を切り離して解釈してこと終われりとしてしまっている。
裁判所もやや戸惑うばかりに詳細なこの施行規則の懲戒処分(事前)手続きの規定の意味をどのように解すべきか。原判決は、「自衛官といえども一般市民としての表現の自由を保障されるべきことは当然である。」などと、いたって安直に述べるが、自衛隊法六一条、同法施行令八七条を見れば明らかなように、およそ表現の自由の類型に当たる行為がことごとく政治的行為の名の下に禁止されているのである。
営内居住義務(五五条)、退職の自由の制限(四〇条)、職務命令違反、不服従に対する過酷な刑罰(一一九条以下。防衛出動時の警戒勤務中『正当な理由がなくて勤務の場所を離れ、または睡眠し、もしくはめいていして職務を怠った者』には七年以下の懲役または禁こが科される。)などの規定も合わせて見れば、自衛官が「制服を着た市民」(一九七〇年防衛白書)などという宣伝文句とは裏腹に他の公務員、労働者とは隔絶した法的地位に置かれていることは、客観的事実である。特に、部隊に属し、営内居住が義務づけられている兵士にあたる下級自衛官の置かれた状態からすれば、その法的権利や自由の保障は外部に開かれておらず、外部へのアクセスも事柄の性質上制約されたものにならなざるを得ず、旧軍隊の内務班における兵士の状態に近似する根本的傾向を有すると言わざるを得ない。前述したように、かつて改進党が「自衛隊の精神」(現『服務の本旨』)の中に「人格の尊重」の項目を挿入し旧軍の私的制裁の悪習を禁止しようとしたのもこのような傾向の根拠に目を向けざるを得なかったからである。かつての軍隊が憲法以下の市民法の原理に拘束されず、規律違反の処理について外部の介入を認めず独自の軍法の世界にあり、軍法会議制度を擁していたのとは基本的に異なり、憲法上、かの「軍人」のような特殊な存在を認めない現憲法にあっては、施行規則の懲戒処分手続きを市民社会から切り離された軍法会議の如きものとして運用したり解釈したりするのは明らかな間違いである。むしろ、全く逆に、憲法の人権保障の意義を前提に考えるのであれば、ただでさえ人権や基本的自由が制約されてしまいかねない危うい状態におかれている自衛官に対する懲戒処分にあたって旧内務班的自家処理を許さず、民主的手続きをより厳格に保障することによってチェックするものとして施行規則の手続きを見ざるを得ないのである。つまり、施行規則六六条以下の、他の公務員制度と際立って詳細な事前手続きの規定を、軍法や軍人の存在を否定する憲法原則に立って考察すれば、その合理性をみぎの点に求めることが必要である。
「たった一人の任務放棄は、押さえつけることができるかぎり、たいしたことではない。次に控えている者に交代させればよい。軍の機能に対する唯一の危険は、一人の任務放棄者が他の者たちを刺激することにある。したがって、模倣を思いとどまらせるために、そのような者は厳罰に処するか、隔離するかしなければならない。」(ミルグラム『服従の心理』二三六頁)
軍的組織は、右にのべられたような傾向を本能的に有しているのである。これは自衛隊についても決して免れることはできない。それ故、施行規則の、自衛官の人権制限とはややバランスを欠きかねない完備した事前手続きを自衛官の行政手続き保障の憲法上の権利を(外部から)隠すためのものとしてではなく、それを明らかにするためのものとして解することが、憲法の目的に叶うものと考えられる。以上のように、施行規則のさだめる手続き規定は、憲法と切り離された独自のものではなく、行政手続きの適正を保障する一三条、三一条の趣旨を具体化するものであり、かつそのように解することに合理性があるから、この点に何らの考察を加えようとせず形式的判断をしたのみの原判決は、右憲法条項の解釈を誤ったものである。
二、施行規則八五条二項の解釈、適用の誤り
原審において上告人らが、述べたように、施行規則八五条二項の「所在不明」とは、当該隊員の明白な意思による積極的な審理を受ける権利の放棄である「審理の辞退」と同視しうる程度のものであることが必要であり、「所在不明」の要件は慎重かつ厳格な判断を要するものである。被上告人らがなした上告人らに対する所在調査とは、いずれも本件処分の理由になっている四月二七日、二八日以前になしたものに過ぎず、上告人らが防衛庁に赴いた四月二七日午後四時以降の事態とは「所在調査」としても関連性がないものである。また、四月二七日、二八日以降の調査として被上告人らが主張するところは、警察への捜索願等の形式的なものに過ぎない。
上告人らは、四月二七日の当日、防衛庁長官に対する請願行動について同人らの代理人として防衛庁正門に立ち会った角南弁護士のことに触れて、「所在不明」の要件を欠くことを主張したのに対し、第一審判決、原判決はいずれも代理権の告知の有効性の問題に矮小化させて判断してしまっている。
原判決は、当日、現場で角南弁護士が代理人であると告げて名刺を交付したことを事実上認めながら、第一審判決の理由を一部修正して、「代理権の範囲が右限度を越えて当日の行為を含む一連の行為を原因として開始されるべき将来の懲戒手続きにまで及ぶためには、口頭であれ、その旨を明確に表示して相手方に告知する必要がある。」と、説示している。しかし、現実に開始された行政手続きや訴訟手続きに対して代理権の範囲を明示することとは異なり、右請願行動の時点で、弁護士にそれ以上の告知の方法を期待することは通常の弁護士の活動の実情を無視するばかりか、社会常識にも反するものである。一般に代理人と告げてその趣旨が相手方に認識されれば特段の事情がないかぎり通常予想される法的手続きや連絡、交渉の類について代理人として行動する程度の社会的信頼を弁護士は確保しているものと解されるのである。
原判決の判断は、訴訟手続き上の弁護士の代理権のあり方にとらわれ過ぎたものというべきであり、弁護士の訴訟外活動およびこれに対する社会的信頼を無視するものである。この点については、裁判所よりも行政当局の判断のほうがはるかに常識的である。甲第二、第三号証の一、第二七、二八号証に見られるとおり防衛庁長官や政務次官は、弁護士の「付添い」や「指図」の認識を本件処分前後にわたって有していたのである。
しかし、この角南弁護士の争点は、手続きが始まってからの同弁護士の代理人としての地位の問題ではなく、施行規則八五条二項の要件の解釈、適用の問題なのであるから、代理権の告知がかりに原判決のいう意味において充足したものでなかったとしても、懲戒処分を進めるに当たって、同弁護士の存在、上告人らとのかかわり合いの事実を知りながら同弁護士への問い合わせすらすることなく、上告人らの所在が不明として手続きを省略することが正しいかどうか、こそが問題なのである。
この関係について、原判決は、一面「確かに、いまとなっていえば、角南弁護士は、防衛庁正門付近で小西だけでなく控訴人らとも行動を共にしていたことは被控訴人らにも判っていたのであるから、被控訴人らにおいて、念のため同弁護士に問い合わせてみたとすれば、控訴人らの所在が判ったかも知れないとはいえよう。」などと事実上、上告人らの主張を容認するかの説示をしながら、他方で「しかし、被控訴人らにとっては、当時は、角南弁護士が控訴人らの本件各処分の手続きについて代理権を有することが判っていたといえないことはすでに判示したとおりであり、また被控訴人らの側で同弁護士が控訴人らの所在を把握していることを知っていたとも認められないのであるから、被控訴人らが同弁護士に控訴人らの所在を問い合わせなかったことを責めることはできず……」などと誠に合理性のない、前後矛盾する判断をしている。
所在調査とは、所在が判るかも知れない程度でもなさなければならないのである。角南弁護士が正確な意味で被上告人らにとって代理人であると判明しておれば、上告人らは所在不明などころか同弁護士を代理人として正規の手続きを進めれば済むことである。被上告人らは、全く当てのない、仙台駅等の捜索とか親族訪問とかを所在調査として主張しているのである。当時の状況のなかで角南弁護士にまず問い合わせをするのが真先の所在調査でなくして一体なんであろうか。角南弁護士については政府当局は、防衛庁長官の四月二八日の国会答弁のとおり知っていたのであり、文字通り一挙手一投足の労で済むことである。
ところで、被上告人らの主張を見ると、自衛隊の情報収集能力が如何にも貧困なものであるかのような印象を与える。しかし、これは明らかに主張のための主張にすぎないのである。二〇世紀後半の武装集団と称する組織がこのようなものであるとは何人も信じないであろう。自衛隊は、自衛隊法九六条の規定にあるように「部内の規律維持に専従する者」すなわち警務隊(官)なる専門部隊を有し、隊員の動向調査や捜査を独自に行っているのである。四月二八日の集会場で上告人らと接触を図らせた、と被上告人らが主張するのはこの警務隊(官)のことである。本件事件が発生するまでには、単に外出期限を経過したということだけで、上告人らの所在調査をこまごまとなしたと主張しながら、本件の如くより自衛隊にとって重要な「事件」が発生した以降、警務隊(官)が出動した途端に所在調査能力と意欲が失われて警察署に捜索依頼をしただけなどとは余りに人を愚弄する主張というべきではないか。
第一審判決が、その二七頁の「原告河鰭の演説」の項で引用しているように、上告人河鰭は、警務隊(官)の前で、「自分は自衛隊法四六条の適用を拒否し尽し行政処分を含むあらゆる妨害に対し闘」うと述べていることからも判るように行政処分に対しても積極的に対処する意思を明らかにしているのである。すると、原判決のごとく、「被控訴人らが同弁護士に控訴人らの所在を問い合わせなかったことを責めることができず」などという易しいことでは毛頭なく、被上告人らないし防衛庁当局は懲戒手続きへの上告人らの参加を嫌悪し、むしろ所在不明を口実にして懲戒免職処分の既成事実を作るために、上告人らを排除したと解するのがはるかに合理的な判断というものであろう。
いずれにしても、施行規則の事前手続きを、自衛隊側で自由に操作できる隠れ蓑のように解するのではなく、適正手続き保障の一環として上告人らの権利に係わるものと解するのでさえあれば、角南弁護士への何らかの問い合わせすらせず上告人らが「所在不明」の要件に該当したと判断することは、あきらかに同規則八五条の解釈、適用を誤ったものという他ない。
第七、裁量権の濫用についての原判決の判断は、自衛隊法四六条の解釈を誤ったものである。
本件は、自衛官の自由の保障が、一体いかなるものか、を問う文字通り先例のない事件である。自衛隊発足以降、すでに四〇年近くを経過するにもかかわらず、他の公務員に比しても、隔絶した法的状態に置かれている自衛官の基本権保障のあり方についての司法の判断がいまだになされていないこと自体不自然である。これは、言い換えれば、自衛隊内のさまざまな実例の積み重ねにかかわらず憲法上の明確な基準が与えられていないことを意味する。
武装した組織を社会制度のなかに抱え込むことの恐ろしさは、その武力が一旦発動されれば法は沈黙を余儀なくされ取り返しのつかない破壊を受けることばかりではなく、武装組織の維持のなかで人権秩序が否定される契機を孕むことである。つまり、人権の保障に例外を作りだすことを容認しかねないのである。上告人らが、治安出動待機のなかで戦闘服のまま夜を過ごした際の緊張感は、場合によれば自分と同じような同胞に銃を向けなければならなくなるのではないか、という恐怖感であった。われわれは、ある意味では、この上告人らのような、権力が主張する規範に対して正常にも懐疑を持ちうる人々によって自由を与えられているのである。しかし、このような個人の「良心」や「理性」が如何に武装組織=軍隊の中ではもろいものかは、余りに多くの実例のなかで示されている。古い旧日本軍の例を持ち出すまでもなく、一九六九年のヴェトナム戦争中のソンミ村虐殺事件の例でも判るように、実行者の大部分は数カ月前までは皆通常の「良心」と「理性」を持ち合せた普通の若者に過ぎなかった。数カ月の一般社会から隔離された営舎内の生活、団体訓練が個人を埋没させて、間もなく分隊や小隊が一人の人間のように動くようになるのである。その際に与えられる規範の表現は忠節、団結、自己犠牲などの美徳である。歴史的事実は、軍内部における人間性の喪失の法則性を具体的に教えている。しかし、今の日本に生きる大多数の人々は、もはや痛苦な体験すら有していない。自衛隊法五二条の服務の本旨を、社会的にも有用な徳目のら列と解した原判決は、この意味では歴史の教訓を忘れた人々の皮相な観点を代表するものかもしれない。
すでに第一審以来述べてきたように、憲法において軍を保持しないことを明らかにし、従って軍人なる特殊な地位を認めない日本において自衛官に加えられた人権制限は、憲法上軍隊の維持をみとめる国の軍人よりも、より厳格な制限のもとにあるという説明不可能な状態にある。本件のようにそれ自体としては、全く請願行為や表現の自由の類型に属する行為であるにもかかわらず、自衛隊秩序とは相容れないとして排除することを当然視することは、一層下級自衛官の表現の自由の制限ないし否定を促進させ、文字通りの軍規のもとに置かれる、もの言わぬ兵士に対する指揮権者の規律維持に根拠を与えるものになる。
表現の自由を中心とする人権の自立性が構造的に危うくされる自衛官の置かれた状況をより的確に前提として認識したうえで、自衛隊による権限行使に制約があることを裁判所は明示すべきである。
自衛隊法四六条二号の「隊員たるにふさわしくない行為」の範囲が広いことは疑いを入れず、それ故に形式上処分権限者にそれだけ広範な裁量権を与えることとなるのであり、自衛官にも憲法の表現の自由を中心とした人権保障が及ぶことを認めるのであれば、人権の服務規律に対する優越性は否定できないのであって、本件処分の裁量権の濫用を認めなかった原判決の判断は誤っている。